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検索対象: 現代日本の文学11:芥川龍之介 集
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1. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

なかんずく の小遣いを捲き上げようとした。就中彼に甘かった老年の感じている。この貧困と闘わなければならぬ Petty Bour ・ もらろん 母に媚びようとした。勿論彼には彼自身の嘘も両親の嘘の geois の道徳的恐怖を。 こうかっ ように不快だった。しかし彼はをついた。大胆に狡猾に嘘丁度大学を卒業した秋、信輔は法科に在学中の或友だち からかみ をついた。それは彼には何よりも先に必要だったのに違いを訪問した。彼等は壁も唐紙も古びた八畳の座敷に話して うしろ いた。その後へ顔を出したのは六十前後の老人だった。信 なかった。が、同時に又病的な愉快を、ーーー何か神を殺すの アルコオル中毒の老人の顔に退 に似た愉快を与えたのにも違いなかった。彼は確かにこの輔はこの老人の顔に、 みずかあぎむ 点だけは不良少年に接近していた。彼の「自ら欺かざるの職官吏を直覚した・ 「僕の父。」 記」はその最後の一枚にこう言う数行を残している。 「独歩は恋を恋すと言えり。予は憎悪を憎悪せんとす。貧彼の友だちは簡単にこうその老人を紹介した。老人は寧 きょ ごうぜん 困に対する、虚偽に対する、あらゆる憎悪を憎悪せんとろ傲然と信輔の挨拶を聞き流した。それから奥へはいる前 に、「どうそ御ゆっくり。あすこに椅子もありますから」 らゆうじよう ひじ これは信輔の衷情だった。彼はいっか貧困に対する憎と言った。成程一一脚の肘かけ椅子は黒ずんだ縁側に並んで 悪そのものをも憎んでいた。こう言う一一重に輪を描いた憎 いた。が、それ等は腰の高い、赤いクッションの色の褪め 悪は一一十前の彼を苦しめつづけた。い多少の幸福は彼にた半世紀前の古椅子だ 0 た。信輔はこの二脚の椅子に全中 も全然ないではなかった。彼は試験の度ごとに三番か四流下層階級を感じた。同時に又彼の友だちも彼のように父 番の成績を占めた。又或下級の美少年は求めずとも彼に愛を恥じているのを感じた。こう言う小事件も彼の記憶に苦 どんてんも を示した。しかしそれ等も信輔には曇天を洩れる日の光だしいほどはっきりと残っている。思想は今後も彼の心に雑 った。憎悪はどう言う感情よりも彼の心を圧していた。の多の陰影を与えるかも知れない。しかし彼は何よりも先に こんせ、 みならずいっか彼の心へ消し難い痕跡を残していた。彼は退職官吏の息子だった。下層階級の貧困よりもより虚偽に 貧困を脱した後も、貧困を憎まずにはいられなかった。同甘んじなければならぬ中流下層階級の貧困の生んだ人間だ ごうしゃ 時に又貧困と同じように豪奢をも憎まずにはいられなかっ た。豪奢をも、 この豪奢に対する憎悪は中流下層階級 ある、 ・り ~ 、いん 四学校 の貧困の与える烙印だった。或に中流下層階級の貧困だけ 学校も亦信輔には薄暗い記はかり残している。彼は大 の与える烙印だった。彼は今日も彼自身の中にこの憎悪を ごうしゃ たび また あいさっ むし

2. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

おうじよ ) かす いわん 一つ食った為に知れ切った往生を遂げたりするのは食慾もたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであろう。況 あ 死よりは強い証拠である。食慾の外にも数え挙げれば、愛や針の山や血の池などは一一三年共処に住み慣れさえすれば ばっしよう はず 国心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名格別跋渉の苦しみを感じないようになってしまう筈であ 誉心とか、犯罪的本能とかーーまだ死よりも強いものは沢る。 山あるのに相違ない。つまりあらゆる情熱は死よりも強い 醜聞 ものなのであろう。 ( 勿論死に対する情熱は例外である。 ) しゅうぶん * びやくれんじけん * 且っ又恋はそう云うもののうちでも、特に死よりも強いか 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件、有島事件、 うかっ どうか、迂濶に断言は出来ないらしい。一見、死よりも強武者小路事件 , ーー公衆は如何にこれらの事件に無上の満足 い恋と見做され易い場合さえ、実は我々を支配しているのを見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞をーー殊に世間 いわゆる * は仏蘭西人の所謂ポヴァリスムである。我々自身を伝奇のに名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう ? グルモ 中の恋人のように空想するポヴァリィ夫人以来の感傷主義ンはこれに答えている。 である。 「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるか あた 地獄 グルモンの答は中っている。が、必ずしもそればかりで はない。醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは きようだ 一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみ聞の中に彼等の怯懦を弁解する好個の武器を見出すのであ は目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいでる。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好 葉ある。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純個の台石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美 言ではない。 目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることも人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わた の あると同時に、又存外楽々と食い得ることもあるのであしは有島氏ほどネ子ではない。しかし有島氏よりも世間 らようカ′ル 公衆 侏る。のみならず楽々と食い得た後さえ、腸加太児の起るこを知 0 ている。」「わたしは武者小路氏ほど : : : 」 は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろ ともあると同時に、又存外楽々と消化し得ることもあるの である。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにもう。 容易に出来るものではない。もし地獄に堕ちたとすれば、わ ッラソス 0 とっさ こと

3. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

技場の土にまみれている。見給え、世界の名選手さえ大抵の記憶にも残っているであろう。 わたしの夢みている地上楽園はそう云う天然の温室では は得意の微笑のかげに渋面を隠しているではないか ? か 人生は狂人の主催に成ったオリムビック大会に似たものない。同時に又そう云う学校を兼ねた食糧や衣服の配給所 ただここ である。我々は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばでもない。唯此処に住んでいれば、両親は子供の成人と共 ふんがい ねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じに必ず息を引取るのである。それから男女の兄弟はたとい また ららがい 得ないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確悪人に生まれるにもしろ、莫迦には決して生まれない結 とど べんばう かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたい果、少しも迷惑をかけ合わないのである。それから女は妻 と思うものは鸙を恐れずに闘わなければならぬ。 となるやや、家畜の魂を宿す為に従順そのものに変るの である。それから子供は男女を問わす、両親の意志や感情 通りに、一日のうちに何回でも聾と唖と腰ぬけと盲目とに 人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫なることが出来るのである。それから甲の友人は乙の友人 迦しい。重大に扱わなければ危険である。 よりも貧乏にならず、同時に又乙の友人は甲の友人よりも 金持ちにならず、互いに相手を褒め合うことに無上の満足 を感ずるのである。それからーーざっとこう云う処を思え ・り ~ 、らよう 人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称しば好い。 がた 難い。しかし兎に角一部を成している。 これは何もわたし一人の地上楽園たるばかりではない。 同時に又天下に充満した善男善女の地上楽園である。唯古 こんじ、めいそう 地上楽園 来の詩人や学者はその金色の瞑想の中にこう云う光景を夢 しましばしいか こ、つ 地上楽園の光景は、軈詩歌にもうたわれている。が、わみなかった。夢みなかったのは別に不思議ではない。 あム たしはまだ残念ながら、そう云う詩人の地上楽園に住みた云う光景は夢みるにさえ、余りに真実の幸福に溢れすぎて ひっよう キリスト いるからである。 いと思った覚えはない。基督教徒の地上楽園は畢竟退屈な しようぞうが こうろろ・ るパノラマである。黄老の学者の地上楽園もつまりは索漠附記わたしの甥はレム・フラントの肖像画を買うことを とした支那料理屋に過ぎない。んや近代のユウトビアな夢みている。しかし彼の小遣いを十円貰うことは夢みてい せんりつ どはーーウイルャム・ジェエムスの戦慄したことは何びとない。これも十円の小遣いは余りに真実の幸福に溢れすぎ とかく ばかばか よ たいてい つんばおし ところ

4. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

218 なさい。」 鼠色の眼の中にあらゆるクリスマスの美しさを感じた。少 少女はやっと宣教師の顔へみずみずしい黒眼勝ちの眼を女はーー少女もやっと宣教師の笑い出した理由に気のつい 注 - い 320 たのであろう、今は多少拗ねたようにわざと足などをぶら つかせている。 「きようはあたしのお誕生日。」 保吉は思わず少女を見つめた。少女はもう大真面目に編「あなたはきっと賢い奥さんにーーー優しいお母さんにおな み棒の先へ目をやっていた。しかしその顔はどう云うものりなさるでしよう。ではお嬢さん、さようなら。わたしの か、前に思ったほど生意気ではない。い や、寧ろ可愛い中降りる所へ来ましたから。では らえ へんしよう にも智慧の光りの遍照した、幼いマリアにも劣らぬ顔であ宣教師は又前のように一同の顔を見渡した。自働車は丁 おわりちょうつじ る。保吉はいっか彼自身の微笑しているのを発見した。 度人通りの烈しい尾張町の辻に止まっている。 「きようはあなたのお誕生日ー」 「では皆さん、さようなら。」 宣教師は突然笑い出した。この仏蘭西人の笑う様子は丁数時間の後、保吉はやはり尾張町の或・ ( ラックのカフェ とぎばなし 度人の好いお伽囃の中の大男か何かの笑うようである。少の隅にこの小事件を思い出した。あの肥った宣教師はもう 女は今度はけげんそうに宣教師の顔へ目を挙げた。これは電燈もともり出した今頃、何をしていることであろう ? 少女ばかりではない。鼻の先にいる保吉を始め、両側の男クリストと誕生日を共にした少女は夕飯の膳についた父や たいてい ただ また 女の乗客は大抵宣教師へ目をあつめた。唯彼等の目にある母にけさの出来事を話しているかも知れない。保吉も亦一一 しやばく ものは疑惑でもなければ好奇心でもない。、・ しすれも宣教師十年前には娑婆苦を知らぬ少女のように、に罪のない問 こうしよう ほほえ の哄笑の意味をはっきり理解した頬笑みである。 答の前に娑婆苦を忘却した宣教師のように小さい幸福を所 だいとくいん ぶどうもら 「お嬢さん。あなたは好い日にお生まれなさいましたね。有していた。大徳院の縁日に葡萄餅を買ったのもその頃 にしゅうろう きようはこの上もないお誕生日です。世界中のお祝いするであゑ二州楼の大広間に活動写真を見たのもその頃であ お誕生日です。あなたは今に、 あなたの大人になったる。 時にはですね、あなたはきっと : : : 」 「本所深川はまだ灰の山ですな。」 宣教師は言葉につかえたまま、自働車の中を見廻した。 「へええ、そうですかねえ。時に吉原はどうしたんでしょ 同時に保吉と眼を合わせた。宣教師の眼はパンス・ネ工のう ? 」 奥に笑い涙をかがやかせている。保吉はその幸福に満ちた「吉原はどうしましたか、ーー浅草にはこの頃お姫様の プランス むし まじめ ねすみ のち

5. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

に尽きているかも知れない。 希臘人 ムくしゅう 復讐の神をジ、ビタアの上に置いた希臘人よ。君たちは つく つかさど 遺伝、境遇、偶然、ーー我々の運命を司るものは畢竟何もも知り悉していた。 よ この三者である。自ら喜ぶものは喜んでも善い。しかし他 うんぬん を云々するのは僣越である。 しかしこれは同時に又姆何に我々人間の進歩の遅いかと 嘲けるもの 云うことを示すものである。 あざけ 他を嘲るものは同時に又他に嘲られることを恐れるもの 聖書 である。 一人の知慧は民族の知慧に若かない。唯もう少し簡潔で 或日本人の言葉 あれば。・ 我にスウィッルを与えよ。体らずんば言論の自由を与え 或孝行者 もちろんあいぶ 彼は彼の母に孝行した。勿論愛撫や接吻が未亡人だった 人間的な、余りに人間的な 彼の母を性的に慰めるのを承知しながら。 人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的で 或悪魔主義者 ある。 彼は悪魔主義の詩人だった。が、勿論実生活の上では安 或才子 の 全地帯の外に出ることはたった一度だけで懲り懲りしてし あほう 侏彼は悪党になることは出来ても、阿呆になることは出来まった。 ないと信じていた。が、何年かたって見ると、少しも悪党 ただ 或自殺者 になれなかったばかりか、いつも唯阿呆に終始していた。 彼は或瑣末なことの為に自殺しようと決心した。が、そ みずか せんえっ し たいてい さまっ し ギリシャ せつん こ

6. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

内供は懾てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜 の短い鼻ではない。上脣の上から顋の下まで、五六寸あ まりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一 夜の中に、又元の通り長くなったのを知った。そうしてそ れと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれし た心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。 わら こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいな 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋 風にぶらっかせながら。 ささや

7. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

我々の自然を愛するのは自然は我々を憎んだり嫉妬した 自己を弁護することは他人を弁護することよりも困難で りしない為もないことはない。 ある。疑うものは弁護士を見よ。 かしこ 、ようか 最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもそ矜誇、愛慾、疑惑ーーあらゆる罪は三千年来、この三者 の又習慣を少しも破らないように暮らすことである。 から発している。同時に又恐らくはあらゆる徳も。 もたら かならず 我々の最も誇りたいものは我々の持っていないものだけ物質的欲望を減ずることは必しも平和を齎さない。我 である。 我は平和を得る為には精神的欲望も減じなければならぬ。 ( クラ・ハックはこの章の上にも爪の痕を残していました。 ) 何びとも偶像を破壊することに異存を持っているものは ない。同時に又何びとも偶像になることに異存を持ってい 我々は人間よりも不幸である。人間は河童ほど進化して いない。 ( 僕はこの章を読んだ時思わず笑ってしまいまし るものはない。しかし偶像の台座の上に安んじて坐ってい あほう られるものは最も神々に恵まれたもの、 阿呆か、悪人たじ あと か、英雄かである。 ( クラ・ハックはこの章の上へ爪の痕を つけていましたじ 成すことは成し得ることであり、成し得ることは成すこ ひっきよう とである。畢竟我々の生活はこう云う循環論法を脱するこ 即ち不合理に終始している。 我々の生活に必要な思想は三千年前に尽きたかも知れなとは出来ない。 たきぎ ただ 。我々は唯古い薪に新らしい炎を加えるだけであろう。 ポオドレエルは白痴になった後、彼の人生観をたった一 童 我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としてい に、 女陰の一語に表白した。しかし彼自身を語るも むし のは必しもこう言ったことではない。寧ろ彼の天才に、 河 彼の生活を維持するに足る詩的天才に信頼した為に胃袋の ? 一語を忘れたことである。 ( この章にもやはりクラ・ハック 幸福は苦痛を伴い、平和は倦怠を伴うとすれば、 の爪の痕は残っていました。 ) る。 けんたい けいべっ しっと のち

8. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

ダを感じていたかも知れない。しかしユダは不幸にもクリ ストのアイロニイを理解しなかった。 後代はいっかユダの上にも悪の円光を輝かせている。し ビラト かしユダは必しも十一一人の弟子たちの中でも特に悪かった みたび ・ヒラトはクリストの一生には唯偶然に現れたものであ 訣ではない。べテロさえ庭鳥の声を挙げる前に三度クリス トを知らないと言っている。ユダのクリストを売ったのはる。彼は畢に代名詞に過ぎない。後代も亦この官吏に伝説 やはり今日の政治家たちの彼等の首領を売るのと同じこと的色彩を与えている。しかしアナトオル・フランスだけは あざむ また だったであろう。 ( ビニも亦ユダのクリストを売ったのをこう云う色彩に欺かれなかった。 なぞ 大きい謎に数えている。が、クリストは明らかに誰にでも クリストより、も、、ハラ、、ハを 売られる危機に立っていた。祭司の長たちはユダの外にも ただ はず クリストよりもラ・ハをーーーそれは今日でも同じことで 何人かのユダを数えていた筈である。唯ユダはこの道具に はんぎやく もちろん なるいろいろの条件を具えていた。勿論それ等の条件の外ある。。 ( ラ・ハは叛逆を企てたであろう。同時に又人々を殺 に偶然も加わっていたことであろう。後代はクリストをしたであろう。しかし彼等はおのずから彼の所業を理解し たと 「神の子」にした。それは又同時にユダ自身の中に悪魔をている。ニイチェは後代の・ ( ラ・ ( たちを街頭の犬に比えた りした。彼等は勿論・ハラ・ハの所業に憎しみや怒りを感じて 発見することになったのである。しかしユダはクリストを のちはくよう いたであろう。が、クリストの所業には、 恐らくは何 売った後、白楊の木に死してしまった。彼のクリストの 弟子だったことは、ーーー神の声を聞いたものだったことはも感じなかったであろう。若し何か感じていたとすれば、 或はそこにも見られるかも知れない。ユダは誰よりも彼自それは彼等の社会的に感じなければならぬと思ったもので どれい かか たくま 人 ーーー肉体だけ逞しい兵卒 身を憎んだ。十字架に懸ったクリストも勿論彼を苦しませある。彼等の精神的奴隷たちは、 いばらかんむり の たであろう。しかし彼を利用した祭司の長たちの冷笑もやたちはクリストに荊の冠をかむらせ、紫のをまとわせ いどお た上、「ユダヤの王安かれ」と叫んだりした。クリストの 西はり彼を憤らせたであろう。 「お前のしたいことをはたすが善い。」 悲劇はこう云う喜劇のただ中にあるだけに見じめである。 けいべつれんびん こう云うユダに対するクリストの言葉は軽蔑と憐憫とにクリストは正に精神的にユダヤの王だったのに違いない。 溢れている。「人の子」クリストは彼自身の中にも或はユが、天才を信じない大たちは いや、天才を発見すること わけ あム にわとり おさ

9. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

「取材旅行を装って」と書いたが、それに類した出来 事が、翌大正九年にある。この本の年譜にも、この年 六月に、槍ケ嶽に旅行となっているかどうもこれが あやしい この槍ケ嶽旅行の模様は、同年七月号の「改造」に 「槍ケ嶽紀行」として述べられている。が、これを芥 川が明治四十四年頃に書いた「槍ケ嶽に登っこ己 ナ・一三ロ」 比べてみると、そのあやしさがわかってくる。 というのは、彼が一高時代に登った槍ケ嶽の眺めが 二十八歳の芥川の眼に懐しくは映っていないからであ たとえば、「槍ケ嶽に登った記」で 「此処が赤沢です」と云う声を聞くと同時にや れやれ助ったと云う気になった。そうして首を上げ て、今迄自分たちの通っていたのが、繁った雑木の 林だったと云う事を意識した。 とあるが , 不 、「倉ケ嶽紀行」では、 案内者は私を顧みながら、 「此処が赤沢です」と云った。 とりうちばう 私は鳥打帽を阿弥陀にして、眼の前にひらけた光 る。 あみ かえり

10. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

いたずら 「それ見たことか ! 」 等の為に逆説的な悪戯を忘れなかった。 彼等の言葉はイエルサレムからニウョウクや東京へも伝 かんらん 貧しい人たちに わっている。イエルサレムを囲んだ橄欖の山々を最も散文 的に飛び超えながら。 クリストのジャアナリズムは貧しい人たちゃ奴隷を慰め もちろん ることになった。それは勿論天国などに行こうと思わない つごうよ 幻文化的なクリスト 貴族や金持ちに都合の善かった為もあるであろう。しかし クリストの弟子たちに理解されなかったのは彼の余りに彼の天才は彼等を動かさずにはいなかったのである。い 文化人だった為である。 ( 彼の天才を別にしても。 ) 彼等はや、彼等ばかりではない。我々も彼のジャアナリズムの中 せ、 たた 大体は少くとも彼に奇蹟を求めていた。哲学の盛んだったに何か美しいものを見出している。何度叩いても開かれな * まかだこく また 摩伽陀国の王子はクリストよりも奇蹟を行わなかった。そ し門のあることは我々も亦知らないわけではない。狭い尸 むし れはクリストの罪よりも寧ろユダヤの罪である。彼はロオ からはいることもやはり我々には必しも幸福ではないこと ゆず マの詩人たちにも遜らない第一流のジャアナリストだつを示している。しかし彼のジャアナリズムはいつも無花果 た。同時に又彼の愛国的精神さえ撼 0 て顧みない文化人だのように甘みを持 0 ている。彼は実にイスラ = ルの民の生 しる った。 ( マコはクリスト伝第七章一一五以下にこの事実を記んだ、古今に珍らしいジャアナリストだった。同時に又我 けごろも らくだ している。 ) ・ハ。フテズマのヨ ( ネは彼の前には駱駝の毛衣我人間の生んだ、古今に珍らしい天才だった。「予言者」 あらわ いなごのみつ や蝗や野蜜に野人の面目を露している。クリストはヨハネは彼以後には流行していない。しかし彼の一生はいつも我 ただ の言ったように洗礼に唯聖霊を用いていた。のみならず彼我を動かすであろう。彼は十字架にかかる為に、 の洗礼 ( ? ) を受けたのは十一一人の弟子たちの外にも売笑アナリズム至上主義を推し立てる為にあらゆるものを犠牲 みつぎとりつみびと えんきよく 婦や税吏や罪人だった。我々はこう云う事実にもおのずか にした。ゲエテは婉曲にクリストに対する彼の軽蔑を示し やわらか しっと ら彼に柔い心臓のあったのを見出すであろう。彼は又彼ている。丁度後代のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬し おこな たび の行った奇蹟の中に度たび細かい神経を示している。文化ているように。 我々はエマオの旅びとたちのように我 的なクリストは十字架の上に最も野蛮な死を遂げるように我の心を燃え上らせるクリストを求めずにはいられないの なった。しかし野蛮な・ハプテズマのヨハネは文化的なサロであろう。 メの為に盆の上に頭をのせられている。運命はここにも彼 たみ