とかく の壮い二人の牧師は、更に五つも年下の記者と、協志社時又雄さんには兎角の返事をせずに房州へ往ってしまおうと ゆきまえ 代に復った様に快活に話して居る。ははははと上ずった軽思うた。然し房州行前に是非能勢家に挨拶に行けと父に言 にしかたまち しぶしぶ い調子の又雄さんの笑声、蒸汽機関の煙突から噴き出す様われて、敬二は渋々本郷の西片町に往った。分かりにくい こうじ とあ なと言う江見さんの腹から出る笑声、いひひひひと皮十番地を探して歩いて居ると、唯有る巷路の曲り角でばっ よろこび でつくわ 肉な兄の笑声、入り乱れて世にも憂なげに興じて居る。敬たり又雄さんに出会した。又雄さんは歓喜の色を見せて わアし 二は羨ましく腹立たしく情記くなって、門を出てぶらぶら「あ、敬さん、俺に要があって来なはったか」と言うた。 さしうつむ 敬二は差俯いて「裔」と答えた。又雄さんは失望の色を見 あるいた。 ころ 最早帰った時分と思う頃、敬一一は戻って来た。驚破、身せて、「それじゃーと往って了うた。敬一一は江見さんと同 すぎがきそ 受高い二つの人影 ! 杉籬に傍うて来るのは、又雄さんと居の能勢家をやっと探し当てて、叔母さんに挨拶して直ぐ もうかく 江見さんだった。最早躱るることが出来ぬ。黙って辞儀を帰った。 しゆったっ えしやく 明日は房州へ出立と言う日の午後、外から帰って見る すると、一一人も会釈して過ぎた。逍れたかと思うたら、 ちょっと と、敬二の座ときめた父の居間の東の小窓の下の机に、封 「敬さん、一寸」 しも 筒もない手紙がのって居る。又雄さんの手紙だ。びくりと と又雄さんが呼びとめた。江見さんは往って了うた。 だじゃく ひら して、披いて見ると、烈しく敬一一の懦弱を責めて、最後の 「敬さん、ああたまた詐を言いなはったな」 決心を促した手紙だ。敬一一は冷やりした。此様な手紙を開 又雄さんの声が低かっただけ、敬二はひやりとした。 、つと 「民朋社の名義で手紙をやったりして、寿代は大得意で皆封でよこして : : : 屹度見られたに違いない。 目に手紙を読んで聞かせたりして、最早誰でも知らん者はな其夜敬一一が父母の蚊帳に寝て居ると、一間隔てて次の六 の 畳に寝て居る兄が敬一一に声をかけた。 ・ : そりゃああたが山下に御って下はるてち言うなら、 「今日能勢が卿に非常に怒った手紙をやったが、あら何か 茶山下では結構です。然しああたの為によくない」 眼又雄さんは敬一一に最後の決心を促して去った。 まっすぐ のつびー 熱敬二は又雄さんの親切を疑わなか 0 た。然し直ぐ其勧告敬二は退引ならぬ場合に置かれた。然し彼は真直に事実 に従うことは如何しても出来なかった。彼は能勢家にも往を白状する勇気がなかった。彼は死んだお稲さんに一人の その ちょっと かず、又雄さんに手紙も出さなか 0 た。と従弟を連れて妹がある事を語りはじめた。其妹は一寸才女であることを 房州保田に海水浴に往くことにな 0 て居たを幸い、敬二は言い添えた。敬一一自身去年の夏能勢家で甲斐甲蛩しく働い し き、り うれい もうたれ のが うわ すわやた こん あいさっ
218 トナリタル事。 を犠牲にする自己を不憫がりつつ自然悲壮の情調になっ し ヘンリイマアティンなど献身的異国宣教 右三カ条、君 ( 姆何ニ思惟スルカ。兄弟トシテ余 ( 之ヲて、ザヴィエ工、 おもかげ ひらめ 師の面影も眼の前に閃き、「未ダ小生ノ為ニ残サレタル恩 問ウ。兄弟トシテ答弁アランコトヲ望ム。 みとうよ あるいばんじんえ 日 月 又雄 寵ノ座アル乎、身刀鋸ニ死シ或ハ蛮人ノ役タルモ厭ワザル 敬二君 ナリ」などと書いた。此手紙が往くと、直ぐ次平さんが半 なお 若将来成業ノ後尚其感情ニ変リナク・ハ別問題タルモ、今紙に鉛筆で走り書きした又雄さんの手紙を持て来た。 ディアープラザー Dear bro. 