激されて社会主義思想にめざめる。労働総同盟の鈴木文治の講演で、 婦人労働者の悲惨な現実を知る。秋、社会運動に投ずる覚悟で同級 生と、社会主義者堺利彦を訪問するが、すぐ義兄に連れ戻される。 大正十一年 ( 一九二一 I) 十七歳 三月、諏訪高等女学校を卒業。卒業式の夜、父に見送られて上京。同 級生だった親友と中央電話局の市外電話交換手となる。堺利彦を訪 か′、しゅ 明治三十八年 ( 一九 0 五 ) ねる。社会主義思想を抱いていることを発見され、一一か月で馘首さ 十月三日、長野県諏訪郡中洲村字福島 ( 現、諏訪市中洲 ) に、父平林れる。ドイツ書籍店の店員となる。アナーキストのグループに接近。 三郎、母かっ美の三女として生まれた。タイと命名。兄寛、長姉ひ大正十ニ年 ( 一九 lllll) 十八歳 とくお ろ、次姉たっ、弟督男があった。平林家は代々名主をつとめ、祖父九月、関東大震災の際、予防検東され、市ヶ谷刑務所に一一十九日間 こ′りゆ・ノ 平林増右衛門は進取の気象に富む事業家で、製糸業を営み、横浜に拘留される。十月、東京にいないことを約束して放免される。 生糸を直輸出した。板垣退助の自由党支部も主宰したが、銀相場の大正十三年 ( 一九ニ四 ) 十九歳 変動で失敗。養子の父が農業に従事し、負匱の後始末をした。母は一月、大連へ渡り、放浪、苦闘の末、秋、文学への志を立て直して、 日用雑貨店を営み、たい子は支柱として大福帳を扱った。 東京の情勢変化をみて上京。 明治四十五年・大正元年 ( 一九一 ll) 七歳 大正十四年 ( 一九二五 ) 一一十歳 四月、中洲小学校に入学。全学年を通じ、成績優秀。五、六年生の生活に追われたが、童話、探債小説が海野十三、などとともに「新 とき、長野師範卒・新任の上条茂教師の急進的天才教育に接し、文青年」、博物館の刊行物や「読売新聞」の婦人子供欄に掲載されはじ 学的才能をめざめさせられる。九歳頃より新聞を読みはじめ、姉のめた。「新青年」の編集者森下雨村の知遇を得、プロレタリヤ作家と 夫の豊富な蔵書で内外の書を乱読。作家を志望する。 してではなく、探偵小説家になることをすすめられる。 大正七年 ( 一九一八 ) 十三歳 大正十五年・昭和元年 ( 一九一一六 ) 二十一歳 三月、中洲小学校卒業。四月、文筆で身を立てる決心で長野県立諏三月、「冷たい笑」を「文芸戦線」に、十二月、「誠和女学校」を「文 譜訪高等女学校 ( 現、県立諏訪一一葉高等学校 ) 受験、首席で合格。土屋文芸戦線」に、「愚かなる女の日記」を「文芸市場」に発表。若杉鳥子、 かんけい 明校長の間接的影響を受け、的確・簡勁な写実的手法を習得。国木林芙美子等とともに婦人作家グル】ブを結成。労働運動に接近。プ 年田独歩、志賀直哉に感銘。短編小説を新潮社の「文章倶楽部」に投稿、ロレタリヤ芸術連盟 ( 機関紙「文芸戦線」 ) に属する中野重治、葉山 三等に入選。 嘉樹、青野季吉、小堀甚一一等を識る。 大正十年 ( 一九ニ l) 十六歳 昭和ニ年 ( 一九二七 ) 二十二歳 ゾラの「ジェルミナール」 ( 訳・堺利彦 ) 、「マルクス資本論」等に刺一月、父三郎死去。山田清三郎の酌で小堀甚一一と結婚。三月、籤 平林たい子年譜
440 思想犯の取締りにあたった。第二次大戦後廃止された。 三九三「喪章を売る」大正十五年春執筆、「大阪朝日新聞」の懸賞 短編小説に応募して当選した作品。のちに「嘲る」と改題。経 済的にまったく無能力なアナーキストの青年と同棲をしている 女性の「地獄」を描いたもの。 三九六「女人芸術」女流文芸雑誌。昭和三年七月創刊。同七年五月 終刊。長谷川時雨が夫三上於莵吉の援助のもとに主宰。ここか ら林芙美子や円地文子が作家として出た。 三究「新青年」大正九年一月、博文館より創刊された探偵小説中 心の娯楽文芸雑誌。森下雨村が編集長。海外探債小説やすぐれ た創作を掲載して、わが国推理小説の発展に貢献し、江戸川乱 歩、横溝引史らの作家を世に出した。 たんかい 四兄「譚海」大正九年一月、博文館より創刊された雑誌「少年少 女譚海』。講談物の英雄豪傑、歴史上の人物伝記を子供向きに 書きなおしたものが多い。 紅野敏郎 柳正吉
