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検索対象: 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集
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1. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

「この十五日が工場の勘定日じやけん、メリャスを少し持迎えに町へ出てみると、雁木についたランチから白い女の ひとだま っそ私も荒海に身 って行こうと思ってますけに : 顔が人魂のようにチラチラしていた。い 「私のうちも船の方じあ仕事が日がつまんから、何か商売を投げて自殺して、あの男へ情熱を見せてやろうかしらと しゆすたび でもしたら言うて、繻子足袋の再製品を聞いたんじやけも思う、それともひと思いに一直線に墜落して、あの女達 の群にはいってみようかと思う。 ど、どんなもんだろうな ? 」 この 「そりやアよかろうがな、職工は此頃景気がよかとじやけ ん、品さえよけりや買うぞな、商売は面白かもん私と行っ ( 一月 x 日 ) てみなさい、これに手伝わせてもええそな。」 島で母達と別れると、私はづたいに男の村の方へ行っ 「そいじゃ、おばさんと一緒にお願い申しましよう。」 た。一円で買った菓子折を大事にかかえて因の島の樋のよ 船大工もこのごろ工賃が安くて人が多いし、寒い浜へ出うに細い町並を抜けると、一月の寒く冷たい青い海が漠 るのは引きあわない話だそうな。 と果てもなく広がっていた。何となく胸の焼ける思いな り。あのひととはもう三か月も会わないのだもの、東京で 夕方。 ドックに勤めている金田さんが、「自然と人生」と言うの、あの苦しかった生活をあのひとはすぐ思い出してくれ みかんやま るだろう : 。丘の上は一面の蜜柑山、実のなったレモン 本を持って来てくれる。金田さんは私の小学校友達なり。 本を読むが好きな人だ。桃色のツルツルしたメクリがつの木が、何か少女時代の風景のようでとてもうれしかっ いていて、表紙によしの芽のような絵が描いてあった。 ぞく 勝てば官軍、負けては賊の名をおわされて、降り積牛二匹。腐れた藁屋根。レモンの丘。チャポが花のよう けちら む雪を落花と蹴散し。暗くなるまで波止場の肥料置場でこに群れた庭。一月の太陽は、こんなところにも、霧のよう こうぼう こを読む。紫のひふを着た少女の物語り、雨後の日の夜のな美しい光芒を散らしていた。畳をあげた表の部屋には、 あばたの女の物語など、何か、若い私の胸に匂いを連んであのひとの羽織がかけてあった。こんな長閑な住居にいる くれる。金田さんは、みみずのたわごとが面白いと言って人達が、どうして私の事を、馬の骨だの牛の骨だのなんか とう すなこり いた。十時頃、山の学校から帰って来ると、お養父さんと言うのだろうか、沈黙って砂埃のしている縁側に腰をか す針 が、発花をしに行ってまだ帰らないのだと母は心配していけていると、あの男のお母さんなのだろう、けて背骨の ばあ た。こんな寒い夜でもだるま船が出るのか、お養父さんをない藁人形のようなお婆さんが、鶏を追いながら裏の方か にお こ 0 わら だま のどか

2. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

三十九歳四月、母かっ美、死去。「妻の夜」を「婦人世界」に発表。六月、「夢 昭和十九年 ( 一九四四 ) みる唇」を「主婦の友」に連載 ( 七月完結 ) 。七月、「人の命」を「風 ひとりで故郷の信州・福島に疎開し、読書の生活を続ける。 四十歳雪」に、「黒の時代」を「中央公論」に発表。「夢みる女」を「サンデ 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) プロレタリヤ文学運動への内省の結果、一つの結論を得て上京。戦ー毎日」に連載 ( 十一一月完結 ) 。九月、「栄誉夫人」を「小説新潮」に発表。 四十六歳 争に協力しなかった文学者たちが新日本文学会を構想していたが、 昭和ニ十六年 ( 一九五一 ) 旧共産党派でかっ戦争協力者だった人々が全文学者を包含すべきだ一月、「桃色と赤」を「女性改造」に連載 ( 五月完結 ) 。「母と娘」を と提唱したため、出場所を失い、創作への専心を余儀なくされた。「婦人朝日」に連載 ( 翌年一一月完結 ) 。二月、「岡本かの子ーを「婦人 四十一歳公論」に、十月、「紅薔薇夫人」を「主婦之友」に発表。 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 四十七歳 一一月、「終戦日記」を「中央公論」に、「一人行く」を「別冊文藝春秋」昭和ニ十七年 ( 一九五一 l) 一月、「中年女」を「小説新潮」に、四月、「現代の英雄」を「小説新 に発表。六月、小堀の弟経蔵の娘新子 ( 当時六歳 ) を養女とする。 豊島区千川町二の三に移転。十月、「鬼子母神」を「新生」に、「こう潮」に、五月、ニースのペン大会出席後、アンドレ・マルロー、ゲオ いう女」を「展望」に発表し、翌年、第一回女流文学者賞を受賞。ルギュー等と会う。「桃色の娘」を「週刊読売」に連載 ( 九月完結 ) 。 四十八歳 昭和ニ十八年 ( 一九五 = l) 四十一一歳 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) ぬかだ 一月、「戦争未亡人」を「サンデー毎日」に、四月、「冬の物語」を「人一月、「額田女王」を「婦人公論」に、九月、「追われる女」を「サン 間」に、七月、「あこがれ」を「新女苑」に、九月、「黒礼 . を「改造」デー毎日」に連載 ( 翌年一月完結 ) 。 四十九歳 昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) に、十一月、「私は生きる」を「日本小説」に発表。 四十三歳六月、「トウ・シューズ」を「小説新潮」に、九月、「女房と畳 [ を「サ 昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) この頃、中野区江古田四の一五五四番地に移転。四月、「母」を「婦人ンデー毎日」に、十月、「怪美人」を「小説新潮」に発表。 五十歳 文庫」に、六月、「人生実験」を「世界」に、七月、「キョ子像」を「文昭和三十年 ( 一九五五 ) 一月、「砂漠の花ーを「主婦之友」に連載 ( 三十一一年七月完結 ) 。廃娼 芸」に発表。八月、「諏訪にて」を「作品」に、十月、「白髪」を「小 説新潮」に、「地底の歌」を「朝日新聞」に連載 ( 十一一月三十一日完結 ) 。連動に尽力する。八月十八日、小堀甚一一と離婚。 五十一歳 昭和三十一年 ( 一九五六 ) 四十四歳 譜昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 一月、「女の生き方」を「群像」に発表。四月、「情熱紀行」を「婦人一月、「うつむく女」を「週刊読売」に連載 ( 六月完結 ) 。五月、「苦痛 年画報」に連載 ( 翌年二月完結 ) 。九月、「貞女」を「週刊朝日」に、発という快楽ーを「小説新潮」に、六月、「黒の時代」を「中央公論」 表。十二月、「三十代」を「女性改造」に、「日本共産党批判」を「新 ( 六、七月号 ) に、七月、「娘の母」を「週刊新潮ーに発表。 五十ニ歳 潮」に発表。「春のめざめ」を「婦人公論」に連載 ( 翌年五月完結 ) 。昭和三十ニ年 ( 一九五七 ) 四十五歳三月、「妻は歌う」を「毎日新聞」に連載 ( 十月完結 ) 。 昭和ニ十五年 ( 一九五〇 )

3. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

448 昭和三十三年 ( 一九五八 ) 五十三歳「読売新聞」に連載 ( 六月完結 ) 。九月、右側乳癌の手術、十一月末ま 「愛と悲しみの時」を「婦人生活」に連載 ( 翌年十一一月完結 ) 。四月、で病院生活。「愛と幻」を「日本経済新聞」に連載 ( 翌年八月完結 ) 。 アジア財団の招待により円地文子とアメリカ各地を回り、六月、ヨ昭和四十一年 ( 一九六六 ) 六十一歳 ーロッパに渡って各国をめぐり、七月帰国。 一月、「オー ト ) ハイに乗る娘」を「家の光」に連載 ( 十一一月完結 ) 。一一 がん 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 五十四歳月、「放恣と驕慢の個性・松井須磨子」を「潮ーに、左側乳癌のため 一月、「実感的作家論ーを「群像」に連載 ( 十月完結 ) 。「情熱の市」を「婦再入院、切除。八月、「戦後女性の失ったもの」を「婦人公論」に発 人供楽部」に連載 ( 翌年五月完結 ) 。十月、「犬をつれた女」を「小説新表。九月、「行く雲」を「小説新潮」に発表。十一月、「真昼の妖術」 潮」に発表。「豊満聖女」を「週刊サンケイ」に連載 ( 翌年七月完結 ) 。を「週刊サンケイ」に連載 ( 翌年八月完結 ) 。 昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 五十五歳 昭和四十ニ年 ( 一九六七 ) 六十二歳 十一月、「小説三島由紀夫」を「婦人公論」に発表。 十月、「秘密」を「新潮」に発表。 昭和三十六年 ( 一九六一 ) 五十六歳 昭和四十三年 ( 一九六八 ) 六十三歳 一一月、「痩せた女」を「小説新潮」に発表。七月、「不毛」を「群像ーに連載四月、「秘密」によって女流文学賞受賞。五月、エッセイ集『作家のと ( 翌年四月完結 ) 。九月、「黒い夫」を「小説新潮」に発表。東西ベルじ糸』を芳賀書店より刊行。 リンの壁を見に、ハン・フルグ、 : ホン等を旅行して一か月後に帰国。 昭和四十四年 ( 一九六九 ) 六十四歳 昭和三十七年 ( 一九六一 l) 五十七歳四月、「林芙美子」を「新潮」に発表。七月、「鉄の嘆き」を「海」に 四月、「ローザの愛情」を「小説新潮。に発表。六月、韓国ペンクラ連載 ( 十月完結 ) 。 プの招待でソウルを訪問、講演をする。 昭和四十五年 ( 一九七〇 ) 六十五歳 昭和三十八年 ( 一九六一一 l) 五十八歳六月、韓国の国際ペン大会に代表として出席。『鉄の嘆き』を中央公 一月、「落花」を「自由」に連載 ( 三月完結 ) 。三月、フィリ。ヒンのマ論社より刊行。九月、「エロシェンコ」を「別冊文藝春秋」に発表。 六十六歳 ニラで開催のアジア作家会議に出席。七月、「現代の貞女ーを「産経昭和四十六年 ( 一九七一 ) 新聞」に連載 ( 翌年八月完結 ) 。 三月、「日本虚無党顯末」を「別冊文藝春秋」に発表し九月、「宮本百 昭和三十九年 ( 一九六四 ) 五十九歳合子」を「別冊文藝春秋」に発表 ( 翌年三月、完結。最後の部分死 一月、「愛と死」を「婦人生活」に連載 ( 十一一月完結 ) 。第七期国語審後、遺稿として発表された ) 。 六十七歳 議会委員に就任。六月、円地文子とともにオスローで開催のペン大昭和四十七年 ( 一九七一 l) 会に正式代表として出席後、ヨーロッパ各国を回って七月末帰国。二月十七日、信濃町の慶応大学病院で、心不全のため死去。十九日、 昭和四十年 ( 一九六五 ) 六十歳女流文学者会による告別式が自宅で行なわれた。六月、『宮本百合子』 一月、「貴族」を「小説新潮」に発表。五月、「人物再発見・下田歌子」をが文藝春秋より刊行された。 がん

4. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

三月、義父・母、岡山より上京、伊豆、大島へ旅行。五月、『清貧のを「婦人公論」に連載。『林芙美子選集』全七巻 ( 十一一月完結 ) を改造 書』を改造社より刊行。八月、第二詩集『面影』を文学クオータリ社より刊行。十二月、南京陥落の際、毎日新聞特派員として南京に ー社より刊行。九月、共産党への資金寄付の嫌疑で中野署に九日間派遣され、激戦地光華門を訪れる。 留置される。十月、中央公論社のシェークス・ヒア全集刊行記念講演昭和十三年 ( 一九三八 ) 三十五歳 会で関西に行く。十一月、「朝顔」を「文学界」に発表。同月三日、 一月、中支従軍より帰国。五月、『泣虫小僧か映画化される。九月、 義父沢井喜三郎が急性肺炎で死去。母を引き取る。 支那事変従軍ペン部隊の一員として漢ロ攻略戦に派遣され、上海へ 昭和九年 ( 一九三四 ) 三十一歳行く。十月、同部隊と別れ、朝日新聞社のトラックで、報道記者と うぐいす 一月、「鶯」を「改造」に発表。二月、「すがた」を「行動」 ( 三月まで ) して漢口に一番乗りをした。帰国後、福岡、熊本、大阪ほかで従軍 はとう に発表。四月、「塵溜」を「文芸」に発表。「文芸首都」の文芸講演会報国講演をする。十二月、「波濤」を「朝日新聞」に連載 ( 翌年五月十 に出席。五月、京阪から尾道へ旅行。同月下旬から七月上旬まで、 八日完結 ) 。 三十六歳 北海道、樺太旅行。十一月、「泣虫小僧」を「朝日新聞」タ刊に連載昭和十四年 ( 一九三九 ) ( 四十回 ) 。「山中歌合」を「改造」に発表。 一月、自宅近くのグリン・ハウスに仕事場を持った。十月、決定版 昭和十年 ( 一九三五 ) 三十一一歳「放浪記』を新潮社より刊行。 三十七歳 一月、「野麦の唄」を「婦人公論」に連載 ( 六月完結、三月刊行 ) 。一一昭和十五年 ( 一九四〇 ) 月、『泣虫小僧』を改造社より刊行。三月、「朝夕」を「文藝春秋」に一月、「十年間」を「婦人公論」に連載 ( 十一一月完結 ) 。北満に旅行。 発表。五月、『放浪記』が映画化される。九月、『牡蠣』を改造社より刊八月、「歴世」を「文藝春秋」に発表。十一月、「魚介」を「改造」に 行。十一月、『牡蠣』出版記念会を丸の内のレインポーグリルで開催。発表 ( 十一一月、同社刊行 ) 。小林秀雄らと朝鮮へ講演旅行。 昭和十一年 ( 一九三六 ) 三十三歳 昭和十六年 ( 一九四一 ) 三十八歳 一月、「稲妻」を「文芸」 ( 一月 ~ 七月、九月 ) に連載。「女の日記」を三月、「雨」を「新女苑」に連載 ( 翌年三月完結 ) 。五月、「遍舟紀行」 「婦人公論ーに発表。四月、「枯葉」を「中央公論」に発表。五月、執筆のため四国一周。七月、「川歌」を「都新聞」に連載。八月、淀 「女より男の人が好きです」を「文学界 [ に発表。六月、ジャン・橋区下落合四丁目一一〇九六番地に新築移転。九月、大仏次郎、佐多 譜 コクトーが世界一周早回り旅行での来日時に、文芸家協会の花東を稲子らと朝日新聞社から満州国境各地戦地慰問旅行に派遣される。 三十九歳 贈呈。十月、満州で写生旅行をしている緑敏のもとへ行き、山海関、昭和十七年 ( 一九四一 D 年北京などに遊ぶ。帰国後、山形、北海道方面へ講演旅行。 七月、川端康成らと京都へ祭見物に行く。八月、文芸銃後運動に動 昭和十一一年 ( 一九三七 ) 三十四歳員され、北海道へ講演旅行。十月、報道班員として南方に派遣され、 一月、「稲妻」続稿を「文学界」に発表。二月、「行雁」を「中央公論」仏印、ジャワ、シンガポール、ポルネオなどに約八か月滞在。 四十歳 に発表。三月、「頃日感想」を「文芸懇話会」に発表。六月、「南風」 昭和十八年 ( 一九四三 ) カラフト

5. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

444 五月、南方従軍より帰国。六月、湯ヶ島に、七月、京都に、九月、以後は「文学界」に連載 ( 一一十六年四月完結 ) 。十二月、「鴉」を「文 上州に行く。十二月、生後間もない泰を養子にする。 学界」に発表。この年、「晩菊」により第三回女流文学者賞受賞。 昭和十九年 ( 一九四四 ) 四十一歳 昭和ニ十五年 ( 一九五〇 ) 四十七歳 四月、長野県上林温泉塵表閣へ疎開。八月、帰京後、月末に同県下一月、「夜猿」を「改造」に発表。「冬の林檎」を「小説新潮」に連 高井郡穂波村角間温泉へ疎開。「吹雪」を書き、「狐物語」などの童話載 ( 十一一月完結 ) 。一一月、「軍歌」を「新潮」に、三月、「残照」を「文 を書いて村の子供たちに聞かす。 藝春秋」に、「めかくし風景」を「人間」に発表。四月、「浮雲」取 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 四十一一歳材で屋久島に行き、東桜島、長崎で遊ぶ。六月、「絵本猿飛佐助」を 八月十九日、一旦上京し、十月、疎開先より下落合の自宅に帰る。 「中外新聞」に連載 ( 十一月二十七日完結 ) 。十月、「折れ芦」を「新 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 四十三歳潮」に、「金糸雀」を「別冊文藝春秋」藝発表。十二月、「自動車の 一月、「吹雪」を「人間」創刊号に発表。一一月、「雨」を「新潮」に発客」を「別冊文藝春秋」に、「冬の海」を「改造」に発表。この時期 表。五月、「放牧」を「別冊文藝眷秋」に発表。六月、「ポルネオ・ダから過労による持病の心臓弁膜症が悪化、以後毎月一週間ほど、熱 イヤ」を「改造」に発表。十月、相良へ、十一月、本庄へ講演に行海・桃山荘に滞在、静養、執筆するようになる。 く。十二月、「あいびき」を「別冊文藝春秋」に発表。 昭和ニ十六年 ( 一九五一 ) 四十八歳 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 四十四歳一月、「めし」執筆取材で千葉県白浜へ旅行。「漣波ーある女の手記 一月、「河沙魚」を「人間」に発表。四月、「放浪記」第三部を「日本ー」を「中央公論」に、「浮洲」を「文藝春秋」に、「女家族」を「婦 小説」に連載 ( 翌年十月完結 ) 。八月、「うづ潮」を「毎日新聞」に連人公論」に発表。「真珠母」を「主婦の友」に連載 ( 八月完結 ) 。一一月、 載 ( 十一月二十四日完結 ) 。 大阪へ行く。「童話」を「新潮」に、三月、「大阪城」を「別冊文藝春 昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 四十五歳秋」に発表。四月、「浮雲」を完成、「めし」を「朝日新聞」に連載。 一月、「夜の蝙蝠傘」を「新潮」に、一一月、「荒野の虹」を「改造文芸」五月、「御室の桜樹」を「別冊文藝春秋」に、六月、「菊尾花ー新方丈 に、四月、「肓目の詩」を「サンデー毎日」に、「あじさい」を「別冊記」 ( 前章 ) を「中央公論文芸特集」に発表。「雷鳥」を「別冊文藝春 文藝春秋」に発表。九月、「野火の果て」を「人間」に、「退屈な霜」秋」七月号に執筆。六月二十八日、「いわしや」に試食に行き、夜九 を「新潮」に、十一月、「晩菊」を「別冊文藝春秋」に発表。 時半頃帰宅、十一時に就寝後苦しみを訴え、翌二十九日午前一時、 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 四十六歳心臓まひで死去。七月一日、川端康成葬儀委員長による告別式が自 一月、「茶色の眼」を「婦人朝日」に連載 ( 翌年九月完結 ) 。「横花」宅で行なわれ、八月、中野区万昌院功運寺に納骨された。戒名、純 を「中部日本新聞」に連載 ( 六月完結 ) 。一一月、「水仙」を「小説新徳院芙蓉清美大姉。 ( 本年譜は編集部が作成し、林緑敏氏の校閲を得ました ) 潮」に発表。八月、「クロイツェル・ソナタ」を「婦人公論」に連載 ( 十一月完結 ) 。十一月、「浮雲」を「風雪」に連載 ( 翌年八月まで ) 、

6. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

平林さんをめぐって、男同士の鞘あてが険悪になり、 はては夜中の乱闘となって、あっけなく解散になる。し 6 かし平林さんは、そんな中で彼女の何番目の男か知ら ないが、若いアナーキスト ( 飯田徳太郎か、『砂漠の花』 の石田 ) と結ばれ、彼女らしい深情けと献身とで、こ りすまに男のためにカフェーづとめをしたり、遠路は るばると男の母親を訪ねて行ったりした上に、最後は 危うく淫売宿に売りとばされそうになる。その意味で はやはり銚子は、平林さんにとっては忘れられない土 地か知れない しようゆ それにまた平林さんの初期の傑作の一つに「醤油工 坦」というのがあるかこれはおそらく彼女が釤子で しばらくでも暮らした経験がなくては発想されなかっ た作と思われるので、さては銚子行きとなったわけだ。 この作は、平林さんに言わせると、ユーモア小説のつ もりで聿日いたということだか、どうしてユーモアどこ ろでない、人をギョッとさせる恐ろしい乍ご。 なぐ 「 / ハよ 平林さんの作品といえば、「施療室」「殴る」 生きる」「こういう女」の、私小説イ品か何といっても強 い感銘を与えるが、この「醤油工場」や「敷設列車」 はあく の客観小説の鋭角的な題材把握や、男性的な凝縮され た文章の魅力も、もっと注意されていいものだ。 出かけたのは一月半ばの、晴れてはいたが、風のか

7. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

二十六歳 曲「投げすてよ ! 」を「解放」に発表。五月、「喪章を売る」 ( 後に「嘲る」昭和六年 ( 一九三一 ) と改題 ) が「大阪朝日新聞」懸賞短編小説に、川上喜久子、石川達三等八月、 9 ロレタリヤの星」を「改造」に発表。 とともに当選。六月、プロレタリヤ芸術連盟が分裂し、青野季吉、 昭和七年 ( 一九三一 l) 一一十七歳 葉山樹、林房雄等と「労農芸術家連盟」を結成。八月、「女性の同一月、「フロレタリヤの女」を「改造」に、「彼女たち」を「新潮」に発 志よ」を「文芸戦線」に発表。九月、「施療室にて」「最も新しい恋」表。五月、「転落」を「中央公論」に発表。 一一十八歳 を「文芸戦線」に発表。「施療室にて」が川端康成等に認められ、大昭和八年 ( 一九三 = l) 仏次郎とともに文芸家協会の渡辺賞受賞。十一月、「堪えがたい幽霊」一一月、「救農工事」を「改造」に、五月、「没落の系図」を「新潮」に を「朝日新聞」に掲載。労農芸術家連盟が再分裂し、山田清三郎、発表。 昭和九年 ( 一九三四 ) 一一十九歳 林房雄等の「前衛芸術連盟」が結成され、葉山、青野等と残留。 昭和三年 ( 一九一一八 ) 一一十三歳夫甚一一が脱疽の傾向にあり、出費を補うため中野打越に下宿屋を開 三月、「感謝週間」を「週刊朝日」に、「婦人運動の現状」を「都新聞」くが、失敗。 三十歳 に発表。五月、「社会主義の方へ」を「文芸戦線」に、六月、初めて昭和十年 ( 一九三五 ) の依頼を受け、「荷車」を「新潮」に、七月、「生活」を「女人芸術」一月、「桜」を「新潮」に発表。十一月、「女の問題」を「改造」に発 ー・くいね に、九月、「プ戸レタリャリアリズムに関連して」を「女人芸術」に表。夫婦別居を断行、中野駅前東ロ・生稲 ( 宿屋 ) に移る。 三十一歳 発表。十月、「殴る」を「改造」に、十二月、フロレタリア文学運動の一昭和十一年 ( 一九三六 ) 年間」を「女人芸術」に発表。 一月、「女の街道」を「新潮」に、七月、「青い畳」を「新潮」に発表。 昭和十一一年 ( 一九三七 ) 三十二歳 昭和四年 ( 一九二九 ) 一一十四歳 一月、「非幹部派の日記」を「新潮」に、コ二四の女流作家について」世相とともに文学も次第に準戦時的となり、政治的傾向の小説は歓 あざ を「改造」に、五月、「痣のある紙幣」を「読売新聞」に、「労働」を迎されなくなり、円地文子、神近市子、美川きよ、河崎なっととも 「文芸戦線」に発表。六月、「女給」を「週刊朝日」に、七月、「森のに読売新聞社の好意で、東北、北海道への講演旅行。十一一月、人民 中」を「新潮」に、九月、「醤油工場」を「週刊朝日」に、「病院の戦線事件の名のもとに検挙され、翌年八月半ばまで留置生活。 三十三歳 幽霊」を「若草」に発表。十月、「ルーフガーデンの上の月」を「現昭和十三年 ( 一九三八 ) 代」に、「朝鮮人」を「文学時代」に、十一一月、「敷設列車」を「改造」肋膜炎と腹膜炎を併発、生死の境を彷徨し、一一十年まで闘病生活。 に発表。 三十八歳 昭和十八年 ( 一九四三 ) 昭和五年 ( 一九三 0 ) 一一十五歳健康は回復したが、文学に復帰する意志はなく、文学者の活動を傍 一月、「サイレン」を「文芸戦線」に発表後、同誌を脱退。六月、「信州観する間、戦争中の身辺記録、戦争日記をつけるとともに、「源氏物 の女学生」 ( 後に「女学生」と改題 ) を「サンデー日」に発表。 語」「大鏡」、徳富蘇蜂の「近世日本国民央」等を乱読。

