問題 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学12:山本有三 集
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1. 現代日本の文学12:山本有三 集

ばをはさんだ。 「君たちにとっては、そうかもしれないが、なにしろ文部 「ああ、おきのどくなことになりましたね、次野先生は。」省がね : : : 」 「なんとかならんでしようか。」 「でも、先生。今度の騒動で : : : 」 「さあ、今となってはねえ。」 「君、君。僕は急いでいるんだ。文句があったら、文部省 「でも、あんないい先生 : : : 」 へ行ってきたまえ。文部省じや教え方がうまくっても、熱 「そうです。本当にいい先生でした。」 があっても、資格がなくっちや教員として認めてくれない 「どうして、ああいういい先生がやめさせられるんでしょ んだ。教員を決定するものは、第一に資格ですよ。教員免 状ですよ。人間や、教え方や、熱の問題じゃありません。」 「生徒のあいだから甲種昇格連動が起こってきましたから 玉岡はそう言い捨てて、さっさと、そとへ出ていってし ね。そういうことになると、まず校内を改革しなくっちゃまった。 いかんということになってくるんです。おきのどくですけ よるの風が、つぎはぎだらけの控え所のゆかの上を、は れど、次野先生は教論の免状を持っていないものですからくようになめていった。 「この学校には、そういう先生が随分いるんじゃないんで すか。」 「先生。」 「ええ、それですから、そういう人たちが今度やられたわ 吾一はそう言っただけで、もうことばが出なくなってし けなんでしよう。」 「ですけれど、教員資格なんて、そんなに大事なことなん「おまえ、学校へ行ったのか。」 でしようか。資格のある先生だって、いい先生とはきまり 手酌で飲んでいた次野は、杯の向こうから、白い目をし ませんし、資格のない先生は、必ずしも悪いとは限りませて、吾一を見おろしていた。 「ム、 0 ん。僕たちにとっては、資格なんて、あったって、なくっ たって、問題ではありません。教え方のうまい先生が、熱「もケ、 " 。。おれのような人間は、学校じゃいらんとよ。」 のある先生が、一番いい先生だと思っているんですけれど「 : ・ 「学校って所は、教科書を教える所なんだそうだ。教科書

2. 現代日本の文学12:山本有三 集

うまとわがものにしてしまった。それから同じ忠告のなか学を盛んにし、実業を発展させ、もっと国力を : : : ってん まであったフランスは広州 ( こうしゅう ) 湾を、ドイツは青だろう。もうわかったよ、わかったよ。 ああ、酔った 島 ( チンタオ ) を、それぞれ巧みに借り入れた。これを見なあ。ーー昼の酒はよくまわるねえ。」 たイギリスが、どうして黙っているはずがあろう。彼もま「正月じゃないか、大いに酔っぱらうさ。」 た威海衛 ( いかいえい ) にユ = オン・ジャックをなびかせ「酔って天下国家を論ずるか。安さん、きようは、僕、酔 た。 ( アメリカがハワイを併合してしまったのも、また、 つばらうぜ。」 同じ時代の出来事である。 ) 「ああ、 いいとも。うんと飲んでくれ。ついでに、このコ これが彼らのいわゆる「東洋永遠の平和」の道だったのプ巻きもやってくれないか。オオ沼のフナがはいっている である。これが支那を分割してはならないと、唱えた、ヨのだ。」 ーロツ・ハの強国の、平和政策だったのである。 「ありがとう。ありがとう。遠慮なくやっているよ。」 次野はまた、たて続けに三、四杯あおった。 「ーー畜生、きようは・ハ力にむしやくしやするな。ーー・校 「どうも立ちゃんは、すぐ興奮するからいけないよ。」 長なんかなんでえ、やめてしまえば、校長もくそもあるも 安吉は、新しく連ばれたトックリを取りあげた。 んか。なあ、安さん。」 「しかし、君、現在の日本を考えると、じつにたまらない 「なんだい。まだ、それに引っかかっているのかい。その じゃないか」 問題はもう『けり』がついたんだろう。」 「そりや、わたしだってくやしいよ。だが、くやしいから「ああ、三月になれば、すっかり「けり』がつくよ。」 といって、小さなこぶしを振りあげてみたところでどうす「それじゃ、あんたはこの学期だけでやめるのかい。」 石るのだ。こいつは握りこぶしぐらいで、かたのつく問題じ「ああ、やめる。本当のことを言やあ、おれは今すぐにも のやないからね。今のわたしたちは、まあ、げんこつを固めやめたいのだが、子どもがかわいそうだから、我慢してい る前に、もっと固めなくっちゃならないものがあると思うるんだ。生徒はかわいいからね。」 のだ。」 「そりやそうだとも、だが、生徒がかわいいって言うんな 「はははは、とうとうおいでなすったな。おおかた、そうら、もっと辛抱したらいいじゃないか」 来るだろうと思っていたよ。安さんの言うのは、もっと実「いや、それはごめんだ。途中でほうり出すのは無責任だ

