いわ。お兄さん大丈夫、死ぬようなことはないわ、と言っ僕はそう言った。 たこともあるが、私大丈夫死なないわ。今死んじゃ村岡さ「そうだ、君は生きているのだから」 んにもすまないわ。そんなことも言っていた。又、村岡さ野々村はまだそうがんばった。 んに私逢いたいわ、今に逢えるわね。とも言っていた。そ だがそう言われても僕の心は慰められなかった。 のうち一時工合がよくなって、元気になり、大変気持がよ野々村はこないかと言ってくれたが、僕は之以上の打撃 くなったわ。私嬉しいわと言った。だがそのあと遂にやらはうけたくなかった。 れてしまった。何か言ったが、その意味はわからなかっ 自分の家に帰った。淋しさと、とりかえしのつかない気 た。だが死んだ時、随分平和な顔をしていた。僕が見ても持、どうしたら自分が助かるのかわからない悲哀、それが 神々しく思った」 ますます自分をとりかこんで、自分をふみにじろうとして 野々村はもう泣かなかった。 いるような気がした。 「僕は妹が可哀そうで仕方がなかった。しかし死んでしま 悲しみに僕は圧倒されかけて、辛くも生きている状態だ えば人間は実に楽なものだと僕は思って、心をなぐさめてった。 じようぶつ いる。妹は本当に成仏したのだと思っている。いくら可哀 そうに思っても、妹には通じないが、実に可哀そうなのは ところ 生き残った人間で、死んだものは、もうあらゆることから ある日、僕の処に若き友人が来て、 解放されたものだ。僕はそう思うことで、妹は今は不幸で「君の歓迎会をやりたいと思うが、どうだ」と言う。 も悲しんでもいないと思っている。だが人生にどうして死「許してくれ ! という馬鹿なものがあるのか、僕は本当に腹を立てたり、 「野々村さんももっと先がいいだろうと言うのだが、僕達 死悲しんだりするのも事実だ。しかしそれは生き残ったものは送別会の時、野々村さんの所で又歓迎会をやろうと約東 との心理で、死んだものの心理とは思わない したので、その約束を果したいと話しているのですー 野々村はそうきつばり言った。 愛 「野々村の処で」僕は僕の神経をあまりに察しなさすぎる 「だから妹はもう可哀そうでないと僕は信じているー のに驚いた。しかし次の瞬間に、夏子にも霊があれば野々 「君の言う事は本当だろう。だが僕は夏子が可哀そうで可村の所でやれば一緒に其処に来て僕を歓迎してくれるだろ 哀そうで仕方のないのも事実だー う。ふとそんな気がした。そして自分にはあまりに残酷な さび
た。娘は馳けだすようにして外へとんでいった。 これ 之が野々村の妹で、この前逆立ちに勝った女だというこ とはあとで知った。 あまのじゃく 野々村は不思議な男というか、天探女というか、他人の僕はその後も野々村の妹に時々あったわけだが、記憶に 賞めないものを感心しすぎる処があるかも知れない。とも一番よくのこっているのはその二度である。 しかしそれから一一三年別に野々村の妹の存在を認めてい かく僕は野々村が好きになって時々出かけたのだ。 よ、つこ。 子ー、刀 / 野々村もいつも喜んで逢ってくれた。 野々村の処へ或日ゆくと、五六人の女学生が庭で遊んで野々村の妹は美しいと誰かが言っているのを聞いたこと もあるが、それは僕には別に問題にはならなかった。 別に気にもしていなかったが、あまりにさわぎがひどい 僕も美しいと思ったことはあるが、しかし僕とは関係の らよっと ので、一寸その方を見ると、二人の女が逆立ちの競争をしなさすぎることだと思ったから別に注意をしなかった。 ているのだ。 又滅多に逢うこともなかったし、あまりに若くもあり、 一人の方が勝って皆から拍手をうけていた。 