中学校の入学受験準備をしてやるのがおそいって、がみが「世の中って、そんなもんじゃないかな。」 安吉はお酌をしながら言った。 「へえ、申しわけありません。』って、 み言うから、 「ああら、めでたや : : : 」 その場で頭をさげてしまえば、なんのこともなかったのだ まんざいのしやがれた声が、くたびれたようなツヅミの ろうが、僕には僕の考えもあるからね。少しばかり、こっ ちの意見を述べたんだよ。それがまあ、よくなかったんだ音といっしょに、表のほうから流れてきた。 次野は二、三杯たて続けに、杯をかさねたが、 ろうね。」 「少し君に頼みたいことがあるんだがね。」 「なるほど。」 「校長の意見では、この町にできる中学校だから、この町と、急にしんみりした調子で言った。 の小学校から受けに行く者は、みんな入学でぎるぐらいの「裏の子どものことなんだけれど、君もあの子をかわいが とうだろう、あの子に学資を出しても っているようだが、・ 成績でなくっちゃ、学校として不名誉だ、というのだ。と らえないかね。」 ころが、僕はまだ、だれが中学へ行くのかさえ調査してい なかったのだ。それで、すっかりごきげんをそこねたわけ「そうだね。 さ。しかし、僕としちや「おまえは中学へ行くのか、それ安吉はつぎつばなしになっている自分の前の杯を、じい っと見つめていた。 じゃこっちへ来て勉強しろ。中学に行かないやつは、向こ 「安さん、僕はああいう子どもを、中学に入れてやりたい うへ行け。』なんてことは、じつにいやだからね。」 のだ。あれは見どころのある子どもだよ。」 「そりやそうだ。 で、どうかたがついたのだい。」 「そりや、わたしも考えないことじゃないが、しかし、そ 「どうもこうもないさ。校長の命令じゃないか。 いつはどうかな。」 ま、入学志望の者を調査中だよ。」 「どうかなって、言うと・ : : こ 石「どれくらいある。」 冫ーいかないと思うのだ。」 の「まだ、わからないが、あまりなさそうだよ。 , ーー僕は慨「なかなか、そう簡単こよ 「どうして・ : : こ 嘆にたえないんだが、こういう生徒こそ、はいるほうがい いと思う者は、家庭の事情ではいれないで、はいったって「あの子のおとつつあんは、士族だからね。」 しようがないってようなやつが、はいりたいって手をあげ「士族だって、別にかまわないじゃないか。」 「立ちゃんはだめだね。そんなこっちゃ、小説は書けやし るんだ。」
「うん。もう、随分まえから寝ているんだ。」 ら、ボタン色のはなおが、ばっと目に飛びこんだ。もうだ 「そうか。 、ぶ、はき古されたものらしいが、でも、それが暗い土間 吾一は思わず、ため息をついた。母の病気まで疑ったこにあたたかい色を浮き出させていた。 とを、彼は心から恥ずかしく思った。 だれか出てくるかと思っていたけれども、だれも出てこ 「それで、君のにいさんが働いてるのかい。」 なかった。出てこなくってもいい ・ : 彼はそう思って、 「うん。」 そのまま帰ろうとした。その時、ふいに、彼の前に手をつ 「もっと大きいにいさんはいないのかい」 いた者があった。 「いるけれど、遠い所へ行っているんだ。」 あいさつもせずに手をつかれたので、吾一はどぎまぎし 「遠い所って、どこだい。」 て、彼もまた、びよこりと、頭をさげた。そうしたら、先 「どこだか知らないや。ねえさんに聞いても、言わないん方はさらに丁寧にお辞儀を返した。 だもの。」 多分、この人がさっき少年の言った、ねえさんなのだろ 「ねえさんがあるのか。」 う。お辞儀をしているので、顔は見えないが、頭のトキ色 「うん。」 の根がけが、シャクナゲの花のように、におっていた。 吾一は、弟のけがの見まいを言おうと思ったが、どうし 吾一はせんべい屋の前で立ちどまった。彼はそこで塩せ うものか、ちっともことばが出てこなかった。下を向いた んべいをひと袋買った。 まま、ただ突っ立っていた。娘のほうも頭をさげたままだ 「すまないが、君、これ持ってってくれ。そうして、にい が、それでいながら、こっちの心もちも向こうに通 さんにやってもらいたいんだ。」 