ったところが、その返事が、どうしてもお磯さんです。先 「伝馬町は兄さんによく似てますね。」 生としては何処までも尊敬する。しかし、その人を自分の と捨吉が言い出した。 ラヴァとして考えることは奈様しても出来ないと言うんだ ふと捨吉は伝馬町という言葉を思いついて、自分ながらそうです。左様なって来ると岡見君の方でも余計に心持が へつついがし 話すに話しいいと思って来た。竈河岸、浜町、それで田辺激して来て : : : 教場なそへ出ても、実に厳然として生徒に の家の方では樽屋のおばさんや大川端の兄を呼んで居た。臨むという風だそうです・ : : ・」 それを捨吉は涼子に応用した。 斯う話し聞かせる市川の広い額は蒼白く光って来た。市 「伝馬町はよかった。」 川はまたずっと以前の岡見をも知って居てあの軽い趣味に と市川も笑出した。さすがに涼子のことになると、市川満足して居た人が今日のような涙の多い文章を書く岡見に も頬を染めた。 変って来たことを捨吉に話した。左様いう話をする調子の 中にも、市川は若者と思われないほどの思慮を示した。子 どう 「岡見君は一体奈何なんですか。」 供と大人が期の人の蒼白い額や特色のある隆い鼻には同時 へんしゅう 捨吉は自分の胸に疑問として残って居ることを市川の前に棲んで居た。やがて市川は岡見と一緒に編輯したという に持出した。あれほど市川に同情を寄せ捨吉に手紙を呉れ例の小さな雑誌の秋季付録を捨吉の前に取出した。一一人と みなもと も好きな詩文の話がそれから尽きなかった。 た岡見も、まだ自分から熱い涙の源を語らなかった。 再会を約して捨吉は市川の許を離れた。 , 「お磯さんという生徒がありましよう。」 彼の胸は青木 時「左様ですかーーあの人ですかーーー大方そんなことだろうや、岡見兄弟や、市川や、それから菅、明石のことなそで る と思ってました。」 満たされた。同時に、磯子、涼子、勝子、もしくは青木の す 熟斯の二階へ来て見て、初めて捨吉は岡見の心情を確め細君のことなぞが一緒になって浮んで来た。何となく若い 実た。市川の口から磯子の名を聞いたばかりで、かねての捨ものだけの世界がそこへ出来かけて来た。芝公園、日本橋 あかり 伝馬町、本船町、そこにも、ここにも、点いた燈火が捨吉 桜吉の想像が皆なその一点に集って来た。 に見えて来た。 「ところがです。」と市川は捨吉の方へ膝を寄せながら、 「お磯さんという人は、君も知ってる通りな強い人でしょ う。吉本さんを通して岡見君の心持をあの人まで話して貰
「オイ、岸本。」と市川は友達を抱寄せるようにして、「左普通の女とは仕込が違う。関根さんや岡見君なそに教育さ こころもち おとこ 様君は考え込むから。苟くも何囀か為ようという男児れた人達だから、それで君等の心情も解るんサ。もし左様 おんな くら君が でなくッて見給え、い と言いかけて、急に が女子の一人や一一人位葬ったツて何だ。」 はなしか 「市川君はなかなかエライことを言う。」と菅は濃い眉を話頭を転えて、「それはそうと、岸本君、加藤さんという ところ 動かした。 人がお嫁に行ったそうだよ、なんでも法学士か何かの許 おもて もや 時の間にか湖水の面が寂しく光って来た。天色の靄はヘ。」 「加藤さん ? 」岸本は、ポンヤリした顔をして居る。 低く垂下って、対岸の眺望を奥深く見せた。山の上で艪の あのひと 「ホラーー学校に居たでしよう ? 君の心は最初彼女の方 音もする。 てんまちょう 「市川君。」と岸本は思出したように、「伝馬町は別に変りへ行きそうだ、期う思って岡見君なそが見て居るうちに、 ずっと盛岡の方へ傾いじゃった。はは、まあ左様いう噂で が有りませんか。」 やはり と尋ねた。伝馬町は矢張例の符牒である。市川は笑ってしたツけ。」 あから 答えなかった。