ー当 1 プ と、前に春夫夫妻も一ど泊ったことがあるとのことで あった。 旅館の一室に落着き、暫く話し合ってから、久保さ んは私を街 ~ 連れ出し、春夫の ~ 案内した。その み筆塚は私が先刻その前を往復した、本町通の公民館の 家広い庭の奥まった一角にあった。私はこの町のどこか の に春夫の筆塚があることは前から聞いていたが、それ 市 宮 を見るのはこんどが始めてだった。碑面の文字は春夫 の生涯の親友であった堀ロ大学さんの筆であった。 も亥もよくできて立派であった。碑 ( 塚 ) の後ろには かんつばき 寒椿らしいのが二、三株植えられて、見事な花を咲か せていた。 春夫は花痴を以って自任していたが、なか でも椿は好きな花の一つであったようだ。 公民館の隣りに小学校かあることは前にも書いたカ やはりそれは幼時の春夫や久保さんが一緒に学んだ小 学校であったが、久保さんの話によると、当時その月 学校の位置は今とは違い、 本町通を隔てて今の向側に あったということである。春夫は『わんばく時代』の なかで小学校の太鼓部屋のことを書いているが、その 太鼓部屋にあった太鼓が今もそのまま学校に残ってい るとのことで、久保さんは私を誘ってそれを見せにい いって見るとその太鼓は、学校の玄関を入った正面 いっしょ
動をしているから、しこしこする歯ごたえと機の海藻や小 【しかはあれどもこのごろは京の伊右衛門の前 貝などを食餌としているらしく磯の香がしている。この美挽きも = 一分のあたひ一一両一一分】 味は清渓を走り藻を常食する鮎や山べなどの味が喜ばれる衆皆、有頂天ななかに、偶それを押えて分別臭い年輩な のと共通の理由がありそうに思う。種類の豊富なのは本来のがいる。諸賃金は上ゑ持ちも平田も木皮の値までいし は同一種類のものが周囲に応じて大同のうちに保護色など のは有難いが、一方翻って思うに、この頃、仕事の元手 の関係から小異を生じたのに因るものではなかろうか。 たる諸道具一式はどうだ。京の伊右衛門が前挽 ( 木挽専用 その値の高いのは人に喜ばれる上に、漁夫自身が低廉にの大鋸 ) も三分のものの値は二両一一分にな 0 たではないか。 売る位なら自ら食うという傾があり、獲るに網でせずに釣前挽きは大鋸の一種である。伐木用のものは二人挽きであ り上げるから時間がかかる上に、小魚だから貫というと相るが、これは主として製板用の一人両手を用いて上方前後 当な多数に上るに違いないと思うが、それにしても、貫八に挽くものである。それの三分というのは不明であるが、 百文はいい値であるのに、そんな高直の磯魚でも美味でさ前挽は普通は径尺五寸を定めとしているがその定めをた 0 えあれば山祭の木挽連は歯ぼし立たぬ ( 手がとどかぬ ) ともぶりとして五寸の上三分のゆとりのある最高級品であろう 言わずに、三百五十の酒の肴にするという豪勢ぶりは、 という説に従う。何れにせよ大鋸の特に三分と言い出した なかんずく 「半畳むしろの山住ひ」のなかの酒盛りとは受け取り兼ね ところを見ると就中高価のものと見えるが、それが二両一一 るばかりである。 分。 やすり 【一寸さきはやみくもとかせぐおかげでこの えよう 【鑪かすがひ二朱づゝと】 ゃうな栄耀するこそ楽しけれ】 娶いたく 大鋸の目立てに使う鑪、挽く木材を定着して置くために 一心不乱無我夢中で稼ぐおかげでこのような贅沢が出来使うかすがい。 これらの附属用具が各二朱ずつではないか るのも愉快であると木挽等は山祭の酔心地もこの上なしにと。 暢気である。尨、やみくもという語の前に一寸さきはと つけたところさすがに作者の世相に対する不安を幾分はに 【二百五十の上村の煙草のけぶり吹きちらし】 おわせているような気もする。 分別臭い事をいうそのロが、これ亦決して安くない、二 百五十文の上村の煙草を吹きちらしている。上村の煙草と ていれん ひるがえ
