お母さん - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学5:島崎藤村 集
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1. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

89 幼き日 長々と話し続けました。少年の日ーーー私達に取って二度とるとは言えないまでも、すくなくも独立の出来る頃まで斯 は来ない その時代のことで御話すべきことは、まだまの手紙を持って行きたいと思いました。婦人に対する少年 だ沢山あるように思います。書生を愛した豊田さんの家にらしい一種の無関心ーー左様いう時が一度私には来まし せっせ は幾人となく身を寄せた同郷の青年があって、その一人一 た。私は側目もふらずに、錯々と自分の道を歩ぎ始めた時 人の言ったこと為したことが幼い私の上に働きかけたことがありました。そこまで御話しなければ、斯の手紙を書き や、あるいは豊田さんの家は一頃それらの人達の一小倶楽始めた最初の目的は達したとも言えません。しかし今はそ 部を見る趣を誠して夜になると私も土蔵の中の部屋に机をれをする時がありません。 並べ、同じ洋燈の下に集り、話を聞き、一緒に勉強し、ど私は遠い旅を思い立って、長く住み慣れた家を離れよう としうえ うかすると制えきれないほどの居眠りが出て年長の人達かとして居ます。私が御地を去って東京へ引移ろうとした らよく悪戯されたことなど、御話したいと思うことはいろ時、貴女のお母さんの家へ小さな記念の桐苗を残して来た いろある。私は自分の机の上ーー墨汁やインキで汚れたり ことが丁度胸に浮びます。貴女の御存じない子供は三人も えぐ 小刀で刳り削られたりした机の上の景色、そこに取出す斯の家で生れ、貴女の友達であった妻もここで亡くなりま くわ 絵、書籍、雑誌などのことを精しく御話して見たら、それした。今夜は斯の家で送る最終の晩です。旅の荷物やら引 だけでも自分の少年時代を引出すに十分だろうとは思いま越の仕度やらゴチャゴチャした中で、子供は皆な寝沈まり す。私は貴女に年老いた漢学者のことを御話しましたろました。 う。豊田さんの家の奥一一階でしばらく暮したあの老夫婦の こと、私が英学を始めた時分のこと、それから私の十三の 年に父は郷里の方で死にましたこと、その前に父から私に 寄した手紙の中には古い歌などを引合に出して寸時も忘れ ることの出来ないというような濃情の溢れた言葉が書き連 たど ねてあったこと、それからそれへと幼い日のことを辿って 見ると書くべきことは多くありますが、ここで筆を止めま す。 私は母やお牧に抱かれた頃から始めて、婦人の手を離れ おさ ひところ わきめ

2. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

いんぎんおうよう くちすぎ 良家に生れた人でなければ見られないような慇懃で鷹揚な ことの為には、先す糊口から考えて掛らねば成らなかっ もとで 神経質があった。岡見は青木よりも更に年長らしいが、でた。そのためには僅かな学問を資本にして、多くの他の青 もまだ若々しく、直ぐにも親しめそうな人のように捨吉の年がまだ親がかりで専心に勉強して居るような年頃から、 眼に映った。 田辺のお婆さんの言う「女の子』を教えに行くような辛い 思を忍ばなければ成らなかった。 捨吉は田辺の留守宅から牛込の方に見つけた下宿に移っ しかし沈んだ心の底に燃える学芸の愛慕は捨吉をして期 た。麹町の学校へ通うには、恩人の家からではすこし遠過うした一切のことを忘れさせた。彼は自分の力に出来るだ ぎたので。それに田辺の姉さんは横浜の店の方から激しくけのことをして、その傍ら独りで学ぼうと志した。そのた からだ 働いた身を休めに帰って来て居たし、お婆さんの側には国めには年長の生徒でも何でも畏れす臆せす教えようとし 許から呼び迎えられた田辺の親戚の娘も来て掛って居た た。教える相手の生徒がいずれも若い女であるとは言え、 かなり し、留守宅とは言っても可成賑かで、必すしも捨吉の玄関それが何だ、と彼は思った。彼は何物にも煩わされること 番を要しなかったから。 なしに、踏出した一筋の細道を辿り進もうと願って居た。 牛込の下宿は坂になった閑静な町の中途にあって、吉本牛込の下宿から麹町の学校までは、歩いて通うに丁度好 いほどの距離にあった。崩壊された見付の跡らしい古い石 さんと親しい交りのあるというある市会議員の細君の手で 経営せられて居た。この細君は吉本さん崇拝と言っても可垣に添うて、濠の土手の上に登ると、芝草の間に長く続い こみち た小径が見出される。その小径は捨吉の好きな通路であっ いほどあの先輩に心服して居る婦人の一人であった。随っ 時てその下宿にも親切に基いた一種の主義があって、普通のた。そこには楽しい松の樹蔭が多かった。小高い位置にあ じようかく 例えば知らる城郭の名残から濠を越して向うに見える樹木の多い市ケ す下宿から見るといくらか窮屈ではあ「たが 熟ないもの同士互いに同じ食卓に集るというごとき。ーーし か谷の地勢の眺望は一層その通路を楽しくした。あわただし 実し慣れて見れば割合に楽しく暮すことが出来た。そこにはい春のあゆみは早や花より若葉へと急ぎつつある時だっ めのまえ 桜庭伝いに往来することの出来るいくつかの離れた座敷もあた。捨吉は眼前に望み見る若葉の世界をやがて自分の心の った。貧しくて若い捨吉は、あだかも古巣を離れた小鳥の景色として眺めながら歩いて行くことも出来るような気が ように恩人の家から離れて来て、初めてそこに小さいなが した。そこに青木がある、ここに菅がある、足立がある、 らも自分の巣を見つけた。彼が自分を延ばして行くというと数えることが出来た。吉本さんに紹介された岡見という かか かたわ

3. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

き回った。山のはずれまで行って、独りで胸の塞がった日 日は豹の斑のようにところまんだら地面へ落ちて居た。 そのへん 捨吉達は山を一回りして来て、懇親会の会場に当てられにはよく其辺から目黒の方まで歩き回ったことを思出し こしら えら もうせん やすみちやや た、ある休茶屋の腰掛の一つを択んだ。変色した赤い毛氈た。寄宿舎で吹矢なそを造えてこっそりとそれを持出しな の上に尻を落し、そこに二人で足を投出して、楽しい勝手がら、其辺の谷から谷へと小鳥を追い歩いた寂しい日のあ ったことを思出した。ふと、思いもかけぬ美しいものが捨 な雑談冫 こ耽った。 めのまえひら 基督教主義の集りのことで斯ういう時にも思い切って遊吉の眼前に展けた。もう空の色が変りつつあった。タ陽の ぶということはしなかった。皆静粛に片付けて居た。捨吉美は生れて初めて彼の眼に映じた。捨吉はその驚きを友達 は桜の樹の方へ向いて、幹事の配って来た折詰の海苔巻をに分けようとして菅の居るところへ走って行った。友達を 食いながら、 誘って来て復た二人して山のはずれへ立った頃は更に空の 「菅君、君は二葉亭の『あいびき』というものを読んだか色が変った。天は烙の海のように紅かった。驚くべく広々 ひらめ 0 とした其日まで知らずに居た世界がそんなところに閃いて 「ああ。」 居た。そして、その存在を語って居た。寂しいタ方の道を と菅も一つ頬張って言った。 友達と一緒に寄宿舎へ引返して行った時は、言いあらわし よろこび 初めて自分等の国へ紹介された露西亜の作物の翻訳に就難い歓喜が捨吉の胸に満ちて来た。 いて語るも楽しかった。日本の言葉で、どうして彼様な柔 四 かい、微細い言いまわしが出来たろう、ということも二人 「捨さん、お帰りかい。」 時の青年を驚かした。 る涼しい心持の好い風が来て面を撫でて通る度に、二人は夏期学校の方から帰って来た捨吉を見て、田辺のお婆さ あかりまど 熟地の上に落ちて居る葉の影の徴かにふるえるのを眺めながんは土蔵の内から声を掛けた。薄暗い明窓のひかりでお婆 さんは何か探し物をして居たが、やがて網戸をくぐって、 実ら、互いに愛読したその翻訳物の話に時を送った。 の 土蔵前の階段を下りて来た。 幹事の告別の言葉があり、一同の讃美歌の合唱があり、 いのり 桜 ある宣教師の声で別れの祝疇があって、菅も捨吉も物のか家の内にはお婆さんと下女とだけしか見えなかった。細 めんどう ひざま げに跪坐すいた頃は、やがて四時間ばかりも遊んだ後であ君は長い間煩った為、少年時代からの捨吉の面倒を見て呉 。御殿山を離れる前に、もう一度捨吉はそこいらを歩れたのも主に斯のお婆さんであった。そんな訳で捨吉は若 こまか かお

4. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

斯の書の全部を君に宛てて書いた・山の上に住んだ時の私からまだ 中学の制服を着けて居た頃の君へ。これが私には一番自然なこと こころもら で、又たあの当時の生活の一番好い記念に成るような心地がする・ 「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか。」 これは私が都会の空気の中から脱け出して「あの山国へ行った時 の心であった。私は信州の百姓の中へ行って穆なことを学んだ。 田舎教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓 の子弟を教えるのが動めであったけれども、一方から言えば私は学 、 J ーノしし・ノ 校の小使からも生徒の父兄からも学んだ。到頭七年の長い月日をあ えら の山の上で送った。私の心は詩から小説の形式を択ぶように成っ た。斯の書の主なる土台と成ったものは三四年間ばかり地方に黙し 序 て居た時の印象である。 しげる 敬愛する吉村さんーー・樹さんーー私は今、序にかえて君に宛てた樹さん、君のお父さんも最早居ない人だし、私の妻も居ない。私 一文を期の書のはじめに記すにつけても、矢張呼び慣れたように君が山から下りて来てから今日までの月日は君や私の生活のさまを変 の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に品したいと思 0 て居えた。しかし七年間の小諸生活は私に取 0 て一生忘れることの出来 たその山上生活の記念を漸く今纏めることが出来た。 ないものだ。今でも私は千曲川の川上から川下までを生と眼の前 樹さん、君と私との縁故も深く久しい。私は君の生れない前からに見ることが出来る。あの浅間の麓の岩石の多い傾斜のところに身 君の家にまだ少年の身を托して、君が生れてからは幼い時の君を抱を置くような気がする。あの土のにおいを嗅ぐような気がする。私 き、君をわが背に乗せて歩きました。君が日本橋久松町の小学校へがつぎつぎに公けにした「破戒」、「緑葉集」、それから「藤村集」 しろがね 通われる頃は、私は白金の明治学院へ通った。君と私とは州んど兄弟と「家」の一部、最近の短篇なそ、私の書いたものをよく読んで居 なにほど のようにして成長して来た。私が木曽の姉の家に一夏を送った時にて呉れる君は何程私があの山の上から深い感化を受けたかを知らる は君をも伴った。その時がたしか君に取っての初旅であったと覚えるであろうと思う。斯のスケッチの中で知友神津君が住む山村の て居る。私は信州の小諸で家を持つように成ってから、二夏ほどあの付近を君に紹介しなかったのは遺憾である。私はこれまで特に若い 山の上で妻と共に君を迎えた。その時の君は早や中学を卒えようと読者のために書いたことも無かったが、斯の書はいくらかそんな積 するほどの立派な青年であった。君は一夏はお父さんを伴って来らりで著した。寂しく地方に住む人達のためにも、斯の書がいくらか れ、一夏は君独りで来られた。斯の書の中にある小諸城址の付近、の慰めに成らばなぞとも思う。 中棚温泉、浅間一帯の傾斜の地なぞは君の記憶にも親しいものがあ 大正元年冬 藤村 ろうと思う。私は序のかわりとしてこれを君に宛てるばかりでなく、 千曲川のスケッチ ( 抄 ) たく

5. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

75 幼き日 上の組へ飛ばせるということが有りました。その時、私はして居るという方でしたが、私は他の身体の疼痛を想像す むすこ 炭屋の子息さんと時計屋の娘と三人で上の組に編み入れらるにも堪えませんでした。東京へ修業に出て来てからも、 れましたが、官吏の娘だけは元の組に残りました。休みの二番目の兄に連れられて寄席などへ遊びに行きますと、中 時間に、時計屋の娘が先生の前に来て、自分一人昇級する入前あたりには妙に私は心細く成って来るのが癖でした。 たびたび やどや のを・フップッ言うものが有ると言って、訴えたことを覚え斯の兄は其頃から度々上京しまして旅屋に日を送りました たかぶ て居ます。私は気の昻った時計屋の娘よりも、ショゲた官から、私もよく銀座辺の寄甯へは連れられて行きましたが、 こわいろ 騒がしい楽屋の鳴物だの役者の仮白だのを聞いて居ると、 吏の娘の方を可哀そうだと思ったことも有りました。 鷲津の姉さんは色の浅黒い、瘠ぎすな、男性的の婦人で何時でも私は堪え難いほどの不安な念に襲われました。そ せつかち それに驚くほど気の短い性質を有って居ました。その性急の度に、私は兄一人を残して置いて、寄席から逃げて帰り なことは、鍋に仕掛けた芋でもんでも十分煮えるのを待帰りしました。それほど私は臆病でした。 一方から一 = ロえば私は八歳の昔に早や初恋を感じたほどの って居られないという程でした。早く煮て、早く食って、 ・ : それが姉さんの癖でしたか少年で ( そのことは既に貴女に御話しましたが ) 、その私 早く膳を片付けて了いたい : ・ なまにえ ら、私も学校の方へ気が急かれる時などは、生煮の物でもが鷲津の姉さんのような家庭の空気の中に置かれて、種々 みだら 何でもサッサと掻込んで、成るべく早いことをやりましな大人の婬蕩を見たり聞いたりしながら、しかも少年らし た。それでも姉さんには急き立てられました。そんな風にい多くの誘惑から自分を護り得たというのも、一つは斯の して私は一年ばかりも斯の婦人に養われましたが、二番目臆病からだと自分で思い当ることが有ります。 の兄が国から上京して期のさまを見た時は、私のために心 一一番目の兄は鷲津の姉さんの傍に長く私を置くことを好 配し始めた位でした。鷲津の姉さんの早く、早くで、終にみませんでした。そこで私は姉や兄達の懇意な豊田さんの は私は青く成って了いました。 家の方へ引取られて、豊田さんの監督の下に勉強すること ちょうど に成ったのです。丁度それは私が十一の年の秋頃でした。 貴女は十一一一という年頃をお母さんの側で奈何な風に送 私は極く早い頃から臆病な性質をあらわしました。銀さったでしようか。私は全く独りでーー母からも、姉からも いたずら んは国に居る頃から私と違いまして、木登りの悪戯から脚離れてーー・早くから他人の中へ投げ出されたようなもので に大きな勅などが差さっても親達に見つかる迄はそれを隠した。それが私に取っての修業というものでした。私はい ひと どん いたみ なか

6. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

めのまえ おんなよっど 引受けて呉れた親類の姉さん達や下婢に余程御礼を言わねべた時、奈様な感じを起しますか。すくなくも私達の眼前 に、それが幼稚な形にもせよ、既に種々雑多なことが繰返 ば成りません。学校の終る頃には、家のものは皆な言い合 せたように門口に出て、独りで帰って来る子供を待受けまされて居るでは有りませんか。 私達が子供の時分、相手にするものは多く婦人です。私 「ア、兄さんが帰って来た、帰って来た。」と一人が言う達は女の手から手へと渡されたのです。それを私は今、貴 と、近所の人も往来に出て眺めて、 女に書き送ろうと思い立ちました。斯の手紙は主に少年の 眼に映じた婦人のことを書こうと思うのですから。 「まるで、鞄が歩いて来るようだ。」と申しました。 ぞうり 学校帰りの子供は鞄を肩に掛け、草履袋を手に提げ、新 きしよう しい帽子の徽章を光らせながら、半ば夢のように家の内へ かけこ 私の側に今居る兄弟の子供が八歳と六歳になることは貴 馳込みました。 めのまえ おさな 地方に居て絶えず私や私の子供のために心配して居て下女に申上げました。彼等幼少いものを眼前に見る度に、自 やはり さる貴女に、私は期のことを書ぎ送りたいと思います。貴分等の少年の時と同じようなことが矢張この子供等にも起 ちょうど こん した 女が着物を作って送って下すったりした一番年少の女の児りつつあるだろうか。丁度自分等も期様な風であったろう も、今では漁村の乳母の家で、どうにか斯うにか歩行の出か。左様思って私は独りで微笑むことが有ります。 私が今住む場所は町の中ですから、夕方になると近所の 来るまでに成人したことを申上げたいと思います。 貴女もやがて一一人の子の親とか。左様言えば、四五日前子供が狭い往来に集ります。路地路地の子供まで飛出して に私はめずらしい蜜蜂が期の町中の軒先へ飛んで来たのを来て馳け回る。時には肴屋の亭主が煩がって往来へ水を撒 いて歩いても、そんなことでは納まらない程の騒ぎを始め 見かけました。あの黒い、背だけ黄色な、大きな蜂の姿を 斯ういう花の少い場所で見かけるとは実にめずらしいことる。吾家の子供も一緒に成って日の暮れるのも知らずに遊 です。それを見るにつけても、貴女が今住む地方の都会のび回ります。夕飯に呼び込まれる頃は、家の内は薄暗い。 あかり りんご 空気や、貴女がお母さんの家の方の白壁、石垣、林檎畠屋外から入って来た弟の方は燈火の下に立って、 「もう晩かい。」 や、それから私が自分の少年の時を送った山の中の日あた と尋ねるのが癖です。 りなどを想い起させます。人の幼少な頃ーー貴女は自分の たそがれど、 子供等を見て、その為すさまを眺めて、それを身に思い比早くタ飯の済んだ黄昏時のことでした。私は一一人の子供 どん さかなや うるさ

7. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

は夫婦だけで小さな感謝会でも開いたらしい。その讃美歌家にも置いて貰ったことがあるという話を知ってから、ち くらすさ いちょい玉木さんの方から捨吉の机の側へ覗ぎに来て、 の合唱は最初は一一人でロ吟むように静かで、世を忍ぶ心やよ りとも貧しさを忘れる感謝とも聞えたが、そのうちに階下時には雑誌なぞを貸して呉れと言うように成ったのであ る。 へも聞えよがしの高調子に成った。玉木さんの男の声は小 母さんの女の声に打消されて、捨吉が歩いて居た庭の青桐「捨さん、まあ御話しなさい。」 と玉木さんは言って、さも退屈らしく部屋を見回した。 のところへ響けて来た。 ふだん その一一階は特別な客でもあった時にあげる位で、平素は 玉木さんの小母さんのすることは捨吉をハラハラさせ もくめ た。捨吉は異様な、矛盾した感じに打たれて、青桐の下かあまりつかわない部屋にしてあった。楠の木目の見える本 箱の中には桂園派の歌書のめずらしくても読み手の無いよ ら庭の隅の方の楓や楠の葉の間へ行って隠れた。 なデし うな写本が入れてある。押の上には香川景樹からお婆さ 「兄さん。」 うたよみ と呼んで、期ういう時に捨吉の姿を見つけては飛んで来んの配偶であった人に宛てたという歌人らしく達者な筆で 書いた古い手紙が額にして掛けてある。玉木さんはここへ るのが弘だ。どうかすると、弘は隣の家の同い年齢ぐらい な遊友達の娘の手を引いて来て、互に髪を振ったり、腰に世話に成ってから最早その部屋の壁も、夏の日の射した障 いっかんばり きんらやく 子も見飽きたという様子で、小父さんから借りた一閑張の 着けた巾着の鈴を鳴らしたりして、わっしよいわっしよい と捨吉の見て居る前を通過ぎた。期うした幼い友達同士を机の前に寂しそうに坐って居た。 玉木さんは何をして日を暮して居たろう。明けても暮れ すら、玉木さんの小母さんは黙って遊ばせては置かなかっ た。何か教訓を与えようとした。「弘さん達は一一階で何をても読んで居るのは一冊の新約全書だ。ところどころに書 して居たの」なそと聞いた。身に覚えのある捨吉は玉木の入のしてある古く手擦れた革表紙の本だ。読みさしの哥林 小母さんの言ったことを考えて、わざわざ少年をはじしめ多前書の第何章かが机の上に開けてある。 捨吉は学校の友達にでも物を尋ねるような調子で、 るような左様いう苛酷な大人の心を憎んだ。 ある日、捨吉は二階の玉木さんの部屋へ上って行って見「玉木さんが被入っしやる築地の方の教会は何と言うんで なれなれ た。次第に玉木さんも捨吉と忸々しい口を利くように成っすか。」 たのである。殊に捨吉が基督教主義の学校で勉強して居る「私の属してるのは浸礼教会です。」 玉木さんは煙草を服むことさえ不本意だが、退屈凌ぎに ことや、聖書を熱心に読んで見て居ることや、浅見先生の した つれあい しの

8. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

里の方で人に知られた漢学者もあったが、その人の髯が真ことが、生れて初めて大都会を見た日のことが、中山道を まんせいばしたもと 白になる頃に親子して以前の小父さんの家の一一階に侘しげ乗って来た乗合馬車が万世橋の畔に着いた日のことが、他 な日を送って居たこともある。実際、小父さんの周囲にあにも眼の療治のために上京する少年があって一緒に兄に連 みじめ る人達で、学問や宗教に心を寄せるものの悲惨さを証拠立れられてその乗合馬車を下りた日のことが、あの広小路で はたごや よせ てないものは無いかのようであった。しい青年の眼ざ馬車の停ったところにあった並木から、寄席や旅籠屋なそ あせ ありさま め。誰一人、目上の人達で捨吉の焦って居る心を知ろうとの近くにあった光景までが、実にありありと捨吉の胸に浮 するものも無かった。何事も知らないで居るようなお母さんで来た。 たど んに逢って見て、彼は何時の間にか自分勝手な道を辿り始京橋から銀座の通りへかけて、あの辺は捨吉が昔よく遊 めたその恐怖を一層深くした。 び回った場処だ。十年の月日はまだ銀座の通りにある円柱 あんばい と円窓とを按排した古風な煉瓦造の一一階建の家屋を変えな こぶならよう 小舟町を通りぬけて捨吉はごちやごちゃと入組んだ河岸かった。あらかた柳の葉の落ちた並木の間を通して、下手 ま、え あらめばし のところへ出た。荒布橋を渡り、江戸橋を渡った。通い慣な蒔絵を見るように塗られた二人乗の俥の揺られて行くの その らつば も目につく。塵埃を蹴立て喇叭の音をさせて、けたたまし れた市街の中でも其辺は殊に彼が好きで歩いて行く道だ。 よろいばし 鎧橋の方から掘割を流れて来る潮、往来する荷船、河岸にく通過ぎる品川通いのがた馬車もある。四丁目の角の大時 光る土蔵の壁なそは、何時眺めて通っても飽きないもので計でも、縁日の夜店が出る片側の町でも、捨吉が旧い記億 あった。いつでも彼が学校へ急ごうとする場合には、小父に繋がって居ないところは無かった。捨吉は昔自分が育て こう 時さんの家からその辺まで歩いて、それから鉄道馬車の通うられた町のあたりを歩いて通って見る気になった。ある小 たもと る 日本橋の畔へ出るか、さもなければ人形町から小伝馬町の路について、丁度銀座の裏側にあたる横町へ出た。そこに す べっこうや 熟方へ回って、そこで品川通いのがた馬車を待っかした。そ鼈甲屋の看板が出て居た筈だ。ここに時計屋が仕事をして 実の日は何にも乗らずに学校まで歩くことにして、日本橋の居た筈だと見て行くと、往来に接して窓に鉄の格子の箝っ ほんざいもくちょうたいら 桜通りへかからずに、長い本材木町の平坦な道を真直に取った黒い土蔵造の家がある。入口の格子戸の模様はやや改め て行った。 られ、そこに知らない名前の表札が掛け変えられたのみ 何時にない心持が捨吉の胸に浮んで来た。子供心にも東で、その他は殆んど昔のままにある。その窓の鉄の格子は 京に遊学することを楽みにして遠く郷里から出て来た日の昔捨吉が朝に晩に行ってよくつかまったところだ。その窓 に おそれ なんに ひげ くるま

9. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

うとして居る一人の若い友達の前途は、唯あなたがあって「いよいよお出掛でございますか。」 それを知るのみでございます。」 と婆やもそこへ来て言った。 こんな風に祈った。清之助もまた静粛な調子で、捨吉の 自分ながら何となく旅人らしい心持が捨吉の胸に浮んで ために前途の無事を祈って呉れた。 来た。草鞋で砂まじりの土を踏んで、岡見の別荘を離れよ うとした。その時、岡見は捨吉に随いて一緒に木戸の外へ 翌朝早くから捨吉は旅の仕度を始めた。田辺の家を出る出た。 時に着て来た羽織を脱いで、麹町の学校の生徒が贈って呉「じゃ、まあ御機嫌よう。お勝さんの方へは妹から君のこ すね 、やはん れたという綿入羽織に着替えた。脛には用意して来た脚絆とを通じさせることにして置きました。」 を宛てた。脱いだ羽織、僅かの着替え、本二冊、紙、筆な と岡見が言った。 ひとまと そは、涼子から贈られた袋と共に一纏めにして、肩に掛け この餞別の一言葉は捨吉に取って、奈何なる物を贈られる ても持って行かれるほどの風呂敷包とした。岡見兄弟と一よりも嬉しかった。実に、一切を捨てて来て、初めて捨吉 緒の朝茶も、着物の下に脚絆を宛てたままで飲んだ。 はそんな嬉しい言葉を聞く事が出来た。それを聞けば、も 前途の不安は年の若い捨吉の胸に迫って来た。「お前はう沢山だ、とさえ思った。 気でも狂ったのか」と他に言われても彼はそれを拒むこと清之助も、涼子も、岡見と一緒に、朝日のあたった道に の出来ないような気がして居た。その心から、岡見にたず添うて捨吉の後を追って来た。途中で捨吉が振返って見た たんほわき ねて見た。 時は、まだ兄妹は枯々とした田圃側に立って見送って居て 呉れた。 「僕の足は浮ついて居るように見えましようか。」 「どうして、そんな風には少しも見えない。奈何なる場合裏道づたいに捨吉は平坦な街道へ出た。そこはもう東海 こおどり でも君は静かだ。極く静かに君はこの世の中を歩いて行く道だ。旅はこれからだ。左様思って、彼は雀躍して出掛け ような人だ。」 この岡見の言葉に、捨吉はいくらか心を安んじた。 一里ばかり半分夢中で歩いて行った。そのうちに、黙っ 礼を述べ、別れを告げ、やがて捨吉は東京からいて来て出て来た恩人の家の方のことが激しく捨吉の胸中を往来 あががまら 、ちがい おこない どんな た下駄を脱ぎ捨てて、上り框のところで草鞋穿きに成っし始めた。狂人じみた自分の行為は奈何に田辺の小父さん や、姉さんや、それからあのお婆さんを驚かし、且っ怒ら うわ ひと

10. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

ったところが、その返事が、どうしてもお磯さんです。先 「伝馬町は兄さんによく似てますね。」 生としては何処までも尊敬する。しかし、その人を自分の と捨吉が言い出した。 ラヴァとして考えることは奈様しても出来ないと言うんだ ふと捨吉は伝馬町という言葉を思いついて、自分ながらそうです。左様なって来ると岡見君の方でも余計に心持が へつついがし 話すに話しいいと思って来た。竈河岸、浜町、それで田辺激して来て : : : 教場なそへ出ても、実に厳然として生徒に の家の方では樽屋のおばさんや大川端の兄を呼んで居た。臨むという風だそうです・ : : ・」 それを捨吉は涼子に応用した。 斯う話し聞かせる市川の広い額は蒼白く光って来た。市 「伝馬町はよかった。」 川はまたずっと以前の岡見をも知って居てあの軽い趣味に と市川も笑出した。さすがに涼子のことになると、市川満足して居た人が今日のような涙の多い文章を書く岡見に も頬を染めた。 変って来たことを捨吉に話した。左様いう話をする調子の 中にも、市川は若者と思われないほどの思慮を示した。子 どう 「岡見君は一体奈何なんですか。」 供と大人が期の人の蒼白い額や特色のある隆い鼻には同時 へんしゅう 捨吉は自分の胸に疑問として残って居ることを市川の前に棲んで居た。やがて市川は岡見と一緒に編輯したという に持出した。あれほど市川に同情を寄せ捨吉に手紙を呉れ例の小さな雑誌の秋季付録を捨吉の前に取出した。一一人と みなもと も好きな詩文の話がそれから尽きなかった。 た岡見も、まだ自分から熱い涙の源を語らなかった。 再会を約して捨吉は市川の許を離れた。 , 「お磯さんという生徒がありましよう。」 彼の胸は青木 時「左様ですかーーあの人ですかーーー大方そんなことだろうや、岡見兄弟や、市川や、それから菅、明石のことなそで る と思ってました。」 満たされた。同時に、磯子、涼子、勝子、もしくは青木の す 熟斯の二階へ来て見て、初めて捨吉は岡見の心情を確め細君のことなぞが一緒になって浮んで来た。何となく若い 実た。市川の口から磯子の名を聞いたばかりで、かねての捨ものだけの世界がそこへ出来かけて来た。芝公園、日本橋 あかり 伝馬町、本船町、そこにも、ここにも、点いた燈火が捨吉 桜吉の想像が皆なその一点に集って来た。 に見えて来た。 「ところがです。」と市川は捨吉の方へ膝を寄せながら、 「お磯さんという人は、君も知ってる通りな強い人でしょ う。吉本さんを通して岡見君の心持をあの人まで話して貰