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検索対象: 現代日本の文学11:芥川龍之介 集
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1. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

億の間違いに過ぎないのか、どちらとも私にはわかりませ ん。まさか先生が張氏の家へ、秋山図を見に行かれた事 まほろし が、全体幻でもありますまいし、 えんかく うら 「しかし煙客先生の心の中には、その怪しい秋山図が、は つきり残っているのでしよう・それからあなたの心の中に きんせき 「山石の青緑だの紅葉の侏の色だのは、今でもありあり見 えるようです。」 「では秋山図がないにしても、憾む所はないではありませ んか ? たなごころう 王の両大家は、掌を拊って一笑した。 うんおう しゅ

2. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

え、あろうとは思われ申さぬ。道理かな、肩を並べた奉教したが、当の「ろおれんそ」は、娘の「こひさん」を聞 わずか たびうなず 人衆は、天を焦がす猛火も忘れて、息さえっかぬように声きながらも、僅に一一三度頷いて見せたばかり、髪は焼け肌 を呑んだ。 は焦げて、手も足も動かぬ上に、ロをきこう気色さえも今 わらわ 娘が涙をおさめて、申し次いだは、「妾は日頃「ろおれは全く尽きたげでござる。娘の「こひさん」に胸を破った けんご うずくま んぞ」様を恋い慕うて居ったなれど、御信心の堅固さから翁と「しめおん」とは、その枕がみに蹲って、何かと介 あまりにつれなくもてなされる故、つい怨む心も出て、腹抱を致いて居ったが、「ろおれんそ」の息は、刻々に短う さいご の子を「ろおれんそ」様の種と申し偽り、妾につらかったなって、最期ももはや遠くはあるまじい。唯、日頃と変ら はるか 口惜しさを思い知らそうと致いたのでおじゃる。なれどぬのは、遙に天上を仰いで居る、星のような瞳の色ばかり みこころけだか 「ろおれんぞ」様の御心の気高さは、妾が大罪をも憎ませじゃ。 やがて娘の「こひさん」に耳をすまされた伴天連は、吹 給わいで、今宵は御身の危さをもうち忘れ、「いんへるの」 しら すさ かたじけな ( 地獄 ) にもまごう火烙の中から、妾娘の一命を辱くもき荒ぶ夜風に白ひげをなびかせながら、「さんた・るちゃ」 かどうしろ 救わせ給うた。その御憐み、御計らい、まことに御主「ぜの門を後にして、おごそかに申されたは「悔い改むるもの す・ぎりしと」の再来かともおがまれ申す。さるにても妾は、幸じゃ。何しにその幸なものを、人間の手に罰しよう いましめ じゅうじゅう 0 くあく たちまち ますま が重々の極悪を思えば、この五体は忽「じゃぽ」の爪にぞ。これより益「でうす」の御戒を身にしめて、心静 すんずん まつご さばき かかって、寸々に裂かれようとも、中々怨む所はおじゃるに末期の御裁判の日を待ったがよい。又「ろおれんぞ」が ぎようぎ まい。」娘は「こひさん」を致いも果てず、大地に身を投わが身の行儀を、御主「・せす・きりしと」とひとしくし奉 たぐい げて泣き伏した。 ろうず志は、この国の奉教人衆の中にあっても、類稀なる徳 ムたえみえ じゅん 」ああ、これは 二重三重に群った奉教人衆の間から、「まるちり」 ( 殉行でござる。別して少年の身とは云い 、よう 死教 ) じゃ、「まるちり」じゃと云う声が、波のように起っ又何とした事でござろうぞ。ここまで申された伴天連は、 ちょうど つぐ 人たのは、丁度この時の事でござる。殊勝にも「ろおれんにはたと口を噤んで、あたかも「はらいそ」の光を望ん 奉そ」は、罪人を憐む心から、御主「ぜす・きりしと」の御だように、じっと足もとの「ろおれんぞ」の姿を見守られ 行跡を踏んで、乞食にまで身を落いた。して父と仰ぐ伴天た。その恭しげな容子はどうじゃ。その両の手のふるえ よのつね 連も、兄とたのむ「しめおん」も、皆その心を知らなんざまも、尋常の事ではござるまい。おう、伴天連のからび だ。これが「まるちり」でのうて、何でござろう・ た頬の上には、とめどなく涙が溢れ流れるそよ。 ( とわり さいわい けしき

3. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

上龍之介の心をとらえた松江城 ( 千鳥城 ) の天守閣 ( 「松江 印象記」 ) 下松江月照寺境内にある蓮池 ( 「松江印象記」 )

4. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

意識的には敵とし、怪物とし、犬となすものにもいっか帽 子を脱いでいるものである。或作家を罵る文章の中にもそ わずら 単に世間に処するだけならば、情熱の不足などは患わずの作家の作った言葉の出るのは必ずしも偶然ではないかも よ とも好い。それよりも寧ろ危険なのは明らかに冷淡さの不知れない。 足である。 幼児 恆産 我々は一体何の為に幼い子供を愛するのか ? その理由 * こうさん こうしん あざむ 恆産のないものに恆心のなかったのは二千年ばかり昔のの一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為 ことである。今日では恆産のあるものは寧ろ恆心のないもである。 のらしい おおやけ 彼等 我々の恬然と我々の愚を公にすることを恥じないのは あいいだ ある、 わたしは実は彼等夫婦の恋愛もなしに相抱いて暮らして幼い子供に対する時か、ーー・或心、犬猫に対する時だけで いることに驚嘆していた。が、彼等はどう云う訣か、恋人ある。 同志の相抱いて死んでしまったことに驚嘆している。 池大雅 のん、 そのしつぎよくらん 作家所生の言葉 「大雅は余程呑気な人で、世情に疎かった事は、其室玉瀾 「振 0 ている」「高等遊民」「」「月並み」等の言葉を迎えた時に夫婦の交りを知らなか 0 たと云うので曜其人 言の文壇に行われるようになったのは夏目先生から始まって物が察せられる。」 しよせい のいる。こう言う作家所生の言葉は夏目先生以後にもない訣「大雅が妻を迎えて夫婦の道を知らなかったと言う様な話 びくしようつよ、よわき 侏ではない。久米正雄君所生の「微苦笑」「強気弱気」なども、人間離れがしていて面白いと云えば、面白いと云える はその最たるものであろう。なお又「等、等、等ーと書いが、丸で常識のない愚かな事だと云えば、そうも云えるだ たりするのも宇野浩一一君所生のものである。我々は常に意ろう。」 識して帽子を脱いでいるものではない。のみならず時には こう言う伝説を信する人はここに引いた文章の示すよう むし たいが てんぜん ののし

5. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

120 の ど 0 と しんと ) 呼吸は、一息毎に細くなっ数さえ次第に減じて行く。 も、眼底を払って去った如く、脣頭にかすかな笑を浮・ヘ うやうや 喉も、もう今では動かない。うす痘痕の浮んでいる、どこて、恭しく臨終の芭蕉に礼拝した。 ろう あ だいそうしようばしようあんまつお か蝋のような小さい顔、遙な空間を見据えている、光の褪こうして、古今に倫を絶した俳諧の大宗匠、芭蕉庵松尾 おとがい 、ろ・せい ひたん ままこうせん せた瞳の色、そうして頤にのびている、銀のような白い桃青は、「悲歎かぎりなきー門弟たちに囲まれた儘、溘然 * しよくこうつ 鬚ーーそれが皆人情の冷さに凍てついて、やがて赴くべきとして属纊に就いたのである。 じゃっこうど 寂光土を、じっと夢みているように思われる。するとこの きょ・りい じようそう 時、去来の後の席に、黙然と頭を垂れていた丈艸は、あの 老実な禅客の丈艸は、芭蕉の呼吸のかすかになるのに従っ て、限りない悲しみと、そうして又限りない安らかな心も おもむろ ちとが、徐に心の中へ流れこんで来るのを感じ出した。 悲しみは元より説明を費すまでもない。が、その安らかな あたか やみ 心もちは、恰も明方の寒い光が次第に暗の中にひろがるよ うな、不思議に朗な心もちである。しかもそれは刻々に、あ ごう らゆる雑念を溺らし去って、果ては涙そのものさえも、毫 も心を刺す痛みのない、清らかな悲しみに化してしまう。 じようじゅうねはん 彼は師匠の魂が虚夢の生死を超越して、常住涅槃の宝土 かえ に還ったのを喜んででもいるのであろうか。いや、これは 彼自身にも、肯定の出来ない理由であった。それならば おのれ あえ いたずらしそしゅんじゅん ああ、誰か徒に踏阻逡巡して、己を欺くの愚を敢てし よう。丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的 むな 圧力の桎梏に、空しく屈していた彼の自由な精神が、その もっ ようや 本来の力を以て、漸く手足を伸ばそうとする、解放の喜び だったのである。彼はこの恍惚たる悲しい喜びの中に、菩 ねんじゅ 提樹の念珠をつまぐりながら、周囲にすすりなく門弟たち しつこく うしろ こうこっ りん えみ

6. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

116 はれよ , じ ゅのみ もくせつ 羽根楊子へ湯呑の水をひたしながら、厚い膝をにじらせ其角に次いで羽根楊子をとり上げたのは、さっき木節が て、そっと今はの師匠の顔をのぞきこんだ。実を云うと彼相図をした時から、既に心の落着きを失っていたらしい去 こんじようわかれ きようけん は、こうなるまでに、師匠と今生の別をつげると云う事来である。日頃から恭謙の名を得ていた彼は、一同に軽く よこた は、さそ悲しいものであろう位な、予測めいた考もなかっ会釈をして、芭蕉の枕もとへすりよったが、そこに横わっ いよいよまつご ある た訳ではない。・ : カこうして愈末期の水をとって見ると、 ている老俳諧師の病みほうけた顔を眺めると、或満足と悔 あじわ 自分の実際の心もちは全然その芝居めいた予測を裏切っ恨との不思議に錯雑した心もちを、嫌でも味わなければな ひなた て、如何にも冷淡に澄みわたっている。のみならず、更にらなかった。しかもその満足と悔恨とは、まるで陰と日向 いんねん 其角が意外だった事には、文字通り骨と皮ばかりに痩せ衰のように、離れられない因縁を背負って、実はこの四五日 ほとんどおもてそむ そうらん えた、致死期の師匠の不気味な姿は、殆面を背けずにはい 以前から、絶えず小心な彼の気分を掻乱していたのであ けんお られなかった程、烈しい嫌悪の情を彼に起させた。いや、 る。と云うのは、師匠の重病だと云う知らせを聞くや否 単に烈しいと云ったのでは、まだ十分な表現ではない。そや、すぐに伏見から船に乗って、深夜にもかまわず、この あたか たた れは恰も目に見えない毒物のように、生理的な作用さえも花屋の門を叩いて以来、彼は師匠の看病を一日も怠ったと しどう しゅうせん 云う事はない。その上之道に頼みこんで手伝いの周旋を引 及・ほして来る、最も椹え難い種類の嫌悪であった。彼はこ ほんぶく の時、偶然な契機によって、醜き一切に対する反感を師匠き受けさせるやら、住吉大明神へ人を立てて病気本復を祈 びようく ある、 はなやにざえもん の病嫗の上に洩らしたのであろうか。或に又「生 , の享楽らせるやら、或は又花屋仁左衛門に相談して調度類の買入 家たる彼にとって、そこに象徴された「死 , の事実が、これをして貰うやら、殆彼一人が車輪になって、万事万端の のろべ もらろん の上もなく呪う可き自然の威嚇だったのであろうか。 世話を焼いた。それは勿論去来自身進んで事に当ったの と かくすいし 兎に角、垂死の芭蕉の顔に、云いようのない不快を感じたで、誰に恩を着せようと云う気も、皆無だった事は事実で ほ A 」・ルド」 くちびる 其角は、殆何の悲しみもなく、その紫がかったうすい脣ある。が、一身を挙げて師匠の介抱に没頭したと云う自覚 な ) 、はけ 一刷毛の水を塗るや否や、顔をしかめて引き下った。 は、勢、彼の心の底に大きな満足の種を蒔いた。それが もっと せつな ただ 尤もその引き下る時に、自責に似た一種の心もちが、刹那唯、意識せられざる満足として、彼の活動の背景に暖い心 うち ぎようじゅうぎが に彼の心をかすめもしたが、彼のさきに感じていた嫌悪のもちをひろげていた中は、元より彼も行住坐臥に、何等 こりよ 情は、そう云う道徳感に顧慮すべく、余り強烈だったもののこだわりを感じなかったらしい。さもなければ夜伽の律 どう しこう ことさら 燈の光の下で、支考と浮世話に耽っている際にも、故に孝 た こん いきおい ふけ ま

7. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

けんあく 上げると、目だけに微笑に近いものを浮かべ、「おや、まえて険悪になるばかりだった。それはまず武夫が文太郎を あ、よく早く」と返事をした。お鈴ははっきりと彼女の背いじめることから始まっていた。文太郎は父の玄鶴よりも 中にお芳の来ることを感じながら、雪のある庭に向った廊母のお芳に似た子供だった。しかも気の弱い所まで母のお もちろん 芳に似た子供だった。お鈴は勿論こう云う子供に同情しな 下をそわそわ「離れ」へ急いで行った。 カ時々は文太郎を気地なしと 「離れ」は明るい廊下から突然はいって来たお鈴の目にはい訣ではないらしかった。・、 実際以上に薄暗かった。玄鶴は丁度起き直ったまま、甲野思うこともあるらしかった。 看護婦の甲野は職業がら、冷やかにこのありふれた家庭 に新聞を読ませていた。が、お鈴の顔を見ると、いきなり きつもん むし と云うよりも寧ろ享楽してい 「お芳か ? 」と声をかけた。それは妙に切迫した、詰問に的悲劇を眺めていた、 ふすまぎわたた しやが た。彼女の過去は暗いものだった。彼女は病家の主人だの 近い嗄れ声だった。お鈴は襖側に佇んだなり、反射的に いっかいせいさんかり 「ええ」と返事をした。それから、ーー・・誰も口を利かなか病院の医者だのとの関係上、何度一塊の青酸加里を嚥もう っこ 0 としたことだか知れなかった。この過去はいっか彼女の心 に他人の苦痛を享楽する病的な興味を植えつけていた。彼 「すぐにここへよこしますから。」 たび : お芳一人かい ? 」 女は堀越家へはいって来た時、腰ぬけのお鳥が便をする度 「うん。 うら に手を洗わないのを発見した。「この家のお嫁さんは気が うなず 利いている。あたしたちにも気づかないように水を持って 玄鶴は黙って頷いていた。 行ってやるようだから。」ーーそんなことも一時は疑深い彼 「じゃ甲野さん、ちょっとこちらへ。」 お鈴は甲野よりも一足先に小走りに廊下を急いで行っ女の心に影を落した。が、四五日いるうちにそれは全然お しゅろ た。丁度雪の残った棕櫚の葉の上には鶺鴒が一羽尾を振っ嬢様育ちのお鈴の手落ちだったのを発見した。彼女はこの ていた。しかし彼女はそんなことよりも病人臭い「離れ」発見に何か満足に近いものを感じ、お鳥の便をする度に洗 の中から何か気味の悪いものがついて来るように感じてな面器の水を運んでやった。 らなかった。 「甲野さん、あなたのおかげさまで人間並みに手が洗えま 四 お鳥は手を合せて涙をこばした。甲野はお鳥の喜びには お芳が泊りこむようになってから、一家の空気は目に見少しも心を動かさなかった。しかしそれ以来三度に一度は せ、れい

8. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

215 寒さ い思いした。が、どの線路だったかは直に彼の目にも明らしているのは肉体的に不快だった。彼は二本目の「朝日 ひとすじ かになった。血はまだ一条の線路の上に二三分前の悲劇をに火をつけ、プラットフォオムの先へ歩いて行った。其処 ほとんど 語っていた。彼は殆、反射的に踏切の向う側へ目を移しは線路の二三町先にあの踏切りの見える場所だった。踏切 おもて た。しかしそれは無効だった。冷やかに光った鉄の面にどりの両側の人だかりもあらかた今は散じたらしかった。 ろりと赤いもののたまっている光景ははっと思う瞬間に、唯、シグナルの柱の下には鉄道工夫の焚火が一点、黄いろ 鮮かに心へ焼きついてしまった。のみならずその血は線路い炎を動かしていた。 の上から薄うすと水蒸気さえ昇らせていた。 保吉はその遠い焚火に何か同情に似たものを感じた。 十分の後、県吉は停車場の。フラットフォオムに落着かな が、踏切りの見えることはやはり不安には違いなかった。 い歩みをつづけていた。彼の頭は今しがた見た、気味の悪彼はそちらに背中を向けると、もう一度人ごみの中へ帰り あかがわ い光景に一ばいだった。殊に血から立ち昇っている水蒸気出した。しかしまだ十歩と歩かないうちに、ふと赤革の手 ははっきり目についていた。彼のこの間話し合った伝熱作袋を一つ落していることを発見した。手袋は巻煙草に火を 用のことを思い出した。血の中に宿っている生命の熱は宮つける時、右の手ばかり脱いだのを持って歩いていたのだ りん 本の教えた法則通り、一分一厘の狂いもなしに刻薄に線路った。彼は後ろをふり返った。すると手袋はプラットフォ じゅん へ伝わっている。その又生命は誰のでも好い、職に殉じたオムの先に、手のひらを上に転がっていた。それは丁度無 言のまま、彼を呼びとめているようだった。 踏切り番でも重罪犯人でも同じようにやはり刻薄に伝わっ ている。 そういう考えの意味のないことは彼にも勿論保吉は霜曇りの空の下に、たった一つ取り残された赤革 こうし わかっていた。孝子でも水にはれなければならぬ、節婦の手袋の心を感じた。同時に薄ら寒い世界の中にも、いっ でも火には焼かれる筈である。ーーー彼はこう心の中に何度か温い日の光のほそぼそとさして来ることを感じた。 も彼自身を説得しようとした。しかし目のあたりに見た事 実は容易にその論理を許さぬほど、重苦しい感銘を残して けれどもプラットフォオムの人々は彼の気もちとは没交 渉にいずれも、幸福らしい顔をしていた。保吉はそれにも いらだ なかんずく 苛立たしさを感じた。就中海軍の将校たちの大声に何か話 すぐ せつふ ただ

9. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

自殺出来ない」と云う言葉を思い出しながら。 四十五 Divan 四十三夜 Divan はもう一度彼の心に新しい力を与えようとした。 夜はもう一度迫り出した。荒れ模様の海は薄明りの中にそれは彼の知らずにいた「東洋的なゲエテ」だった。彼は しぶ、 ひがんゅうゆう 絶えず水沫を打ち上げていた。彼はこう云う空の下に彼のあらゆる善悪の彼岸に悠々と立っているゲエテを見、絶望 うらや よろこ 妻と一一度目の結婚をした。それは彼等には歓びだった。 に近い羨ましさを感じた。詩人ゲエテは彼の目には詩人ク が、同時に又苦しみだった。三人の子は彼等と一しょに沖リストよりも偉大だった。この詩人の心の中にはアクロポ いなずま ほか の稲妻を眺めていた。彼の妻は一人の子を抱き、涙をこらリスやゴルゴタの外にアラビアの薇さえ花をひらいてい たど えているらしかった。 た。若しこの詩人の足あとを辿る多少の力を持っていたら おわ 「あすこに船が一つ見えるね ? 」 ば、ーー彼はディヴァンを読み了り、恐しい感動の静まっ のら かんがん 「ええ。」 た後、しみじみ生活的宦官に生まれた彼自身を軽蔑せずに ほばし・、 「檣の二つに折れた船が。」 はいられなかった。 四十四死 四十六 まどごうし 彼はひとり寝ているのを幸い、窓格子に帯をかけて死彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度 しようとした。 : カ帯に頸を入れて見ると、俄かに死を恐れは姉の一家の面倒も見なければならなかった。彼の将来は 出した。それは何も死ぬ刹那の苦しみの為に恐れたのでは少くとも彼には日の暮のように薄暗かった。彼は彼の精神 なか 0 た。彼は一一度目には懐中時計を持ち、試みに縊死を的破産に冷笑に近いものを感じながら、 ( 彼の悪徳や弱点 計ることにした。するとちょ 0 と苦しかった後、何も彼もは一つ残らず彼にはわか 0 ていた。 ) 不相変いろいろの本 ぎんげろく ぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさえすれば、 を読みつづけた。しかしルッソオの懺悔録さえ英雄的な譓 しら 死にはいってしまうのに違いなかった。彼は時計の針を検に充ち満ちていた。殊に「新生」に至っては、ー・ー彼は べ、彼の苦しみを感じたのは一分一一十何秒かだ 0 たのを発「新生」の主人公ほど老獵な偽善者に出会「たことはなか 見した。窓格子の外はまっ暗だった。しかしその暗の中に った。が、フランソア・ヴィョンだけは彼の心にしみ透っ おす 荒あらしい鶏の声もしていた。 た。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」を発見した。 にわ けいべっ

