開されて、各地で壮烈な戦いが開始されました。雨のよう「ようございます。それでは、私たち、みんな捕虜になり に砲弾が飛びかう戦場には、両軍の軍旗にまじって、いつましよう。」 も、しろ地に赤い十字の旗が、あざやかな色でひるがえっ クララはぎつばり答えました。 ています。戦線にこの旗がひるがえったのは、この時が最こういうわけで、最初の赤十字社の看護婦たち ( プロシ 初でした。 ャ側の ) は、捕虜という形式で戦場にはいり、砲煙のあい それについて、おもしろい話が残っています。クララた だで立ち働いたのです。傷病兵を看護する天使のような人 ちが戦線へ出動するために、ストラス・フルクの近くまで行びとが、捕虜になって働くなぞということは、今から見る ったところ、びたりとプロシャの軍隊におさえられてしまと、吹き出したくなるほど、おかしな話ですが、これが当 いました。彼女は自分たちの使命を説明して、了解を求め時の実情だったのです。 ましたが、軍当局には、まだ赤十字社の仕事が十分にわか赤十字社というと、多くの人はすぐナイティンゲールの っていない時代だったので、表面では彼女らの行動にたい ことを思い出すに違いありません。彼女とクララとは、生 して、一応の尊敬を表しながらも、戦線を自由に駆けめぐ まれた国こそ違え、まったく同時代の人 ( ナイティンゲー ることを許しませんでした。すなわち、戦闘員以外の者がルは一八二〇年うまれ、クララは二一年うまれ、死去した 戦場に立ち入ることは、軍の機密が漏れるおそれがあるかのは前者が一九一〇年、後者は一三年です。 ) ですから、 ら、いけないというのです。さまざまな押し問答を繰り返最初に赤十字の旗のひるがえった、このフランス・プロシ した結果、軍当局は最後にしぶい顔をしながら、こう言い ャ戦争には、当然ナイティンゲールも参加しなければなら 婦ました。 ないはずですが、彼女はクリミャ戦争の時に、からだをこ の「それじゃあ、しかたがない。全部の者が捕虜になるんでわして以来、疲労が回復しなか 0 たために、ただ後方から たすな。捕虜になるんなら、まあ、許可しましよう。」 助言をあたえた程度で、クララのように第一線には立ちま と「捕虜になるって、みんな監禁されてしまうのですか。」 せんでした。読者の中にはクララが南北戦争のあと、へと 「いや、監禁はしないが、いったん戦場にはいった以上へとになって、ヨーロツ・ハの温泉に行ったことを、おおげ は、戦争がすむまでは、絶対に戦場から出ないということさな保養のように考える人があるかもしれませんが、婦人 こちらの行動が敵に漏れると困り がひとたび戦争の救護事業にたずさわると、どんなに心身 を、誓「てもらいたい。 ますからね。」 をそこなうものか、このナイティンゲールの例を見てもわ
クララはフランス・プロシャ戦争の経験で、戦争のわざびとに、救護の手をさしのべる・ヘきではないでしようか。 わいを少なくするためには、国際的な協力がどんなに必要戦争なら飛び出すが、ほかの災害では手をつかねていると どんなに有効かということを痛感していました いうのでは、赤十字の精神にもとるものと言わなければな から、これを非常に残念に思って、熱心に運動を続けましりません。クララは、こういう考えから、国際赤十字社本 た。この運動は、七年間も続きました。そして、やっとの部に、規約の改訂を求めました。すなわち赤十字の活動を ことで、アメリカにも赤十字社が創立されることになり、 戦時だけに限らず、平時にも適用しようというのです。 彼女が初代の総裁に推されました。その時、彼女はもう六 この改訂案はとどこおりなく通過しました。今日、各国 十を越しておりました。 の赤十字社が、ふだんの場あいでも、何か大きな災害が起 ところで、その赤十字社ですが、その後、さいわいに、 こった時には、ただちに出動して、その救済に乗り出すよ 戦争がしばらくのあいだなかったので、社が設立されてうになったのは、まったく彼女の、この改訂のおかげで も、活動する舞台はありませんでした。それは一面喜ばしす。 ( このあいだオサリザワのダムがくずれて、多数の死 いことには相違ありませんが、立派な組織を持っておりな傷者が出た時にも、たしか県の赤十字は出動したはずで がら、何もしないでいるということは、まことに宝の持ちす。 ) この改訂案が通過してからまもなく、アメリカには、 ぐされのようなものです。 