問題 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学12:山本有三 集
61件見つかりました。

1. 現代日本の文学12:山本有三 集

収入は非常に多いのですが、夫人はいつも金に悩まされて いました。私のためにも、公共のためにも、金の使い方が おおまかで、しまりがなかったようです。そういう生活で したから、むやみにものを書きました。書かないでもいい と思われるものまで書きました。夫人は奴隷制度の廃止に 力を尽くしましたが、金銭のためには、一生ペンの奴隷で 終わりました。ペンをとる人の中には、ともすると、こう いう型の人があるようです。 しかし、物質的方面には失敗しましたが、彼女の心はっ ねに神とともにありましたから、こんなことで、気をくさ らすようなことはありません。彼女はいつも、ほがらかで 晴れた日、ほこりの多い野なかの一・ほん道で、粗末な一一 輪馬車の走っているのを、人はよく見かけます。馬車の前 にはやせた小ウマが駆けています。車の上には金ぶちの目 がねをかけ、ふちの広いクウェイカ帽をかぶり、ゴマ塩の 婦ひげをはやした、ふとった老人と、質素な服装に、古・ほけ りたポネットをかぶった、小がらな老婦人が乗っています。 たふたりは楽しそうに讃美歌を歌いながら馬車を駆っていま とす。このふたりこそ、いうまでもなく、ストウ教授夫妻で 戦す。夫妻はひまさえあると、こうして信者の家をたずねた り、黒人の小屋を見まったりしていました。 付記ドレイ制度は南北戦争の結果、法律的には廃止 されましたが、この制度をうんだ社会的基礎にまでは 及んでいません。ですから黒人は、名称だけは自由の 民になりましたけれども、本質的にはさつばり自由の 民ではありません。ストウ夫人が解放されたドレイの 生活を喜んだことは、一面、もっともなことですが、 かっての黒人問題は、まだまだアメリカには残ってい るものと見なければなりません。 一九三八年 ( 昭和十三年 ) 〔岩波書店版「戦争とふたりの婦人」より収載〕

2. 現代日本の文学12:山本有三 集

作のやり方だった。便所そうじの朝っていうと、切れたそ うきんが、きたなく柄のさきにくつついている丁字モップ を、源作は、すばやく他人にあてがってしまうのが常だっ た。本来から言ったら、源作も同じ小使なんだから、みん なといっしょに、やらなくちゃいけないんだが、彼はこう いういやな仕事には、決して手を触れなかった。そうし て、いつも専吉か、栄蔵に押しつけてしまった。源作はこ の工場の小使になってから、もうかなり勤めているので、 ふたりとも、このふる顔の前では、頭があがらなかった。 ふたりは、かわり番に、黙って便所のそうじをやってい ところが、この源作が、おととい突然、自動車にはね飛 「はいよ。 ばされた。それで、じつは今、厄介な問題が起こっている と、日当でも渡すような口調で、栄蔵は便所の・ハケッとのだが、まあ、そのほうのことはとにかくとして、源作の ぞうきん押しを、専吉の前に突き出した。専吉のくちびるけがは、・こ、・ ナしふひどいようだから、当分は出て来られない が少しふるえた。しかし、彼はそのほうへ、いやでも、手ものと思う。いや、当分どころか、ゆうべ来た連中の話に をのばさないわけにはいかなカった よると、ふたたび働くことはできないだろうというのだ。 なんという意地の悪いやり方だ、と専吉は思った。何も右の手はもう使いものにならぬし、そのうえ、ロクマクを ・ハケッとぞうきん押しを、突き出さなくたっていいじゃな起こしている。発熱の原因をよく調・ヘていったら、みぎ横 いか。そんなまねをしなくても、「おまえさん、すまない のろっ骨が、二本も折れていることが、きのうになってわ が、きようは便所をやってくんないか。」そう言ったんで、 かったというのだ。それがどこまで本当かわからないが、 すむことだ。「はいよ。 」って言いぐさがあるものか。 どうもゆうべの話は、少しおまけがあるように思われ だが、これは栄蔵に始まったことではない。栄蔵は前のてならない。 おまけがあるにしろ、ないにしろ、今の やつのまねをしただけのことで、じつは、これは古参の源ところ、源作が出て来られないことだけは確かだから、源 こ 0

