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検索対象: 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集
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1. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

0 ( 十一月 x 日 ) 舌を出して笑いあっていた。五時になると、二十分は私達 , た 浮世離れて奥山ずまい、こんなヒゾクな唄にかこまれて、の労力のおまけだった。日給袋のはいった笊が廻って来る そうとう 私は毎日玩具のセルロイドの色塗りに通っている。日給はと、私達はしばらくは、激しい争奪戦を開始して、自分の なり たすき 七十五銭也の女工さんになって今日で四ヶ月、私が色塗り日給袋を見つけ出す。 ー・ーータ方、襷を掛けたまま工場の門 ちょうちょう なっ をした蝶々のお垂げ止めは、懐かしいスヴニールとなつを出ると、お千代さんが、後から追って来た。 につ て、今頃はどこへ散乱して行っていることだろう 。日「あんた、今日市場へ寄らないの、私今晩のおかずを買っ よせ 暮里の金杉から来ているお千代さんは、お父つあんが寄席て行くのよ : : : 」 ぎようだし さんま の三味線ひきで、妹弟六人の裏家住いだそうだ。「私とお 一皿八銭の秋刀魚は、その青く光った油と一緒に、私と 父つあんとで働かなきゃあ、食えないんですもの : : : 」おお千代さんの両手にかかえられて、サンゼンと生臭い匂い あおじろ わび 千代さんは蒼白い顔をかしげて、侘しそうに赤い絵具をべを二人の胃袋に通わせてくれるのだ。 タベタ蝶々に塗っている。ここは、女工が二十人、男工が「この道を歩いている時だけ、あんた、楽しいと思った事 なまり 十五人の小さなセルロイドエ場で、鉛のように生気のない ない ? 」 女工さんの手から、キ、ウビーがおどけていたり、夜店物「本当にね、私吻とするのよ。」 まえおびしん のお垂げ止めや前帯芯や、様々な下層階級相手の粗製品 「ああ、でもあんたは一人だからうらやましいと思うわ。」 こ′ヤ・い・こと ほこり、、 が、毎日毎日私達の手から洪水の如く市場へ流れてゆくの美しいお千代さんの束ねた髪に、白く埃がつもっている だ。朝の七時から、夕方の五時まで、私達の周囲は、 4 のを見ると、街の華やかな、一切のものに、私は火をつけ イカのような色をしたセルロイドの蝶々や、キウビーでてやりたいようなコウフンを感じてくる。 うすも 、つばいだ。文字通り護謨臭い、それ等の製品に埋れて仕 事が済むまで、私達はめったに首をあげて窓も見られない ( 十一月 x 日 ) ような状態である。事務所の会計の細君が、私達の疲れた なぜ ? ところを見計らっては、皮肉に油をさしに来る。 な・せ ? 「急いでくれなくちゃ困るよ。」 私達はいつまでもこんな馬鹿な生ぎ方をしなければなら いつまでたっても、セルロイドの匂い フンお前も私達と同じ女工上りじゃよ、 オしか、「俺達や機ないのだろうか ? に、セルロイドの生活だ。朝も晩も、ペタベタ三原色を塗 械じゃねえんだよっ。」発送部の男達がその女が来ると、 おれ ざる にお

2. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

あなた 「ちょいと、先生がかえるまでは帰っちゃ駄目だわ : : : 私 「助手さん ! 貴女はお国どこです ? 」 「東京ですの。」 達が叱られるもの、それにどんなもん持って行かれるか判 ちょっと 「おやおや、そうでございますの、一寸こりやごまめだわらないし。」 何と言うすくいがたなき女達だろう。何がおかしいのか こうしよう めじり 女達は、あはあは笑いながら何か私のことに就いて話し皆は目尻に冷笑を含んで、私が消えたら一どきに哄笑しそ ん あっていた。昼の膳の上は玉葱のいためたのに醤油をかけうな様子だった。いつの間に誰が来たのか、玄関の横の庭 たのが出る。そのほかには、京菜の漬物に薄い味噌汁、八には、赤い男のルが一足ぬいであ 0 た。 さる 人の女が、猿のように小さな卓子を囲んで、箸を動かせ「見て御らんなさいな、本が一冊と雑記帳ですよ、何も盗 る。 りやしませんよ。」 「子供だ子供だと言って、一日延ばしに私から金を取る事「だって沈黙って帰っちゃ、先生がやかましいよ。」 ばかり考えているのよ、そして栄養食ヴィタミンが必要女中風な女が、一番不快だった。腹が大きくなると、こ いんばいめ ですとさ、淫売奴のくせに ! 」 んなにも、女はひねくれて動物的になるものか、彼女達の 女給が三人、田舎芸者が一人、女中が一人、未亡人が一眼はまるで猿のようだった。 人と言う素性の女達が去ったあと、小女が六人の女たちの 「困るのは勝手ですよ。」 説明をしてくれた。 戸外の暮色に押されて花屋の菜の花の前に来ると、初め 「うちの先生は、産婆が本業じゃないのよ。あの女の人達て私は大きい息をついたのだ。ああ菜の花の咲く古里。あ は、前からうちの先生のアレの世話になってんですの、世の女達も、この菜の花の郷愁を知らないのだろうか : 話料だけでも大したものでしよう。」 だが、何年と見きわめもっかない生活を東京で続けていた まち 記淫売奴、と言い散らした女の言葉が判ると、自分が一直ら、私自身の姿もあんな風になるかも知れないと思う。街 浪線に落ち込んだような気がして急にフッと松田さんの顔がの菜の花よ、清純な気持ちで、まっすぐに生きたいものだ 心に浮んで来た。不運な職業にばかりあさりつく私だ。もと思う。何とかどうにか、目標を定めたいものだ。今見て 放 う何も言わないであの人と一緒になろうかしらとも思う。来た女達の、実もフタもないザラザラした人情を感じると、 のろ 何でもない風をよそおい、玄関へ出る。 私を捨てて去って行った島の男が呪わしくさえ思えて、寒 うぜん 「どうしたの、荷物を持ったりして、もう帰るの : : : 」 い三月の暮れた街に、呆然と私はたちすくんでいる。玉葱 テーゾル わか っ しか さる

3. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

しまっていた。三か月も心だのみに空想を描いていた私だ達親子三人の世界なんてどこにもないんだからナニクソと のに、海の上の潮風にさからって、いつまでも私は甲板に思ってやって下さい。もうあの男ともさつばり別れて来た 出ていた。 んですからね。」 「親子三人が一緒に住めん言うてのう : : : 」 「私は働いて、うんとお金持ちになりますよ、人間はおそ ( 一月 x 日 ) ろしく信じられないから、私は私一人でうんと身を粉にし 「お前は考えが少しフラフラしていかん ! 」 お養父さんは、東京行きの信玄袋をこしらえている私のて働きますよ。」 後から言った。 いつまでも私の心から消えないお母さん、私は東京で何 「でもなお父さん、こんなところへおっても仕様のない事 じゃし、いずれわし達も東京へ行くんだから、早くやってかにありついたらお母さんに電報でも打ってよろこばせて やりたいと思った。 段々陽のさしそめて来る港町をつ も、同じことじゃがな。」 さんば つきって汽車は山波の・ヘづたいに走っている。私の思い 「わし達と一緒に行くのならじゃが、一人ではあぶないけ 出から、たん・ほ・ほの綿毛のように色々なものが海の上に飛 んのう。」 んで行った。海の上には別れたひとの大きな姿が虹のよう 「それに、お前は無方針で何でもやらかすから。」 御もっとも様でございます。方針なんて真面目くさくたに浮んでいた。 てるだけでも信じられないじゃありませんか。方針なんて たてようもない今の私の気持ちである。大工のお上さんが ハナナを買ってくれた。「汽車の中で弁当代りにた・ヘなさ ( 六月 x 日 ) 烈々とした太陽が、雲を裂き空を裂き光っている。帯の 記いよ。」停車場の黒いさくに凭れて母は涙をふいていた。 間にしまった二通の履歴書は、ぐっしより汗ばんでしまっ しいお母さん ! 私はすばらしい 浪ああいいお養父さん ! た。暑い。新富岸の橋を曲線しながら、電車は新富座に 成金になる空想をした。 放 「お母さん ! あんたは、世間だの義理だの人情だのなん突きささりそうに朽ちた木橋を渡って行く。坂本町で降り きたな てよく言い言いしているけれども、世間だの義理だの人情ると、汚い公園が目の前にあった。金でもあれば氷のいっ だのが、どれだけ私達を助けてくれたと言うのです ? 私ばいも呑んで行くのだけれど、ああこのジトジトした汗の にじ こ

4. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

99 放浪記 「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎は ーに居て、友達にいじめられて出て来たんだけれど、浅草 うらないし 、、 0 の占師に見てもらったら、神田の小川町あたりがいいって 三年も此家で女給をしているお計ちゃんが男のような口言ったので来たのだと言っていた。 にしき のききかたで私をさそってくれた。 お計さんが、「おい、ここは錦町になってるんだよ。」と 「ええ : : : 行きますとも、時でも泊めてくれて ? 」 言ったら、「あらそうかしら : : : 」とつまらなそうな顔を ところ 私はそれまで少し金を貯めようと思う。こんな処の女達していた。此家では一番美しくて、一番正直で、一番面白 の方がよっぽど親切で思いやりがあるのだ。 い話を持っていた。 あなた 「私はねえ、もう愛だの恋だの、貴郎に惚れました、一生 捨てないでねなんて鹿らしい事は真平だよ。こんな世の ( 十月 x 日 ) 中でお前さん、そんな約束なんて何もなりはしないよ。私仕事を終ってから湯にはいるとせいせいする気持ちだ。 さら あらいゅ をこんなにした男はねえ、代議士なんてやってるけれど、広い食堂を片づけている間に、コックや皿洗い達が洗湯を まで 私に子供を生ませるとぶいさ。私達が私生児を生めば皆そっかって、二階の広座敷へ寝てしまうと、私達はいっ迄も ちょっ いつがモダンガ ールだよ、いい面の皮さ : : : 馬鹿馬鹿しい風呂を楽しむ事が出来た。湯につかっていると、朝から一 浮世じゃないの ? 今の世は真心なんてものは薬にしたく寸も腰掛けられない私達は、皆疲れているのでうっとりと もないのよ。私がこうして三年もこんな仕事をしてるのしてしまう。秋ちゃんが唄い出すと、私は茣蓙のにゴロ リと寝そべって、皆が湯から上ってしまうまで、聞きとれ は、私の子供が可愛いからなのさ : : : 」 いら、ら あなた お計さんの話を聞いていると、焦々した気持ちが、急にているのだ。ーーー貴方一人に身も世も捨てた、私しゃ初恋 んとう 明るくなってくる。素敵にいい人だ。 しぼんだ花よ。ーー何だか真実に可愛がってくれる人が欲 うそ しくなった。だけど、男の人は嘘つきが多いな。金を貯め のんき ( 十月 x 日 ) て呑気な旅でもしましよう。 ガラス窓を眺めていると、雨が電車のように過ぎて行っ た。今日は少しかせいだ。俊ちゃんは不景気だってこぼし この秋ちゃんについては面白い話がある。 ゅううつ ている。でも扇風器の台に腰を掛けて、憂鬱そうに身の上秋ちゃんは大変言葉が美しいので、昼間の三十銭の定食 話をしていたが、正直な人と思った。浅草の大きなカフェ組の大学生達は、マーガレットのように秋ちゃんをカンゲ なが うた ござ

5. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

町が狭隘いせいか、犬まで大きく見える。町の屋根の上私は材木の上に群れた子供達を押しのけると、風琴を引 かんざし には、天幕がゆれていて、桜の簪を差した娘達がゾロゾき寄せて肩に掛けた。 ロ歩いていた。 「何しよっと ! わしがとじやけに : ・・ : 」 「ええーー御当地へ参りましたのは初めてでござります子供達は、断髪にしている私の男の子のような姿を見る が、当商会はビンツケをもって蟇の膏薬かなんぞのようなと、 ざんぎ ぎんぎ まやかしものはお売り致しませぬ。ええ・ーーおそれおおく「散剪り、妝剪り、男おなごやアい ! 」と囃したてた。 も、 x x 宮様お買い上げの光栄を有しますところの、当商父は古・ほけた軍人帽子を、ちょいとなおして、振りかえ 会の薬品は、そこにもある、ここにもあると言う風なものって私を見た。 とは違いまして : : : 」 「邪魔しよっとじゃなか ! 早よウおッ母さんのところ あり 蟻のような人だかりの中に、父の声が非常に汗ばんで聞へ、いんじよれ ! 」 えた。 父の眼が悲しげであった。 たいどく かいがら 漁師の女が胎毒下しを買った。桜の簪を差した娘が貝殻子供達は、又のように風琴のそばに群れて白い鍵を押 たわ へはいった目薬を買った。荷揚げの男が打ち身の膏薬を買した。私は材木の上を繩渡りのようにタッタッと走ると、 かばん てじな った。・ヒカピカ手ずれのした黒い鞄の中から、まるで手品どこかの町で見た曲芸の娘のような手振りで腰を揉んだ。 のように、色んな変った薬を出して、父は、輪をつくった「帯がとけとるどウ」 群集の眼の前を近々と見せびらかして歩いた。 竹馬を肩にかついだ男の子が私を指差した。 ころ 風琴は材木の上に転がっている。 「ほんま ? 」 子供達は、不思議な風琴の鍵をいじくっていた。ヴウ ! 私はどけた帯を腹の上で結ぶと、裾を股にはさんで、 町 このよう のヴウ ! 此様に、時々風琴は、突拍子な音を立てて肩をゆキュッと後にまわして見せた。 とする。すると、子供達は豆のように粥けて笑った。私は占男の子は笑っていた。 領された風琴の音を聞くと、たまらなくなって、群集の足白壁の並んだ肥料倉庫の広場には針のように光った干魚 風 をかきわけた。 が山のように盛り上げてあった。 しきゅう * 「ええーー・子宮、血の道には、このオイチニイの薬程効く その広場を囲んで、露店のうどん屋が鳥のように並んで、 なかし ものはござりませぬ」 仲士達が立ったまま、つるつるとうどんを駸っていた。 とき たけうま だんばっ すそまた はや

6. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

た。アンパンを売りさばいて母のそばへ籠を置くと、私は困るけんな。」 「ほんにヤカマシかな。」 よく多賀神社へ遊びに行った。そして大勢の女や男達と一 どな その 緒に、私も馬の銅像に祈願をこめた。いい事がありますよ父が小声で呶鳴ると、あとは又雨の音だった。 いんばいふ .- つア」 0 多賀さんの祭には、きまって雨が降る。多くのころ、指の無い淫売婦だけは、いつも元気で酒を呑んでい けいだい こ 0 露店商人達は、駅のひさしや、多賀さんの境内を行ったり 「戦争でも始まるとよかな。」 来たりして雨空を見上げていたものだった。 じろん この淫売婦の持論はいつも戦争の話だった。この世の中 しいと言った。炭坑にう 十月になって、炭坑にストライキがあった。街中は、ジが、ひっくりかえるようになると、 ンと鼻をつまんだように静かになると、炭坑から来る坑夫んと金が流れて来るといいと言っていた。「あんたは、ほん 達だけが殺気だって活気があった。ストライキ、さりとはまによか生れつきな」母にこう言われると、指の無い淫売 辛いね。私はこんな唄も覚えた。炭坑のストライキは、始婦は、 終の事で坑夫達はさっさと他の炭坑へ流れて行くのだそう「小母っさんまで、そぎゃん思うとんなはると : : : 」彼女 さび まっさっ だ。そのたびに、町の商人との取引は抹殺されてしまうのは窓から何か投げては淋しそうに笑っていた。二十五だと で、めったに坑夫達には品物を貸して帰れなかった。それ言っていたが、労働者上りらしいプチプチした若さを持っ でも坑夫相手の商売は、てっとり早くてユカイだと商人達ていた。 は言っていた。 十一月の声のかかる時であった。 黒崎からの帰り道、父と母と私は、大声で話しながら、 記「あんたも、四十過ぎとんなは 0 とじやけん、少しは身を軽い荷車を引いて、暗い遠賀川の堤防を歩いていた。 「お母さんも、お前も車へ乗れや、まだまだ遠いけに、歩 入れてくれんな、仕様がなかもんなアた : : : 」 私は豆ランプの灯のかげで、一生懸命探偵小説のジホマくのはしんどいぞ : : : 」 すそ 放 を読んでいた。裾にさしあって寝ている母が父に何時もこ母と私は、荷車の上に乗っかると、父は元気のいい声で うつぶやいていた。外はながい雨である。 唄いながら私達を引いて歩いた。 「一軒、家ちゅうもんを、定めんとあんた、こぎゃん時に秋になると、星が幾つも流れて行く。もうじき街の入口 まち

7. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

けているきりで、彼女達は、私を見ても一言声を掛けて 「へ工 ! お高く止っているよ。」あんまり淋 「え、そうです。知人が酒屋をしてまして、新聞を見せてはくれない。 いただ くれたのです。是非乘せて戴ぎたいのですが : : : 国では皆しいんで、声に出してつぶやいてみた。 心配してますから。」 女が少ないので船員達が皆私の顔を見ている。ああこん 「大阪からどちらです。」 な時こそ、美しく生れて来ればよかったと思う。私は切な 「尾道です。」 「こんな時は、もう仕様おまへん。お乗せしますよってくなって船底へ降りてゆくと、鏡をなくした私は、ニッケ ひざ ルのしゃ・ほん箱を膝でこすって、顔をうっしてみた。せめ に、これ落さんように持って行ぎなはれ・ : ・ : 」 ふくむすめ ツルツルした富久娘のレッテルの裏に、私の東京の住所て着物でも着替えましよう。井筒の模様の浴衣にきかえる と姓名と年齢と、行き先を書いたのを渡してくれた。これと、落ちついた私の耳のそばでドッポンドッポンと波の音 は面白くなって来たものだ。何年振りに尾道へ行くだろが響く。 う。あああの海、あの家、あの人、お父さんや、お母さん は、借金が山ほどあるんだから、どんな事があっても、尾 ( 九月 x 日 ) 道へは行かぬように、と言っていたけれど、少女時代を過もう五時頃であろうか、様々な人達の物凄い寝息と、蚊 したあの海添いの町を、一人・ほっちの私は恋のようにあこ にせめられて、夜中私は眠れなかった。私はそっと甲板 がれている。「かまうもんか、お父さんだって、お母さんに出ると、吻と息をついた。美しい夜あけである。乳色の さっさっ かもめ だって知らなけりや、 いいんだもの ? ーのような水兵達凉しいしぶきを蹴って、この古びた酒荷船は、颯々と風を の間をくぐって、酒の匂いのする酒荷船へ乗り込むことが切って走っている。月もまだうすく光っていた。 記出来た。 七十人ばかりの乗客の中に、女といえば、私「暑くてやり切れねえ ! 」 ! だびろ 機関室から上って来たたくましい船員が、朱色の肌を拡 浪と取引先のお嬢さんであろう水色の服を着た娘と、美しい 柄の心を着た女と三人きりである。その二人のお嬢さんげて、海の涼風を呼んでいる。美しい風景である。ドロ 達は、青い茣蓙の上に始終横にな 0 て雑誌を読んだり、果スのおさんも悪くはないなと思う。無意識に美しいポ 1 ズをつくっているその船員の姿をじっと見ていた。その一 物を食べたりしていた。 ッ一ツのポーズのうちから、苦しかった昔の激情を呼びお 私と同じ年頃なのに、私はいつも古い酒樽の上に腰をか だる す・こ じようかんばん さび

8. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

て、帯に門司行きの木札をくくって汽車に乗ったものでれどおしで三人はこれまで来たのですよ。私は赤ん坊に祝 す。 ってやる事をおしんでいるのではないのですけれども、覚 肉親とはかくもつれなきものかな ! 花が何も咲いてい えていますかお母さん ! , 困って、最後に、凭りすがった ひいらぎ なかったせいか、私は門を出がけに手にさわった柊の枝を気持ちで、私は昔姉に借金の手紙を出した事がある。する 折って、門司まで持って行ったのを覚えています。門司へと姉からの返事は、私はお前を妹だとは思ってやしない。 着くまで、その柊の枝はとても生々していました。門司か私をそだててくれもしない母親なんてありようがないのだ ら汽船に乗ると、天井の低い三等船室の暗がりで、父は水し、私はお前にどんな事をする義務があるのです。遠い旅 しらみ の光に透かしては、私の頭の虱を取ってくれた。鹿児島は空で、たった十円ばかりの金に困る貴女達親子の苦しみ 私には縁遠いところである。母と一緒に歩いていると、時は、それは当り前のことですよ。故郷や、子供を捨てて行 さび 時少女の頃の淋しかった自分の生活を思い出して仕方がなく親の事を思うと、私は鬼だと思っているくらいです。以 後たよってはくれぬように 。それ以後、この世の中は 「チンチン行きもんそかい。」 お父さんとお母さんと私の三人きりの世界だと思った。ど 「おじゃったもはんか。」 んなに落ちぶれ果てても、幼い私と母を捨てなかったお父 などと言う言葉を、母は国を出て三十年にもなるのに、 さんの真実を思うと、私はせいいつばいの事をして報いた 東京の真中で平気でつかっているのだ。 長い事たより く思っている。姉の気持ち、私の気持ち、これを問題にす のなかった私達に、姉が長い手紙をくれて言う事には、 るまでもなく数千里の距離のある事だ。だのに、華やかに 「母さん ! お元気ですか、いつもお案じ申しています。赤ん坊を祝ってほしい何年ぶりかの姉の手紙をみて、母は 私はこの春、男の子を産みましたけれど、この五月は初の何か送って祝ってやりたいようであった。 だが私は今 はな せつくです、華やかに祝ってやりたくぞんじます。」私はでもあの姉の手紙を憎んでいる。どんなにか憎まずにはい その手紙を見て、どんなにか厭な思いであった。そうしてられないのだ。本当に憎んでいるのだ。 いまだかって 私の心は固く冷たかった。「お母さん ! 義理だとか人情温かい言葉一つかけられなかった古里の人たちに、そうし おどろ だとか、そんな考えだけは捨てて下さい。長い間、私達はて姉に、いまの母は何かすばらしい贈物をして愕かせたい どれだけの義理にすがって生きていたのでしようか、人情と思っているらしい。「お母さん ! この世の中で何かし にすがっていたのでしようか、いつも蹴とばされ、はねらてみせたい、何か義理を済ませたいなんて、必要ではない あなた

9. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

184 あみたな もめんしま はんらん うに氾濫している。爪の垢ほどにも価しない私が、いま汽る。上の網棚には、木綿の縞の風呂敷でくるんだ古・ほけた 車に乗「て、当もなくうらぶれた旅をしている。私は妙に三味線と、けた・ ( スケ ' トが一つ、彼達の晒された生活 まぶた 旅愁を感じると瞼が熟くふくらがって来た。便所臭い三等を物語っていた。 車の隅 ' こに、銀杏返しの鬢をく 0 つけるようにして、私「はこ 0 ちに腰掛けたら : ・ : こ 同勢四人の中の、たった一人の女である姐御と呼ばれた は・ほんやりと、山へはいって行く汽車にゆられていた。 ゆかた まげ うまや 彼女は、つぶしたような丸髷に疲れた浴衣である。もう三 古里の厩は遠く去った 十二三にはなっているのだろう、着崩れた着物の下から、 あだ 何か仇めいた匂いがして寰れた河合武雄と言ってもみたい 花がみんなひらいた月夜 女だった。その女と並んで、私の向う横に腰かけたつれの 港まで走りつづけた私であった てぬぐい こんちち 男は額がとても白い。紺縮みの着物に、手拭のように細い おろ くたびれた帯をくるくる巻いて、かんしように爪をよく噛 朧な月の光りと赤い放浪記よ んでいた。 首にぐるぐる白い首巻をまいて 「ああとてもひでえ目にあった・せ。」 汽船を戀した私だった。 あたり 目玉のグリグリした小さい方が、ひとわたり四囲をみま ふろしき いっさいがっさい 一切合切が、時も風呂敷包み一つの私である。私は心わして大きい方につぶやくと、汽車は逆もどりしながら、 に気弱な熱いものを感じながら、古い詩稿や、放浪日記を横川の駅に近くなった。この芸人達は、寄席芸人の一行ら からだ 風呂敷包みから出しては読みかえしてみた。体が動いてい しいのだ。向うの男と女は、時々思い出したようにポソボ おれ るせいか、瞼の裏に熱いものがこみあげて来ても、詩や日ソ話しあっていた。「アレ ! 何だね、俺ア気味が悪いで 、なかもの 記からは、何もこみ上げて来る情熱がこない。たったこれツ。」突然トンキョウな声がおこると、田舎者らしい子供 だけの事だったのかと思う。馬鹿らしい事ばかりを書きっ連れのお上さんが、網棚の上を見上げた。お上さんの目を ぶして溺れている私です。 追うと、芸人達の持ちものである網棚の・ハスケットから、 汽車が高崎に着くと、私の周囲の空席に、旅まわりの芸黒ずんだ赤い血のようなものがポトボトしたたりこぼれて 人風な男女が四人で席を取った。私はポンヤリ彼等を見て いた。彼達は、私とあまり大差のないみすぼらしい姿であ「血じゃねえかね ! 」 まぶた つめあか にお よせ

10. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

であった。私はどこかの学校で覚えた、「七尺下って師のは、三十を過ぎた太った女のひとであった。いつも前髪の 影を踏まず」と、言う言葉を思い出したので、遠くの方か大きい庇から、雑巾のような毛束をかしていた。 ら、校長の後へついて行った。 「東京語をつかわねばなりませんよ」 「道草食わずと、早よウ歩かんか ! 」 それで、みんな、「うちはね」と言う美しい言葉を使い みず 校長は振り返 0 て私を啌 0 た。窓の外のポンプ井戸の水出した。 たま しつねん 溜りで、何かカロカロ・ : 鳴いていた。 私は、それを時々失念して、「わしはね」と、言っては とびらあ ちょうしよう 雨戸のような歪んだ扉を開けると、ワアンと子供達の息皆に嘲笑された。学校へ行くと、見た事もない美しい花 ふだ が私にかかった。 ( 女子六年イ組 ) と、黒板の上に札が下と、石版絵が沢山見られて楽しみであったが、大勢の子供 っていた。私は五年を半分飛ばして六年にあがる事が出来達は、いつまでたっても、私に対して、「新馬鹿大将」を ちょっと た。一寸不安であった。 止めなかった。 「もう学校さ行きとうはなか ? 」 「小学校だきや出とらんな、おッ母さんば見てみい、本も 9 長い間雨が続いた。 読めんけん、 いつもかつも、眠っとろうがや」 私は段々学校へ行く事が厭になった。学校に馴れると、 「ほんでも、うるそうして : ・・ : 」 子供達は、寄 0 てたか 0 て私の事を「オイチ = イの新鹿「何がうるさかと ? 」 大将の娘じゃ」と、言った。 「言わん ! 」 私はチャップリンの新馬鹿大将と、父の姿とは、似つか 「言わんか ? 」 ないものだと思っていた。それ故、私は、、 しつか、父にそ「言いとうはなか ! 」 のの話をしようと思ったが、父は長い雨で腐り切っていた。 刀で剪りたくなる程、雨が毎日毎日続いた。階下のおば あわめし ごと うまやれんそう こんぷ つじうらさんしよう と黄色い粟飯が続いた。私は飯を食べる毎に、廐を聯想しさんは、毎日昆布の中に辻占と山椒を入れて帯を結んでい とだ 風なければならなかった。私は学校では、弁当を食べなかった。もう、黄いろい御飯も途絶え勝ちになった。母は、階 た。弁当の時間は唱歌室にはいってオルガンを鳴らした。下のおばさんに荷札に針金を通す仕事を探して貰った。父 じようすひ と母と競争すると母の方が針金を通すのは上手であった。 私は、父の風琴の譜で、オルガンを上手に弾いた。 私は、言葉が乱暴なので、よく先生に叱られた。先生私は学校へ行くふいをして学校の裏の山へ行った。ネル した