大きな風害や、水害が続いて起こりましたが、赤十字がさ っそくこの方面に活動したために、救済事業が非常に早く 創立の趣意はとにかくとして、赤十字社が戦争以外のこ とに活動できないということは、あまりにせまくるしい考行き届いたということです。 えと言わなければなりません。一体、クララが南北戦争の彼女は赤十字社総裁の職を二十余年もっとめました。そ 時、危険をおかして傷病兵の石護にあたったのも、フランの二十余年のあいだに、 こういう風水害のために赤十字社 ス . ・。フロシャ戦争の時、病いを押して戦場に出たのも、ひが活動したことは十九回に達しました。また、アルメニア としく、人びとの苦痛を見すてておけなかったからではあが′ トレコ人の侵略にあって、その国土が荒らされた時に りませんか。そして赤十字社創立の精神も、また、じつに は、老齢のクララは赤十字社の部員を率いて、はるばるア それにほかなりません。それならば、たとい戦争ではなく ルメニアに渡りました。もうないだろうと思われた戦争 とも、不慮のわざわいが起こったような場あい、赤十字社が、ス・ヘインとアメリカのあいだに起こった時には、クラ はその完備した力をもって、災害のためにしんでいる人ラはすでに八十歳に近い高齢でしたが、病院船テクサス号
におちこんでいた市民救済は、こうして順調に進行しましリでも、同じように続けられました。そうして翌年の存、 こ 0 戦争が終わるとともに、ようやく終了しました。クララは 妃殿下の救済は、妃殿下が帰国されたのちも、なお続きほっとして胸をなでおろしました。 ましたが、しばらくすると、クララは妃殿下にあてて、じ しかし、それを待っていたかのように、ふたたび病気が つにすばらしい手がみを書きました。 彼女におそいかかってきました。そのために彼女は久しく 病床を離れることができませんでした。 妃殿下の格別のご恩恵は、ストラス・フルクの市民を、 晩年のクララ かえって物ごいになすっていらっしゃいます。どうぞ、 これからは、仕立てた物でなく、生地のままお送りくだ クララの髪は白くなりました。 さいますよう、お願い申しあげます。そうすれば、私は長ねん、婦人のからだには激し過ぎる活動をしてきたむ 市の人びとに仕事を分けてやることができましよう。 くいは、彼女の目もとにも、細い肩にも、争えないあとを あの人たちはフランスの支配を受けておりましたころにとどめました。あんなに勇敢に働いた彼女も、見たとこ は、りつばな職業をもっていた市民でした。ドイツの支ろ、いかにももの静かなおばあさんになってきました。し 配にはいったからといって、物もらいにしてしまっては かし彼女の社会的な活動は、まだ続いたのです。 ならないと存じます。 病気が少しよくなると、彼女はアメリカを国際赤十字社 に加盟させようとして、その運動を始めました。クララ自 婦かくて赤十字社本部は、まもなく裁縫の工場に変わりま身は赤十字社のためにあれほど働いていましたけれど、ア のした。そして、二百五十人の婦人が、毎日ここで働くこと メリカは、まだ赤十字の連盟に、はいっていなかったので たになりました。 す。アメリカの政府は代々、アメリカ大陸以外の国際政治 AJ この人びとは、もはや、他人の恵みによって生きているには、立ち入らないという、いわゆるモンロー主義を固く 戦人びとではなく、立派に賃金を得て生活する人びとでした。守っておりましたので、赤十字社創立当時から、繰り返し この工場で、一週間に千五百着の割り合いで製造された服勧誘を受けながら、どうしても加入しなかったのです。ほ 肪が、職業にありつけない市民たちに分配されました。 とんど世界中の文明国が、みな加盟したあとになっても、 こういうクララの活動は、メッツでも、セダンでも、パアメリカだけは孤立していました。
