まくらもと なかった。耳の中へゴプゴ・フ熱い涙がはいって行く。枕元か ? 」と、人に訊かれると、私はぐっと詰ってしまうの で、鋏をつかいながら十子が、母さんのところから送ってだ。私には本当は、古里なんてどこでもいいのだと思う。 来た小包をあけてくれた。お母さんが五円送ってくれるな苦しみや楽しみの中にそだっていったところが、古里なの んて、よっ・ほどの事だと思う。階下の叔さんがかゆをたですもの。だから、この「放浪記」も、旅の古里をなっか いて持って来てくれた。気持ちがよくなったら、この五円しがっているところが非常に多い。 ーーー思わず年を重ね、 色々な事に旅愁を感じて来ると、ふとまた、本当の古里と を階下へあげて、下谷の家を出ようと思う。 言うものを私は考えてみるのだ。私の原籍地は、鹿児島 「洗濯屋の二階だけれどいいところよ、引越さない ? 」 私は生きていたい。死にそくないの私を、いたわってく県、東桜島、古里温泉場となっています。全く遠く流れ来 れるのは男や友人なんかではなかった。この十子一人だつるものかなと思わざるを得ません。私の兄弟は六人でし たけれど、私は生れてまだ兄達を見た事がないのです。一 けが、私の額をなでていてくれている。私は生きたい。 そして、何でも、 しいから生きて働く事が本当の事だと思人の姉だけには、辛い思い出がある。ーー私は夜中の、ち の地鳴りの音を聞きながら、提灯をさげて、姉と温泉に行 った事を覚えているけれど、野天の温泉は、首をあげると 星がよく光っていて、島はカンテラをその頃と・ほしていた ものだ。「よか、ごいさ。」と、言ってくれた村の叔母さん 達は、皆、私を見て、他国者と結婚した母を蔭でののしつ ていたものだ。もうあれから十六七年にはなるだろう。 私は生きる事が苦しくなると、故郷というものを考え夏になると、島には沢山青いゴリがなった。城山へ遠足 記る。死ぬる時は古里で死にたいものだとよく人がこんなこ に行った時なんか、弁当を開くと、裏で出来た女竹の煮た 浪とも言うけれども、そんな事を聞くと、私はまた故郷と言のが三切れはいっていて、大阪の鉄工場へはいっていた両 うものをしみじみと考えてみるのだ。 親を、どんなにか私は恋しく思った事です。ーー冬に近い 放 毎年、春秋になると、巡査がやって来て原籍をしらべて或る夜。私は一人で門司まで行った記憶もあります。大阪 行くけれど、私は故郷どいうものをそのたびに考えさせらから父が門司までむかいに来てくれると言う事でしたけれ あなた れている。「貴女のお国よ、、 をしったいどこが本当なのですど、九ツの私は、五銭玉一ツを帯にくるくる巻いてもらっ せんたく はさみ した ちょうちん かげ
8 男は自分の大きい両手でパンのようにはさむと、アイマイ人ごとのように考えている。私の体はいびつ、私のこころ な言葉で「ね ! 」と言った。私はたまらなく汚れた憎しみもいびつなり。とりどころもない、燃えつくした肉体、私 を感じると、涙を振りほどきながら、男に言ったのだ。 はもうどんなに食えなくなってもカフェーなんかに飛び込 「私はそんなンじゃないんですよ。食えないから、お金だむ事は止めましよう。どこにも入れられない私の気持ち つや け貸してほしかったのです。」 に、テラテラまがいものの艶ぶきをかけて笑いかける必要 隣室で、細君のクスクス笑う声が聞えている。 はないのだ。どこにも向きたくないのなら、まっすぐ向う 「誰です ! 笑っているのは : : : 笑いたければ私の前で笑を向いていて飢えればいいのだ。 かげ って下さい ! 蔭でなそ笑うのは止して下さい 男の出て行った後、私は二階から果物籠を地球のように 夜。 この 路地へほうり投げてしまった。 利秋君が、富山の薬袋に米を一升持って来てくれる。