お母さん - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学5:島崎藤村 集
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1. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

れなかった。多くの他の少年が親の膝下でのみ許されるよ葬をするために出掛けたことがある。それぎりだ。すべて きようがし 1 うな我儘は全く彼の知らないものであった。まだそれでもは彼の境涯が許さなかった。 とっ お父さんの生きて居るうちは、根気よく手紙を呉れて、少 いろいろくに 年の心得になるようなことや、種々な郷里の方のことや、 お母さんは隅田川の見える窓に近く行って、東の方の空 あによめ どうかすると嫂が懐妊したから喜べというような家庭のを拝んだ。毎朝欠かしたことも無いように軽く柏手を打っ 中のことまで、よく書いてよこして呉れた。お父さんが亡て、信心深い眼付で祈願を籠めるそのすがたを、捨吉は久 くなったことを聞いたのは、彼が十三の歳であった。お父し振で見た。何か心配あっての上京とは、お母さんを見た さんの最終に呉れた手紙には、古歌なそに寄せて、子を思時一番先に捨吉の胸へ来た。単独な女の旅という事も思い こころ う熱い親の情が書き籠めてあったが、それからはもう郷里合された。長い留守居で、お母さんも年をとった。朝にな たにあい の方のこまかい事情を知らせてよこして呉れる人もなくな って見て余計にそれが捨吉の眼についた。深い谿谷の空気 った。お母さんからも遠くなった。漸く物心づく年頃になに揉まれたお母さんの頬の皮膚の色は捨吉が子供の時分に って、彼は一年ばかりも郷里の方のお母さんの側に居て来見たまま、まだ林檎のような艷々とした紅味も失われずに て見たいと言出したことがある。「貴様も妙なことを考えあったが。 あたり る奴だ」と田辺の小父さんから笑われたことがある。どう周囲は下町らしい賑かな朝の声で満たされた。納豆売の らつば も自分の性質はひねくれるような気がして仕方がないと言呼声も、豆腐屋の喇叭も、お母さんの耳にはめずらしいも くろらしゃ って見て、「馬鹿、学問を中途で止めて親の側に居て来るののようであった。お母さんは田舎風の黒羅紗のトンビを という奴があるものか」とまた小父さんから酷く笑われた引きよせ、部屋に居てもそれを引掛けて、寒い国から東京 ことがある。捨吉がお母さんの側にでも居て来て見たいなへ出て来たという容子をして居た。兄は何かにつけてお母 あと ぞと言出したのは、後にも前にもその一度きりであったさんに安心を与えようとする風で、その昔県会議員などを ・カ した人とも思われない程めつきり商人らしくなった前垂掛 それほど捨吉はお母さんから遠かった。お父さんが亡くの膝をすすめ、長火鉢の側でお母さんにも弟にも手ずから なったことを聞いた時すら、帰国は叶わなかった。唯一度朝茶を注いで勧めた。 ーー郷里の方で留守居するお母さんや嫂を見に帰って行っ 「御蔭でまあ大勝の大将には信用されるように成りました たことがある。その時は兄の代理として、祖母さんのお送し、浜には取引が出来ますし、田辺とは殆んど兄弟のよう ・、 0 かな とむ ぶり つやつや かしわで

2. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

の側へめずらしく帰って行った。 田辺は全盛に向おうとする時であった。板塀越しに屋敷 兄は用達から帰って来た。午後からお母さんは田辺の家の外で聞いた井戸の水酌みの音まで威勢が好かった。小父 いらまきおたな を訪ねる筈であった。 さんが交際する大勝一族の御店の旦那衆をはじめ、芝居の かわ 「捨吉、貴様はお母さんのお供をしろや。」と兄は言った。替り目ごとに新番付を配りに来る茶屋の若い者のような左 「時間が来たら貴様は学校の方へ帰るが可い。どうせ田辺様いう人達までさかんに出入する門の戸を開けると、一方 だいかっ ことづて には逢う用があるし、大勝の大将から頼まれて来た言伝もは玄関先の格子戸、一方は勝手の入口に続いて居る。捨七ロ あるし、俺は後から出掛ける。」 は勝手の入口の方からお母さんを案内しようとして、丁度 「それじゃ、捨吉に連れてって貰わず。」 そこで河岸の樽屋の娘に逢った。捨吉が学校から戻って来 とお母さんも言った。年はとっても、お母さんの身体はる度によく見かけるのは期の娘だ。娘は捨吉親子に会釈し よく動いた。捨吉の見て居る前で、髪をなでつけたり自分て表の方へ出て行った。 で織ったよそいきの羽織に着更えたりして、いそいそと仕「さあ、お母さん、どうぞお上んなすって下さい。」 いらはやかまど 度した。田辺の訪問はお母さんに取って無造作に済ませる と田辺のおばあさんは逸早く竈の側まで飛んで出て来 ことでも無いらしかった。 「捨さん、お前さんもまた玄関の方から御案内すれば可い お母さんのお供で捨吉は兄の下宿を出た。屋外は直ぐ大のに。」 橋寄りの浜町の河岸だ。もう十月の末らしい隅田川を右に と田辺の姉さんもそこへ出て来て、半ば遠来の客を持成 はせつり がお 時して、夏中よく泳ぎに来た水泳場の付近に沙魚釣の連中の顔に、半ば捨吉を叱るように言った。 る 集るのを見ながら、お母さんと二人並んで歩いて行くとい 「御待ち申して居ました。」 す こおりむろ 熟うだけでも、捨吉には別の心持を起させた。河岸の氷室に と小父さんまで立って来て、お母さんを迎えた。 つれあい 実ついて折れ曲ったところに、細い閑静な横町がある。そこ 田辺のおばあさんの亡くなった連合という人と、捨吉の の は釣好きな田辺の小父さんが多忙しい中でも僅かな閑を見お父さんとは、むかし歌の上の友達であったとか。幾年か 桜 つけて、よく釣竿を提げて息抜きに通う道だ。捨吉は自分前には、お父さんは捨吉を見るために一度上京したことが 訂でも好きなその道を取って、田辺の家の方へお母さんを案あって、田辺の家の一番苦しい時代に尋ねて来た。お母さ 内して行った。 んはまた、田辺の家の人達の一番見て貰いたいと思うよう もてなし

3. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

な日に訪ねて来たのであった。 さんの側に倚りかかって、めずらしそうに捨吉のお母さん 奥座敷で起る賑かな笑声を聞捨てて、捨吉は玄関の方への方を見て居た。 取次に出た。大勝の店に奉公する若いものの一人が旦那の「捨さん、何だねえ。玄関の方なぞに引込んで居ないで、 使に来た。新どんと言って、いくらか旦那の遠い縁つづぎちっとお母さんの側にでも坐っておいでな。」 たなもの に当るとかで、お店者らしく丁寧な口の利きようをする人とおばあさんが言った。 しお であった。この取次を機会に、捨吉はおばあさんや姉さん「ほんとだよ。」と姉さんも調子を合せた。「お母さんの頸 とりかわ とお母さんとの間に交換される女同士の改まったような挨ッ玉へでも齧り付いて遣れば可いんだ。」 えぐ 拶を避けて、玄関を歩いて見た。極く僅かな暇があって才気をもった姉さんは捨吉の腹の底を抉るようなことを じようだん も、捨吉の足を引きとめるのはその玄関の片隅だ。もしお言った。姉さんは半分串談のようにそれを言ったが、思わ 母さんが学問のことの解るような人であったら、何よりもず捨吉は顔を紅めた。 捨吉が見せたいと思うものは、そこにあった。彼はそこに 「どうです、お母さん。」と小父さんは例の調子で快活に こじゅう しちょう ある自分の本箱の中に、湖十の編纂した芭蕉の一葉集、高笑って、「捨吉も大きくなったものでしよう。」 輪の浅見先生に聞いてある古本屋から探し出して来た西行「捨さんも、どちらかと言えば小柄な方でしたのに、この せんじゅうしよう このかた の選集抄、其他日頃愛読する和漢の書籍を蔵って置いた。 一一三年以来急にあんなに大きく成りました。」と姉さんも あっ それらは貧しい中から苦心して蒐めたもので、兄から貰っ言葉を添えた。 * 、かく * しこう た小遣で買った其角の五元集、支考の俳諧十論などの古い お母さんはつつましやかな調子で、「ほんとに、これと ありがた 和本も入れてある。郷里の方の祖母さんが亡くなって葬式申すも皆田辺様の御蔭だで。難有いことだぞやーーー左様申 のこ * こうさん くに に行った時に、父の遺した蔵書の中から見つけて来た黄山してなし、郷里の方でも言い暮して居りますわい。何から 谷の詩集もある。捨吉は斯うした和書や漢書の類を田辺の何まで御世話さまに成って、この御恩を忘れるようなこと 家の方に置き、洋書はおもに学校の寄宿舎の方に持って行じゃ、捨吉もダチカンで。」 って置いた。 交際上手な田辺の人達はやがてこのお母さんを打解けさ 「捨吉。」 せずには置かなかった。おばあさんは国の方に居る捨吉の と奥座敷の方で呼ぶ小父さんの高い声が聞えた。 姉の罇をしきりとして、姉が一度上京した折の話なそをお ま 捨吉が復た小父さん達の中へ行って見た頃は、弘まで姉母さんの口から引出した。 よ かじ

4. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

ほどワヤクな捨様でも、東京へ出て修業すれば是だ。まんからも多勢の女中からも厭にジロジロ顔を見られたこ あ、俺の履物まで直して下すったそうなーー・」と別れ際にとを思出した。お父さんは又、自分の小学校をも見たいと 言って、あの婆さんがホロリと涙を落したことを思出し言うから、あの河岸の赤煉瓦の建物の方へ案内して行くと、 途中で河岸に石の転がったのを見つけ、子供の通う路に斯 亡くなったお父さんのことをも思出した。自分に逢うこういうものは危いと言って、それを往来の片隅に寄せた とを楽みにして、一度お父さんが上京した日のことを思出り、お堀の中へ捨てたりするような、そういう人であった した。あの銀座の土蔵造の家の奥一一階に、お父さんが田舎 ことを思出した。お父さんの為る事、成す事は、正しい精 びろうど から着て来た白い毛布や天鵞絨で造った大きな旅の袋を見神から出て居たには相違なかろうが、何んとなく人と異な つけたことを思出した。国に居る頃のお父さんはまだ昔風ったところが有って、傍で見て居るとハラハラするような やつばり に髪を束ね、それを紫の紐で結んで後の方へ垂れて居るよことばかりで有ったことを思出した。矢張お父さんは国の ほたび うな人であったが、その旅で名古屋へ来て始めて散髪に成方に居て欲しい。早く東京を引揚げあの年中榾火の燃える ああ った話なそを聞かされたことを思出した。「あれを彼様と、炉辺の方へ帰って行って老祖母さんやお母さんや兄夫婦や これを期様とーー」とそれを口癖のように言って、お父さそれから正直な家僕などと一緒に居て欲しい。それがお父 んがよく自分自身の考えを纏めようとして居たことを思出さんに対する偽りの無い自分の心であったことを思出し よっぱど した。お父さんを案内して小学校友達の家へ行った時に、 た。後で国から出て来た姉の話に、余程自分の子供は嬉し 途中でお父さんは蜜柑を買って、それを土産がわりとして がるかと思って上京したのに、案外で失望した、もう子供 普通に差出すことと思ったら、やがてお父さんは先方のおに逢いに行くことは懲りた、と言ってお父さんが嘆息して 友達のお母さんからお盆を借り、その上に蜜柑を載せ、ツ姉に話したということを思出した。「捨吉ばかりは俺の子 あれ カッカと立って行って、それを仏壇に供えようとした時だ。彼には俺の学問を継がせたい」とお父さんが生きて居 は、実にハラハラしたことを思出した。お父さんの逗留中る中によく姉に話したということを思出した。期うした記 には、旧尾州公という人の前へも連れられて行き、それか億や、幼い時に見た人の顔や、何年もの間のことが一緒に ら浅草辺のある飲食店へも連れられて行ってお父さんとは なって胸に浮んで来た。その日ほど捨吉は自分の幼い生涯 懇意なという地方出の主人や内儀さんに引合され、「こんを思出したこともなかった。 なお子さんがお有んなさるの」と言ったそこの家の内儀さ まと はた

5. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

ばり 姉さんまで小父さんの成田屋張にかぶれて、そんなことた少年の日も遠い昔の夢のように。 を言うように成った。 ややしばらくして、復た兄が言った。 「捨さん、お前さんは何を愚図愚図してるんだねえ。早く「お母さん。もう少しお休みになったら奈何です。昨夜は お母さんにお目に掛りにお出な。」 またあんなに遅かったんですから。」 とお婆さんは急き立てるように言った。 「田舎者は、お前、稀に東京などへ出て来ると、よく寝ら よっぴて 民助兄は大川端の下宿の方で、お母さんと一緒に岸本をれすか。車の音がもう終宵耳について。」 はめがラス こんなことを言って、お母さんは早や起出した。 待受けて居て呉れた。障子の嵌硝子を通して隅田川の見え る二階座敷で、親子は実に何年振かの顔を合せた。 他人に仕える一切の行いが奉公なら、捨吉の奉公は彼が 極く幼い頃から始まった。大都会を見るのを楽みに、九つ の歳に両親の膝下を離れて来た日から、既にその奉公が始 「お母さん、もう少しお休みなさい。まだ起きるには早うまった。上京して一年ばかりは姉の夫の家の世話になり、 ござんす。」 そこから小学校に通ったが、姉夫婦の帰国後は全く他人の と、兄は寝床から声を掛けた。 中に育てられたのである。兄等のはからいで、田辺の家に 「あい。」 少年の身を寄せるように成ってからも、注意深い家族の人 と、お母さんも寝返りを打ちながら答えた。 達の監督を受け、学問するかたわら都会の行儀作法を見習 早起の兄も、郷里の方から出て来たお母さんを休ませる 、言葉づかいを覚え、田辺の小父さんや姉さんやそれか 時ために、床を離れすに居る様子であった。このお母さんとらおばあさんに仕えることを自分の修業と心得て来た。そ る 兄との側で、親子三人めすらしく枕を並べて寝た大川端のの頃、兄はまだ郷里の方で、彼の許へ手紙を寄せ、家計も す 下宿の一一階座敷で、捨吉も眼を覚ました。本所か深川の方なかなか楽ではないそ、その中で貴様に学問させるのだか 実の工場の笛が、あだかも眠から覚めかけようとする町々をら貴様もその積りでシッカリやって呉れとよく言ってよこ 呼び起すかのように、朝の空に鳴り響いた。捨吉は半分夢した。子供心にも彼は感激の涙なしに左様いう手紙を読め 桜 心地で、その音を聞いて居た。過ぐる十年の長い月日の なかった。艱難も、不自由も、彼にはそれが当然のことの 3 間、「お母さん」と呼んで見る機会も殆んど有たなかった ように思われた。どうかして人の機嫌を損ねないように、 その人の側で。その人の乳房を吸い、その人に抱かれて寝そして自分を幸福にするように、とは一日も彼の念頭を離 ゅうべ

6. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

83 幼き日 父は随分奇行に富んだ人で、到るところに逸話を残しました。父は私が学校で作った鉛筆画の裏に私の名前などを したが、しかし子としての私の眼には面白いというよりも書いたものを尾州公の前に差出しました。私は広い御座敷 あかり 気の毒で、異常なというよりも突飛に映りました。期の上に身を置いて燈火の影で大人の話をするのを聞いたのと、 京で私はそれを感じたのでした。私の学校友達の六ちゃん帰りに御菓子を頂いて来たのとその他に今記億して居るこ の家へも父が訪ねて行こうと言いますから、私は一方には とも有りません。父は又浅草辺の鹿の子という飲食店へも 嬉しく思いながら、一方には復た下手なことをして呉れな私を連れて行って、そこの主人や内儀さんに私を引合せま ければ可いがと唯そればかり心配して、三十間堀の友達のした。 こん 家へ案内して行きました。六ちゃんの家ではお母さんが後「期様なお子さんが御有りなさるの。」と内儀さんは愛想 家さんで六ちゃん達を育てて居ました。訪ねて行くと、先よく言って、父と私の顔を見比べました。私は内儀さんば 方でも大層喜んで呉れましたが、別れ際に父は六ちゃんのかりでなく多勢の女中からジロジロ傍へ来て顔を見られる お母さんからお盆を借りまして、土産がわりに持って行っのが厭でした。鹿の子の主人は地方出で、父とは懇意な人 た大ぎな蜜柑をその上に載せました。やがてッカッカと立でした。 やはり って、その蜜柑を仏壇へ供えたというものです。斯ういうその時の私の心では、私は矢張郷里の山村の方に父を置 父の行いが少年の私には唯奇異に思われました。私は父の いて考えたいと思いました。私は一日も早く父が東京を引 ほたび 精神の美しいとか正直なとかを考える余裕はありませんで揚げて、あの年中榾火の燃えて居る炉辺の方へ帰って行っ した。何でも早く六ちゃんの家を辞して豊田さんの方へ父て、老祉母さんやお母さんや、兄夫婦や、それから太助な を連れ帰りたいと思いました。 どと一緒に居て貰いたいと思いました。久し振の上京で、 父は私の通う学校を見たいと言いますから、数寄屋河岸父は東京にある旧い知人を訪ねたり、亡くなった人の御墓 の方へも案内しまして赤煉瓦の建物を見せました。河岸に参をしたりしまして、間もなく郷里の方へ戻って行きまし たが、後で国から出て来た人の話には、余程私が嬉しがる 石の転がったのが有りましたら、子供の通う路に斯ういう 石は危いと言って、父はそれを往来の片隅に寄せたり、おかと思って上京したのに、子供には失望したと言って、父 ひと すて 堀の中へ捨たりするような人でした。 が郷里へ戻ってから嘆息して他に話しましたとか。斯の手 父が逗留の間に旧尾州公の邸をも訪ねました。その時、紙で私が今貴女に御話して居るのは、銀座の大倉組の角に 私も父に伴われて、以前の尾張の殿様という人の前に出ま点いた白い強い電燈の光が東京の人の眼に珍しく映った頃 あるじかみ ろばた

7. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

と小父さんは話して呉れた。芝居見物と言えば極りで後ことを楽みに、兄に連れられて出て来た幼かった日 に残る名のつけようの無いほど心細い、いやな心持の幾日捨吉はしばらくお母さんへ手紙も書かなかった。お母さ も幾日も続いて離れないことは、余計に捨吉をいらいらさんからのは、、 しつも姉さんの代筆で、無事で勉強して居る はばか せた。眼の球の飛出たような役者の似顔絵、それから田辺か、こちらも皆な変りなく留守居をして居る、憚りながら の姉さんの枕許によく置いてあったみだらな感じのする田御安心下さいというような便りを読む度に、捨吉は何と言 舎源氏の連想なそは妙に捨吉には悩ましいものであった。 って返事を書いて可いのか、それすら解らないほど国の方 ばんやり もっともっと胸一ばいに成るようなものを欲しい。左様のことは遠く茫然として了った。彼は奈様いう言葉を用意 思って見ると、堤を切って溢れて行くような『チャイルドして行ってお母さんに逢って可いかも解らなかった。 ・ ( ロルド」の巡礼なぞの方に、捨吉は深く心を引かれる土曜日の午後から、捨吉はお母さんの突然な上京を不思 ものを見つけた。青い麦の香を嗅ぐような・ ( アンズの接吻議に考えつつ寄宿舎を出た。秋雨あがりで体操も碌に出来 やくしゃ の歌も、自分の国の評判な俳優が見せて呉れる濡幕にも勝ないような道の悪い学校の連動場を見ると、寒い田舎の方 さらござか って一層身に近い親しみを覚えさせた。彼はまた詩人ギョ へは早や霜が来るかと思わせた。取りあえす伊皿子坂で馬 エテの書いたものを通して、まだ知らなかったような大き車に乗って、新橋からは鉄道馬車に乗換えて行った。 くろへつつい な世界のあることを想像し始めた。 田辺の家へ寄って見ると、台所に光る大きな黒竈の銅 壺の側で、お婆さんが先す笑顔を見せた。 十一月も近くなって、岸本は兄から来た葉書を受取った。 「捨さん、お母さんが出て褪入しったよ。」と姉さんも奥 「国許より母上上京につき、明土曜日には帰宅あれ。母上座敷に居てめすらしそうに言った。「長いことそれでも吾 もっと はお前を待つ。尤も今回は左様長く滞在しても居られない家ではお前さんを世話したものだ」と眼で言わせて。 筈だ」とある。 夏の間のような低気圧が田辺の家には感じられなかっ 「お母さんが来た。」 た。一一階に身を寄せて居た玉木さん夫婦も、もう見えなか じようぶ 思わずそれを言って見た。 国の方のことも捨吉は最った。姉さんは壮健そうに成ったばかりでなく、晴々とし 早大分忘れて了った位だ。お母さんと一緒に田舎で留守居た眼付で玉木さん達の噂をした後に、めったにロにしたこ する姉さんや、一人の家僕なぞのことが僅かに少年の記憶との無い仮白なそを遣うほど機嫌が好かった。 たど にしめそうざい を辿らせる。思えば東京へ遊学を命ぜられて大都会を見る「鹿尾菜と煮染の総菜じゃ、碌な智慧も出めえ ぬれまく まさ こわいろ よ どう

8. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

た。久松橋にさしかかった。若い娘達の延びて来たには更際に、お母さんは物足らず思う顔付で、小父さん達の居る かつらしたじ に驚かれる。あの髪を鬘下地にして踊の稽古仲間と手を引奥座敷から勝手の板の間を回って、玄関に掲けてある額の 合いながら河岸を歩いて居た樽屋の娘が、何時の間にかお下まで捨吉に随いて来たが、彼の方では唯素気なく別れを ばさんの御供もなしに独りで田辺の家へ訪ねて来て、結構告げて来た。 母親の代理を勤めて行くほどの人に成った。捨吉は人形町しかしお母さんの言ったことは、殊に別れ際に、「月に への曲り角まで歩いた。そこまで行くと、大勝も遠くはな一度ぐらいはお前も手紙を寄して呉れよ」と言ったあのお かたく かった。あの御隠居さんの居る商家の奥座敷で初々しい手母さんの言葉は捨吉の耳に残った。自分の頑なを、なおざ 付をしながらよく菓子などを包んで捨吉に呉れた大勝の大りを、極端から極端へ飛んで行ってしまう自分の性質を羞 もはや 将の娘が、最早見違えるほどの姉さんらしい人だ。稀に捨じさせるような、何時にない柔かな心持が残った。 吉が小父さんの使として訪ねて行って見ると、最早結い替もともと田辺の小父さんは、旧い駅路の荒廃と共に住み えた髪のかたちを羞じらうほどの人に成った。揃いも揃っ慣れた故郷の森林を離れ、地方から家族を引連れて来て都 しとな て皆急激に成長って来た。春先の筍のような斯の勢は自分会に連命を開拓しようとした旧士族の一人だ。小父さんの 、お まわり むかし ちょうらく の生きたいと思う方へ捨吉の心を競い立たせた。 周囲にある人達で旧を守ろうとしたものは大抵凋落してし あらめばし おくば その日は、捨吉は芳町から荒布橋へと取って、お母さんまった。さもなければ後れ馳せに実業に志したような人達 に別れて来た時のことを胸に浮べながら歩いて行った。捨ばかりだ。 吉兄弟のことを心配して女の一人旅を思立って来たという「試みに小父さんの親戚を見よ。今の世の中は実業でなけ たにあい お母さんが、やがて復た独りで郷里の谿谷の方へ帰って行れば駄目だぞ。」 くことも思われた。何一つ捨吉はお母さんを悦ばせるよう これは小父さんが種々な事で捨吉に教えて見せる出世の なことも言い得なかった。曽ては快活な少年であった彼道であった。不思議にもアーメン嫌いな小父さんの家の親 はやり が、身につけることを得意とした一切の流行の服装を脱ぎ戚には、基督教に帰依した人達があって、しかもそれらの 、もと 捨て、旧の友達仲間からも離れ、どうしてそんなに独りで人達は皆貧しかった。十年一日のように単純な信仰を守っ 心を苦めるように成って行ったかということは、小父さんて居る真勢さんは大勝の帳場で頭も挙らなかったし、伝道 も知らなければ、兄ですら知らなかった。況して長いこと者をもって任ずる玉木さんのような人は夫婦して小父さん 逢わすに居たお母さんが何事も知ろう筈が無かった。別れの家に食客同様の日を送った。小父さんの親戚にはまた郷 なんに たま しろいろ そっけ

9. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

110 だいかっ ・ : しかし私がいくら贅沢したって樽屋のおばさんの足許戸端に出て斯の大勝の帳場と一緒に成った。真勢さんは田 へも及ばない。あのおばさんと来たら、絽の夏帯を平素に辺の小父さんの遠い親類つづきに当って居た。あの御店へ しめてます。」 通うように成ったのも小父さんの世話であった。午睡で皺 とんちゃく かま 細君はそれをお婆さんに聞かせるばかりでなく、捨吉に になった着物にも頓着せず、素朴で、関わないその容子は おおだな も聞かせるように言った。 大店の帳場に坐る人とは見えなかった。 す 「お婆さん、済みませんがあの手拭地の反物を一寸ここへ しかし捨吉は田辺の家へ出入する多くの人の中で、期の 持って来て見て下さいな。捨さんにも持たして遣りましょ真勢さんを好いて居た。 「真勢さん、僕は明日から夏期学校の方へ出掛けます。」 と細君に言われて、お婆さんは神棚の下の方から新しく と話して聞かせた。 染めた反物を持って来た。 「ホ、夏期学校へ。」 あせじ 「吾家では期ういうのを染めた。」 と真勢さんは汗染みた手拭で顔を拭きながら言った。 みすあさぎ とお婆さんは水浅黄の地に白く抜いた丸に田辺としたの夏期学校と聞いて真勢さんのように正直そうな眼を円く を捨吉に指して見せた。気持の好い手拭地の反物が長くひする人は、捨吉の身のまわりには他に無かった。何故とい ろげられたのも夏座敷らしい。細君は鋏を引寄せて、自分うに、その講演は基督教主義で催さるるのであったから。 でその反物をジョキジョキとやりながら、 そして、真勢さんは基督教信者の一人であったから。斯う 「でも、よくしたものだ。前には『捨さん、お前さんの襟した十年一日のような信仰に生きて来た人を大勝の帳場な 首は真黒だよ」って言っても、まだ垢が着いてた。それがぞに見つけるということすら、捨吉にはめずらしかった。 このせつ ( っち 此節じゃ、是方から言わなくとも、ちゃんと自分で垢を落真勢さんは一風変って居るというところから、「哲学者」と してるーーそれだけ違って来た。」 いう綽名で通って居た。アーメン嫌いな田辺のお婆さんや こん 期様なことを言って笑って、切取った手拭は丁寧に畳ん細君の前で真勢さんは別に宗教臭い話をするでもなかっ で捨吉の前に置いた。細君は出入の者にそれを配るばかり た。期の人の基督教信者らしく見えるのは唯食事の時だけ でなく、捨吉にまで持たしてやるということを得意の一つであった。その食前の感謝も、極く簡単にやった。真勢さ ちょっと とした。 んのは膝を撫で撫で眼をつぶって一寸人の気のつかないよ ひるね 午睡から覚めた真勢さんが顔を洗いに来た頃、捨吉も井うにやった。 はさみ ちょっと ムだん あだな おたな

10. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

気は余計に捨吉の心をいらいらさせた。小父さんから姉さ「お婆さん、これから行ってまいります。」 んから下女までも動いて行って居る中で、黙ってそれを視「ああ、そうかい。それは御苦労さまだねえ。」 まと て居る訳には行かなかった。考えを纏めるために、彼は茶お婆さんは横浜の店の方にある自分の娘の許へと言っ の間の縁先から庭へ下りた。学校を済まして帰って来て、 て、着物なぞを捨吉に托した。 ほろ・、 1- 復た箒を手にしながら書生としての勤めに服するのも愉快「お婆さん、伊勢崎町でしたね。僕はまだ横浜の方をよく であった。新しい楓の葉が風に揺れて日にチラチラするの知らないんです。」 を眺めながら、先す茶の間の横手あたりから草むしりを始「なあに、お前さん、店の名前で沢山だよ。浜へ行って、 とかく めた。お母さんの上京以後、兎角彼に気まずい思をさせる伊勢崎屋と聞いてごらんなさい。誰だって知らないものは ように成ったのは大勝の養子の一件だ。しかし小父さんを有りやしないよ。」 お婆さんも大きく出た。 第二の親のように考え、長い間の恩人として考える彼の心 に変りはなかった。自分は自分の力に出来るだけのことを しよう、その考えから、垣根に近い乙女椿の根元へ行って 一度か一一度山の手の居留地の方へ行く時に通過ぎたこと しやが 蹲踞んだ。青々とした草の芽は取っても取っても取り尽せのある横浜の停車場に着いた。捨吉が探した雑貨店はごち ちょうちん そうも無かった。茶の間の深い廂の下を通って、青桐の幹やごちゃと人通りの多い、商家の旗や提灯なぞの眼につく の前へ立った時は小父さん達の後を追って手伝いに行こう繁華な町の中にあった。そこに「いせざきや」と仮名で書 という決心がついた。 いた白い看板が出て居た。入口は二つあった。捨吉は先ず 大勝の御店のものに逢った。長い廊下のような店の中には 時「そうだ。浜へ行こう。」 る その考えを捨吉はお婆さんに話した。 何程の種類の雑貨が客の眼を引くように置並べてあると言 す 熟よくも知らないあの港町を見るという楽みが捨吉の心に うことも出来なかった。そこここには立って買って居る客 実あった。一日二日経って彼は出掛けて行く支度を始めた。 もあった。その廊下の突当りにある帳場のところで捨吉は また見知った顔に逢った。須永さんと言って、小父さんと 桜横浜へ行「て、もし暇があったら、その夏は何を読もう。 一番先に彼の考えたことは是だ。彼はティンの英文学史を同郷の頭の禿げた人だ。 えら 択ぶことにした。それを風呂敷包の中に潜ませた。それか「オオ、捨吉か。」 らお婆さんの前へ行った。 小父さんは奥の方から出て来て、あだかも彼を待受けて ひさし ひそ おたな