はかまふろしぎ やえ子は、翌日局を休んだ。そして、夕方、袴を風呂敷 のまにそんな関係になっていたのか、そこの主婦におさま 3 っこ 0 で包んだ着流しでしょん・ほり信濃館に帰って来た。 ところで、その番頭の松ちゃんは、以前、国で、やえ子「やつばり、井上さんのところだったの ? 」 と私はたずねずにはいられない。 の勧工場の奥にある温泉ホテルの番頭だったことがあり、 やえ子一家とは、なみなみならぬ親密な交渉があったらし「うん : : : 。」 。そこで、みすみす損のゆく下宿人を二人も抱えるおまと彼女は、答えたきり何も説明しなかった。 その彼女を見る私の気持は、おののいていた。彼女が、 ささんの迷惑を思って、やえ子だけ穴八幡の下宿の方に引 何もそれきり説明しないだけに、どんな想像も私の心の中 き取ろうということを申し出たのらしかった。 ちょうりよう で跳梁することができる。 その日、私は、やえ子と東京駅でわかれた。やえ子は、 例の大学生の井上のところへ行くと言った。それは、彼女彼女は、私の知らない世界にとうとう足をふみ入れた。 の自由であったが、私は井上を軽蔑しているので、やはりその世界は、私にとっては、のぞき見することも、立ち聞 きすることもできない、鉄の壁で遮断された世界である。 チグハグな気持だった。 その晩、とうとうやえ子は帰ってこなかった。私は、何学校の校庭などでは、たやすくお互いの性についての滑 とかして、下宿のおまささんに、そのことをかくすのに苦稽な想像を笑いながら打ちあけあったのに、いま彼女がぶ つりとそのことについて言わないのが、いかにもその重大 慮したが、案ずるほどのことはなかった。 おまささんは、本業の下宿屋よりも、若いときから病みな世界をじっさいに見てきた人間の実感だった。私は自分 つきのばくちに忙しくて、折々二日ぐらい家をあける。長の責任のように当惑もし、恐ろしくもなった。 いあいだ、ここに働いていた女中頭のお松さんの言うに 五 ま、 その日から、妹のようだったやえ子は、にわかに姉に見 「おかみさんが負けて帰ったときは、すぐわかる。入口か おとな をしえはじめた。彼女がしゃべらなくなったのも、大人になっ この掃除の仕方は。』とどなりながら、よ、 ら、『何だい。 ってくる。」 た証拠である。彼女はますます交換局の仕事に気のりがせ と言っていたほどで、商売は、ほとんど女中まかせで、身ず、私にだまって外出する。井上の下宿に行くらしい。そ のたび、私は救いのない気持になる。 かはいっていなかったのだ。 けいべっ がしら
る家だった。私の室には、女学校を出て一しょに電話局に生意気いつばいの私は、少なからず三田を軽蔑してい はいった黒田やえ子が、依怙地に夜学のつきあいだけは拒た。井上はその三田のグループであったし、三田に負けず 絶して、一人で小説をよんでいる。 気障なところが見える青年だった。ところが、最初に会っ やえ子は、私の野暮な袴姿を戸口に見ながら、 た日から、黒田やえ子の彼にたいする態度はひどく積極的 「おそいわね。そんなに体を無理していいのかしら。」 だった。「これはー」と、私は目をみはらずにはいられな っこ 0 「大丈夫。まだこれから十二時まで本を読むんだわ。」 黒田やえ子は、何か話したいことがあるらしい。彼女は それいらい、彼女と井上とが、どういう交渉を持ってい 誇らしそうに徴笑して、 るか、夜学に行く私にはわからなかったし、何かつらくて 「あのね、井上さんが今までここにいたのよ。」 知ろうともしなかった。が、今晩、やえ子がとくに井上の 「へえ。」 ことを言いだしたのは、何か一一人の関係に新しい進展があ 私は、何とも言いようのない顔をしていたにちがいなるにちがいない。 