人間 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学12:山本有三 集
116件見つかりました。

1. 現代日本の文学12:山本有三 集

243 路傍の石 美しくたれさがっている点に、そういう連想が浮かんだの世の中だ。ーーー愛川、今度のことをようく覚えておけ。け かもしれない。しかし、彼は小僧の時分、店の出はいりつして人ごとだと思うなよ。これが世の中だ。世の中っ に、頭やほおをこすられた、あのひやっとするメリンス友て、こういうものなのだ。・ほんやりしていちゃだめだそ。 禅のはだざわりが、どこかこれに似ているように思えてな人をたよりにするなよ。たよりになるのは自分だけだそ。 らなかった。 ししか。人間はひとりだ。どんづまりは、ひとりつきり 先生には、まず何よりもお酒をすすめた。彼は酒は飲めだ。」 ないから、所の名物の、クズもちをほおばった。 「しかし、先生には奥さんやお子さんがおありになるじゃ 先生はちびりちびりやっていたが、いつものような元気ありませんか。」 ・、よ、つこ 0 カ十ー、刀ー もち 「そんなふうに考えるのは、甘い人間のことだ。 「先生、お酌をしましよう。」 ろん、女房はおれのことを考えている。子どもも大きくな 「う、うム。」 れば、そうだろう。しかし、いくらおれのことを考えてく 「なんか、あがるものがなくっちゃいけませんね。おでんれたって、それは結局、おれじゃないんだ。わからなかっ でも取りましようか。」 たらな、愛川、人間の生まれる時のことを考えてみるがい 「いや、食うものはいらん、これさえあれば。」 生まれる時も、死ぬ時も、人間はいつもひとりだ。ど 次野は静かに杯をなめていた。 んづまりは、いつもそこだそ。」 「きようは、先生、沈んでおいでですね。」 「先生のおっしやることは、わたしには、まだよくわかり 「そんなことはない。しかし、さつぎ少し女房とやり合っません。」 たのでな。」 「そうだな。こんなことは、あんまりわからんほうがしし 「それは先生、奥さんがお悪いんじゃありません。学校がかもしれないな。 しかし、そこに徹した時、人間は、 悪いんです。学校があんな卑劣なことをするから : : : 」 初めて強くなれるんだと思う。人間が人間として、本当に 「もう学校のことなんか言うな。」 生きなくっちゃならないんだという気になってくるんだ。」 「けれども、僕はくやしくってたまらないんです。先生、 し十ーし 学校ってものが、あんなでいいんでしようか。」 「おまえは学校のやつらを卑劣たと言う。そりや卑劣にち 「よくっても、悪くっても仕方がないじゃないか。これが がいないだろう。けれども、そんなことは末の末だ。あい

