; いををい の ? つに 3 上昭和 6 年 9 月 21 日死を期して書かれ た遺書 2 年後の同し日に賢治は逝去。 右賢治の水彩画「日輪と山」 左 賢 た 0 「第一一集」以降の一見″生活感懐″的な詩群が、じっ は「第一集」と接続した根づよい虚構への意志のドラ ばうだい マであることを、尨大な詩稿はたゆみなく主張しつづ けているのである 四 ところで、こうした根づよい虚構への意志が、宮澤 賢治において、文学という言語芸術を発現の場として 選んだについては、彼の生涯を通じての仏教信仰、と りわけ十八歳の秋以降死にいたるまでの法華経信仰と の根源的なかかわりを無視することはできない。「春 と修羅」の中に記されている《まことのことば》、「冬 のスケッチ」の一断片に記された《雨の中なる真一一一口》 、一とい、つ . 甸は、賢治の詩における ' まことのことば , と し仏教的な《真一言》とが同じものであることを示してい しる また、この虚構へのやみがたい意志こそは、賢治の 調想像力をあれほどまでに豊かに童話というジャンルに ゆえん カ躍動せしめた所以のひとつであった。そして彼の童話 は作品もまた、大半が未発表のままーーー既発表の切抜き 作すら くりかえし添削、新稿さしかえ、改稿、改作の の修羅場にさらされつつけた痕跡をありありと残して、 真 まさしく彼の死後ようやく、〈作品〉成立への歩みをは 写 しめたものばかりなのである。
中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値四月、稗貫郡土性調査。信仰手毎日新聞」に発表。五月、農学校にて生徒を監督して自作劇「植 問題その他で父と論争。六月、「アザリア」に短篇「 ( 峯や谷は ) 」物医師」「饑餓陣営ーを上演。七月末より樺太へ旅行。「青森挽歌」 を発表。「蜘蛛となめくちと狸」「双子の星」を書く。十一一月、トシ「オホーック挽歌」などを書く。童話風の「手紙四」を配布。 の看病のため上京。 大正十三年 ( 一九一一四 ) 一一十八歳 大正八年 ( 一九一九 ) 二十三歳四月、「春と修羅」一千部を自費出版。花巻温泉の街路樹、花巻病 一一月、トシ快し共に帰宅。家業に従事。五月、短篇「猫 , 「ラジ院などの花壇を設計造園。五月、花巻農学校生徒を引率して北海道 ュウムの雁」を書く。夏、短篇「女」を、秋、「うろこ雲」を書く。に修学旅行。帰校後「修学旅行復命書」を書く。八月、農学校生徒 大正九年 ( 一九二〇 ) 一一十四歳を監督して自作劇「饑餓陣営」「ボランの広場」「種山ヶ原の夜」な 五月、盛岡高等農林学校研究科を終業。十一月、日蓮主義信仰団体どを上演。十一一月、童話集「注文の多い料理店」を光原社から自費 国柱会に入会、布教す。この年童話「貝の火」「ペンネンネンネン出版。この頃童話「銀河鉄道の夜」初稿を書きはじめる。 ネン・ネネムの伝記」「三人兄弟の医者と北守将軍」を書く。 大正十四年 ( 一九一一五 ) 一一十九歳 大正十年 ( 一九二一 ) 二十五歳七月、「貌ーに「鳥」 ( 「寄鳥想亡妹」と後に改題 ) を、八月に詩「過 一月、父母の改宗意の如くならず無断上京。本郷菊坂町に下宿、筆去情炎 , などを発表。草野心平との文通はじまる。九月、「銅鑼ー 耕等で自活、街頭布教、童話を多作。四月、心配し一、上京した父とに「未来圏からの影」、十一一月、「丘陵地」などを発表。 関西旅行。六月、短篇「床屋、等、八月、短篇「龍と詩人」、童話大正十五年・昭和元年 ( 一九一一六 ) 三十歳 「月夜のでんしんばしら」「鹿踊りのはじまり」「どんぐりと山猫」一月、尾形亀之助編集の「月曜」創刊号に童話「オッペルと象ー 等を書く。トシ病気の報に帰郷。十一月、童話「狼森と笊森、盗を、一一月、二号に童話「ざしき童子のはなし三月、三号に「猫 森」「注文の多い料理店」を書く。十一一月、郡立稗貫農学校教論との事務所 , を発表。花巻農学校を依願退職。四月、花巻町下根子桜 なる。 で独居自炊生活をはじめ、付近の荒地を開墾、畑を耕作する。八 大正十一年 ( 一九一 = l) 一一十六歳月、下根子桜の寓居に「羅須地人協会」を設立、農村青年らに稲作 一月、詩「屈折率」など「春と修羅」 ( 第一集 ) の詩作はじまる。