問題になりもしなかったし、尊敬する友達の妹をそういう 「しようがない奴だよ」 目で見たいとも思わなかった。 と野々村は言った。 野々村はある時、「僕の妹は君のものを愛読している」 むとんじゃく 何のことを言っているか僕にはその時わからなかった。 と言ったことがあったが、僕はそれを無頓着に聞き流すこ だが元気な女もいるものだと思った。 とにしていた。 一二年の間に、齢と言うものは不思議な働きをするもの 四 死 で、野々村の妹もすっかり女らしく美しくなり、或日往来 と或日野々村の処へゆくと門の処で、背のすらっとした快で逢った時は、似てはいるが、他人だと思った。野々村の つばみ 愛活な、しかしいかにも未だ蕾だとしか思えない十七八の女妹がこんなに美しかったはずがないと思ったのである。僕 の子に逢った。 は黙ってゆきすぎようとしたら、その女があわててお辞儀 ていねい 僕を見ると丁寧にお辞儀した。何処か野々村と顔が似てしたので、僕は自分にしたのではないと思い、うしろを見 いるので、僕も野々村の妹だと気がついて丁寧にお辞儀し たが自分より他に人がいないので、矢張野々村の妹だと思 していない やっ めった やはり
118 之は二十一年前の話である。 しかし自分には忘れられない話である。 自分が野々村を初めて訪ねたのは二十五の時だった。当野々村もへんに僕を認めてくれた。買いかぶっていると 時のことは今でも忘れない。 いう言葉はつかいたくないが、他の人達はそう思っている その時野々村は三十で、もう小説家として新進というよだろうと思う程、僕を認め、他の人が欠点だと思う処ま りも、もっと大家のように僕には思えた。今思うと少し可で、僕の長所だと認めてくれた。 笑しいが、当時は三十にもなればもう一流の作家になれた ここでは野々村のことを書くのが目的ではないが、野々 時代で、野々村なそ一一十三四で有名になり、三十位の時は村が僕に厚意を持ちすぎていることが、話の起る一つの原 もう大家の域に達しかけていた。少くとも野々村のものを因であるから、その点を強調しておくので、僕の有望な人 前から愛読していた自分にはそう思えた。 間だということを主張しようとは思わない。 だから実際いうと野々村はもっとずっと齢上の男だと思 しかし他人の悪評に対しては又強くならざるを得ない。 っていた。逢って若いのに驚いたものだ。 無責任な他人のいうことを一々気にしていたら、人間は落 野々村を僕が訪ねることになったのは、当時、僕はかくちついて生きてはゆけない。 る ; かく小説悪口をいわれていたが、不思議に野々村は 自分をいつわって生きてゆくのには、世間や他人を信用 愛と死 これ たず 1 ーし′ノ いつも僕のものをめてくれた。それで僕は最初の単行本 、ぞう ずいぶん を野々村に敬意を示して寄贈したら、随分厚意を持った批 評をもらい、その上暇の時遊びに来ないかと書いてあった。 それで自分は喜んで、同時にいく分恐る恐る訪問したの ・こっこ。 逢えば気楽な男だった。今でも僕は野々村のことは野々 村さんと言っているが、気持の上では当時からすっかり友 達のような気になり、平気で生意気なことも一一一口える仲にな った。この位気のおけない何でもわかってもらえる友達に めった は減多に会えるものでないと僕は喜んでいる。