じたような気がするし、向こうの気もちも、彼にはよくわ 遠慮する少年に、彼はせんべいの包みを渡した。 石 かっていた。 少年の家は七、八町ばかり行った所の、寂しい裏どおり の 「さようなら。」の意味のお辞儀をもう一度して、彼は静 の、そのまた路地の奥だった。 かに、そこを去った。 路「行ってきたよ。」 少年は大きな声を出して、うちの中へ駆けこんでいっ彼は夢の中を歩いているような気もちだった。なんだか 引た。吾一はとり残されたように、入り口に立っていた。知らないが、妙にわくわくして、足がちっとも、土につか なかった。ふらふらと路地の出口まで行ったが、彼は急に と、乱雑にぬぎ捨てられている子どものゲタのあいだか
んでみたかった。 次野先生じゃないかしら ? 「だめだよ。ぎようは忙しいんだから : : : 」 直観的にそう思った。先生がいなかにいた時分、「孤松」 なんて号を持っていたかどうか知らなかったが、原稿の字職工は原稿をとりあげて、どんどん拾い始めた。 を見ていると、どうも作文を直してもらった時の筆と、そ「この、次野って先生、名まえなんてんでしようね。」 つくり同じだ。 「孤松じゃねえか。」 次野という名字 ( みようじ ) は、そうざらにある名字で「いいえ、本当の名まえ。」 「そんなの、知るもんかよ。」 はない。それに先生は文学をやっているのだから、こうい あ「もう、えらくなってる人なんでしようか。」 う雑誌に書くのも不思議ではないような気がする。 自分なそが突然たずねていっても、会ってもらうことは あ、これが先生の原稿だったらー 先生には国の停車場でわかれたっきりだ。もう、まる一できないだろうか。そんなことを心配しながら、吾一は聞 いてみた。 年以上も会わない。 いなば屋のおじさんに手がみを出して、先生の住所を聞「えらいことなんかあるもんか。どうせ、三もん文士さ。」 自分のおそわった先生を、こんなふうに言われるのは、 いたのに、おじさんはとうとう返事もくれなかった。一 吾一にはたまらなかった。しかし、あい手はかまわず続け 度、先生に会いたいなあ。先生はどうしているかしら。 」 0 「おい、どうした。 どこまで取ったのだ。」 まだタ・ハコを吸っていると思っていたのに、さっきの職「追いこみの二段じゃねえか。追いこみの原稿なんか書く やつに、ろくな者はいやしないよ。」 工がもう帰ってきてしまった。 吾一はすこし寂しくなった。彼は先生のために、ひとこ 「あの、まだ一字も拾ってないんです。 : : : 」 石 「・ハカ野郎、拾わしてくれなんて言ってながら、何をやっと言いたいと思って、ロを出そうとすると、 の 「うるせえな。少し黙っていろよ。出張校正で、今、急が てやがったんだ。さあ、どいた。どいた。」 路「これ、とらしてくれませんか。この原稿を書いた人、れてるんだから。」 と、しかられてしまった。しかし、出張校正ということ どうも、わたしの先生のような気がするんで : : : 」 次野先生の原稿なら、自分が一字もまちがえずに拾 0 てばを聞いて、気もちが急に明るくな 0 た。それじゃ、こと みたいし、先生がどんなものを書いているのか、それも読によると、雑誌社の人ばかりでなく、先生も来るかもしれ
合いがないわい。酒の味、女の味なら、われら年来たしな 合をする場所になっていた。そこは見物席と同じように、 ゃねもなければ、ゆかもない、吹きさらしの野天で、早春んでいるが、いまだこの年にいたるまで、刀の味というも ののどかな光が、かわいた土の上で、ほこりといっしょのを知り申さぬ。刀の味というものは、どんな味のいたす に、明るくおどっていた。そして、いうところの剣術無双ものか、たまには、ひとタチぐらい、お見まいを受けてみ の者は、やわらかい日ざしのもとで、いかにも軽がると鉄たいものじゃ。」 扇を扱いながら、抜き身を振りまわしている町人ふうの男白あやのはち巻きをし、同じ色のたすきを十字にあやど った剣術つかいは、鉄扇を開いて、おおように風を入れな をあい手にして、しきりにからかっていた。 しろ女と手を切るがら、あい変わらず、見物に向かって大きなことを言って 「そんなことでは切れるものではない。