案内 三畳あれば寝られますね。 これが水屋。 これが井戸。 山の水は山の空気のやうに美味。 あの畑が三畝、 いまはキャベツの全盛です。 ここの疎林がヤッカの並木で、 小屋のまはりは栗と松。 坂を登るとここが見晴し、 展望一一十里南にひらけて 左が北上山系、 右が奥羽国境山脈、 抄まん中の平野を北上川が縦に流れて、 あの霞んでゐる突きあたりの辺が 恵 智金華山沖といふことでせう。 智恵さん気に入りましたか、好きですか。 うしろの山つづきが毒が森。 そこにはカモシカも来るし熊も出ます。 わたくしはやがて天然の素中に帰らう。 かす そらゆう ( 一九四九こ 0 ・三 0 ) あの頃 人を信ずることは人を救ふ。 かなり不良性のあったわたくしを 智恵子は頭から信じてかかった。 いきなり内懐に飛びこまれて わたくしは自分の不良性を失った。 わたくし自身も知らない何ものかが こんな自分の中にあることを知らされて わたくしはたじろいた。 少しめんくらって立ちなほり、 智恵子のまじめな純粋な 息をもっかない肉薄に 或日はっと気がついた。 わたくしの眼から珍しい涙がながれ、 わたくしはあらためて智恵子に向った。 智恵子はにこやかにわたくしを迎へ、 その清浄な甘い香りでわたくしを包んだ。 わたくしはその甘美に酔って一切を忘れた。 わたくしの猛獣性をさへ物ともしない 智恵さん期ういふところ好きでせう。 ( 一九四九・一 0 ・三 0 )
412 方、白秋、杢太郎らの・ハンの会の狂瀾に巻きこまれる。 その他に故障があり、一年のうち何ヶ月かは故郷一一本松に帰ってい 明治四十三年 ( 一九一〇 ) 一一十七歳た。前年あたりからヴェルハアランの詩を訳しはじめる。 三十八歳 四月、神田淡路町に画廊琅野洞を開く。この頃、吉原河内楼の娼妓大正十年 ( 一九一一一 ) 若太夫との恋愛がある。解放された芸術家として生きようとする願四月、エリザ・ヘット・ゴッホ「回想のゴッホ」訳を刊行。九月、ホ いと外界との矛盾に悩み、本気で詩を書く衝動に駆られる。 ィットマン「自選日記」訳を刊行。十一月、「明星」復刊し、それ 明治四十四年 ( 一九一一 ) 一一十八歳を機会に「雨にうたるるカテドラル」等の長詩次々に生まれる。 詩作次々に生まれる。五月、琅圷洞を人に譲り、北海道移住を企て大正十ニ年 ( 一九一一三 ) 四十歳 たが失敗。十二月、洋画家長沼智恵子と知る。 九月、関東大震災。下町からの避難者にアトリエを解放し、数ヶ月 明治四十五年・大正元年 (ー九 lll) 一一十九歳を四畳半にこもる。個人雑誌の計画があったが実現しない。 六月、駒込林町にアトリエ完成。智恵子への愛と、生の転機。岸田大正十三年 ( 一九一一四 ) 四十一歳 劉生らとフューザン会結成。白樺の運動にも関心を持つ。 五月、ロマン・ロラン戯曲「 リリ、リ」訳を刊行。九月、木彫小品 大正ニ年 ( 一九一 lll) 三十歳を頒っ会を発表。木彫を作れば幾らかの金が確実にとれるようにな 五月、フューザン会分裂。岸田らと生活社をおこす。八月、上高地る。詩は「猛獣篇ー時代に入る。智恵子にも健康な数年。 に行く。九月、智恵子も来る。婚約。 大正十四年 ( 一九二五 ) 四十一一歳 大正三年 ( 一九一四 ) 三十一歳三月、ヴェルハアラン詩集「天上の炎」訳を刊行。九月、母わかが 十月、詩集「道程」を刊行。十一一月、智恵子と結婚。アトリエでの六十八歳で没する。ロマン・ロランの友の会を発起。 窮乏のうちにも充足した生活がはじまる。 昭和ニ年 ( 一九二七 ) 四十四歳 大正四年 ( 一九一五 ) 三十二歳四月、評伝「ロダン」を刊行。実生活に加えた変革の結果、生活は この頃から彫刻に専心。七月、「印象主義の思想と芸術」を刊行。窮乏をきわめる。この頃、詩は主として若い世代の小同人誌に発 十一一月、傑作歌選「高村光太郎与謝野品子」を刊行。 表。北海道移住の志があり、またエスペラントをならう。 大正五年 ( 一九一六 ) 三十三歳 昭和四年 ( 一九一一九 ) 四十六歳 十一月、訳編「ロダンの言葉」を刊行。 智恵子の実家長沼家が破産する。智恵子の健康もまた傾き始める。 大正六年 ( 一九一七 ) 三十四歳 昭和六年 ( 一九三一 ) 四十八歳 アメリカでの個展を企て、資金獲得のため、秋、彫刻頒布会を発表八月、新聞の依頼で一ヶ月ほど三陸地方を旅行。留守の頃から、智 する。しかし入会者少く、個展は結局実現しない。 恵子に精神異常の徴候が現われる。 大正九年 ( 一九一一〇 ) 三十七歳 昭和七年 ( 一九三一 l) 四十九歳 五月、訳編「続ロダンの言葉」を刊行。智恵子は結婚後いつも肋膜七月、智恵子アダリン自殺未遂。分裂症状は悪化の途をたどる。