3. 現代日本の文学12:山本有三 集

かいい知恵を貸してくれるに相違ない。おれのような、お なるほど、筒そでの少年がひとり、裏口の所をうろうろ そまきな者が、まどろっこしい学問をやったって、どうせしていた。しかし、それはさっきの少年ではなかった。 人のしりにしかついていけないのだ。もっと手つ取り早い 「おじいさん、ちがうよ、あれは。」 道はないものかなあ ! 「ちがいますかね。 よく似てますがね。」 本当にあの人がいないのは残念だー どうしておれじいやは、しょ・ほしょ・ほした目を指のさきでこすってい のそばから、こういい人がいなくなってしまうのだろう。 たが、なお窓から離れなかった。彼は少年に声をかけた。 黒田さんもそうだし、いなば屋のおじさんもそうだ。頭を「おおい、なんか用かい。」 なでてくれると思っているうちに、 いつのまにか見えなく「 : なってしまうのだ。それから、おとつつあんも、と思いか「なんだって、そんな所、うろうろしているんだい。用が けたが、彼はそのさきを、しいて考えないことにした。 あるんなら、こっちへおいで。」 次野先生はいるけれども、どうも先生はこういう問題に少年は走ってきた。そして、建てつけの悪い炊事場の戸 は不向きだった。 を半分あけると、戸の向こうから恐る恐る言った。 「あのう、 「おれもしつかりやるから、きさまもしつかりやれ。」 さっき、手帳買ってくれた人、いません そう言って元気はつけてくれるが、実際問題となると、 先生はあまり、世わたりがじようずのほうじゃない。大事「手帳を買った人。そんなら、このにいさんだ。」 な妻子さえ養いかねている始末だ。先生としては、しつか じいやは吾一のほうを指さした。 りやっているのに相違ないだろうが、あれじや相談したと少年はつかっかと、吾一のそばにやってきた。 ころで : 「はい。さっきのおつり。」 石 「かえってきましたよ。かえってぎましたよ。」 彼は小さな手を、吾一の前に突き出した。手のひらの上 の 突然、じいやがとんきような声をあげた。 には十銭銀貨が三つと白銅が一つ、宝石のように輝いてい 路顔をあげると、じいやは背のびしながら、れんじ窓に顔た。 を押しつけていた。 吾一はいきなり胸ぐらを取られたように、息ができなく なってしまった。小さな子どものやせ細った腕が、彼の目 「なに、かえってきた ? 」 吾一も立ちあがって、そとを見た。 には、い力に、たくましく映ったことか。彼はしばらく、