332 大事件というのは、一八七〇年のフランス・プロシャ戦なく、傷病者を救おうという、人道的な気運が動きだし 争です。フランスと・フロシャとの関係は、数年来、次第にて、国際赤十字社が創立されたことは、どなたもご存じの 切迫してきていましたが、この時、とうとう砲火をまじえとおりです。クララが赤十字社の役員の訪問を受けた時に は、もう本部がジュネーヴにおかれ、参加国にそれそれ支 ることになったのです。 すると、クララは思いがけなく、・ハーデン大公妃殿下の部が設けられて、組織だったものとなっていましたけれど 来訪を受けました。妃殿下はプロシャのウイルヘルム一世も、まだ、実戦にのそんだ経験はありませんでした。それ 陛下の王女にあたられる方で、ちょうどこの時、スウイスで、実際に戦場で働いたことのあるクララに、出馬しても に旅行中だったのですが、開戦の知らせを聞いて帰国されらいたいというのです。 だが、クララの病気はまだ直ってはいませんでした。鉛 る途中、わざわざクララを訪問されたのです。妃殿下はか ねて、クララが南北戦争のおりに振るまった、あのすばらのように重いっかれが全身に残っていて、とてもそんな、 しい活動を聞いておられたので、今度の戦争に対する救護激しい仕事を引き受けられるわけがありません。しかし、 施設には、是非とも経験のあるクララの助けを請おうと、役員のことばを聞いているうちに、彼女の目に浮かんでく るのは、血にまみれてうめいている兵士たちの姿です。肉 馬車を寄せられたのでした。 いや、公妃だけではありません。数日後には、国際赤十がさけ、骨があらわれている傷ぐちです。手あても受けず に、死んで行く兵士のむれです。そして、夫を失い、むす 字社の役員もまたクララをたずねてきました。もちろん、 戦線における傷病兵看護の方法を、彼女に指導してもらお子にさき立たれた、あわれな婦人たちの悲しい顔も、それ とかさなって、彼女の前に浮かんできます。こういう人び うというのです。 赤十字社は、創立されてから、まだ、まもない時でしとの苦しみが、そのまま自分の胸に感じられてくると、も た。十数年まえ、有名なナイティンゲールが活躍した、あうクララは、ほかのことなど考えてはいられません。彼女 のクリミャ戦役や、十一年まえ、北イタリーで行なわれたはとうとう病いを押して、救護に乗り出すことに決心しま ンルフェリノの戦いの時、護の手が行き届かなかったばした。 かりに、なん万という兵士が、生きながら地獄の苦しみを動員を早く終えたプシャ軍は、機先を制して、うしお なめた事実が、広く世に伝えられて、各国に大きな衝動をのようにフランス領へ侵入しました。北は・ヘルギーの国境 与えましたが、その結果、戦争の際には、敵みかたの区別から、南はスウイスの国境にいたるまで、広大な戦線が展
かると思います 0 少し話がよこ道にそれましたが、さて、戦争の模様はど うであったかというと、プロシャ軍はいたるところ優勢ストラス・フルクが落ちたのは、み月にわたる攻囲戦のの で、戦線は次第次第にフランスの内部に移ってゆきましちでした。クララたちがプロシャ軍について町にはいった た。九月にはいると、早くもセダンの落城とともに、フラ時には、この町はもうおお地震のあとのように、見る影も ンスのナポレオン三世が捕虜となり、続いてストラスプル なく破壊されていました。要塞はもとより、町の建て物も クも落ち、月末には、もう首府のパリがプロシャ軍にかこ 一つとして満足なものはなく、生き残った市民は破れた服 まれてしまいました。十月には、長いあいだ持ちこたえてを着て、青い顔をしながら、焼け残った地下室を、モグラ いたメッツも落城しました。こうして戦線が移って行くにのように出はいりしていました。 クララはすぐに市民の救済に取りかかりました。 つれて、赤十字の活動の場所も移ってゆきました。クララ は最初一隊を率いてストラス・フルクの攻囲戦に加わり、傷利用のできる家が一軒もないので、彼女はひらべった 病兵の看護にあたっていましたが、ストラス・フルクの陥落 、大きな岩の上に、おお急ぎで赤十字社本部を建て、集 後、メッツにおもむき、さらにメッツからパリへ行って、 まってくる避難民に、食料や衣服を分配しました。かって その活動を続けました。 は善良な市民として、それそれの職業にいそしんでいた人 戦場におけるクララの働きぶりは、まるで十年も若がえびとが、こじき同様な身の上に落ちぶれているのを見ると、 ったようでした。五十歳の病弱な婦人の、どこに、そんな クララはどうしても捨ててはおけなかったのです。 しかし、持って行った衣類や食料品は、またたくまに、 力がひそんでいたのでしよう。熱烈で、勇敢で、実行力に 富んでいる点では、南北戦争の時に比べて、少しの衰えもなくなってしまいました。そこでクララはスポットシルヴ 見えませんでした。この戦争の場あいにも、いかにも彼女工 ーニアの戦いの時と同じように、さっそく後方に急行し らしい逸話がたくさん残っておりますが、この短い物語でました。彼女はライン川を越えて、・ハ 1 デン大公妃殿下の は、残念ながら、それはお預りするよりほかはありませもとに駆けつけて行ったのです。クララの報告は大公妃殿 ん。ただ一つ、はぶくわけにゆかないのは、今度の場あ下を動かしました。まもなく妃殿下は、多くの貴婦人を従 、彼女がその救護の手を、傷病兵を越えて、さらに戦いえ、数え切れないほどたくさんの食料品や、衣類をたずさ のそばヅ工をくった、多くの人民にまで差しのべたことでえて、ストラス・フルク市にあらわれました。窮乏のどん底 す。