120 かくて野々村の第三十三回目の誕生日が来た。それは一一 ってあわててお辞儀したが、その時はゆきすぎたあとで、 月二十五日で僕にはその日は忘れられない日になった。 野々村の妹はそれを知らなかったろうと思った。 残念にも思い、わるかったとも思った。 五 それから二た月程たった時、野々村の妹が三四人の友達 と銀座を歩いているのを見たが、僕はお辞儀しようと用意野々村の誕生日には野々村を中心として集っている若い していたが、野々村の妹は気がっかない顏をしてゆきすぎ文士達が野々村の処に集って、いろいろかくし芸なそして た。 愉快にくらすのが例になっていた。僕は野々村の処に集る 自分は嫌われているなと言う感じを受けた。 連中にあまり好きでない人がいるので、ゆかないようにし 「勝手にしろ」 ていたが、その日は何ということなしに行く気になった。 美しく思え、お辞儀してもらいたかった反動でそんなこ僕が行った時はもう五六人が集り、愉快に話をしてい とを感じた。もうお辞儀なんかしてやるものか。そんな子た。僕もそのなかに入り、気の合った連中と話をしていた。 いつも集合に 供らしい感じを持った。 その内に皆集ったというので、十五畳の、 しかしその時は本当に気がっかなかったのだとあとで聞つかう広間の設けの席についた。両側に向いあって坐っ た。野々村の妹も、末席にひかえて居た、他に女の弟子が それは本当らしく、その後又一一一箇月たって野々村の家二人許り来ていた。 ていわい のそばで逢った時、野々村の妹は丁寧にお辞儀した。 簡単なサンドイッチや、すしなどが出てい、又菓子や果 、げん 僕はそれですっかり機嫌をなおしたらしく、 物が出してあった。酒も出た、僕は酒がのめないので食う 方を専門にした。その内余興が始まった。 「お兄さんはおうちですか」 と聞いこ。 段々順にやることになり、僕の処に順番が回って来そう しいと思って度 「ええ、うちにおります」 になった。僕はそれには閉ロだが、断れば、 二人はそのまま別れたが、業はいい気持になったのは事胸をすえていた。 だれ 所が皆芸人で誰一人断るものがなかった。そして遂に僕 実だ。 しかしそれからずっと逢わなかった。別に逢いたいともの処に来た。 僕は何にも出来ないから許してくれと言ったが、皆は承 思わなかった。 きら
知しなかった。僕は真赤な顔して、閉ロした。何かやれたて、実に立派に宙がえりをうった。 あざ ~ つ、 0 い その意外と鮮やかさには皆おどろいて、大拍手喝采だっ らやりたいと思ったのだが、いくら考えてもやれるものは なかった。 うれ * りゅういん すると誰かが「豚の泣き声でもするといい」と言った。 僕は一時に溜飲がさがった思いで泣きたい程、嬉しく思 皆笑った。 殊に前から僕に厚意をもっていない四五人の仲間は、僕野々村はおどろいて言った。 が弱れば弱るだけなお責めよせてくる。 「おてんば、いっそんなものをならったのだ」 「皆の前をはって歩くだけでもいいじゃないか。出来ない 皆笑った。 というわけはないー 「いつだか知らないわよ」 「許してやれよ」と野々村が言った。 とわざと乱暴に言った、その表情を僕はたまらなく可愛 いく思った。 「だめですーーーだめです。そういう先例が出来るとあとの ためによくありません」 皆笑った。 僕はますます閉ロした。額から汗が出て来た。 「それだけ出来れば飯が食える」 「早くやれよ」 「まさか」 と野々村の妹は兄を睨んだ。 「もったいをつけずに」 ますます 皆笑った。 僕は益々出来なくなった。この時、 野々村の妹が言った。 それで白けかけた座が一時に又快活になり皆元気になっ 「私がかわりをするから許して上げなさい」 その内に野々村の妹の番が来た。 死皆、思わぬ処に援兵が出たのに驚いた。 誰かが、 と「私じゃいけません ? 「もう一遍宙がえりーと言ったが、野々村の妹は今度はす 愛「あなたではよすぎますよ」 なかなか 「よすぎるならいいでしょ まして歌をうたった。それも仲々見事の出来で、皆御世辞 「逆立ちーと誰か言った。皆笑った。 でなく感心してしまった。 野々村の妹は立ち上ったかと思うと、皆の前に走って来僕はそれ以来、野々村の妺のことが忘れられなくなっ ぶた めし