3. 現代日本の文学12:山本有三 集

178 「だって、 あんまりなんですもの。」 だ。今度は黒田さん、どんなポンチをかいたのかな。」 「何があんまりなのよ。みつともないじゃありませんか、 彼は早く、その絵を見たいと思い、はしご段はいい加減 朝のうちから。」 にして切りあげてしまった。そして、下の縁がわに、四つ 「おかあさん、黒田さん、ことわってちょうだい。あたんばいになって、ゾウキンをすうっと押していった。茶の し、 まの前を通る時、かよ子の顔を、またのあいだから、よこ 「また、つまらない言い合いをしたんじゃないの。しよう 目でのそいて、そのまま向こうまで走っていった。娘の泣 ・、ない人ね。」 いている姿を、四つんばいになって、さかさまに見あげた 「そ、そんなことじゃないわよ。おかあさんたら、どうしところは、ポンチにならないかなあ、と彼はそんなことを てそうなんでしよう。自分がさらしものにされているの思ってみたりした。 に、のん気な顔をしているんですもの。 縁がわの突き当たりは黒田のへやだった。へやと言うよ 「何が、さらしものよ。」 りは、なんどのような、暗い、きたない所だった。下宿代 「おかあさんも、あたしも二銭五厘なんですって、 ・ : 」が滞 ( とどこお ) ったので、二階からここにおろされてし かよ子はワアッと、声をあげて、泣き伏してしまった。 まったのである。「特旨をもって、くらい一級をさげられ 「おまえさんの言っていることは、なんのことか、ちっと 」なんて、だじゃれを飛ばしながら、彼は平然とし て、そこにおさまっていた。 もわかりやしないじゃないの。何も泣くほどのことはない じゃありませんか。」 問題のポンチは、縁がわのそばの机の上にあった。吾一 「だって、 : あたし、くやしいわ。 おは腰を伸ばして、方向転換をすると、いやでもそれが目に かあさんだって、見たら黙っていられるもんですか。あんはいった。彼は思わず、くすりと笑った。かいた黒田もく まりだわ。あんまりだわ。」 すりと笑った。 吾一は二階のゾウキンがけをすませて、はしご段をふい よくこんなに似せてかけるもんだなあ、と思われるほ ていたが、段の途中で、 ど、おや子のくせを巧みにつかんだ、ふたりの似がおがそ こにあった。そして、その横に、 「はははは、黒田さん、また、なんかやったな。」 と、ひとりでおもしろがっていた。 「どれでも、これでも二銭と五厘だ。 「あんなアマっ子は、うんとやつつけられるほうがいいん ちょいちょい買いな。」

4. 現代日本の文学12:山本有三 集

せんけれども、わたしのほうとしては、どうしてもこの 際、あの方に出ていただかなくっちゃなりませんので、 すみえは、くわえていた長いキセルを、じれったそう ・ : そうでないと、なにしろ刑事問題に : : : 」 に、ポーンと、長ヒ・ハチのふちに強くたたきつけたかと思 「待ってくださいよ。あなたはすぐ、そういうことばをおうと、急に、吾一のほうに、あごを向けた。 つかいになりますが、いくらあたしにそんなことを言った「ちょいと、そんな所に、ちょこなんとすわっていない って、しようがないじゃありませんか。あの人に文句が言で、おまえさん、ご用をしてちょうだい。人のうちへ来た いたいのは、あなたよりは、あたしですよ。あたしはどんら、少しは手つだうものよ。」 なにひどい目にあっているかしれやしません。それともあ吾一は話の内容はわからないが、なんか父に関係のあり なたは、あたくしまで疑ぐっているんですか。」 そうなことらしいので、さっきから、ひとりで気をもんで : どうも、じっ 「そういうふうにおっしやられると、 いたところ、突然、自分のほうに大きな声が飛んできたの に、困りましたなあ。」 で、びつくりした。 「あのね、お台どころへ行って、ちょっと炭を出してちょ 客は「困りましたなあ。」を連発していた。 「おかあさん。」 うだい。」 甘ったるい声がして、うしろの障子が半分ばかりあい 吾一は面くらった。ここのうちの奉公人ではあるまい し、いくらなんでも、これは少しひどいと思った。彼はあ た。ここの娘らしい若い女が、炭とりを持って立ってい こ 0 つけに取られて、すみえの顔をまじまじと見ていると、 「お台どころはそっちょ。お炭のある所、お嬢さんに聞く 「なんです。ーーおかあさん、今、忙しいのよ。」 といいわ。」 「あの、お炭ですってーー」 石 彼女は、長ギセルを、吾一の前に突きつけんばかりにし 「お二階 ? 」 の て、金いろに光っているがん首のさきを、ぐっと台どころ 「ええ。」 のほうに向けた。 路「お炭ぐらい、自分でお出しなさいな。」 「だって、 吾一は立ちあがらないわけにはいかなかった。そして、 「だって、どうしたのよ。 しようがない人ねえ。手がキセルのさきの向いている台どころのほうに、しぶしぶ歩 いていった。 荒れる、手が荒れるって、そう物ぐさばかりしていちゃ