4. 現代日本の文学12:山本有三 集

たろう、懸賞で。そういう余得のあった時は、まあ、仕方彼らもまた、仲裁にことよせて、懸賞金をねらっている のだった。やっとの思いで取った金を、こんな連中に、た がねえ、つぎ合うんだな。」 だ使われてしまってたまるもんか。吾一はふりぶりしなが 「余得ったって、たった二円だよ。」 「二円といや、豪勢 ( ごうせい ) じゃねえか。なあ、きよら、夜学へ行ってしまった。 うだい。」 「ああ、号外 ! 号外ー」 「そうだとも。そうだとも。」 往来へ出ると、勇ましい鈴のねが響いてきた。 「でも、別に、あいつのおかげで懸賞に当たったわけじや家いえでは、軒さきに国旗を出し始めた。チョウチンを なし、おれが出すわけはねえと思うんだが : : : 」 掲げる店も、だいぶあった。 「理屈を言や、そうだけれど、そこが、それ、つき合いじ「とうとうやったな。」 ゃねえか。」 電柱に張り出してある号外を見たら、吾一はももの肉が 「おらあ、そんなっき合いは、まっぴらだ。」 びりびりとふるえた。 吾一はぼうんと、けとばしてしまった。 日露開戦の号外だった。黒雲がとうとう、あらしを呼ん 彼らのあいだでは、何か不時の収入があると、すぐ、た だのだ。 かる習慣があった。そういう金をたくわえておくような者 は、最もけちな人間とされていた。 「ロシャの今日あるは、外交官のカではない。銃剣のカで いや、そういう金のはいった時だけではない。彼らはどある。極東問題は外交官のべンに任せておいてはだめであ うかすると、他人の着ものでも、帽子でも、無断で質やにる。銃剣で解決するのが、はや道だ。」 当時、満州における撤兵 ( てつべい ) 問題がやかましか たたきこんで、遊びに行ってしまうことさえあった。彼ら には、人のものも、自分のものも、ほとんど見さかいがな った時、ロシャの内務大臣は、ご前会議でそう主張した。 かった。お互いにそういう気もちでつき合うことを、彼ら「いま世界を見渡して、大口シャ皇帝にたいし、宣戦の布 は一種の美徳と心得ているらしかった。 告をなしうるような勇敢な国があるとは思われません。こ ちらの態度さえ強ければ、陛下のお求めになるものは、戦 「おめえはだめだなあ、いつになっても。」 いをまじえずして、必ず達せられます。日本や支那が、と 「おれはけがをさせられたり、金を出したりするのは、な かく、わが要求に従わないのは、当方の態度に妥協の色が んと言われても、いやだよ。」

5. 現代日本の文学12:山本有三 集

のかもしれない。しかし、源作のがわでは、それを全然否の通過したことや、ひき倒された物おとは知っているが、 定している。なるほど、ラツ・ ( は鳴らして来た。鳴らして源作がどうしていたかまでは見ていない。そういうわけだ 来たから、これはあぶないと思って、原作は研究所の横のから、当日、その近くにいた専吉のことばというものは、 非常に重要なものになってくるのだ。けれども、「見てい 所に、立ちどまっていたと言うのだ。ところが、この裏ぐ ちはトラックがしよっちゅう通るので、道がひどくなってなかった。」「知らない。」では意味をなさない。源作のが いる。大きな穴・ほこがあちこちにある。その穴・ほこをよけわとしては、是非とも彼に、「立ちどまっていた。」と言わ せたいのだ。そう言わせることによって、事件を有利に導 ようとして、急にハソドルをこっちへ切ったものだから、 こうというのだ 0 立ちどまっている源作を突き倒したのだと言うのだ。いっ 、、らラ 「だが、なんだな、警察で調べに来た時、会社でおめえを どんな急な用事があったのかしれないが、し ツ・ハを鳴らしたからといって、工場の中を、あんな速力で出さなかったってのは、ひど過ぎるな。」 走るということが、土台まちがっている。あの速力で、突「いや、そう言ったって、わたしゃあの時、使いに行って いたんだから、仕方がないよ。」 然ハンドルを切ったことが、こんな事故をひき起こしたも 「その使いがさ。あんまりうまい時に、使いに出されてい とで、罪はどこまでもひいたほうにある、と、こう言うの 巡査には連転手と庶務課長が出て、ひいた だ。しかし、あんな速力でと言ったところが、今となってるからな。 ほうに都合のいいような答えばかり、したらしい・せ。どう は、どれだけの速力で走っていたのかもわからないし、 ー冫いたことさえ、言ってないんじ かしたら、おめえがそ・よこ ンドルを切ったのも、穴があったからか、源作が倒れかか オしかと思うんだ。」 りそうになったからか、水かけ論だ。また、右へ切ったのやよ、 それはかえってありがたい、と専吉は思った。どうも、 か、左へ切ったのかも、あとから調べたところでは判然し ない。そこで、どうしても問題になってくるのは、源作がこんな厄介な問題にひつばり出されるのは、何よりも迷惑 だと思っていた。 A 」 - つか A 」い、つ占た 0 その時、本当に立ちどまっていたか、・ 「あれが円タクかなんかであってみねえ、会社じゃ、とて ところが、時間が時間だから、職工で工場のそとに出てい た者はほとんどない。たまたま、そとにいた者はあってもあんなにしやしねえから。」 も、おもてのほうにいたので、この裏ぐちのでき事を、見「だが、円タクじゃ、五十円なんて見舞い金は出さないだ うら門の門衛にしても、自動車ろう。ははははは。」 ていた者はひとりもない。

