東一示都雑司ヶ谷 晩春五月のことだった。散歩に行 った雑司ヶ谷の墓地で、何度もお 腹をぶつつけては泣いた私の姿・を 思い出すなり ( ( 「放浪記」 ) ぞうし 野村とは二年程して別れた私は新宿のカフェーに住み込んだりして暮 らしていました。カフェーで働くことも厭になると、私はその頃、ひ とりぐらしになっていたたい子さんの二階がりへ転り住んで、暫くた ( 「文学的自叙伝」 ) い子さんと二人で酒屋の二階で暮らしました。 ー「つるや」の跡 ( 現在、 芙美子が一時、女給をしていた新宿のカフェ 石沢メガネ店Ⅱ新宿区新宿一ー三 ) 縟センタ z 日研究室一 ' 。上ん
からない負目を負っていた。そのつぐないの祈りもこめ「いし 、え、そんな感じじゃありません。きっと腸がいたい て、身を粉にくだき、子供のために生きようと私は誓っんですわ。」 こんな問答をかわしている間に、彼女はよろいのような さいわい人にぎくところによれば、旅順に行くと、乳飲のギブスを体につけ、その上にきものを着て、一一階の有 子の託児所があるということである。植民地の刑法は、二料病室に知らせに行ってくれた。 審制度の上、内地より重いから、おそらく伊東は実刑を課三十五六の産婆がすぐおりて来て、大きい腹を診た。 されて、旅順送りとなるにちがいない。その地で、子供を「お産の徴候です。すぐ、赤ちゃんのものをもって二階に 育てながら伊東を待っことに、私の心づもりはきまった。 来てください。べッドを用意しておきます。」 だんだん出産予定の期日が切迫するにつれて、母となる そうか。お産の腹痛とは、こんな平凡なものだったの 新生活の夢が、その日その日の気分を、柔らかく暖かく包か。それならば、腸をわるくしたときの痛みと寸分変わら なまみ んで、さまざまにいろどった。私の生身は、施療病院のみない。私は緊張した面持で、わなわなしながら、べッドの じめな鉄・ヘッドにいたけれども、心は、ここより以上落ち下にある行李を引っかきまわして、一応用意したものをふ あんど られないという地底に落ちた安堵で、かえって落ちついてろしきに包んだ。 いた。が、はじめて母となる誇らしいこの気持を、誰に語 ろうすべもない。 ある晩、十一時ごろ、ふと、下腹部の疼痛のため、錆び「あなたのものは、寝巻二枚と、お腰巻を三枚もって来て たペッドの上で目をさました。 ください。」 寝られないで目をばちばちさせている脊椎カリエスの隣と産婆は言っていたが、腰巻は、二枚しか持合わせがなか 花人に、私は話しかけた。 った。二階の室には、もう一人陣痛のはじまった産婦が、 ぶとん の 「私、なんだかおなかがいたいんですの。食あたりかし母親や付添婦に付添われて、ふつくらした赤ちゃん布団の 包と一しょに、入院して来たところだった。 「わっ、それはお産ですよ。きっとそうですよ。宿直の産「付添いはあるんですか。」 婆さんが二階にいるはずだから、知らせて来てあげましょ 産婆は、私の事情を知らないとみえて、ペッドをつくり ながらたずねる。 こ 0 」ろ・つ・ せきつい
た。日記をつける。 傘さして くるわ かざすや廓の花吹雪 まらま強 - 一、拾参円の内より この巻は過ぎしころ 茶・フ台壱円。 紫にほふ江戸の春 箱火鉢壱円。 シクラメン一鉢参拾五銭。 目と鼻の路地向うの二階屋から、沈んだ三味線のが 飯茶わん弐拾銭。 きこえている。細目にあけた雨戸の蔭には、お隣の灯の明 吸物わん 参拾銭。 るい章子のこまかいサンが見える。 うわぶとん ワサビヅケ 五銭。 「お風呂は明日にして寝ましよう、と蒲団は借りたのかし 沢 庵拾壱銭。 ら ? 」 五銭。 時ちゃんは・ヒシャリと障子を締めた。ーーー敷蒲団はたい 茶呑道具盆つき壱円拾銭。 さんと私と一緒の時代のがたいさんが小堀さんのところへ ふたもの なペほうちょう 桃太郎の蓋物拾五銭 お嫁に行ったので残っていた。あの人は鍋も庖丁も敷蒲団 弐拾銭。 皿 も置いて行ってしまった。一番なっかしく、一番厭な思い 代日割り 出の残った本郷の酒屋の二階を私は思い出していた。同居 火 箸拾銭。 の軍人上りや二階でおしめを洗ったその細君や、人のいし あみ 網拾弐銭。 酒屋の夫婦や。用が片づいたら、あの頃の日記でも出して じゃくし 読みましよう。 ニュームのつゆ杓子拾銭。 御飯杓子参銭。 記「どうしたかしら、たい子さん ? 」 鼻紙一束弐拾銭。 浪「あのひとも、今度こそは幸福になったでしよう。小堀さ 腿色美顔水弐拾八銭。 放ん、とても、ガンジョウないい人だそうだから、誰が来て 御神酒弐拾五銭。 も負けないわ : ・・ : 」 引越し蕎麦参拾銭。 「いっか遊びに連れて行ってね。」 二人は、階下の小母さんから借りた上蒲団をかぶって寝一、壱円拾六銭残金 かさ した 二枚。 ( 三畳九円 ) 五人前。 一合。 階下へ。 二個。 二個。
