知っ - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学12:山本有三 集
423件見つかりました。

1. 現代日本の文学12:山本有三 集

いきなり横つつらをはり倒されたのだ。そうすると、へや おらあ、人足をなん百、なん千あっかってるかしらねえ が、まだそんなことをした覚えはねえんだそ。きようだっ にいた連中が、『この野郎、とんでもねえ野郎だ。』『ふて て、みんな調べて渡してあるんだ。 ゃい、野郎ども。一 え野郎だ。』ってんで、親かたに忠義づらをして、あっち そう言って、まだへやに残っていた人夫を呼び寄せると、 からも、こっちからも、ポカボカわたしをなぐりつけるの 「常こう、さっき、きさまに渡したさつは、にせさつか。 だ。そうして、一番しまいに、 こう一言いやがるのさ。『こ 秀、きさまのはどうだ。千太、きさまのはどうだ。』って、ん畜生。ほん物をうちに隠しときやがって、こんなものを ひとりひとり、シラミつぶしに尋ねるのさ。ところが、ひ持ちこんで、手まの二重どりをしようってんだろう。」 とりとして、にせさつをもらったって者はいないのだ。 ええ、長ちゃん、なんという言いぐさです。わたしゃ 「そうれ見ろ。こん畜生、きさまのようなことを言うやつほんとに、くやしくって、くやしくってねえ。 は、ひとりだってありやしねえそ。』って、親かたはこっ 「ふム、そいつは随分ひでえ目にあったもんだね。」 ちをにらみつけるのだ。親かたにそう言われちゃ、引っこ 「だからさ、わたしや言うんだよ。本当のことなんて、 むよりしようがねえが、そうかって、わたしは事実、 くら本当のことを言ったって、わかりつこありやしないっ 日って働いているのに、使えねえさつをもらったんじゃ、 て言うんだ。わたしやそいつを言ったばかりに、大きなこ どうにもやり切れないじゃよ、 オしか。それに、こっちはもとぶを、二つももらったよ。そうして、へやを追い出されて もとうそをついてるわけじゃない、 どこまでも、本当のこしまったのさ。」 とを言っているんだから、なんとか親かたにわかってもら「 : おうと思ってね、『そりやもう、親かたにまちがいのある「そんなことがあったもんだからね、何かむずかしいこと はずはございませんが、何かの拍子で、わたしのぶんだが起こったら、わたしや言わないことにしてるんだよ 0 よ け、ひょっとちがうのがまぎれこんだんでございましよし、知っていたとしても、黙っているのが利ロだと思って う。きっとわたしのぶんだけが : : : 』って言いかけると いるのさ。」 「何をぬかしやがるんだい。おれは一枚だって、にせさっ 「しかし、専ちゃん、「よし知っていたとしても』って今 なんか渡すかい。一枚だってそんなものを渡したって言わ いったね。知っているんなら、やつばり言うのがいいんじ 新れてみろ。このへやにや、人足が寄りつかなくなってしま ゃないかね。」 わあ。きさまは、どこまでおれをこけにするんだ。』って、 「なんだな、長ちゃん。おまえさん、わたしの話がわかっ