日ノ所為ノ如キハ全然論外ナリ もっ * アイアムアプクト , ー サチスファイドウイズュアー アンサ I am perfectly satisfied with your answer. 敬一一は複雑な感を以て此一書を三読した。松崎の事に関 しかこれ ストレングスン おおよう メーイオールマイチイ May AImighty strengthen しては、大様な又雄さんは何も知らぬ。然し此は又雄さん なおなおが、 ウイルアンドへル・フュー インアー デシジ第ン かぎり your will and help you ln your decision に言うべぎ限でないと思うた。尚々書は敬一一を憤激せしめ ま ちそう た。敬二は又雄さんに答うる前に、先ず寿代さんに一書を而して土曜日には馳走に来いとあった。此は叔母さんの 書いた。 病気も大分快くなったので、お稲さんの病死、叔母さんの えん 「御身は此尚々書を見玉いしゃ。又雄氏は小生と御身の間発病以来、種々能勢家の為に骨折った人々を慰労の宴であ ただ った。敬二は土曜日に荒神口に往ぎ、それから江見、富 を以て、唯一時に燃えて消ゅ可き浅薄なる感情の発作と とろ あた 看做せるなり。火を鎔かす能わず水もらす能わざる神岡、留田、町田其他数名と四条の健亭で生れて始めて西洋 料理の馳走になった。次平さんも来て、一種のとぼけた軽 の前に聖別されたる我等の愛を」 こん 口を言って人を笑わせたりした。敬一一が黙り込んで居るの 斯様な句があった。 敬二は一気に書いた。然し直ぐには送らなかった。敬一一で、又雄さんは慰め貌にしばしば敬二に話しかけた。 じよう たらあい もと は一昨年来三年越彼を弟の如く愛してくれた又雄さんの情敬二は其後間もなく、荒神ロでおくらさんの立合の下 その 誼を無視することは出来なかった。寿代さん其人に対するに、寿代さんと手を切った。敬一一は寿代さんの手紙を返え むね よみがえ 疑惧も、蘇った。翌日のタ次平さんが旨を受けて返事のした。寿代さんは敬二の手紙と半身の写真を返えした。寿 催促に来た。振子は到頭又雄さんの方に動いた。敬二は寿代さんは絶交までしなくてもと眼色を変えたが、叔母のお 代さんに書いた手紙を裂いて、又雄さんに無条件の降参状くらさんが顔を合せたり話をしたりするのはよくないと言 を書いた。書いて居ると、次第に其方の熱が加わり、感情うて、敬二もこれに裏書きした。何方にでも得くとなれば しよい この ごし か 0 これ み よ がお ふびん どっら けんてい もっ
めかけ って来た寿代さんが手代りをしようとすると、先生は手を婦の嫂母子やら、六年も前から居る妾同然の加寿やらの おっとっか めくばせ 中で、先生やら親やら主君やら分らぬ良人に事えて、多少 振って彼方へ追いやり、敬二に胸して氷嚢を譲った。 の皮肉は含まれても兎に鮃其良人から「おっせは君子だ」 しゅうとう 《三》叔母さん と言われる程周到に努めぬいた叔母さん、其良人には非命 しばら 敬一一は其から暫く学校を休んで、叔母さんの病床につの死をされ、又雄さんの耶蘇教信仰では郷党非難の中心に うつよ っさ、 いて居た。又雄さんは飯島先生の注意で当分先生の宅に起されて、すんでの事に懐剣の切尖に俯伏すまでの苦をした 臥すことになった。弔儀客、見舞客、手伝いの人々、伊予叔母さんが、昔から年のいかぬ敬二に陰気に窮屈に思われ の教会から総代で来て勝手の大火鉢を囲んで小声に能勢家たのは無理もなかった。敬二は此叔母さんの自己を忘れた の善後策、又雄さんの後妻の事など心配し合うて居た老練振舞を唯一度も見た事が無かった。物静に、控え目に、謹 やっかい ながたに な町田さん、耶蘇と同じ商売の大工でやかましゃの長谷さ深いのが叔母さんの常であった。伊予に来て能勢家に厄介 んなども、それぞれ帰って往って、あとは内輪の小人数にになって以来、敬二はますます叔母さんを好かなかった。 