名生さんとは別居した。秋月さんは、中名生さんのところ 五 に子供をおいたまま労働組合の某氏と一しょになって、事 私たちは、伊東の生家のあった萩に寄って、しかめ面を実上、中名生さんを捨てた。中名生さんは、子供を連れて していたにちがいない親類に泊って、あげくに、いくらか親類と一しょに暮らさざるをえなかったので、その二階は 金をせびったりして東京に帰った。 アナーキストの独身者の宿になっていた。 東京に着いたけれども、行くところはない。私は、上野伊東は、秋月さんから、その室を貸してもよいという許 の、国の親類の家においてもらい、伊東は、友人のところしをえて、私のところに迎えに来たのだった。 を、転々と泊り歩いて、ときどき会うよりほか仕方なかっ 家は、戸塚の静かな住宅街にあったが、表は釘づけされ て畳はどこかに持ち去られていた。二階に上がるには、床 げた そのうちに、彼が、 板の上を下駄で歩いて、階段まで行かなければならない。 「住むところができたよ。すばらしい一戸建てだ。」 こうなるまでには、ここに住んでいる近所の商人などに と迎えに来たので、私は喜んで荷物と一しょに、戸塚の源も、売掛代金をはらわずにずいぶん迷惑をかけているらし まなざ 兵衛にあったその家に連れられて行った。 、私たちが家に出人りナるたびに、さげすむような眼第 へや その室の由来をきいたとき、私は、おもしろくなって、 しが近所隣の窓からそそがれる。 カラカラ笑った 0 気の小さい、はにかみ屋の私は、この異様な家の二階に なかのみようこうりき あきづき ひとけた その家は、中名生功カ氏と奥さんの秋月さんが以前住ん住む決心をしたとぎ、急に腿をすえた。そして、一桁生き でいた家だった。 : 、 力アナーキストの常で家賃を幾年かは方をかえたふてぶてしい女になっていた。また断髪は、銀 くぎ らわなかったため、裁判沙汰になって、仮執行のため釘づ座通りにちらりほらりとしか見えないころだった。が、私 花けされていた。ところが、借家戦術にかけては、アナーキはぶつつりと毛を切って断髪にしてしまった。 くろうと さが カ伊東は、おなじ室に泊った ストは玄人だったから、裁判になる直前、二階の一間だけ仕事は、探せばあった。・、、 他の友人に貸したことにして、その執行に異議をとなえアナーキストと一しょに毎日、あちらの銀行やこちらの会 ゅうよ た。そこで、裁判所が、その一間だけ執行を猶予して、釘社に金をもらいに行った。 づけを解除した。 あるヨーロツ・ハの理論家が、「財産とは、略奪したもの しかし、この家が裁判沙汰になったとき、秋月さんと中である」と言った理論を楯にとって、略奪したものなら、 - 」 0 まぎ げん たて
0 芙美子のいたという一一階は不確かだが、どの家の二 階も煤けたチョコレート色をした暗い庇や手すりがあ 四 いんの 因島へは、昔は船で二時間近くもかかったらしいか、 ーポートで三十分くらいで着いてしまう。 今はフェー 船は三十分毎に出ていて便利だった。乗客と運転手が 顔馴染みらしく、どこかの婚礼の話など交しているの も愉しい両側に現われては飛び去る島から島へ目を 移しているうちに、たちまち因島が見えている。土地の 人は、イントウともインノシマとも・呼んでいるよ、つだ。 昔は村上水軍の根拠地だったというだけ、なかなか 大きな島で、岸壁にはすらりと、工場が居並んでいる その工場に岡野という字が大きく出ていてはっとする。 芙美子は岡野軍一という因島出身の大学生と尾道高女 どうせ、 の時から初恋に落ち、一時は東京で同棲したが、後 男に捨てられている。芙美子の最初の失恋でもあった。 因島の男を訪ねていくところが作品にも出ている。 はくかの金を 芙美子は男に逢えす、男の姉からいく もらってわびしく引きかえす 因島は船着場からすぐ町だった。拾ったタクシーの
