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検索対象: 現代日本の文学5:島崎藤村 集
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1. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

ほどワヤクな捨様でも、東京へ出て修業すれば是だ。まんからも多勢の女中からも厭にジロジロ顔を見られたこ あ、俺の履物まで直して下すったそうなーー・」と別れ際にとを思出した。お父さんは又、自分の小学校をも見たいと 言って、あの婆さんがホロリと涙を落したことを思出し言うから、あの河岸の赤煉瓦の建物の方へ案内して行くと、 途中で河岸に石の転がったのを見つけ、子供の通う路に斯 亡くなったお父さんのことをも思出した。自分に逢うこういうものは危いと言って、それを往来の片隅に寄せた とを楽みにして、一度お父さんが上京した日のことを思出り、お堀の中へ捨てたりするような、そういう人であった した。あの銀座の土蔵造の家の奥一一階に、お父さんが田舎 ことを思出した。お父さんの為る事、成す事は、正しい精 びろうど から着て来た白い毛布や天鵞絨で造った大きな旅の袋を見神から出て居たには相違なかろうが、何んとなく人と異な つけたことを思出した。国に居る頃のお父さんはまだ昔風ったところが有って、傍で見て居るとハラハラするような やつばり に髪を束ね、それを紫の紐で結んで後の方へ垂れて居るよことばかりで有ったことを思出した。矢張お父さんは国の ほたび うな人であったが、その旅で名古屋へ来て始めて散髪に成方に居て欲しい。早く東京を引揚げあの年中榾火の燃える ああ った話なそを聞かされたことを思出した。「あれを彼様と、炉辺の方へ帰って行って老祖母さんやお母さんや兄夫婦や これを期様とーー」とそれを口癖のように言って、お父さそれから正直な家僕などと一緒に居て欲しい。それがお父 んがよく自分自身の考えを纏めようとして居たことを思出さんに対する偽りの無い自分の心であったことを思出し よっぱど した。お父さんを案内して小学校友達の家へ行った時に、 た。後で国から出て来た姉の話に、余程自分の子供は嬉し 途中でお父さんは蜜柑を買って、それを土産がわりとして がるかと思って上京したのに、案外で失望した、もう子供 普通に差出すことと思ったら、やがてお父さんは先方のおに逢いに行くことは懲りた、と言ってお父さんが嘆息して 友達のお母さんからお盆を借り、その上に蜜柑を載せ、ツ姉に話したということを思出した。「捨吉ばかりは俺の子 あれ カッカと立って行って、それを仏壇に供えようとした時だ。彼には俺の学問を継がせたい」とお父さんが生きて居 は、実にハラハラしたことを思出した。お父さんの逗留中る中によく姉に話したということを思出した。期うした記 には、旧尾州公という人の前へも連れられて行き、それか億や、幼い時に見た人の顔や、何年もの間のことが一緒に ら浅草辺のある飲食店へも連れられて行ってお父さんとは なって胸に浮んで来た。その日ほど捨吉は自分の幼い生涯 懇意なという地方出の主人や内儀さんに引合され、「こんを思出したこともなかった。 なお子さんがお有んなさるの」と言ったそこの家の内儀さ まと はた

2. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

まくろ さまもよくやって下さるように、捨吉も無事で居りますよ上の大きな子。それを見て居ると、どうかすると捨吉は 1 うに、毎日左様言って拝んで居る。どんなに心配して居るお母さんの話すことを聞いて居ながら、心は遠く故郷の山 か知れないそや : : : 」 林の方へ行った。彼の心は何年となく思出しもしなかった 遠い山のかなたに狐火の燃える子供の時の空の方へ帰って めのまえ むじな 眼前の事物にほとほと興味を失いかけて居た捨吉がお母行った。山には狼の話が残り、畠には狢や狸が顕われ、禽 ときあか けもの さんの話を聞いて見た時の心持は、所詮説明すことの出来獣の世界と接近して居たような不思議な山村の生活の方へ ないものであった。唯それは感じ得られるような性質のも帰って行った。あかあかと燃える焚火の側で、焼きたての のであった。そしてそれを感ずれば感ずるほど、余計にす熱い蕎麦餅に大根おろしを添えて、皆なで一緒に食う事を べてが心に驚かれることばかりのようであった。果敢ない楽みにした広い炉辺の方へ帰って行った。一緒に榎の実を か・し一ノ 少年の夢が破れて行った日から、彼は殆んど自分一人に生集めたり、時には橿鳥の落して行った青い斑の入った羽を たど ぎようとした。寂しい暗い道を黙し勝ちに辿って来た。彼拾ったりした少年時代の遊び友達の側へ帰って行った。 かっ は曽て自分が基督教会で洗礼を受けたということまで、こ 「オ・ハコ』という草なそを採って、その葉の繊維に糸を通 のお母さんに告げ知らせようともしなかった。これほど自して、を織る子供らしい真似をした隣の家の娘の側へ帰 分のために心配して居て呉れるお母さんのような人があるって行った。その娘の腕まくり、裾からげで、子供らしい ことさえも忘れ勝ちに暮して来た。 淡紅色の腰巻まで出して、一緒に石の間に隠れて居る鯱を 何年も捨吉が思出さなかった可懐しい国の言葉の訛や、追い回した細い谷川の方へ帰って行った。生れて初めて女 忘れて居た人達の名前が、お母さんの口から引継ぎ引継ぎというものに子供らしい情熱を感じたその娘と一緒に、よ 出て来た。お母さんは捨吉から送った写真のことを言出しく青い蔕の付いた実の落ちたのを拾って歩いた裏庭の土蔵 て、 の前の柿の木の下の方へ帰って行った。「わたし』と言う 「あの写真をよこして呉れた時は、皆大騒ぎよのい。吉田かわりに女でも「おれ』と言い、「捨さん』と呼ぶかわり 屋の姉さま、おりつ小母さままで来てて、「あれ、これが に「捨さま」と呼ぶような、子供の時分から聞き慣れた可 捨様かなし、そいったってもまあ、斯様に大きく成らっせ懐しい言葉の話される世界の方へ帰って行った。そこでは そうお いたかなし」なんて左様仰ッせて : 絶えず自分のことが噂に上りつつあるというに、しかも自 少年の時分からよく見覚えのある、お母さんの左の眼の分の方ではめったに思い出しもしなかった旧い馴染の人達 こんな なまり えのき なっ とり

3. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

めあて 任せて目的なしに歩いた。唯歩いた。彼の足は鎌倉から西 期の決心が住職の心を動かした。其時迄、住職は自分のの方へ向いたから、東海道を下って行くことだけは自分で とりいれ ことを忘れて、岸本の顔ばかり不思議そうに眺めて居たも承知して居た。収穫の頃で、熟した穀物が街道の両側に にわかに 、、物つもし が、ふと期の狂人じみた青年を笑えなくなった。遽然住職波を打って居る。農夫は日光を浴びて野外の労働に従事し そう て居る。中には、腰を延ばして汗を拭き乍ら、岸本の通る は涙を浮べた。而して何か思出したような眼付をした。 ところを眺めるのも有った。 「御役に立ちますことなら , ーー」 いさぎよ 期う言い乍ら、潔く自分の着て居るものを脱いで呉れ次第に岸本は空腹を感じて来た。ふと、ある村へさしか いちはっ かって、農家の前を通ると、一八の黄色くなった草葺屋根 た。 ころも ばあさん 岸本が住職から貰い受けたのは、正式の法衣よりすこしの下から、五十ばかりの老婆が出て来た。表庭には豆なぞ あん 丈の短いもので、黒に染めて紫色の紐が着けてある。言わが乾並べてあった。その老婆が岸本の姿を見ると、若い行 ぎやそう て ば禅宗の僧侶が羽織である。そのヨソイキとでも言いたい脚僧とでも思ったかして、掌を合せて、何か期う念仏でも ものである。期ういう略服で岸本の目的が達し得られるか 唱えるような様子をした。思わず岸本は微笑を浮べた。掌 奈何かは疑問であった。しかし彼は其様なことに頓着しなを合せる位なら飯の一ばいも振舞って貰いたい。期う思う ほど、彼は饑じくなったのである。 十一時頃に岸本は期の寺を出た。真の放浪、真の漂泊は 日暮に近い頃まで、岸本は食わずに歩き続けた。て、 こおどり 是からだという顔付で、寧ろ彼は雀躍して出掛けた。其時松林の多い小山を越して、人家のあるところへ出た。寺が うえ ふうてい ゅうデ の彼は実に不思議な風体であった。上部の方は僧侶らしくある、タの煙も見える。其時は最早疲れて歩けなかっ もあるが、法衣に似て法衣で無いものを着て居る。下部はた。で、一泊を願う積りで、寺の住職に面会を求めると、 まるで あがりがまら 全然普通の旅人である。それに笠の用意すらも無い。どこ上框のところへ出て応接したのは四十ばかりになる、色 から見ても、成って居なかった。のみならず、彼は最早一の黒い、眼付のしい尼である。尼は直に岸本を烏散臭い 文も持って居ない。 と看て取った。まさか狸だとも思わなかったらしいが、何 おももら しろ変な奴が来たという面持で、出家なら出家らしくして 三十九 来い、其様な怪しげな風体の者を期の寺に泊めること出来 こ はねっ 何処へということは岸本自身にも解らなかったが、足にん、斯う撥付けた。「早く出て行け、乞食坊主め」と尼の これ した すぐ えみ

4. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

ゃんなさいよーーそれに弘さんは、学校の方も好く御出来叔父に解らなかった。 まわりありさま なさるんですもの。」 十一ヶ月ばかり居なかった間に、岸本が身の周囲の光景 これ 「弘、兄さんも帰っていらしったから、是から英語を教えも動き変って来た。兄の民助は大将の持家を借受けて、 みのわ よいよ三輪の方へ引移ることに成った。母は姉や孫娘を連 て頂くんだよ。」 と叔父が言出した。無邪気な芝居の真似はそこに途切れれて、遠からず上京するという運びにまで成って居る。 うつり、わり こ 0 世の変は、岸本が国の方から他郷へ向けて移住する ひのきさわら 期ういう楽しい笑声を聞きながら、岸本は奥の部屋の前多くの人々を出した。彼の郷里は檜椹などを産する深い すっかり を悉皆掃いて了った。それから、茶の間の窓に近い乙女椿谿谷の間で、耕作に適した土地も少いような地勢にある。 すた の下から、玄関前の土を掃いて、掃溜めた塵芥は裏庭の方街道が廃れるにつれて、多くの家族は幽鬱な森林を出た。 期ういう人々の中には、旧士族、駅路を支配した家々、旅 へ運んだ。 なりわい 客を相手に生計を営んだ部落部落の商人、または労働者な 五十五 ぞを数えることが出来る。彼等は住慣れた旧家を離れ、静 ろばた 其日から岸本は田辺の家の書生に返った。叔父の積りでかな炉辺を捨て、や養蚕の道具などを置いて、可懐しい故 わかれ は、岸本に商業を見習わせ、石町の旦那にも引立てて貰郷に別離を告げて行く移住民の趣がある。殊に岸本の家は、 、行く行くは自分の片腕にも、と期う将来を楽んで居た最も古くから住んだものの一つで、土地の馴染も格別深い のぞみ のである。是というのも岸本を子のように思うからで。とのであった。母は子に、姉は夫や弟に逢うという希望を唯 おんなれんこころもら ころが彼はに生える草のように、ずんずん勝手な方〈延一の蛩命にして、そこを離れて来ようとする女連の心情 びて行くので、叔父は酷く失望して了った。もともと叔父は、岸本が都会に居て想像するようなものではなかった。 いよいよ国に居る人達も出て来るとすれば、岸本は十三年 は士族の出であって、昔風の学問をした人は親戚の間にも 目で母と一緒に住まわれることに成る。彼が亡父の厳命を 沢山ある。漢学の出来る人もある。歌の読める人もある。 かつば めのまえ ちょうらく 左様いう人々は多く凋落した。叔父はそれを眼前に見て居受けて、始めて東京へ遊学したのは、まだ髪を河童のよう こんべいとう みち どうか るから、何卒して弘や岸本には自分と同じ道路を歩ませたに冠って居た頃、金米糖を旅の鞄に入れて貰って、勇んで いと思うのである。「今に彼奴も眼が覚めるだろう。」期う国を出た程の少年の時であった。 叔父は考えて居た。叔父の心は岸本に解らず、岸本の心は兎に角、異様な坊主頭で、母や姉を新橋に迎えるという また なっか

5. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

そりおと 自分で剃落してしまったのも、それからだ。古い写真の裏は足立の部屋の扉を叩いて見たが、あの友達はまだ帰って こまか や に長々と述懐の言葉を書きつけ、毎日の細い日記を廃め、居なかった。 こくらよう おちっ 自分の部屋へ戻ってからも捨吉は心が沈着かなかった。 前垂掛の今の小父さんに変ったのも、それからだ。石町の 御隠居の家の整理を頼まれたのも、その縁故から大勝の主同室の生徒は他の部屋へでも行って話し込んで居ると見 ラン・フ え、点された洋燈ばかりがしょんぼりと部屋の壁を照らし 人に知られるように成って行ったのも、それからだ。 斯うした月日のことを想い起しながら、捨吉は遠く学校て居た。捨吉は窓の方へ行って見た。文学会や共励会のあ の寄宿舎の方へ帰って行った。芝の山内を抜けて赤羽橋へる晩とちがい、向うのチャベルの窓もひっそりとして居 アメリカ ひじりざか 出、三田の通りの角から聖坂を上らすに、あれから三光町て、亜米利加人の教授の住宅の方に僅かに紅い窓掛に映る あかり たにあい へと取って、お寺や古い墓地の多い谷間の道を歩いた。漑燈火が望まれた。何となく捨吉の胸にはお母さんの旅が浮 かぶ しようこう 正公の前まで行くと、そこにはもう同じ学校の制帽を冠つんだ。やがて自分の机の上に新約全書を取出し、額をその 本に押宛てて、 て歩いて居る連中に逢った。 しもべ 「主よ。この小さき僕を導き給え。」 捨吉が学校の裏門を入って寄宿舎の前まで帰って来た頃と祈って見た。 らようど は、夕方に近かった。丁度日曜のことで、時を定めて食堂その晩はいつもより早く捨吉も寝室の方へ行って、壁に まかない の方へ通う人も少い。賄も変ってから、白い頭巾を冠った寄せて造りつけてある箱のような寝台に上った。舎監が手 カンテラ 亭主が白い前垂を掛けたおかみさんと一緒に出て、食卓の提の油燈をさしつけて寝て居るものの頭数を調べに来る頃 時指図をするように成 0 た。まばらに腰掛けるもののある食にな 0 ても、まだ捨吉は眼を開いて居て、ボクボクボクポ クと廊下を踏んで行く舎監の靴の音を聞いて居た。平素め る堂の内で捨吉はお母さんに別れて来た時のことを思いなが ったに思出したことも無いようなお霜婆さんーー・郷里の方 熟ら食った。 ところではいり 実日曜の夕方らしい静かな運動場の片隅について、捨吉はの家に近く住んで、よくお母さんの許へ出入した人ーーーの の 食堂から寄宿舎の方へ通う道を通った。ポッポッ寄宿舎をことなぞまで思出した。あのお霜婆さんが国の方の話を持 くに 桜 指して岡の上を帰って来る他の生徒もある。「郷里の方でって、一度以前の田辺の家へ訪ねて来た時のことを思出し は霜がもう真白」と言 0 たお母さんの言葉も捨吉の胸に浮た。御蔭で国への土産話が出来たと言 0 て、自分を前に置 て年とった女らしく掻口説いたことを思出した。「あれ んだ。寄宿舎の階段を上って長い廊下を通りがけに、捨吉い テープル

6. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

どうかんやま うとする者が無い。「第一、大将が大将らしくない、彼様を通って、道灌山まで歩いて行った。誰も来ないような場 ひ 0 ろ せつかく 引どうも笑って了うような態度に出られては、折角神妙にし所へ彼は行きたいと思うのであった。彼の懐には平素愛読 て進んで行こうとする若い者が立たん」と言うものがあれする李白の詩集があった。そこまで彼は泣きに行った。 ば、「君なそが六号に隠れて居るという法はない、もっと 思うさま泣いた。 それ 出て来給え」というものもあり、「僕はこれで一番御奉公 一種の誘惑は其頃彼の身に付纏うて居た。夫は関根から おもわく してるよ、僕ばかり働いたツてツマラない」というものも話のあった養子の説である。彼は友達の思惑を恥じて、其 ある。左様かと思うと、「皆な同じように世間から思われ様な話のあったということすら打明けなかった。母にも姉 るのは心外だ、そんなことなら僕は退社する」などと言うにも秘して居た。負いきれない程の生活の重荷は、今、此 ものも出て来る。新しく仲間入した松浦、安藤なそが、反話に耳を傾けさせるような場合にある。 って仲裁者の位置に立つように成った。 百十三 何のかんのと言っても、連中は互いに離れることが出来 なかった。斯ういう中で岸本は大根畠の二階に籠って、自「捨。」 分は自分だけの道路を進みたいと思って居た。自分等の眼斯う呼び起す母親の声に驚かされて、岸本は眼を覚まし まえ 前には未だ未だ開拓されて居ない領分があるーー広い濶いた。まだ四辺は薄暗い。部屋の内には洋燈が細目に点けて あけがた 領分があるーー青木はその一部分を開拓しようとして、未ある。四月中旬のある暁のことである。 しごと かんがえ 完成な事業を残して死んだ。斯の思想に励まされて、岸本母親と姉の一一人は暗い台所の方でいそがしそうに働いて たねま、 は彼の播種者が骨を埋めた処に立って、コッコッその事業居る。井戸端まで顔を洗いに行って、やがて岸本はショポ こす を継続して見たいと思った。 ショ眼を擦り擦り帰って来て見ると、幸平や愛子は未だ 漠然とした恐怖は絶えず彼の胸を往ったり来たりした。寝て居る。朝飯の用意が出来て、もう食べるばかりに膳が それのみならす、曽て家を忘れさせ、職業を捨てさせ、暗一つ出してある。岸本は着物を着更えて、その膳の前に対 やが い寂しい旅にまで彼を押出したカは、軈て彼を無口にした った頃、麹屋の方で鳴く鶏の声を聞いた。 り、急に身体を震わせたり、訳もなく涙を流させたりす気のせわしない母親は、四時頃から起きて釜の下を焚付 かじばし る。麹町の学校を辞めて見ても、矢張仕事は出来なかった。けたという。鍛冶橋に居る民助の許へ弟を面会に遣るとい ゃなか 四月のはじめ、彼は独りで家を出て、上野公園から谷中うことが、母親には最も大切な義務のように思われて居 こ かっ ひろ かえ めの そこいら しょ つきまと なか ランデ

7. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

むすび れを握飯に丹精して、醤油で味を付けまして、熱い火で焼 中で甥の行いを笑ったり憐んだりしました。どうでしょ いたのをお茶の時に出しました。いかに三時が待遠しくて う、その私が豊田さんの家へ来てからは甥を笑えなく成り かす ました。私は白状します、どうかすると私はお腹が空いても、終ごはその握飯の微かな臭気が私の鼻に付いて了いま こしら せつかく 空いて堪らないことが有りました。そういう時には我知らした。折角丹精して造えることを思うと、お婆さんの気を とうが・りし ず甥と同じ行いに出て、煮付けた唐辛の葉などはよく摘み悪くさせたくない。私の癖として、人が悪い顔をするのを ました。私は又、自分の空腹を満す為でも何でもないの見ては居られません。そこで私は握飯の遣り場に窮って、 びん かし に、酒屋へ使に行った帰りなどには往来で酢の罎を傾げ玄関の小部屋の縁の下へそッと蔵って置くことにしまし て、人知れずそれを舐めて見たりしました。 た。土蔵造で床も高く出来て居ましたから。期の人の知ら そうそう すすはらい 注意深い豊田のお婆さんでも左様左様は気が付きませない倉庫を暮の煤払には開けなければ成りませんでした。 ん。私はそれを好い事にして、ある日、酒屋から酒を買っその時は実は ( ラ ( ラしました。 おかね て戻りました。煮物にでも使うのでしたろう。小父さんは私の生れた家では子供に金銭は持たせない習慣でした。 あまり酒をやらない方でしたから。私が持って帰った罎のそれが癖に成って、私は東京へ出て来てからも自分で金銭 酒は減って居ました。 を所有したことは少く、余分なものは家の人に預けまし 「高い酒屋だねえ。」 た。時とすると豊田さんへ来る客から土産がわりとして包 とお婆さんに言われた時は、思わず私は紅く成りましんだ金銭を貰ったことも有りましたが、それよりか珍しい ありがた 風景の彩色した版画でも貰った時の方が私には難有かった のです。私は子供の時分から金銭に対しては淡泊な方でし 午後の三時は毎日私の楽みにした時でした。物のキマリ ひと つま とうがらし きっ の好い豊田さんの家では、三時とうと必と煎餅なり焼芋た。で、私は唐辛の葉の煮たのなどは摘んでも、他の所有 なりが出ました。あのウマそうに気の出るやつを輪切にしする金銭を欲しいという心は起りませんでした。ところ が、それが全く私に無いとは言えません。有ります。私は た水芋か、黄色くホコホコとした栗芋かにブッカる時には 殊に嬉しく思いました。夏にでも成ると、土蔵の廂間から別に何を買いたいでは無し、それで居ながら不図そういう おひっ 涼しい風の来るところへ御櫃を持出して、その上から竹の心に成ったのです。その一時の出来心で私の為たことは、 簾を掛けて置いても、まだそれでも暑さに蒸されて御櫃の知られずに済んだとは言え、今だに私は冷汗の流れるよう こころもら におい 臭気が御飯に移ることがあります。倹約なお婆さんは、そな心地が残って居ます。 あか ひあわい つま

8. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

自分の膳の上にあった盃をグッと一息に乾して、それを しやり給えな。」 「いえ、駄目です。」と菅は手持無沙汰に見えた。「僕は奈差し乍ら、 さしよろ・ 「岸本君の為に西京の健康を祝す。」 良漬に酔う方のロなんですから。」 と乙なことを言い出した。急に岸本は紅くなった。 「全く菅君はやりません。」と岸本は弁護するように言っ たかなわそば た。「そうそう、菅君と一緒に高輪の蕎麦屋で飲んだこと「西京という人の噂がよく出たツけなあ。」と菅も微笑み があった。彼の時は君、ホラ、一一人で五勺誂えたつけね。」乍ら。 「是の男もなかなか罪の深い方さ。」と市川は岸本の方を 「五勺誂えるやつが有るもんか。」と青木は笑う。 岸本は菅と顔を見合せた。菅は笑って舌を出して見せ見て、軽く斌手の膝を敲くような手付をした。「君、君、 東京の方で心配してる人が有りますよ。」 青木も菅も笑わずには居られなかったのである。 「市川君はいけそうだ。」と青木は銚子を持添えて勧めて、 よのなか やが * 軈て共同の事業の話が出た。彼等の中には早くから社会 「まあ、もう少しやり給え。」 に出て働いて居るものも有り、未だ親がかりで学校へ通っ 「僕は蒼くなる方です。」と市川は両手で頬を押えて見る。 まちまら 「蒼くなるのは強いんだそうだ。」と菅が物を頬張り乍らて居るものも有る。境遇は区々である。岡見兄弟の家とい 、つさい おおでんまちょうかつぶしどんや うは日本橋大伝馬町の鰹節問屋であったから、一切の費用 言った。 そっち 「一体、市川君はでしたツけ。」と青木は何か思出しは其方で持出して、雑誌を出すことにしたのが其年の正月 ちょうど とし 丁度、連中の一人の岸本が旅に出たと同じ月であっ たように、「僕は未だ君の年齢をよく知らない。」 「僕ですか。」と市川は笑って、「僕は一一十一でさーーたし 酔が回るに随って余計に遠慮が無くなって来る。岸本が か岸本君は明治五年でしたね、僕は六年だ。」 もの 「左様かなあ、皆な未だ若いんだなあ。」と言って、青木旅で書いた稿の中にある笑う可き文句の真似なぞが始ま る。菅や市川は盛んに其をやり出した。「馬車馬』という は菅の方を見て、「菅君は寧ろ僕の方に近いでしよう あてが そのひげ 言葉も幾度か繰返された。眼の両側へ手を宛行って、鼻息 どうも其鬚の様子では。」 ばかり荒く駆出して行く獣の光景なぞを見せつけられるの 「ええ。」と菅は笑い乍ら、青々とした腮の辺を撫でた。 其時市川は眼鏡越に岸本の様子を眺めて居たが、妙に意で、岸本はもうショゲ返って了った。青木は又、聞いて貰 つもり う積で、自分の書きかけの草稿を風呂敷包の中から取出し 味有りげなを浮べた。 あご あつら なが しごと たた それ

9. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

何もかも呑込んで居るという顔付で、時々高い声を出して とかなんとか言い紛らわそうとしたが、思わず若い時の 快活に笑ったが、でも顔の色は蒼ざめて見えた。 血潮が自分の頬に上って来るのを感じた。それぎり岡見は 奥の座敷の方から涼子が復習うらしく聞えて来る琴の音勝子のことも言出さなかった。しかし雑談の間に混って出 は余計にその茶の間を静かにした。吉本さんの噂が出た。 て来たその短い噂だけで捨吉には沢山だった。捨吉はまだ あの先輩の周囲にあるものが必ずしも雑誌社の連中のよう誰にも話さずにあることを期の岡見に引出された。親しい くらぶり な崇拝家ばかりで無いことが、岡見のロ吻で察せられた。 学友同士の間にすら感じられないような深い交渉が、一息 のみならず、下手な吉本さん贔顧の多いことが、心あるもにそこから始まって来たような気もした。鎌倉以来一一人の のに一種の反感をさえ引起させた。斯ういうことを岡見は 間の話頭に上るように成った市川のが、その日も出た。 眼中に置かない訳にはいかなかったらしい。何と言っても捨吉はまだ市川を知らなかった。岡見が出して居る小さな ちょうじ 吉本さんは時代の寵児の一人で、それに岡見は接近し過ぎ雑誌の秋季付録で一緒に書いたものを並べたに過ぎなかっ るほどあの先輩に接近して居たから。もともとあの先輩に 岡見を近づけたのも、任侠を重んずる江戸ッ子の熱い血か「市川君という人には是非一度逢って見たい。」 らであったろうが。 「なんなら、私の方から御紹介しましよう。ついこの近く かげひなた ほんムならよう 斯うした複雑な、蔭日向のある、人と人との戦いの多い です。本船町に居ます。こいつがまた、なかなか常道を踏 大人の世界の方へ何時の間にか捨吉も出て来たような気がまない奴なんです。」 した。麹町の学校の方の噂につれて岡見の話は捨吉が待受市川の話になると、岡見は我を忘れて膝を乗出すような けて行ったような人の噂に触れて行った。 ところがあった。それほど岡見はあの人を贔顧にして居 たら 「お勝さんか。」と岡見が言った。「なかなか性質の好い人た。 ですよ。ふつくりと出来たような人ですが、あれでなかな「でも、本船町あたりに面白い人が出来たものですね。」と かしつかりしたところがあります。」 捨吉が言った。 としうえ まとも 其時、年長の岡見が正面に捨吉を見た眼には心の顔を合「市川君のラヴの話というのが実に変ってる。面白いこと せたようなマプしさがあった。捨吉は何とも答えようが無を言出すからね。「僕のラヴァはもう死んで、この世には カ一ー 居ない』なんて。左様かと思うと、何時の間にかそいつが 「駄目です、あんな気の弱い人は。」 まだ生きて居るーー・・・私はよく弟にそう言うんです。市川と その のみこ