此 男には、何度も背負い投げを食わしたけれど、私はこんな きら あなた アナキストは嫌いなのだ。「貴女が死ぬほど好きだ。」と言 ( 二月 x 日 ) ってくれたところで、大和館でのように、朝も晩も朝も晩 私は私がポロカス女だと言うことに溺れないように用心も遠くから私を監視している状態なんて、私の好かないと をしていた。街を歩いている女を見ると、自分のみつともころです。 なさを感じないけれども、何日も食えないで、じっと隣室「もう当分御飯を食べる事を休業しようかと思っています の長閑な笑い声を聞いていると、私は消えてなくなりたくのよ。」 とびら なるのだ。死んだって生きていたって不必要な人間なんだ私は固く扉を閉ざしてかぎをかけた。少しばかり腹を満 うす と考え出してくると、一切合切がグラグラして来て困ってたしたいために、不用な渦を吸いたくなかった。頭の頂天 しまう。つかみどころなき焦心、私の今朝の胃のふが、菜まで飢えて来ると鉄板のように体がパンパン鳴っているよ つば漬けだけのように、私の頭もスカスカとさみしい風が うで、すばらしい手紙が書きたくなってくる。だが、私は こんばい 吹いている。極度の疲労困憊は、さながら生きているミイやつばり食べたいのです。ああ私が生きてゆくには、カフ ラのようだ。古い新聞を十度も二十度も読みかえして、じエーの女給とか女中だなんて ! 十本の指から血がほとば はた っと畳に寝ころんでいる姿を、私はそっと遠くに離れて他しって出そうなこの肌寒さ : : : さあカクメイでも何でも持 のどか まち くだものかご からた
れたのですよ。こんな事知れていいのですかツー」と言う 「ええまだねむれないでいます。」 声がきこえている。切れ切れに、言葉が耳にはいってく 「一寸 ! 大変よ ! 」 る。一度も結婚をしないと言う事は、何と言う怖ろしさ 「どうしたんです。」 ふとん のんぎ だ。あんなにも強く言えるものかしら : : : 。私は蒲団を顔 「呑気ねツ、階下じゃ、あの男と一緒に蚊帳の中へはいっ まぶた へずり上げて固く瞼をとじた。何も彼もいやいやだ。 て眠っててよ。」 シンガーミシン嬢は、まるで自分の恋でも取られたよ うに、眼をギロギ口させて、私の蚊帳にはいって来た。い ( 七月 x 日 ) うた ビョウキスグカエレタノム つもミシンの唄に明け暮れしている平和な彼女が、私の部 うそ 屋になんかめったにはいって来ない行儀のいい彼女が、断母よりの電報。本当かも知れないが、またかも知れ りもしないで私の蚊帳へそっともぐり込んで来るのだ。そないと思った。だけど嘘の言えるような母ではないもの じたく して大きい息をついて、畳にじっと耳をつけている。 、出社前なので、急いで支度をして旅費を借りに社 「随分人をなめているわね、旦那さんがかえって来たら皆へ行く。社長に電報をみせて、五円の前借りを申し込む 言ってやるから、私よか十も下なくせに、ませてるわねと、前借は絶対に駄目だと言う。だが私の働いた金は取ろ はず うと思えば十五円位はある筈なのだ。不安になって来る。 ガードを省線が、滝のような音をたてて走った。一度も廊下に置いた・ ( スケットが妙に厭になってきた。大事な時 しっと 縁づいた事のない彼女が、嫉妬がましい息づかいで、まる 1 を「借りる ! 」と言う事で、それも正当な権利を主張し しょげ で夢遊病者のような変な狂態を演じようとしている。 ているのに、駄目だと言われて悄気てしまう。これは、こ 「兄さんかも知れなくってよ。」 んなところでみきわめをつけた方がいいかも知れない。 まで や 記「兄さんだって、一ッ蚊帳には寝ないや。」 「じゃ借りません ! その代り止めますから今迄の報酬を 浪私は何だか淋しく、血のようなものが胸に込み上げて来戴きます。」 こ 0 「自分で勝手に止されるのですから、社の方では、知りま 放 「眼が痛いから電気を消しますよ。」と言うと、彼女はフせんよ。満足に勤めて下すっての報酬であって、まだ十二 ンゼンとして沈黙って出て行った。やがて梯子段をトント 三日しかならないじゃありませんか ! 」 あなた ン降りて行ったかと思うと、「私達は貴女を主人にたのま黄色にやけたアケビの・ ( スケットをさげて、私は又二階 だま さび はし」 だめ