5. 現代日本の文学12:山本有三 集

いるので、へやの中はタがたのように、うす暗かった。そ うな顔をして督促した。 「ですけれど、ご用があって、なかなかそうやれないんでのと・ほしい光の中で、彼は熱心に宿題のところの説明や、 例題を研究していた。そして、いよいよ運算に取りかかろ すよ。」 うとした時、人の気配がしたので、ひょいと振り向くと、 「用なんかどうだっていいじゃないか。」 横に主人が突っ立っていた。 「そうはまいりません。しかられてしまいます。」 あ、そうだ。そうだ。おめえ、教「何をしているんだ。」 「大丈夫だったら。 科書がないんで、やりにくいんだろう。教科書、持ってく「へえ。 「姿が見えないと思うと、こんな所へ引っこんで、本なん るから、すぐ、やってくれよ。」 秋太郎は教科書を持ってきた。そうして、「早く、早く。」か読んでいやがる。そんなこって、あきんどになれます か。」 とせきたてた。そうされては、やらないわけにはい、よ、 「へえ。 った。吾一は教科書をかかえて、こっそり、ふとんべやヘ あがっていった。彼は、はしご段を登りながら、「これじ「きさまみたいな、ろくでなしは、追い出してしまうぞ。」 や、どっちが中学へ行っているんだか、わかりやしない。」 と、ふきだしたくなった。 吾一は追い出されたってかまわないと思った。自分が帰 机も何もないから、吾一は、ふとんの包みによりかか つると言ったのでは、おっかさんはとても承知してくれない て、両足を投げ出した。彼はのびのびした気分になって、 が、追い返されたのなら、あきらめてくれるだろうと思っ ・ : そのため 改めて書物を見かえした。表紙には「中等算術教科書」とて、彼はなんの弁解もしなかった。しかし、 してあった。 に、おっかさんの仕事が取りあげられてしまったら、・ 石 ああ、彼はどんなにこれを持ちたいと思ったことだろ彼は思わず、ぶるぶるっと、ふるえた。 の う。制服を着て教室にはいることはできなくっても、たと「何をぐずぐずしているんだ。すぐにおりろ。おりて店の 、ふとんべやの中ででも、中学校の教科書を手にした喜仕事をするんだ。」 路 びというものは、すらすらと中学へはいった人たちには、 「へえ。」 とてもわからない気もちである。 吾一は頭をさげながら、「なあんだ。」と思った。追い出 蔵づくりではあるし、窓には、昔ふうの格子がはまってすと言ったから、本当に追い出されるのかと思ったら、そ

