話 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集
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1. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

私は、こんどこそすべての障害をたえしのんで、石田と 思いながら、ある日、出て行って、 「まだ、一円しかたまっていないわ。とりあえずこれだけ生活を設計するつもりになっていた。はじめから彼に大き な期待をもっているわけではないから、相当な犠牲はのみ 上げておきましよう。」 「いや、金もほしいが、今日は相談があるんだ。ちょ 0 とこむつもりで、大きな口をあけて待っているような姿勢だ っこ 0 断わって、家に帰ってくれないかね。」 「へえ、あらたまって何ですか。」 「歩きながら話そう。そんな前かけをとってこいよ。」 灯台がまわりながら光っているのをはるかに見ながら、 白いエプロンを買う金をのこすひまがないので、私はい つまでも借りたエプロンをしていた。それをとって外に出うす明かりの砂道を。ほっぽっしやべりながら、ひさしぶり ると、石田は、私から受けとった一円で・ ( ットを買って火に空別荘の家に帰って行った。 みんなは意気消沈して、例の歌をうたうのも忘れたの をつけていた。 たばこ ふとん 「須磨のところに働いている市さんという職人の姉さんか、布団の中に腹ばって、煙草のやにで色のついた指に短 すいがら が、戸越銀座でカフ = をやっているんだそうだ。人手がたい煙草の吸殻をはさんで、すばすばと意地きたなく吸って りないので、手伝うなら、ちょっと前貸をしてもいいと言いる ールをかぶって行った私の姿を見ても無感動で、言 うんだ。もし君が行ってくれるんなら、相談しようかと思 葉をかけるわけでもない。 ったんだよ。」 「前貸するんですって ? 耳よりな話だわね。」 歩いているあいだに話はきまっていた。石田はべつにみ 私は若くてやつばりまだ世間知らずであったから、前貸んなと相談するようすでもなかった。石田は以前からの話 花 のつづきのように、 という言葉のもっ陰気なひびきに注意しようともしない。 の 「それじゃ、僕あした、たいさんを連れて東京に行くこと それよりも、なんの抵当もなしに金を前貸してくれるとい にする。金はできるだけはやく持ってくることにするから 砂うそのことにおどろいて目をかがやかしていた。 「どうせ、あの生活はつづきませんよ。早晩東京に帰るこな。」 とになるから、東京で働いているほうが、東京で家をもっと言ったが、 「ああ。」 足場を作るのにも便利かもしれませんわね。」

2. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

の室の机に腰かけて、彼の決意をまっ形になった。伊東と 四 のばあいと違って、すべての事柄は軽く深刻味を持たず に、笑い話のあいだで風が吹ぎすぎるように運んで行っ 私は、目黒のこわれたビルディングの二階にかえって、 こ 0 どこかに出かけている白鳥のかえりを待った。彼はいつも 一時間ほど考えてから白鳥が私を呼んだ。 のように気軽な靴音を立ててかえって来た。 「たいへんたいへん、あなたはたいへんな罰金をとられる「僕、いいこと思いついた。金をはらうかわり、君の生活 を安定させる善良な男性を紹介してあげるよ。」 のよ。」 「えつ。」 私はこんなふうに話をきり出した。 と私は驚いてあやうく色を変えそうになったが、踏みとど 「罰金って、何 ? 」 なます 「あなた結婚契約不履行よ。慰謝料をはらう義務があるまった。鯰をつかむように捕えどころのない相手とこんな ふうになってから、いまさら世間に通用しているモラルを 白鳥はびつくりして、何のことかと目をまるくしていた逆手に相手を責めたところでどうなろう。それは、何の効 果もないばかりか、人生を知るためという仮面でここまで が、自分のことだとわかると、 「弱ったなア。」 運んできた自分としても筋がとおらない。 ちょうたいそて 「それはおもしろい思いっきだわね。だけど、だれ ? 」 と長大息した。 彼の仲間の奇々怪々な長髪姿を頭に浮かべたが、それら 「そんな金はないんだもの。柳瀬さんに何とか勘弁してく しい条件のあてはまる人はない。 れるように君からたのんでくれよ。」 「松本だよ。やつはこの上なく善良だし、君をとても好き 「だめよ。その金とらないと私の名誉にかかわるんだか 花 なんだ。」 ら、柳瀬さんは勘弁してくれないわ。柳瀬さんは困ってい の 「松本さんて、どんな方だったかしら。」 るわよ。」 砂私はおどかし半分に、しかし話をおもしろくして彼を責私は、冗談ではなく、一人一人彼のグループの画家の顔 を思い浮かべてみた。が、どれが松本だかわからなかっ めた。 こ 0 「弱った弱った。まあ、ちょっと考えさせてくれ。」 彼は寝台に寝て、いくども寝返りをうっていた。私は隣私が考えていると、白鳥は、遮二無二そう話をきめてし しやにむに

3. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

ら。」 「そんなはずがないがね。どうして話がそんなに違ってし まったんだろうね。」 とうとうおわりに白鳥は言い出した。 柳瀬氏は、この成行きでは、私と白鳥との軽率を責めて 「弱ったな。君と僕とは合わないらしいな。」 いた。しかし、なんと言っても、初めの自分たち夫妻の発 「そうらしいわね。」 はまか 私も、あっさり合槌をうつ。過をあらたむるにること言が決定的な原因になっているので、こういう話を持って なかれという ざは、男女のばあいにはも「ともよくあてこられると、思慮ある年長者としての責任をいたく感じて いるらしい はへる 0 不本意のままに伊東のあとを追って朝鮮、満州をうろつ「そんな無責任なことじゃ困るな。白鳥君を連れて来たま いたことを思い出すと、自分に欠けているのは、早く見切え。いま一度話すから。」 そのことを白鳥にったえたが、白鳥は頭をかいているば りをつける決断力ではなかったかと、つねづね反省してい た。白鳥との生活の気分は、もともと柳瀬氏の仲介から始かりだった。 くっ まっているだけに、私の心にとって、破るに破れないよう「桑原、桑原、ここ一二年は馬橋の方角に靴先を向けない ことにきめたんだよ。」 なきずなはまだ何もない。 はしきょ 私は、軽くこの廃墟のビルディングを出てゆく決心をしなどと言っていて、相手にならない。 て、柳瀬氏の所に行った。 柳瀬氏は私からその話を聞くと、さらに当惑して、 「私どうもあの方とはうまくいかないらしいんですわ。 「平林さん、あんたには、まだ世間の常識というものがな っそあそこを出てしまおうかと思うんですけど、あっさりいけれど、結婚は、男の申出で解消する時には、男はそれ つぐな 花『はい、さよなら。』でいいのかしら。」 相当の償いをしなければならないものなのだぜ。それが世 の 間の通念なんだ。あんたは白鳥君にそれを申しこむ・ヘきだ 私は、柳瀬氏に相談した。 「うまくいかないって、どういうふうなの ? 」 砂 「理屈じゃありませんから、こうという具体的なものは何「へえつ。」 四もありません。けれども、あの方は、ただちょっとおもしと私はヘんな声を出して、エヘラエヘラ笑い出した。結婚 ふりこう ろい遊び相手になる女と交際したかっただけではないかし契約不履行、慰謝料請求などということばは毎日の新聞記 物やまち

4. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

こうしよう たくぼく っていた私たちはドッと吹き出して哄笑した。知った人のか、唄を知らない人達は、殀木を高唱してうどんをつつき たま 名前なんかが呼ばれるととてもおかしくて堪らない。貧乏焼酎を呑んでいる。その夜、萩原さんを皆と一緒におくっ をしていると、皆友情以上に、自分をさらけ出して一つにて行って、夫が帰って来ると蚊帳がないので私達は部屋を なってしまうものとみえる。みんなはよく話をした。怪談締め切って蚊取り線香をつけて寝につくと、 ひとだま なんかに話が飛ぶと、たい子さんも千葉の海岸で見た人魂「オーイ起きろ起きろ ! 」と大勢の足音がして、麦ふみの はだ の話をした。この人は山国の生れなのか非常に美しい肌をように地ひびきが頭にひびく。 もっている。やつばり男に苦労をしている人なり。夜更け「寝たふりをすなよオ : : : 」 はなあそび 「起きているんだろう。」 一時過ぎまで花弄をする。 「起きないと火をつけるぞ ! 」 ( 六月 x 日 ) 「オイ ! 大根を抜いて来たんだよ、うまいよ、起きない 力し・ 萩原さんが遊びにみえる。 酒は呑みたし金はなしで、敷蒲団を一枚屑屋に一円五十飯田さんと萩原さんの声が入りまじって聞えている。私 しようちゅう 銭で売って焼酎を買うなり。お米が足りなかったのでうは笑いながら沈黙っていた。 どんの玉を買ってみんなで食・ヘた。 ( 七月 x 日 ) 平手もて 朝、寝床の中ですばらしい新聞を読んだ。 ふぶき 吹雪にぬれし顔を拭く 本野子爵夫人が、不良少年少女の救済をされると言うの 友共産を主義とせりけり。 で、円満な写真が大きく新聞に載っていた。ああこんな人 にでもすがってみたならば、何とか、どうにか、自分の行 酒呑めば鬼のごとくに靑かりし く道が開けはしないかしら、私も少しは不良じみている 大いなる顔よ し、まだ二十三だもの、私は元気を出して飛びおぎると、 かなしき顔よ。 新聞に載っている本野夫人の住所を切り抜いて麻布のその やしき お邸へ出掛けて行ってみた。 ああ若い私達よ、 しいじゃありませんか、しし ぶとん 、じゃない , た

5. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

てこんななのだろう : ちこんだように、ドロドロしている私である。いやな私な 「フンそんなに浜は不景気かね。」 、牛込の男の下宿に寄ってみる。不在。本箱の上に、お 肌をぬいで、髪に油を塗りながら、お久さんは髪をすい母さんからの手紙が来ていた。男が開いてみたのか、開封 ていた。 してあった。養父の代筆で、 あれが肺病だって言って 「何だよお前さんのその言いかたは 来たが本当か、一番おそろしい病気だから用心してくれ、 お婆さんが台所で釜を洗いながらお久さんに怒ってい たった一人のお前にうつると、皆がどんなに心配するかわ この・ころこんこう た。雨が降っている。うっとうしい四月の雨だ。路地のな からない、お母さんはとても心配して、此頃は金光様をし かの家の前に、雨に濡れながら野菜売りが車を引いて通る。んじんしている、一度かえって来てはどうか、色々話もあ 神様以上の気持ちなのか、お君さんは笑って、八百屋とる。 まあ ! 何と言う事だろう、そんなにまでしなく のんびり話をしていた。 ても別れているのに、古里の私の両親のもとへ、あの男は 「いまは丁度何でも美味しい頃なのね。」と言っている。 自分が病気だからって言ってやったのかしら : : : よけいな まち 雨の中を、夕方、お久さんと御亭主とが街へ仕事に出ておせつかいだと思った。宿の女中の話では、「よく女の方 テープル 行った。婆さんと、子供とお君さんと私と四人で卓子を囲がいらっしてお泊りになるんですよ。」と言っている。・フ んで御飯をたべる。 ドウ酒を買って来た、いままでのなごやかな気持ちが急に 「随分せいせいするよ、おしめりはあるし、二人は出て行くらくらして来る。苦労をしあった人だのに何と言うこと たど ったし。」 だろう。よくもこんなところまで辿って来たものだと思 お婆さんがいかにもせいせいしたようにこんなことを言う。街を吹く五月のすがすがしい風は、秋のように身にし みるなり。 記 夜。 浪 ( 五月 x 日 ) 放新宿の以前いた家へ行ってみた。お由さんだけがのこっ ていて古い女達は皆いなくなってしまっていた。新らしい 女が随分ふえていて、おムさんは病気で二階に臥せ 0 てい た。ーー又明日から私は新宿で働くのだ。まるでに落 ( 五月 x 日 ) っこ 0 はだ やおや ここの子供とかるめらを焼いて遊ぶ。

6. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

ある。 ! くん 石田は、家に待っていた。どんな話をしたかとか、相手 このあいだの会見は漠然としていたので、あとから聞い がどんな態度をしたかとか、こまかく問いただす彼の気持ておかなければならない事務的な問題を発見した、もう一 は、私には見えすいていた。なにか事件があれば、このま度足労をわずらわしたいということが書いてある。こんど まさよならできるのだが、彼の希望は達成されなかったか は、正真正銘の彼の筆跡にまちがいない。私は、自分がそ さまっ ら、失望しながら、私の些末にわたる報告を聞いていたにれにたいして、どうするかよりも、石田がそれにたいし 違いない。私は、わびしい孤独な気持に伊東の出現というて、どんな考えを持っているかを知るために、彼の顔を見 とらや 複雑味をそえて、新宿三丁目の虎屋に引き返した。さっそた。すべては石田の考えによってきまるのである。 く、ツルヤの芙美子をたずねて、事のてんまつを打ち明け「行ってやれ。気の毒な人間だ。」 て鑑定をもとめた。 と、石田はつぶや、ように言った。私も、そうするほかは 「あんたは、失望することないわ。彼はまだあなたを愛しないと思っていた。私の持って来た荷物の中には、伊東の ているのよ。男と女って、そう簡単に愛がさめないものだ物がたくさんまじっているので、それを渡さなければなら ないと前から考えていた。 わ。そして、愛されているということは幸福なんだわ。」 と、彼女一流の愛情論である。 すぐに、伊東には返事を出して、約束の日に私はまた、 「だけども、ああいう男に愛されたって幸福じゃないわ。伊東の宿泊所をたずねて行った。こんどは、すわっている 今の気持はつらくて息がつまりそうよ。」 二人のあいだにも、何かゆとりができて、二人で外に食事 こんな話をしたけれど、けつきよくなんにも暗示はあたをしにも行った。帰ってきて、また話しているうちに伊東 えられなかった。私は、以前よりももっと考えぶかい目つは、 すみ 花 きをして、カフェの床板の隅に腰かけて考えこんでいた。 「あなたの話を聞いていると、どうもあまり幸福ではない の らしい。僕はこんどは、労働者のために何か啓蒙運動をす 四 る具体的なプログラムを持って出て来たんだよ。幸いにこ 砂 ところが、ある日、また石田がたずねてきた。彼はいつの宿泊所の経営者の賀川豊彦氏も賛成して、力をかしてく ものように電信柱の陰に私を呼びだして、また手紙をだまれることになっているので、あなたを路頭に迷わせること って渡した。見ると、やつばり伊東から私にあてたものでは絶対にない。どうだ、石田氏と話し合いで別れて、も一

7. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

大造 因工船 島、の所 のおの 立さロ 船とは 所、店 店し し、 - 父ラ かさ けん てと いお 放た母 : 浪。さ 記ん が かみ はこんなところかと思うような陽当りのいい山ふとこ ろで、邸のまわりには大きなみかんか鈴なりになって いる。その家は見るからに村上水軍の大将格の家でで もあるらしく、ちょっとした城かまえのよ、つな堂々と した邸だった。下関のプリキ屋の二階で私生児として 生れた芙美子が、まちがいにもせよ、こんな邸で生れた という伝説がつくられてくる時代になったのかと思う。 人の一生の栄枯のはかなさを思わせるような華やか で淋しいタ映えが帰りの空いちめんを染めあげていた。 ーポートの最終便に乗りおくれて、帰りはト 一時間ばかりかかって、尾道へ着く駅前のとはちが っ船着場に着くと、もう真暗になった船着場の広場に は屋台のうどんやラーメン屋が出ていて、だしのい が濃く闇を染め、そこにも芙美子の小説の世界が生き ているのであった。 私は同行の氏に、私の故郷の徳島にある、芙美子 の一家が一時木賃宿を開いていた町というわびしい 通りの話や、市役所づとめの男と徳島で見合いをした 話などをしながら、あてもないその夜の宿を探して、 灯のついた尾道の町へ入っていった

8. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

「何をしたって食べられますよ。私がこないだまでいた三「林芙美子の細君ぶりは大したもんじゃないか。そっのな 畳の生活は、すごかったわね。御飯をたいて塩のおにぎり いひとなんだな。歌もうまいしなア。」 にして、ザルに入れておくの。それを一つずつ食べて詩を 石田は芙美子が階下におりて行ったとき、野村にささや 書いたわ。辻潤さんが、そのおにぎりのザルを見て、中に 五十銭人れていってくれたわ。」 「ふん。」 こんな話になったときには、もう室にかえっていた。新と野村は肯定とも否定ともっかない鼻声を出した。 まなざ げんか 夫の野村は二人の会話を、皮肉な眼差しで聞いていた。こ 「こないだ大喧嘩したよ。夜、ねていたとき、『須藤さ こしばらく私は、自分の相手の石田にばかり気を取られてん ! 』と寝言を言って僕に抱きついて来るんだよ。」 いた。私と似た苦労をして来た芙美子が、最後に到達した「へえ ! 」 相手が、どんな人間であるかを知るのは、ずいぶん興味のと石田は目をかがやかして、仲間の一人である「須藤さ あることだったのに。あらためて、野村を見ると、彼は石ん」という名前の意味を味わっているらしい 田のように底のすいた人間とは違うけれども、何かやつば 「また須藤ときたら、ぜんぜん芙美子さんに関心をもたな り不安な前途を予感させる人相である。しかし野村は、石かったから、皮肉だな。」 田より齢も三つ四つ上だし、経済的にもましらしい。芙美私は、そばで聞いていて、およそ、この悲劇的な恋愛相 子の話では、彼はある出版屋から、毎月金をもらって、手の見当はついた。本郷の「エトワール」に出入りするア 「これだけは心得おくべし」という、当時流行の常識書のナーキスト詩人の一人が、その人にちがいない。 うわさ ・フック・メイキングをやっているという話である。その晩彼女の噂は、彼女が住んでいた本郷辺ではいたるところ は、予定どおり野村の室に泊めてもらった。翌朝九時ごろに花咲いていた。たちまち愛して一しょになり、また泣い えり はんてん しゅうたん 花 くどくりかえしても、懲 おきて、芙美子は黒繻子の衿のかかった、半纏を着て、前て別れる愛の愁嘆を、彼女は、い の かけ姿で階下に降りて行った。手まめに朝飯の仕事をしりずにまたくりかえすはめになった。 漠 しかし、私などのばあいでは、一度相手をえると、その 砂て、コトコトと立てる包丁の音も世帯じみていた。階下で てかあしかせ つくって二階にもって上がって来た食物は大したものでは愛情が手枷足枷になって、文学から遠ざかるほかなかっ さら 行ないけれども、彼女が皿に並べると、ただのたくわんさ た。が芙美子は、自分の文学の道と、愛情の世界とを絶対 べっこう え、黄色な鼈甲のようだった。 にまじらせなかった。そんな悲しみを味わいながら一方で

9. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

は興味があった。二人は谷崎潤一郎のドラマの「愛なき人っているのは、ミシン内職をする生活の清潔ということだ 々」の話をしきりにしていた。「愛すればこそ」よりおもけである。それなら私も知っているのだ。 むら しろいという意見に、私も同感だった。それから中村武羅 四 夫や加藤武雄のうわさも出て来る。社内での二氏の面目は 外から想像するのとはだいぶちがっていて、私には興味が その晩、二階に泊って、気がついてみると、もうあの若 だんな あった。おもしろがって、コーヒー一ばいの客につき合っ い旦那さんはいなくなっていた。学校の寮を出て、通学に ていると、カ 1 テンの中から、また、 0 , クの目が光ってな 0 た一人息子の、正夫さんのために、衆木さんは、この したく 間とうって変わって、朝早く起きて、御飯の仕度をする。 いたく 彼らが帰ってしまうと、コックは、私を手まねぎして呼贅沢な私立学校に通っている正夫さんは、瀟洒な制服と制 んで、 帽とで、階段口に立った。背丈はもう大人に近く、秀才ら ひとみ 「だめだ。君のサービスでは酒は売れない。お客の気分がしい澄んだ瞳をした、うつくしい少年だった。 沈んでしまうんだから。君にはやめてもらおう。もともと「正夫さん、将来は、何におなりになるの。」 二三日手伝ってもらうだけだったんだからいいだろうね。」「僕ですか。外交官。」 「ええ、け 0 こうですわ。じゃ、もう、この前掛はと 0 てと、はっきり答えて、彼は階段をおりて行く。衆木さんの もいいわね。」 話のおわりは、いつも、正夫がね、正夫がこう言いました と、その場で、うしろで紐を蝶結びにした真白な = プロンのよ、正夫がこうしましたのよ、という話になって行くの おさな をよろこんではずして、二階にの・ほって行った。 くびき を、ほほえみながら聞いていたが、すらりと立っている稚 てんまっ さっそく、衆木女史に、馘られた顯末を話すと、彼女っ・ほい姿を、下から見上げていた衆木さんの罪のない目に は、ころがるほど笑って、 は、若い旦那さんを見たときの目とは、まるで違う誇りが 「けつきよく、そんなことになるのね。あなたも私もカフかがやいていた。 ェでは落第よ。やはりミシンがいいわ。」 「こんなかたくむすびついた母子の間には、愛人がはいり しかし、現実にまだ、その結論冫 こも私はついて行けな こむすきまさえないのだな。」 一日もミシンの内職をしたことのない衆木女史には、 と、私は悟った。 こんな仕事のばかばかしさはわからない。ただ、女史が知しかし、そんな母性型の衆木さんでも、やつばり子供だ ひもちょう おとな

10. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

かまむ 石川五右衛門が釜蒸しになるときに、自分の子供を高くた。その前に間貸しの札が出ているので、裏からおとずれ さし上げて、少しでも苦痛をのがれさせようとした親子愛ると、家の持主は老人夫婦で、一室に住んでいた。 の感動的な言い伝えを、そのまま書いた技巧のないものだ そのころのことだから、簡単に話はきまって、一番恐れ っこ 0 ていた職業についてなど何もきかずに、二階を貸してくれ 芙美子の教えた通り、住宅街の小さいその出版社に持った。室は六畳で南側と東側に窓があった。 てゆくと、その場で読んで、安い値段だけれども買ってく 東側の窓外は、せまい道路になっていて、その向こうに れた。わずか十円だった。けれども、間借りする金はでき深い竹藪があった。 た。ちょうど、そのときは月半ばだったから、前家賃とし「いい室ですわね。身分不相応よ。」 ても半月分払えば、とにかくその室に越してゆかれる。半私は月末にはらうべき前払いの間代のことなど糞くらえ 月のあいだに、来月の間代を心配すればよいのである。 と思って、そばの石田にほほえみを送った。 野村の話では、同じ「ダムダム」の詩人壺井繁治が世田「うん、わるくない。」 谷の三軒茶屋の奥に新婚の家を持った、という話だった。 すぐにあずけてあったわずかばかりの荷物を集めて、一 ふとん 人間は、何かき 0 かけのあるところに居をきめたがるもの組の布団と二つの座布団と火鉢一つとがととの 0 た。それ まないた である。あのあたりなら、間借りするにしても室代は安い に鍋を二つ買って、近所の建築場から、爼にする板を一枚 にちがいない。さっそく、渋谷から玉川電車で三軒茶屋にもらってきた。 あらだ 行 0 た。壺井氏が新しく借りた家は、新建ちのちょ 0 とし炭はまだ買 0 てないけれども、この辺には下町のように た構えの二軒並んだ奥の一軒だった。 二十銭、三十銭と計り炭を売るところはない。 萩原恭次郎や須藤と違って、三十過ぎまで独身で本郷の「僕、 いいことを知っているんだ、新聞紙が五日分ある しようどしま ごはんた 下宿にいた壺井氏は、同じ故郷の小豆島から上京してきたと、御飯が炊けるんだぜ。まあ、見ていてみたまえ。」 おさななじみの栄さんと結婚して、栄さんが親類からあず古い新聞紙をかたく握って、火鉢の五徳の下に押しこん かった三つばかりの女の子と一しょに質素な新家庭を始めでマッチをつける。次から次から新聞を補充しているうち ていた。 に、かけた鍋の御飯は煮立って、適当に蒸れた。 その家を中心にして三四町歩きまわると、畑一枚へだて「どうだい。これで君の知らないことも、多少は知ってい た道路そいに若夫婦が二人で働いている小さい床屋があつるんだからな。」 やふ