法や農民芸術論を講義する。また、近郊に「肥料設計事務所」を設 譜短篇「花柳菜、「あけがた J' 童話「水仙月の四日」を、四月、童話け、肥料の相談、設計、指導をする。十一一月、上京、観劇や図書館 「山男の四月ーを書く。九月、詩「東岩手火山」をつくる。十一月、に通い、セロの個人教授を受ける。「春と修羅」第三集を起稿。こ 年トシが一一十四歳で死亡、激しい衝動を受け「無声慟哭」詩群三篇をの年も「貌 J' 「銅鑼、に詩を発表。 書く。このあと半年以上詩作を中断。 昭和ニ年 ( 一九一一七 ) 三十一歳 大正十ニ年 ( 一九一一三 ) 一一十七歳一月、「春と修羅」第一一集の「序ーを書く。この月より三月までに 4 四月、詩「東岩手火山」、童話「やましな」「氷河鼠の毛皮」を「岩数回、羅須地人協会の集会で土壌学、肥料学などを講義。二月、「銅
2 春と修羅 春と修羅 (mental sketch modified) 心象のはいいろはがねから あけびのつるはくもにからまり のばらのやぶや腐植の湿地 * てんごく いちめんのいちめんの諂曲模様 くわんがく ( 正午の管楽よりもしげく こはく 琥珀のかけらがそそぐとき ) いかりのにがさまた青さ 四月の気層のひかりの底を つば 唾しはぎしりゆぎきする おれはひとりの修羅なのだ ( 風景はなみだにゆすれ ) 砕ける雲の眼路をかぎり れいろうの天の海には * せいはり 聖玻璃の風が行き交ひ Zypressen 春のいちれつ くろぐろと光素を吸へば けふはわたしもあんまり重くひどいから ゃなぎの花もとって行かない ( 一九一三・三・一一 0 ) その暗い脚並からは 天山の雪の稜さへひかるのに ( かげろふの波と白い偏光 ) まことのことばはうしなはれ 雲はちぎれてそらをとぶ ああかがやきの四月の底を はぎしり燃えてゆききする おれはひとりの修羅なのだ ( 玉髄の雲がながれて どこで啼くその春の鳥 ) 日輪青くかげろへば 修羅は樹林に交響し 陥りくらむ天の椀から 雲の魯木の群落が延び その枝はかなしくしげり すべて一一重の風景を 喪神の森の梢から ひらめいてとびたっからす ( 気層いよいよすみわたり ひのきもしんと天に立っころ ) 草地の黄金をすぎてくるもの ことなくひとのかたちのもの けらをまとひおれを見るその農夫 ほんたうにおれが見えるのか
屈折率 その暗い脚並からは のごとく記されていたものであるが、この一重括弧は、 天山の雪の稜さへひかるのに 次の七篇に限り、特に二重括弧に改められていたので ( かげろふの波と白い偏光 ) ある。 ( この括弧の二重化は、詩集印刷用原稿における まことのことばは、フしなはれ 雲はちぎれてそらをとぶ 加筆である ) 。ーーすなわちこの詩篇「春と修羅」をは ああかがやきの四月の底を じめとして、「真空溶媒」「青い槍の葉」「原体剣舞連」 はぎしり燃えてゆききする 「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」の七つである。この 七篇の中に、とくに ( n n ( a 一 sketch modified) という おれはひとりの修羅なのだ この、二度くりかえされる「おれはひとりの修羅な副題をもっ三篇と、妹とし子の死の当日の日付をもっ のだ」という詩句の間にはさまれた詩意識のほとんど ' 無声慟哭。詩群三篇とが含まれていること、他の一 谷底に、 ( かげろふの波と白い偏光 ) という、カッコに篇「真空溶媒」にも (Eine PhantasieimMorgen) と くくられて奈落の上にあやうくかかる放心の歌のしらいう副題カついていることは、注目に値しよう。この べの直前に、「のに」は次の自己断定への反発力をたた二重括弧日付は、これらの詩が、「屈折率」をはしめと えながら沈んでいる。 する一重括弧日付の詩において想定されるような、そ の日付当日に現場で書かれた手帖メモをもっていない ことを暗示している。 ところで、この「春と修羅」にも、一九一三・四・ とはいえ、これら二重括弧日付の作品群をもふくめ 八という日付が付されている。しかしこの日付の意味て、賢治の詩のはしまりが、具象的具体的な " 発生現 は、「屈折率」の日付のそれとは微妙に異っているもの場 , をもっていたこと、そして多くの場合、彼がその のごとくである ' 発生現場″の現時点でます手帖にメモしたこと、そ これまで、全集本をはしめ諸テクストが各詩篇末尾のようにして少くとも " 心象スケッチ″がなされたこ に裸き出しのまま付してきたこれらの日付は、『春ととは確かであろう。ただ、一一重括弧日付詩群のありよ 修羅』第一集の場合、初版本目次の各詩篇題名下方に うは、その〃スケッチみが単なる記録や記述、あるい 442