たん材ヤ、 苦学をしながら、図書室で内外の作品を耽読。 大正十年 ( 一九二一 ) 十八歳 文学への興味が急速に深まった女学校四年のとぎ、詩「廃園のタ」 うた 「カナリヤの唄」などを〈秋沼陽子〉のペンネ 1 ムで、「山陽日日新 聞」「備後時事新聞」などに投稿し、掲載された。童話も書いた。 大正十一年 ( 一九一一一 D 十九歳 明治三十六年 ( 一九〇一一 l) 三月、県立尾道高等女学校を卒業い女学校卒業の頃に知り合った、 十二月三十一日 ( 戸籍上 ) 、山口県下関市田中町のプリキ職人、槇野『放浪記』の中の、因島出身の「島の男」ーー愛人岡野軍一 ( 当時、 吉方の二階で生まれた。父宮田麻太郎一一十三歳、母林きく三十七明治大学商科専門部三年 ) を頼って上京。東京・雑司ヶ谷墓地付近で 歳のときの子。本名、林フミコ。父は愛媛県周桑郡吉岡村の農業宮同棲。芙美子は軍一の卒業を待ちながら、カフェーの女給、株屋日 じゅうにそう 田惣助の長男で、伊予紙、呉服等の行商をしていた。母は鹿児島で立商会の事務員などをした。母と義父か上京、新宿十二社に住むと、 み、・つイ」か 薬屋を営んでいた林新左衛門の長女で、弟の久吉が経営する東桜島美美子は母とふたりで楽坂などに古着の夜店の番をした。 古里温泉場の温泉貸間業の家に同居していた。 大正十一一年 ( 一九二三 ) 二十歳 明治四十四年 ( 一九一一 ) 八歳三月、因島の日立造船因島エ場に就職した岡野との結婚は破談。芙 父麻太郎が若松市で太物商として成功し、芸者を家に入れたため、美子は風屋の下足番、父母とともに露天商などをする。九月一日、 母きくは、麻太郎の家の番頭で、岡山県児島郡の農家出身の二十歳本郷根津の借間で関東大震災にあう。単身、尾道に帰る。尾道の旧 年下の沢井喜三郎と一緒に、旧正月、芙美子を連れて家出した。以師、小林正雄のすすめで、「芙美子」のペンネームを用いる決心をし 後、三人は関西、四国、九州各地を行商して回った。この年、学齢た。この年から日記をつけはじめる。 期の芙美子は、長崎市の木賃宿から、勝山小学校に入学。その後、 大正十三年 ( 一九二四 ) 二十一歳 久留米、門司など各地の小学校を転々とし、四年間に七回転校。 単身亠京後、中野区上之原の近松秋江の家で一一週間、女中として住 大正五年 ( 一九一六 ) 十三歳み込む。以後も女工、売子、区役所前の代書屋、女給などを転々としな 譜 この年、広島県尾道市第一一小学校 ( 現、土堂小学校 ) に転入学。こがら詩、童話を売り回り、わずかの詩が「日本詩人」や「文芸戦線」に の頃から小説を読みはじめ、絵画にも興味を持ちはじめた。 掲載された。詩人・新劇俳優の田辺若男と田端で同棲したが、田辺の 年大正七年 ( 一九一八 ) 十五歳恋人の存在を知り、数か月で別れた。本郷肴町のレストラン南天堂 三月、尾道第一一小学校を卒業。四月、県立尾道高等女学校の入学試で、アナーキストの詩人、野村吉哉、岡本潤、辻潤、壺井繁治らを識る。 験を受け、五番の成績で合格。依然として転々と間借り生活をしな七月、神戸雄一の援助で、友田静栄と同人詩誌「一一人」を創刊 ( 翌年三 がら、ふだんは吉和の帆布工場の夜勤の女工、休暇中は女中などの号で終刊 ) 。宇野浩二、徳田秋声を訪ねた。平林たい子を識る。 林芙美子年譜 さかな そうし