に乗って、戦地のキュー ハにおもむきました。 でした。また演説家としても、アメリカで指おりの名演説 彼女の一生は、こうして晩年こ ーいたるまで、社会的活動家の中に数えられています。それはいつも、自分のために に貫かれたものでした。晩年の彼女は、アメリカの母であ言うのではなく、人びとのために、苦しんでいる人びとの り、アメリカが世界に誇ることのできる、最大の人物のひためにものを言うので、自然に熱がたかまるからでしよう。 とりでした。どんなに彼女が国民の尊敬を受けていたか は、彼女が八十余歳で赤十字社総裁の地立を退いた時、あ クララは九十一歳の長寿を保ったのち、ついにその輝か との人選に悩んだことでもわかります。彼女のあとつぎしい一生を終わりました。 は、少なくとも、婦人の中には見あたりませんでした。そ「行かせてください。行かせてください。」 こで、次の総裁には当時の陸軍長官、のちの大統領のタフ これが彼女の最後のことばでした。 トがあたることになりました。 臨終の際のことばというものは、多くは意識を失った場 あいなので、そういうことばに、どれだけの意味があるか 北オックスフォードのはにかみやの少女は、晩年、世界という疑問も浮かびますが、しかし、こういう短い、うわ 的な人物となってからも、やはり、はにかみやでした。社ごとの中に、往々、人びとの隠すことのできない性格があ 会的にはずいぶん活動を続けましたが、私生活のうえでらわれるものです。 は、一生つつましい婦人として終わりました。人にものを「行かせてください。行かせてください。」 言う時には、いつも、小さな、遠慮がちな声で話しまし ああ、彼女は、今わのきわに、何を思い、何を望んでい 婦た。有名になってからも、大・せいの人びとに接したり、晴たのでしようか。 の e ・、 一九三七年 ( 昭和十一一年 ) りカましい席に出たりすることには、あい変わらず気おく れがしていたようです。 と「議長をつとめたり、演壇に立ったりするよりも、私は傷 戦っいてる人びとのあいだをけめぐるほうが、ずっと自分 のしようにあっています。」 と、彼女自身も言っております。 しかし、そういっても、彼女は議長としては立派な議長
「ありがとう。これでやっと、僕の仕事ができます。」 ました。そして、気ちがいのように捜しまわって、やっと そう言ったと思うと、彼は馬のように、まっしぐらに、 一台の軍用馬車を手に入れると、それに四頭の馬をつない 医務室に走って行きました。 で、全速力で後方に向かいました。砲弾や風雨のために、 まだ赤十字社もなかったこの時代には、女なんか戦場のもう道ではなくなっているような、でこ・ほこの道を、彼女 邪魔もののように考えていた人も、少なくなかったのですはめちゃくちゃに馬車を走らせました。四匹の馬はめくら が、彼女は次第に、戦線になくてはならない人になってゆ滅法に駆けています。彼女の馬車は、まるで、あらしの中 きました。 の難破船のようです。あるいは浮かび、あるいは沈み、あ る時は横だおしに、ある時はまっさかさまに倒れるかと思 しかし、クララの持ってくるぐらいのものは高が知れてわれるほど、ひどいあおりをくいました。しかし彼女は、 います。いく千、いく万と増してゆく負傷者の救護品はな「全速力で。」「全速力で。」とたえず御者に命令していまし んといっても、政府の力に待たなければなりません。けれた。 ども、今から七十数年も前のことですから、アメリカ軍隊十マイルの道をひた走りに走って、ベル・・フレーンに行 の衛生や看護の組織は、まだ整っていません。傷ついてい くと、そこから川蒸汽に乗り、日ぐれにワシントンにつき る者が、たくさん野はらにうめいているのに、野戦病院のました。彼女はすぐ軍事委員会議長ウイルスンにあい、現 設備もなく、病院馬車も来ず、薬もなければ、ホウタイも地の窮状を訴えました。