「あなたより野々村さんの方が利ロですよ」 くれているのですよ。憎らしいたらないのですよ」 「それは僕は野々村さんの言う方が本当かも知れないと思 「利口かも知れませんが、悪賢いのです」 いますよ。本当のことがわかればね。皆、それがあたりま「そんなことがあるものですか」 えになるのじゃないですか。私達は男女のことになると、 「先生も同じ穴のむじなだから兄のすることは何でもよく つい秘密にしてごまかすが、皆あかるみに出して、それに お見えになるのでしよう」 馴れたら、存外なんでもないことかも知れませんよ」 「信用していればいいのです。馬鹿なくせに : 「そんなことがあるものですか」 「馬鹿ですって」 「あなたの考え方は単純で、野々村さんの気持はもっと別「そういう男の気持がわかりもしないくせして」 な世界に入っているのじゃないのですか。しかしその女の 「そんな気持、何処までも軽蔑しますわー 友達が、野々村さんにあっさり出来ない時が来るかも知れ「野々村さんはともかく信用していい人です。そっとして ないし、野々村さんも超越して友達ですむつもりでいておく方がいいのです。あなたはあなたの嫂さんとはちがう はらん も、相手の女はそれではすまないかも知れませんね。とに のですから、ものずきな波瀾は起さない方がいいのですー やっかい かく厄介な問題にはちがいないが、野々村さんは信用出来「ものずきですって」そう言って夏子は僕の顏をぐっとに る人と思いますね」 らんだが、不意に笑い出した。 「それこそ唾棄すべき人間ではないのですか」 「そうおっしゃれば少しもの好きね」 もっと 「そんなことはありません」 「あなたの憤慨するのも尤もな点もありますよ」 「先生もそのお仲間なのでしよ」 と僕も妥協した。 「あなたにはまだわからない。しかしあなたは兄さんを愛「本当は私、兄が好きで仕方がないのですよ。それだけ兄 してはいるのでしよう」 は立派な非難の出来ない人間にしておきたかったのです よ 「だから腹が立つのよ。そんな兄じゃなかったのに」 、ずつ 「皆いい人で、皆幸福を傷けないつもりがいけないのです「そううまく問屋はおろしませんよ」 が、腹を立てることはないでしよう。信用していればいし 「先生は本当に兄を信じていらっしやるのですか」 「信じています。何をしたって、悪意のない意地わるくな のですよ」 い人は信用していいのですー 「先生はそんな方とは思いませんでしたわ」 だき 人んがい ねえ
は、僕の友情と、信頼を過小視しているように思えて心外 齢をいくらかとった今、それを考えると、可愛いいとい だった。しかし少しでも君に不快を与えたのなら心苦し うよりは、憎らしい若者だったように思われる。 。是非近い内に遊びに来てほしい。僕の妹はこの頃はす それも過ぎた話ではあるが。 つかり君のものの愛読者になっている。君がどうして来な いのかと気にしている 自分は早速出かけた。野々村は大いに喜んで僕を迎えて 野々村がある時こんな随筆をかいた。 くれた。 、ことだが、他人の長所を認めない 「自信の強いことはいし 「生長力がとまった木は少し可哀想だよ」 ことで自信を無理につくろうとするのは醜い。他人の長所 と野々村は愉快そうに言った。 は何処までも認め、又他人を何処までも成長させて、他人 「本心ではそう思ってはいないのだよ。 しえど の価値を十分認めての上の自信は美しい。しかし本当の自 信が持てないものは、とかく他人の長所を見ずに短所を見「しかし当らずと雖も遠からずだ。