438 平林たい子集注解 しんばんこしのしらなみ 助作「新版越白浪』の女主人公。ふたりとも毒婦で有名。 一盛おさんもと新橋の芸者。歌舞伎俳優市村家橘 ( のちの羽 左衛門 ) の妻となったこともある庭攵で、明治三十八年・内閣 めかけ 総理大臣桂太郎の妾となった とひ 一一空 ( 出歯亀明治四十一年、東京東大久保の植木兼鳶職出っ歯の のぞ 池田亀太郎が飲酒して女湯を板の節穴から覗き、着衣する女 砂漠の花 を見て帰りを待ちうけ、近くの空地で暴行致死させた事件があ ったことから、変態性欲者の男を軽蔑する意味にも使われる。 ニ三三勧工場明治・大正時代、多くの商店が連合して組合を作り、 一つの建物の中に極々の商品を陳列し正札をつけて即売したマ 一三・一五事件昭和三年三月十五日、日本共産党に対して行 ーケットの一種。 なわれた第一一次全国一斉検挙件。昭和時代の田 5 想弾圧の最初 のもの。 一海老茶式部当時の女学生、女子大生などが海老茶色 ( 黒み をおびた赤茶色 ) の袴を着用したので彼女らの呼称に使われた。 二発神近市子さんとの事件大正五年一月、大杉栄が伊藤野枝に 愛をうっしたため、もとの愛人神近市子が嫉妬の末、葉山の日 一昊大胆な恋愛小説たい子は女学校三年生の時、尼が還俗する という短編を「文章倶楽部」に投稿、三等に入選したが、本名 陰の茶屋で大杉の喉を短刀で刺したという情痴陽害事件、いわ ゆる「日陰茶屋事件」のこと。 で投書したためすぐに学校に知られ、受持の国語教師西川あぎ 一禿戒厳令戦時や事変に際し、国または地方の治安維持のため ら ( のち南原整東大総長の夫人 ) に投書の弊害 ( 早熟早老 ) につ に、軍司令官にその行政権、裁判権をゆだねる政令。 いて忠告された。 一祠一一一六新報明治一一十六年十月、秋山定輔が発行した新聞。明一穴六虎ノ門で皇太子様を狙撃大正十一一年十一一月七日、山口県人 せっしよう 難波大助が、第四八帝国議会開会式に行啓の途中、摂政宮殿下 治二十八年十二月一時休同、三十三年六月再刊した。 ダス・メッチェン das Mädchen ( 独 ) 。娘 ( 少女。 ( 今上天皇 ) の車を虎の門で狙撃した事件。いわゆる「虎の門 一面一一マルクの暴落時代 Mark はドイツの貨幣単位。第一次大戦 事件」。 後、ドイツは敗戦によりインフレが激し ~ 、 . なり、貨幣曲 ~ 旦よ」 ィー丿元一一柳瀬正夢漫画家、詩人 ( 1900 ~ 1945 ) 。「種蒔く人」のメン 常な勢いで暴落した。 ・、。「マヴォ」「文芸戦線」等を経て、。フロレタリア美術連動 に参加、痛烈な諷刺漫画、政治漫画を進歩的な新聞雑誌に掲載 一西一一晩民会社会主義思想団体の一つ。高津正道が早稲田大学在 学中におこした学生社会連動の団体。 だっき 一認妲己のお百か鬼神のお松妲己のお百は、歌舞伎では河竹黙 8 九「会いたさ、見たさにこわさを忘れ : : : 」千野かほる作詞、 んあくりようめんこのてがしわ 鳥取春陽作曲の「籠の鳥」の一節。大正末に大流行し、大正十 阿弥作『善悪両面児手柏』の女主人公。鬼神のお松は、桜田治