千鳥と遊ぶ智恵子 人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の 砂にすわって智恵子は遊ぶ。 無数の友だちが智恵子の名をよぶ。 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい 砂に小さな趾あとをつけて 千鳥が智恵子に寄って来る。 ロの中でいつでも何か言ってる智恵子が 両手をあげてよびかへす。 ちい、ちい、ちい 両手の貝を千鳥がねだる。 抄智恵子はそれをばらばら投げる。 子 群れ立っ千鳥が智恵子をよぶ。 恵 智ちい、ちい、ちい、ちい、ちい 人間商売さらりとやめて もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の うしろ姿がぼつんと見える。 もう人間であることをやめた智恵子に 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場 智恵子飛ぶ ( 一九三五・四・二四 ~ 一一五 ) あ 値ひがたき智恵子 智恵子は見えないものを見、 聞えないものを聞く。 智恵子は行けないところへ行き、 す 出来ないことを為る。 智恵子は現身のわたしを見ず、 わたしのうしろのわたしに焦がれる。 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、 くわうばく 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。 わたしをよぶ声をしきりにきくが、 智恵子はもう人間界の切符を持たない。 二丁も離れた防風林の夕日の中で 松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。 ( 一九三七・七・一一 ) うっしみ けん ( 一九三七・七・一一 l)
荒涼たる帰宅 あんなに帰りたがってゐた自分の内へ 智恵子は死んでかへって来た。 十月の深夜のがらんどうなアトリエの らり 小さな隅の埃を払ってきれいに浄め、 私は智恵子をそっと置く。 この一個の動かない人体の前に 私はいつまでも立ちつくす。 びやうぶ 人は屏風をさかさにする。 しよく 人は燭をともし香をたく。 人は智恵子に化粧する。 さうして事がひとりでに運ぶ。 夜が明けたり日がくれたりして そこら中がにぎやかになり、 家の中は花にうづまり、 何処かの葬式のやうになり、 いつのまにか智恵子が居なくなる。 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立ってゐる。 外は名月といふ月夜らしい ( 一九四一・六 うた六首 ひとむきにむしゃぶりつきて為事するわれをさびしと思 ふな智恵子 気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむ とすなり いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらと なる しと わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知 りていたみき この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾を いねしめず 光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住 みにき し tJ と
松庵寺 奥州花巻といふひなびた町の こきっ 浄土宗の古刹松庵寺で 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に まことにささやかな法事をしました 花巻の町も戦火をうけて すっかり焼けた松庵寺は * しゆみだん 物置小屋に須弥壇をつくった 一一畳敷のお堂でした 雨がうしろの障子から吹きこみ 和尚さまの衣のすそさへ濡れました 和尚さまは静かな声でしみじみと 型どほりに一枚起請文をよみました 仏を信じて身をなげ出した昔の人の おそろしい告白の真実が 抄今の世でも生きてわたくしをうちました まこと 子 限りなき信によってわたくしのために 智燃えてしまったあなたの一生の序列を この松庵寺の物置御堂の仏の前で 又も食ひ入るやうに思ひしら・ヘました ( 一九四五・一 0 ・五 ) 元素智恵子 智恵子はすでに元素にかへった。 