すみれ って来た。 三色菫も御意のままに、この春の花園は、ア・ ( ートの屋根 「一寸ーとてもいい仕事がみつかったわ、見てごらんな裏にも咲いて、私の胃袋を度してくれます。激しい恋の さいよ : : : 」 思い出を、激しい友情を、この白樺のしおり達はどこへ持 ・ヘニは小さく折った新聞紙を私の前に拡げると、指を差って行くのだろうか : ・ : ・三畳の部屋いつばい、すばらしい して見せた。 ・ハラダイスです。 ーー地方行きの女優募集、前借可 : ・ 夜。 かすが 「ね、 いいでしよう、初め田舎からみっちり修業してかか春日町の市場へ行って、一升の米袋を買って来る。階下 れば、いつだって東京へ帰れるじゃないの、お姉さんも一まで降りるのがめんどくさいので、三階の窓でそっと炊い 緒にやらない。」 た。石屋のおさんは、商売物の石材のように仲々やかま 「私 ? 女優って、あんまり好きな商売じゃないもの、 しくて朝昼晩を、アパート を寄宿舎のようにみまわってい しろうと つめあか 昔、少し素人芝居をやった事があるけど、私の身に添わなるのだ。四十女ときたら、爪の垢まで人のやることがしゃ いのよ、芝居なんて : : : 時に、あんたがそんな事をすれくにさわるのかも知れない。フン、こんな風来ア・ ( ートな / ′カ心配しないかしら ? んて燃えてなくなれだ ! 出窓で、グッグッ御飯を炊いて めかけ 「大丈夫よ、あんな不良。 ( 。 ( 、地頃は、七号室のお妾さん いると、窓下の画塾では、夜学もあるのか、カーテンの蔭 にあらいこをやったりなんかしてるわ。」 から、コンテを動かしている女の人の頭が見える。自分の 「そんな事はいいけど、 ・ ( ・ ( も刑事が来たりなんかしちゃ好ぎな勉強の出来る人は羨ましいものだ。同じ画描ぎでも いけないわね。」 私のは個性のない・ヘンキ屋さんです。セルロイドの色塗り お昼、・ヘニの履歴書を代筆してやる。下の一番隅っこの 明日よ、 だってそうだったし : をいいお天気だったら、 しようゆ 記暗い部屋を借りている大工さんの子供が、さつま芋を醤油蒲団を干してこのだらしのない花園をセイケツにしましょ 浪で炊いたのを持って来てくれた。 放 ペニのパ・ ( が紹介をしてくれた白樺のしおり描きはとて ( 三月 x 日 ) も面白い仕事だ。型を置いては、泥絵具をベタベタ塗りさ昨夜、夜更けまで内職をしたので、目が覚めたのが九時 えすればいいのである。クロ・、 ーも百合もチュウリップもごろだった。蒲団の裾にハガキが二通来ている。病気をし ちょっと 十み すそ うらや
( 十一月 x 日 ) からね : : : ペッ・ヘッペッと吐きだしそうになってくる。 さんま 秋刀魚を焼く匂いは季節の呼び声だ。夕方になると、廓 眼が燃える。誰も彼も憎らしい奴ばかりなり。ああ私 の中は今日も秋刀魚の臭い、お女郎は毎日秋刀魚ばかりたは貞操のない女でございます。一ッ裸踊りでもしてお目に べさせられて、体中にうろこが浮いてくるだろう。夜霧がかけましようか、お上品なお方達よ、眉をひそめて、星よ 白い。電信柱の細いかげが針のような影を引いている。の月よ花よか ! 私は野そだち、誰にも世話にならないで生 れんの外に出て、走って行く電車を見ていると、なぜか電きて行こうと思えば、オイオイ泣いてはいられない。