東京に来てから、まだ一カ月あまりにしかならないの に、やえ子は、交換局の仕事をくだらながって、毎日、幻 減の歌をうたっていた。そして、この下宿にいた三田かほ 私は、もうある予感で顔をくもらしていた。 るという同郷の無名歌人のところにくる大学生の井上と、 「彼が、どうしても自分の下宿へ来て泊れと言うのよ。ど ぐんぐん近づいていった。 うしようかしら。」 三田かほるは、故郷の新聞の短歌の投書欄で、私も、名このあいだ、すでにやえ子は、私にちらりとそれを暗示 前だけは知っていた青年だった。アララギ派の島木赤彦のすることをうちあけていた。私たちのあいだには、こうい ぶんめい 出た諏訪が私の郷里であったし、土屋文明先生が女学校のう行為を、かならずしも排さない雰囲気が女学校時代から ひやくぞう 校長先生だったから、多少でも短歌は、かじっていた。 あった。倉田百三の「父の心配」というドラマも、そうし ところが、新聞に出る三田かほるの歌たるや、「雨ふれた早まった思想にたいする父親の子供の世代の心配を書い ばムかけて黄ににごる秋の隅田に物洗ふ女」こんな安 0 たものだったが、作者自身は新しい世代の味方だった。私 ぽい詠嘆調だった。それに東京に来てみて、隅田川で物をたちはその本を貸しあって、大まじめに討議しあった。今 あらう人間なそあるはずがないこともわかった。 まで親や学校の先生に教えこまれて信じてきた道徳律は皆 からだ ふんいき けいべっ
いう目的からではない。学校のうちから履歴書を出して、 まちがいだったらしい ひろい人間生活の中で生活の意味を味わうこともなく親仕事をきめてから出てきたのは、用心ぶかい私の生活設計 からで、目的はほかにあった。 の手から夫の手にわたってゆく、無平穏な女の生涯を、 こうじまち むしろ私たちは不幸と考えた。そういう考えから出発し私は、上京するとすぐ麹町七丁目の停留所をはいったと さかいとしひこ ころにある、社会主義者堺利彦氏と娘真柄さんとをたずね て、貞操問題についても、 た。私は、自分の家がまずしかったために、上級学校に進 「それを守ることに一体どれだけの価値があるのか。」と 学することのできなかった思いを社会機構の問題とからま いう疑問に到達していた。 こういう疑問を、はげしく口にして、友だちのあいだにせて、社会を改革することに自分の生きる道を見いだそう と、女学校三年ごろから堅く決心していた。 同感者をつくりだすのは私だった。やえ子は、そんな時に 同行した黒田やえ子と、卒業の前年、二人でこっそり家 やにやしていて、あまり意見をいわないたちだった。とこ には修学旅行に行くことにし、学校には休むふりをして、 ろが彼女は、私とちがって、言わずにひとりで実行するた ちだった。 堺氏に会うため上京したこともある。 * かんこうば 私は、なぜ、やえ子が、井上とそうなってゆくのに反対やえ子は、故郷の駅前の温泉ホテルの入口に勧工場を出 していた家の娘で、父親は宿屋の番頭だった。学校から帰 なのかを、自分でもじっと考えた。そして、 「いくら、貞操の価値をみとめないったって、あんな人とってくると、夜ふけまで貧しい店の番をして、五銭十銭の 利益を家のためにかせぐのだった。 そうなるのは私いやよ。」 ぎんそう ( たんてき 私も、祖父が、製糸事業を銀相場の下落で失敗したため と端的に言った。 に没落した地主の娘だった。 「だって、こんな生活、くだらなくって、なんとかしない たんぼ 花ではいられないのよ。」 学校から帰ってくると、田圃に出ている母の留守番をし の 私は、暗然として、彼女の言分にも同感していた。しかながら、小さい雑貨屋を取り仕切って、十二三のときから し、私と黒田やえ子との生活は、市外電話局とここだけだ大福帳や当座帳をいじりまわしていた。原価計算をして、 砂 かんづめ ったわけではない。 いくぶんの利をくわえて売値をきめること、罐詰にレッテ ひとかたまり 私が、女学校の卒業を待ちきれなかったように、卒業式ルを貼ること、樽一ばいが一塊になってくる黒砂糖を鉄棒 げた の晩東京に出てきたのは、りつばな電話交換手になろうとでこわすこと。そのほか、下駄のはなおも立てて売るし、 たる まがら