2. 現代日本の文学12:山本有三 集

ば《りばらと登っていった。 重い車輪が、ゴットン、ゴットン、目の前をまわってい ったことを思い返すと、人間が鉄橋にぶらさがるなんてこ彼らは騎馬戦の時のように、すぐ騎馬を組んだ。京造は 馬の上で手をかざしながら、しきりに西のほうを偵察して とは、彼女は思っただけでも、そうっとした。 「よすなんてことあるかい。」 京造はおきぬの前に立ちはだかって、しかりつけるよう「来た、来た。」 やや、しばらくして、敵軍を発見したように、彼は勇み な調子でどなった。 「吾一ちゃんがやるって言ったんだから、やらねえってこたって報告した。 「けむりが見える。 なあ、みんなにも見えるだろう。」 とがあるもんか。やらなきや、おれが承知しねえそ。」 「うん、見える。見える。」 「惜しいことをしたなあ。」 と、馬もいっせいに叫んだ。 作次は恨めしそうに、停車場のほうへ行った汽車のあと をにらめていた。 「おい、吾一ちゃん。早くぶらさがれよ。あいつが停車場 にはいると、すぐ、こっちへやってくるんだから。」 「もう少し早く、来るとよかったんだな。」 京造は馬を飛びおりながら言った。 「ううん、そんなことはねえよ。今にきっとのぼりがやっ 「おい、吾一ちゃん。どこに、いるんだ。」 てくるよ。すれちがいだもの。」 京造はそう言いながら、土手の上にあがっていった。そ吾一は返事をしなかった。彼は土手の下の芝っ原に足を 投げ出して、田のくろをながめていた。 して背のびをして停車場のほうに、遠く目を放った。 おきぬは、みんなが土手の上にあがった時に、逃げてい 線路がひと筋、途中で少し曲がってはいるけれど、向こ うにずっとのびているだけで、中間には、目をさえぎる物ってしまった。彼女は吾一にも、い っしょに逃げるように 石は何もなかった。葉をふるい落とした、小さい林の向こう勧めたけれども、彼は動かなかった。逃げれば逃げるすき のに、プラットフォームのトタンやねが、水たまりのように はあったのだが、もう逃げることさえめんどくさかった。 傍白く光っていた。もうそのかげにはいってしまったのか、 畜生、死んだって、どうしたって、かまうもんか。 今、行った汽車の姿も見えなかった。 だれも彼も、みんな死んじまえ。大火事が起こって、この 「おおい、だれか、馬になれよ。」 町そっくり焼けっちまえ。 彼は土手の上から大きな声を出した。すると、四、五人まわりの人間も、まわりのものも、目にはいるものが、

3. 現代日本の文学12:山本有三 集

「そりや働き方がたりねえからだ。死に身になって働いたのないことを、・ほっんと言いだした。 「おめえ、お月さまを見て、どう思う。」 者は : : : 」 「なるほど、貧乏から成功したやつも、世間にはいくらか「どう思うとは : : : 」 「はははは、突然こんなことを言ったってわからねえな。 ある。だが、そんなもなあ : : : 」 なあにね、ある晩、おれは末の弟をつれて銭湯に行っ 「そ、そう言うが : : ・こ 「まあ、聞きねえ。おれのおやじは、おれが言うのもおか たんだ。その帰りに、ひょいと空を仰ぐと、ふろ屋の煙突 の横に、まんまるいお月さんが出ているじゃねえか。やっ しいが、ひと一倍働いた。朝早くから、よるおそくまで、 ばり、夏のことだった。お月さんはすつばだかで、大空に それこそ人間として、これ以上働けねえってほど働いた。 道楽はなし、酒は飲まず、もし、余計なことをしたと言っしやがんでいるんさ。「涼しそうだなあ。』と思って見とれ こなタ・ハコをすっただけだ。そんていると、『あんちゃん。』って、弟が呼ぶんだ。『なんだ たら、仕事のあいまに、 い。』って振りかえると、『あんちゃん、お月さまはどうし なに働き、そんなにつましくしていたおやじが、それから どうなったと思う。 はははは。そのさきのことは言わて落っこちないの。』って、不思議そうに聞くんだ。おれ なくったって、吾一つつあんにはわかるはずだ。」 はちょっと返答に困ったね。お月さまは随分、見ている 「なるほど、そういう話は世間にざらにあることだ。だ が、どうして、落っこちねえのかなんて、そんなこたあ考 ところで、吾一つつあ が、それだから働かなくっても、 しいってことはないだろえたこともなかったからね。 ん。おめえだったら、どう返事をする ? 」 「そこだよ、おれが言うのは。」 「そうだな。そいつはちょっと、厄介だな。」 得次はのぞきこむように、吾一を見おろした。 「おめえだって困るだろう。 石「ふム。すると、どうすればいいんだ。」 「だが、なんじゃないか。つまり、引力の話をしてやれば 吾一はひたいの汗をふきながら、せきこんで尋ねた。 「まあ、待ってくれ。」 「冗談いうない。あいつがまだ、こんなちっ・ほけな時分 路 だ。引力なんて言ったってわかるもんか。子どもに言うに 得次も汗をふいた。 や、もっとやさしいことばで、ひとことでのみこめるよう 9 「暑くなってきたなあ。」 彼はひと息入れると、急に調子を変えて、今の話とは縁に言ってやらなくっちゃ、なんにもなりやしねえよ。」