わたくしは心霊独存の理を信じない。 智恵子はしかも実存する。 智恵子はわたくしの肉に居る。 智恵子はわたくしに密着し、 わたくしの細胞に燐火を燃やし、 わたくしと戯れ、 わたくしをたたき、 ゑじ、 わたくしを老い・ほれの餌食にさせない。 精神とは肉体の別の名だ。 わたくしの肉に居る智恵子は、 そのままわたくしの精神の極北 智恵子はこよなき審判者であり、 うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、 耳に智恵子の声をきく時わたくしは正しい 智恵子はただ暿々としてとびはね、 わたくしの全存在をかけめぐる。 元素智恵子は今でもなほ わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。 ねむ ( 一九四九・一 0 ・三〇 )
クルスの代りにこのやくざ者の眼の前に 奇蹟のやうに現れたのが智恵子であった。 蟄居 美に生きる 一人の女性の愛に清められて 私はやっと自己を得た。 言はうやうなき窮乏をつづけながら 私はもう一度美の世界にとびこんだ。 生来の離群性は たんや 私を個の鍛冶に専念せしめて、 世上のにうとからしめた。 政治も経済も社会運動そのものさへも、 影のやうにしか見えなかった。 智恵子と私とただ二人で 人に知られぬ生活を戦ひつつ 都会のまんなかに蟄居した。 一一人で築いた夢のかずかずは みんな内の世界のものばかり。 検討するのも内部生命 らっきょ 蓄積するのも内部財宝。 私は美の強い腕に誘導せられて ひたすら彫刻の道に骨身をけづった。 おそろしい空虚 母はとうに死んでゐた。 東郷元帥と前後して まさかと思った父も死んだ。 智恵子の狂気はさかんになり、 七年病んで智恵子が死んだ。 私は精根をつかひ果し、 がらんどうな月日の流の中に、 死んだ智恵子をうつつに求めた。 智恵子が私の支柱であり、 智恵子が私のジャイロであったことが 死んでみるとはっきりした。 智恵子の個体が消えてなくなり、 智恵子が普遍の存在となって いつでもそこに居るにはゐるが もう手でつかめず声もきかない。 肉体こそ真である。 私はひとりアトリエにゐて、 裏打の無い唐紙のやうに
まっただなか あこが 智恵子が憧れてゐた深い自然の真只中に 運命の曲折はわたくしを叩きこんだ。 連命は生きた智恵子を都会に殺し、 都会の子であるわたくしをここに置く。 岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、 かしやく わたくしを囲んで仮借しない いうだ 虚偽と遊惰とはここの土壌に生存できず、 わたくしは自然のやうに一刻を争ひ、 ただ全裸を投げて前進する。 智恵子は死んでよみがヘり、 わたくしの肉に宿ってここに生き、 かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ。 変幻きはまりない宇宙の現象、 転変かぎりない世代の起伏、 それをみんな智恵子がうけとめ、 それをわたくしが触知する。 には わたくしの心は賑ひ、 山林孤棲と人のいふ 小さな山小屋の囲炉裏に居て こせい メトロポォル ゐろり 裸形 智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。 つつましくて満ちてゐて 星宿のやうに森厳で 山脈のやうに波うって いつでもうすいミストがカカり、 めな ) その造型の瑪瑙質に 奥の知れないつやがあった。 ほくろ 智恵子の裸形の背中の小さな黒子まで わたくしは意味ふかくお・ほえてゐて、 今も記憶の歳月にみがかれた その全存在が明滅する。 わたくしの手でもう一度、 あの造型を生むことは 自然の定めた約東であり、 そのためにわたくしに肉類が与へられ、 そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、 米と小麦と牛酪とがゆるされる。 智恵子の裸形をこの世にのこして ここを地上のメトロポォルとひとり思ふ。 ( 一九四九・一 0 ・三 0 ) しんげん