幹部に、 はできなかった。 「ここへの往復に袴をとることは絶対に許されません。も とうとうやえ子は、不承不承にとった袴をまたつけて外 まち し街で袴をとっている姿をみつけたときには、相当な制裁に出た。が、いったん建物の外に出てから一二町歩いて、 がありますから、そのつもりにしてくださいよ。」 ある建物のかげにはいった。あのころの中央電話局は、広 と言い渡ざれていた。ところが、ある日、やえ子は、仕事い野原の中に・ほっんと立っている建物で、周囲に建物はま すそ がおわっての帰りに、控室で、袴をちいさくたたんでいる。 ばらだった。彼女は建物のかげにはいると、裾から袴をま くふう 「なにするの。」 くりあげて、羽織の下でうまく帯に見せかけるように工夫 えびちゃ と私はおどろいてたずねた。 をした。前を見ると、海老茶の帯をしめているとしか見え 「こんな野暮なものつけたら、どこにも行けやしないわ。 かまわないから心配しないで。」 私は、彼女の器用な工夫に驚いた。と一しょに、これほ げた と彼女は、私をそばにも近づけないいきおいで言いはなつどまで海老茶袴に下駄ばきの姿をきらっている彼女を何と こ 0 かしてやらなくてはならない責任も感じた。 「そりゃあ、ほかに就職口があれば、何もここにかじりつ「私、あなたに相談しなかったんだけど、近日あの下宿を いていることはないけれど、東京の地理もわからないの出るわ。」 に、今ここを辞めてはちょっと困るだろうと思うのよ。」 「どうして ? 」 ほんとうを言えば、私もこの職場には当惑していた。見と私はおどろいて訊いた。見習の給料ではたりない下宿料 習期間が三カ月あって、そのあいだは、一カ月に十五円しは、下宿屋のお内儀である私の母のいとこのおまささんが、 かもらえない。それは募集の広告にはなかった条件だつまけてもいいようなことを、このあいだから言っていた。 花 た。下宿屋の払いは、実費で二十三円ときめてあったが、 私は呑気にその好意を受けるほかはないと思っていた。 の そのたりない分をどうするのか、まだ決めてなかった。 が、私の友だちのやえ子にまで、おまささんが、そういう 砂一カ月ぐらいは、家からもらってきた金で補充するとし好意をおよ・ほしてくれるかどうか、そこまで私は考えてい ても、来月からの小遣いもお・ほっかない。しかし、やえ子なかった。ところが、以前、おまささんの下宿の番頭だっ うしごめあなはちまん のように、仕事がおもしろくないからやめてしまおう、あた松ちゃんが、牛込の穴八幡の近くで、新たに下宿屋をは ばち がしら とはどうにかなるだろうというふうに、捨て鉢になることじめて、信濃館の女中頭だった、同じ名のお松さんがいっ のんき
234 げず警官におそわれて、商品は泥靴にふみにじられたう 贈物の品物には、紙をかけて水引もむすんだ。 そんな生活の苦労の共通点から、黒田やえ子とは、クラえ、追いはらわれた。 にら スの中で人にもふしぎに思われる深い友情の間柄になっ若い高津氏夫妻さえ、それほど当局から睨まれているの た。しかし、私が、まずしい人間の解放運動を生涯の仕事だから、大先輩の堺氏や大杉氏の家はもちろんのことだっ こ 0 と信じたほど彼女はそのことに熱心だったわけではない。 私はまだ一度も大杉氏の家をたずねたことはなかった。 