ころの「決死のわざ」へと踏み出したのである さきほど私はこの記念すべき詩の九行のうちの六行 おそらく ( 「日付」の意味をいまは一応こうとっておを引用したのだが、この三行すつの詩句を結んでいる くほかはあるまい ) 一九二二年一月六日、小岩井農場「のに」という語こそは、この詩のかなめであると同 の南の、農場と七つ森との間の雪みちで、詩人は、七時に、宮澤賢治の作品行為の危機と原動力とをあやう になっていたというべきである。す あざやかに、 っ森のこっちのひとつを見やり、また、でこばこの雪 におおわれたゆくての縮れた雲を見やりながら、寒さなわち、自らの心象の主題 ( 七つ森のこっちのひとっ ) にかしかんだ手に鉛筆をにぎって、 と、自らの作品的行為とのあいだにさむざむとよこた 七つ森のこっちのひとつが わる距離の意識。そこに起因する自己の分裂 水の中よりもっと明るく この、宮澤賢治の詩のいわばチェンジレバ そしてたいへん巨きい うべき「のに」が、詩集表題作である詩篇「春と修羅」 のにもかかわらす、自分が にも見出されることに、圧目しよう。「おれはひとりの このでこばこの雪をふみ 修羅なのだ」という発見と断言の詩句の直後、清書稿 向ふの縮れた亜鉛の雲へ の上方欄外に加えられた字下げ指定の数字に従って ( 四 陰気な郵便脚夫のやうに 四七頁別掲写真参照 ) 詩行はカリグラフィックに下降 急がなければならないことを、偶然のように、宿命のを開始する ように、しかも偶然でも宿命でもなく、ある決然とし おれはひとりの修羅なのだ た手つきで手帖に書きとめたのにちがいない この十 ( 風景はなみだにゆすれ ) 砕ける雲の眼路をかぎり 行にみたぬ短い詩、賢治の命名によれば「、い象スケッ れいろうの天の海には チ」のひときれによって、詩集『春と修羅』は起稿さ せいはり れたのであり、このひときれによって、それまでの宮 聖玻璃の風が行き交ひ Zypressen 春のいちれつ 譯賢治の、少年期の短歌制作を中心とする習作のいと くろぐろと光素を吸へば なみは、とりかえしのつかぬ一歩を、賢治自らいうと 440
序 わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です ( あらゆる透明な幽霊の複合体 ) 羅風景やみんなといっしょに 修 せはしくせはしく明減しながら AJ いかにもたしかにともりつづける 春 因果交流電燈の ひとつの青い照明です ( ひかりはたもちその電燈は失はれ ) 心象スケッチ 春と修羅 これらは一一十一一箇月の 過去とかんずる方角から 紙と鉱質インクをつらね ( すべてわたくしと明減し みんなが同時に感ずるもの ) ここまでたもちつづけられた かげとひかりのひとくさりづっ そのとほりの心象スケッチです これらについて人や銀河や修羅や海胆は らん 宇宙塵をたべまたは空気や塩水を呼吸しながら それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが ひっゃう それらも畢竟こころのひとつの風物です ただたしかに記録されたこれらのけしきは 記録されたそのとほりのこのけしきで それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで ある程度まではみんなに共通いたします ( すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから ) ちゅうせせい けれどもこれら新世代沖積世の 巨大に明るい時間の集積のなかで 正しくうっされた筈のこれらのことばが