僕もうんとし 0 かりや るよ 出してはかなき優越感をたのしむ」 僕はそれを見た時、顔が赤くな 0 た。自分にあてつけら野々村はそう言 0 た。その時夏子は居なか 0 た。 れたような気がしたから。 九 其処で僕は腹をたててこんな出たらめを書いた。 たっと 自分はその夜、寄席に行った夢を見た。 「山は高きをもって貴からず、木は生長力で価値のきまる ものではない。之は本当だ。しかし生長のとま 0 た木は生すると夏子が高座に出て道化にな 0 て逆立ちをしたり、 長力の強い木を見て、反省力が弱いので高くなれると思 0 宙がえりをしたりした。そして僕の方を見て徴笑した。そ ている。高いから価値はあるとは言えないが、高い山は低れが又〈んに魅力があ 0 た。目がさめてもその姿が忘れら れなかった。 い山を見れば低く思うのはやむを得ない , 自分は誰にもその話はしなかった。 野々村から手紙が来て、 「自信の強いある男のことを皮肉ったのは君のことではな い。君は僕の価値を認めてくれていると僕は今でも自惚れ ている。あれを君を皮肉ったものととっているらしいの みにく うぬば 一〇 それから二三日して野々村の処にゆくと野々村は留守だ よせ
とかかれていた。そのことが自分に耐えられない悲しみを 「よく帰ったねーと言った。そして母の方が泣き出した。 それは嬉し泣きのように僕には思えた。すると同時に僕は与えた。最後の手紙に小さく妻とかいてよこしたことを思 うと、自分は耐えられなかった。 とめどもなく悲しくなった。夏子が生きていたらというこ しばら とがはっきり感じられて来た。死ぬということは実によく 花をあげて暫く頭をさげた。この墓標の下には彼女の一 つば ない。自分はこんな取りかえしのつかないことがあるかと壺の灰があるのだ。ただそれだけが彼女のこの世に残した 思い、さびしみが骨の髄まで徹した。 ものだ。 しばら 暫く泣いていた。室の外に誰か来た。母の声で「御飯の 自分は去りかねて居た。其処に野々村が来た。「今君の 用意が出来て皆待っているから来ないか」と言った。もう所へよって見たら、いなかったので、」寸お参りに来たの 夜の十時半頃になっていた。 だと野々村は言った。 「今ゆきます」 「本当に可哀そうな奴だー 僕はそう言って、鼻をかみ目をふき、やっと泣きゃんだ野々村は墓標に水をかけながら言った。 という顔して食事しに行った。 二人は泣いた。 其処には僕の帰ったのを祝う小宴が用意されていた。 「二人で泣けるだけ泣いてやろうー 楽しかるべき帰って来た息子を祝う祝宴にのぞむのに 野々村はそう言った。 は、自分の心はあまりにも淋しかった、しかし泣くのはよ「こんな、こんなことになるとは思わなかった」 そうと思った。 僕はそう言った。一一人は恥も外聞も忘れて泣いた。 かぜ 「あんなに丈夫だったのに、どうしてあんな風邪位にやら れたのか。尤も今度のスペイン風邪という奴は丈夫なもの 其晩、自分が夏子に就て聞くことが出来たのは墓地の場の方がやられるらしい。本当に何ということが起ったの 所だった。谷中に野々村の家の墓地があって、其処に葬らだ」 れているというのだ。僕は翌朝、朝飯をたべるとすぐ一人野々村はなお一人ごとのようにつづけた。 「夏ちゃんは自分では死ぬとは思っていなかった。苦しい で飛び出して谷中の墓地に行った。茶屋で花を買って聞い なかでも、すぐなおると思っていた。私今はどんなことし たらすぐわかった。 新らしい墓標、其処には村岡夏子とはせずに野々村夏子ても死ねないわ、村岡さんにお逢いしない内は私は死ねな とお かぜ