336 は、とても彼女の話題をまっとうにうけとめられる正気の 私はびつくりして、頭をさげた。 「こんにちは 人間ではない。 あいさっ ひげそ と少年のように挨拶をして、髭を剃っているところを見る しかし、私は、今晩泊るところにも困っている人間だっ だんな と、旦那さんは俳優のようにすばらしく美しい。こんな旦た。彼女の心の友にはなれなくとも、ここに移ってこいと 那さんがそばにいてなお、寂しいという衆木さんの言葉いう言葉は、私の行きづまっていた心には、蜜みたいにあ ばあ が、痛切にひびいた。色がまっ黒でや・ほったい婆さんの衆まかった。 木さんとこの青年と、どこに共通したものがあるだろう「でも私は不器用だから、とてもミシンでは、お金がとれ か。ときどき人生の偶然は痛ましい組合わせをつくるもの ないだろうと思いますのよ : だと、私はしんみりしてすわっていた。 私は、言葉で表現できない悩みのもえているらんらんと した目つきで彼女を見た。しかし、善意ばかりで生きて来 た順境の彼女には、私の面している泥濘を想像しようもな カフェにて いにちがいない。 「とにかく引越していらっしゃいよ。それからいろいろ考 えましようじゃないの。」 そう言ってくれるのは、まったく、渡りに船だった。私 もろを 衆木女史は、躊躇している私を引きとめて、ぜひこの二はすぐ引きかえして、心もかるくさえずるように移転を李 階に移ってこいという。 さんに告げた。李さんは、事が簡単にはこんだのを喜ぶの 「食事の方だけは、なんとか保証してあげますよ。お小遣と一しょに、友人伊東の妻にこんな心苦しい申出をしたこ いは、ミシン掛けの内職でもすればできますしね。うちのとで、まだ心を責めているようすだった。 まなざ しりめ ミシンは、いつも埃をかぶったまま、ああしてあるんだか彼の家畜のようなやさしい眼差しを尻目に、翌朝、私は きたな ら役に立ててよ。」 汚いふろしき包を二つさげて、さっさとカフェ「鈴蘭」の 私を・せひこの二階に住ませて、話相手にしたい彼女の希二階に引越した。 しれつ いが、なぜそんなに熾烈なのか、まだ私にはのみこめなか階段をあがって行くと、 った。彼女が女権運動のことを話したいなら、いまの私「平林さんね ? あたしまだ寝ているのよ。すぐ起きる ちゅうちょ はこり こづか ねが
あいさっ いたが、私にはもとよりそんなことはどうだってよいのでと私は、挨拶もせずにたずねた。 とうみよう 四ある。子供の命は、油の切れかかった灯明のようにだんだ 「お気の毒でした。昨晩おそく、とうとう : ・ : ・。」 ん細って、ほんのかすかな空気の動揺でも、ふっと消えて 死んだというのか。な・せすぐに、それを私に知らせてく しまいそうになっていた。 れなかったのだろう。が、それを責める気持はすぐにがっ あいかわらず床の上にかがんで、子供の顔をみつめつづくりと崩折れて、深い底知れない悲しみの中に沈んで行っ ゆくえ け、小さい手くびをしつかり握って、私は脈の行方を追った。 ていた。脈が弱くなればなるほど、私の柔らかい腕を握る誰に知らせようという所もないので、小さい子供の棺 力は強くなった。子供が痛いか、しびれるか、そんなことを、自分の・ヘッドのそばに置いたまま、その日一日じゅう けんえっ を考慮する余地はなかった。 私は泣きながら一人で見守った。伊東に知らせても検閲を この世でただ一人の身寄りである私が、この子を助ける通ってゆくので、手紙が手に渡るまでには五六日かかる。 ことができないとしたら、誰がこの子のために手を貸してわずかに、同室の施療患者のうち足腰の立つ人だけが、顔 くれるだろう。 をのそけて、慰めの言葉をかけてくれた。戸籍は、伊東の みやくはくけったい たえず呼吸は麻痺し、脈搏も結滞する。そのたびに壁伝兄に拒絶されたので、私の私生児にすることにして、すぐ いに元の室に急をつげて、元の室の歩ける誰彼が二階へ走手続きをすました。 ってゆく。