6. 現代日本の文学12:山本有三 集

うして、ほかのことを見ているどころじゃない。材木をか 専吉は、「おやっ」と思った。自分のことを言われてい るんじゃないかしらと思った。少し立ち聞きをしてやろうついでいるだけが、やっとなんですからね。」 かと考えたが、そいつも気がさすので、道具をほうりこむ「そりやそうかもしれないが、源さんは、おまえさんの と、彼はかまわず小使べやの中へはいって行った。もうひ三、四間まえをかついでいたっていうんだろう。それな とりの男は、専吉の姿を見ると、急に立ちあがって、こそら、あん時、源さんが立ちどまっていたか、歩いていたか ぐらい、おまえさんにだって、見えねえはずはないと思う こそ出て行ってしまった。 専吉はなんにも知らないふりをして、タナの上の湯のみんだがな。」 を取り、土間のいろりの上で白い湯げを吐いている、大き「それが、今いう通り、見えなかったんですよ。」 専吉は、がんこに否定した。 なャカンに手をかけた。 今度の事件で、一番問題になっているのは、そこだっ 「お湯かい。」 栄蔵はそう言いながら、いつになく親切に、自分でヤカた。ひいたほうは、出あいがしらだと言うし、ひかれたほ うは、いや、そんなことはない。立ちどまっているところ ンを取って湯をついでくれた。 を、ひき倒されたのだと言うのだ。これは、じつにむずか 「ありがとうさま 0 これはどうも : ・ : こ しい問題で、今となっては、どっちがどっちだか、ちょっ 専吉が礼を言うと、栄蔵は、いやににやにやしながら、 と判断ができないのである。 彼の横に掛けた。 この事件のあったおとといの午後は、どんより曇った、 「なんだってじゃねえか、ゆうべ、源さんのむす子が、お うすら寒い日だったが、専吉は源作といっしょに、工場の めえさんのとこへ、行ったそうじゃねえか。」 うら手で、取りこわした・ハラックのふる材木を片づけてい 「うム、一「三人やって来ましたよ。」 「どうしておめえ、証人に立ってやんねえんだい。立ってた。 ( 栄蔵はほかの仕事をしていたので、いっしょではな かった。 ) そこへ、 一台の立派な自動車がはいって来た。 やったらよさそうなもんじゃねえか。」 「証人たらおまえさん、容易なこっちゃありませんよ。すあとでわかったのだが、それは、有名な東洋精工の喜多専 つかり、その場のことを見てなくちゃなりませんからね。務の車だった。 ( 資本関係から言うと「この計器は東洋精 ところが、おまえさんも知っての通り、あの日は源さんもエの子会社に当たるので、両社間の往来は、かなり激しか わたしも、ふる材木をこんなにかついでいたでしよう。どった。 ) 不断、うら門のほうは、トラック以外の自動車は、

7. 現代日本の文学12:山本有三 集

しく、彼がと書きで指定しているように、七歳ぐらいの男つまりは、あい手の役者が舞台に出ていて、時間がないた の子というものは、子役の中に、ちょうどそううまくいるめにほかならなかった。本来から言ったら、舞台監督と名 ものではないし、また、一週間しかやらない新劇団としてのる人がいるのだから、作者がこんなめんどうを見てやる は、経済的の事情からも、特に子役を、そとから買って来ことはないのだが、新劇団の常として、舞台監督は、舞台 彼らの一座の者の中のことばかりでなしに、切符や、金銭のことまでも、心配 ることは、困難でもあり、かたがた、 , に適当な者があれば、それでまに合わせたい意向をもらししなければならない立場にあった。そして経済問題のほう た。あの子なら、年もだいたい、ころ合いだし、それに作が、直接に響くところが大きいものだから、たいていは、 中の子どもは、かなりせりふをしゃ・ヘっているので、多少演出よりも、そのほうにからだを取られ勝ちだった。永次 は、新劇の内まくはなんにも知らないから、最初のうち 舞台の経験のある者でなくては、無理だと言うのである。 は、おとなしく引っこんでいたけれども、一、二日けいこ そう聞かされると、永次もしいてとは言えないで、つい いかにもけいこが投げやりで、 にかよっているあいだに、 それなりになってしまったのである。 ところが、けいこにかかってみると、今のような次第だ時間も不正確なら、せりふもてんで覚えていないので、こ 芝居があけられるのかしら、と不 から、この子役には、すっかりうんざりしてしまった。彼んなことで、いったい、 は子役を取り変えてくれるように、もう一度、舞台監督に安になってきた。はじめ福地がたずねて来た時には、演劇 言ってみようかとも思ったが、経済上の問題を言われるに対して、十分、新しい抱負を持っており、けいこなども と、こっちはどうも、引きさがるより仕方がないことにな在来のずろうなやり方とちがい、きちんきちん、やってゆ る。それよりも、いま急に、別な子役を捜すということくようなことを言っていたのに、その当人からして、前売 が、すでに困難なことであるし、よし、捜し当てても、初りの切符のことにばかり奔走していて、たまにけいこ場に 日がもう五、六日のうちに迫っているので、たくさんの顔を見せるようなことがあっても、 役 せりふがそうそう覚えられるか、けいこが満足にできる「なあに、君、大丈夫だよ。なんと言ったって、くろうと 子か、それが第一の疑問であると思 0 た。こういう新劇団ばかりなんだから、見物を前にすえさえすりや、これでび たっと締まってしまうよ。」 は、けいこと言っても、本興行の合いまを盗んでやるのだ なんて落ちつきはらっていて、たいして俳優の演技をさ から、通してみっちりやるということがむずかしかった。 しずするようなこともなく、どこが舞台監督なのか、ほと 彼がこんな時間に、こうして抜きげいこをしているのも、