かんがえ かえ なった。木屋町時代に復った様な気になって、敬二は氷嚢叔母さんは敬二の軽率を苦にして、考が足らぬとしばしば しか さす を換える、湯たんばを入れる、叔母さんの手足を摩る、か敬二を叱った。又雄さん其人は弟の如く敬一一を待つに、叔 あやんが便器を持て来る時叔母さんを抱き起す、時には薬母さんは敬一一の事で始終哥子の又雄さんに気がねした。叔 取りにも走った。お稲さんの葬式に、門口に出て、しょぼ母さんは吾腹を痛めた又雄さんが、沼南先生の御子息と言 ひげあご うことが、何時までも忘られなかった。又雄さん美枝さ しょ・ほした眼をして、灰色の長い髯の顋をしやくって、柩 むすめ おと ) に礼して居た飯島先生の阿爺さんが、三日も経たぬに亡くんと昔から吾子吾女を呼び捨てにしたことはなかった。っ 目 とめて母の位置には立ちながら、自然に卑下して、甥の敬 のなって、其偉大な息子の学校の礼拝堂で葬式があったが、 二まで吾血筋の者と自分同様っとめて卑下さす様に敬一一に 茶敬二は其れにも欠席して叔母さんの病床につき切った。 、りがみ は受取られた。これが敬二に気障であった。聴かぬ気の 眼敬二は昔から此陰気な切髪の叔母さんを好いては居なか からだ 熱 0 た。子供の時から体が弱くて、両親に心配をかけるを苦母によく肖た敬一一の兄が、昔から年下で居て又雄さんをや にして、十三四から気分が悪い時はわざと厚僊粧して親のやもすれば馬鹿にして居たに引易え、律義な父の血を多分 目を瞞ました程愾悧な娘は一一十三で年齢の一一十五六、親子に受けた敬一一は、又雄さんに対して偽ならぬ尊敬をもっ 程も違う名高い沼南先生の夫人にな 0 て、同居して居る寡て居た。然し叔母さんの小心翼々は、敬二を反撥させ あっち おな ひばら あによめ ただ と いつわり かじゅ
「敬さん、ああたなんちゅう不都合な : : : 」 《一 l) 伏流 「プロミスを破るつもりで : : : 」 翌日の日曜に礼拝堂に出て見ると、説教者は又雄さんで 「プロミスを破る ? そう言う相談なら、家内でも出来る じゃありませんか。此様な所に若い娘を誘い出して、人にあった。疵持っ足の敬二は、会衆の中に小さくなって居 ムだんおんしやに たいせいしつ た。又雄さんの説教は、平常の温藉に似もやらず、大声疾 何と言われたって言い訳がありますか。此間も約婚の事は 呼、ロから火が出そうな勢であった。無々した頭の情態 聞いたが、やめなはったてちいうから安心しとったら : あぎ 今日も南禅寺に往ったてち言うから、若かすると思うち来は、大勢の中に隠れて聞く敬一一にも手に取る様に鮮やかに そのげつこう ひとえ ムらら て見ると、此だーー、寿代も不埒だが、敬さんああたは実に読まれた。にない其激昻の原因を知って居る敬一一は、偏 かつばっ に高壇から叱らるる様に感じた。「活浅であります乎。 次平さんー すわりまなこ 又雄さんは、据眼で足下の砂を見て居る次平さんに向イロンは活でありました。幾人の情婦をつくる程に活 まっこう でありました」と畳みかけた又雄さんの声は、真額から敬 はかま 「ああたにア実に面目もありまッせん。然し期う言う事が二の頭に落ちた。例によって紫の袴を連ねて女学校から来 キリスト て居るからには、寿代さんもあの中に居るであろうが、何 あるけン基督教が必要ですー ちょっとおか くすぐ 敬二は一寸可笑しい様な擽ったい気もちになったが、黙と思うて聞いて居るであろうか、と思いつつ近眼の敬二は うつむ 左側の色ある席を眺めた。敬二は又雄さんに多分の気の毒 って俯いて居た。 おとうさん かっかっ 又雄さんは戞々ステッキを突きながら、阿父やお稲さんと、幾分の済まぬ感をもって、礼拝堂を出た。 しまさらいかん 外し敬一一は今更如何ともすることが出来なかった。其ま 目の眠って居る墓の方へ大股に御って了うた。 