その結果、夜なかにもかかわら 使い尽くしてしまい、そのうえ、今夜の食料にさえ事を欠ず、陸軍省に緊急会議が開かれ、即刻、その救済手段が講 くというような場あいが、なんどもありました。 ・せられました。すなわち、ま夜なかの二時には、補給局長 スポットシルヴェーニアの戦いの時も、またそうでし自身が、もう部下を従えて、現地に急行することになりま た。負傷者が一 - 万三千人あるのに、食物もなく寝かせるした。 家もありません。彼らをワシントンに送り返そうとして あくる日からベル・ゾレーンにたまっていた多数の船や も、船や車の整理さえっかないという始末です。クララは馬車が、い っせいに動き始めました。死を待つばかりであ こういうだらしのないやり方を見ていると、じりじりしてった負傷者たちにも、家の戸が開かれ、食事が運ばれるよ きます。これは、ここにいる軍人ではだめだ。直接ワシンうになりました。クララは戦争の最後の年になって、政府 トンの首脳部を動かすよりほかはない。彼女はそう決心しの任命を受けましたが、この時分にはまだあい変わらず、
正しい戦争の一つと言っていいでしよう。奴隷制度をうち人びとは、定刻まえからどんどんつめかけて、劇場はたち 倒した、輝かしい戦争です。人道のため、正義のためと思まち、割れ返るようなおお入りです。彼女は演壇に立って えばこそ、北部の人びとが、あとから、あとからと、義勇場内を見わたすと、聴衆は粒よりの、立派な人ばかりなの 兵を志願して、弾丸の中に飛びこんで行ったのです。しかで、非常に元気づけられたのですが、しかし、ロを開こう し、その正義のための戦い、人道のための戦いでも戦争ととすると、どうしたのか、くちびるが動かないのです。く あれば、やはりその裏には、こういう事実もまぬかれない ちびるを開いても、声が出てこないのです。彼女は声の出 のです。 ないくちびるを、一生懸命に動かしておりましたが、まも 不幸な遺族の人びと、ことにかせぎ人を失った人びとのなく、その場に倒れてしまいました。 ための救護については、今日の日本でも、政府をはじめ、 長ねんの無理がたたって彼女はそれからずっと、病床に 各方面の人びとが、大いに手をつくしておりますが、当時横たわる身となりました。手あての結果、やっと、とこを のアメリカでは、時勢がまだそこまで進んでいなかったた離れられるようになりましたが、なお三年間ゆっくり休養 めか、これほどの事実に当面していながら、クララも遺族しなければ、からだが持たないと医者から宣告されまし の救護事業にまでは手をつけなかったようです。 た。それも風土の変わった土地でなければいけないという もっとも、負傷者の護と、行くえ不明者の調査だけでので、片づけなければならない仕事は、山ほど残っていま も、容易なことではないのですから、ひとりのカで、そうしこ・ : ナカクララは医セ須のことばに従ってヨーロツ・、 / へ出か たくさんの仕事がやれるわけはありません。 けました。イギリス、フランスなどをめぐって、最後にス 人 ウイスに落ちつきました。ここで、うるわしいアル・フスの 婦 赤十字の旗のもとに の 山やまにかこまれながら、温泉にひたって、気ながに、静 事実、戦場の四年間に引き続いて、なお四年間、調査と養する予定だったのです。 と講演に、休むひまもなく立ち働いたことは、それだけで ところが、スウイスに来てから半としばかりすると、ヨ 争 も、婦人としては驚く・ヘき活動です。しかし、人間の力に ーロツ・ハには大事件が突発しました。そして、彼女もその は、やはり限りがあります。彼女はとうとう病いに倒れる中に巻きこまれてしまいました。まるで、わざわざこの騒 引日がきました。一八六八年の冬、東部のある劇場で講演会ぎの中に駆けこむために、ヨーロツ・ハにやってきたような を開いたところ、例によって、クララの話を聞こうとする結果になってしまいました。