私は、もう自分が施療患者であることも忘れ 翌日、伊東のいた教会の牧師さんほか、四五人の信者が て、子供のか・ほそい命をとり止めるために、幾度でも医者たずねて来た。引きとるべき家もないし、葬式の場所もな を呼び迎えて強心剤注射をせがんだ。 いので、小さい棺は、広い病院の庭の一カ所におかれた。 きとく 病院では、この事態をみると、出産直後の母と危篤の子それをかこんで、 供の二人だけにしてはおけないと思った。そして、子供だ「主よ、みもとに近づかん」 け二階に抱いて行った。その晩、一晩中、私は寝ずに、二の賛美歌がみんなでうたわれた。私は、脚気で立てない脚 階からの消息を待っていた。すでに覚悟はしていたが、何を、人に抱えられて、そこまで歩んでいったものの、集ま も言って来ないということに一縷ののそみがあった。 ってくれた人々のうしろでただ泣いていた。最後に棺の釘 とわ 翌朝、受持の看護婦が室にはいって来たとき、 をはずして、罪のない永久の寝顔に、皆がお別れをした。 「子供の容体はどうでしよう ? 」 私は、顔を見るおそろしさに、人々のうしろにうろうろ せりよう いちる かつけ かん
年勤続した。しかし職業婦人の先覚者のれは、婚期を逸要するに、食べて寝る所さえあれば人間は生ぎられる。 むく したことで酬われた。彼女は、のちに中途半端な結婚をしそれ以上のことは何も考える必要はない。私は人間らしい 要求は何ももっていなかった。 て、子供一人を自分で引き取って離婚した。 彼女には、お父さんから受けついだ相当な財産があつ「李さん、それなら私心当りがありますから、さっそく今 日これから行って話してきます。」 た。しかし遊んでいてはよくないというので、高円寺にレ ストランを開いていたが、商売はあまり思わしくなかつ「すみませんね。僕がつれてきて、こんなことを言い出し こ 0 「平林さん、あなた、私のような人間が商売しているなん李さんはしぎりにあやまっていたけれども、べつにあや てずいぶん意外でしよう。やはり商売にはわれわれはぜんまられるわけはない。皆、私が悪いのだから。私はさばさ ぜん無知だからだめね。お客さんは来るんだけど、仕入ればとして、衆木さんのレストラン「鈴蘭」の白エプロンの の方でコックにごまかされてしまうの。いくら繁昌してもようなのれんをくぐった。 衆木さんは、おりよく二階にいた。 銭足らずだわ。」 いっか衆木さんが私に言った。 「あらア、平林さん、早く言ってくださればいいのに。 「もし、あなたが来て私の商売を手伝ってくれたら、仕入私、先月かぎりでカフェから手を引いちゃったのよ。コッ れの方もちゃんと採算がとれるようにできるんですけどねクにまかせて毎月家賃だけをとるような関係にしてしまっ たんです。この方がさつばりしていいわ。」 おそ 衆木さんは私を買いかぶっていた。私がいま何を考えて「そうですか。それは遅かったですね。」 いるかも知らずに、私を助手としてレストラン経営の建て「でも、あなたがよかったら、この二階で一しょに暮らし 花なおしをしようというのだ。 ましようか。話相手がなくて私はとても寂しい身の上なの の 「女給なんそ私にはできませんわ。お客さんは、私を見たよ。」 二階に上がって気がついたことは、やもめだと思った衆 砂ら逃げ出すでしよう。一番不向きな人間ですわ。」 その時には、気がなかったからこんな返事をしておい 木さんには新しい旦那さんがいた。新しい旦那さんは、衆 た。が、もしここを出るなら、衆木さんの所に行ってカフ木さんよりは十五歳ほど下に見える高級のサラリーマンだ 工の手伝いでもしよう。 よんば はんじよう だんな
ふとん ましよう。布団は二階の押入れにあります。」 「前借の話はあんたからしてくれい、な。」 「あら、だって市さんが何か言っておいて行ったでしよとおかみさんが言って、その場所をくわしく教えた。そん なこともしていたのかと、ちょっとこの店を見直した気持 あらだ で、石田と連れ立って、教えられた通りに新建ちの料理屋 「何も言ってないようだよ。腕しだいでいい金になるか ろうそく ら、安心してあなたは帰ってもいいですよ、なんて言ってをさがしてたずねて行った。借りてきた蝋燭を手にもっ て、まだ紙を賰ってある階段を下駄のまま上がってゆく いたもの。」 