うち わアし の まに一一三日打過ぎた。三日目に南禅寺以来初めて会う次平 「そっだけン俺が言うたろうが」 もっ 色 さんが一通の手紙を持て来た。又雄さんの手紙であった。 茶次平さんがきおいかかるを、 いまなかば 一修学未ダ半ニモ到ラズ、一女子ト軽々シク契約シタル 眼「詮ガがなかたい」 事。 いざの 熱と敬一一は打消した。 一妙齢ノ女子ヲ誘ウテ野外ニ於テ密会シタル事。 南禅寺の庭はたそがれた。又雄さんは何時までたっても 一松崎次平ハ道徳上君ニ託セラレタル青年ナリ、然ルヲ 出て来ない。敬一一は次平さんと天授庵を出た。 しえ ひっ、ようため つまず、 使役シテ女学校ニ往来セシメ、畢竟為ニ信仰上ノ躓 し、た これ こん あん し あいだエンゲエジ こ たた たく
しろけっと た・ をして居た。白毛布を敷いた下の棚に坐って莞爾莞爾して 敬二はざっと眼を通した手紙を、また読み返えし、其日居る叔母さんや、お節ちゃん、おいよ婆さん、かあやんが よろこ す、うかご あかんばう はしばしば隙を窺うては出して読んだ。狭くるしい父母の歓んで敬一一を迎えた。黒田のおくらさんも赤坊を抱いて居 おさかべ 居間では、ゆっくり手紙も書けぬ。敬二は岩佐の姉の家に た。神戸まで長加部君が見送りに来たそうである。敬二は はきだしまど はしけ はとば みな 往って、掃出窓のついた奥の四畳半に入り、第二回の手紙叔母さんを扶けて艀に下りた。埠頭から皆車に乗り、敬一一 じよう す、やはおりしろたびおもてつ、 を書いた。巻紙に一丈ばかりも書いて居ると、突然、 は又雄さんと歩いた。透綾の羽織、白足袋に表付の又雄さ ものい きず 「大層長い手紙を書くねー んは、疵持っ足の敬一一が色々と言いかくるによくも返事は うしろ ムしめがら と言う声が背にした、敬一一はふりかえって姉を見、少し顔せず、伏目勝にむつつり顔で歩いて居る。敬二は薄気味悪 おしいれ ようす あか を赧くした。姉はさして気もっかぬ容子で、押入から浴衣くなって、黙った。汽船宿に着いて、皆二階に休んだ。敬 ららびんゆす しも らよっと 二が一寸下に下りると、洗面場の流しで哺乳瓶を濯いで居 を出して往って了うた。 ほんごう ある日、本郷から江見のお美枝さんが来た。江見牧師はたおくら婆さんが、 あんなか 飯島先生の郷里上州安中で久しく働いて居たが、近来東京「敬さん、寿代がよろしく申しましたよ」 無論例の嘘だ。体し敬一一は其言葉の中に、どれ程秘密を に来て上流の伝道にぼつぼつ手腕を見せ、敬二の兄の為に とうどろ・ 東都文壇に東道の労をとった名高い経済記者なども、其信知って居るかを読もうとしたが、成功しなかった。お美枝 徒の中へ数えられて居た。お美枝さんの用事は、又雄さんさん夫婦が出迎に来て居たので、敬二は新橋で又雄さん一 一家が明日横浜に着くが、江見家に差支があるから、敬一一行と別れて帰った。 に浜まで迎いに往ってくれと言うのであった。敬二はぎよ敬二は此日から刻々不安な時を送った。又雄さんから漏 0 とした。又雄さんの上京は、敬一一が京都の征の露をるる前に、此方から父兄に白状して置く、一番公明正大で たとえ 意味する。最後の契約を例令又雄さんが確と知らぬまで安全な仕方だが、敬一一には如何しても其勇気がなかった。 も、従前の事実は父兄の耳に入らずには済まぬ。敬二は又能勢家が着いて三日目の午後、敬二が外から帰って来る くっぬぎ 雄さんの事を成る可く打消し打消して、忘るる様に努めてと、沓脱に表付が一一足並んで、客間に人声がする。敬二は きんらい はやがねっ 居た。明日横浜着の報は、近雷の如く敬一一の耳をうった。直ぐ又雄さんと知って、胸は早鐘を撞きはじめた。敬二は はしけ 敬二は横浜に往った。艀に乗って、神戸から来た本船に玄関外に立ったり、父の六畳に入ったり、立たり坐たり始 きしず じゅう 上ると、下等室の入口で又雄さんは汽船問屋の若者に差図終耳を客間に傾けた。今一人は江見さんである。親類同志 たいそう な さしつかえ ゆかた ばあ この ひさよ たす せつ その たなすわ ばあ