4. 現代日本の文学12:山本有三 集

の生まれかわりかと思われるほど、神を信ずることの深い しかし、トムは断わりました。どうして病気の女をなぐ 男です。おそらく、このくらい信仰の厚い人間は、白人のることができましよう。 あいだにも、そうはありますまい。しかし、皮膚の色が黒 「だんな様、それはご勘弁なすってくだせえまし。わし、 しはかりに、こんなに正しい人間でありながら、こんな清そんなことやったことがねえんで、 一度もねえんで、 い魂の持ち主でありながら、彼は一生、奴隷として暮らさ わしにはどうしてもできましねえ。」 なければなりませんでした。黒人はどんなに立派な人格を「なに、できねえ。ようし、できなぎや、おれが、できる 持っていても、人間ではありません。ただ動く品物に過ぎまで教えてやる。」 ません。主人が彼を他人に売り払えば、彼はその家の持ち 主人はそう言ったと思うと、やにわに、牛の革でこしら 物になってしまうのです。彼には自由も、独立もありませえたムチを取りあげて、トムの顔をビュッとなぐりつけま ん。主人の意のままに、どこにでも、ほうり出されてしました。こめかみの下の皮膚がやぶれて、赤い肉があらわれ うのです。 ました。しかし主人は容赦もなく、なお続けざまに、びし トムじいやもその例に漏れず、あちらに売られ、こちらびしと打ちすえました。 に売られして、最後にとうとう、南部のある耕作地に売り「どうだ。これでもまだできねえとぬかすか。」 ーい、だんな様。」トムは流れる血を手でおさえながら、 飛ばされました。黒ん坊を働かせて利益をむさ・ほっている「よ ような手あいは、どれもあたりまえの人間ではありませんあえぎあえぎ言いました。 「わたしは夜でも昼でも、いのちのあるあいだは、いきの が、今度の主人は、わけても残忍な男でした。 いくらでも働きますだ。だけど、このこと ある日のこと、トムはほかの奴隷たちといっしょに、畑つづく限りは、 : ど、どんなこ ・ : 病気の女を打っことだけは : で綿つみをしていたところ、病気で弱っている女が、一日だけは、 とがあっても : : : 」 ぶんの綿がつめないで困っているのを見たものですから、 彼は気の毒に思って、そのカゴに自分のつんだ綿を分けて「こん畜生、なまいきな。まだロごたえをするか。」 主人はけもののようにおこりました。ことに黒ん坊のく やりました。と、それを知った主人は、トムをつかまえ て、病気の女をなぐれと命じました。ひとりぶんの綿もっせに、信心家づらをしているのが、彼にはしやくにさわっ めないようななまけ者は、ムチで懲らさなくっては、しめてたまらないのです。彼はふと聖書の中の文句を思い出し たので、なかば、なぶるような調子で、 しがっかないというのです。