439 注解 どる人。 三年八月、これを主題歌として映画化された。 おさないかおもひじかたよし 三一三丸山定夫新劇俳優 ( 一 90 一 ~ 一 945 ) 。小山内薫、土方与志を主一三元ラジオ radio ( 英 ) 。テキ屋や強盗、窃盗犯罪者の間で使わ れた隠語。金銭を持っていないこと。また無銭飲食のこと。ラ 宰として大正十三年創立した築地小劇場団の第一回研究生とな ジオは無線なのでこれに無銭をかけていった。 り、同劇場分裂後は土方与志、薄田研一一、山本安英らが結成し 三空一ナフトル木綿 Naphthor ( 独 ) 。新モスの布地に美しい赤色 た新築地劇団に参加。技巧派の名優のびとり。 かたぞめ の友禅風の型染をしたもの。 三一三「マヴォ」 MAVO 大正十二年、ドイツより帰国した村山知 聶七『ダムダム」 DAMDAM ダダイズムの詩雑誌名。編集人は 義が中心になって起こした前衛的芸術運動。十三年七月には、 林政雄。萩原恭次郎、橋爪健、中野秀人、野村吉哉、岡本潤、 雑誌「マヴォ」をも刊行した。 小野十三郎、高橋新吉、壺井繁治らが同人。大正十三年十月発 三一三意識的構成主義「マヴォ」の芸術運動の標榜した主張。第 行。一号だけでつぶれた。 一次大戦後のソ連に起こり西欧に広まった。 三一六「ゲ・ギムガム・・フルルギムゲム」 Ge ・ GIMGIGAM ・ PRR 三六一印伝の大財布印伝は印伝革の大財布の略。インド伝来の革 の意。羊または鹿のなめし皮でつくった大財布のこと。 R ・ GIMGEM 大正十三年六月創刊の未来派、ダダイズム系の 詩雑誌。北園克衛 ( 当時は橋本健吉 ) 、野川降、稲垣甅、石 0 一閑張りの机紙を幾重にも貼り固めたものを漆塗りにした 机。江戸初期、飛来一閑の創始という。 野重道、田中啓介、平岩混児らが同人。正しい誌名は「ゲエ・ 朴烈朝鮮の民族運動家。日本大学在学中から無政府主義運 ギムギガム・プルルル・ギムゲム」。誌名には特別な意味はない c 動に参加。関東大震災直前に爆弾を入手しようとしたという理 三一八・ホル Bolsheviki( 露 )。・ホルシエヴィキの略。ロシア社会民 由で検挙、震災における官憲の朝鮮人虐殺に対する言い訳に朴 主党の中で、レーニンの革命的意見を支持した左翼多数派。 烈夫妻は大逆犯人に仕立てられた。 三一八『どっこい生きてる』 "Hoppla wir leben" ( 1927 ) 。ドイツ 劇作家エルンスト・トラー (Ernst 。 = e ご 1893 ~ 一 939 ) の作。三霻鬼熊という男が : ・ : ・大正十五年八月、千葉県久賀村で村人 四人を殺傷した犯人岩淵熊治郎が山林に逃亡し、連日山狩が続 社会主義革命に参加して投獄されたカール・トマスが八年ぶり いた。彼は警官を殺害し自殺した。鬼熊事件として知られ、「鬼 に出獄してみると、かっての革命の同志は大臣になっていた。 熊狂恋の歌」も作られて流行した。 トマスが雇われたグランドホテルでその大臣が暗殺されたこと つばさかれいにんき から、トマスは嫌疑者として捕えられ、獄中で絶望のはてに自三八一沢市さんのお里世話浄瑠璃『壺坂霊験記」の盲人沢市の妻。 夫に献身的で貞節な女の典型。 殺をする。 IIIIIIE 御歌所寄人御歌所は、もと宮内省の管理に属し、御製・御一査 - V NAROD!' ( 露 ) 。民衆の中へ ! 帝政ロシア下の知識 階級、学生の革命運動の標語。 歌または御歌会に関する事務をつかさどった所。第二次大戦後 廃止されて宮内庁御歌係となった。寄人は和歌の選定をつかさ三警察の特高係特高は特別高等警察の略。主として政治犯、 こるま ひつじ
433 注解 林芙美子集注解 話渦巻渡辺霞亭の家庭小説。天下の紅涙を絞ったお家騒動の 物語。やはり劇化されて流行し、渦巻模様は一時女性の着物の 模様にまでなった。 話女成金になりたい林芙美子が終生持ち続けた理想であった が、事実彼女は晩年には成金となり、成金趣味ともいうべきス ノビズム ( 俗物精神 ) を満足させた。 しやくじよう 放浪記 五五祭文語り法螺貝や錫杖をつく音にあわせて祭祀の文を語っ ・なにわぶし 吾一太物絹織物を「呉服」と呼ぶのに対して綿織物・麻織物を て銭を貰って歩く人。