彼はすこし顔を紅めながら、堅く岸本の手岸本は最早其人の名さえ忘れて居たのである。言われて 始めて思出すと同時に、彼は斯の友達に翻弄ばれるような を握った。 どう 「君は女というものを奈何思う。」斯う市川が言出す。「奈気がした。 何な良い家庭に生れて来た人でも、何処かに女郎のような「君、君、」と市川は戯れながら、「西京のような人は、ま らよっと 性質を備えてるね。」 あ別物として、他に一寸した風流は變何も有ったんでしょ からだ 「さあーー」 ーをーをはだって君、旅の身じゃないか。すこし よ くちびる と言ったっきり、岸本は返事に困った。彼は市川のロ唇聞かせて呉れても可さそうなものだ。」 じようだん から期ういうキビしい言葉を聞こうとは思わなかった。何「謔語言っちや不可。」 故市川が期様なことを言出したか、それが岸本には々の期うは言ったものの、岸本は腹の中で斯の友達の言うこ めざと あくまで 春意味に酌れた。彼は、期の慧眼い友達と違って、飽迄も人とを笑えなかった。彼は市川の鋭い睨み方に驚かされた。 い′、 ~ り の心を頼もうとして居る。 実際、彼の馬鹿らしい性質は旅に出て幾人の女にホレたか もはや 「何と言っても、貧乏書生じゃ駄目だよ。」と市川は冷嘲知れない。思出して見ると、最早忘れて居る人は一一人や三 を帯びた語気で言った。「しかし盛岡にしろ、西京にしろ、人ではなかった。彼は自分で自分の性質を羞じた。 と いやし こ し ど かし もてあそ
しいくつか御辞儀をして、路地を突当ったところで若い「さあーー」と岸本も考える。 へど 友達の出て迎えるのに逢った。 「市川という男は、西洋料理を食って反吐をはいたよう さわが ありがた 市川の部屋は母屋から離れた一一階で、町の響も騒然しく だーーー斯ういう難有い批評をある大家から頂戴した。」と やまさ 聞えないようなところに在った。時々彼は池の端から帰っ言って、市川はそりかえって笑って、「はははは、居候の せる て来る。而して、期の二階で物を書くことも有る。其日も煙管拝領し、てなことでなければ通らないという時世でし 独りで横に成って、ハタハタと鳴る五月幟の音などを聞きよう。ダンテ、シェクス・ヒアを持出したところで始まらな 乍ら、静かに友達のことを考えたり、自分のことを考えた いような気もするネ。考えて見ると、実にウンザリしちま しごと り、それから連中が事業のことを考えたりして、何となくう。」 寂しい心地で居るところであった。 「だって、君、乗出した舟じゃないか。」 「今日はゆっくりし給え。、 しろいろ君に話したいことが有「なにしろ後から生れて来た者は得だよ。」 おんな 八十一 期う市川は岸本を前に据えて言った。下婢は茶の道具を 運ぶ為に急な梯子を上ったり下りたりした。 市川は自分の心を言い表わそうとしたが、適当な言葉も 一一人の友達は先ず仕事の話を始めた。部屋の外には午後見当らなかった。彼はこの本船町の一一階に寝転んで、静か の日の光が輝き溢れて、何がなしに人の心をいらいらさせに自分達の為ることを考えて見たのである。彼には、それ た。埃にまみれた下町の樹木ですら、今は新しい葉を着がよく見える。同時に、何となく気勢の尽きて来たことを ける頃で、その青い明るい色を眺めたばかりでも、眼を射感ずる。 こころもら すべて られるような心地のする時である。万の物は生気の為に蒸「実は、すこし弱ってますよ。」 こん されて居る、悶えて居る。斯ういう季節は、若いものに取期様な風に、気鋭の市川にはめずらしいことを言って、 って堪え難い。市川は悩ましい眼付をした。彼は、自分の刺激の多い五月にえがたいという眼付をした。 多感な性質に疲れたかのように見えた。 岸本には期の友達の心境がよく汲取れなかった。 われわれ 「岸本君、君は奈何思うね。吾儕はすこし早く生れて来過「弱りもするサ。」 ぎたんじや有るまいか。」 期う岸本が答えた。 斯う市川は言出した。 其時市川は写真を取出した。それは岸本が八戸へ行こう