れが私にとっては外国語だけに聴きとりにくい場合や、判入れにかかった。所有者達が驚いて抗議をすると、その石 たて らない言葉などもある。私は後に世外民にも改めて聞き返標を楯に逆に公事を起した。その前にはずっと以前から、 まけ したりしたが、更に老婆の説きつづけたことは次のようでその道の役人とは十分結託していたから、彼の公事は負る たす ある 筈はなかった。彼は悪い役人に扶けられまた扶けて、台湾 いとぐち 前述のような具合で沈の家が没落し出すと、それが緒の中部の広い土地は数年のうちに彼のものになり、そこの で主人の沈は病気になりそれが間もなく死ぬと同時に、縁どの役人達だって彼の頤の動くままに動かなければならな なげ 談の破れたことを悲しんでいた娘は重なる新しい歎きのた いようになった、悪い国を一つこしらえた程の勢であっ うつうつ あげく めに鬱々としていた挙句、とうとう狂気してしまう。そのた。一たいこの頃、沈は兄弟でそんなことをしていたのだ ふびん 娘を不憫に思っているうちにその母親も病気で死んでしまが、兄の方は鹿港の役所で役人と口論の末に、役人を斬ろ う。全く、作り話のように、不運は鎖になってつづいた。 うとして却って殺されてしまった。これだっても、どうや 一たいこの沈という家に就て世間ではいろいろなことをら弟の沈が仕組んで兄を殺させたのだという噂さえある程 で、兄弟のうちでも弟の方に一層悪声がある。実際、兄の 方はいくらかはよかったらしい。ある時、彼等のいつもの からすき 策で、隣の畑へ犁を入れようとしたのだ。その時にはその ツェノチャ十 もっとずぶと その四代ほど前というのは、何でも泉州から台湾中部畑に持主が這入っているのを眼の前に見ながら最も図太く の胡蘆屯の附近へ来た人で、もともと多少の資産はあったやりだしたのだ。というのはその畑の持主というのは七十 そうだが、一代のうちにそれほどの大富豪にな 0 たに就て程のだ 0 た。だから、何の怖れることもなかったの は、何かにつけて随分と非常なやり口があったらしい。虚だ。しかし第一の犁をその畑に入れようとすると、場にあ 譚構か事実かは知らないけれどもこんなことを言うーー・例え ったこの年とった女は、急に走って来て、その犁の前の地 ごと ある 扇ば、或時の如き隣接した四辺の田畑の境界標を、その収穫面へ小さな体を投げ出した。 みはから 女が近づいたころを見計って、夜のうちに出来るだけ四方へ「助けて下さい。これは私の命なのです。私の夫と息子と 遠くまで動かして置く。その石標を抱いて手下の男が幾人がむかし汗を流した土地です。今は私がこうして少しばか この土地を取 も一晩のうちに建てなおして置くのだ。次の日になると平りの自分の食い代を作り出す土地です。 気な顔をして、その他人の田畑を非常な多人数で一時に刈り上げる程なら、この老ぼれの命をとって下さいー」 言う。 こう すいぶん カえ しろ おとがい
ら昌栄丸が迎えに来てるのよ」 「だれもいないから家のなかへお入りなさい。あたしさび 「明日にでも ? 」僕は驚き、うろたえ、そうしてだれに対しいのですもの」 してともなく腹立たしい気がした。 と言ったが、僕は夜の家のなかでお昌ちゃんと二人きり 時は暮れ行く春よりも でいるのがこわいような気がしたので手をはなしてしまっ また短かきはなかるらん て、 恨は友の別れより 「さびしいのなら、僕、ここで見ていてあげるよ」 さらに長きはなかるらん と家には入らずそれかといってそのまま立ち去りもし 僕はお昌ちゃんに手をとられながら、心に藤村の詩句をないで、戸口からお昌ちゃんがつりランプに燈をともすう 思い浮べて、その実感を味いながら歩いていると知るや、 しろ向きの立姿をじっと見ていた。