6. 現代日本の文学12:山本有三 集

穴ってんだってさ。」 「もう一つ便所をこしらえるくらい、なんでもないじゃな この侮辱にはたえられなかった。おまえのからだには、 いか。それつくらいのこと、どうして、うちのおとつつあ 穴が一つしかないんだ、と言われたような気がして、全身んはしてくれないのかなあ。」と、彼はしやくりあげなが がぶるぶるとふるえた。専吉は無念ともなんとも言いようら、わかってくれない父おやを、無性に恨んだ。 がなかった。彼はうちへ帰ると、泣いて両親に頼んだ。な あれからもう三十年もたつ。随分、古いことだが、こう んでもしいから、立ってできる便所をこしらえてくれ、そいう話ってものは、容易に忘れられないものとみえる。だ れがないのは、ちんちんのないかたわの人間のように、カ が、突然、とてつもないことを言いだされて、おやじも、 たわのうちなんだと言った。何ごとをおいても、これだけあの時はさぞ困っただろうな。あれじゃ、実際、どなりつ けるよりしようがなかったことだろう。専吉はしみじみと は是非こしらえてくれと、しつつこく迫った。 そう思うのである。あのころのおやじと、ほ・ほ同じくらい 父おやは笑いながら言った。 の年配になった彼は、子どもだった自分よりも、より多く 「おい、専吉。『大は小を兼ぬ。』ってことを知ってるか。 はははは。そいつはな、うちのみたいのから始まった父の立場に同情を持つ。幸か不幸か、今の自分には男の子 んだ。なあに、イッケッって言われたってなんだって、か がないものだから、こんな要求を持ち出されないけれど も、男の子がいたら、きっと自分もやられているにちがい まやあしないさ。大は小を兼ぬだ。はははは。」 ないのだ。 父はまた大きく笑った。しかし、専吉には笑いごとでは なかった。一穴か一穴でないかは、 かたわか、かたわでな親たちは一生、両便のあるうちに住めないでしまった。 いかの問題だ。彼はどんなことをしても、こしらえてもらそして自分もまた、同じことになりそうだ。いや、同じな わないではおかないという意気ごみで、なおも、ねつくせらいいが、立ってできる便所を、両便のあるうちをなぞ つついた。 と、しつつこくせがんだ自分は、どうだ。その自分の目の 前には、今、なんと意地悪く、たくさんの両便が、ずらり すると、父はとうとうおこりだしてしまった。 「いつまで便所のことなんか言っているんだ。便所は一つと並んでいることか。 あればたくさんだ。」 しかし、今こそこんなふうになってしまったが、これで 専吉はどなりつけられたので、ワアッと泣きだした。なも以前には、小さいながら、一軒の店を持ったこともある んだかくやしくって、くやしくって、しようがなかった。 男なのだ。それはもう店とは言えないくらいの、とこ店

7. 現代日本の文学12:山本有三 集

見えるからです。彼らをしてロシャの命令をきかせるためたいと思った。何かしら、ドカン、ドカンと、彼はぶつば には、威圧以外に手段はございません。」 なしてみたい気もちでいつばいだった。印刷所で、けんか 側近者はそう言って、皇帝をおだてあげた。 なんかしているよりは、戦場に行って、ロスケをやつつけ 国威がうわ向きになると、どこでも、こういう議論が幅るほうが、ずっと気がきいていると思った。 をきかせる。ロシャは北清事変に名を借りて、満州に出兵 たまたま印刷所で、献金の企てがあった。職工たちは、 したが、事変がかたづいても撤兵しない。満州から兵を引めいめい十銭、二十銭と出し合った。その時、吾一は一円 かないばかりでなく、彼はそのどん欲の手を朝鮮にのばし、 本をみんなの前に投げ出した。 し、無断で鴨緑江 ( おうりよくこう ) のほとりに、砲台を建「一円札か。待て待て。今おつりをやるそ。」 設した。 金を扱っていた職長が、札を受け取りながら言った。 日本から遼東 ( りようとう ) 半島を還付 ( かんぶ ) させて「、 いえ、おつりはいりません。」 おきながら、厚かましくも、それを横どりし、今度は朝鮮「これ、みんな、出すのか。」 にまで食い入ってぎたのだ。ロシャにとっては、それは単「ええ。」 に、東洋に領土を広げるか否かの問題であるが、日本にと「・ハ力に、はずむじゃねえか。」 っては、生命線をおびやかされることである。ロシャのこ 「お国のためですもの。」 の横暴な振るまいには、日本国民はこそって、いきどおっ 吾一は威勢のいい声で答えた。もちろん、お国のために ていた。吾一のような者でも、敵がい心に燃えていた。 はちがいないが、一つには、赤だすき一派にたいするつら 「ああ、とうとうやったな。」 当ても、こもっていた。 常に圧迫され、常にしいたげられている彼は、日本が大 石 ロシャを向こうにまわして、奮然として立ちあがったこと の に、なんとも言えない喜びを感じた。小さな者、圧迫され 路ている者が、大きな者、のしかかってくるやつに、たち向 かっていくことに、限りない痛快を感じた。 「おれも、もう少し年がいっているとなあ ! 」 丁年 ( ていねん ) にさえ達していれば、彼も戦地に行き「こないだ、よせに行ったら、はなしかのやっ、ひどいこ 学校