2. 現代日本の文学12:山本有三 集

合いがないわい。酒の味、女の味なら、われら年来たしな 合をする場所になっていた。そこは見物席と同じように、 ゃねもなければ、ゆかもない、吹きさらしの野天で、早春んでいるが、いまだこの年にいたるまで、刀の味というも ののどかな光が、かわいた土の上で、ほこりといっしょのを知り申さぬ。刀の味というものは、どんな味のいたす に、明るくおどっていた。そして、いうところの剣術無双ものか、たまには、ひとタチぐらい、お見まいを受けてみ の者は、やわらかい日ざしのもとで、いかにも軽がると鉄たいものじゃ。」 扇を扱いながら、抜き身を振りまわしている町人ふうの男白あやのはち巻きをし、同じ色のたすきを十字にあやど った剣術つかいは、鉄扇を開いて、おおように風を入れな をあい手にして、しきりにからかっていた。 しろ女と手を切るがら、あい変わらず、見物に向かって大きなことを言って 「そんなことでは切れるものではない。、 ことだってできはしないそ。 それそれ、こっちだ。こ っちだと言うのに。ここがこんなにすいておるではない 「どうだ。だ、ぶ詰めかけておるが、このうちに、ひとり 、刀 なんだ。また空 ( くう ) を切ってしまったのか。 や、ふたりぐらい、拙者を切ってみようというご仁 ( じん ) 空を切るのではない。拙者のからだを切るのだと申すに。 はござらぬか。どこなと随意に切ってもらいたい。小手な そら、今度はどうだ。ここなら切れそうなものではな りと、胴体なりと、または、まっこう、から竹ふたっ割 いか。こんなにからだが遊んでおるのだ。ーーー何をそんな り、おのおのがたの勝手次第じゃ。われらはいのち知ら に考えているのだ。 さあ、切ってこい。ずばりと見ごず、天下無双の剣術つかいだ。どんな仁が飛びこんでこよ うとも とにやってくれ。たまには切られてみたいものじゃよ。は 。どなたとでもおあ いっかな、あとへは引かオし ははは、きたか。おっとっと。 いやいや、腕のないやい手をいたす。さあ、腕に覚えのある者は出て来さっしゃ みつというものは、仕方のないものでござる。もうタチを持 人間を切ってみたいというご仁は、遠慮なくここに進 しつことさえできぬそうな。うははははは。」 まっしゃい。われらは天下無双、いのち知らずの : : : 」 や彼は鉄扇をもって、たちまち、あい手の刀を打ち落とし「ええ黙れ。」 ふてしまった。町人は苦笑しながら見物席へもぐりこんでし人もなげなることばをもてあそんでいるので、十蔵は先 刻からじりじりしていたが、なかなか前に出られないの 「お次は、たれじゃ、もう少し手ごわいやつはないか。せで、彼はとうとう、人ごみの中から剣術つかいをどなりつ めて拙者に手きずなどおわせる者がないと、さつばり張りけた。

3. 現代日本の文学12:山本有三 集

は、武士の一分 ( ぶん ) が立たない。自分としては、近ご召し使いは引きさがると、まもなく十蔵を案内してき こ 0 ろ一段と腹がすわってきたつもりでいるのに、言うことに ことを欠いて、わかっていないとは何ごとだ。そんなこと「お引ぎこもりの中を、押して推参いたし、恐縮に存じま を言うからには、たとい、かみのお手なおし役であろうとするが、ちと、お伺いいたしたき儀のござって : : : 」 も、捨ててはおけない。果たして、柳生どのがそういうこ十蔵の語気は、どことなく、とがっていた。 とを放言したのか、とくと実否をただしたうえ、事と次第「これはこれは、ようこそお越しなされた。かような見ぐ 石谷ど によっては、果たし合いもしかねまじきけんまくで、十蔵るしい席で、粗略の段は、お許し願いたい。 は虎之ロ ( とらのくち ) の、柳生の屋しきへ押しかけて行っの、こちらへ進まれえ。雨天のせいか、本日は、ちと、冷 こ 0 えますな。」 それは、こさめのそぼふる、寒い、昼さがりだった。柳「いや、それがしは、さしたることもございませぬ。 生又右衛門はいろりに前こごみになって、灰の中にクリをさて、さっそくながら、道路の風説によれば、ご師範どの には、拙者、武道をわきまえぬと、お漏らしになりしやに いけていた。そのころの裁ち方である、そでたけの詰まっ た、ゆきの短い羽おりは、五十の坂を越した彼には、やや聞き及びますが、さようのこと、しかと、仰せになりまし はだ寒く感ずるのか、ときどき、そでロのところを気にしたか、承りとう存じます。」 ているようだった。そこへ召し使いがはいって来て、石谷「はははは、なにごとかと存じたら、そのようなことでご さるか。 いや、それは、それは : : : 」 十蔵がたずねてきたことを告げた。 「ほう、たずねてまいったか。」 又右衛門は笑いながら軽く答えたが、十蔵にはそれが一 み 又右衛門は水ばなをかみながら、いくぶん予期していた層しやくにさわった。こちらは真剣に問うているのに、笑 ん しような口ぶりで、召し使いのほうを見かえった。 いにまぎらして、安くあしらうとは何ごとだ。それならこ や「では、こう申すがよい。所労で引きこもっておりまするっちにも考えがあるそと、彼は肩を怒らして、ひとひざ、 ふが、何か火急のご用事でござりましようか、と一応、尋ね前へ乗り出そうとした時、パーンと鉄砲のような音がし て、突然、丸いものが彼の前に飛んできた。それがなんで てみるがいい。」 あるか、十蔵はもとより知らなかった。けれども、彼は空 「はあ。」 ( くう ) に飛んだものを、すばやく右の手で捕えた。手のひ 「是非とも会いたいと申したら、ここへお通し申せ。」