とした時、一緒に並んで写したものである。市川は夏の制て、笑った。岸本も笑わずには居られなかった。 ざら かすりひとえ 服、岸本は洗い晒しの飛白の単衣で撮れて居る。岸本に取 まっ込り・ 八十二 0 ては悲旅の記念である。写真としては瞭した方 で、ただ下部がポカシに成って居たから、一一人とも幽霊の「岸本君、君は森下という男を知ってましよう。」と市川 ように見えた。市川の話では、涼子がそれを評して「枯尾が膝をすすめて言出した。 花」と言ったとか。心にくいことを言ったものだと岸本は「知りませんが、噂はよく聞きます。」斯う岸本は答えた。 思っこ。 「僕が赤城に下宿して居る時分、彼の先生の兄さんとは一 やが 軈て市川は伝馬町のことを言出した。彼に言わせると、緒に成ったこともある。」 逢う度に別の人のように見えるのは彼の女である。ある時「森下と言えば、余程評判の人でしたあね。なにしろ、病 は頬の色なそも紅味を帯びて、期うボウと表情に富んだ顔院へ入ったということを聞くと、盛岡や伝馬町が見舞に驪 つけ 付をして居るかと思うと、ある時は又、蒼ざめて殆ど血の付る位ですから。彼の先生も、一度退院して、また近頃入 色なそも無いかのように見えるーーーあれほど不思議な人はったんだそうです。それに就いて種々奇談があるーー」 「奇談 ? 」 「どうして、一日でもラ・ハアがなければ居られないという「まあ、伝馬町が見舞に行ったと思いたまえ。すると彼の 女でさ。」 先生が病床に横わり乍ら、日くサ、岡見さん、貴方は死ぬ 市川は斯様なことを言出した。 ほど愛することが出来ますかッてーー」市川は嘲るような べらばう それを聞いて岸本はすこし驚いた。尤も、これは岸本自声を出して笑った。「箆棒め、そんなことを聞く奴がある 身にも覚えのあることで、誰しも自分の意中の人を賞めてもんか」と彼の眼が言うように見えた。 話すものは無い。「盛岡ですか、彼様な女は仕方が有りま「伝馬町は何と答たろう。」と岸本も笑いながら聞いて見 せん」と言うと同じことに聞える。斯ういう場合には、賞る。 春めて居るのか、クサして居るのか、解らない。兎に角、市「そこまでは知らないがね。」と言って、市川は真面目に 川はキビしいクサシ方をした。 成って、「それからまた、期ういう話がある。彼の先生が つかま 盛岡の手を執って、私の愛を受けて呉れませんかと言った 「わるくすると、君なぞも捕 0 たかも知れない。」 期う市川は戯れて、他を嘲り、また自分を嘲るようにしんだそうです。其時盛岡が君のことを言って、実は私には こたえ 、ろいろ
182 眠りがたい夜が続いた。どうかすると一一晩も三晩も全く 「仙ちゃんのお客さま。」 眠らなかった。例の小座敷に置いた机の上には、生徒から という声が店先でして、やがて捨吉を案内して呉れる小 預った作文が載せてあった。その中には最近に勝子の書い僧がある。薬種を並べた店の横手から細い路地について奥 おもや た文章も入って居た。読んで見ると面白くもおかしくもなの方へ入って行くと、母屋の奥座敷から勝手口までが見え い文章が何事も知らない鳩のような胸から唯やすらかに流る。捨吉はその路地のところで市川の姉さんらしい人の挨 れて来て居る。捨吉はその作文が真赤になるほど朱で直し拶するのに逢った。母屋から離れた路地の突当りの裏一一階 て見て、独りで黙って居る心を耐えた。 に市川の勉強部屋があった。 しりあ、 岡見を通し、書いたものを通し、既に相識の間柄のよう 俄かに友達同士の交遊が拡がって来た。青木からの葉書な市川は極く打解けた調子で捨吉を迎えて呉れた。この人 で、岡見を紹介された喜びを述べて、同君を待受けるのはは捨吉の周囲にある友達の誰よりも若かった。