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検索対象: 現代日本の文学6: 石川啄木 高村光太郎 宮澤賢治 集
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1. 現代日本の文学6: 石川啄木 高村光太郎 宮澤賢治 集

中暠 央村 公光 論太 社郎 ど刊詩 行集 昭和 16 年龍星閣刊 大正 3 年抒情詩社より自費 昭和 25 年刊行の「典型』 出版の処女詩集『道程』 行の「智恵子抄』 浮彫明治 29 年 老人の首大正十年 最後の作品昭和三十一年 倉田雲平胸像 裸婦像原型昭和 28 年 鯰大正 15 年

2. 現代日本の文学6: 石川啄木 高村光太郎 宮澤賢治 集

左十和田湖畔の「裸像」除幕式左よ り光太郎佐藤春夫谷口吉郎土方定一 左昭和一一十八年十和田湖畔 の「裸像」制作中の光太郎 って来た光太郎が、しかし結局、神を呼び、又結局、 】 2 戦争の非人間的な部分に力を貸すことになってしまっ たか。それはいまだに解かなければならない我々の問 題である。 昭和二十年四月十三日の東京空襲は、駒込林町のア トリエを、数々の作品とともに焼きつくした。数え年 ' 7 一 ) ま、六十三歳の光太郎は、誘【にまかせて岩手県花巻に移 り、戦の終りを迎える。その年十月、花巻郊外太田村 山口の寒村に、村人の好意で鉱山小屋を移築して独り 棲み、以後七年の山居がはしまる。はげしく雪降る東 北の山村の、戸をしめても遠慮なく吹雪のふきこむこ の小さな山小屋の生活から、先ず光太郎は「暗愚小伝」 を書いた。自己流前とよぶ酷しい自然の中で、戦に至 る生涯を点検し、摘発したこれら二十篇の詩群は、光 太郎にとって、書かなければ先に一歩も進めないとま で感じたものであった。詩はさまざまな世評をもって むかえられた。そして賛否はともあれ、光太郎が自ら に課したこれらの厳しい作業は、混乱した戦後期に、 強い感銘を残したのであった。 村落社会に根をおろして、新しい文化を創造しよう とする夢。そのために払われた数多くの実践。山林 右昭和三十一年二月の苛烈な人間精神のドラマは、昭和二十五年に出版さ 中野のアトリエにて れた戦後詩集『典型』によってうかがうことが出来る。 435

3. 現代日本の文学6: 石川啄木 高村光太郎 宮澤賢治 集

下山荘で書いた「暗愚小伝」原稿 左農作業中の光太郎 左岩手県太田村山口の光 太郎山荘 ( 昭和二十五年 ) 右太田村山口小学校の生徒 たちと昭和一一十四年十一一月 第亠いをッ第は第な当 「 ~ 第を下いを リ両。小學 間としての生」への執拗な外圧に起因すると感じたと き、光太郎に与えた衝撃は想像に耐えない。昭和六年 の発病から十三年の死まで、心のなかにばっかりあい た暗いうつろが、この国のあゆみの大きな屈曲点を覆 ってわだかまったことも痛ましい。苦悩の時間のはて に、光太郎は智恵子を美意識の中に再生することによ って、自らをも救、つ。 詩集『智恵子抄』が『道程』につぐ第二の詩集とし て世に送られたのは、太平洋戦争を目前にした昭和十 六年夏であった。その愛のはじめから死まで、折々に 書きとめられたこれらの詩は、光太郎の生そのものと 重ね合わせ、男女一組の生活者のひたむきな歩みを記 録し、そして遂に崩壊していった半身を、抑制し、凝 縮した詩美をもって描き、戦のさなかを通じて、痛切 に人々の心に滲透し、人間存在のあかしともなったの であった。 四 戦の日々に、光太郎がどんなに戦の義を信し、この 国と人々とを愛し、東方の人間回復を願い、その文化 を護ろうと念したか。荒廃しようとする人々を支える ために、どんなにカ一杯の努力をかたむけたか。生涯 を通じて人間の尊厳を信じ、そのための果敢な戦を戦

4. 現代日本の文学6: 石川啄木 高村光太郎 宮澤賢治 集

上大正 15 年アトリエの光太郎 , 智恵子夫妻 右明治 44 年光太郎制作の光雲像を前に 5 品のげをキ社 1 キ上右より光太郎弟豊周 智恵子デザインの「青上光太郎自画像スケッチ 鞜」創刊号 ( 明治 44 年 ) ( 昭和 5 年 ) アトリエにおける光太郎 光太郎と智恵子のアトリエ