、 ことだってできはしないそ。 それそれ、こっちだ。こ っちだと言うのに。ここがこんなにすいておるではない 「どうだ。だ、ぶ詰めかけておるが、このうちに、ひとり 、刀 なんだ。また空 ( くう ) を切ってしまったのか。 や、ふたりぐらい、拙者を切ってみようというご仁 ( じん ) 空を切るのではない。拙者のからだを切るのだと申すに。 はござらぬか。どこなと随意に切ってもらいたい。小手な そら、今度はどうだ。ここなら切れそうなものではな りと、胴体なりと、または、まっこう、から竹ふたっ割 いか。こんなにからだが遊んでおるのだ。ーーー何をそんな り、おのおのがたの勝手次第じゃ。われらはいのち知ら に考えているのだ。 さあ、切ってこい。ずばりと見ごず、天下無双の剣術つかいだ。どんな仁が飛びこんでこよ うとも とにやってくれ。たまには切られてみたいものじゃよ。は 。どなたとでもおあ いっかな、あとへは引かオし ははは、きたか。おっとっと。 いやいや、腕のないやい手をいたす。さあ、腕に覚えのある者は出て来さっしゃ みつというものは、仕方のないものでござる。もうタチを持 人間を切ってみたいというご仁は、遠慮なくここに進 しつことさえできぬそうな。うははははは。」 まっしゃい。われらは天下無双、いのち知らずの : : : 」 や彼は鉄扇をもって、たちまち、あい手の刀を打ち落とし「ええ黙れ。」 ふてしまった。町人は苦笑しながら見物席へもぐりこんでし人もなげなることばをもてあそんでいるので、十蔵は先 刻からじりじりしていたが、なかなか前に出られないの 「お次は、たれじゃ、もう少し手ごわいやつはないか。せで、彼はとうとう、人ごみの中から剣術つかいをどなりつ めて拙者に手きずなどおわせる者がないと、さつばり張りけた。
お天とうさまが引き合わせてくだすったにちがいない。発にすわっていて、だんだん商売のほうを見ならっていかな 車までには、あと七、八分しかないから、彼は、是非、先ければならない。しかし、品ものの名まえを覚えるだけで 生をお見おくりしたいと思った。 も容易ではなかった。品ものの種類は無数にあり、しか 「いやいや、そんなにしてくれなくってもいい。奉公に行も、似よったものがたくさんあるから、初めのあいだは、 ったら、店が第一だ。おそくなってしかられるといけないどれがなんだか、さつばりわからなかった。学校のように から、早くお帰り。」 説明してくれると、すぐわかるのだが、品ものを取って、 と、先生はせき立てるように言った。 いちいち、教えてくれるような人はひとりもなかった。だ しかし、しかられたって、どうしたってかまわないか から、店にいる時、番頭から糸おりを持ってこいとか、 ら、先生の姿の見えなくなるまで、彼は改札ロの手すりに「ふうつう」を持ってこいとか言われると、そのたびにび つかまっていたいと思った。けれども先生ばかりか、送りくびくした。ちょうど予習をしていかない生徒が、先生に にきていた、いなば屋のおじさんまでそう言うので、吾一当てられやしないか、当てられやしないかと、教室でおど よ、つこ 0 はそれに従わないわけこよ、、 おどしているようなものだった。 彼はなんども、うしろを振り返りながら帰っていった。 「おめしのノジアーン ! 」 途中で、ゴーツー という汽車の響きを聞いた。無論、汽店さきにすわって、お客と応対している番頭たちは、お 車は見えないが、彼は停車場のほうを向いて、丁寧にお辞客の注文に応じて、品ものの名まえを言うと、うしろに控 儀をした。 えている小僧は、 「おそいじゃよ、 オしか、どこをほっきまわっていたんだ。」 「へえ、おめしのノジアーンー」 ちっとも道くさなんかしないのに、店の / レンをくぐる と、ふしをつけてくり返しながら、その品ものを蔵に取 か、くぐらないうちに、もうそういうことばを浴びせられりにゆくことになっているのだが、その時はほかにだれも た。前かけをしめては、ロごたえは禁物だから、「へえ、 いなかったので、吾一がそれをやらなければならなかっ すみません。」とお辞儀をして、店のうしろのほうに、 た。吾一も「おめし」ぐらいはやっと覚えたが、「ノジア さくなってすわっていた。 ン」というのは、なんのことだかちっともわからなかっ はいりたての小僧は、たいていは裏の用か、ア職 ( したた。それで、立ちあがってはみたものの、まごまごしてい じよく ) への使いときまっているが、用のない限りは、店ると、