明治以後は浪花節語りもこう呼ばれた。 総称するいいカた 五五ほうろくのように焼けた暑い直方の町角「ほうろく」は、 五三モスリンの改良服 muslin(N{)0 モスリンはメリンスともい 茶・塩・豆などをいる素きの平たい土なべ。「ほうろく」は 、薄地のやわらかい毛織布地。改良服は大正時代にはやった 当時多くの家庭の台所などにあった物で、炭坑町の庶民生活の せっちゅう 和服折衷の婦人服。 雰囲気がにじみ出ている表現である。これも林芙美子が、しば 話モッタイナイ林芙美子が好んでしばしば使った傍点つき片 しば用いた傍点つきの仮名書きによる強調の用法である。 仮名書きの表現法。 五六連鎖劇映画の途中に実演を、実演のあい間に映画をはさん 話砂で漉した鉄分の多い水で舌がよれるような町直方は福岡 で、映画と舞台の人物を一致させ、それぞれの効果を併用して 県北部にある筑豊炭田の鉱業都市であるため、飲み水にも鉄分 見せる演劇。無声映画時代の大正初期に流行した。 やリきすつるぎきず が多く含まれていてまずく、飲むと舌がもつれるような煤っ・ほ契国を出るときや玉の肌「今ぢや槍傷剣傷 / これぞ誠の男の ひげ けた無味乾燥な町であったと誇張的に表現したのである。芙美 子ちゃと / ほほ笑む面に針の髯」とつづく。「馬賊の歌」の一 子にはこの種の状況の「ような」表現が多い。 節。大正十一年ごろから「狭い日本にや住みあいた」青年たち 話おいとこそうだよの唄千葉県の民謡の「おいとこ節」。「お が大陸雄飛の熱にうかされて歌い、大いに流行した。 いとこそうだよ / 紺屋ののれんに / 伊勢屋と書いてんだよお五七ストライキ、さりとは辛いね明治三十一年から三十二年に 梅十六 / 十代ったわる / 粉屋の娘だんよ : : : おいとこそうだ かけて、名古屋のメソジスト派教会宣教師アメリカ人モルフィ ゅうかく よ」といったもの。替え歌「新おいとこ節」が多くつくられ、 が、遊廓の娼妓の自由廃業運動にのりだし、その第一号として 明治末から大正にかけて書生などによってうたわれた。 名古屋市の東雲という名の娼妓が、モルフィの教会に逃げだし 聶なさぬ仲尾崎紅葉の門下柳川春葉の家庭小説『さぬ仲』。 てきたが、モルフィの懸命な擁護にもかかわらず、楼主の強圧 ひとり 一人の子供をめぐって実母と生さぬ仲なる継母とが争い、継母 に負けて遊廓に戻るという事件があった。この事件がきっかけ が勝っという筋。新派劇にしくまれ、評判をとった。 となって廃娼運動は全国的に広がり、「東雲節」 ( 一名「ストラ ふともの のう那た しののめ
オスロペン大会の帰り、ス コットランド・ネス胡を訪 れたたい子と円地文子 ( 昭和三十九年七月頃 ) をー と一しょになってから、いつも後悔しているおろかな 寺頃 成年 女たっこ。 人和 平林たい子はよく女傑」だといわれる。大宅壮一 五昭 が現代第一の「女傑」といったことは有名である。だ 伎折 れも異論はなかろう。そのときも、大宅はこの人が百 ) 舞の 歌演 ーセントの「女」にかえるという指摘を忘れなかっ 春出 たし、円地文子も「徹頭徹尾女なのだ」と強調するが、 それは作者みすから余すところなく『砂漠の花』で告 韓国・新羅の王の墓を訪ねて白しているところである。 ( 昭和四十一年頃 ) 四 平林たい子は昭和二年、二十二歳のときに「文芸戦 線」を編集していた山田清一二郎の仲介で小堀甚二と結 婚した。前年「文芸戦線」に「誠和女学校」を発表して 注目されたが、 この年から急速に文学活動は盛んとな プロレタリア作家としての地歩を占めた。 同年春、「投げ捨てよ / 」 ( 大正十四年執筆 ) 「解放」 に発表し、「喪章を売る」 ( 大正十五年春執筆、後に「嘲 る」と改題 ) が「大阪朝日新聞」の懸賞短編小説に 上喜久子、石川達三らと上もに当選した。ついで、「施 を第療室にて」を「文芸戦線」に発表し、文芸家協会の渡辺 賞を大仏次郎とともに受賞し、評価は定まった。それ 477