町のひびき ひたい 近頃愉快な事の一つだと、捨吉のところへ言って寄した。 も聞えないほど奥まった二階の部屋で、広い額の何より先 岡見が芝の公園に青木を訪ねる頃には、それと相前後してず眼につく市川の前に坐って見た時は、捨吉は初めて逢う 捨吉は本船町に市川を訪ねて行った。 人のような気もしなかった。 あらめばし 荒布橋から江戸橋へかけて、隅田川に通ずる掘割の水が「仙ちゃん、お茶を進げて下さい。」 ていはくしよおもむき あだかも荷船の碇泊処の趣を成して居る一区画。そこは と声がして、梯子段のところへ茶道具を運んで来る家の 捨吉が高輪の学校時代の記憶から引離して考えられないほ人がある。市川はそれを受取りに行って、やがて机の側で ムる ど旧い馴染の場処だ。よく捨吉は田辺の小父さんの家から捨吉に茶を勧めて呉れた。壁には黒い釦のついた高等学校 旧の学窓の方へ歩いて帰ろうとして、そこまで来ると必との制服も懸けてあった。すべてが捨吉に取って気が置けな 足を休めたものだ。何時眺めて通っても飽きることを知らかった。 なかったあのごちやごちゃと入組んだ一区画から程遠から若いもの同士は何時の間にか互いに話したいと思うよう ぬ町の中に、市川の家があった。 な話頭に触れて行った。捨吉は既に涼子のことを知って居 こん うなす 「市川君は期様なところに住んでるのか。」 たし、市川も岡見を通して勝子の話を聞いて居た。点頭き それを思ったばかりでも、下町育ちの捨吉には特別の懐合った一日の友は、十年かかっても話せない人のあるよう しみがあった。 なことを唯笑い方一つで互いの胸に通わせることが出来 にわ なんに
斯ういう人が有ります、貴方の心に随うことは出来ませ 八十三 ん、それだけは何卒思いとまって下さいッて、奇麗に打明 健気な勝子の決心は深く岸本の心を動かした。麹町にあ けて断ったとか。ははははは。」 ひるが すぐ った事が直に伝馬町へ伝わって、それがまた本船町へ伝わ 空虚な鯉幟の風に飄える音が屋根の上の方で聞えた。 「盛岡が彼の先生に言った言葉が面白い。」と市川は言葉るのは、めすらしくもなかった。兎に角、黙って看ても居 を続けた。「一体、貴方は献身的だ、そこが岸本さんに克られないようなことを聞いた。期う思って、やがて岸本は あなたがた く似てる、何処か貴方等の間には共通なところが有るツ市川の家を出た。大川端の方へ帰って行く途すがらも、彼 て。ははははは。献身的 ! 君、君、そこが嬉しいところはその事ばかり思いつづけた。 しようぶ なんでしよう。」 菖蒲湯があった。其晩、岸本は浜町のある湯まで入りに カんがえ 期う戯れ乍ら、市川は友達の膝を軽く叩いた。「また始行って、そこで自分の思想を纏めたいと思った。節句の前 まった」と岸本は腹の中で思って居た。 の夜で、男の児と生れたものは居候でも幅が利く、と言っ ゅぶね 「最早森下という時代ではなくなって来たんだネ。岸本捨たような爽快な気象が風呂場にすら溢れて居る。湯槽には 多勢若い男が入って居る。可懐しい草の根の香もする。べ 吉、市川仙太という時代に成って来たんだろうネ。」 くッっ ったり身体へ付着いた菖蒲の葉を取って、それを嗅ぎなが と言って、市川は笑い転げた。 勝子の噂はそればかりでなかった。岸本は斯の友達からら、岸本は槽の縁へ左右の腕を掛けた。彼は市川から聞い めのまえ 胸の踴るようなことを聞いた。勝子は最後の決心に落て行た話を眼前に画いて見た。許嫁の人の前にすべてを告白し ったらしい。彼女は許嫁の人の前に総ての事を告白して了て、「しかし、私は貴方の言う通りに成ります」と投出し ったらしい。市川の話によると、「しかし、私は貴方の言た勝子、それを聞いた許嫁の人、それから起って来た種々 う通に成ります」と許嫁の人に向って言ったとのことであの混雑した光景、結局国の方へ勝子を連れて帰ろうとする 父親の嘆ーーー何もかも岸本は想像することが出来るように かんがえ 「それから家の方でも駁ぎ出したんだそうです。