「それは本当ですか」 母は「いよいよ明日になったねーと言った。 簡単な祝宴としていつもより御馳走があり、珍らしく「本当だよ」 褫なそも出され、僕は母から祝いの酒として杯に酒をつ僕は泣きたい程嬉しか 0 た。夏子が聞いたら喜ぶだろう と思った。すると急に夏子にそのことを知らせたくなっ いでもらった。 ここに夏子がいたらと思った。 ちょっと 「僕はこれから一寸出かけて来ますよ」 食事後僕は兄に一寸話したいことがあると言った。 「何処に」 兄は「何か」と言って僕のあとをついて来た。 「野々村の処に」 僕は兄に単刀直入に言った。 「ははは、それもいいだろう。しかしあまり遅くならない 「お兄さんは野々村さんのことを知っているでしよう」 もちろん 方がいいだろう。お母さんのお気持にもなって上げるもの 「勿論知っているよ」 「僕は帰ったら野々村さんの妹をもらおうかと思っているだ」 「勿論、早く帰って来ます」 のです」 僕はそう言うと同時に家を飛び出した。 僕はそう言った。兄はあまり不意で少し考えていた。 「それは帰ってからきめてもいいだろう」 「僕がその気持でいることだけ、お兄さんにわかって戴け 野々村の処に大急ぎでゆくと野々村は運よく留守だっ ればいいのですー た。夏子がとんで来た。 「承知した。わるくない人らしいね」 「何か変ったことでも起りましたの」 「御存知ですか」 「別に変ったことではないのですー 死「それは知っているよ」 びつくり と「ありがとう」僕はわざとそう言ったが、兄は否定しなか「私何が起ったのかと思って吃驚しましたわ」 「旅行でもやめになったとでも思ったのですか」 愛 「そうなれば」と笑って「そう思ったのではないのです」 「お母さんも御存知か知らん」 冫いいだろと言いかえした。「心配しましたのよ。あまり帰りが遅か 「気にしていらっしたよ。しかし今でもそれよ ったので」 う。お前が悪くないと言うなら、と言っていらっした」 いただ
196 西島聞いて見よう。 西島本当にそうです。野村君も目さえわるくなければ、 やっかい 綾子梯子段をお上りになるのは厄介でしよう。 運のいい人間になれたのでしようが。 ( 西島と芳子退場 ) 高峰しかし野村だから其処まで来られたのなら今に起き 高峰随分野村に逢うのは久しぶりだ。 上るだろう。 綾子小説が御座いますの。 綾子本当でございますね。 西島ええあります。今度雑誌に出そうかと思っているの高峰戦争にゆく前に逢った切りだ。その後向うからも音 さたがなかったから。 ( 間 ) お前は。 です。 ( 原稿を綾子に渡す。綾子ひろい読みする ) 綾子私も。一度逢いにゆきましたら、誰にも逢いたくな ( 芳子、蓄音器をよくしながら ) いとおっしやって、その内に黙って故郷にいらしってし まったので。 芳子何をしましよう。 綾子何んでも。本当にお気の毒ね。 高峰お前は野村を愛したことはないのかい 高峰読むのはよせよ。 綾子 高峰厚意は持っていたのだろう。 綾子静子さんに縁談がおありになるのですって。 西島ええ。 綾子それは厚意は持っておりましたわ。 高峰野村が目さえわるくなかったら、お前は野村の妻に 綾子相手の方が面白くない方なのですって。 なったろう。 西島ええ。 芳子何をしましよう。 綾子そんなことはありませんわ。 綾子何んでも。 高峰あてになるものか。 ( 女中登場 ) 綾子野村さんは私のことなんかなんとも思っていません わ。 女中盲目の方が美しい女の方といらっしゃいました。 西島名は何と云った。 高峰お前の方は思っていたのかい。 女中野村とかおっしゃいました。 綾子私の方も思ってはしませんわ。 高峰野村はお前を思っていたかも知れないよ。 西島野村が来たのだ。ここに通していいかい 綾子そんなことはありませんわ。 高峰野村さえよければ。しかし用じゃないか。 はしご