5. 現代日本の文学6: 石川啄木 高村光太郎 宮澤賢治 集

ある。生活がある。この平明な表現、力強い詩句、こ の詩が吾々に与へる感動と悲惨と涙とを考へやう。』」 それは光太郎の胸中に 「猛獣篇」という詩集は無い。 前衛勢力に壊滅的な打撃を与えた三・一五とか四・ だけ存在した幻の詩集であり、その中の十数篇が現実一六とか呼ばれる事件を背景とし、深刻な不況のうち には「猛獣篇より」として発表されたにすぎない。そに戦争への道をととのえるそんな時代である。これら れにもかかわらずこれらの詩篇、又はこれらの詩篇に 「猛獣篇」前半と、昭和十一一年、日中戦争を契機とし 代表される一時期の作品は、光太郎詩のもう一つの頂て再び現われる後半の詩にはさまれた「猛獣篇時代」 点として、重要な意義を持つ。「『道程』以後」の詩群の諸詩篇にも、おのすから歴史の激動は映されるが、 と関東大震災をへだてて相対し、それが内部に完結し、 いまは、この時期のもう一つの宿命的な出来事に触れ 充足した生の讃歌をかなでるのに、これはむしろ外部ないわけにはゆかない 智恵子の発病である。 にかかわり、人間性を疎外するその予盾、その理不尽もともと光太郎夫妻の生活は、普通の意味の結婚生 に対決して高鳴る。内部生命の決意や苦悩を歌いあげ活とは異なっていたように思われる光太郎自身、智恵 はんちゃっ ることによって、深く人間社会にかかわる。正末昭初子を妻という範疇に属する女性ではなかったと語って いるよ、つに、 の激動する季節に、材を猛獣にかりて発せられたこれ ここにあるのは、芸術の道に骨身をけず らの詩は、痛烈な印象を当時の人々の心にも留めた。 る独立した男女の、全き愛と互敬に支えられた共棲の だちょう 例えば「昭和三年史』は「ばろばろな駝鳥」についてすがた。いわば、男と女、人間のあり得べきかたちを 幾らかロごもりながら記す。 追い求め、歩みつづけた一体の生活者。智恵子詩篇の 「此の詩はあらゆる詩派の詩人から、共通に高い批判中に、妻と呼びかける言葉の数少く、また世俗の法的手 を得た特記すべき詩である。其の理由を井上康文氏は続を、智恵子が正常な意識を失うまで、無視し続けた 斯う述べて居る。『この詩には時代の人間の姿が現はれ態度にも、二人の決意はうかかい得る てゐる、駝鳥を囲ひの中に入れてゐる人間、そこに社自らの生、自らの行為と同義であるとさえ信ずる同 会の姿があり、駝鳥にまた悲しい人間の姿がある。こ伴者を襲った突然の狂気、しかもそれが、この特殊な こに怒号は無い。 然し覚醒した人間の心がある。愛が倫理にかこまれた特殊国で、一緒に貫こうと考えた「人 432

6. 現代日本の文学6: 石川啄木 高村光太郎 宮澤賢治 集

明治 37 年新詩社赤城清遊会の折右よ り蒼悟鉄幹凡骨光太郎柏亭万里 上白樺十周年記念前列中央 武者小路実篤後列右端光太郎 上明治 45 年右より柳啓助水野葉舟 徳田秋声光太郎窪田空穂前田晃 鵰外後列左より 2 人目佐藤春夫光太郎 右明治 45 年前列左より永井荷風森

7. 現代日本の文学6: 石川啄木 高村光太郎 宮澤賢治 集

せき む者に語りかけ、それぞれがそれぞれの読み方で、そみちて浴れ、ついで堰を切って流れる。およそ「泥七 こから大きな力、行動への勇気を読みとるのは、これ宝」のあたりで一一分される『道程』前半の詩は、蹶心 らの詩がそのために模索し、闘い、時に傷ついた真摯たる生と、失われた愛のいたみとを重ね、激しい反逆 な生活に裏つけられているからに他ならない と自嘲と焦燥と頽廃とを刻む。しかもここで、人は以 詩集『道程』は大正三年秋、自費で出版された。明後の詩界に広大な可能性をひらく、新しい詩の一種属 治四十三年十二月の「失はれたるモナ・リザ」から大 「根付の国」に象徴されるーーの誕生に立会うの 正三年十月の「秋の祈」まで、詩七十五小曲一二十二をである。 含むこの詩集は、詩における最初のモニュメンタルな 前期『道程』世界は、しかしもう一人の女性長沼智 収穫である。 恵子が、進んで光太郎の前に身を現わすことによって 帰国後の光太郎は、新しい芸術風土を産むために、激しく昇華する。芸術創造のよろこびとかなしみとを 直ちに目をみはるような活動を開始する。ロダンはも身をもって知り、世俗に抗して困難な道を歩みとおそ とより、ロートレック、ゴーガン、マチスからポー うとするこのいちすな女性に、光太郎は心うたれ、共 レールまで、多彩な新芸術の旺盛な紹介者、情熱的なに歩む者を見る。生は新たに確認され、韻律は高らか に鳴りひびき、光太郎は光太郎になる。『道程』後期世 美への発言者でもあれば、骨も断っ苛烈な批評家でも あり、もちろん美そのものの作者でもある。しかも周界は展開される 囲にみちみちて、動こうとすればするほどがんじがら大正三年十二月の智恵子との結婚。そして「一言はう めにその身をしばり、いらだたせるのはこの国の現実。ゃうなき窮乏」のなかの「検討するのも内部生命蓄 積するのも内部財宝」 ( 「暗愚小伝」 ) と歌う生活。彫刻 重く、暗く人間を圧殺しようとするこの国の伝統。 デカダンだけが反逆であるそんなゆきづまった生活に熱中し、『ロダンの言葉』を編み、ヴェルハアレンを の中で、光太郎は一人の女性に出あう。吉原河内楼の訳した大正中期をへだてて、「『道程』以後」と呼ばれ 妓若太夫。モナ・リサと呼ぶこの女性は、たぎる光太る豊饒な詩の時代が来る。「雨にうたるるカテドラレ をはじめとするこの期の長大な詩群は、日本近代詩の 郎の心に核を投ずることによって、永遠の名を得る。 この女性への愛とその終りと。詩は心にはしめ苦渋に到り得た最も高い峰の一つと評価される 430