彼女はいわば私の情熱にまきこまれた形だった。 が、門前に小屋ができて、刑事が交替で夜昼見張りをして 私は、よく、堺令嬢の真柄さんに連れられて、早稲田に うわさ いるという噂だった。 ある高津正道さんの売文社に行った。そこには、女子大学 生や女医専生や、知識婦人があつまって、ビラまきや示威堺氏のところには、見張小屋はなかったにしろ、夫人の 行列に参加する計画をたてたり、研究会をしていた。婦人趣味でびかびかするほどきれいに磨きこんだ門のくぐり戸 をチリチリとあけるのと一しょに、どこからともなく刑事 が、家庭や世の中でこんなに無力でみじめである原因を、 資本主義の害悪とむすびつけて、口々にはげしい言葉で資があらわれて、名前を手帳に書きとめるのが常だった。私 本主義とたたかうことを誓いあうのだった。私はこの仕事はもう、何度も刑事たちと話をして、名をかきとめられる あんのん のために、親も兄弟も一身の安穏もみんな捧げてよいと心必要もないほど、彼らに顔を知られていた。 ろうごく にちかった。若さのあふれるままに、私は泣いて牢獄も貧しかし、私ほど、黒田やえ子は、社会の改革運動に希望 を託していたわけではないから、現実に失望して、大学生 乏もいといはしないと自分に誓うのだった。 しかし、そのころは、今のように、だれはばからずそんの井上に熱中するのも仕方がない。 な話題を声高にしゃべれる時代ではない。高津氏の売文社やえ子は、しかし私の反対気分を見てとると、自分の気 の表には、いつでも私服刑事がうろうろしていて、集会で持もにぶるらしく、その日はそれつきり何も言わなかっ もっきとめると、すぐに家をとりまいて、一人なし検束すた。 私は、ときどき子供をおぶった高津夫人妙子さんのお供 をして、早稲田大学の表門に社会主義の宣伝文書を売りに私たちは、翌朝、また元気で電話局に出勤する。中央電 いった。そのあわれな、新聞紙をひろげた店さえ三日にあ話局市外課の養成部で、電気の理論や交換技術を練習して こわだか どろくっ
いままでは、こういう行動を肯定していた私なのに、彼て、 女が言葉で論じるよりも先に実行したのをみると、私は自「ほかの人と話をしてはいけませんよ。さ、早く、裏階段 分が何かほかの堅い殻をもった人間だったということに気からかえって がついた。 と叱咤した。ほんの一瞬間に私とやえ子とは失業者となっ て、十五円はいった包を片手につかんで、裏口から表に追 二人がこんなことからひどく不安定な気持だったとき、 い出された。 私たち二人の生活に大鉄槌が振りおろされた。 ある日、私たちが出勤すると、待っていた石山書記補「弱った。どうする ? 」 が、二人を別室につれて行った。 二人は表に出ると顔を見あわせた。東京に出て来て、ま 「きようは、大へんかなしいことをお二人に知らせなくち ゃならないのよ。二人とも局をやめていただくことに、幹だ二カ月にしかなっていない。気よわいやえ子の目には涙 が光っている。 部の方々がきめたらしいんですよ。」 私はあきれていたが、そう言われれば思いあたることが「約束しましよう。信濃館のおばさんには、このことをか ある。 くしておこうじゃないの。」 「それがいいわ。」 一一三日まえだった。私は自分のつかっている交換台をつ かって、麹町の堺利彦氏のところに電話をかけた。交換台と二人は約束した。翌日から新聞広告を見て仕事さがしで の通話は、はるか向こうに陣どっている監督のところにつある。いつものように朝、家を出てタ方かえって、夜は私 ながるようになっていて、だれが何をしゃべっているか彼だけ夜学に行く。 おまささんは、金ぶちの老眼鏡をかけて、毎朝出勤姿の 女がきこうと思えば、・フラグをさしさえすればすぐきける 花仕組みになっている。 