右下早大生が夏期休暇 に九州講演旅行をしたと きに同行した芙美子。左 は八木秋子女史 ( 昭和四 年七月 ) 下台湾講演旅行のとき ( 昭和五年一月 ) 。前列左 端が芙美子 左関東大震災後、東京 から尾道に帰ってきたと ( 大正十三年 ) 0 ていた男である。芙美子が母につれられて桜島にやっ て来たのはそのころのことで、三、四歳ぐらいだった いきくは桜島でも行商していたそうである もっとも、その桜島暮らしはすでにふれたよ、つに短 期間で、芙美子は母、義父とともに北九州を転々する ようになる。明治四十三年四月、学齢に達したときに は長崎市にいて、勝山小学校に入学した。『放浪記』第 二部にそのことは書かれていて、木賃宿から通学した という。たか、それもごく短期間で、佐世保、久留米 下関、門司、戸畑、折尾と移動し、四年間に七度転校 したと『放浪記』には書かれている。生活は極貧で、 ことに下関では最悪だったらしく、平林たい子の調査 によれば、きくは芙美子に荷札をつけ、鹿児島の妺に送 ってあすけた。大正三年の桜島大噴火の年であったと う。が、鹿児島の人たぢは『放浪記』によれば、美子 こへ炎だったらしく、まもなくきくに引き取られ、尾 道に落ちつくまで義父との放浪生活が続くのである。 こうした母と義父とを持ったことが、芙美子の性格 と文学とをかなり決定つけたと思われる。きくは早く 私生児を生み、十歳以上も年したの男を愛し、奔放に 生きた。鹿児島は封建道徳の遺風の強い土地柄のよう に思われているか、それは旧士族に限ってのことで、 庶民では逆に陸も解放されているところである。その
434 イ・フィリツ。フを侮辱したとの理由で刑を受けたこともある。 イキ節」 ) を広く流行させた。「何をくよくよ川端柳 / 焦がるる ナントショ / 水の流れを見て暮らす / しののめのストライキ / 一八三五年の言論弾圧後は風俗画に転じた。 うた 七三カフェー さりとはつらいねてなことおっしゃいましたかね」が元。 café ( 仏 ) 。明治時代はコーヒー店をいったが、大 正中期頃から昭和初期に流行したカフェーは、胸まである白い 五七ジゴマ Zigomar フランスの『ル・マタン』紙に連載された ちょうちょう エ・フロンをかけて、その長い紐を背中で蝶々結びにした美人の レオ・サジー作の探偵小説。一九一一年、フランスで映画化、同 女給を置いて、主としてビールや洋酒類を飲ませる店となった。 年日本でも上映されて・フームをおこした。花のパリを舞台にピ ぎゅう ストル片手の覆面の怪盗ジゴマが、抵抗する者は容赦なく射殺 と牛太郎妓夫太郎からの転。妓夫。遊女屋で客引きをする男。 して巧みに逃げながら強盗を重ねていく筋立ての連続もの。 弱き者よ汝の名は貧乏なり 「ハムレット』第一幕第一一場 六一クヌウト・ハムスン Knut Hamsun ( 1859 ~ 1952 ) 。ノルウ で、母妃ガートルードにいうハムレットのことば「脆きものよ、 あざな 工 1 の小説家。早くから人生のどん底を体験、多年放浪生活を 女とは汝が字ぢや ! 」 ( 坪内逍遙訳 ) をもじったもの。「女と 送る。『土地の成長』により、ノーベル賞受賞。その出世作『飢 は」以下を「汝の名は女なり」とするのが普及している。 七六芸術座の須磨子の : 芸術座は、大正一一年七月、島村抱月 え』を芙美子は愛読し、『放浪記』執筆の動機になったという。 が創立した新劇の劇団。イ。