りらぎ かりそめ いんせー 二の父は其律義な性質から姻戚関係になっても苟にも師 まで 弟の礼を乱さず、師の亡き後迄も遺族に対するに殆んど主 な もっ 共一京都 家に対する礼を以てした。父の血を受け父の尊敬を見馴れ た敬一一には、学問修養の上からも処世上の地位からも別世 われ 界に住んでいる様な、己より年齢の十余りも多い又雄さん を、ただの従兄とは思い得なかった。敬二の眼から見る又 そのくび、われ 其軛を自己は振り棄てた耶蘇教に事新しく敬一一が凝り出雄さんの頭上には、「過去」の輝きがあった。郷里の洋学 なまつらろ してそろそろ自我を見せかけて来た上に、危険年齢の生白校で逸早く耶蘇教を信じ、しい郷党の迫害の中に火の様 ふたおやそば じゅん ひとり い顔をしていつまでも両親の傍にくつついて居るのが気障な信仰を輝かした青年殉道者の一人として、ロオマンチッ かた、 いろど だったのか、嫂が来てからというものは兄が敬一一を眼の敵クな色彩に彩られた又雄さんの名が敬二の耳に初めて響い にして、少し気に入らぬ事があれば直ぐ撲つ、踏む、蹴たのは、敬二がまだ八九歳の頃であった。十一二歳の敬一一 る、散々な目にあわして早く出て往けがしに扱うを、一一年は、帝国大学の前身開成学校から京都協志社英学校に転じ イプルクラス 前に六十一一で隠居した父が見かねて、母と相談して、敬一一別格聖書級の一一三を下らぬ秀才として校長飯島先生から殆 たく を其兄に当る耶蘇教の牧師に托する事にした。伝道志願んど下へは置かぬ待遇を受けていた又雄さんを見た。それ かんけっ あまり たった の名義であったが、其実敬二は間歇質の凝り性から此一両から唯七年、敬二の身受が一尺余伸びる間に、又雄さんは ひうらなだ 年燃ゆるが如ぎ信仰上の熱心を有っては居ても、必ずしも燧灘の波ひたひたと寄する予州の浜辺に、数百の信者を作 目直接伝道師になる心はなかった。両親の方では一日も早くり大きな会堂を建て、其教会の評判は遠く海外に馳せ、亜 くげん 色兄弟を引き離して自他の苦艱をくつろげたい心、敬二も己米利加から祝意を表しわざわざ音のい大きな鐘を贈 0 て 茶が面が不幸にして血を分けた人々の苦痛の因となって居る来た程の成績を挙げたのである。十八の春、又雄さんに連 うれ とかくのが 眼目下の境涯から兎も角も脱るる嬉しさに、父母の家、寧兄れられ、郷里の熊本から伊予に御って、日曜の朝夕、水曜 金曜の夜毎に、其好い鐘の音を敬二は聴いた。 熱の家をいそいそと出て徂ったのである。 * またお 従兄の又雄さんは三十下で最早牧師として目ざましい成愛の使徒ヨハネの教名を名のる又雄さんは、弟の如く敬 おかあさん わがまま 皿功をして居た。又雄さんの阿母は敬一一が母の妹であった二を可愛がった。可愛がられると直ぐ本性の吾儘を出す敬 こもの おとうさん そのはじめ が、阿父は敬二の父の為には一一人とない恩師であった。敬二の癖で、当初一緒に歩くにも並んでは歩けず小厮かなん かお あによめ ため もと むしろ ごと な とし
ぞの様に跟いて歩いて「卑屈な」と又雄さんにられた敬年、彼は兄に連れられて京都に上り、十一の夏から十三の 一一も、半歳たたぬ間に最早又雄さんをあまり恐ろしい者に夏まで英語と耶蘇教を協志社に学んだ。其頃は兄弟の姉の は思わなくなって了うた。而うして好い鐘の音も、ややとお勝も、お稲さんや又雄さんの妹のお美枝さんと、協志社 えり じゅす いちょう もすれば敬一一の胸に響かなくなって御った。会堂には往かの女学校に居て、黒繻子の襟のかかった着物を着て、銀杏 ふろし、 だんこう かか かよ 、ん ずに、自堕落仲間と一斤五銭の牛肉を食うて女の話をしたしに結 0 て、英書の風呂敷包を抱えて男校〈受業に通 0 りして過す日すらあった。