8. 現代日本の文学12:山本有三 集

の男はつかまらずにすんだろう。しかし、肝心なことは、 んか、けとばしちまいなさいよ。」 つかまるか、つかまらないかじゃない。つかまったって、 「へえ、おかんができました。」 おやじは新しいトックリを庄吾の前に置いた。庄吾はそっかまらなくたって、ばくちをやっている以上、悪いこと れを取りあげると、また、ちびりちびり、ひとりでやってをしているのはおんなじだ。問題はそこじゃない。女房が 死んだという知らせがあった時、その男はどんな気もちで いたかということだ。本当にばくちに夢中になっていて帰 彼は隣の客がうるさくてたまらなかった。きようは、だ らなかったのか、女房がいとおしくって帰れなかったの れとも話なんかしたくない。黙って飲んで、黙って出てい きたかったのだ。しかし、聞くともなしに、亭主とその男か、こいつはうつかりきめられるもんじゃない。話の様子 との話を聞いていたら、ひょいと口をすべらしてしまつじゃ、その男は手ぬぐいで向こうはち巻きをして、「畜 た。つまらないことを言ったもんだと思ったが、あとの祭生。」、「畜生。」と、どなりながら、血まなこになって、金 りだ。けれど、その時の気もちでは、なんかひとこと、言を張っていたというのだが、そいつは、ただばくちに夢中 になっている姿だろうか。 おそらく、その金にしたっ わずにはいられなかったのである。 ふたりの話は、平さんとかいう男のことなんだが、ばくて、女房の着ものをひんむいて、持ち出したものにちがい ないだろう。その男は、きっと、そういう男に相違ないの ちをやっている最中に手がはいって、その男は引っぱられ だ。女房をはだかにして、丁半を争っている男、その男の ていったのだそうだ。引っぱられるちょっと前に、女房が 死んだという知らせがあった。しかし、その知らせにも耳向きになっている姿を考えると、なんかびたびたと、こっ を貸さないで、「畜生。」、「畜生。」と叫びながら、その男はちへ迫ってくるものがある。 「そいつは女房にほれているんだね。」 丁半 ( ちょうはん ) を争っていた。もし、その時、帰ってい 石 たら、つかまらないでもすんだのに、ぼんござに夢中にな庄吾は言うともなしに、ひょいと、言ってしまったんだ の っていたから、そんなことになってしまったのだ。近所のが、言ってしまってから、彼は妙な気がした。彼はサイコ 路人たちゃ、ここのおやじなそは、みんなその男を、ばちあ口をいじったこともないし、そんなことをやるような人間 たり、人でなしと言っているらしい。が、庄吾はその話をに、同情なんか露ほども持っていないのだ。それだのに、 聞いていて、ある気もちがむらむらとわきあがった。なるなんだってそんな男のことに口を出すのだ。 ほど、女房の死んだ知らせがあった時、帰っていたら、そ彼はなんども後悔していた。しかし後悔するそばから、

