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検索対象: 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集
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1. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

をしていた。夜逃けの期日ときめた晩、友人たちが集まつんだのだが、私の反抗心と妙なめぐりあわせから、あんな 貶て、荷物を運ぶ手配をしたのに、折悪しく近くのオリエン いきさつになったのだった。 タル写真工業に火事が起こって、あたりは真昼のあかるさ さて、山田夫人は私がつねづね言っていたことを思い出 となり、近所隣がみんな起きて戸外に出てきた。そのためして、私に結婚話をもってきたのである。しかし、もうそ てはす に夜逃げの手筈が大狂いした話などをたんたんと私にしてういう話冫ー こますぐ飛びついて行く好奇心も意欲も、私には 聞かせた。その家に、妻として住んで苦しんだ私は、馬鹿なかった。 らしい夜逃げの話にもやつばり切実な感慨があって、じっ 「人間は保証しますよ。石田さんのようなあんな男とぜん と耳をかたむけて聞いた。その家から引越して、あの家がぜんちがうわ。」 なくなったということで、完全に私と石田との夫婦生活は 「でも、それだけではね : : : 。」 消えたという実感もあった。 と、私はなかなか腰を上げなかった。 「じゃあ、一体だれかいい相手があれば、結婚する意志が あるんですか、ないんですか。それだけ聞きましよう。」 ある日、雑司ヶ谷の山田清三郎氏から話があるから来い 「それはあります。ですけれど、なかなかわれわれのよう という手紙が来た。なんの気なくたずねて行くと、新しい な女の相手になる男は、むずかしいですよ。」 結婚の話だった。その前から山田氏の夫人には、自分の細どっちつかずのまま私は室にかえってきた。しかし、山 かいいきさつが打ち明けてあった。 田夫人に答えた冷淡な言葉ほど、私自身の本心は冷淡では 山田氏を助けて、編集から、校正から、広告取りにまでなかった。 行く山田夫人は、ある意味で、山田氏以上にすぐれた女だ 世の中には、結婚の道をとおらなければならない女と、 った。彼女には、私の悩みも悲しみもよく通じた。 一人で生きてゆける女と、二種類ある。それはあながち、 「もう、私は自分の眼識というものをぜんぜん信じないん男女間の欲情の問題ではない。欲情なら独身で行ける女に ですよ。今度結婚するとすれば、他人にえらんでもらう嫻も同じものはあたえられているはずである。私のようなタ 妁結婚よりほか仕方がないと思いますわ。」 イプの女が味わう孤独の苦しみは、つまり自分一人では人 と、私はよく夫人に話していた。じつは、柳瀬氏が白鳥を間性の半分しかもっていないという精神のものたりなさだ 紹介したときにも、同じ絶望から同じことを柳瀬氏にたのった。人間は、二人で組み合わさって、一つのものになる

2. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

なんでしよう。」 いうのはこの人だなということがわかってきた。相手もそ れを意識しているらしく、こだわらないはなしぶりのなか 私はだんだん興味をそそられていった。 「じゃあ、とにかく今度うちで会わせるからいらっしゃ に、ところどころにへんな沈黙がまじる。 。頭もいいし、人間は悪くないおもしろい奴ですよ。」 話をきいているうちに、若い柳瀬夫人が奥から私を手ま その日は冗談まじりのとりとめのない話で、深川に帰っねぎした。 「あの人よ。どう ? 変わっているでしよう。でも、あな たとは合いそうじゃありませんか。」 殺風景な・ ( ラ , クの中に、寝台とテー・フル一つずつの 「そうね、もっとよく話してみなくてはなんとも言えない で、やはり、落ちつかない数日が過ぎた。いつのまにか、 私はその縁談を目標にして暮らしていた。 ある日、柳瀬氏から、用事があるからタ方までにくるよ「それもそうね。じゃあ、二人だけで話してごらんにな うにと、速達が来た。 「来たな。」 夫人は、心得顔に私をそこに待たせておいて、こんど と私は、心の中でほくそ笑んだ。このがらんとした室でのは、柳瀬氏を呼んでそのことを言った。柳瀬氏はすぐ引き 落ちつかない日々は、今日を待っためにあったかのよう かえして、その青年を奥に呼んだ。 たの しらとりくん に。私は、立ちあがって、てきばきとみずから恃むところ「紹介する。これは、意識的構成主義派の白鳥君だ。君た あり気に外出の仕度をした。 ち二人の気持が合うのか合わないのか、僕には見当がっか たずねた柳瀬氏の家には二人来客があった。一人は、少ないので、二人で話してもらうのが一番近道だと思う。あ しゆきの短い背広を着てはにかんでいる二十七八の青年だとは君たちにまかせるよ。」 花 った。しばらく話をきいているうちに、築地小劇場の丸山白鳥はてれもせず、 えりくび の 定夫だということがわかった。もう一人は、髪の毛を衿頸「大丈夫ですよ、案ずるより産むがやすしでね。」 砂まで長くしてル ' ( シカを着ていた。江戸っ子らしい言葉使と、ぬけぬけと言っていた。私と白島とは、柳瀬家を出て いで、しきりにおもしろそうに絵の話をしていた。どうや高円寺から省線電車に乗った。 ら彼は、当時世間を驚かしていた「マヴォ」という抽象的「僕の家は目黒なんだがね、とにかく来てみたまえ、風変 な画家のグループの一人らしい。自然に、例の話の相手とわりだから。ちょっと東京中にはめずらしいね。」 」 0 したく

3. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

ふとん ましよう。布団は二階の押入れにあります。」 「前借の話はあんたからしてくれい、な。」 「あら、だって市さんが何か言っておいて行ったでしよとおかみさんが言って、その場所をくわしく教えた。そん なこともしていたのかと、ちょっとこの店を見直した気持 あらだ で、石田と連れ立って、教えられた通りに新建ちの料理屋 「何も言ってないようだよ。腕しだいでいい金になるか ろうそく ら、安心してあなたは帰ってもいいですよ、なんて言ってをさがしてたずねて行った。借りてきた蝋燭を手にもっ て、まだ紙を賰ってある階段を下駄のまま上がってゆく いたもの。」 と、二階は荒壁だけれど畳が敷いてあった。四畳半の小室 「へえ。」 が四つほどならんだ奇妙な作りである。 どうも話が通じていないらしいとは、昼間から田 5 ってい やっと二人だけで話す機会ができた私と石田とは、ほこ 「ただ働くなら、意味ないわね。前借なしで働くんなら、 りをかぶった新しい畳に向き合って、ふところ手をしなが も少しましな家で働くわ。この家はまるで飯屋よ。チップらぶるぶるふるえていた。 なんておいて行く人はないわ。」 「へんな家ですね。前借の話がちっともないから、わけが 石田は弱った顔をしていたが、来る汽車賃しか金はもつわからないわ。」 ていないし、どういう知恵も出ないらしい 「だめだ。この家は逃げ出した方がいいかもしれない。」 「へんな話だわねえ。」 「逃げ出さなくても、どうどうと出て行くわ。何か言って いたんですか。」 店に引っ返して、つくねんとしているけれども、客はほ とんどこない。たまに来ても、七輪をばたばたおこしてか 石田の口調には、何か私の知らない事情が暗示されてい ら料理を始めるのである。常識で考えてみて、この店でるように思われる。 は、料理を売ることに、力を入れていないとしか判断でぎ「どうもね。あんたの働くのはほかの土地らしいんだよ。 おかみさんがちょっとそんなことを言っていた。」 晩はいったいどこに寝させてくれるのだろうと気にして「じゃ、この店で働かせるための前借じゃないんですね。」 いると、看板時間になってから、 「伊豆に心当りがあるんだが、なんて言ってたよ。」 、ようなもんだ 「いまね、立派な料理屋をつくりかけているんですよ。ま「どうせ乗りかかった船だからどうでもいし だすっかりできてないけれど、そっちへ行って寝てもらいけれど、伊豆まで出かせぎに行くのではちょっと悲しいわ げた

4. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

416 あいだ、寒い旅順監獄の起きふしだの、大連の肉親たちの いる石田との関係を手短に打ち明けることになった。伊東 消息だのを、そらそらしくたずねたり答えたりしていた。 は最後まで冷静に聞いていた。 ところが、ふと彼がこんなことを言った。 「いや、じつはね。ほかで君と石田との関係は聞いている 「それで、あなたの話したい話というのは、一体どういうんだが、まあ縁あって一しょになったんだから、せい・せい ことなんですか ? 」 努力したまえ。そこで君がもう一度あの男と別れることに 私は相手の質問が腑に落ちないまま、 なったら、世間はもう相手にしないよ。」 「なんですか。」 「それを思うから、今までもずいぶん努力してきたつもり といかえした。 なんですけれど、こういう努力は、別れたくないという未 「だって、あなたから会 いたいという手紙だったから、僕練としてではなく、別れてはならないという理性として働 は待っていたんですよ。」 くでしよう。だから、やつばりあの人にはかわいげのない 「あらつ、それはおかしい話ですね。私は、あなたが会い女になってしまうのよ。」 たいという手紙をおよこしになったので、出向いてきたん いつのまにか、こんな打ち明け話までしていた。 ですわ。」 石田が家に待っていると思うので、一時間ばかり話をし 二人は目を見合わせた。思いあたることが一つあった。 て、私はその宿泊所を出た。 石田が、伊東には、私が会いたがっていると手紙を出し、 電車に乗って考えると、石田が二人を会わせるためにこ 私には、伊東が私に会いたがっているとい 0 て手紙をよこんな工作をしたことが、やつばり、重大な問題として頭に したことにして、二人をあやつって会う機会をつくったののこった。結果にあらわれた石田の行為から判断すると、 ではないかということである。 石田は、私と伊東をもとどおりにつなぎ合わせて、私のよ 「それにしても、へんなことをするんだね。一体どういう うな目方の重い女から肩をぬこうとしているとしか判断で わけなんだね。」 きない。 このまえ運送屋の弟の、山川を泊らせるように仕 私は、伊東の前に石田の性格を説明することは苦しくて向けたトリックがあらわれたときも、私はすでにこのこと つらかった。しかし、それを説明しなければ、こんなありを直感していた。やつばり、妻の勘というものは、少なく えないことをする人間の存在がなっとくできない。私は自とも、夫にたいしてはするどく働くものである。私は、 分の心にびんびんひびいてくるいやな言葉で、今一しょにらに自分と石田との関係を見なおさなければならなくなっ かん

5. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

322 まおうと、 「紹介する。これが松本君だ。君、会ったことがあるじゃ / し・カ」 「何も考えることはないよ。とても善良なやつなんだか うわさ ら。それに何より君が好きなんだよ。いつも君のばかりそう言えば顔だけは見たことがあった。背が小さく柔軟 からだ な体つきをして、彼らの仲間のグロテスクな踊りの一番上 しているんだぜ。」 「ええ、じゃ、そういうことにするわ。だけど一度その前手な踊り手だった。松本は、会見の内容を知っていると見 えて、はにかんでかたくなっていた。 に会わせるぐらいしてくれるでしよう。」 「もちろんだよ。」 私は、彼の、顔をそむけた不自由な様子を見ると、腹の かかたいしよう そんな簡単な話だったけれども、話はそれできまったよ中で呵々大笑した。「おや、この人はまだ女を知らないと つぶや うなものだった。この時の私の気持を今考えてみると、抜見える。」と高い所から見おろすように腹の中で呟いた。 きさしならない本当の人生に再出発する前に、仮の練習ですでに私は、こんな青年を頭の上からまるごと見おろすよ いろいろなことを試みているといったようなかるい気持だ うな経験をつんだ女にかわっていた。 った。本当の人生は、こんな練習のあとに・せんぜん別なも その場の野暮なぎごちない空気を破って、白鳥は、 のとして、私を待っているような気がしていた。 「君、松本はアナなんだぜ。僕みたいなポルと違って、そ そんな話がきまったような形になっても、やはり私にはの点でも君と合うと思うよ。」 そら ほかに行く所がないので、このビルディングに寝泊りしてと口をそえた。これも空と・ほけた言い分だった。私たち いた。しかし、まだ、そうと話がきまっても、まさか白鳥は、無政府主義か共産主義かで争ったけれども、二人の合 が本当に松本をつれて来て紹介するとは信じかねていた。 わない原因がそんなところにないことは、二人とも承知の くっ ところがある晩、二階にあがってくる靴音が乱れて、のぼ上での争いだったのだ。 ってくるのが一人でないことがわかった。 こんな時、こんな立場の男に何をたずねることがあろ 白鳥は、私が机に向かっている室を外からのぞいて、 う。そしてまた、何のたずねられることがあろう。私も松 「平林君、松本君が来たよ。ちょっと出てこないか。」 本も終始だまって、一言もしやべらなかった。ただ一人し と呼んだ。私は、声もなく目をみはって、一瞬どうしようやべっているのは白鳥である。 かと考えていた。が、白鳥は、松本をつれて室にはいって 五 じよう

6. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

252 ただ一人、アッカーマン夫人の親しい某大学教授が、 性格や、教養のなさなどが、一ペんによみがえって、彼の 顔をみるのも厭わしかった 0 しかし、彼の方は、そのとき「あんなにあとを追うというのは、ただの関係ではありま せんね。あなたは何か身に覚えがあるでしよう。」 以来私にたいする追求をさらにつのらせた。 よく手紙を書く彼は、朝速達をよこし、午後には新聞社と、こっそり問いつめた。私が、弱くではあるけれども、 から取材に出かける中途にそっと店に顔を出し、夜はかなそれを肯定すると、 らず表に待っている。 「それでは、こうしたらどうですか。しばらく身をかくし ていらっしゃい。 マダムに話して、あなたはやめたことに 表に彼が待っているとみると、私は、鍵をしめるのを、 隣の写真屋さんに頼んで、こっそり第一相互館の中から帰してあげます。そのあいだに、だれか人を傾んで、ちゃん と話をつけてもらいなさい。」 ったり、他の人とかわってもらったりした。 が、私が避けると、彼はさらに追いつのって、恥も外聞と言ってくれた。それは一つの当座しのぎの案ではあっ もなく表からどうどうと店の中に会いにくる。私は、他人た。が、あいだにはいって、話をつけてくれる人もない ゅううつ にはロもきけないほど憂簓でおどおどして、人心地もなくし、第三者の話などで、ちゃんとなっとくする理性的な人 間でもない。しかし、とにかく、夫人や守田さんの好意 毎日をすごした。 で、私は店をやすむことにして、京橋の室にかくれてい とうとう彼は、酒に酔って店の中まではいってきて、 めかけ た。店と貸間主のお妾によく頼んで、彼がたずねてきた 「ちょっと話がある。表に出ろ。」 とどなりちらし、こばむ私をなぐったり、足でけったりすら、店を休んで旅行に出かけたというように口を合せてお るようになった。 半月ぐらい、私は店をやすんで、図書館に行ったり、室 店の幹部たちも、はじめはそっと見ていたが、 「どうしたんですか、平林さん。あの人はあなたをどうしで本を読んだりしてすごした。そのあいだに、自分のした 行為をかえりみる機会をえた。 ようというのですか。」 と、親切に口を出すようになった。しかし、私には人にい ようするに、私は、愛の情熱よりも、知識への情熱によ えない彼とのいきさつがある。自分が彼を嫌っているのって、不自然に彼とこんな深みに、はまりこんたのであ に、彼が自分を愛している、いわゆる片思いというようなる。 単純な関係ではないわけだ。 私の肉体も感情も、まだ異性を愛するには十分成熟して きら へや

7. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

中学を退学になったいきさつは、あまりくわしくは語りゆずって、煙草をふかしているばかりである。彼は、私が たがらなかったが、いずれ軟派か硬派のどちらかである。 いることで、ただただ満足している様子だった。が、私は せけんて、 そくばく 署長の父親が、息子の不行跡の責を負って世間体を苦しん少しも彼のいることに気持は束縛されていなかった。それ だ話を、汽車の中じゅう彼はおもしろおかしく話してきかをわざと彼にったえるために、事ごとに角のある物腰や言 ひばち せた。火がはいったままの火鉢を母親に投げつけたとこ葉っきで、彼の気持に反抗していた。 ろ、畳に炭火が散らばったのに、気丈な母親は、きっとそ よくしゃべる石田は、この土地へ来た以上、一切を切り れを眺めているだけで、けっして火を拾おうとしなかった盛りする責任もあって、せわしなく立ったりすわったり、 ために、あやうく火事になりかかった話。 警察へ電話をかけて、父の旧部下を呼び出したり、昔の友 ゆくえさが あとで、石田と一しょに暮らすはめになってから、いまだちの行方を探すためにあちこちやたらに電話をかけた。 まなざ 一度その話をしみじみ味わいかえしたとき、それは冗談ま彼の落ちつきのない眼差しや物腰で、一応彼の風格は私に じりにうぎうきと話したり聞いたりする話題ではなかったのみこめた。気取ってはいるけれども、くみしやすい男で ことを、いやというほど悟らされた。けれども、そのときある。 は、今日からの新生活の希望でやたらに興奮していたか 夕飯がすんでから、三人の男たちは遠い風呂場に階段を ら、どこかの世界のおもしろい出来事のように、野卑な冗降りて行ったが、私だけは室にのこった。何かの用事で隣 うとく 談をまじえたりして、ひとの親を冒しながら聞いたり語室にのこった石田が、そばに寄ってきて、 ったりできたのだった。 「どうです。何か不自由なことはありませんか。これから もずっと長くあなたにいてもらわなくちゃならないんだか 四 ら、こうしてもらいたいと思うことは、遠慮なく言ってく あきべっそう 須磨が借りておいた空別荘に、われわれは明日移ることださいよ。」 にして、その晩は、おもしろく談笑して床についた。 と、苦労人をまねた口調で言った。 ロ数の少ない川島は、ときどきひょっくりひょっくりと「はあ、ありがとう。べつに何も格別な要求はありません ひょういつみ わいだん 思いがけない露骨な言葉で、瓢逸味のある猥談を始める。 松本はロ数は少ない男だったが、文学に向いている石田やと、あしらっていた。今朝から彼が、親切によけいな言葉 川島とはなんとなく話が合わないらしく、だまって話題ををかけるのを、私はどう受けとめるべぎかわからなかっ なが せめ へや かど

8. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

ほど自炊して、ふるい知合いをたずねて歩くだけで、すで柳瀬氏は疑わしそうに、私の顔を見おろした。が、私は 引につきようとしていた。早晩働くなり何なり方針をきめなどうしても話がついていると言いはった。じつは、獄中の くてはならない。しかし、二年前に東京に出て来た時の田伊東に、まさかこんな言葉を投けつけることはできず、気 舎娘らしい一本調子の緊張はもう私にはなかった。私は、持もすっかり割り切れているわけではなかったので、その あのころのように、一直線に前方ばかり見て歩むことはでことには何もふれずに大連を発っていた。もちろん彼は、 前後の事情から私の大連出発が一生の別れであることは覚 きなかった。決断にも実行にもよけいな時間がかかって、 悟していたに違いない。それに、面会した時の二人の悲し 左右前後を見まわす習慣がついていた。 ふんいき ある日、旧知の漫画家柳瀬正夢氏を訪ねた。わずか十七い雰囲気では、そんな気持の裏をさらけ出すには忍びなか った。けつきよく、つきつめない上皮だけのいたわりあい 歳の奥さんを持っている四十歳近い柳瀬氏の家庭は、こち もんとう んまりして、ユーモラスで、門灯のほやにとかげがはってで別れたきりになっていた。 「あなたが伊東君とちゃんと別れているなら、ちょうど頼 いる絵が墨で書きこんであった。 「なんだか落ちつかない顔しているじゃないの、平林さまれている人がいるから、あなたに世話しようと思うのだ ん。伊東君と別れるならそれも仕方がないけれど、気持をがね。」 「へえ、耳よりの話ですわねえ。」 たてなおして、もっと緊張しなくちゃだめですよ。」 「ええ。」 と私は、冷笑した。芦屋の加藤氏をたずねたとぎにも、夫 と私は曖昧に笑いながら、 人から外山氏との結婚話が持ち出された。柳瀬氏も、会う 「この落ちつかない気持は、ちょっと説明でぎませんわとすぐ結婚話を持ち出すところをみると、私には何かそん ね。小説も書きましたけど、・せんぜん、自信ないんですな所にでも落ちつかせなければ見ていられないあぶなっか の。でも、中西さんに送っておきましたから、あなたからしさがあらわれているに違いな、。 もおロ添えねがいます。」 「どんな人ですか、まあ言ってみてください。」 「ときに、伊東君とは別れる話し合いは、きつばりついて「あなたには以合いのおもしろい人なんだよ。前から頼ま れているけれど、ちょっと彼と組み合わせる相手はなかっ いるの ? 」 たんだが、あなた向きだ。」 「ついています。」 「でも、それだけじや私にはわからないわね、どんなかた 「よく伊東君が承知したね。」 あいまい あをや

9. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

99 放浪記 「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎は ーに居て、友達にいじめられて出て来たんだけれど、浅草 うらないし 、、 0 の占師に見てもらったら、神田の小川町あたりがいいって 三年も此家で女給をしているお計ちゃんが男のような口言ったので来たのだと言っていた。 にしき のききかたで私をさそってくれた。 お計さんが、「おい、ここは錦町になってるんだよ。」と 「ええ : : : 行きますとも、時でも泊めてくれて ? 」 言ったら、「あらそうかしら : : : 」とつまらなそうな顔を ところ 私はそれまで少し金を貯めようと思う。こんな処の女達していた。此家では一番美しくて、一番正直で、一番面白 の方がよっぽど親切で思いやりがあるのだ。 い話を持っていた。 あなた 「私はねえ、もう愛だの恋だの、貴郎に惚れました、一生 捨てないでねなんて鹿らしい事は真平だよ。こんな世の ( 十月 x 日 ) 中でお前さん、そんな約束なんて何もなりはしないよ。私仕事を終ってから湯にはいるとせいせいする気持ちだ。 さら あらいゅ をこんなにした男はねえ、代議士なんてやってるけれど、広い食堂を片づけている間に、コックや皿洗い達が洗湯を まで 私に子供を生ませるとぶいさ。私達が私生児を生めば皆そっかって、二階の広座敷へ寝てしまうと、私達はいっ迄も ちょっ いつがモダンガ ールだよ、いい面の皮さ : : : 馬鹿馬鹿しい風呂を楽しむ事が出来た。湯につかっていると、朝から一 浮世じゃないの ? 今の世は真心なんてものは薬にしたく寸も腰掛けられない私達は、皆疲れているのでうっとりと もないのよ。私がこうして三年もこんな仕事をしてるのしてしまう。秋ちゃんが唄い出すと、私は茣蓙のにゴロ リと寝そべって、皆が湯から上ってしまうまで、聞きとれ は、私の子供が可愛いからなのさ : : : 」 いら、ら あなた お計さんの話を聞いていると、焦々した気持ちが、急にているのだ。ーーー貴方一人に身も世も捨てた、私しゃ初恋 んとう 明るくなってくる。素敵にいい人だ。 しぼんだ花よ。ーー何だか真実に可愛がってくれる人が欲 うそ しくなった。だけど、男の人は嘘つきが多いな。金を貯め のんき ( 十月 x 日 ) て呑気な旅でもしましよう。 ガラス窓を眺めていると、雨が電車のように過ぎて行っ た。今日は少しかせいだ。俊ちゃんは不景気だってこぼし この秋ちゃんについては面白い話がある。 ゅううつ ている。でも扇風器の台に腰を掛けて、憂鬱そうに身の上秋ちゃんは大変言葉が美しいので、昼間の三十銭の定食 話をしていたが、正直な人と思った。浅草の大きなカフェ組の大学生達は、マーガレットのように秋ちゃんをカンゲ なが うた ござ