結局其年の暮には、自分の着物ていた。敬二は満一一年の京都生活に関する多くの記億を新 を質に入れ、それを旅費にして、又雄さんの世話して居る鮮に有って居た。其中心には、幼い敬一一が狭い眼界で仰ぎ たかね その 書生の一人を無断で九州に下して了うた。其失策の反動と見る高峰の中の最高峰と時しか見駲れた協志社社長飯島 こいまゆ こんりんぎい 先生の雄々しい濃眉の下に金輪際動かぬ泰山の力と共に、 して、敬一一の信仰はまた燃え立って来た。 いっそう 敬一一の信仰復興後間もなく、又雄さんは伝道事業に新発底ひなき大悲の淵を湛えた一双の黒い眼があった。 たもと ぜんなんぜんによ 京都に着くと、敬二は寺町の飯島先生の門に車を下り 展を試む可く、袂にすがる善男善女をあとに、七年経営の こうしど ひとり 伊予を去って、所属教派の策源地たる京都に先ず単身で出て、チョコレエト色に塗った格子戸をあけて昔ながらの狭 おこりわずら て往った。其内瘧を煩ったと言う電報が来たので、細君のい玄関の銅鑼を鳴らした。出て来た女中に敬一一は名を言っ 0 さん おんなかじゅ お稲さんが遽てて老嫂の加寿を連れて上った。程経て敬一一て、能勢家へ行く路筋を尋ねた。折ふし午餐中であった先 ばあ あね の叔母さんと、叔母さんの義姉に当るおいよ婆さんが、三生が聞きつけて玄関に出て来て、敬一一がよく覚えている彼 歳になるお節ちゃんを連れて上った。大きな家に飼犬のの黒い眼で大きくなったと言った様に敬一一を見下ろし見上 とり・ ねんごろ 「トメ」と差向いにぼかんと取残された敬一一が、直ぐ来いげ、上って食事を共にしないかと懇に言ったが、敬二が くるまや と言う叔母さんの手紙を受取ったのは、それから十日も後たって辞退するので、門前に待って居る車夫を呼んで、先 ていねい もっとのせけ の事だった。尤も能勢家が京都に越すについては、敬一一も生は丁寧に能勢家への路筋を教えてくれた。 九月から協志社に入学の相談がかねて又雄さんとの間に成 《一 l) 茶色の目 立っていたのである。敬二は一年と四月の甘く苦いさまざ いまばり おもいで 又雄さんは、飯島先生の宅から五六丁北へ往って、東桜 まの億出をあとに、伊予の今治から汽船に乗って、大阪を くデこうじ びんまうく 経て京都に往った。敬一一が数え年十九の六月下旬である。町と言う公卿小路の貧乏公卿の古巣を借りて居た。協志社 きようべんと ういけんぎん 京都は敬一一に初見参の土地ではなかった。西郷戦争の翌の学年試験が済んだばかりのところで、神学科に教鞭を執 あわ たた
るから、はらはら思うて居ると、やがてゆるゆるロを開い志社東部の入口に近い十一の敬一一がラアルニングさんから ふくいん て立派に答えなすったンで、ほっと息をついた夢を見た」片言の日本語で四福音書を授けられた、もと三十番と言っ おもし らんだ はぐ、あら かけあし なンか言って居た。米国史は、面識りの沈田先生がさっさてた小さな建物で、近眼鏡をかけて赤い齦を露わし駈足で しりあい と十点を呉れて出て御った。代数は、これも識合の佐藤先もして来たあとの様に息せき物言う同級の高田節之助さん たらさしむかい 生がにこにこしながら九点をくれた。会話は、女学校に新達と差向に勉強して過した。敬一一はまだ協志社の客分の様 しかぎる 婚の女教師と棲んで居る顰め猿の顔をしたカアディさんにな気がした。彼が通学をはじめて間もなく、木屋町に虎列 なわばりうら アップルトンの第三読本を読まされ、ロ数多く要領を得な剌が発生して、能勢家は交通遮断の繩張内になった。敬一一 い問答をして、無理にとは言わぬが一一年に入ったら如何かが表に出て見て居る内に巡査や白い消毒服の医員が人夫を ちょうど と勧められ、では三年に入って二年の会話を傍聴に来まし指揮して、つい鼻先に繩を張らせた。