合いがないわい。酒の味、女の味なら、われら年来たしな 合をする場所になっていた。そこは見物席と同じように、 ゃねもなければ、ゆかもない、吹きさらしの野天で、早春んでいるが、いまだこの年にいたるまで、刀の味というも ののどかな光が、かわいた土の上で、ほこりといっしょのを知り申さぬ。刀の味というものは、どんな味のいたす に、明るくおどっていた。そして、いうところの剣術無双ものか、たまには、ひとタチぐらい、お見まいを受けてみ の者は、やわらかい日ざしのもとで、いかにも軽がると鉄たいものじゃ。」 扇を扱いながら、抜き身を振りまわしている町人ふうの男白あやのはち巻きをし、同じ色のたすきを十字にあやど った剣術つかいは、鉄扇を開いて、おおように風を入れな をあい手にして、しきりにからかっていた。 しろ女と手を切るがら、あい変わらず、見物に向かって大きなことを言って 「そんなことでは切れるものではない。、 ことだってできはしないそ。 それそれ、こっちだ。こ っちだと言うのに。ここがこんなにすいておるではない 「どうだ。だ、ぶ詰めかけておるが、このうちに、ひとり 、刀 なんだ。また空 ( くう ) を切ってしまったのか。 や、ふたりぐらい、拙者を切ってみようというご仁 ( じん ) 空を切るのではない。拙者のからだを切るのだと申すに。 はござらぬか。どこなと随意に切ってもらいたい。小手な そら、今度はどうだ。ここなら切れそうなものではな りと、胴体なりと、または、まっこう、から竹ふたっ割 いか。こんなにからだが遊んでおるのだ。ーーー何をそんな り、おのおのがたの勝手次第じゃ。われらはいのち知ら に考えているのだ。 さあ、切ってこい。ずばりと見ごず、天下無双の剣術つかいだ。どんな仁が飛びこんでこよ うとも とにやってくれ。たまには切られてみたいものじゃよ。は 。どなたとでもおあ いっかな、あとへは引かオし ははは、きたか。おっとっと。 いやいや、腕のないやい手をいたす。さあ、腕に覚えのある者は出て来さっしゃ みつというものは、仕方のないものでござる。もうタチを持 人間を切ってみたいというご仁は、遠慮なくここに進 しつことさえできぬそうな。うははははは。」 まっしゃい。われらは天下無双、いのち知らずの : : : 」 や彼は鉄扇をもって、たちまち、あい手の刀を打ち落とし「ええ黙れ。」 ふてしまった。町人は苦笑しながら見物席へもぐりこんでし人もなげなることばをもてあそんでいるので、十蔵は先 刻からじりじりしていたが、なかなか前に出られないの 「お次は、たれじゃ、もう少し手ごわいやつはないか。せで、彼はとうとう、人ごみの中から剣術つかいをどなりつ めて拙者に手きずなどおわせる者がないと、さつばり張りけた。
社にむすかしいことをいった。そのときの作者の感情 を伝える言葉を引用してみよう。 「私はこの話を聞いて、非常に不愉決になった。全 体を見すにただ作中の一人物の会話のはしばしだけを 捕えて、難くせをつけるということは、なんという事 だろうと田 5 った。すぐさま私は、雑誌社を通して、こ ちらの意向を述べてもらったけれども、もとより通る はすもなかった。じつをいうと、そのとき私は投げだ してしまいたかったのであるが、それでは雑誌社が困 るだろうと思って、涙をのんで、命ぜられた点をけす り、そのため意味の通じなくなった点は、応通じる ようにして、校正すりを雑誌社に返したのであった。 そのあとで、私は一週間はど考えた。考えたあげく、 ついに「ペンを折る」を書いて『路傍の石』を中絶し てしまったのである〕 山本有三は、「あとがき」でこう述べている。 っに、 「朝日」紙上で、この作品の第一部を終ったのは、昭 「ペンを折る」から抜いてみたい。 和十二年六月で、翌日に、日華事変が生した。そのた 「ふり返ってみると、わたくしが『路傍の石』の想 めか、続編は一年以上たっても掲載されなかった。そを構えたのは、昭和十一年のことであって、こんどの こで、『新編路傍の石』は、「主婦之友」に改めて欧州大戦はさておき、日華事変さえ予想されなかった 掲載され、二年ちかく順調に進んだが、「お月さまは、時代のことであります。本誌の好意によって『新編 なぜ落ちないのか」という章にはいり、社会主義者が路傍の石』を書きだした時でも、なお今日のような、 あらわれると、内務省の検閲官は、事前検閲にあたり、 けわしい時勢ではありませんでした。しかし、ただ今 この人物の言葉のここを切れ、あすこを削れと、雑誌では、ご承知の通り、容易ならない時局に当面してお ある ? 「成功の友」ある ? 学校 学校 あらしのあと 嵐のあと 五十銭銀貨 五十銭銀貨 お月さまは、 お月さまは、 なぜ落ちない なぜ落ちない のか のか ( 第一部を終 ( ペンを折る ) ( ペンを折る ) ( べンを折る ) えたあいさっ ) ( 単行本初版 ( あとがき ) では、あとか き ) 448