4. 現代日本の文学12:山本有三 集

一大将のほか、かち立ちたるべき事 墨の色もあざやかにしるしてあった。 一合ひじるし、すみ取り紙、ひだりの肩に附くべき事十蔵はなんとも言われないものに打たれた。えりのあた 一合ひことば、さいか、さい、と答へ申すべき事 りが冷やっとして、元日の清らかな気が、からだじゅうに 一あとより鉄砲うたせ申すまじき事 しみ渡った。 一小屋の火をしめし、小屋ばん堅く申し附くべき事 内膳の悲壮な心中を知るにつけ、十蔵も自分のきようの 気もちを、はっきりあらわしたいと思った。しかし、彼に は歌など作れなかった。彼は日ごろ、そういうたしなみの しはすみそか なかったことを、今さら残念に思った。 石谷十蔵 板倉内膳正 彼はしばらくのあいだ、目をつぶって考えていたが、や がて、よろいビッをあけて、その底から、古びたさし物を 明くれば、寛永十五年、正月元日だ。明け七つにそう攻取り出した。いっそやのやり半蔵のかたみの品である。か めであるから、十蔵は夜どおし攻撃の手くばりに忙しかっ っては、このさし物をさして戦場を駆けめぐることが、彼 た。いま攻撃に移ろうとする前に、内膳の所から、使いのの無上の願いであった。たまたま十蔵は戦場に臨む身とな 者が文箱 ( ふみばこ ) を持って来た。いかなる急用かと思 ったが、今度の戦いでは、彼は一度も、このさし物をさし って、取り急ぎ開いてみると、 たことがなかった。さし物の示す文字が、少しはっきりし 過ぎているように思われたからである。少なくとも上使の 去年の元日は江城にてえぼしの緒を締め今日はち差しそえとして、総軍の見はりをする者の持ち物として よ、 ん・せい原の城にかぶとの緒を締むはや打ちたち申 かどがあるように思われた。そこで、いつもは、あさ し候何ごともかはりゆく世の習ひ今さらに候 ぎもめんの四半に金で五の字をしるした、家のさし物ばか かしく り用いていた。しかし、きようはちがう。はっきりしてい ようと、かどがあろうと、きよう使わなかったら、永久に あら玉の年にまかせて咲く花の 使う時がなくなってしまう。きようのような時にこれを用 名のみ残らばさきがけと知れ いなかったら、せつかく贈ってくれたやり半蔵にも、申し わけが立たない。