いらなかった。しかし、声だけは、 ビンビン響く彼の 「こんなにいい天気じゃねえか、今やれねえんなら、あし 声だけは、クギを打たれるように、ズシン、ズシン、吾一たになったって、やれるもんか。」 のからだの中にめりこんだ。 彼は火のそばにいながら、ちっとも火を感じなかった。 「あしたやるなんて言うのは、できねえからだ。できなく そのくせ、すきまもなくやねにかぶせてある松の葉のあい って逃げようと思っているんだ。よわ虫 ! 」 だから、金粉のようにこまかく、小屋の中にこぼれてくる「ようし、そんなこと言うんなら、畜生、今、やってやる 日の光だけは、ありありと、彼の目にうつっていた。こんともー」 「吾一ちゃん、大丈夫 ? 」 な場あい、そんなものをながめているひまなぞないはずだ が、吾一は不思議に、そのきらきらする金粉に見とれてい おきぬは、自分で言いだしたことではあるが、なんだ こ 0 か、こわくなってきたので、吾一の顔を心配そうに見まも 「おい、吾一ちゃん。どうしたんだ。なぜ黙っているんった。 「大丈夫だよ。」 女にそう言われて、今さらだめだとは言えなかった。し 「できねえんか。 そうだろう。できねえんだろう。さかし実際は、大丈夫どころか、吾一は鉄橋にぶらさがった ことなど、一度もないのである。その場の行きがかりで、 つき言ったなあ。ありや、みんな、うそなんだろう。」 つい、あんなことを言ってしまったのだが、本当に、ぶら 「うそなもんかい。」 吾一は急に作次のほうを向いて、はね返すように答えさがれるものか、ぶらさがれないものか、彼にはちっとも 目算がないのである。こうなってくると、おきぬが自分に た。しかし、その声はかすれていた。 肩を入れてくれたことが、むしろ、恨めしかった。彼女が 石「そんならやってみろ。」 かばってくれればくれるほど、しり押しをしてくれればく の「やってみるとも。」 れるほど、彼はかえって、窮地へ追いこまれた形だった。 「今、すぐにだそ。」 路 しかし、そんなことを言ったところで、もう、どうにもな 「あした、やるよ。」 らなかった。 「あした、なんてだめだい。今、すぐにやれ。」 「それじゃ、どこの鉄橋にする。」
こ のはそのことかい」 「出てもいい。本当のことを言えってなら、かまやしない 「そうなんだ。じつは、そのことでやって来たんだよ。あじゃよ、 オしか。ーー専ちゃん、知ってるんだろう。」 りようは、ひかれた源さんて人のせがれが、おれの工場に「知らねえんだよ。さっきから、そう言ってるじゃねえ いるんだ。なんでも、ゆうべ、あんたの所へ話しに行った か。それを言わせようってのは無理だよ。」 そうだが、なかなかあんたが承知をしてくれない。そこ専吉は「ぐえつ。」と、ことさら大きくげつぶをした。 で、おれん所へ頼みに来たって寸法なんだ。どこで聞いて「おめえさん、このほうを心配しているんじゃねえか。」 来たのか知らねえが、おめえさんとおれとのつながりを知長治は軽く首すじへ手を当てた。 っていてね、おれから是非につてことだもんだから : : : 」 「そりやもっともだ。だれにしたって、余計な口をき て、職場をなくなしちゃった日にや、たまらねえからな。 「どうだい、専ちゃん。ひとはだ、ぬいでくれないかね。」しかし、そのことについちゃ、おれたち、みんな考えてい 「せつかくだけれど、そいつはおことわりしますね。」 るから、専ちゃんを見ごろしにするようなことは、しやし 専吉はからの杯の底で、チャ・フ台の上に字を書き始めねえよ。第一、本当のことを言って首になるなんてこと は、どう考えたってありつこねえと思っているが、万々 「どうして。」 