私たちをガラスごしにのそいている。この、私の母のいと こにあたる六十何歳のおまささんのことを、ついでに書く 私がお手のものの電話で堺夫人としゃ・ヘっていたとぎ、 監督がじろりと私の方を見た。私はあわてて・フラグをはず必要がある。 砂 したが、すでに遅かったのだ。 おまささんと、妹のおさとさんとは、私の家から養子に くびき 局は馘った私たちに、十五円ずつの手当をくれた。そし行った母の伯父の二人娘だった。妹のおさとさんに、私の からだ て、石山書記補の上役のお婆さん監督が控室にあらわれ村から百姓の養子が行ったけれども、おさとさんは、体 こうじ おそ から てつつい ばあ しった
236 娘だった。女学校で、一年から受持だった西川先生は、後 いうんですけどね。」 なんばら に南原東大総長の夫人になった教養高いたつぶりした性格 カ前途の希望にもえている私にの先生だった。ビアノも、音楽の先生と一しょに弾くし、 と私たちはおどろいた。・ : 」 は、十五歳の娘がな・せそんなに仕事を絶望的に思いつめて英語もできた。それに、文学にたいする見識も一通りでな ・カー 五階の窓から跳びおりたのか、想像することもできなかっ この先生が、あぶなっかしく大胆な私の性格を見かね た。が、世間がいやしむ交換手という仕事を、自分もいわ れなく愧じている娘が多いことは、あらためて考えさせらて、いろいろ助言してくれた。忘れもされない三年生のと れた。 き、私はだ胆な恋愛小説を雑誌に投書して当選してしまっ 「はたらくことが卑しいわけはないのに、どうしてこんなた。男性からの怪しい手紙がたくさん送りこまれて途方に くれていたとき、西川先生が、投書家になったら早熟早老 にいじけている人が多いんだろう。」 私は、こんなことを見るにつけても、自分の抱く社会主して、まっとうな作家になれぬと忠告してくれたことは、 義の考えが正しいと思わずにはいられない。社会主義は働頂門の一針だった。いまもありがたいと感謝している。 私は、女学校から、この交換局へ移るのと一しょに、も く者を一ばん尊敬する思想なのだから。 う、また、石山書記補という、尊敬と愛の対象を自分で探 さて私は、しいていえば、石山徳子書記補が好きだっ た。彼女は、当時の交換手に特有の摺れた風胤に染まらずしだしていた。先方もまた私の存在を心にかけてくれる。 私は不満な仕事の中でも幸福だった。 いつも自分の見識を守っている。 朝、床の中で目がさめて、灰色な交換局の一日の生活を 四 おもうとき、彼女がいることを思うと、私の気持にかすか 黒田やえ子は、これらさまざまな私の気持の明暗のそば ながともる。撫子のように、なよなよした彼女が、白い けんろくそで 元禄袖の着物に紫紺の襁をつけて、一直線に長くつづいたで、皮肉に徴笑しながら、だまって、味気なさそうに動い 白衣の交換台の後を歩いてゆく。肩には、書記補の印であている。私とちがって、やえ子は、身なりも物腰も都会的 る浅紫の綬をつけている。彼女の誠実な愛を見ていると思で洗練されていた。 けん 彼女は、野暮な袴をつけるということに、呪いに近い嫌 えば、単調で無味な交換局にも慰めはあった。 私は、女学校時代からふしぎに、女の先輩から愛される悪を持っていた。しかし、拝命の日から、私たちは、局の じゅ のろ