10. 現代日本の文学23:林芙美子 平林たい子 集

433 注解 林芙美子集注解 話渦巻渡辺霞亭の家庭小説。天下の紅涙を絞ったお家騒動の 物語。やはり劇化されて流行し、渦巻模様は一時女性の着物の 模様にまでなった。 話女成金になりたい林芙美子が終生持ち続けた理想であった が、事実彼女は晩年には成金となり、成金趣味ともいうべきス ノビズム ( 俗物精神 ) を満足させた。 しやくじよう 放浪記 五五祭文語り法螺貝や錫杖をつく音にあわせて祭祀の文を語っ ・なにわぶし 吾一太物絹織物を「呉服」と呼ぶのに対して綿織物・麻織物を て銭を貰って歩く人。明治以後は浪花節語りもこう呼ばれた。 総称するいいカた 五五ほうろくのように焼けた暑い直方の町角「ほうろく」は、 五三モスリンの改良服 muslin(N{)0 モスリンはメリンスともい 茶・塩・豆などをいる素きの平たい土なべ。「ほうろく」は 、薄地のやわらかい毛織布地。改良服は大正時代にはやった 当時多くの家庭の台所などにあった物で、炭坑町の庶民生活の せっちゅう 和服折衷の婦人服。 雰囲気がにじみ出ている表現である。これも林芙美子が、しば 話モッタイナイ林芙美子が好んでしばしば使った傍点つき片 しば用いた傍点つきの仮名書きによる強調の用法である。 仮名書きの表現法。 五六連鎖劇映画の途中に実演を、実演のあい間に映画をはさん 話砂で漉した鉄分の多い水で舌がよれるような町直方は福岡 で、映画と舞台の人物を一致させ、それぞれの効果を併用して 県北部にある筑豊炭田の鉱業都市であるため、飲み水にも鉄分 見せる演劇。無声映画時代の大正初期に流行した。 やリきすつるぎきず が多く含まれていてまずく、飲むと舌がもつれるような煤っ・ほ契国を出るときや玉の肌「今ぢや槍傷剣傷 / これぞ誠の男の ひげ けた無味乾燥な町であったと誇張的に表現したのである。芙美 子ちゃと / ほほ笑む面に針の髯」とつづく。「馬賊の歌」の一 子にはこの種の状況の「ような」表現が多い。 節。大正十一年ごろから「狭い日本にや住みあいた」青年たち 話おいとこそうだよの唄千葉県の民謡の「おいとこ節」。「お が大陸雄飛の熱にうかされて歌い、大いに流行した。 いとこそうだよ / 紺屋ののれんに / 伊勢屋と書いてんだよお五七ストライキ、さりとは辛いね明治三十一年から三十二年に 梅十六 / 十代ったわる / 粉屋の娘だんよ : : : おいとこそうだ かけて、名古屋のメソジスト派教会宣教師アメリカ人モルフィ ゅうかく よ」といったもの。替え歌「新おいとこ節」が多くつくられ、 が、遊廓の娼妓の自由廃業運動にのりだし、その第一号として 明治末から大正にかけて書生などによってうたわれた。 名古屋市の東雲という名の娼妓が、モルフィの教会に逃げだし 聶なさぬ仲尾崎紅葉の門下柳川春葉の家庭小説『さぬ仲』。 てきたが、モルフィの懸命な擁護にもかかわらず、楼主の強圧 ひとり 一人の子供をめぐって実母と生さぬ仲なる継母とが争い、継母 に負けて遊廓に戻るという事件があった。この事件がきっかけ が勝っという筋。新派劇にしくまれ、評判をとった。 となって廃娼運動は全国的に広がり、「東雲節」 ( 一名「ストラ ふともの のう那た しののめ