一、そういうことがあったとしても、必ずロは見つけるか 「どうしてったって、わたしゃあ、初めから知らないってら、そのことなら、安心していてもらいたいんだがな。」 言っているんだ。今さらになって、こうこうでございまし専吉はそれにもなんとも答えないで、ちょうどそこへ帰 たってわけには、 いかないじゃよ、、。 って来た女房の顔を見ると、がみがみ頭からどなりつけ ノし、カ」 「何かい、専さん。これについちゃ、会社のほうに言質でた。 も取られてるのかい。」 「どこへ行ってやがるんだあ。お客さんだというのに。 「そんなことはありやしないよ。課長さんは証人に出るん おチョウシを早くしないか。」 なら出てもいい、って言っていなさるくらいなんだ。出て「おなっさん、つけないでください。つけるんじゃありま もかまわないから、本当のことを言わなくっちゃいけなせんよ。おチョウシは、もう結構。おらあ、お客さんじゃ っておっしやるんだが、わたしゃあ、その本当のことないんだから、どうか、かまわないでおくんなさいよ。」 が禁物なんでね。」 「いいえ、ちっともおかまいしないで : : : 」
「だけど、うちのおとつつあん、言ってたよ、中学へ行っ 京造は、そのことばが聞こえなかったのか、 たって、五寸角はかっげねえって。」 ないはずはないと思うのだが、 「中学校は材木やじゃねえよ。」 「秋ちゃん、おめえ、本当に中学に行くのか。」 吾一はすばやく切り返した。 「そ、それはそうだけど、なに商売にも役にたたねえって と、急に秋太郎のほうに、からだをねじってしまった。 わざと避けたわけではないのかもしれないが、吾一にはさ。」 ことばでは京造はさつばり、さえなかった。向こうがた その態度が不愉快だった。 じたじとなったところをおさえて、五口一は上のほうから言 「うん。行くよ。」 っこ 0 秋太郎は軽く答えた。 「たっか、たたねえかは、やってみなくっちやわかんねえ 「・ハ力だな。中学になんか行ったって、どうするんだ。」 「だって、おとつつあんが行けってんだもの。」 と、作次は急に横から吾一に迫った。 「おとつつあんが言ったってさ・ : ・ : 」 「そんなこと言って、おめえも中学に行くんけえ。」 「そうだとも、中学なんかつまらねえや。よせ、よせ。」 おら、どうだかわ 「おらあ、どうだかわかんねえよ。 作次もそばからロを出した。 そのころ、この小さい町では、中学というものは、そんかんねえが、中学へ行っちゃいけねえってことはねえじゃ なに歓迎されなかった。中学なんかやると、なま意気になねえか。行っていけねえもの、県庁で建てるわけがあるけ るというのが、一致した意見だった。それが自然にここに 反映したわけだろうが、しかし吾一は、こんなふうに秋太吾一にこう言われると、反対派はまともに突っかかって いくことは困難だった。作次はまた、側面からからんでい 石郎がみんなからやられているのを見ると、なんだか気の毒 っこ 0 のになった。彼は、けさ、秋太郎を迎えに行ってやらなかっ 傍 たので、なんとなく気がひけていたところだったから、秋「ふん、そんなこと言うんなら、おめえも中学へ行ったら しいじゃねえか。」 太郎をかばってやる気になった。 「おら、わかんねえよ。わかんねえって言っているのに、 「そんなこと言わなくたっていいよ。きたい名は、行っ わかんねえ人だな。」 たっていいじゃないか。」 聞こえ
てしまうか、ここが一生のわかれ道だった。吾一はかねて 「そう、その通り。」 から、はいりたくってたまらなかった。先生も、おまえ と、次野先生は満足そうに言った。 と言ってくれた。だが、彼はすぐ 十へ、よいほ - っ・カしし 吾一は静かに腰をおろした。その時また、京造の目とか ち合った。京造の目は前よりも、もっと光っていた。光が手をあげて、「先生、はいりたいんです。」と、言えるよう 吾一の目に刺さった。彼はある痛みを感じた。しかし、そな、めぐまれた境遇にいるのではなかった。 ほかの者もみんな、はっきりしたことは言えないのだろ んなふうに、上のほうから見おろされると、今度は、彼も つい負けたくなかった。「でも、今のような答え、きさまう。お互いに顔を見あうばかりで、手をあげる者は、ひと にでぎるかい。」