命を、自分だけはどうしてもたどりたくないという切なる私は、小学校のころから、家の小売店の番をして、石油 あきな さとう 4 ね小 希いからだった。女学校卒業式の晩、上京する時、汽車のから砂糖から下駄からコップ酒まで、けっこう商っていた じようす しりメ - しょ 窓口まで、着物の尻端折りにゴム靴といういでたちで、チので、商売はあんがい上手だった。日独商会は、たちまち かぎ ッキに出す行李を背負って送ってくれた父も、何か私の行のあいだに私を信用して、夜、店をしめたあとの鍵を、私 にあずけることにした。そのおかげで、私は夜学をやめな く手に女としてはかわった運命を予感していたらしく、 「たとえ女賊になるにしても、一流の女賊になるんだそ。」ければならなくなった。 そのころ私は、おまささんのところを出ることになっ と小さい声でささやいた。 私は「ええ、ええ。」と殊勝らしく父にうなずいていた。た。というのは、堺さんのところに頻繁に出入りするため 世間のせまい父には、女が社会ですぐれた才能をしめす方に、信濃館に特高刑事が来て、ときどき私の行動をたずね * だっ 法がわからないので、社会にみとめられるには、講談の妲るようになった。おまささんは、国の父にそのことを言っ 己のお百か鬼神のお松のようにでもなるほかないと思 0 ててやりそうな気配が見えたので、私はいたたまらなかっ いたのだろう。私に「タイ」という名前をつけたのも、私た。 かつら めかわ おまささんも、自身女賊ではないにしろ、女としては考 の生まれた当時、桂公の妾として、女ながら政治にかげか らロを出していたお鯉さんの「鯉」という名ににせて、彼えられぬほど大胆な道を歩んできた人であった。が、私が 堺さんのところに出入りすることにたいしては、絶対に反 女の幸福にあやからせようという希いからだった。 ところが私は、前から女賊ならぬ社会運動と文学との目対して、きびしい干渉をした。私は、父に相談せずに、堺 なかそね カ父には、それをひたさんの令嬢真柄さんと、堺家に出入りする中宗根貞代さん 標をはっきり胸にいだいていた。・、、 がくしにかくしていた。そのころ社会主義者といえば、箸夫妻と一しょに、柏木に一軒もって、真柄さんと机を並・ヘ にも棒にもかからぬ悪人のように世間はあっかっていた。て暮らすことにした。 父にそれを打ちあけたら、講談に悪名をのこした毒婦、女 一しょに上京した黒田やえ子は、そんな事情もからまっ て、松ちゃんがつれて行ったきり、みんなで私に会わせな 賊に私がなるよりも、何十倍か悲しがるにちがいないと、 私は知っていたのだった。 いようにしていた。例の大学生とのあいだはそれつきりら 何はともあれ、こんなふうにして私の女店員生活はしく、やえ子は、なやんでいたが、そのなやみすら私には はじまった。 打ちあけなかった。そのまま彼女は、松ちゃんにあずけら せつ たん かんしよう かしわぎ ひんばん
て行くことにして、夕方店に行く前の時間を京橋通りの方と、彼は伊東に言った。伊東が、 かちどぎ 「しかし、彼女はどうしても機会をあたえないんです。」 角と反対に、築地から勝閧の渡しに急ぐ。 風が吹いて、びちゃびちや石垣を波が洗っている築地のと言ったら、 「自分の家につれて来い。」 舟着場から、月島に渡る渡船は、木造で、乗ったと思えば と言った、という話を、伊東は、私にしてきかせた。それ すぐ降りる短い時間だった。 いそがしそうな勤め人の中に、私一人だけ他人と違うひは、ただの話題であると同時に、私にたいするある種の暗 そかな心ときめく目標を持ってる気がして、あたたかい気示的な試みでもあった。が、私には、その暗示の意味がわ かっていても、そのまま暗示にのってゆけるほど、彼を信 持で乗客の中にまじっている。 伊東は、時間がきまっているので、いつも室に待ってい頼することが、どうしてもできなかった。 そのうちに、彼は、二六新報の入社試験に及第して新聞 た。私の表戸の開け方は、あたりをはばかるようにそろそ ろと音をたてるので、声をかけなくても私の来訪は、中の記者になった。といっても、この入社試験の試験係は守田 人たちにわかっていた。