トック - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学11:芥川龍之介 集
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1. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

たちま もらろん 僕は勿論 qua ( これは河童の使う言葉では「体り」と云るが早いか、忽ち往生してしまいましたが。 う意味を現すのです。 ) と答えました。 僕は或月の好い晩、詩人のトックと肘を組んだまま、超 「では百人の凡人の為に甘んじて一人の天才を犠牲にする人倶楽部から帰って来ました。トックはいつになく沈みこ かえり はず んで一ことも口を利かずにいました。そのうちに僕等は火 ことも顧みない筈だ。」 「では君は何主義者だ ? 誰かトック君の信条は無政府主かげのさした、小さい窓の前を通りかかりました。その又 めすおす 義だと言っていたが、 窓の向うには夫婦らしい雌雄の河童が二匹、三匹の子供の ばんさん 「僕か ? 僕は超人 ( 直訳すれば超河童です。 ) だ。」 河童と一しょに晩餐のテエ・フルに向っているのです。する トックは昻んと言い放ちました。こう云うトックは芸術とトックはため息をしながら、突然こう僕に話しかけまし の上にも独特な考えを持っています。トックの信ずる所にた。 よれば、芸術は何ものの支配をも受けない、芸術の為の芸「僕は超人的恋愛家だと思っているがね、ああ云う家庭の うらやま ようす 術である、従って芸術家たるものは何よりも先に善悪を絶容子を見ると、やはり羨しさを感じるんだよ。」 もっと むじゅん した超人でなければならぬと云うのです。尤もこれは必し「しかしそれはどう考えても、矛盾しているとは思わない もトック一匹の意見ではありません。トックの仲間の詩人かね ? 」 たいてい けれどもトックは月明りの下にじっと腕を組んだまま、 たちは大抵同意見を持っているようです。現に僕はトック タラブ と一しょに度たび超人倶楽部へ遊びに行きました。超人倶あの小さい窓の向うを、ーーー平和な五匹の河童たちの晩餐 しばら 楽部に集まって来るのは詩人、小説家、戯曲家、批評家、のテエ・フルを見守っていました。それから暫くしてこう答 しろうと 画家、音楽家、彫刻家、芸術上の素人等です。しかしいずえました。 「あすこにある玉子焼は何と言っても、恋愛などよりも衛 れも超人です。彼等は電燈の明るいサロンにいつも快活に とくとく 話し合っていました。のみならず時には得々と彼等の超人生的だからね。」 ぶりを示し合っていました。たとえば或彫刻家などは大き おにしだ い鬼羊歯の鉢植えの間に年の若い河童をつかまえながら、 河 しり もてあそ めす 頻に男色を弄んでいました。又或雌の小説家などはテ工実際又河童の恋愛は我々人間の恋愛とは余程趣を異にし プルの上に立ち上ったなり、ア・フサントを六十本飲んで見ています。雌の河童はこれぞと云う雄の河童を見つけるが とら かえり せました。尤もこれは六十本目にテエプルの下へ転げ落ち早いか、雄の河童を捉えるのに如何なる手段も顧みませ たび し

2. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

とっさ 勿論です。が、雌の河童は咄嗟の間に床の上へ長老を投げる微笑を浮べながら、「やはり霊魂と云うものも物質的存 ちゅうしやく 在と見えますねーなどと註釈めいたことをつけ加えていま 倒しました。 おやじ 「この爺め ! きようも又わたしの財布から一杯やる金をした。僕も幽霊を信じないことはチャックと余り変りませ ん。けれども詩人のトックには親しみを感じていましたか んで行ったな ! 」 さっそく のら トックの幽霊に関する記事 十分ばかりたった後、僕等は実際逃げ出さないばかりにら、早速本屋の店へ駈けつけ、 長老夫婦をあとに残し、大寺院の玄関を下りて行きましやトックの幽霊の写真の出ている新聞や雑誌を買って来ま なるはど した。成程それ等の写真を見ると、どこかトックらしい河 た。 「あれではあの長老も「生命の樹』を信じない筈ですね。」童が一匹、老若男女の河童の後にばんやりと姿を現してい しばら ました。しかし僕を驚かせたのはトックの幽霊の写真より 暫く黙って歩いた後、ラップは僕にこう言いました。 こと が、僕は返事をするよりも思わず大寺院を振り返りましもトックの幽霊に関する記事、ーー殊にトックの幽霊に関 かなりちくごて、 た。大寺院はどんより曇った空にやはり高い塔や円屋根をする心霊学協会の報告です。僕は可也逐語的にその報告を 無数の触手のように伸ばしています。何か沙測の空に見え訳して置きましたから、下に大略を掲げることにしましょ ただかっこ ただよ しん込ろう う。但し括弧の中にあるのは僕自身の加えた註釈なので る蜃気楼の無気味さを漂わせたまま。 す。 十五 詩人トック君の幽霊に関する報告。 ( 心霊学協会雑誌第 かれこれ それから彼是一週間の後、僕はふと医者のチャックに珍八千一一百七十四号所載 ) わが心霊学協会は先般自殺したる詩人トック君の旧居に らしい話を聞きました。と云うのはあのトックの家に幽霊 の出ると云う話なのです。その頃にはもう雌の河童はどこして現在は xx 写真師のステ = ディオなるロロ街第二百五 か外へ行ってしまい、僕等の友だちの詩人の家も写真師の十一号に臨時調査会を開催せり。列席せる会員は下の如 ステュディオに変っていました。何でもチャックの話によし。 ( 氏名を略す。 ) れば、このステ = ディオでは写真をとると、トックの姿も我等十七名の会員は心霊協会々長ペック氏と共に九月十 もら・ろら・ いつの間にか必ず朦朧と客の後ろに映っているとか云うこ七日午前十時三十分、我等の最も信頼するメディアム、ホ とです。心いチャックは物質主義者ですから、死後の生命ツ・フ夫人を同伴し、該ステ = ディオの一室に参集せり。ホ ツ・フ夫人は該ステュディオに入るや、既に心霊的空気を感 などを信じていません。現にその話をした時にも悪意のあ さいふ

3. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

こと′」と ポスタアの近所にいた河童は悉くげらげら笑い出しましん。僕は時々トックの家へ退屈凌ぎに遊びに行きました・ た・ トックはいつも狭い部屋に高山植物の鉢植えを並べ、詩を たばこ 「行われない ? だってあなたの話ではあなたがたもやは書いたり煙草をのんだり、姆何にも気楽そうに暮らしてい おこな めす り我々のように行っていると思いますがね。あなたは令息ました。その又部屋の隅には雌の河童が一匹、 ( トックは が女中に惚れたり、令嬢が運転手に惚れたりするのは何の自由恋愛家ですから、細君と云うものは持たないのです。 ) 為だと思っているのです ? あれは皆無意識的に悪遺伝を編み物か何かしていました。トックは僕の顔を見ると、 もっと 撲減しているのですよ。第一この間あなたの話したあなたつも徴笑してこう言うのです。 ( 尤も河童の微笑するのは がた人間の義勇隊よりも、 一本の鉄道を奪う為に互に余りいものではありません。少くとも僕は最初のうちは むし 殺し合う義勇隊ですね、ーーああ云う義勇隊に比べれば、寧ろ無気味に感じたものです。 ) ずっと僕たちの義勇隊は高尚ではないかと思いますがね。」 「やあ、よく来たね。まあ、その椅子にかけ給え。」 まじめ ラップは真面目にこう言いながら、しかも太い腹だけは トックはよく河童の生活だの河童の芸術だのの話をしま 可笑しそうに絶えず浪立たせていました。が、僕は笑うどした。トックの信ずる所によれば、当り前の河童の生活 ころか、慌てて或河童を撼まえようとしました。それは僕位、莫迦げているものはありません。親子夫婦兄弟などと こと ZJ と の油断を見すまし、その河童が僕の万年筆を盗んだことに 云うのは悉く互に苦しめ合うことを唯一の楽しみにして 気がついたからです。しかし皮膚の滑かな河童は容易に我暮らしているのです。殊に家族制度と云うものは莫迦げて 我にはまりません。その河童もぬらりと辷り抜けるが早いる以上にも莫迦げているのです。トックは或時窓の外を いか一散に逃げ出してしまいました。丁度蚊のように痩せ指さし、「見給え。あの莫迦げさ加減を ! 」と吐き出すよ た体を倒れるかと思う位のめらせながら。 うに言いました。窓の外の往来にはまだ年の若い河童が一 めすおす 匹、両親らしい河童を始め、七八匹の雌雄の河童を頸のま 五 わりへぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いていました。 僕はこのラップと云う河童に・ハッグにも劣らぬ世話になしかし僕は年の若い河童の犠牲的精神に感心しましたか かえ けなげ りました。が、その中でも忘れられないのはトックと云うら、反ってその健気さを褒め立てました。 河童に紹介されたことです。トックは河童仲間の詩人で「ふん、君はこの国でも市民になる資格を持っている。 す。詩人が髪を長くしていることは我々人間と変りませ ・ : 時に君は社会主義者かね ? 」 あわ こと しの

4. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

もら やまぶどう 又小さい部屋の隅には黒いヴ = ヌスの像の下に山葡萄が一理はありません。けれども河童の国に生まれたトックは勿 ろん ふさ献じてあるのです。僕は何の装飾もない僧房を想像し論「生命の樹、を知っていた筈です。僕はこの教えに従わ ていただけにちょっと意外に感じました。すると長老は僕なかったトックの最後を憐みましたから、長老の言葉を遮 すすす ようす の容子にこう言う気もちを感じたと見え、僕等に椅子を薦るようにトックのことを話し出しました。 「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」 める前に半ば気の毒そうに説明しました。 「どうか我々の宗教の生活教であることを忘れずに下さ長老は僕の話を聞き、深い息を洩らしました。 おうせい 『生命の樹』の教えは『旺盛に生きよ」「我々の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然とだけで 。我々の神、 もっと : ラツ。フさん、あなたはこのかたにす。 ( 尤もあなたがたはその外に遺伝をお数えなさるでし と云うのですから。 トックさんは不幸にも信仰をお持ちにならなかっ 我々の聖書を御覧に入れましたか ? ほとん 「いえ、 : : : 実はわたし自身も殆ど読んだことはないのでたのです。 うらや 「トックはあなたを羨んでいたでしよう。いや、偰も羨ん ラップは頭の皿を掻きながら、正直にこう返事をしましでいます。ラツ・フ君などは年も若いし、 くらばし あいかわら 「僕も嘴さえちゃんとしていれば或は楽天的だったかも 。が、長老は不相変静かに微笑して話しつづけました。 「それではおわかりなりますまい。我々の神は一日のうち知れません。」 長老は僕等にこう言われると、もう一度深い息を洩らし にこの世界を造りました。 ( 『生命の樹』は樹と云うものの、 めす 成し能わないことはないのです。 ) のみならず雌の河童をました。しかもその目は涙ぐんだまま、じっと黒いヴ = ヌ おす 造りました。すると雌の河童は退屈の余り、雄の河童を求スを見つめているのです。 あわれ これはわたしの秘密ですから、どう めました。我々の神はこのきを憐み、雌の河童の脳髄を「わたしも実は、 おっしゃ わたしも実は我々の神を 取り、雄の河童を造りました。我々の神はこの二匹の河童か誰にも仰有らずに下さい。 に「食えよ、交合せよ、旺盛に生きよ』と云う祝福を与え信ずる訣に行かないのです。しかしいっかわたしの祈禧 ました。 : : : 」 河 僕は長老の言葉のうちに詩人のトックを思い出しまし丁度長老のこう言った時です。突然部屋の戸があいたと た。詩人のトックは不幸にも僕のように無神論者です。僕思うと、大きい雌の河童が一匹、いきなり長老へ飛びかか は河童ではありませんから、生活教を知らなかったのも無りました。僕等がこの雌の河童を抱きとめようとしたのは わけ ほか はす

5. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

ひとごとも 哲学者のマッグは弁解するようにこう独り語を洩らしな 「いざ、立ちて、 : : : 僕も亦いっ死ぬかわかりません。 みなくび ・ : 娑婆界を隔つる谷へ。 がら、机の上の紙をとり上げました。僕等は皆頸をのば もっと 「しかしあなたはトック君とはやはり親友の一人だったの し、 ( 尤も僕だけは例外です。 ) 幅の広いマッグの肩越しに のぞ でしよう ? 一枚の紙を覗きこみました。 「親友 ? トックはいつも孤独だったのです。 : : : 娑婆界 「いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。 ただ を隔つる谷へ、 : 唯トックは不幸にも、・ : ・ : 岩むらはこ 岩むらはこごしく、やま水は清く、 ごしく : 薬草の花はにおえる谷へ。」 マッグは僕等をふり返りながら、徴苦笑と一しょにこう「不幸にも ? 」 「やま水は清く、 ・ : あなたがたは幸福です。・ : ・ : 岩むら 言いました。 ひょうせつ はこ′」しく。 「これはゲエテの『ミニョンの歌』の剽竊ですよ。すると トック君の自殺したのは詩人としても疲れていたのです僕は未だに泣き声を絶たない雌の河童に同情しましたか かか すみ ら、そっと肩を抱えるようにし、部屋の隅の長椅子へつれ て行きました。そこには二歳か三歳かの河童が一匹、何も そこへ偶然自動車を乗りつけたのはあの音楽家のクラ・ハ しばら ックです。クラ・ハックはこう言う光景を見ると、暫く戸口知らずに笑っているのです。僕は雌の河童の代りに子供の たたず に佇んでいました。が、僕等の前へ歩み寄ると、怒耳りつ河童をあやしてやりました。するといっか僕の目にも涙の たまるのを感じました。僕が河童の国に住んでいるうちに けるようにマッグに話しかけました。 ゆいごんじよう 涙と云うものをこ・ほしたのは前にも後にもこの時だけで 「それはトックの遺言状ですか ? 」 す。 「いや、最後に書いていた詩です。」 わがまま 「しかしこう云う我儘の河童と一しょになった家族は気の さかだ 童 やはり少しも駁がないマッグは髪を逆立てたクラ ' ハック毒ですね。」 にトックの詩稿を渡しました。クラ・ ( ックはあたりには目「何しろあとのことも考えないのですから。」 河 たばこ あいかわらず もやらずに熱心にその詩稿を読み出しました。しかもマッ裁判官のペップは不相変、新しい巻煙草に火をつけなが ほとん ら、資本家のゲエルに返事をしていました。すると僕等を 9 グの言葉には殆ど返事さえしないのです。 驚かせたのは音楽家のクラ・ハックのおお声です。クラ・ハッ 「あなたはトック君の死をどう思いますか ? 」 しやばかい また めす

6. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

も微妙ですからね。」 十三 「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使 うのがありますーーー」 僕等はトックの家へ駈けつけました。トックは右の手に ラス ひとなっ さら 社長のゲエルは色硝子の光に顔中紫に染りながら、人懐・ヒストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物の っこい笑顔をして見せました。 鉢植えの中に仰向けになって倒れていました。その又側に ぬすびと 「わたしはこの間も或社会主義者に「貴様は盗人だ」と言は雌の河童が一匹、トックの胸に顔を埋め、大声を挙げて まひ われた為に心臓麻痺を起しかかったものです。」 泣いていました。僕は雌の河童を抱き起しながら、 ( 一体 「それは案外多いようですね。わたしの知っていた或弁護僕はぬらぬらする河童の皮膚に手を触れることを余り好ん 士などはやはりその為に死んでしまったのですからね。」 ではいないのですが。 ) 「どうしたのです ? 」と尋ねまし 僕はこうロを入れた河童、ーー哲学者のマッグをふりか えりました。マッグはやはりいつものように皮肉な微笑を「どうしたのだか、わかりません。唯何か書いていたと思 浮かべたまま、誰の顔も見ずにしやべっているのです。 うと、いきなり・ヒストルで頭を打ったのです。ああ、わた もらろん かえる 「その河童は誰かに蛙だと言われ、ーー勿論あなたも御承しはどうしましよう ? qur ・ r ・ r-r ・ r, qur-r-r-r ・こ ( これは にんびにん 知でしよう。この国で蛙だと言われるのは人非人と云う意河童の泣き声です。 ) わがまま おれ 己は蛙かな ? 蛙ではないかな ? 「何しろトック君は我儘だったからね。」 味になること位は。 と毎日考えているうちにとうとう死んでしまったもので硝子会社の社長のゲエルは悲しそうに頭を振りながら、 裁判官のべップにこう言いました。しかしペップは何も言 「それはつまり自殺ですね。」 わずに金口の巻煙草に火をつけていました。すると今まで 「心いその河童を蛙だと言 0 たやつは殺すつもりで言 0 た跪いて、トックの創ロなどを調べていたチャックは如何 のですがね。あなたがたの目から見れば、やはりそれも自にも医者らしい態度をしたまま、僕等五人に宣言しました。 殺と云う : ( 実は一人と四匹とです。 ) 丁度マッグがこう云った時です。突然その部屋の壁の向「もう駄目です。 トック君は元来胃病でしたから、それだ うに、ーー確かに詩人のトックの家に鋭いビストルの音がけでも憂鬱になり易かったのです。」 「何か書いていたと言うことですが。」 一発、空気を反ね返えすように響き渡りました。 ゅううつ ただ そば

7. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

あ、かわらずよな とにしました。人通りの多い往来は爪相変毛生欅の並み木も、承知する気色さえ見せません。のみならず何か疑わし のかげにいろいろの店を並べています。僕等は何と云うこそうに僕等の顔を見比べながら、こんなことさえ言い出す ともなしに黙って歩いて行きました。するとそこへ通りかのです。 かったのは髪の長い詩人のトックです。トックは僕等の顔「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきっと ハンケチ ひたいぬぐ を見ると、腹の袋から手巾を出し、何度も額を拭いまし忘れずにいてくれ給え。 ではさようなら。チャックな まっぴらごめん こ 0 どは真平御免だ。」 たたす 「やあ、暫らく会わなかったね。僕はきようは久しぶりに僕等はぼんやり佇んだまま、トックの後ろ姿を見送って クラ・ハックを尋ねようと思うのだが、 いました。僕等は いや、「僕等」ではありません。学 けんか 僕はこの芸術家たちを喧嘩させては悪いと思い クラ・ハ生のラップはいつの間にか往来のまん中に脚をひろげ、し えんきよく まためがねのぞ ックの如何にも不機嫌だったことを婉曲にトックに話しまっきりない自動車や人通りを股目金に覗いているのです。 した。 僕はこの河童も発狂したかと思い、驚いてラップを引き起 「そうか。じややめにしよう。何しろクラ・ハックは神経衰しました。 じようだん 弱だからね。 : : : 僕もこの二三週間は眠られないのに弱っ「常談じゃない。何をしている ? 」 ているのだ。」 しかしラップは目をこすりながら、意外にも落ち着いて 「どうだね、僕等と一しょに散歩をしては ? 」 返事をしました。 ゅううつ さかさ 「いや、きようはやめにしよう。おや ! 」 「いえ、余り憂鬱ですから、逆まに世の中を眺めて見たの トックはこう叫ぶが早いか、しつかり僕の腕をみましです。けれどもやはり同じことですね。」 た。しかもいっか体中に冷や汗を流しているのです。 「どうしたのだ ? 」 あほう 「どうしたのです ? 」 これは哲学者のマッグの書いた「阿呆の言葉ーの中の何 「何あの自動車の窓の中から緑いろの猿が一匹首を出した章かです。 ように見えたのだよ。」 僕は多少心配になり、兎に角あの医者のチャックに診察阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている・ 、もら して貰うように勧めました。しかしトックは何と言って とかく

8. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

おす 「さあ、多分雄の河童を撼まえると云う意味にでもとったに暮らしていると云う意味ではありません。唯いろいろの ワ 1 けんか こっとう タナグラの人形やベルシアの陶器を部屋一ば のでしよう。そこへおふくろと仲悪い叔母も喧嘩の仲間入骨董を、 かがいすす りをしたのですから、愈大騒動になってしまいました。 いに並べた中にトルコ風の長椅子を据え、クラ・ハック自身 しかも年中酔っ払っているおやじはこの喧嘩を聞きつけるの肖像画の下にいつも子供たちと遊んでいるのです。が、 と、誰彼の差別なしに殴り出したのです。それだけでも始きようはどうしたのか両腕を胸へ組んだまま、苦い顔をし さいム 末のつかない所へ僕の弟はその間におふくろの財布を盗むて坐っていました。のみならずその又足もとには紙屑が一 が早いか、キネマか何かを見に行ってしまいました。僕は面に散らばっていました。ラップも詩人トックと一しょに ようす はず : ほんとうに僕はもう、 : : : 」 度たびクラ ' ハックには会っている筈です。しかしこの容子 ラップは両手に顔を埋め、何も言わずに泣いてしまいまに恐れたと見え、きようは丁寧にお時宜をしたなり、黙っ もちろん した。僕の同情したのは勿論です。同時に又家族制度に対て部屋の隅に腰をおろしました。 けいべっ する詩人のトックの軽蔑を思い出したのも勿論です。僕は「どうしたね ? クラ ' ハック君。」 たた ほとんあいさっ 僕は殆ど挨拶の代りにこう大音楽家へ問かけました。 ラップの肩を叩き、一生懸命に慰めました。 あほう 「そんなことはどこでもあり勝ちだよ。まあ勇気を出し給「どうするものか ? 批評家の阿呆め ! 僕の抒情詩はト ックの抒情詩と比べものにならないと言やがるんだ。」 く 4 りばし 「しかし : : : しかし嘴でも腐っていなければ、・ 「しかし君は音楽家だし、 「それはあきらめる外はないさ。さあ、トック君の家へで「それだけならば我慢も出来る。僕はロックに比べれば、 も行こう。」 音楽家の名に価しないと言やがるじゃないか ? 」 たび 「トックさんは僕を軽蔑しています。僕はトックさんのよ ロックと云うのはクラ・ハックと度たび比べられる音楽家 あいにく うに大胆に家族を捨てることが出来ませんから。」 です。が、生憎超人倶楽部の会員になっていない関係上、 「じやクラ ' ハック君の家へ行こう。」 僕は一度も話したことはありません。尤も嘴の反り上っ 僕はあの音楽会以来、クラ・ハックにも友だちになってい た、一癖あるらしい顔だけは度たび写真でも見かけていま ましたから、兎に角この大音楽家の家へラップをつれ出すした。 「ロックも天才には違いない。しかしロックの音楽は君の ことにしました。クラ・ハックはトックに比べれば、遙かに ぜいたく 贅沢に暮らしています。と云うのは資本家のゲエルのよう音楽に溢れている近代的情熱を持っていない。」 0 と かく なぐ はる たび ていねい ただ かみくず

9. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

四 5 河童 おうと けいれんもよお なればなり。 じ、全身に痙攣を催しつつ、嘔吐すること数回に及べり 夫人の語る所によれば、こは詩人トック君の強烈なる煙草会長ペック氏はこの時に当り、我等十七名の会員にこは また を愛したる結果、その心霊的空気も亦ニコティンを含有す心霊学協会の臨時調査会にして合評会にあらざるを注意し る為なりと云う。 もくぎ 問心霊諸君の生活は如何 ? 我等会員はホップ夫人と共に円卓を繞りて黙坐したり・ おちい きわ 夫人は三分一一十五秒の後、極めて急劇なる夢遊状態に陥答諸君の生活と異ること無し。 ひょうい 問然らば君は君自身の自殺せしを後悔するや ? り、且詩人トック君の心霊の憑依する所となれり。我等会 員は年齢順に従い、夫人に憑依せるトック君の心霊と左の答必しも後悔せず。予は心霊的生活に倦まば、更にビ ストルを取りて自活すべし。 如き問答を開始したり。 いな 問自活するは容易なりや否や ? 君は何故に幽霊に出ずるか ? もっ トック君の心霊はこの問に答うるに更に問を以てした 答死後の名声を知らんが為なり。 すこぶ おうしゅう なお ほっ り。こはトック君を知れるものには頗る自然なる応酬なる 君・ー・・鵡に心霊諸君は死後も尚名声を欲するや ? あた かいこう 答少くとも予は欲せざる能わず。然れども予の邂逅しべし。 けいべっ 答自殺するは容易なりや否や ? たる日本の一詩人の如きは死後の名声を軽蔑し居たり。 問諸君の生命は永遠なりや ? 問君はその詩人の姓名を知れりや ? ムんん ただ 答予は不幸にも忘れたり。唯彼の好んで作れる十七字答我等の生命に関しては諸説紛々として信ず・ヘから キリスト ず。幸いに我等の間にも基督教、仏教、モハメット教、拝 詩の一章を記憶するのみ。 いかん 火教等の諸宗あることを忘るる勿れ。 問その詩は如何 ? かわず 問君自身の信ずる所は ? 答「古池や蛙飛びこむ水の音 かさく 答予は常に懐疑主義者なり。 君はその詩を佳作なりと做すや ? 然れども君は少くとも心霊の存在を疑わざるべし ? 答予は必しも悪作なりと做さず。唯「蛙」を「河童ー 答諸君の如く確信する能わず。 とせん乎、更に光彩陸離たる・ヘし。 問君の交友の多少は如何 ? 問然らばその理由は如何 ? わた 答我等河童は何なる芸術にも河童を求むること痛切答予の交友は古今東西に亙り、三百人を下らざるべ 0 と なにゆえ しか たばこ

10. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

クは詩稿を握ったまま、誰にともなしに呼びかけました。 「しめた ! すばらしい葬送曲が出来るぞ。」 かが 十四 クラ・ハックは細い目を赫やかせたまま、ちょっとマッグ もらろん の手を握ると、いきなり戸口へ飛んで行きました。勿論も僕に宗教と云うものを思い出させたのはこう云うマッグ もらろん うこの時には隣近所の河童が大勢、トックの家の戸口に集の言葉です。僕は勿論物質主義者ですから、真面目に宗教 のぞ まり、珍らしそうに家の中を覗いているのです。しかしクを考えたことは一度もなかったのに違いありません。が、 しやにむに ラ・ハックはこの河童たちを遮一一無二左右へ押しのけるが早この時はトックの死に或感動を受けていた為に一体河童の さっそく いか、ひらりと自動車へ飛び乗りました。同時に又自動車宗教は何であるかと考え出したのです。僕は早速学生のラ たちま ップにこの問題を尋ねて見ました。 は爆音を立てて忽ちどこかへ行ってしまいました。 「それは基督教、仏教、モハメット教、拝火教なども行わ 「こら、こら、そう覗いてはいかん。」 裁判官のペップは巡査の代りに大勢の河童を押し出したれています。まず一番勢力のあるものは何と言っても近代 のら 後、トックの家の戸をしめてしまいました。部屋の中はそ教でしよう。生活教とも言いますがね。」 ( 「生活教ーと云 のせいか急にひっそりなったものです。僕等はこう云う静う訳語は当っていないかも知れません。この原語は Que ・ イギリス かさの中にーーー高山植物の花の香に交ったトックの血の匀 moocha です。 cha は英吉利語の ism と云う意味に当る の中に後始末のことなどを相談しました。しかしあの哲学でしよう。 quemoo の原形 quemal の訳は単に「生きる」 おこな 者のマッグだけはトックの死骸を眺めたまま、ぼんやり何と云うよりも「飯を食ったり、酒を飲んだり、交合を行っ たた たり」する意味ですじ か考えています。僕はマッグの肩を叩き、「何を考えてい るのです ? ーと尋ねました。 「じゃこの国にも教会だの寺院だのはある訣なのだね ? 」 じようだん 「河童の生活と云うものをね。」 「常談を言ってはいけません。近代教の大寺院などはこの 国第一の大建築ですよ。どうです、ちょっと見物に行って 「河童の生活がどうなるのです ? 」 まっと 「我々河童は何と云っても、河童の生活を完うする為には ? 」 とくと′、 なまあたたか 或生温い曇天の午後、ラップは得々と僕と一しょにこ なるほど はずか マッグは多少羞しそうにこう小声でつけ加えました・ の大寺院へ出かけました。成程それはニコライ堂の十倍も 「兎に角我々河童以外の何ものかの力を信ずることですある大建築です。のみならずあらゆる建築様式を一つに組 かく におい 0 キリスト どんてん わけ