5. 現代日本の文学12:山本有三 集

124 帰っていったそうだ。そう言っておいたのは、つまり、こているのだ。おとつつあんはな、そのたくらみに引っかか れだけの人物を、よその家に取られないようにという用心って、どれだけ、ひどい目にあったかしれやしねえ。おれ からさ。だが、そのことばがあったために、徳川時代にのうちがこんなになったのも、おとつつあんが人がよかっ は、愛川の家ってものは、そりゃあ豪勢なもんだった。やたから、いけなかったんだが、第一は世の中が悪くなった からだ 0 吾一、世の中で何が一番、恐ろしいか、知っ しき地だけでも十三町。そこはねんぐの取り立てもなかっ た。当主がよそへ出かけるおりは、ヤリを立てて歩いたもているか。恐ろしいものは、トラでもない。オオカミでも のだそうだ。そのくらいだから、所の代官だって、一もくない。人間だぞ。うまいことを言ってくる人間だぞ。」 も、二もくも置いていたもので、代官所が、村かたの支配「 に手を焼いたような時には、おれの所に頼みにきたって話「吾一、人を信じちゃだめだ。うまい話に乗っかっちゃだ だ。おれのうちでロをきくと、村かたの不平もおさまっためだそ。おまえの年じゃ、こいつは、ちいっとわかりにく っていうんだから、たいしたものさ。それもこれも、みん いかもしれねえが、おとつつあんが、きよう言ったこと しし力なんでもない な、ご先祖がえらかったおかげだ。」 は、ようく腹に入れておくんだそ、、、、。 のに、親切にしてくれる人間なんて、世の中にはありやし 「ところが、ご一新になったら、がらりと変わってしまつねえ。親切の底には、きっと、なんかがあるんだ。世話を た。薩長 ( さっちょう ) のやつらが、勝手なまねをしやがっしてくれるなんて人があったって : : : 」 て、今までのいいところを、めちやめちゃにしてしまやあ「 : : : あなた : : : 」 台どころで野菜をきざんでいたおれんは、たまらなくな がった。世の中が、こんなふうにけわしくなったのは、み って、そっと涙をふいた。 んな、あいつらの仕事だ。それにつれて、人間もすっか 「なんでえ。余計な口だしをするない。また杯をぶつつけ り、こすくなってしまった。よろい、かぶとこそっけない が、また戦国時代に逆もどりだ。きのうの身かたは、きよられてえのか。」 うは敵だ。武田がただと思って、心を許していると、裏じ庄吾はガチャリと杯を置いて、おれんのほうをにらみつ や、敵と内通していやがる。全く、いやな世の中になったけた。 もんさ。油断もすきもあったもんじゃねえ。親切らしいこ それから、手酌で、なん杯もかさねたが、やがて、また とを言ってくるやつは、きまって腹の中にたくらみを持っことばを続けた。

6. 現代日本の文学12:山本有三 集

112 「おまえの名まえは、おまえのおとつつあんがつけたの 番、世話がない、と彼は思ったのである。 ほかの人がつけたのか知らないが、とにかく、さっき 「おまえの気もちを考えると、先生は大いに同情はするけか、 言ったようないわれのほかに、もっと深い意味が含まれて れども、しかし、無謀なことをやったものだな。 いるのだ。名まえをつけた人に、そこまでの考えがあった 「中学へ行けないくらいのことで、そんな考えを起こすやかどうか、それは今せんさくする必要はない。つけた人は つがあるものか。そんなちっ・ほけなことじゃ、けっして大どういう考えでつけたにしろ、そういう立派な名まえを持 きな人間にはなれやしないそ。ーーー・愛川、おまえは自分のっている者は、その名まえを、立派に生かして行くようで なくっては、名まえにたいして申しわけがないではない 名まえを考えたことがあるか。」 「ああ、自分の名まえはどういう意味を持っているのか、 おまえは、わかっていないのじゃないのかい。」 「吾一というのはね、われはひとりなり、われはこの世に ひとりしかないという意味だ。世界に、なん億の人間がい をしし、刀い 「おそらく、吾一つて名まえは、おとつつあんが庄吾だかるかしれないが、おまえというものま、 。愛川吾一というものは、世界中に、たったひとりしか ら、その庄吾の『吾』と、最初にできた子どもなんで、 いないんだ。どれだけ人間が集まっても、同じ顔の人は、 「一』という字をつけたのだろうが、しかし、先生の考え ひとりもいないと同じように、愛川吾一というものは、こ じゃ、ただ、それだけとは思えないんだがね。ーーー愛川 の広い世界に、たったひとりしかいないのだ。そのたった 『吾一』っていうのは、じつに、いい名まえなんだそ。」 ひとりしかいないものが、汽車のやってくる鉄橋にぶらさ 次野は熱心に語り続けた。 「おまえは作文にでも、習字にでも、自分の名まえだからがるなんて、そんなむちゃなことをするってないじゃない 書くんだって気もちで、たいして考えもせずに、ただ愛川か。」 吾一と書いているが、名は体をあらわすというくらい大事「 なもので、吾一というのは、容易ならない名まえなんだ「幸いに、汽車のほうでとまってくれたから、よかったよ うなものの、もし、あのまま進行したら、おまえはどうな っていたと思う。愛川吾一つてものは、もうこの世にはい