5. 現代日本の文学12:山本有三 集

り手なんだが・ : : こ めに、この学校に入学したのではない。」 「学校も苦しいんでしよう。」 「そこだ。そこだ。」 「やれ、やれ。もっとやれ。」 「そりゃあ、あの通りの・ほろ学校だから、火の車だ。なに 群集は、はやしたてた。 しろ、おれなんかの給料は、ひと月おくれだからな。」 吾一は母校のことなので、つい立ちどまって聞いていた「それじゃ校長が株でもうけたなんて、うそですね。」 が、校長が株をやっているなぞということは、じつに意外「株のことなんか、おれは知らんよ。」 だった。この連中は学生のくせに、よくこんなことをほじ「先生でさえ知らないようなことを、どうして生徒が知っ くり出してくるものだなあ、と、あっけにとられていた。 ているんでしよう。」 もし、これが事実なら、自分も校友のひとりとして、黙「はははは。おまえにこんな話をするのはどうかと思う っているわけにはいかない。彼は今夜の授業を休んで、事が、そういう演説には、ちゃんと材料の出どころがあるん 実の真相を突ぎとめようと思った。彼はまず教員室のほう だよ 0 」 へ駆けていった。次野先生に会おうと思ったのである。し「へえ、どっから出るんです。」 かし学校の中は火事場のような騒ぎで、どうすることもで「あれはな、生徒が演説をやっているんじゃない。教師が きなかった。 やっているんだ。・ヒール箱の上に乗っかっているのは生徒 彼はその足で、すぐ次野先生の所に行ってみた。次野はだが、あれはただの人形だよ。学校騒動っていうと、世間 授業のない日なので、うちで小説を書いていた。吾一の話では生徒が騒いでいるように思っているけれども、本当は を聞くと、 生徒が騒いでいるのではない。生徒を騒がせているのだ。」 「そうか。とうとうそんなことになったか。 どうも悪「先生のうちに、そんな人がいるんですか。」 石 い世の中になったな。世間が騒がしいと、学校にまで、 「こわい世の中だよ。同じ学校で働いていながら、内実は の ろんなことが移ってくるて。」 敵みかただ。どこの学校でもとは言えないが、たいていの 次野は長いキセルをくわえながら、困った顔をしてい学校には、中に党派があってな、お互いに、あい手の落度 ・路 こ 0 を見つけ出しては、たたき落とそうとしているのだ。」 「まるで、内閣の取りつくらですね。」 「先生、校長さんが株をや 0 てる 0 て本当ですか。」 「さあ、そんなことはどうかね。 やり手なことは、や「そうだ。今度のような場あいは、内閣の取りつくらだ。

6. 現代日本の文学12:山本有三 集

んでみたかった。 次野先生じゃないかしら ? 「だめだよ。ぎようは忙しいんだから : : : 」 直観的にそう思った。先生がいなかにいた時分、「孤松」 なんて号を持っていたかどうか知らなかったが、原稿の字職工は原稿をとりあげて、どんどん拾い始めた。 を見ていると、どうも作文を直してもらった時の筆と、そ「この、次野って先生、名まえなんてんでしようね。」 つくり同じだ。 「孤松じゃねえか。」 次野という名字 ( みようじ ) は、そうざらにある名字で「いいえ、本当の名まえ。」 「そんなの、知るもんかよ。」 はない。それに先生は文学をやっているのだから、こうい あ「もう、えらくなってる人なんでしようか。」 う雑誌に書くのも不思議ではないような気がする。 自分なそが突然たずねていっても、会ってもらうことは あ、これが先生の原稿だったらー 先生には国の停車場でわかれたっきりだ。もう、まる一できないだろうか。そんなことを心配しながら、吾一は聞 いてみた。 年以上も会わない。 いなば屋のおじさんに手がみを出して、先生の住所を聞「えらいことなんかあるもんか。どうせ、三もん文士さ。」 自分のおそわった先生を、こんなふうに言われるのは、 いたのに、おじさんはとうとう返事もくれなかった。一 吾一にはたまらなかった。しかし、あい手はかまわず続け 度、先生に会いたいなあ。先生はどうしているかしら。 」 0 「おい、どうした。 どこまで取ったのだ。」 まだタ・ハコを吸っていると思っていたのに、さっきの職「追いこみの二段じゃねえか。追いこみの原稿なんか書く やつに、ろくな者はいやしないよ。」 工がもう帰ってきてしまった。 吾一はすこし寂しくなった。彼は先生のために、ひとこ 「あの、まだ一字も拾ってないんです。 : : : 」 石 「・ハカ野郎、拾わしてくれなんて言ってながら、何をやっと言いたいと思って、ロを出そうとすると、 の 「うるせえな。少し黙っていろよ。出張校正で、今、急が てやがったんだ。さあ、どいた。どいた。」 路「これ、とらしてくれませんか。この原稿を書いた人、れてるんだから。」 と、しかられてしまった。しかし、出張校正ということ どうも、わたしの先生のような気がするんで : : : 」 次野先生の原稿なら、自分が一字もまちがえずに拾 0 てばを聞いて、気もちが急に明るくな 0 た。それじゃ、こと みたいし、先生がどんなものを書いているのか、それも読によると、雑誌社の人ばかりでなく、先生も来るかもしれ