許嫁の人思った。あの卒業式の日あたりには、最早そんな思想が勝 つけた が話したんでしよう。」と市川は付添した。「多分、父親さ子の胸の中にあったであろうか、斯う彼は思いやった。 こころ・、ら 菖蒲湯で身体を洗い流して、サツ・ハリとした心地に成っ んが国の方へ連れて帰るようなことに成るでしよう。」 た彼は、自分の部屋へ帰ってから先ず紙を展げた。彼は勝 おど どうか したが きれい おら おとっ さわやか
からだほと 木の芽のような自分の生気に圧されて、胸の塞がるほど苦た。岸本は身が熱ると言って、妙に寝苦しがって、払暁ま ろくろく しい人である。彼は最早自分で自分を制えることの出来なで碌々眠らなかった。 い人である。ただただ怖しい勢で押出されて行く人であ「岸本には熱がある。」 る。 と市川は夜が明けてから笑った。「期う逆上せて了って ゃなか 市川は谷中の寺に下宿して居た。これは上野の図書館には手が着けられない。」と思慮の深い彼の眼が言うように 近いという便宜があったからで。そこから彼は高等学校へ見えた。 通って居た。団子坂の菊人形で人の出る時節、公園の方ま 三十五 で彼もぶらぶら散歩に行って、帰って見ると、岸本が来て うっしもの 居る。毎日弁当持参で写物に通って来る老人もそろそろ帰菅は木挽町から池の端の下宿に移った。そこへも岸本が やっかい り仕度をして出て行く。夕方から、岸本は身の上話を始め訪ねて行って、一晩厄介に成った。市川からは、岸本宛の たが、市川のカで如何するということも出来なかった。 葉書が来て、「君はあまりに真面目すぎる」という意味を どれ 友達を慰める積りで、市川は自分を持出した。彼に言わ英文で書いて寄した。菅とても矢張市川と同じことで、何 だしのけ せると、凉子は一度この寺へ訪ねて来たとのことである。程岸本の為に心配して居たか知れないが、と言って突如に くるま 彼女は人力車を待たせて置いて話した。「なんなら御泊り舞込んだ友達を奈何助けるということも出来なかった。そ よ ござ としうえ じようだん なすっても宜う御座んす。」期様な謔語を市川が言った時こは年長だけに、「まあ、遊んで居給え。」期う言って慰め に、涼子は顔を紅めて、「まだそこまでは修業が積みませた。 この んからーと言って帰ったとやら。是話を聞いた時は、岸本時間が来て、菅は麹町の学校へ教えに行った。岸本は独 も笑わずに居られなかった。二人の情人が面目は期の短いり其下宿に残された。屋敷跡とでも言いそうな古い庭に囲 対話の中に活躍して居る、期う岸本は思い浮かべた。市川まれた家で、片隅に菅の借りて居る部屋がある。間取の具 は又、伝馬町から来た手紙の置場所に窮って、それを桜餅合も都合よく出来て居る。外に下宿する人の声も聞えな 。窓によせて菅の机が置いてあって、其障子の開いたと の空籠に入れて釣して置くと、ある日のこと叔父さんに見 しのばず かか つかった、期様なことまでも話して頭を擁えた。 ころから、不忍の池に近い空も見える。岸本は窓の方へ行 よりかか 其晩、二人の友達は蒲団を引張り合って寝たが、其角嵐った。倚凭って前途のことを考えようとしたが、情人のこ 雪なそを引合に出しては笑い、足が出たと言っては笑っとより外に何事も考えられなかった。 せつ こん おさ こ ほど その なんに その あけがた