丁度其時高瀬川の小 ーまん ようと言って出た。馬鹿にして居た文章軌は、英語全盛橋を渡って此方へ来かかった寿代さんが、敬二と目を見合 いつもいらい・つ の学校に孤立して居常焦々して居る漢学者谷本先生の宅にわすと一寸肩をすぼめて、 かん 往って、八字を生やした神経質の蒼い顔の先生から、韓「おお恐、繩を張らはる」 しま おん たいしかもくにおうずると、ひとにあとうるしょ 退之の応科目時与人書を読まされ、音が違うの、講義と言って、其まま目礼もせずに帰って了った。敬二はい あぶら いたぺい が不親切のと散々脂をとられ、七点をもらった。いささかやな気もちがした。翌朝は裏の板塀を乗越えて学校に往っ しょ から 悄げた敬一一をお稲さんが慰めて、漢学の先生は点が鹹いでた。 有名な人で、谷本さんの七点は他の十点に当るって、寿代其繩張りがとれる頃、又雄さんは六十余日の長旅から帰 って来た。敬二の協志社入学について、又雄さんから父に 目が言って居ましたと言うた。 の入学試験も済んだので、敬二はお稲さんから月謝をもら談じて、向後月々四円五十銭郷里から送 0 て呉れること そこここ 茶 、必要の教科書は其処此処から借りてもらって、新学期になった。又雄さんが帰ったので、敬二は翌日からでも寄 さた 眼開始と共に協志社に通学をはじめた。最初から寄宿に入り宿の積りで居たが、時までたっても何の沙汰もないの たかったが、又雄さんが帰るまで兎に角通学と言うことにで、たまりかねて申出たら、寄宿よりも通学にした方がよ した。かあやんに握り飯をこさえてもらって、毎朝木屋町かろ、と又雄さんは同意してくれないのであった。敬一一は 行から相国寺前に通った。協志社に通学生は干もなかっ腹を立てたが、詮ガがないので、一切無言のストライキを た。課外の時間は、相国寺前の通りを中に東西と分れた協はじめた。毎日渋い顔をして、黙って起き、黙って戸を開 ひと とかく あお ちょっと こわ
する様になっている。久しく人間がいたことがないらしい を鼻明かして首尾よくお美枝さんを江見さんはわがものに 古畳一一枚の大部分は、ごちやごちゃに積まれた不用の建具したものの、お美枝さんは結婚済んでいざ出発と言う期に もすこ にふさがれて居るが、西一間南三尺程鍵の手に格子の高い なってふいに食がすすまなくなり、今少し家に居たいと駄 しか 出窓になって居て、相応に明るく、澀一尺ばかりの窓縁駄を捏ね出したので、兄の又雄さんが叱って無理に立たし ひら は、でも披いて置けぬことはない。敬二は少しやけ気味た事や、伊予から船に乗る時がっかりして正体もなくなっ この になって、此はなれを占領し、古子一脚二階から借りてたお美枝さんを江見さんが横抱きに抱いて船に乗ったと言 その 来て、出窓をテエプルに勉強をはじめた。其朝敬一一が新発う事は、敬二がまだ郷里の熊本に居た時耳にして居た。初 アルゼプラ 見の書斎に籠ってと gebra に没頭して居ると、からりと心な花嫁もいよいよ母さんになるのであった。叔母さんが こまげた しま 格子戸が開いて閉った。聞き覚えある駒下駄が、いつも敬京都を立っ時、敬一一は医師から船中用薬をとって来た。寿 一一が勉強して居た六畳の前ではたととまると、勝手のかあ代さんがばたばたとかけて来て、土間へ下りると、敬二が ゃんに問いかけたらしく、しおれた声ーー敬一一は期く思う二畳の障子を引開け、薬瓶を見せて、 たーー・が響いた。 「これ ? 」 「薬ーーーです」 「敬さんは ? 」 むね とぼけた返事を敬一一はした。寿代さんは頸をすぼめてば 敬一一は息がつまった。彼の心は高く動悸を拍ち出した。 かあやんが何と答えたか、敬二の耳にはよくは入らなかっ たばたと奥へかけて往ったが、やがてドッと奥に笑声が起 った。