7. 現代日本の文学12:山本有三 集

「こん畜生、つき合いを知らねえ野郎だな。」 「まあ、一度行ってみろよ。おめえ、行くと、もてるそ。」 その声といっしょに、突然、黒いものが吾一のほうへ飛 んできた。 「なあ、おい。たまにやっき合えよ。」 吾一はぎよっとして、あとへすさった。すさりながら、 吾一は、からになった弁当箱を向こうへ押しやって、ぶ ほとんど無意識に、左の腕をかざして、飛んできたもの いと立ちあがった。 を、さえぎった。おかげで黒いものは顔に当たらなかった 「おい、どこへ行くんだ。」 けれども、手首の所を少しやられた。あい手が投げつけた 「学校へ行くんだよ。」 ものは、植字に使うはさみだった。 「夜学なんかよせ、そんなつまんねえとこ。」 炊事場のじいやは、さっきから、はらはらしていたが、 あい手の語調が急に変わった。 「おれがっき合えって言ったら、つき合ったらいいじゃねそれを見ると、あわてて向こうを抱きとめた。吾一のほう えか。きさまだけだぞ、つき合わねえのは。」 は、そばにいた者がかばって、へやのそとへ連れだした。 「どうした。けがをしやしなかったかい。」 「そ、そんなことを言ったって : : : 」 「なあに、たいしたことはないよ。」 「きさま、どうしても行かねえって言うのか。」 あい手はむつくり腰をもちやげて、吾一の前に立ちはだ黒く血のにじんでいる手首をおさえながら、吾一は言っ こ 0 カ十ー 「だいたい、きさまはなま意気だぞ、雑誌に投書なんかし「本当にしようのねえ野郎だな、あいつは。」 ああいう時 「あいつに見こまれたら、かなわねえよ。 やがって。そんなことをするひまがあったら、おれたちに には、おめえ、あっさり、つき合っちまうほうがいいんだ つき合え。」 石 「おれには、そんな、余った金はねえよ。」 の と「だって、おれは遊びになんか : : : 」 「ねえことがあるかい。しらばっくれやがって、おい、・ っしょに、行かな 「そこだよ。行くのがいやだったら、 路っちにするんだ。行くのか。行かねえのか。 吾一はこんなやつのあい手になっていては、学校が遅れくったっていいんさ。少し出しやすむんだよ。」 てしまうから、黙 0 て、すう 0 と、そと〈出ていこうとし「どうして、おれが出すんだい。」 「どうしてってこともねえが、おめえ、こんど金がはいっ