男か 車に乗っているひとがうらやましくなってきて鼻の中が熱ら食わしてもらおうと思えば、私はその何十倍か働かねば あざわら くなった。生きるが実際退屈になった。こんな処で働いならないじゃないの。真実同志よと吽ぶ友達でさえ嘲笑っ ていると、荒さんで、荒さんで、私は万引でもしたくなている。 ばぞく うめがわ る。女馬賊にでもなりたくなる。 歌ふをきけば梅川よ 若い姉さんなぜ泣くの しばし情を捨てよかし 薄情男が戀しいの : いづこも戀にたはぶれて 誰も彼も、誰も彼も、私を笑っている。 それ忠兵衞の夢がたり 「キング・オプ・キングスを十杯飲んでごらん、十円のか詩をうたって、い、 し気持ちで、私は窓硝子を開けて夜霧 けだ ! 」 をいつばい吸った。あんな安つぼい安ウイスキー十杯で酔 のんき けんらん どっかの呑気坊主が、厭に頭髪を光らせて、いれずみのうなんて : : : あああの夜空を見上けて御覧なさい、絢爛な、 ような十円札を、卓子にのせた。 虹がかかった。君ちゃんが、大きい目をして、それでいし あなた 記「何でもない事だわ。」私はあさましい姿を白々と電気ののか、それで胸が痛まないのか、貴女の心をいためはせぬ さら 浪下に晒して、そのウイスキーを十杯けろりと呑み干してしかと、私をグイグイ撼んで二階へ上って行った。 う娶ん まった。キンキラ坊主は呆然と私を見ていたけれども、負 やさしや年もうら若く 放 けおしみくさい笑いを浮べて、おうように消えてしまっ まだ初戀のまじりなく た。喜んだのはカフェーの主人ばかりだ。へえへえ、一杯 手に手をとりて行く人よ 一円のキング・オプを十杯もあの娘が呑んでくれたんです なにを隠るゝその英 からだ にお たいくっ ていそう まゆ イス
99 放浪記 「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎は ーに居て、友達にいじめられて出て来たんだけれど、浅草 うらないし 、、 0 の占師に見てもらったら、神田の小川町あたりがいいって 三年も此家で女給をしているお計ちゃんが男のような口言ったので来たのだと言っていた。 にしき のききかたで私をさそってくれた。 お計さんが、「おい、ここは錦町になってるんだよ。」と 「ええ : : : 行きますとも、時でも泊めてくれて ? 」 言ったら、「あらそうかしら : : : 」とつまらなそうな顔を ところ 私はそれまで少し金を貯めようと思う。こんな処の女達していた。此家では一番美しくて、一番正直で、一番面白 の方がよっぽど親切で思いやりがあるのだ。 い話を持っていた。 あなた 「私はねえ、もう愛だの恋だの、貴郎に惚れました、一生 捨てないでねなんて鹿らしい事は真平だよ。こんな世の ( 十月 x 日 ) 中でお前さん、そんな約束なんて何もなりはしないよ。私仕事を終ってから湯にはいるとせいせいする気持ちだ。 さら あらいゅ をこんなにした男はねえ、代議士なんてやってるけれど、広い食堂を片づけている間に、コックや皿洗い達が洗湯を まで 私に子供を生ませるとぶいさ。私達が私生児を生めば皆そっかって、二階の広座敷へ寝てしまうと、私達はいっ迄も ちょっ いつがモダンガ ールだよ、いい面の皮さ : : : 馬鹿馬鹿しい風呂を楽しむ事が出来た。湯につかっていると、朝から一 浮世じゃないの ? 今の世は真心なんてものは薬にしたく寸も腰掛けられない私達は、皆疲れているのでうっとりと もないのよ。私がこうして三年もこんな仕事をしてるのしてしまう。秋ちゃんが唄い出すと、私は茣蓙のにゴロ リと寝そべって、皆が湯から上ってしまうまで、聞きとれ は、私の子供が可愛いからなのさ : : : 」 いら、ら あなた お計さんの話を聞いていると、焦々した気持ちが、急にているのだ。