7. 現代日本の文学12:山本有三 集

じ仕事をしていたんだ。おめえのほかに、あの時のことをちは、おれたち・フロレタリアは、・フロレタリアのために 言える者は、ひとりもねえんだから、一つ、源さんのため 「お、おれはそんなものじゃないよ。」 に働いてもらいてえもんだな。」 「なにイ。おめえ、プロじゃないって言うのかい。」 「本当に、おれがあの場にいたんなら、あの時は、じつは「わたしや、そんな人間は、だいきらいですよ。」 「ははははは。おめえがいくらきらいだって言ったって、 これこれ、こうこうでした。運転手や会社の言うことは、 うそっぱちでございますって、警察へ飛びこんで行ってやおれたちは、みんなそうなんだから、仕方がないよ。」 「よしておくんなさい、そんなこと。わたしは日本人です るんだがな。」 「そ、そりやそうですよ。わたしもそういうふうに、詳しよ。そんな横もじのつく人間じゃありませんよ。」 く知っていさえすれば・ : ところが、まさかあんなことが専吉は・フロなんてことばは、虫ずが走るほどいやだっ 起ころうとは、夢にも思わないから、わたしはただ、自分た。あんなものが出てきたために、世の中が悪くなったん だ。不景気になったんだ、と深く思いこんでいた。今こそ の材木のことばかりに気を取られて : : : 」 「じれってえな。おめえ、源さんをかわいそうだと思わねこんなことをしていても、以前はーーー以前は一軒の店のあ えのかい」 るじだ。店を構えて、奉公人を使っていた身分なんだ。あ 「そりや気の毒だと思っていますよ。気の毒だとは思ってんなものになってたまるものかと、彼は顔をしかめて栄蔵 いますが、だれだって、証人に立とうと思って歩いているを見かえした。 んじゃないから・ : : こ 「はつ、はつ、はつ、はつ。」 「何を言っているんだ、専さん。証人に立とうと思って歩栄蔵は腹に手を当てて、コンマを切ったような笑い方を いてる人間がどこにいる。そんなこと、頭に置いとかなくしながら、 ったって、そばにいさえすりや、たいていのことは、わか「そりや、おめえは日本人だよ。日本人にはちがいない っているじゃねえか。そいつを言ってくれさえすりや が、日本人の・フロレタリアだ。おめえがなんと言ったっ んだよ。ひと口に言やあ、源さんの身かたに、なってやるて、プロレタリアだよ。」 か、やらねえかだ。さっきも言った通り、・フルジョアは・フ 「いつまでそんなことを言ってからかうんだ。もうやめて ルジョア同士で、ぐるになっていやがるんだから、おれたくれって言ったら、やめておくんなさい。わたしは、死ん