8. 現代日本の文学12:山本有三 集

135 路傍の石 だ。その名まえを生かすようにしなくてはいけない、って秋太郎が座しきから飛んできて、珍しそうに吾一をなが 言ったのに、 そして自分も先生にそう言われて以来、めた。 本当にいい名まえだと、ひそかに誇っていたのだが、そん「お・ほっちゃん、そんなふうにおっしやるんじゃありませ ないい名まえを、親にさえひとことの相談もなく、急に雲んよ。」 助と親類のような名まえにされてしまったので、吾一はひ大番頭は柔らかいことばの中に、重みを持たせて、主人 どく、情けない気がした。どうしても変えなくてはいけなのむすこに注意した。 いのなら、せめて、もう少しなんとかした名まえにしても「どうして。」 らいたいと思ったけれど、老眼鏡を落っこちそうにかけて「これはもう吾一じやございません。お店に来ては、五助 いる、肉のこけた、しわだらけの主人や、自分をつれてきってことになったのですから、『五助』って、お呼び捨て てくれた大番頭の前では、彼はなんにも言えなかった。 にならなくちゃいけません。」 「いいかい、わかったね。『五助』って呼ばれたら、すぐ「五助 ? へんな名まえだね。」 に「へえ』って、返事をしなくっちゃいけませんよ。」 「ちっとも、へんなことはございません。そのほうが呼び 大番頭は、もう一度念を押すように言った。おれんのむ しいのでございます。」 すこだから、いたわって、さとすように言ってやったつも「おれには、『吾一ちゃん』って言うほうが、よっ。ほど呼 りなのに、さつばり通じないで、吾一は首をさげただけなびいいや。」 ので、 「いけませんよ、お・ほっちゃん、そんなことをおっしやっ 「それ、それ。そんなこっちゃだめですよ。すぐに『へちゃ。もう、お友だちではないんですから、『五助』って、 え』と言えなくっちゃ。 どうも、まだ、ろくろく返事お呼びにならないと、店のしめしがっきません。」 もできませんであいすみませんが、 : おいおいにしこん「でも、なんだかへんだな。」 でまいりますから、何ぶん一つ : ・ : へえ。」 学校の友だちを、そんなふうに呼ぶことは、秋太郎には 忠助はもみ手をしながら、とりなすように言った。 実際少々にが手だった。 それから彼は、忠助につれられて奥にあいさつに行っ それよりも、吾一のほうはもっとつらかった。学校では 」 0 いくじがないので、 一番びりのほうにいたやつに、 「ああ、吾一ちゃんが来た。」 つもさげすんでいたやつに、五助、なんて呼び捨てにされ

9. 現代日本の文学12:山本有三 集

よりは、上に立っている連中の差し金なことは、知れきっ りではない。自然もまた彼に身かたをしないで、日本特有 た話だからである。おもて向きは、手うちになったようなの風水害は、徳川時代からの、ゆいしょのある家をめちゃ ものの、庄吾にしてみれば、この恨みは忘れられなかつめちゃにしてしまった。雨でゆるんだうら山の一部がどっ た。だから、今、進行中の、村長をあい手の訴訟事件にしとくずれてきたために、ひとたまりもなく、押しつぶされ ても、ただ山林の所有あらそいだけではない。もとを洗うてしまったのである。 と、じつは、ここから尾を引いているのであって、村の代田はたは水に流されなかったが、それはもう、とうにひ 表者たちを、たたぎつけてやろうという考えも、多分に含と手に渡 0 ていた。おじいさんに育てられた、世間みずの まれているのであった。 お・ほっちゃんは、こうして家やしきを奪われ、田地を失っ はたちになった時、彼は家督を相続した。それからまもて、水のみ百姓よりももっとあわれな姿になって、町の路 なく、嫁を迎えることになったのだが、その矢さきに、は地うらに引っこまなければならなかった。こういう境遇に からずも、彼は後見人の不正を発見した。いくら交渉して落ちこんでも、悪いことには、彼は自分のおい立ちを忘れ も、らちがあかないので、彼はついに後見人を訴えた。しなかった。不都合なのは、どこまでも時勢であり、世間で かし、訴訟には勝 0 たけれども、あい手はうまく立ちまわあ 0 て、けっして、それ以外の何ものでもなかった。彼は って、財産を隠してしまったから、ほとんど何も取ること世をのろい、人を信じなかった。「人を見たら、どろ・ほう ができなかった。自分の代になって、多額の財産を失ったと思え。」ということは、彼にとっては、もうことわざで ことを、彼は祖先にたいして申しわけなく思った。彼はな なくって堅い信仰になっていた。 んとかして、その損失を埋めたいと思った。それでいろい 彼はまた、じみちに働くことをさげすんでいた。人がロ ろなものに手を出した。 = ワトリの千ば飼いがもうかるとを世話しても、彼はほとんど、あい手にならなかった。こ 石 言われて、彼はあいている地面に、高い値でつかまされたっこっ働くことは、卑しい人間のやることであって、自分 の = ワトリを、たくさん飼った。しかし、ひなをかえすよりのようなものは、手あしを動かすべぎものではないという 路も前に、親どりが病気になって、ばたばた倒れてしまつのが、彼の生活の立て前だった。代々ねんぐ米の上にひる た。それから、オオ山さまの隣の山から、鉄が出るとい寝をしてきた家がらなので、労働をしないで食ってゆける 四う、うまい話に乗せられて、発掘を始めたが、掘れば掘る生活が、彼の理想の生活であった。彼は日ぶらぶらしな ほど、それは自分の家に穴をあけるだけだった。そればか がら、何かうまいもうけロはないかと考えていた。ある