ーーー貴方一人に身も世も捨てた、私しゃ初恋 んとう 明るくなってくる。素敵にいい人だ。 しぼんだ花よ。ーー何だか真実に可愛がってくれる人が欲 うそ しくなった。だけど、男の人は嘘つきが多いな。金を貯め のんき ( 十月 x 日 ) て呑気な旅でもしましよう。 ガラス窓を眺めていると、雨が電車のように過ぎて行っ た。今日は少しかせいだ。俊ちゃんは不景気だってこぼし この秋ちゃんについては面白い話がある。 ゅううつ ている。でも扇風器の台に腰を掛けて、憂鬱そうに身の上秋ちゃんは大変言葉が美しいので、昼間の三十銭の定食 話をしていたが、正直な人と思った。浅草の大きなカフェ組の大学生達は、マーガレットのように秋ちゃんをカンゲ なが うた ござ
「そう、ないこともないわ。」 と愛らしい感じを出すのが普通だった。けれども、私はア 私は、東中野の奥の、畑の中の一軒家や、目黒のこわれ メリカ映画のまねをして、口一ばいに線を引いて、上唇 たビルディングの二階を思い出していた。あれきり、松本 にかっきりと三角の線をいれ、毒々しくぬっていた。 にたずねて来られるのが嫌さに、白鳥にも居所を知らさな そのうち、額の毎日焼いている髪が、しだいに切れて、 額の真上の三寸四方ばかりの毛が、もじゃもじゃのざんぎかった。だんだん考えているうちに、観念の上で、とうと りになってしまった。その短い毛を焼いた鏝で、強くすくう白鳥とも縁が切れたのを実感した。 い上げて、きりきり巻くと、どぎつい横のウェー・フが、額去るものは日々にうとし、という格言は、ここにもよく の上に盛り上がる。かって、世界中のどこにも流行したこあてはまっていた。すでに次のべージがめくられたよう に、あのころの記憶には、一枚の皮がかぶって、へだてら とのない異様な髪形だった。 客は、はいって来て、テー・フルに腰かけると、傍に寄っれた。 て行く、私の異様な髪形にまず目をつける。 の上間で、働きっ それでも、ほこりつ・ほいコンクリ 1 ト 「おう、こわい。どうしたんだよ。その頭は。おっかない かれて、夜おそく裏部屋の床にはいると、過ぎさった半年 ふとんえり なあ。」 間の記憶がありありとフィルムのように、布団の襟裏を流 髪ばかりでなく、私の人相も、野獣のように、目を光られて、寝つかれなかった。聖書の「明日の日を思いわずら せて、真正面から相手を強い視線で見つめるとぎには、相うことなかれ、今日のことは今日にてたれり」という文句 をベン書きして、・ヒンで壁にとめて、何にも思わないため 手はな・せか怯んでしまう。 「君はどうも普通の女じゃないね。よっぽど何かいわくがのお守りにした。 あるらしい。」 こんな私のサ 1 ビスぶりが、コックの気に入るはずがな 、。手のすいた時には、彼は、汚れた小窓のカ 1 テンをめ 客はうす気味悪そうに、私をまじまじと見ている。そう くって、私のサービスぶりを監視していた。 言われても、とっさに女給らしい気のきいた、かるい洒落 「君の応対は、どうも暗くていけない。ばかばかしくても をかえすわけでもなく、だまって苦笑していると、さらに 何でも、陽気にはしゃいで、三本しか飲まない客に、五本 私の存在は重くるしくなる。 「どうしたんだい。君はこんなところへ来る・ヘき人間じゃのませるのが、女給の腕だ。化粧も地味だよ。もっと白粉 をこくつけて、はでにしなくちゃ。」 ないよ。よっ。ほどのいわくがあったんだね。」 ひる うわくちびる
