出来 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学5:島崎藤村 集
316件見つかりました。

1. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

長いと睨んだらしい。で、差押だけして置いて、一方ではは再び麹町の学校へ通うことにして、家計を助けようと思 予審の模様を窺い、一方では大将や親類から話のあるのをい立った。 待って居たらしかった。家の方で、延期の金を工面して持九月の新学期が始まる頃から、岸本の通う路は随分遠か たいらみら って行くと、彼等はそれを手数料として受け取る。それがった。三輪から坂本迄、あの変化のない、平坦な道路だけ かなり 不承知とあらば、元利耳を揃えて返済せよと迫る。血の出でも可成ある。あれから上野の広小路へ出て、切通坂を上 さるあめ るような金が斯うして幾度にも絞られた。 って、猿飴の角から斜に本郷の町々を通り過ぎる。神田川 ありさま 三輪の家で毎日岸本の眼に映る光景は、彼が今迄経験のに添うて飯田橋の方へ傾斜を下りる間は、最も彼が気に入 ないようなことばかりで有った。監獄へ面会に行って待合った道路であった。対岸にある樹木、小石川の方に続く町 所で顔を見合せる人々、差入屋の亭主、制服を着た門番、町の眺めは彼の眼を悦ばせた。九段へは、中坂から上る。 おとこ それから暗い馬車に乗せられて裁判所の方へ送られる男富士見町、上六番町は、やがて彼を学校の方へ導いた。 おんな 女ーーーいずれも彼には別の世界の人のように思われた。次 百 第に三輪の家へ出入する人も少くなって来た。時折訪ねて 来るものがあっても、頼みに成って成らないような人が多勝子は夏休の前まで、一時学校の手伝として来て居て、 い。例えば、周旋屋のなにがし。期の人に買物を頼めば、普通科の生徒に何か教えて居たが、秋の学期の始まる頃か 頭を ( ネる位は平気でする人である。時来るのが十一時ら其手伝を辞した。許嫁の人の家は函館にある。結婚する 半頃と極って居て、遠慮なく昼飯を食って帰るので、「十為にそこへ赴くのは、最早間もないことのように伝えられ このひとむすこ 一時三十分」という符牒に成って居た。斯人の子息は風俗る。長く都にとどまるということは、彼女の父が許さなか 改良の方とやら。謂を聞けば、壮士俳優の見習をして居るったのであろう。 とのことであった。 岸本と勝子の不思議な関係が、何時までも学校の人の いいム - り 八月に入っても、まだ予審の終結しそうな模様はなかつに上らずには居なかった。得たり賢しと言触すものがあ しもべ た。山田は最早家に居なかった。忠実な僕の仁太へも、給る。年をとった生徒の眼は皆な笑った。あの先生は文章が 、っそん 金のかわりに手車を呉れて、暇を出した。急に家の内は寂書けるから、必と其様なことで迷わしたのであろうなど しく成って来た。兄の幸平は失意の人で、・フラ・フラして居と、まだ年のいかない生徒まで言った。家さえ困らなけれ こん る。母や姉は田舎から出て来たばかりである。そこで岸本ば、斯様なところへ教えには来ない、期う岸本は腹立しく いわれ その よろこ

2. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

足立、岡見、福富、それから栗田なその書いたものは雑誌るが、空屋にして置いては荒れるばかりだし、庭の手入も にぎわ を賑した。 届かないし、というところから、買手の付くまで民助が借 へんび 六月の四日に青木の追悼会があ 0 た。丁度其日は青木のりて住んだのである。夛しい身で民助が斯ういう辺鄙 三週忌に当った。 な場処を択んだというは、旦那への義理と、今一つは家賃 其頃から、岸本は大川端の叔父の家を出て、三輪にあるを出さずに住まわれた為とで、そのかわり手車でも置かな 兄の家の方へ移った。彼が久し振で母や姉と一緒に住もうければ商用の弁じないような位置にあった。ここを住居ら おそろ とした頃は、やがて可畏しい激しい波濤が家庭の部へ押しくする為には、家相応な道具も備えなければならなかっ 寄せて来た。兄の民助は最早家に居なかった。これは民助た。 あやま が日頃信用して居た男に欺かれて、過って偽造の公債証書岸本の母や姉は簡易な田舎生活に讎れて来た人達であ を使用した為に、鍛冶橋の未決監へ送られることに成つる。母が郷里から出て来たばかりの時に、「お秋、」と嫁の くらら′るさ うそ こんな たからで。ロ煩い世間の人は、種々なことを言った。し か名を言って、「これは皆な虚だぞい、期様に立派に成った し岸本の家の者はいずれも民助の善良な性質と、名誉を重と思って、油断すると宛が違うよ」と女同士で話したこと おこない んずる心と、すくなくも其日までの正しい行為とに因つが有った。其時民助も、母の伴をして来た男に向って、 うそ ほ・んル」ろ′ て、民助を信じて居た。唯、民助には、旧家の旦那様が付「これは虚でサーー虚ですけれど、期の虚を実にしようと いて回って、人に乗せられ易いという弱みがあった。又、 いうのが私の意気込です」と言ったことも有る。しかし、 過去の栄華が忘れられないで、ややもすると虚飾に流れた奉公人や出入の者に向っては、それでは通らないような場 がるようなところがあった。兎に角、予審の終結を待つよ合が多かった。母や姉は、はじめから不安を感じて居たの り外はない。斯うなると、家の内の混雑は浪打つようであである。 る。忽ち岸本も其浪の中へ捲込まれた。 民助が居なくなる、間もなく山田という親類の男が来 た。弁護士との交渉、負債の整理なぞは、主に斯の人と、 九十五 岸本には三番目の兄にあたる幸平との二人に委せてあっ 三輪の家はもと金座のなにがしが餌で、今で言う御用た。岸本はまだ年も若し、経験は少し、それに不慣のこと やし、 なりゆ、 てつだい 商人の建てて贈ったものとやら。斯の履歴のある広い邸宅であるから、自分の力に出来るだけの手伝でもして、成行 は、貸金の抵当として石町の大将の手に入ったものであを観て居るより外に手出しのしようも無いのであった。 みのわ あて

3. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

青木と捨吉との交際はその日から始まった。好いものでの方へ誘って行った。捨吉が友達と対い合って坐って居る ありさえすれば仮令いかなる人の有って居るものでも、そところから、眉の長い年とった祖母さんを中心にしたよう れを受納れるに躊躇しなかったほど、それほど心の渇いてな家庭の内の光景がよく見える。菅の伯母さんとか従姉妹 ひろ 居た捨吉は、期の新しい交りが展げて見せて呉れる世界のとかいうような人達が、かわるがわる茶の間を出たり入っ 方へぐんぐん入 0 て行 0 た。て彼が銀座の田辺の家の方たりして居る。そういう多勢の女の親戚の中で、菅が皆か わー たてもの おとこ から通って行った数寄屋橋側の赤煉瓦の小学校の建築物らカと頼まるる唯一人の男性であるということもよく想像 は、青木も矢張少年時代を送ったというその同じ校舎であせられた。 ることが分って来た。姓の違う青木の弟という人と、彼と捨吉は菅を誘って青木の家を訪ねるつもりであった。そ は、その学窓での遊び友達であったことが分って来た。あの時菅は高輪の学校を卒業する頃に撮った写真を取出し の幼い日からの記憶のある弥左衛門町の角の煙草屋が青木て、捨吉と一緒にあの学窓を偲ぼうとした。四年も暮した 学窓は何と言っても二人に懐かしかった。その写真の中に の母親の住む家であることも分って来た。・ハイロンの「マ よ、た、 ンフレッド」に膃したという青木が処女作の劇詩は、そは、菅、足立、捨吉の外に、もう一人の学友がいすれも単衣 ものに兵児帯を巻きつけ、書生然とした容子に撮れて居た。 の煙草屋の二階で書いたものであることも分って来た。 そればかりでは無い。捨吉は自分の一一人の友達にまで期菅は、膝の上に手を置き腰掛けながら写って居る足立の よろこび の新しい知人を見つけた喜悦を分けずに居られなかった。姿を捨吉と一緒に見て、 とりあえず菅に青木を引合せた。青木と菅と捨吉との三人「僕の家に下宿してる朝鮮の名士が、この中で一番足立君 を褒めたつけ。この人は出世しそうだ、左様言ったつけ。 は、斯うして互いに往来するように成って行った。 時 る築地に菅を見るために、捨吉は田辺の留守宅を出た。あ見給え、この写真には僕も随分面白く撮れてるじゃないか まるで僕の容子は山賊だね。」と濃い眉を動かして笑 熟の友達の家へ訪ねて行くと、きまりで女の児が玄関へ顔を 実出す。そして捨吉を見覚えて居て、 菅が自から評して「山賊」と言ったのは、捨吉自身の写 切「時ちゃんのお友達。」 あてはま 真姿の方に一層よく当嵌るように思われた。捨吉は友達の と呼ぶ。この女の児の呼声がもう菅の家らしかった。 ひやくにち 言葉をそのまま自分の上に移して、「まるでこの髪は百日 「君、祖母さんに逢って呉れたまえ。」 かずら と菅が言って、それから捨吉を茶の間の横手にある部屋鬘だ」とも言いたかった。我ながら憂鬱な髪。じっと物を たとえ むか

4. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

ず私が他から調われる材料に成 0 て居ましたから。私はました。其晩、私は父の書院〈も呼び付けられて、五六枚 調戯われると言うよりは嬲られるような気がして、その度ほど短冊に書いたものを餞別として貰いました。それは私 はずかしめ ざゅう に堪え難い侮辱を感じて居りました。で、隠れるようにしが座右の銘にするようにと言って呉れたので、日頃少年の てお牧の家まで歩きました。丁度お牧の父親も家に居る時私をつかまえてロの酸くなるほど言って聞かせた教訓を一 で、例の油染みた髪結の道具などが炉辺に置いてあったか つ一つ文字に表わして書いたものでした。私はその全部を したた と覚えて居ます。お牧の家の人達は非常に喜びまして、私記憶しませんが、父があの几帳面な書体で認めた短冊の中 には、ありありと眼に浮んで来るのもあります。 のために鍋で茶飯を煮いて呉れました。私が茄子が好きだ からと言って、皮のまま輪切にしたやつを味噌汁にして呉「行いは必ず篤敬。云々。」 兄に引連れられて、翌日私達三人の少年は故郷の山村を れました。その貧しい炉辺で味った粗末な「おみおつけ」 は、私に取って一生忘れられないものです。それから三十発ちました。坂になった駅路の名残の両側には、それぞれ 年あまりの今日まで、どうかして私は彼様いう味噌汁を今屋号のある親しい家々が並んで居ます。私達は一軒一軒田 一度吸いたいと思って、幾度同じように造らせて見るか解舎風な挨拶をするために立寄りました。日頃洗濯や餅つき りませんが、二度と彼の味を思出させるようなのには遭遇の手伝いなどに来る婆さんとか、又は出入の百姓とかの人 いません。 達までいずれも門に出、石垣の上に立ちして、私達を見送 って呉れました。九月の日のあたった村はずれまで送って 片田舎のことですから、私達が東京へ発つ前には毎晩の ように親しい家々から客に呼ばれました。私は銀さんと一来て呉れる人もありました。暗い杉の木立の側を通り、沢 あざ っゅ 緒にお文さんの家へも呼ばれて行って、鶏肉の汁で味をつを越して行きますと、字峠と言って一部落を成したところ おうはん けた押飯の馳走に成りました。何かにつけて田舎風の饗応があります。その辺まで私達に付いて来て名残を惜む人も とりかわ かしら 日を取替すということは、殊に私の村では昔から多い習慣のありました。お頭の家のある峠を離れて、私達は旅らしい ように成って居ました。 山道に上りました。 出発の前の朝、祖母は私達を炉辺に据えまして、食事しその頃は京浜間より外に鉄道というものも無く、私達の 幼 ながら種々なことを言って聞かせました。今朝は言う、そ故郷から東京まで行くには一週間も要るほど不便な時でし なんに やまあい のかわり明日の朝は何事も言わない、そんなことを言っ た。それに大きな谷の底のような斯の山間を出て、馬車に わかれ て、長いこと私達を側に坐らせて置いて、別離の涙を流しでも乗れるという処まで行こうとするのには、是非とも高 なぶ なごり

5. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

「阿母さんは彼の法衣のことを言ってるんですよ。今日の「今に成って見れば俺も左様思う。」と母親も考える。「な 差押で、簟笥の中から出て来たもんですからーーー」 にしろ、お前、東京の様子は解らないし、田舎の人は又、 あつら 「へえ、法衣も差押を食ったんですか。」と岸本は頭を擁手紙でも来れば直に出掛けるものと思って、彼方でも是方 えた。 でも招んで呉れて、昨晩は隣家だったから今夜は私共で使 「いっか一度彼の計れを聞いて見たい。」 を上げる、お別れに手打の蕎麦でも食べておくんなんしょ 期う母親は真面目に言い出したが、岸本は笑に紛らしてや、愛様も連れて来てなんて、左様方々で言われて見れ しま、 了った。九歳に成る民助の娘ーー愛子は最早姉の傍へ来てば、一日も早く東京へ出たかったよ。終には未だ岸本の女 眠った。 衆は出掛ないーー何時行くずら、なんて言う人がある。そ うる 其晩はいかにも七月の夜らしかった。山田と幸平は、仁れに田舎はロ煩さい、やあ秋様は可愛そうだ、なんだあか くるわ 太が御供で廓の方へ涼みに出掛ける。岸本は独り玄関のとんだあッて言うもんだから、俺がお秋を連れて留守居ばか ころに寝転んで、吉原の太鼓の音なぞを聞き乍ら、勝子のりもして居られなかったサ。最早お秋は兄さんに渡した、 しずく ことを思いつづけた。タ立の通過ぎた後で、雫が暗い葡萄俺の役目は済んだ、やれ一安心、と思ったのは未だ昨日の 棚から落ちた。 ような気がして居るのに 「アア、好い風が来る。」 急に、台所の方で、誰か食べた物を吐瀉すような音がし と母親もそこへ来て寝転んだ。 た。母親は身を起した。台所に居るものは姉より外になか つ、やく 「捨、今夜は寝て話さまいか。」 った。姉の月経は出京する間もなく止ったのである。 うら 期う言い乍ら、母親は浴衣の裾で足を包んだ。親子は団 九十九 扇を・ハタ・ハタさせた。その薄暗い、五畳ばかりの玄関へ、 あくるひ 親子一一人ぎりで横に成った時は、誰に遠慮があるではな翌日から、家の者は毎日のように額を集めた。庭の青梅 す、 し、親が勝手に欠伸をすれば、子は子で好な方へ毛脛を投も色づく頃で、仁太が長い竿を持って行って打落して来る と、姉はそれを笊に入れて、見ても酸ッばそうな果実をそ 春出した。 「何故母親さん達は出て来たんですか。もうすこし国に居こへ持出し乍ら、よく相談事の仲間入をした。 財産差押に次いで起って来る黒雲は、公売処分である。 る方が可か 0 たナア。」 と岸本は思出したように。 それは高利貸側の本意ではなかった。彼等は民助の事件を ここのつ まぎ かか ぎる すぐ ゅんべおとなり このみ

6. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

あれ 「彼女が出てまい 0 た時よなし。」とお母さんは思出した〈よく使に来る連中で、捨吉が馴染の顔ばかりでも、新ど ように言 0 た。「捨吉を某処へ一緒に連れてまいりましたん、吉どん、寅どん、それから善どんなどを数えることが そうな。その時捨吉が彼女に左様申したげな。斯うして姉出来る。皆小僧小僧した容子をして御店の方で働いて居 さんと一緒に歩いて居ても、何処か他の家の小母さんとでた、つい二三年前までのことを覚えて居る捨吉の眼には、 くに も歩いて居るような気がするツて。彼女が郷里の方へ帰っあのませたロの利きようをする色白な若者が、あれが新ど きようだい てまいって、その話よなし。ほんとに、同じ姉弟でも長くんか、あの粗い髪を丁寧に撫でつけ額を光らせ莫迦に腰の 逢わずに居たら、そんな気がしませず : : : 」 低いところは大将にそっくりな若者が、あれが吉どんか、 としした お母さんの言出した話は、それが国の方の姉の噂であると思われるほどで、割合に年少な善どんでさえ最早小僧と おたなもの のか、自分の遣瀬ない述懐であるのか、よく分らないよう は一一一口えないように角帯と前垂掛の御店者らしい風俗も似合 な調子に聞えた。 って見えるように成って来た。皆揃って頭を持上げて来 「他の家の小母さんは好か 0 た。」と小父さんも眼を細くた。皆無邪気な少年から漸く青年に移りつつある時だ。何 して笑出した。 となくそよそよとした楽しい風がずっと将来の方から吹い 捨吉はそこに集 0 て居る皆の話の的にな 0 た。小父さんて来るような気のする時だ。隠れた『成長」は、そこに の笑った眼からは何時の間にか涙が流れて来た。兄の下宿も、ここにも、捨吉の眼について来た。 の方ではそれほどに思わなかった捨吉も、田辺の家の人達 めぐりあ、 の前にお母さんを連れて来て見て、不思議な親子の邂逅を お母さんに別れを告げて、捨吉は田辺の家を出た。学校 時感知した。 の寄宿舎を指して通い慣れた道を帰って行く彼の心は、や る す がて一緒に生長って行った年の若い人達の中を帰って行く 熟 心であった。明治座の横手について軒を並べた芝居茶屋の 実田辺の家の周囲にある年の若い人達はずんずん延びて行前を見て通ると、俳優への贈物かと見ゆる紅白の花の飾り 桜 くさかりの時に当って居た。捨吉が学校の寄宿舎の方から台なぞが置かれ、一一階には幕も引回され、見物の送迎にい 帰って来て見る度に、自分と同じように急に延びて来た背そがしそうな茶屋の若い者が華やかな提灯の下を出たり入 を、急に大きくな 0 た手や足を、そこにも、ここにも見つ 0 たりして居た。田辺の小父さんばかりでなく、河岸の樽 おたな けることが出来るように成った。大勝の御店から田辺の家屋までも関係するという新狂言の興行が復た始まって居 まわり しとな

7. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

に浮いたり沈んだりして居ると、何時の間にか岸には多勢口癖で、「鶴ちゃん」とはめったに言わなかった。 りようし っ・ばり 漁夫が集って、一一人の方へ恐しい魚鉤を投げてよこす。鉤操は黙って、鶴子を負い乍ら立って居た。青木は傍へ行 びつくり は鳴って来る。それが右にも左にも落ちる。二人は喫驚しった。「鶴ちゃん」と復た親しげに言って、思わず知らず た。そこそこに岸へ泳ぎ着こうとしたが、反って浪の為に笑って、機嫌を取るように手を出して見せる。其時操は夫 な方へ浚われて行った。またまた浪が押寄せて来て、 の様子を眺めて居たが、何を思い付いたか嘆息して、子供 なぎさ 渚の方〈二人とも持 0 て行かれたかと思ううちに、て崩を負 0 たまま急に寺の方〈帰りかける。岸本はすこし呆気 おおきひび、 れ落ちるような壮大な音響がした。其時、二人は白い泡のに取られた。気の毒そうに見送ると、細君は最早石段を下 中に立っことが出来た。 りて踏切のところを急いで居る。 さち 海には幸の多い日であった。鉤に懸った鰹は、婦女や子「操。操。」 供の群に引かれて、幾尾となく陸へ上った。 青木は妻を宥めるように呼んだ。 しばらく どう あわれみ 期の光景を眺め乍ら、暫時一一人はそこへ足を投出して、 寺へ帰って、青木は深い哀憐を感じた。奈何しても弱い なす お、ざり 暖い心地の好い砂を身体に塗りつけた。甲羅を干す積で岸者にはわない、と彼は嘆息した。置去にされた鶴子は後 はいのめ 本は這倒って見たが、首を鮃げると、耳から汐水が流れてで激しく泣いたとのことである。聞いて見ると、彼の方よ 出る。同時に、両国の河岸でよく泳いだこと、家を飛出しり折れて出るより外はなかった。 て最早九ヶ月に成ること、奥州のはてまでも遠く旅したこ「大変に泣いたんですよ。」 となぞを思出す。青木は自分で自分の膝頭を抱いて、不調と操は鶴子の顔を眺め乍ら、恨めしそうに繰返した。 和なに倦み疲れたような眼付をした。終には、其の膝丁度午後から青木が東京へ出る日取に当 0 た。操は夫の そう 頭へ額の着くばかりに重苦しい頭を垂れた。而して、熟と為に着物や風呂敷包の用意をした。て、岸本も友達と一 目を瞑って、岸に砕ける浪の音を聞いた。 緒に期の寺を出た。二人は国府津から大船まで同じ汽車に 帰り仕度を始めたのは間も無くであった。漁村を横ぎつ乗った。そこで岸本は鎌倉行に乗替えた。 て砂まじりの路を帰って行くと、山門の処で二人は操に逢 三十 った。子供にも。操はそこまで迎えに来て居たらしい。 「鶴ちゃん。」 岸本が泊って居るところは円覚寺境内の古い禅寺で、苔 期う青木が呼んだ。青木は女の児を呼ぶにも「坊主」がの生えた石階を登りつめたところに門を構えたような位置 つぶ し ~ 、ハし、さ おか かえ おんな いしだん なだ おぶ あっけ

8. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

くなったような気もしたツけ。」 話し込む時が来た。 斯う捨吉は友達に話して笑って、更に思出したように、 学校の表門の側にある幾株かの桜の若木も、もう一度捨 「浅見先生には僕は神田の学校でアービングをおそわっ 吉の眼にあった。過去った日を想い起させ、曽て自分の一言 た。「スケッチ・ブック」なんて言ったって本が無かった。 ったこと為たこと考えたことを想い起させ、打消し難い後 めのまえ 先生は自分で抜萃したのをわざわざ印刷させた。アービン悔を新にさせるような人々が、もう一度捨吉の眼前を往っ グなぞを紹介したのは恐らく浅見先生だろうと思うよ。」 たり来たりした。 こん 期様な話もした。 捨吉は既に田辺の家の方からある心の仮面を冠ることを 小一時間ばかり話して菅は帰った。友達が置いて行った覚えて来た。丁度小父さんの家がまだ京橋の方にあった時 やわらかい心持は帰った後までも茶の間に残って居た。 分田舎から出て来たばかりの彼は木登りが恋しくて人の見 はし 0 だん 夕方の静かな時に、捨吉は人の見ない玄関の畳の上に ない土蔵の階梯を逆さに登って行くことを発明したが、そ ひざまず いのり 跪いた。唯独り寂しい祈疇の気分に浸ろうとした。丁度んな風にある虚偽を発明した。彼は幾度となくそれを応用 そこへお婆さんが通りかかった。捨吉は頭を上げて見て思した場合を思出すことが出来る。左様した場合に起って来 まっか わず顔を真紅にした。 る自分の心持を思出すことが出来る。 とりつぎ 小父さんの家の玄関へ来て取次を頼むという客の中には 五 随分いろいろな人があって、その度に御辞儀に出たり名前 ざしゅ おおムだ もう一度皆同級の青年が学窓を指して帰って行く時が来を奥へ通したり茶を連んだりしたが、芝居の座主とか大札 時た。三年の間ずっと一緒にやって来たり途中で加わったりとかが飛ぶ鳥も落すような威勢で入って来ても、芝居茶屋 どん るした生徒が更に第四学年の教室へ移り、新しい時間表を写のおかみさんの腰のまわりに奈様な自慢な帯が光っても、 熟し、受持受持の教授を迎え、皆改まった顔付で買いたての傲然とした様子で取次を頼むという客が小父さん達と同国 実香のする教科書を開ける時が来た。その中には初歩の羅甸の人とかで東京へ一文も持たすに移住したものは数え切れ の 語の教科書もあった。寄宿舎へ集るものは互に一夏の間のないほどあるが、其中での成功者はまあ誰と誰とであろう 桜 話を持ち寄って部屋部屋を賑わし、夜遅くまで舎監の目をというような自慢話を聞かされても、彼は左様いう場合に 忍び、見回りの靴の音が廊下に聞えなくなる頃には、一旦極りで起って来る反抗心を紛らそうとして、まるで何の感 ふり あかり 寝た振をして居たものまで復た起出して寝室の暗い燈火でじも無いようなトボケた顔をして居たその自分の心持をよ ひた たび

9. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

330 ようやもと に倒れかかった樹木へ突支棒でもして、それで慚く旧の位思って呉れたようなものの、後に成って見ればそれとなく かえ 置へ復したように、岸本は先す頭から持上けて貰って、慚捨てた形の人である。その人に向って、「御無沙汰仕り候」 をいかに困難して居ても書きにくかった。 く身体が自分のものに成った。 すこしばかり物を食った後、彼は二階にある自分の部屋不思議な、あさましい、平素は殆んど念頭にも浮ばな かんがえ まわり いような思想が、其時浮んで来た。自分は未だ髪も黒く、 へ行った。そこで身の辺を眺め回した。焼石に水とやら。 岡見から借りた金ぐらいで幾日を支えることが出来よう。 頬も紅いーーーすくなくも斯の黒い髪や紅い頬に対して、十 大抵は穴埋で済んで了う。母親、姉、幸平兄、愛子、それ円やそこいらの金は貸して呉れそうなものだ、と斯う思っ 招とこ ひざま いっとき から鍛冶橋に居る兄、一時たりともお杉さんーーこれらのて見た。其時彼は婦人の前に跪すく多くの薄志弱行な男子 わかもの 人々を養うということは、未熟な岸本の身に取って、決しのことを考えて、年老いて好色な後家にかしすく壮年、有 もてあそ て容易ではなかった。兄を救うため弁護士一人を頼むにす福な女に弄ばれる男妾、金の為にはいかなる媚をも売ろ そうそう うとする美しい節操のない男子なそを数えて、恥すべき自 ら、すくなからぬ金を要する。左様左様は親類でも届かな たわれお こくちょう いということに成る。石町の大将始め、大川端の叔父、国分の心情に於ては、すこしも左様いう蕩子と違うところ 許の姉、いずれへも迷惑をかけられるだけ懸けた。今は親がないかのように思った。岸本は自分で自分の可厭な臭気 を嗅ぐような思をした。兎に角、西京へ宛てて金の無心の 類も疲れて来た。 ま 斯ういう時に成って、岸本の心はもう一度画京の峰子の手紙を書いた。それから自分の机の傍に倒れて、復た死ん ねむりおらい 方へ行った。旅に出た当時、峰子から受けた親切を岸本はだ人のように成った。何時の間にか彼は深い熟睡に陥没っ あ 忘れずに居る。彼の母親さんか姉さんのような人が、一見 自分を知己のように思って、着物から宿の世話迄もして呉 どう 百二十四 れて、旅費が足りないと一 = ロえば奈何工面をしてもこしらえ 「まあ、斯様に寝る人が何処にあるずら。」 て貸て呉れた、其人のを彼は今に成 0 て思い出した。 しばらく と母親は一一階へ来て見て、呆れて、暫時岸本の寝顔を眺 およそ手紙の中で、金を貸して貰いたいというほど書き にくいものは無い。況して鎌倉以来一度も文通もせす、気め乍ら立って居たが、軈て戸棚から薄いものを出して、風 分が悪くて居るという噂を聞いても見舞状も出さず、別れ邪を引かないように其を吾子に被けて呉れた。 いさぎよ なければ成らない時が来て別れて、それを先方でも潔く「昨日から碌に御飯も食べないーーー必と身体の具合でも悪 つつかいばう こんな みさお おんな ムだん おとこ 、つ にお

10. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

「馬鹿を言え。煙草でも喫まなくって、やりきれるものと本堂の傍を歩いた。具合よく動ぶってやらないと、直に か。」と青木は妙なところへ力を入れた。「内田さんが訳し鶴子は愚図愚図言出す。どうかして寝かしつけたいと思っ た『罪と罰」の中にも有るよ、銭取りにも出掛けないで一て、わざと薄暗い方へ連れて行ったり、眠たい子守歌なぞ おんな 体何を為て居る、と下宿屋の婢に聞かれた時、考えることを歌ってやったりしたが、鶴子は眠りそうにも見えなかっ を為て居る、と彼の主人公が言うところが有る。彼様いう た。無理に寝かそうとすればする程、余計に児の方では大 ことを既に言ってる人が有るかと思うと驚くよ。考えるこきな眼を開く。「さあ坊主、ねんねするんだよ。」と青木は あれ とを為て居るーーー丁度俺のは彼なんだね。」 叱るように言った。不思議な怒の情が来て急に彼の身体を くみとれ そう 操には夫の言う意味が能く汲取なかった。 震わせた。思わず彼はロ唇を噛んだ。而していやと言うほ 「貴方、奈何かなすったんじゃないんですか、大変顔色がど最愛の児を抱〆めた。 悪いんですよ。」と言おうとしたが、其を口へは出さなか泣叫ぶ鶴子の声を聞きつけて、操はそこへ飛んで来た おぶ が、「ようござんす、私が負いますから。」期ういそがしそ このかりすまい わび 実家を見た操の眼で期仮住居を眺めると、何もかも侘しうに言って、ぶいと勝手の方へ抱いて行って了った。騒然 すすりな く見える。二間仕切って借りた広い部屋のには道具らししい海の音は寂しく変って来た。勝手の方では操の啜泣く い道具も置いてない。古い寺院に特有な、物の朽ちる臭気声が聞える。 もする。操は淡泊な方で、期の貧しい境涯を左程苦にする さすが 二十四 でもなかったが、東京の女友達のことを考えると、流石に こころもら 肩身の狭いような心地に成る。例の実家から考えて来たこ若い夫婦は惨として相対するような日を送った。期うい とーーー下女を一人、などという場合ではない、と思い直しう苦い経験は夢のような恋の時代に想像の出来なかったこ た。近所の娘を集めて針仕事でも教える、それも夫へは言とである。一方へ向いては艱難と戦わねばならぬ。一方へ 出さなかった。 向いては鶴子を養わねばならぬ。二人は黙って、考えて、 顔も見合せずに食うことも有った。 春「父さん、少し子供を見て下さいな。」 ま くるしみ と言って操は勝手の方へ行こうとしたが、働かない前か 不思議なことには、復た期の苦痛を忘れるような朝が来 ら最早額へ汗が出た。 た。一夜のうちに操は機嫌を直した。彼女は希望を有って ワ 1 急に鶴子が泣出した。青木は抱取って彼方是方彼方是方働く気に成った。 っこ 0 あらこら におい さん だきし のぞみも