フセンの『人形の家』、トルストイ 六三青・ハス戦前、主として東京の旧市内を走っていた民営の乗 合自動車。車体を青く塗っていたので、市営・ハスと区別してこ の『復活』など西洋演劇を上演紹介した。須磨子 ( 松井 ) はそ う呼んだ。 の人気女優。抱月の死後、大正八年一月あとを追って自殺した。 かみそり 六五ランデの死 Smérti Lande ( 露 ) 。ソビエトの小説家アルツ 「剃刀」は中村吉蔵の戯曲で、大正三年に初演された。貧しい 理髪師為吉が、かって首席を争ったこの村出身の代議士秀作の イ・ ( アセフ ( 後出 ) の小説。厭世思想を抱く結核患者ランデが 革命に参加せず、愛欲に溺れるのみで死んでいく姿を描く。 喉を剃刀で切って殺してしまうという筋。 査腹がへっても、ひもじゅうないイ 山台城主伊達家のお家騒動公一スチルネルの自我経 Max Stirner ( 一 806 ~ 18 ) 。ドイツの めいなくせんだいは をもとにした歌舞伎『伽羅先代萩』御殿の場での名せりふ。毒 哲学者。『自我経』は、その代表的著作のひとっ『唯一者とそ 殺をおそれて食事を控えさせられている幼君鶴喜代が、気遣う の所有』のことで、辻潤が英訳から訳したものの表題。内容は 乳人政岡に答えることば。 極端な個人主義を説ぎ、自我のみが唯一の実在で、家族・国家・ と浮世離れて奥山ずまい富山県立山地方の民謡「立山節」の 社会も自我の前に消失するという無政府主義を主張したもの。 一節。明治一一十年頃から全国的に流行した唄風の上品な歌。 公一「二人」大正十三年七月、詩友の友谷静栄と一一人で発行した どスヴニール Souvenir ( 仏 ) 。想い出。記念。 詩誌。四頁のリ 1 フレット。芙美子の「スリッパ」「オシャカ 、エの漫画 Hono ま Daumier ( 1808 ~ 1879 ) 。フランスの 様」、友谷の「男にしられぬ悲しみ」「あきらめました」「埋も ふうし 画家。多くの石版諷刺画で当時の政治・社会を諷刺し、国王ル れた心」などが発表された。四号で廃刊になったが、これによ めのと のど
長野県・上林温泉に疎開した芙 美子 ( 昭和十九年四月 ) かんーやし 物第朝 0 1 第い 0 をシ のちに『放浪記』の原型となるのである。 行ネ 旅 , . 年その時期にはおもに詩を書きつづけていて、作品が 日本詩人」文芸戦線」に発表されるようになった。 慰 9 和 それとともに交友関係も詩人たちにひろがり、新劇俳 。境年レ昭 ( 子優で詩人の田辺若男、ついで詩人野村吉哉と同棲し、 一、州和員美 満齠団芙辻潤、高橋新吉、岡本潤、萩原恭次郎、壺井繁治、 : 催寂小る 主子視贈野十三郎など、アーナキストあるいはダダイスト詩人を 社美日を知り、友谷静栄と詩誌「一一人」を出したりした。その 聞芙訪形 極新央ワ人詩「善魔と悪魔」が「文章倶楽部」に掲載されたのは ・〔日中ャへ 大正十四年であるが、そのなかに、「性慾アナーキズム、 朝。ジ士 る博貞操共産主義も鼻についてきた」というような個所が 上す左ア ある。そのころのグループはそのとおりに性的にもア ナーキーであり、芙美子はその点では先端を走った らしいが、結局、イデオロギーは信しることかできな かった。自分の感性しか信しられなかったのであろ 平林たい子を知ったのも、このころである。大正十五 年には芙美子は野村吉哉と別れ、平林のもとに寄宿し た。ふたりはいっしょに少女小説を売り歩いたり、同 しレストランで働いたりした。芙美子は「鯛を買う」 という詩を書いて平林に贈っているまた、このころ のことは本全集所収の平林たい子『砂漠の花』 ( 第一部 ) に詳細に描かれ、この二人の傑出した女流作家の個性 459