311 砂漠の花 炎は、かたわらに建っているパラックの屋根にとどくほれの肋膜炎の息者を気の毒に思って、 ど高く燃えあがって、火の粉は人もなげに、近所隣の屋根「お子さんをうちまでおんぶして行ってあげましよう。あ にとびちる。なんとも言えないものすごさに、窓をびたり なたの体に赤ん坊のおんぶは毒ですよ。」 と閉めて、しばしは・ヘッドにももどらず、室の中に立ってと、辞退する彼女からむりに三歳ばかりの男の子を受けと って、彼女について行った。 考えていた。 こんなふうにして、とにもかくにも、ここでの生活は始彼女は、途中でも、しきりに私の好意を辞退して子供を まった 0 受けとろうとした。が、私は押しつけがましくその家まで なべ 広瀬さんが使っていた鍋を借りて、一升買いして来た米ついて行った。みると、彼女の家はひとかたまりだけ震災 をとぎ、炭をおこして、一人分の食物の用意はできあがをのがれた所に、相当な構えをしている二階家である。そ る。そのころになると、診療所に来る患者が隣の室にたてのころはまだ無料診療は、ごく貧しい人にたいしてしか行 こんで、診療室で背をはだける男や女の肉体が気味悪く私われないころだったのだから、彼女があわれな施療患者の 中にまぎれこんでいたのは、一種のかるい詐欺みたいなも の室のガラスにうつる。 「もうなんにも思うまい。自分のすべきことは小説を書くのだった。彼女の重ねての辞退の意味が、その時初めて理 解された。そして、こんなものだったのかと、やはり私は ことだ。そのために自分は生まれてきたのだ。」 えとく 十日ほどすると、どうやら一編の小説ができ上がった。人間というものについての何か真理を会得した思いだ ここにたどり着くまでにあれだけさまざまな辛酸をなめてた。 いたけれども、その小説は、それらの経験をまたぎこえ 五 て、および腰にこの近所の労働者街を描写したものだっ た。自分の経験したことは、あまりになまなましいし、か私は、この経験を、十五枚ばかりの小説に書いたのであ さばりすぎて、とても、自分の筆でえがける容積につづめる。が、どこに持ってゆくという当てがあったわけではな い。私は二三日考えたあげく、自分の信念にしたがって、 ることはできなかった。 このへんは、さし潮の時間になると、玄関にどこからと当時、「文芸戦線」を編集していた中西伊之助氏の所に、 もなく水がわき出して、物がぶくぶくと浮いてくる低地郵便で送 0 た。中西氏にはもちろん一面識もなか 0 た。 の労働者街である。ある日私は、この診療所に来た子供づ私の持っている金はほんのわずかだった。そこで一カ月 せりト・ら・
425 砂漠の花 といったという話が、私たちの耳にはいっていた。和子さて、さびしくもあった。仕事だけが、私の慰安であった。 私はこの室では、、 んは和子さんで、 しくつも探偵小説をかいた。けれども、 「男なんて勝手なもんだわ。」 もとより、それは将来の本業となるべきものではない。 と、具体的には言えない不満をぶちまけていた。彼女は、 私は「誠和女学校」という短い小説をべつにかいて、雑 こののちじき大宅氏と別れてしまった。若杉さんは若杉さ司ヶ谷に住んでいる山田清三郎氏の「文芸戦線」に送っ んで、。フロレタリヤ文学と、外交官で華族出の夫をもった た。その小説は、すぐ掲載された。「誠和女学校」という 家庭とのあいだのギャップに苦しんでいた。 のは、電話局の中にある講習会についている大げさな名前 である。いまとちがって、当時電話交換手は、極度に社会 「新しい個性と新しい環境がほしいわ。」 けいべっ から軽蔑されていて、前身が交換手だといえば、縁遠くな と、彼女は非常に象徴的に、自分の悩みをいっていた。 るほどだった。 私が、結婚と離婚という何ものこさぬ徹底的な形式で、 好ぎな人間と一しょになり、気にくわぬ環境と個性とを投そこで電話局は志願者の募集になやんで、内部に無料の こけ げうって行ったのとくらべて、彼女には苔の生えた生まあ女学校があるということを売りものにしていた。その女学 、よ、そのからくりに抗 たたかい家があった。彼女には夫を奉り、家の交際に手を校の名前が誠和女学校だった。