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442 大正十四年 ( 一九二五 ) 一一十二歳院から刊行。七月、『蒼馬を見たり』の出版記念会が浅草駒形橋・「前 詩人野村吉哉と結婚し、渋谷・道玄坂に住み、次いで世田谷・太子川」で開催。同月、早大生主催の九州講演旅行に八木秋子と同行。 堂の一一軒長屋に移る。隣には壺井繁治・栄夫妻、近くには飯Ⅲ徳太「放浪記」の好評もあって、この頃から、雑誌社から原稿依頼を受 郎と平林たい子、黒島伝治らが居た。後、玉川瀬田に移った。 けるようになる。十月、「九州戻坑街放浪記」を「改造」十月号に発表。 二十三歳 大正十五年・昭和元年 ( 一九二六 ) 昭和五年 ( 一九三〇 ) 二十七歳 野村吉哉と離婚後、本郷三丁目の酒屋の一一階に間借していた平林た一月、望月百合子、北村かね子、生田花代、堀井かど江と台湾旅行。 い子と同居し、ともにカフェ 1 の女給をする。たい子と小堀甚二と五月、淀橋区 ( 現、新宿区 ) 上落合三輪八五〇番地の二階建ての借家 の結婚のため、尾道に帰り、「風琴と魚の町」を執筆。本郷蓬来町のに転居。七月、『放浪記』が改造社の新鋭文学叢書の一冊として刊行 大和館にたい子の前夫飯田徳太郎が居り、また長野県下高井郡出身され、ベスト・ セラーとなる。八月、その多額の印税で、念願の満 の洋画勉強中の手塚緑敏も居た。十二月、芙美子は手塚緑敏と結婚 ( 月、中国への単独旅行に出発。ハルビン、長春、奉天、大連、上海、 昭和ニ年 ( 一九二七 ) 一一十四歳南京、杭州、蘇州などを回り、九月下旬帰国。朝日新聞社から同紙 一月、杉並区高円寺の西武電車車庫裏の借家に間借りする。五月、近への執筆依頼を受ける。十一月、『続放浪記』を改造社より刊行。 所の和田堀の内の妙法寺境内の浅加園に借家。七月、因島の岡野軍昭和六年 ( 一九三一 ) 二十八歳 一に会う。四国・高松へ渡り、父母に会い、約三週間滞在。 一月、「浅春譜」を「朝日新聞」タ刊に連載 ( 二月一一十五日完結 ) 。一一 昭和三年 ( 一九二八 ) 一一十五歳月、母と養父を連れて京都、奈良、伊勢に旅行。四月、「風琴と魚の 八月、同人詩誌コ一人」で芙美子を認めていた三上於勢吉の推薦で町」を「改造」に発表。同月、「啄木祭」出席のため盛岡に行く。六 しぐれ 彼の妻、長谷川時雨が主宰する同人雑誌「女人芸術」第二号に詩「黍月、浅草・カジノ・フォーリー で『放浪記』が上演される。十月、「清 畑」 ( 「蒼馬を見たり」の序詩 ) を発表。あちこちの出版社に売り込ん貧の書」を「改造」に発表、宇野浩一一に激賞される。十一月、シベ でも、受けつけられなかった原稿 ( 「放浪記」 ) を取り返してきて、同リヤ経由で・ハリに行く。モンパルナスに下宿し、オペラ、音楽会、 誌十月号に「秋が来たんだ」という題で、「放浪記」の最初の部分を美術館などに通う。「改造」「中央公論」などに紀行文ほかを寄稿。 発表 ( 以後、翌々年十月号の「女のア・ハッシュ」まで連載 ) 。十一月、 昭和七年 ( 一九三一 l) 一一十九歳 緑敏の祖母、信州若宮で死去し芙美子は葬儀に参列。この年は野 一月、ロンドンに約一か月滞在。・ハリに戻って困窮と疲労のため夜 図書館に通い、文学書を乱読し 」目症にかかる。五月、改造社の山本実彦社長から旅費を借り、日本 昭和四年 ( 一九二九 ) 二十六歳郵船の榛名丸で帰国途上、上海で魯迅と会見後、帰国。七月、「屋根 「耳」を「女人芸術」自伝的恋愛小説特集号に発表。以前より生田裏の様子」を「改造」に発表。八月、淀橋区下落合四丁目一一一三三番 長江や、「朝日新聞」「読売新聞」などに持ち込んでも断れられていた地の洋館の貸家に転居。九月、「小区」を「中央公論」に発表。 処女詩集『蒼馬を見たり』が、友人松下文子の援助により、南宋書昭和八年 ( 一九三 = I) ろじん 三十歳

9. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

110 誰もいない夜明けのデッキの上に、ささけた私の空想はる雪をじっと見ていると、何もかも一切忘れてしまう。 そむ やつばり古里へ背いて都へ走っている。旅の古里ゆえ、別「お母さん ! 今年は随分雪が早いね。」 わび にしぎ 「ああ。」 に錦を飾って帰る必要もないのだけれども、なぜか侘しい 気持ちがいつばいだった。穴倉のように暗い三等船室に帰「お父さんも寒いから難儀しているでしようね。」 0 て、自分の毛布の上に 0 ていると丹塗りのはげた膳のか北海道〈行 0 てから、もう四ヶ月あまりになる。遠 みそしる くに走りすぎて商売も思うようになく、四国へ帰るのは来 上にはヒジキの煮たのや味噌汁があじきなく並んでいた。 薄暗い燈火の下には大勢の旅役者やおへんろさんや、子供春だと言う父のたよりが来て、こちらも随分寒くなった。 しゅうしゅう - 、なみ を連れた漁師の上さんの中に混って、私も何だか愁々とし屋並の低い徳島の町も、寒くなるにつれて、うどん屋のだ いちょうがえ しを取る匂いが濃くなって、町を流れる川の水がうっすら て旅心を感じている。私が銀杏返しに結っているので、 「どこからおいでました ? 」と尋ねるお婆さんもあれば「どと湯気を吐くようになった。泊る客もだんだん少くなる あんどんひ こまで行きやはりますウ ? 」と問う若い男もあった。二ッと、母は店の行燈へ灯を入れるのを渋ったりしている。 位の赤ん坊に添い寝をしていた若い母親が、小さい声で旅「寒うなると人が動かんけんのう : : : 」 こもり ) た の古里でかって聞いた事のある子守唄をうたっていた。 しつかりした故郷と言うものをもたない私達親子三人 ねんねころ市 が、最近に落ちついたのがこの徳島だった。女の美しい おやすみなんしょ 川の綺麗なこの町隅に、古・ほけた旅人宿を始め出して、私 朝もとうからおきなされ は徳島での始めての春秋を迎えたけれど、だけどそれも小 よひの濱風ア身にしみますで さかった時の私である。今はもうこの旅人宿も荒れほうだ 夜サは早よからおやすみよ。 いに荒れて、いまは母一人の内職仕事になってしまった。 あの 0 た都会の片隅で疲れているよりも、こんなにさ父を捨て、母を捨て、東京に疲れて帰 0 てきた私にも、昔 つばりした海の上で、自由にのびのびと息を吸える事は、 のたどたどしい恋文や、ひさし髪の大きかった写真を古・ほ たんす ああやつばり生きている事もいいものだと思う。 けた簟笥の底にひっくり返してみると懐しい昔の夢が段々 よみがえ 蘇って来る。長崎の黄いろいちゃん・ほんうどんや、尾道 せんこうじ の千光寺の桜や、ニュ川で覚えた城ヶ島の唄ゃああみんな ( 十一一月 x 日 ) ころ なっかしい。絵をならい始めていた頃の、まずいデッサン 真黄いろに餌けた障子を開けて、消えかけては降 0 てい にお すみ なんき なっか おのみち

10. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

438 平林たい子集注解 しんばんこしのしらなみ 助作「新版越白浪』の女主人公。ふたりとも毒婦で有名。 一盛おさんもと新橋の芸者。歌舞伎俳優市村家橘 ( のちの羽 左衛門 ) の妻となったこともある庭攵で、明治三十八年・内閣 めかけ 総理大臣桂太郎の妾となった とひ 一一空 ( 出歯亀明治四十一年、東京東大久保の植木兼鳶職出っ歯の のぞ 池田亀太郎が飲酒して女湯を板の節穴から覗き、着衣する女 砂漠の花 を見て帰りを待ちうけ、近くの空地で暴行致死させた事件があ ったことから、変態性欲者の男を軽蔑する意味にも使われる。 ニ三三勧工場明治・大正時代、多くの商店が連合して組合を作り、 一つの建物の中に極々の商品を陳列し正札をつけて即売したマ 一三・一五事件昭和三年三月十五日、日本共産党に対して行 ーケットの一種。 なわれた第一一次全国一斉検挙件。昭和時代の田 5 想弾圧の最初 のもの。 一海老茶式部当時の女学生、女子大生などが海老茶色 ( 黒み をおびた赤茶色 ) の袴を着用したので彼女らの呼称に使われた。 二発神近市子さんとの事件大正五年一月、大杉栄が伊藤野枝に 愛をうっしたため、もとの愛人神近市子が嫉妬の末、葉山の日 一昊大胆な恋愛小説たい子は女学校三年生の時、尼が還俗する という短編を「文章倶楽部」に投稿、三等に入選したが、本名 陰の茶屋で大杉の喉を短刀で刺したという情痴陽害事件、いわ ゆる「日陰茶屋事件」のこと。 で投書したためすぐに学校に知られ、受持の国語教師西川あぎ 一禿戒厳令戦時や事変に際し、国または地方の治安維持のため ら ( のち南原整東大総長の夫人 ) に投書の弊害 ( 早熟早老 ) につ に、軍司令官にその行政権、裁判権をゆだねる政令。 いて忠告された。 一祠一一一六新報明治一一十六年十月、秋山定輔が発行した新聞。明一穴六虎ノ門で皇太子様を狙撃大正十一一年十一一月七日、山口県人 せっしよう 難波大助が、第四八帝国議会開会式に行啓の途中、摂政宮殿下 治二十八年十二月一時休同、三十三年六月再刊した。 ダス・メッチェン das Mädchen ( 独 ) 。娘 ( 少女。 ( 今上天皇 ) の車を虎の門で狙撃した事件。いわゆる「虎の門 一面一一マルクの暴落時代 Mark はドイツの貨幣単位。第一次大戦 事件」。 後、ドイツは敗戦によりインフレが激し ~ 、 . なり、貨幣曲 ~ 旦よ」 ィー丿元一一柳瀬正夢漫画家、詩人 ( 1900 ~ 1945 ) 。「種蒔く人」のメン 常な勢いで暴落した。 ・、。「マヴォ」「文芸戦線」等を経て、。フロレタリア美術連動 に参加、痛烈な諷刺漫画、政治漫画を進歩的な新聞雑誌に掲載 一西一一晩民会社会主義思想団体の一つ。高津正道が早稲田大学在 学中におこした学生社会連動の団体。 だっき 一認妲己のお百か鬼神のお松妲己のお百は、歌舞伎では河竹黙 8 九「会いたさ、見たさにこわさを忘れ : : : 」千野かほる作詞、 んあくりようめんこのてがしわ 鳥取春陽作曲の「籠の鳥」の一節。大正末に大流行し、大正十 阿弥作『善悪両面児手柏』の女主人公。鬼神のお松は、桜田治