9. 現代日本の文学12:山本有三 集

のぼたもちは、それより、なん層倍うまいかわかりやしな条約改正の運動は明治四年から手をつけられていたので あるが、外国が容易に承知しないばかりでなく、日本内地 「ほほほほ、まあ、おまえにもお世辞が言えるようになつでも反対があったから、なかなか思うように、はかどらな たのね。 その分なら、きっといいあきんどになれますかった。内閣はこの問題のために、なんどっぷれたかわか らないし、ある大臣などは爆弾を投げつけられて、かた足 「ううん、ちがうよ、ちがうよ。 いやだなあ、おっかをもぎ取られるというような事件さえあった。しかし、さ さんは、お世辞だなんて。」 まざまこみ入ったいきさつがあったあと、やっと、この日 吾一は本気になって、母おやに抗議をした。 にな 0 て、留地 ( きよりゅうち ) という存在が、日本から 親と子が、こんなことばをかわし合うのも、半としにた姿を消し、不平等な関税率も改められることになったので だ一日だけ許された、この日の情景と言えよう。 ある。これは重大な事がらであるが、兵火をまじえるとい 「お迎い。」「お迎い。」と、せわしなく走り過ぎる声にまうような、はなばなしい事件でないために、世間の人に じって、金魚売りの明るい呼び声が、路地の中まで響いては、あまり記憶されていないようである。だから、いなか きた。 などでは、条約改正というようなものに、深い関心を持っ ている者は、そうたくさんなかった。小僧をしている吾一 のような者は、なおさらである。しかし、彼がきのうの・ほ 物価騰貴 ( ぶ。かとうぎ ) たもちのことしか考えていなかった時に、日本はむつくり と、大きく頭をもちやげたのであった。 外務省の応接室には電灯がともっていたが、国民の大部 吾一がやぶ入りで、うちへ帰った翌日は、日本国にとっ分は、まだラン。フで暮らしていた時代のことである。国家 て、 - 記念すべき重大な日であった。吾一はおっかさんのこ はおもむろに、その体制を整えて、国威を輝かすことに心 しらえてくれた、きのうの・ほたもちの味が忘れられない をこめていたとしても、吾一の周囲は、あい変わらずつま で、淡い里ごころをそそられていたが、この日、わが国はらない、 いざこざをくり返していた。 欧米の列強と対等の条約を結んだのであった。 吾一は前の通り、秋太郎の勉強のおあい手を動めていた

10. 現代日本の文学12:山本有三 集

ばかりでなく、そのあとも、ほとんど年ご同様に、次つぎっと縮んでしまいます。夫人にとっては、子どもがあって 卸に子どもが生まれましたので、たちまち六人の母おやにな こそ、自分の生活があるのであって、そのほかのことは、 ってしまいました。しかし、彼女はそれを少しも苦にしま第一「第三の問題でした。こんなにも子ども、子ども、子 せん。それどころか、かえって、それを誇りにしているのどもと、明け暮れ心を尽くしていた夫人の家庭へ、なんと いうことか、不意に病魔が忍び寄ってきたのです。 です。チャールズという一番すえの子が生まれたあとで、 彼女は親しい友だちにこう書いています。 七月の暑い日のことです。赤ん坊のチャールズが、おな かを少しこわしました。別段たいしたこともないようです が、念のため、医者につれて行きました。医者が小くびを 「 : : : 私は三十七になりました。私はそれを喜んでおり かしげたので、夫人は思わず、ぎよっとしましたが、診断 ます。年をとり、六人の子どもを持ち、苦労の絶えまが の結果は、やはり普通の下痢だろうということでした。 ありません。子どもたちに取りまかれている私の姿を、 と、その晩、ま夜なかに、突然、女中がドアをあけて、 ひと目あなたにお見せしたいくらいです。私の苦労とい ったら、結局、子どもたちです。しかし、子どもたちが飛びこんできました。 いなくなってしまったら、私はなんにもすることがなく「奥さま、大変です。ヘンリ様がお吐きになりました。」 なってしまうでしよう。子どもたちの養育こそ、私の一 夫人は驚いて、はね起きました。いやなやまいがはやっ 番心にかかる仕事です。」 ている時だけに、ぎくっとしましたが、さっそく手あてを してやると、 しいあんばいに、長男のヘンリは、まもなく この手がみでも、また、前に引いた手がみでもわかるよ顔いろもよくなり、気分もさわやかになりました。そし うに、夫人の頭は、いつも子どものことでいつばいです。て、赤ん坊のチャールズのほうも、だんだん活気づいてゆ 夫人は何よりも自分が母おやであることに希望を持ち、そくように見えました。うつらうつらしていたのが、むずか れを一つの特権と信じていました。夫人のように仕事を持ったり、だだをこねたりしだしたので、これだけ元気があ っている人というものは、たいてい、なんかの野心なり望れば、もう大丈夫だと思いました。 みなりを抱いていないものはありません。が、しかし彼女ところが、三、四日たった朝、うちじゅうの者が、みん なかわいがっていたディジという犬が、突然くるしみ始め の場あいには、どんな希望も、どんな計画も、子どもの前 に出たら、空気の抜けたゴム風船のように、みんな、くたました。ディジはお米のとぎしるのような白いものを吐い