しばらくすると寿代さんはまたやって来て、ロをす ぼめて、眼で笑って、用法を聞き、 らやさじ ( 四 ) 木屋町 「ではこれに茶匙一つと書いて」 うみづ、 東京のお美枝さんの産月が近づいたので、叔母さんは愛「茶だし一つですねー じようだん むすめういぎん 女の初産を看護の為、七月の中旬に京都を立った。お美枝ロの重い戯談を言って、敬二が書いてやると、寿代さん きようだい さんは又雄さんに兄一人、妹一人の同胞で、又雄さんの同ははつはと笑いながら駈けて往った。すれ違いに奥から出 ばあ 窓江見牧師に嫁いで居る。敬二は姉の友なる此従姉を、子て来たおいよ婆さんは、 供の時から高貴の姫君のように仰いで居た。又雄さんの同「若い者てち言うもンは、何でも直ぐ可笑しがる」 窓の中に、お美枝さんは競争の的であった。多くの競争者と少しも可笑しくなさそうな顔をして居た。お婆さんは とっ どう、 このいとこ いしゃ びん くび
ひげ あいて事務員藤見さんのナポレオン髭がぬっと出たり、時「おい得能、お稲さんが死んだぞ」 「なに ? 死んだ ? ーー時 ? ー敬一一は立ちすくんだ・ には一一階の寮長のむつかしい顔が小言を言いに来た。新学 がえ ゅうべ 期の始まる前に、慣例の室換があって、敬二は第一寮の一一「昨夜十一一時だったそうだ。今病院から知らせが来た」 ムたりづめ 「そうか。 じゃ直ぐ往こう」 階から礼拝堂に近い第六寮階下西向ぎの一年生と一一人詰の わが 寒い室に移された。し敬一一は吾室を多くからあきにし「待ち玉え、僕も往くから」 かっこう いといりじまはおり 敬二は糸入縞の羽織に着更えて、江見君と病院に往っ て、情の芽や慾の花を育つるに恰好な温室の様な日あたり た。扉があいて黄ろい死人の様な顔が出て来た。それは叔 のい片貝君の六畳にともすれば舞い戻って来た。 むすめういざん 母さんであった。東京で女の初産を世話して、京都に帰る (ll) 生と死と病 早々娘の難産、産後の介抱に昼夜一睡もせず、精根をつか おとこのこ い切って居たのである。病院から敬二は荒神ロの家に往っ 正月早々お稲さんの産があった。生れたのは男児であっ およろこび た。協志社からも追々聞きつけて能勢家縁故の学生が続々 た。敬二は荒神ロの家に御慶に往った。産があった家の様 さびしさ やって来た。病院からも人々が帰って来た。病院は御所の ではなく、葬式のあとの様な、火の消えた寂寞があった。 おいよさんがむつかしい顔をして奥から出て来た。産後近くにあった。孝明天皇の二十一年祭で御所には天皇陛下 ようだい お稲さんの容体が面白くないので、協志社病院で手を尽しが御出なので、お稲さんの骸は夜に入って病院から窃と て居る、東京から帰って来た又雄さんも、叔母さんも病人連れて来ることにした。奥では高森さん佐藤さん沈田さん に付き切りで、おいよ婆さんとかあやんとお節ちゃんだけ林田さん等の同窓が、讃美歌を歌 0 たり話したりして又雄 留守をして居る、と言うのであ「た。かあやんも黙り込んさんを慰めて居る。勝手の方では、会津のお稲さんの実母 で居る。敬二は重い心になって帰った。「今に見玉え、屹の実家や東京の親戚やら伊予の教会やらに電報をかけるの 度死ぬから」と山本君が言うた。「馬鹿な」と敬二は言っで、「オイネサンゴビョウキ。では「お稲さん御病気」と たが、な気もちがした。病院に往って見ようかと思い思読まるるからいけぬと電文の研究をして、邦語神学の富岡 ふつか 君留田君四年生の町田君などががやがや言って居る。其処 一日二日過ぎた。 三日目の朝、敬一一が食堂から出て来ると、食堂前の井戸へ奥から又雄さんが出て来て、いきなり敬一一に此処此処に しすくた 端で顔を洗 0 て居た江見の太郎さんが、顋髯から雫の滴る知らせの手紙を書いてくれと言う。又雄さんには東京帰り 後はじめて会うのであったが、敬二はあらためて弔詞を述 る顔を上げて、 おもしろ し あごひげ ドア よめ