8. 現代日本の文学12:山本有三 集

ければならなかった。けれども、呉服やの番頭あがりに源作の欠勤が続くようなら、会社でも、そうそう、この は、とても激しい肉体労働なぞ、できるわけのものではなままではほうっておかないだろう。今までだって、小使の い。彼は八方につてを求めて、職を捜しているうちに、や手がたりないくらいなんだから、そのうちには、きっと、 っと、この計器工場の小使のロにありついたのであった。 ひとりやふたり、入れるにきまっている。そうしたら、お そりや、使い走りや便所そうじをさせられるのは、 れも栄蔵のように、「はいよ。 」と、こいつをすばや 以前のことを考えると、本当に情けないとは思うが、今はく、新まえに渡してしまうことだな。 そんなことを言っていられる身分ではない。給料は安くて「もう、 しいかね。」 も、仕事はつらくても、とにかく、月づききまったものが と、彼の背なかの所で声がした。振り返ると、庶務の人 もらえるのだから、彼としては、ありがたいとしなければがすぐ近くに立っていた。 ならなかった。世間じゃ、小使なんてと言うかもしれない 「へえ、あちらはもう、そうじがすみましたから、どう が、その小使になろうと思って押しかけたものが、五十人か。」 もあるのだ。そんなに大ぜいの人たちとせり合って、よう専吉は丁寧にお辞儀をした。 やくありついたのが、この職なのだ。当節じゃ、どうし「そうかい。それはありがとう。 だが、ねえ、 て、どうして、小使になるんだって、あだやおろそかでなれ と事務員は急に調子を変えて、 るもんじゃありやしない。人間、欲を言えば限りがない 「このあいだのあれは、 いったい、どうなんだい。」 が、そんなに高いことを望んだって始まらない。自分とし「このあいだのって、なんでございます。」 ちゃ、やっとのことで、このロが見つかったんだから、ま「例の自動車の一件さ。あれは、ほんとに運転手が悪いの ず当分は、ここで我慢をすることだと思っていた。なんでかね。それとも、ひかれたやつがまぬけなんかね。」 実直に働いて、一つ所に動かずにいさえすれば、そのう「そうでございますねえ。」 ちには、きっと、 しいことがめぐってくる。 「そうでございますねえって、君はあの時、そばにいたん 「それに、 だろう」 と、専吉はモップの手を休めて、また考えた。 「へえ、近所にはいたんですが、見ていたわけじやござい 「これだって : : : これを動かすことだって、そんなに長いませんから・ : ・ : 」 ことではあるまい」 「はははは、そう言っとくのが一番だよ。あんなもののか

9. 現代日本の文学12:山本有三 集

よりは、上に立っている連中の差し金なことは、知れきっ りではない。自然もまた彼に身かたをしないで、日本特有 た話だからである。おもて向きは、手うちになったようなの風水害は、徳川時代からの、ゆいしょのある家をめちゃ ものの、庄吾にしてみれば、この恨みは忘れられなかつめちゃにしてしまった。雨でゆるんだうら山の一部がどっ た。だから、今、進行中の、村長をあい手の訴訟事件にしとくずれてきたために、ひとたまりもなく、押しつぶされ ても、ただ山林の所有あらそいだけではない。もとを洗うてしまったのである。 と、じつは、ここから尾を引いているのであって、村の代田はたは水に流されなかったが、それはもう、とうにひ 表者たちを、たたぎつけてやろうという考えも、多分に含と手に渡 0 ていた。おじいさんに育てられた、世間みずの まれているのであった。 お・ほっちゃんは、こうして家やしきを奪われ、田地を失っ はたちになった時、彼は家督を相続した。それからまもて、水のみ百姓よりももっとあわれな姿になって、町の路 なく、嫁を迎えることになったのだが、その矢さきに、は地うらに引っこまなければならなかった。こういう境遇に からずも、彼は後見人の不正を発見した。いくら交渉して落ちこんでも、悪いことには、彼は自分のおい立ちを忘れ も、らちがあかないので、彼はついに後見人を訴えた。しなかった。不都合なのは、どこまでも時勢であり、世間で かし、訴訟には勝 0 たけれども、あい手はうまく立ちまわあ 0 て、けっして、それ以外の何ものでもなかった。彼は って、財産を隠してしまったから、ほとんど何も取ること世をのろい、人を信じなかった。「人を見たら、どろ・ほう ができなかった。自分の代になって、多額の財産を失ったと思え。」ということは、彼にとっては、もうことわざで ことを、彼は祖先にたいして申しわけなく思った。彼はな なくって堅い信仰になっていた。 んとかして、その損失を埋めたいと思った。それでいろい 彼はまた、じみちに働くことをさげすんでいた。人がロ ろなものに手を出した。 = ワトリの千ば飼いがもうかるとを世話しても、彼はほとんど、あい手にならなかった。こ 石 言われて、彼はあいている地面に、高い値でつかまされたっこっ働くことは、卑しい人間のやることであって、自分 の = ワトリを、たくさん飼った。しかし、ひなをかえすよりのようなものは、手あしを動かすべぎものではないという 路も前に、親どりが病気になって、ばたばた倒れてしまつのが、彼の生活の立て前だった。代々ねんぐ米の上にひる た。それから、オオ山さまの隣の山から、鉄が出るとい寝をしてきた家がらなので、労働をしないで食ってゆける 四う、うまい話に乗せられて、発掘を始めたが、掘れば掘る生活が、彼の理想の生活であった。彼は日ぶらぶらしな ほど、それは自分の家に穴をあけるだけだった。そればか がら、何かうまいもうけロはないかと考えていた。ある