10. 現代日本の文学5:島崎藤村 集

た。市川も菅もそこまで付合おうというので、足立や岸本来で、近くにある井戸へ水汲みに出掛けられる。干物は裏 くに 芻の行く方へ随いて来た。連中は一緒に池の畔を歩いた。盛で出来る。丁度郷里から岸本の甥にあたる太一というが、 のみくい に話したり飲食したりした部屋は、岸の是方から明るく見遊学の目的で出京して居て、此甥がまめまめしく手伝って られる。灯は静な暗い水に映って居る。一タの清興は未だ呉れた。大根畠から荷車で運んで来たものは、何処へ形付 うらなか そこに残って居るかのようでもある。 くともなく、期の狭い屋の内へ納まって了った。 ほくしん 夜の景色は夢のように見える。暗い柳は人のように立っ 思がけない応援の手紙が北清に居る一一番目の兄の許から えだ そっら て居る。あの細長い条から黄色な花が落ちて、青々とした届いた。留守宅の生活費は月々其方からも助けられること 新芽が吹出した頃から見ると、今は柳も髪を長く垂下げたに成った。今は岸本も仙台の方へ落ちて行くことが出来 かたら のどか る。 女のように容づくって居る。長閑なようであわただしい くるしみ かなしみ 楽いようで風雨の多い、努力の苦痛と浪費の悲哀とで満た かんじ 百二十九 されたようなーー若い、新しい、壮んな感想のする時節は、 とし しんぞ 樹までも斯う苦労させた。新造と言いたいが、柳は最早年せめて一日ゆっくり東京で寝て行きたい。是より外に岸 増にしか見えなかった。 本の願いは無いのであった。それほど彼は疲れて居た。 仲町の方へ曲ろうとするところで、岸本は友達に別離を先す為るだけの事を為た上でなければ、休んでも休んだ 告げた。 ような気がしない。兄の民助の上告も、大審院での審判の 市川は月あかりに岸本の顔を透して見て、例の下町風の結果によれば、甚だ好都合に行った。控訴院判決の全部は 丁寧な調子で、 破棄される。更に斯の裁判を名古屋の地方裁判所へ移すと 「もう御見送はいたしませんから。」 ある。上告は聞かれたのである。そこで民助は鍛冶橋の未 こん 期様な風に言って、右の手を出した。岸本は其手を握っ決監を出て、名古屋の方へ送られることに成った。期の見 て別れた。 送りを済まさないうちは、岸本も肩が抜けたとは言われな あくるひ 翌日、岸本の家では本郷の森川町へ引移った。そこは二かった。第一、母親が許さなかった。 間ばかりの小さな平屋ではあったが、勝手の好く出来た家鍛冶橋から通知のあった翌日、岸本は幸平兄と一緒に で、狭いながら裏庭もあり、母や姉が留守居をするには別森川町の新しい住居を出た。其日は乾燥いだ、風の多い に不自由を感じなかった。台所の障子を開けると、直ぐ往日は熱くても割合に凌ぎ好いような日であった。幸平と岸 こちら いっせ、 わかれ しの この はしゃ これ かたっ