吾一はそういう目で、向こうを見かえしりもなかった。その時、 「先生。」 ちょっと、 と、立っている秋太郎が手をあげた。 「では、きようの修身はそこまでにして、 「わし、行きたいんです。」 みんなに聞いてみたいことがあるんだが : : : 」 をしいが、遅刻するようじゃ、入学試験は受から と、次野先生は急にことばの調子を変えた。そして、 「行くのよ、 今、町に建設中の中学校のことを話しだした。工事が遅れないぞ。」 て、ことしのまには合わないだろう、といううわさも立っ みんながどっと笑った。 ていたが、それはやはりうわさで、四月には確かに開校すそのほかには、中学に行ぎたいと、はっきり答えた者は る。また、その前には入学試験もおこなわれるはずであひとりもなかった。それでは、よくうちで相談してくるよ る。ついては学校でも、それにたいしていろいろ準備をすうに、と先生は言って、その時間はおしまいになった。 みんな運動場に出た。京造や秋太郎も許されて連動場に る都合があるから、中学校にはいりたい者は手をあげなさ 出た。 と先生は言った。 吾一は、けさ、さきに駆けてきてしまったことが、気が 吾一らの組は高等小学の二年だった。そのころの高等二 とがめて仕方がなかった。彼は「さっきはどうも : : : 」と 年というのは、今の尋常小学六年級に相当する。彼らはこ れから中学にはいるか、はいらないかの、ちょうど、わか言うかわりに、「遊・ほう。」と言って、にこにこしながら、 れ目に立っているのだ。中学にはいって、それからだんだ京造のそばに近づいていった。彼らのあいだでは、しばし ん上へのしていくか、それとも、この小さな町の土になつば「遊・ほう。」が「ごめんね。」「仲よくしようね。」に通用
としなかった。彼らはサイの代わりに、お手のものの活字けていった。 の画の奇数、偶数によ 0 て、それをそのまま、丁半に応用「すみません。タ・ ( 0 をす 0 ているあいだ、ちょ 0 と、や したのである。 らせてください。」 「すまねえ。『日』だよ。」 このあいだ、なま意気だといってなぐられて以来、吾一 活字を隠していたほうが、手を開いて、あい手に見せはしばらく活字を拾うことをひかえていたが、自分の仕事 た。『日』という活字が四画なことは、いちいち、勘定しがすんでしまったあと、手ぶらでいるのは、なんとして てみなくっても、商売がら、彼らはちゃんと知っていた。 も、たまらなかった。彼は仕事を覚えたい一心から、ま 「畜生、やられた。」 た、ちよくちよく、ケースにしがみつき始めた。 「いな穂の露にゆう日さす、玉をつくりしそのふぜい、あ「だめだよ。」 ら、おもしろき雲まより、 どうだ。もう一職工の声は荒かった。丁半に負けたうっぷんも、手つだ っているらしい。 前のように、活字の裏をうしろに突き出した。 「まちがわないように拾いますから : : : やらせてください 「半だ。」 「また半か。いいのかい、そんなに半ばかりかけて。」 「うるせえ野郎だな。 まちがうと承知しねえそ。」 「いいったら。半だと言ったら、半だよ。」 「大丈夫です。」 「どうも曲がりだすとしようのねえものだね。ーーー毎度あ吾一は喜んで、ウマのほうへ駆けていった。ケース台の りがとうさまと 0 そうれ、見ねえ、『寺』とおいでなことを、印刷所では普通「ウマ」と言っていた。多分その すった。」 格好から、そういうことばが起こったのだろう。 「勝手にしやがれ。おらあ、もうやめた。 背のびをして、彼はケースの上にのせてあった原稿をお 拾っていた雑誌の原稿をケースの上にのせたまま、負けろした。それから、いつものように活字を拾おうとした たほうの男は、ぶいと立って、窓のそばの、火・ハチの所へ時、彼は思わず、原稿紙の上のもじに引きつけられた。 行ってしまった。そして天井を見あげながら、くやしそう なんだか見たことのあるような字だなあと、まっさきに にタ・ハコをふかしていた。 思った。彼は急いで名まえの所を見た。名まえは次野孤松 それを見ると、吾一は小ばしりに、その職工のそばへ駆としてあった。