10. 現代日本の文学12:山本有三 集

ったことだった。彼はここへ押しかけて来た時には、すば 小さめが、ばらばらと縁がわをぬらした。 らしい勢いだったが、会っているうちに、段々、頭がさが 又右衛門は続けた。 っていった。そして、はいって来た時のようなけんまく 「いのちを惜しむ。そのような人間は、もとより武士の列 は、いつのまにか、全く消えてしまった。彼は自分の未熟 にははいりませぬ。心ある武士なら、申すまでもなく、不 惜身命でなくてはなりませぬ。さりながら、不惜身命だけなことがひしひしと身にしみた。彼はすなおにそれを認 では、まだ『上ノ上』とはまいりませぬ。せい・せい『中ノめ、今日の不作法を深くわびて、又右衛門のもとを去 0 上』、『上ノ下』でござる。まことの勇者は、もそっといのた。 ちを惜しみまする。常づねいのちを惜しんでこそ、一大事柳生の屋しきは、外・ほりのそばの土橋 ( どばし ) のたも の場あいに、初めて不惜身命の働きができるものではござとにあ 0 た。十蔵は門を出ると、心がうつろにな 0 たせい か、ついふらふらと前の土橋を渡ってしまった。供の者に りますまいか。人間一生のうち、いのちを惜しまぬという ような場あいは、そうたびたびあるものではござらぬ。ま注意されて、彼は初めて、方角ちがいに歩いていたことに ず、へいぜいは、いのちを惜しむことが大切ではありませ気がついた。 ぬかの。そのもとのように、年中『不惜身命』でりきんで空は曇っていたが、雨はやんでいた。十蔵は堀ばたに立 いては、たとえば、つるを張りつばなしにいたしておくよって、しばらく、動かない水を見つめていた。 うなもので、かえって、弓がたるんでしまいますわい。ど うじゃな、石谷どの。『不惜身命』のさし物は、ちと、お ろしておおきになっては。さようなものを明け暮れ背なかそれからというもの、十蔵はまるで別人のようになっ みにしよっていては、肩がこってなりませぬそ。」 た。前には、大地をドシン、ドシン踏みつけて歩くような し又右衛門は、なお、ねんごろに説いていたが、十蔵の頭歩き方だったが、今度は、馬の横を通るのでも、遠まわり やには、そうこまかには、はいらなかった。ただ彼の胸にはをして過ぎるというような態度になった。人間というもの し つきり焼きつけられたことは、うえ様のご指南番だけあっは、そんなに急に変われるものではない、と言う人がある て、なるほど、又右衛門という人は大きな人物だ。自分はかもしれないが、それは人によりけりであろう。十蔵のよ いつばし武道がわかっているつもりでいたが、この人の前うにひたむきな男は、かえって、思い切って変われるのか に出ては、まるでだめだ。赤ん坊と同じようなものだと思もしれない。彼は又右衛門に言われると、すぐその場で自