手帳に書かれた「雨ニモマケズ」の詩 っレをれ , 气をレ 社集 原話 光童 東版 年費 ィッア 1 一田ま去をト 大よ ド気を鷺まよ良 ) はいいうは本か、り サびつつ 3 は、もに力、のリ ' ろ勢んりいあんの 第のカ″必が々ぐとを ) いかリのながヤ、々晉キ、 えルき当 よ羅 風をなをゆれ 店修 根春 年版、山の雪のキ入ツか 膣ち第、れ 7 」す 大自 「春と修羅」原稿 ・イ 1 な島」・、ーミみ度で 稿の カ気ルが・′第まー、一々・、れが、いをーみ 4 さあ、す 」不・ ~ ル , 《フ = 学き参け , ・と」 14r 1 の原」 物 ? ネ : 、を曾イ = 、をが、 2 ろ ' ゲ三 1 宀疋 ・ー毖第ー《を本 ~ 背ま第 , を夜未 、を第、まで、を物′ 4 。・ 1 ん緡物 . のが 鉄れ 河さ ツをー・一 : - : ど、 , しマ 4 ま物残 詩集『春と修羅』への賢治の書き込み ) 谷まけて第 , 支 0 ををの
町一関 ノ / ノ 「文学的紀行」となれば先す小岩井農場がまっ先きにれは見事な豪族である。 ( もう永年に亘って私はガラ びん しオ月岩井製のバターを愛用しているが 登場しなければならない。初めて宮澤家を訪ねたときス瓶には ) っこ、 に案内された。詩集「春と修羅」のなかの、そして賢治それをとおして小岩井の風光を時たま思い出すことが ある。 ) の全詩作品のなかでの最も長い詩は八百数十行の「小 岩井農場」である。 去年は北海道で啄木の足跡を追ったが、せめて旭川 「わたくしはすゐぶんすばやく汽車からおりた / へは行ってみたかった。賢治には「津軽海峡」にはじ ばんか そのために雲がぎらっとひかったくらゐだ」 まって「宗谷挽歌」や「オホーック挽歌」がある。二 ー手くいし にこの詩ははしまるが、その降りた駅は雫石で、私は十数年前私も旭川やそして網走からオホーックを眺め しゆら その時詩集「春と修羅」をひらいて、その第一行からたことがある。その二つとも私には強い印象として残 最后まで実際の風物と作品の展開とを比べていった。 っているが、例えば賢治の見た旭川は私の見た新開地 その時から五回か六回私は小岩井に行った。サラブレ風な旭川よりももっと新開地風だったろう。 遠くなだれる灰光と ッドはいなくなったがホルスタインの種牛はいる。そ
わづかその一点にも均しい明暗のうちに ( あるひは修羅の十億年 ) すでにはやくもその組立や質を変じ しかもわたくしも印刷者も それを変らないとして感ずることは 傾向としてはあり得ます けだしわれわれがわれわれの感官や 風景や人物をかんずるやうに そしてただ共通に感ずるだけであるやうに 記録や歴史あるひは地史といふものも それのいろいろの論料といっしょに ( 因果の時空的制約のもとに ) われわれがかんじてゐるのに過ぎません おそらくこれから二千年もたったころは それ相当のちがった地質学が流用され 相当した証拠もまた次々過去から現出し みんなは二千年ぐらゐ前には くじゃく 青そらいつばいの無色な孔雀が居たとおもひ 新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層 きらびやかな氷窒素のあたりから すてきな化石を発掘したり はくあ あるひは白堊紀砂岩の層面に 透明な人類の巨大な足跡を 発見するかもしれません すべてこれらの命題は 心象や時間それ自身の性質として 第四次延長のなかで主張されます 大正十三年一月廿日 屈折率 七つ森のこっちのひとつが 水の中よりもっと明るく そしてたいへん巨きいのに わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ このでこ・ほこの雪をふみ あえん 向ふの縮れた亜鉛の雲へ 、やくふ 陰気な郵便脚夫のやうに ラン ( またアラッディン洋燈とり ) 春と修羅 宮澤賢治
宮澤賢治集目次 宮澤賢治文学紀行 何度も訪れた花巻 春と修羅 : 四又の百合 : インドラの網・ 雁の童子 : 北守将軍と三人兄弟の医者・ 注解 宮澤賢治文学アル・ ( ム 評伝的解説 紅野敏郎四 0 三 四一四 四六 天沢退一一郎四三〈 草野心平三九 ・・三六九 : 三 : 一一穴四 : 元五 作品校正 編集責任 製作担当 装幀 写真撮影 大川泰央 増山紀夫 榎本時雄 横田正知 会田紀雄 桜田満 藤本和延