10. 現代日本の文学12:山本有三 集

になってしまった。彼はぞうさもなく、自分の望みがとげかにもいたまし いが、しかし、二匹まで、大ものをまつぶ られたので、少しあ 0 けない思いがしたが、しかし、それたつにした手ぎわを思うと、「どうだ、おれの腕はー」と とともに、すっかり元気が回復して、いま一匹も、同じ手 いう気もちが、腹の底でうなっていた。やがて、狩りゅう ぎわで、しとめてやれという気にな 0 た。ところが、彼がどたちもそこへ集ま 0 て来た。十蔵は狩りゅうどの手を借 一頭を退治しているあいだに、もう一頭は彼の家来のほう りて、家来の死体をねんごろに葬ったあと、切り捨てた野 に襲いかかったものと見えて、家来は今や下の谷あいに押ジシをかつがせて、得意げに山をくだって行った。ところ しつめられ、死にもの狂いになって、刀を振るっている最が里へつくと、村の子どもたちは、切ったイ / シシを見て 中だった。十蔵はそれを知ると、すぐさま救いに飛んで行笑いだしたし ったが、山にはまだ雪が多かったので、なかなか下へはお「なんだ、これは。こんなふうに切っちまっちゃ、だめじ りられなかった。そのひまに、無残にも、供の者は野ジシ ゃねえか。皮がちっとも役に立たねえや。」 のきばにかかってしまった。供の者も必死に戦 0 たにはち十蔵はそれを聞いて、はっとした。猟師たちはわざと黙 がいないが、彼の腕では力が及ばなかったものらしい。家っていたらしいが、無邪気な子どもは、だれが打ちとめた 来を見ごろしにした十蔵は、歯がみをして、くやしがつのか知らないものだから、平気でそんなわるロを言ったの こ 0 ・こっこ 0 「ようし、今、かたきを討ってやるそ。」 その夜、十蔵は家来の通夜 ( つや ) をしてやりながら、 彼は谷に飛びおりるが早いか、いきり立 0 て、その野ジ年おいた狩りゅうどから、イノシシをしとめる仕方を聞い シのほうに向かって行った。そして、今度も突っかかってた。その老人の話によると、シシが尾を立てて飛びかかっ くるところを、とっさに身を開いて、横ざまに切りつけてきた時、身を開くことはその通りでよいが、身を開いた た。すると、枯れ木を切るように、また、たちまち、ま 0 途端に、頭や胴を切 0 てはならない。必ず鼻ばしらを切ら ぶたつにな 0 てしま 0 た。イノシシは五、六間の所に近づなければいけないと言うのだ。シシの急所は鼻ばしらだか くと、すり切れたし 0 ぼを急に立てて飛びかかるものだら、そこさえ切り落とせば、イノシシはくるくるまわ 0 て が、向こうが尾を立てたと見たら、すぐに身を開いて、はしまう。その時、飛びこんでのどを突けば、どんなもので っしと切りおろせば、たいてい胴ぎりにできることを、彼も、わけなく倒れてしまう。もし一刀でのどが突けなけれ はその場で会得 ( えとく ) した。家来を失ったことは、し ば、わきの下を突いてから、のどをねらうがいい 。そうす