10. 現代日本の文学11:芥川龍之介 集

訣ではない、作品を鑑賞する我々の心の中にあるものであが、更に微妙なことには第三に「それ」の芸術的価値さ いんやく もちろん ります。すると「より善い半ば」や「より悪い半ば」は我え、隠約の間に否定しています。勿論否定していると言っ ある、 我の心を標準に、 或心一時代の民衆の何を愛するかをても、なぜ否定するかと言うことは説明も何もしていませ ただ これはこの「それだけ ん。只言外に否定している、 標準に区別しなければなりません。 けん 「たとえば今日の民衆は日本風の草花を愛しません。即ち」と言う言葉の最も著しい特色であります。顕にして まさ 日本風の草花は悪いものであります。又今日の民衆はプラ晦、肯定にして否定とは正に「それだけだ」の謂でありま コオヒイ ジル珈琲を愛しています。即ちプラジル珈琲は善いものにしよう。 よ 「この「半肯定論法」は「全否定論法」或は「木に縁って 違いありません。或作品の芸術的価値の「より善い半ば」 や「より悪い半ば」も当然こう言う例のように区別しなけ魚を求むる論法」よりも信用を博し易いかと思います・ 「全否定論法』或は「木に縁って魚を求むる論法」とは先 ればなりません。 「この標準を用いずに、美とか真とか善とか言う他の標準週申し上げた通りでありますが、念の為めにざっと繰り返 こつけい を求めるのは最も滑稽な時代錯誤であります。諸君は赤らすと、或作品の芸術的価値をその芸術的価値そのものによ むぎわらばう り、全部否定する論法であります。たとえば或悲劇の芸術 んだ麦藁帽のように旧時代を捨てなければなりません。善 ゅううつ こうお 悪は好悪を超越しない、好悪は即ち善悪である。愛憎は即的価値を否定するのに、悲惨、不快、憂鬱等の非難を加え ち善悪である、 これは『半肯定論法』に限らず、ぐる事と思えばよろしい。又この非難を逆に用い、幸福、愉 けいみよう ののし も批評学に志した諸君の忘れてはならぬ法則であります。快、軽妙等を欠いていると罵ってもかまいません。一名 あ 「扨「半肯定論法』とは大体上の通りでありますが、最後「木に縁って魚を求むる論法」と申すのは後に挙げた場合 に御注意を促したいのは「それだけだ」と言う言葉でありを指したのであります。「全否定論法」或は「木に縁って 、わ へんば ます。この「それだけだ」と言う言葉は是非使わなければ魚を求むる論法」は痛快を極めている代りに、時には偏頗 の疑いを招かないとも限りません。しかし「半肯定論法」 なりません。第一「それだけだ」と言う以上、「それ」即 ち「より悪い半ば」を肯定していることは確かでありまは兎に角或作品の芸術的価値を半ばは認めているのであり かん す。しかし又第一一に「それ」以外のものを否定しているこますから、容易に公平の看を与え得るのであります。 がい、 ( , ノ すこよ とも確かであります。即ち「それだけだ」と言う言葉は頗「就いては演習の題目に佐佐木茂索氏の新著『春の外套」 ーちょういらよく る一揚一抑の趣に富んでいると申さなければなりません。を出しますから、来週までに佐佐木氏の作品へ「半肯定論 わけ さて なか かみ と かく っ