美の監禁に手渡す者 たもと 納税告知書の赤い手触りが袂にある、 やっとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。 あがな 売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、 所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。 両立しない造形の秘技と貨幣の強引、 両立しない創造の喜と不耕貪食の苦さ。 がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片、 たいや、 つぶれる。 ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、 てつびん 鉄瓶もひるね。 ムやう ー・・・芙蓉の葉は舌を垂らす。 づしんと小さな地震。 あよらせみ 油蝉を伴奏にして この一群の同棲同類の頭の上から し 0 せん 子午線上の大火団がまっさかさまにがっと照らす。 ( 一九一一八・八・一六 ) にが ( 一九三一・三・ 人生遠視 足もとから鳥がたっ 自分の妻が狂気する 自分の着物が・ほろになる 照尺距離三千メートル ああこの鉄砲は長すぎる 風にのる智恵子 狂った智恵子はロをきかない ただ尾長や千鳥と相図する 防風林の丘つづき いちめんの松の花粉は黄いろく流れ さっきばれ 五月晴の風に九十九里の浜はけむる ゆかた 智恵子の浴衣が松にかくれ又あらはれ * しようろ 白い砂には松露がある わたしは松露をひろびながら ゆっくり智恵子のあとをおふ 尾長や千鳥が智恵子の友だち ( 一九三五・一・
ある。生活がある。この平明な表現、力強い詩句、こ の詩が吾々に与へる感動と悲惨と涙とを考へやう。』」 それは光太郎の胸中に 「猛獣篇」という詩集は無い。 前衛勢力に壊滅的な打撃を与えた三・一五とか四・ だけ存在した幻の詩集であり、その中の十数篇が現実一六とか呼ばれる事件を背景とし、深刻な不況のうち には「猛獣篇より」として発表されたにすぎない。そに戦争への道をととのえるそんな時代である。これら れにもかかわらずこれらの詩篇、又はこれらの詩篇に 「猛獣篇」前半と、昭和十一一年、日中戦争を契機とし 代表される一時期の作品は、光太郎詩のもう一つの頂て再び現われる後半の詩にはさまれた「猛獣篇時代」 点として、重要な意義を持つ。「『道程』以後」の詩群の諸詩篇にも、おのすから歴史の激動は映されるが、 と関東大震災をへだてて相対し、それが内部に完結し、 いまは、この時期のもう一つの宿命的な出来事に触れ 充足した生の讃歌をかなでるのに、これはむしろ外部ないわけにはゆかない 智恵子の発病である。 にかかわり、人間性を疎外するその予盾、その理不尽もともと光太郎夫妻の生活は、普通の意味の結婚生 に対決して高鳴る。内部生命の決意や苦悩を歌いあげ活とは異なっていたように思われる光太郎自身、智恵 はんちゃっ ることによって、深く人間社会にかかわる。正末昭初子を妻という範疇に属する女性ではなかったと語って いるよ、つに、 の激動する季節に、材を猛獣にかりて発せられたこれ ここにあるのは、芸術の道に骨身をけず らの詩は、痛烈な印象を当時の人々の心にも留めた。 る独立した男女の、全き愛と互敬に支えられた共棲の だちょう 例えば「昭和三年史』は「ばろばろな駝鳥」についてすがた。いわば、男と女、人間のあり得べきかたちを 幾らかロごもりながら記す。 追い求め、歩みつづけた一体の生活者。智恵子詩篇の 「此の詩はあらゆる詩派の詩人から、共通に高い批判中に、妻と呼びかける言葉の数少く、また世俗の法的手 を得た特記すべき詩である。其の理由を井上康文氏は続を、智恵子が正常な意識を失うまで、無視し続けた 斯う述べて居る。『この詩には時代の人間の姿が現はれ態度にも、二人の決意はうかかい得る てゐる、駝鳥を囲ひの中に入れてゐる人間、そこに社自らの生、自らの行為と同義であるとさえ信ずる同 会の姿があり、駝鳥にまた悲しい人間の姿がある。こ伴者を襲った突然の狂気、しかもそれが、この特殊な こに怒号は無い。 然し覚醒した人間の心がある。愛が倫理にかこまれた特殊国で、一緒に貫こうと考えた「人 432
上大正 15 年アトリエの光太郎 , 智恵子夫妻 右明治 44 年光太郎制作の光雲像を前に 5 品のげをキ社 1 キ上右より光太郎弟豊周 智恵子デザインの「青上光太郎自画像スケッチ 鞜」創刊号 ( 明治 44 年 ) ( 昭和 5 年 ) アトリエにおける光太郎 光太郎と智恵子のアトリエ