と、二階は荒壁だけれど畳が敷いてあった。四畳半の小室 「へえ。」 が四つほどならんだ奇妙な作りである。 どうも話が通じていないらしいとは、昼間から田 5 ってい やっと二人だけで話す機会ができた私と石田とは、ほこ 「ただ働くなら、意味ないわね。前借なしで働くんなら、 りをかぶった新しい畳に向き合って、ふところ手をしなが も少しましな家で働くわ。この家はまるで飯屋よ。チップらぶるぶるふるえていた。 なんておいて行く人はないわ。」 「へんな家ですね。前借の話がちっともないから、わけが 石田は弱った顔をしていたが、来る汽車賃しか金はもつわからないわ。」 ていないし、どういう知恵も出ないらしい 「だめだ。この家は逃げ出した方がいいかもしれない。」 「へんな話だわねえ。」 「逃げ出さなくても、どうどうと出て行くわ。何か言って いたんですか。」 店に引っ返して、つくねんとしているけれども、客はほ とんどこない。たまに来ても、七輪をばたばたおこしてか 石田の口調には、何か私の知らない事情が暗示されてい ら料理を始めるのである。常識で考えてみて、この店でるように思われる。 は、料理を売ることに、力を入れていないとしか判断でぎ「どうもね。あんたの働くのはほかの土地らしいんだよ。 おかみさんがちょっとそんなことを言っていた。」 晩はいったいどこに寝させてくれるのだろうと気にして「じゃ、この店で働かせるための前借じゃないんですね。」 いると、看板時間になってから、 「伊豆に心当りがあるんだが、なんて言ってたよ。」 、ようなもんだ 「いまね、立派な料理屋をつくりかけているんですよ。ま「どうせ乗りかかった船だからどうでもいし だすっかりできてないけれど、そっちへ行って寝てもらいけれど、伊豆まで出かせぎに行くのではちょっと悲しいわ げた
ですよ。」 んですからね。」 と、多美子夫人が私に言った。氏は、私の家にもきまった多美子夫人には兄弟が幾人かあった。のちに私の娘の新 時間に来て、きまった時間に帰ったので、多分他の友人の子の母となる妹の花子さんのほかに、彫刻家を志している 家に同じような通勤をくりかえしているのだろうと私は解芸術青年の弟もあった。その人たちが、一人ずつ山岸家に たよ いそうろう 釈して、気にもとめなかった。 頼ってきて、気のよい夫人の庇護のなかで、のんきな居候 ところがある日、蔦ヶ谷の家の一人住いにひょっこり多生活をしていた。山岸氏はその兄妹の性格に共通な欠点を 美子夫人がたずねてきた。 見いだして、自分の妻がいやになりはじめたのだと、ある 「しばらくでしたわね。このごろいかが ? 」 とき告白したそうである。当時十七歳になっていた花子さ んは、よく姉さんの多美子夫人に、 しかし、夫人はうかない顔をして、 「わたし子供と妹を連れて国に帰ろうと思うんですの。」 「お姉さんはもっと・ハ。 ( を大事にしてあげなくてはだめ 「あら、じゃあ山岸さんお一人で御不自由ではありませんよ。私が二階のパ・ ( の部屋に上がっていくと、お姉さんか と思って期待するような目付で階段口を見るのに、あがっ 「さあ、どうだか。」 て来たのが私だから、がっかりしてむっとしていることが 彼女の返事は何か奥歯にもののはさまったような調子だよくあるわ。」 っこ 0 かしこい彼女は姉さんに忠告した。しかし、多美子夫人 「たい子さん、言わないつもりだったけど、あなたにだけは夫の愛情については恃むところがあった。というのは、 言ってしまうわ。山岸には女ができて、もう子供が生まれ二人が出あったそもそものころ、山岸氏が多美子夫人を愛 るんですよ。」 したはげしさは、尋常でなかったので、氏の愛に危険があ るばあいなど、考えることもできなかったのである。 「聞いてください。あれから山岸が毎晩出かけたのは高円 寺のカフェで、その女とめぐりあったためだったんです よ。その女と関係ができてから女にカフェをやめさせて、 はじめ多美子夫人が山岸氏と知り合ったのは、彼女が菊 二階借りをさせて、毎日そこへ行っていたんです。私もば池寛家でのんきなお弟子のような居候をしていたときであ かじゃありませんか。一年近くもそれに気がっかなかった った。その後知り合った若い青年文学者のグループが阿佐 か。」 たの