が、私は一度も室に上がったことさんだったので、問題はつつ抜けに、あらかじめ伊東に知 らされてあった。 はない。私は何か警戒していた。 伊東と一しょに労働組合の闘士だった丹野節子さんも試 五 験を受けたが、どうせ落第だと言って、試験の中途から席 伊東には、やはり、牧師上がりの川村さんという社会キを立った、と何かの会合の時私に話したほど、問題はむず かしかった。 義の知合いがあった。彼は自分に恋愛問題が起こってか ら、さかんに訪問して私のことを訴えていたらしい。川村二六新報の記者になった伊東は、月島から神田の下宿に さんは、京橋区役所の前で代書をしている、五十がらみの移った。曲りなりにも、生活の自信を持った伊東は、さら にはげしく私を追求する。 おじさんだったが、「ラブ・イズ・ベスト」などとわかい 私は、伊東を信頼して、全身を投げこんでゆく気になら 言葉を使って、若い人々をけしかける気の若い人だった。 あやっ こ乗って私を操る術をないのと一しょに、黒田やえ子が私より一歩先に知った未 近ごろ、川村さんが、伊東の相談冫 しれつ 知の世界を知りたい興味にも熾烈にかられた。 教えているらしいのが、私にはわかっていた。 あらゆる文学の重要なテーマは、恋愛だったが、その恋 「まず女を手に入れるには、肉体を所有してしまえ。」 たんの
二三カ所歩いたが、給料の思わしいところでは、皆こと わられた。そこで、ある日、堺利彦さんの家に行って、馘 られた成行きを話した。 ゅうしゅう すると、堺さんが気のどくがって、友人の守田有秋さん を紹介してくれた。守田さんは、大正天皇が皇太子として もっ 成婚されたとき、「権力を以て、非力な娘を無理強いに皇 私は、たまらない悲哀で、朝、目をさます。 太子とめあわす」という意味のことを、自分たちで発行し くびき ひとし 馘られた次の日から、もう電話局に行く用事はなかっている新聞にのせたため、山川均と一しょに不敬罪に問わ た。が、朝七時になると、やはり起きてお弁当をもらつれたことのある、古い社会主義者だった。 て、家を出なければならない。交手のシンポルである海氏は出獄後、ドイツに行って、前大戦後の動乱していた 老茶の袴までつけて。あまり早く馘になったので、私はお ドイツに滞在した。そのとき知りあった中年のドイツ婦人 まささんにそのことをかくすほかない。 エリス・アッカーマン夫人を連れて帰朝した。二六新報の 黒田やえ子は、松ちゃんの下宿屋に移ってから、あまり編集長の仕事のかたわら、そのアッカーマン夫人を社長 に、友人と資本を出しあって京橋の第一相互館に、ドイツ 姿を見せない。私は、毎朝、新聞がくるのももどかしく、 三行広告欄を飢えた者のようにがつがっさがす。あるとき書籍とドイツ雑貨を売る店を開いていた。堺さんは、その には、中国人の家庭の家庭教師の求人をみつけた。家庭教店になにか仕事はないかと、守田さんに手紙をつけてくれ 師という仕事の必要上、少しでも大人にみせるため肩あげたのだった。 ある日、守田さんの指定する時間に、私は京橋角の第一 をおろして、アイロンもかけずに着る。が、その求人口も たす 花 相互館の日独商会を訪ねて行った。守田さんは、あたたか ことわられた。 ふうう の 私は、かそえ年十八だったが、厳密にいえばまだ十六歳い重厚な風貌の持主で、ドイツ語が日本語同様にうまかっ 砂と五カ月にしかなっていなかった。どこに行っても、一一十た。 円か二十二三円の給料しかもらえないのが通り相場であ氏は、店に腰かけて本を読んでいる三十二三のアッカー る。それで、下宿料を二十円あまり払ったら、小遣いも電マン夫人を呼んで、私を中二階につれて行った。彼女は、 車賃も出ないことになる。 大きい目をくるくるさせて、私を一目見てから、・ヘラベラ 初恋 おとな こづか