る説冫 しれつ ぬかないまま、うしろで他の男性と気軽な恋愛をしている議しながら、一人の娘の熾烈な向上意欲を書こうとしたも らしいうわさがっきまとっていた。 のだった。 てさぐ 私たちは、新宿の中村屋の二階に集まって、気勢をあげ この小説には思いがけない反響があって、手探りで小説 を書いていた私には何よりの激励だった。その反響の一つ まうま ツルヤの肌だった、ときちゃんを連れて、私の室にことして、小堀甚二という男性が、のちにあらわれたのであ ろがりこんでいた芙美子は、まもなくまた、ときちゃんをる。 連れて、働きに行った。 この室に、伊東はあれ以来こなかった。が、石田のグル この婦人作家グループの発会式に彼女がいたかいなかっ ープは、いままでつきあってきた友人でもある関係からよ たのか、今思い出すことはできない。 くあらわれた。 身辺から、すべての愛情問題のごたごたを切り捨てた私石田も、彼らと一しょに顔を見せることがあった。彼 は、すがすがしかった。けれども、どこかさむざむとしは、とうとう落合葛ヶ谷の家を夜逃げして、本郷に間借り こ 0
間あまりだけれど、先の目標もなさそうである。ここの先 はしごだん 生は、日に度も梯子段を上ったり降りたりしている。ま はつかねみ るで二十日のようだ。あの神経には全くやりきれない。 「チャンチンコイチャン ! ( 十二月 x 日 ) よく眠ったかい ! 」 さいはての驛に下り立ち 私の肩をルいては、先生は安心をしたようにじんじん 雪あかり しよりをして二階へ上って行く。 さびしき町にあゆみ入りにき 私は廊下の本箱から、今日はチェホフを引っぱり出して といを、 読んだ。チェホフは心の古里だ。チェホフの吐息は、姿は、 たくまく たそがれ 雪が降っている。私はこの啄木の歌を偶っと思い浮べなみな生きて、黄昏の私の心に、何か・フップッものを言いか がら、郷愁のようなものを感じていた。便所の窓を明けるけて来る。柔かい本の手ざわり、ここの先生の小説を読ん あかり と、夕方の門燈が薄明るくついていて、むかし信州の山ででいると、もう一度チェホフを読んでもいいのにと思った。 じよろう 見たしやくなげの紅い花のようで、とても美しかった。 京都のお女郎の話なんか、私には縁遠い世界だ。 「婢やアお嬢ちゃんおんぶしておくれッ ! 」 夜。 ごもくすしこしら 奥さんの声がしている。 家政婦のお菊さんが、台所で美味しそうな五目寿司を拵 ゆりこ うれ あああの百合子と言う子供は私には苦手だ。よく泣くえているのを見てとても嬉しくなった。 し、先生に似ていて、神経が細くて全く火の玉を背負って赤ん坊を風呂に入れて、ひとしずまりすると、もう十一 きら いるような感じである。 せめてこうして便所にはいっ 時である。私は赤ん坊と言うものが大嫌いなのだけれど、 ている時だけが、私の体のような気がする。 不思議な事に、赤ん坊は私の背中におぶさると、すぐウト うなぎ 記 ( ' ( ナナに鰻、豚カツに蜜柑、思いきりこんなものが食べウトと眠ってしまって、家の人達が珍らしがっている。 てみたいなア。 ) お蔭で本が読めることーー。年を取って子供が出来る 浪 気持ちが貧しくなってくると、私は妙に落書きをしたくと、仕事も手につかない程心配になるのかも知れない。反 放 なってくる。豚カツに・ ( ナナ、私は指で壁に書いてみた。感がおきる程、先生が赤ん坊にハラハラしているのを見る したく 夕飯の支度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度もと、女中なんて一生するものではないと思った。 しゅうこう かれん 行ったり来たりしている。秋江氏の家へ来て、今日で一週うまごやしにだって、可憐な白い花が咲くって事を、先 からだ みかん にがて かげ