急に若々しい血潮が岸本の頬に上った。其時高い笑声が 「僕も君、旅に出て他に頼る人が無かったもんですから、 青木と菅の間に起った。市川も一一人と顔を見合せて笑っ 其れを西京も気の毒に思って呉れたんでしよう。」 いわれ きっ 連中の談話に土地の名が出る時は、必と何か謂があった。 「ですから、」と岸本は言いかけて、困ったような顔をし た。是は仲間内の符牒のようなものである。 「まあ、左様弁解しないでも可いさ。」と言 0 て市川は岸て居たが、て決心の籠 0 た調子で、「僕は盛岡に逢 0 て つもり 本の顔を眺めたが、﨡て同のある語気で、「真実なんで見る積です。逢って何もかも話す積です。その積で今度出 掛けて来ました。」 すか、西京が君に懐剣を贈ったとか言うのは。」 「青木君、」と市川は振向いて言った。「奈何いうことに成 「ええ。」岸本の顔は紅くなる。 「如何いう積りで彼様いう物を君に贈 0 たのか、其を西京るでしよう、是方が盛岡に隧って見るとしたら。」 に聞いて見たいッて、しきりに岡見君が左様言って居まし「盛岡かい ? 」と青木は戯語のように、「そりゃあ君、岸 本君でなくッちゃあならないと言うに極ってるサ。」 たツけ。」 「ヒャヒャ。」市川は笑い転げた。 「あれは母親さんの形見なんだそうです。」 いまさら 「形見 ? ー今更のように市川は事の真相を看破したらしく うなず 七 点頭いた。「しかし、君も非常な難局に立ったものさ。」 青木は瞑想的な眼付をしながら、若い友達の談話に耳を 岸本は黙って爪を噛んで居る。 たか 「まあ、聞ぎたまえ。」と市川は言葉を続けた。「あれから傾けた。彼が今、背負って居る重荷は、群って集って他か 岡見君が盛岡を呼寄せて、何とか貴方も心を決しなければら無理に背負わせられたようなものではない。彼の早い結 成りますまい、実は岸本君はこれこれです、と言 0 て聞か婚は決して強られた儀式ではなかった。細君の操を迎える むし に就いては両親は寧ろ反対した位である。操は実に彼の恋 せたという話サ。」 また 女房である。二人が耶蘇の会堂へ急いで、そこで結婚の式 例の符牒が復出て来た。 目いかに相思の情の濃やかであったかというこ 「すると、盛岡が対手の名前を聞きますから、」と市川はを挙げる蔔、 手真似をして見せて、「それは貴方が日頃姉さんのようにとは、斯う青木が白状して居るので知れる。 1 思ってる人です、と言ったんだそうです。西京と聞いた時「もし我が彼女に会わぬ前の事を思えば、侘しげなる野中 さかだ の松に風の当り易きがごとく、世の事物に感触すること多 は、流石の盛岡も柳眉を逆立てたという話でしたツけ。」 これ さすが それ こも わび ひと
网 やにね 「ヨウョウ。」 菅は看て取って、「君、煙草の脂を蜒って貼ると好いよ。」 市川は手を打って笑った。 「ナニ、そんなことをしないでも、切って水を出すのが一 其晩は斯ういう談話で持切った。彼等は七月の夜の明け番だ。」と岸本が言う。 とカ るのも知らない位であった。 「咎めやしないかナ。」と市川は顔を顰めながら。 や 「大丈夫、まあ僕に行らして見給え。」 と岸本は小刀を取出す。市川は両足を友達の前へ投出し 翌々日の朝、四人は箱根へ向けて吉原の宿を発った。各て、 なかにも 自おもしろい風俗をして居たが、就中青木は尻端折で、毛「どうしても違うなあ、そこは経験が有るからね。」と言 こんたびわらじばき 脛を出して、紺足袋草鞋穿、それに岸本が大和から持ってって笑った。 みちみち よったり しけくき 来たという檜木笠を借りて冠った。途次盛んな笑声が四人何となく部屋の内は湿気臭かった。屋根の上の方では、し ほ」し」ぎす の間に起った。沼津から三島までは乗合馬車がある。戯れきりに鶯や郭公の啼く声が聞えた。四人は胡座をかく、寝 と そのへん に青木は鞭を執って馬を駆りながら出掛けた。其辺は岸本る、思い思いにやって、空想を誘うような鳥の歌に耳を嬲 はえ よこて が旅のはじめに歩いて通った道路である。蠅の群は来て皆らせて居た。急に市川は横手を打った。彼は何かめずらし もの なの衣服に取着いた。 い事実でも発見したかのように叫んだ。 