8. 現代日本の文学12:山本有三 集

全額で本を買ってしまった方がよいと勧告したが、教 育委員会では有三の名と志を長く持続させたいという 父の心 主旨で、今も運営方法を変えていない、と説明された。 あれはど中学行きを熱望したのに、有三の父はなぜ 有三のがんこさを教育委員会も承けついだ格好である。 それを許さなかったのだろうか。私は有三からいくど 故郷の有三文庫と、三鷹の旧居を東京都に寄付した ことによってできた有三青少年文庫とは、有三の青少もその間のいきさつを聞いた。鉄橋にぶらさがったの は、有三ではないけれど、私は鉄橋の前に立って、そ 年社会教育への熱意を示すものである。自分が作家と れを思い出さすにはいられなかった。鉄橋そのものは、 して仕事ができたのは社会のおかげであるから、その カメラマンが、写真にならないと、ばやいたほど平凡 恩にいくらかでも報いたいと、有三はかねがね言って なものであるが。 いる。その気もちのあらわれである。 有三の父は、吾一の父のように、妻子を泣かせたわ 教育委員会の方々が、古い栃木の地図や写真を見せ からすやの人でなしでは決してなかった。古風ながん てくださった。それで、明治二十一一年末に、栃木と小 こな武士気質で、中学志願に反対した点では両者共通 山の間一〇・八キロの汽車賃が六銭だったことを知っ であるが、有三の父は子どもの教育に熱、いで、将来の た。今日は六十円だから、八十年間にちょうど一千倍 ことを深く考えていた。 栃木の富豪であり長老である にあがったわけである 益子味噌株式会社社長益子佐平氏の話によると、有三 有三文庫を出て、はとんど直角にカープしているう の父は当時としては高い見識の持ち主で、かねがね有 ずま川を渡り、両毛線の鉄橋に行って見た。町はすれ 三に「思想の深淵なること哲学者のごとく、意志の堅 の田んぼの中に、ごくありふれた小さい鉄橋が二つあ 加うるに、土百姓の身体を る。どちらに吾一がぶらさがったか、それはフィクシ実なること武士のごとく、 もってして、社会の大人たるべし」と教えていたそう ョンだから問題ではない。そ、つい、つことをせずにいら である れないような、せつない気もちに、吾一が追いこまれ 父は武士のたしなみとして漢学の素養をそなえてい たことが問題である。それについては、吾一と有三と たようで、有三を高等小学のころ、漢学塾にかよわせ の間には似た点と異なった点がある