8. 現代日本の文学6: 石川啄木 高村光太郎 宮澤賢治 集

に・第ク ) 郎 明治 30 年岡倉天心制定の美術学校 制服を着た光太郎 ( 右 ) と細谷三郎 上明治 29 年高等小学校 卒業記念中列中央光太郎 上明治 35 年東京美術学校卒業記念 前列中央光雲後列左より三人目光太郎

9. 現代日本の文学6: 石川啄木 高村光太郎 宮澤賢治 集

江戸下町の職人の気風をもっこの家で、手厚い母の宗教、ことに臨済褝によ「て、光太郎の思索にその存 被護のもとに、少年光太郎は折目正しい、一面まけん在の根源を問う強い衝動をあとづける。 気の感じやすい青年に成長していった。自由民権思想 の退潮のあと、日清戦争をはさんで、青年一般をとら えていたのは人生 ~ の懐疑、宗教、倫理の問題であ「十年の予定を四年できりあげ、光太郎が米欧留学の た。「巌頭の感」を書いて滝に身を投じた藤村操や「見神旅から帰「たのは、明治四十一一年の夏だ「た。彫刻修 の実験」を叫んだ綱島梁川を生むそんな時代精神に、 業の留学とい「ても、アメリカでは働きながらの苦学 光太郎もまた育てられる。親のあとを継いで彫刻の道生、その後は農商務省のわずかな給費生。 = 、ーヨー に入ることは、あたりまえのように決「ていた。あらクでは日本的倫理感を手荒く引きはがされ、ロンドン ゆる知識への渦巻く渇望。職人に学問はいらないとい ではアングロナクソンの魂に触れ、フランス、あの ( う、父にかくれてのむさほるような読書も、美術学校で「はじめて彫刻を唐り、詩の真実に開眼され、そこ に入学する頃には公認される。 の庶民の一人一人に文化のいはれをみてとった。」 その青年に方向を与え、その情緒をはじめに開花さ ( 『暗愚小伝』 ) せたのは新詩社への加入であった。明治一二十三年十月 その四年間に光太郎がとらえたものは、人間が人間 『明星』に確雨の名で、短歌五首が掲載される。主として生きる伝統の中での、実感としての生の確認。 宰者鉄幹の朱筆は原形をとどめぬほどに加えられたと人間が全存在をかけて進む実践 ~ の意慾、そのための しても、「われらの詩は : : : われらの詩なり、 : われ強烈なポテンシャル。ひげをたくわえ、高いカラーに ら一人一人の発明したる詩なり」と宣一言するこの結社身を装い、大逆事件前夜の日本に、異邦人のように帰 の中で、光太郎の眼はひろくはるかな世界にひらかれ、「て来た光太郎の、心の中に燃えていたのは、「人間と 人間のいのちに目ざめる。そしてそれは、この国でもして生きたい」という火のような思しオオ ) ・こっこ。古いム間 最も早いものの一つといって、 しいロダン彫刻の発見と理のしがらみの中で、以後、解放された人間として生 あいま「て、光太郎の来たるべき米欧体験のために確きることは、光太郎の最も熾烈な願望となる。 かな準備をととのえる。しかも一方、東洋は、史書や半世紀に及ぶ光太郎の詩作が、いまもいきいきと売 428

10. 現代日本の文学6: 石川啄木 高村光太郎 宮澤賢治 集

0 、評伝的解 " 祝〈高村光太郎〉 明治十六年三月、東京下谷西町の貧しい彫 刻師高村光雲の家に、待ち望んでいた長男が 誕生し、光太郎と名付けられた。 動乱にあけくれた維新の激浪もほほおさま 時代は大きな区切りを迎えようとしてい て た。さまざまな矛盾を含み、さまざまな可能 性を取り落しながら、新しい国家の上昇の勢 山 の 疑いもなくこの国にあった。鹿鳴館が 山完成し、新文学はまさに生まれようとする。 村 明治二十二年には、この国の運命を強く支配 田 太することになった明治憲法が発布される。ま 手して、気骨あるしかし一介の木彫職人にすぎ 岩 なかった父光雲が、その上昇の機運の中で、美 年術学校教師として、帝室技芸員として、急速に 一一 - 和力を展べようとする状況を思いあわせれば、 時代が光太郎に与えたかかわりは推測出来る 427