三島から山へかかって、午後の三時過には一同元箱根の「確かに細君以上だ。」 その 宿にあった。一夏箱根に夏期学校のあったことがある。其斯う言出した。 ばあさん びつくり 時分、菅と岸本とは期の宿に泊って居たので、老婦とも心「よく君は人を喫驚させる。」と言わぬばかりに菅は振向 易い。其日も直に湖水に面した座敷を一一間明けて貸して呉いて見る。 どてら れた。粗末ながらも褞袍を出して、風呂を焚いて、夜具蒲「菅君、菅君。」と市川は岸本の方へ指さしながら、「この いつ、・い 団一切で、一晩三十銭すつの約束とは、諸色の安い頃であ着物は西京が縫って呉れたんだとサ。」 る。 「へえ。」と菅は面白半分に。 山の上は冷しかった。木の葉の混った山家らしい風呂を岸本は苦い顔をした。「市川君、左様君のように言うか なれ みずぶく 浴びた後、旅慣ない市川は痛そうな顔付をして、水膿れのら困る。実際僕は西京の世話に成ったよ、着物の事から、 、まじめ した足の肉刺を苦にして居る。 何からーー一切。」と彼は妙に生真面目な調子で、 かぶ しよしき た いっさい ナイフ しか つけ なぶ
自分の膳の上にあった盃をグッと一息に乾して、それを しやり給えな。」 「いえ、駄目です。」と菅は手持無沙汰に見えた。「僕は奈差し乍ら、 さしよろ・ 「岸本君の為に西京の健康を祝す。」 良漬に酔う方のロなんですから。」 と乙なことを言い出した。急に岸本は紅くなった。 「全く菅君はやりません。」と岸本は弁護するように言っ たかなわそば た。「そうそう、菅君と一緒に高輪の蕎麦屋で飲んだこと「西京という人の噂がよく出たツけなあ。」と菅も微笑み があった。彼の時は君、ホラ、一一人で五勺誂えたつけね。」乍ら。 「是の男もなかなか罪の深い方さ。」と市川は岸本の方を 「五勺誂えるやつが有るもんか。」と青木は笑う。 岸本は菅と顔を見合せた。菅は笑って舌を出して見せ見て、軽く斌手の膝を敲くような手付をした。「君、君、 東京の方で心配してる人が有りますよ。」 青木も菅も笑わずには居られなかったのである。 「市川君はいけそうだ。」と青木は銚子を持添えて勧めて、 よのなか やが * 軈て共同の事業の話が出た。彼等の中には早くから社会 「まあ、もう少しやり給え。」 に出て働いて居るものも有り、未だ親がかりで学校へ通っ 「僕は蒼くなる方です。」と市川は両手で頬を押えて見る。 まちまら 「蒼くなるのは強いんだそうだ。」と菅が物を頬張り乍らて居るものも有る。境遇は区々である。岡見兄弟の家とい 、つさい おおでんまちょうかつぶしどんや うは日本橋大伝馬町の鰹節問屋であったから、一切の費用 言った。 そっち 「一体、市川君はでしたツけ。」と青木は何か思出しは其方で持出して、雑誌を出すことにしたのが其年の正月 ちょうど とし 丁度、連中の一人の岸本が旅に出たと同じ月であっ たように、「僕は未だ君の年齢をよく知らない。」 「僕ですか。」と市川は笑って、「僕は一一十一でさーーたし 酔が回るに随って余計に遠慮が無くなって来る。岸本が か岸本君は明治五年でしたね、僕は六年だ。」 もの 「左様かなあ、皆な未だ若いんだなあ。」と言って、青木旅で書いた稿の中にある笑う可き文句の真似なぞが始ま る。菅や市川は盛んに其をやり出した。「馬車馬』という は菅の方を見て、「菅君は寧ろ僕の方に近いでしよう あてが そのひげ 言葉も幾度か繰返された。眼の両側へ手を宛行って、鼻息 どうも其鬚の様子では。」 ばかり荒く駆出して行く獣の光景なぞを見せつけられるの 「ええ。」と菅は笑い乍ら、青々とした腮の辺を撫でた。 其時市川は眼鏡越に岸本の様子を眺めて居たが、妙に意で、岸本はもうショゲ返って了った。青木は又、聞いて貰 つもり う積で、自分の書きかけの草稿を風呂敷包の中から取出し 味有りげなを浮べた。 あご あつら なが しごと たた それ