9. 現代日本の文学12:山本有三 集

家の陥りやすいどろ沼である。芸術は自分のものにすた。」っまり、坂崎出羽守を、主観と客観の調和のな ることだと、私はくり返し述べてきたが、ここに至っ かに発見したのである。歴史劇のなかに、観念的な問 て、この問題は、い よいよ容易ならぬ働きであること題ではなく、人間の生きた姿を造型しようと企てたの がわか「てきた。すなわち、自分のものに転回するそである。それは十分に成功している。 のカのいかんによって、ひとりよがりの芸術にもなれ ば、流れないものにもなるからである。従ってどう消 化するか、どう組織するか、これが何より大事なこと である。そして、それをどう消化するか、どう組織する大正十一年 ( 一九二一 l) から大正十一二年 ( 一九二四 ) かは一にかかって作家の問題である。」 は、関東大震災 ( 大正十二年九月一日 ) を挾んで、日 こういう考え方は、根本的にはその後も変 0 ていな本の社会が大きく変「た時期である。実質的にいえば、 いと思う。山本有三は、過去を反省し、そこからえら関東大震災までは、第一次大戦の余燼がくすぶ「てい れた芸術観上の結論を将来の強い目標として掲げたの たけれども、関東大震災を経て、ロシャ革命 ( 大正七 である。 この年の夏、六代目菊五郎の依頼で、『坂年十一月 ) や米騒動 ( 大正八年八月 ) を先駆とした共 崎出羽守』 ( 四幕物 ) をかき、「新小説」九月号に発産主義の思想が激しい勢いで流れ込む一方では、風俗 表し、同月、市村座で初演された。十月には、大阪中の面からアメリカふうの " 文化。が拡りはしめた。 座で続演された。なお、九月に、『現代脚本集』 ( 新ー山本有三は、この時期にめざましく働いている。大 潮社 ) 第五編として、戯曲集『坂崎出羽守』が刊行さ正十一年二月、帝国劇場で、勘弥、猿之助たちが『女 れた。この作品について、作者はつぎのような述懐を親』を初演した際、帝国劇場の社長大倉喜八郎が一夜 しカひるいえっ 試みている。「併し翻て自分を見ると、私は年中あせ買い切 0 たことがあ「た。その際、『女親』の結末を 「てはヘマばかりやっている。いや私がそうだから坂変えて上演したので、山本有三は、劇作家協会を通し 崎をそういう人間に解釈したのかもしれない。兎に角て、帝国劇場に謝罪させた。筋の通らぬことは断して 私には坂崎が他人でないようにな「て来た。私は坂崎許さないという精神の一端にふれた事件であ「た。九 の中に私を見出すと共に、私を坂崎のなかに投げかけ 月、楠山正雄とともに、 『シュニツツレル選集』を編 459

10. 現代日本の文学12:山本有三 集

石 の お月さまは、どうして落っこちないのだ。 路お星さまや、お天とうさまと仲よくお手てをつないでい るからだ。 だから人間も、みんな、仲よく手をつながなければいけ ねえか。これじゃおめえ、お天とうさまや、お月さまに対それはわかる。 だがどうして貧乏人だけ手をつなごうと言うのだ。 して、恥ずかしいってもんじゃねえかね。」 どうして、金もちだけ、のけ者にするのだ。 得次の言っていることの中には、心をひかれるものがな いではないが、しかし吾一は、「うん、それじや手をつな金もちだって、人間ではないか。 金もちには不正なものが多い。 ごう。」っていう気にはなれなかった。理屈は一応、通っ しかし、貧乏人だって、みんな善人とは限らない ているように髞えても、何か、欠けているものがあるよう こんなふうに考えるのは、おれが金もちになりたいと思 に思えてならなかった。 炭やの小僧が、から車をひいて、流行のハイカラぶしをつているからかな。 吾一は寝る前に、こんなことを考えた。 歌いながら、横町から出てきた。 それから例の手帳には、 チリチリリンと出てくるは 自転車乗りの時間借り。 月は何故落ちざるや 曲乗りじようずとなま意気に 星は何故落ちざるや 両手離したしゃれ男。 太陽は、地球は何故落ちざるや あっちへ行っちゃ、あぶないよ。 これ大いなる問題なり こっちへ行っちゃ、あぶないよ。 あああぶないと言ってるまに きようは、うまい金言が見つからなかったので、こんな それ、落っこった。 感想を書きこんだが、それは彼の近ごろの気もちと、必ず しもびったり合うものではなかった。 彼はここのうちに越してきて以来、金言や感想だけで は、なんか物たりない気もちがしていた。金言も悪くはな いが、どうもごっごっしている。こんな堅いものでなく て、柔らかいもの、はだざわりのいいもの、 そう言っ たものに、なんとなく心をひかれていた。 一つは、買った