僕がすなおに家のなか じゃしん 知らずや、お昌ちゃんは言い出した。 へ入らなかったのは、今思えば何か邪心があったせいのよ 「坊っちゃんは今に院長さんになるのでしよう」 うである。 「いや、僕は医者なんかにはならない」 この山かげの家の前にも月がさすようになってから、僕 「そう、つまらないわ。あたし坊っちゃんが院長さんになは大きなかさをきたお・ほろ月の下をお昌ちゃんに言えなか ったら診てもらおうと思って、たのしみにしていたのに。 づた一言を考えながら家へかえった。 でもここにいなくなれば同じことね。院長さんにならない その翌日ひるの登校の道を女子高等小学校の運動場の前 で何におなりなの ? 」 から学校とは反対の方向へ、日和山を越えて井才田をポッ 「僕、僕は詩人になるのだ」 ツリ山の東ふもとから小浜越えの峠の家へ出た。学校の体 「詩人 ? 詩人って、なあに ? 」 操の時間をサポってお昌ちゃんの様子を見に行ったのであ っちいばん 時「歌や詩をつくる人さ。さっきの春高楼の歌だって土井晩る。 ば翠という詩人のつくったものだよ」 栄のお母さんは僕を見るなり、 しいわねー」 「お昌は今のさっき栄に送られて船に行ったところで」 わ「そう ? あんな歌を書く人になるの、 そんなたわいもないことを話しているうちに、林間の道と言ったから、僕は黙って一礼したまま小浜へ急いだ。 を出て峠の家の前に来ていた。お昌ちゃんは僕の手をひっ途中向うから来た栄に出会うと栄は、息をはずませなが ばって、 ら、
120 うちの長屋の物置小屋の杉皮ぶきの屋根の上である。 今はもう大丈夫、味方が来た。 僕は屋根を乗り越えると物置の前へ、ズシンと飛び下り て軒下にしやがんだ。 ホッと一息ついていると、僕を追っていた敵も僕のやり味方の総勢五人は、僕が敵を押えているのを見て、みん かたにならって、屋根を乗り越えて目の前へ飛び下りて来な笑顔で木戸から入って来たのに対して、 たところを、僕は軒下から飛び出して行って取り押え、右「こいっとほかの三人っかまえたよ。三人はあそこへ押し 手をうしろへねじ上げると、三軒長屋のまんなかの空家に込んである」 なっていたところへ、突き込んで。ヒシャリと戸を閉じたま と僕はそう言って空家の戸口を指して見せたとたん、敵 ま、再び軒下へ身をかくした。 をまだ二人逃してしまっていたことにはじめて気がつい 同じく屋根を乗り越えて、ほとんど同時に飛び下りた一一 人を、僕は同じように取り押えて空家のなかへ突き込ん「あとの二人はどこへ逃げたろう ? 君たち、来る途中、 逃げかえるのを見なかったか」 もう一度、軒下で待つうち、最後に飛び下りて来たの「見かけなかったけれど」 は、下りるといっしょに、足がよろめいて前へつんのめつ 「じゃ、まだ山の中でまごまごしているのだろう。今にこ たところを、そのまま首すじを押えていると、どやどやこへ出て来るかも知れない」 と、木戸の向うを通る声は、うれしや、味方のものであっ これも見張っていなければならないし、つかまえた四人 た。僕はとりこの肩を押えたまま、木戸に近づき、開けも一応は根じろへつれて行かなければ、ル 1 ・ルからは完全 て、味方を呼び入れた。 なとりことは言えない。 家には外からの戸じまりはないから、僕はせつかくのと僕は部隊を三人ずつの二組に分けて、一組はここに残し りこを空家の中へ押し込めながらも、彼等が戸をこじあけてここの見張りをさせ、僕の加わった一組はとりこを根じ て飛び出して来れば、それつぎりのはなし、敵は三人こちろに送ることにした。 らは一人と気が気でなかったが、敵もろうばいしきってい そこで僕は、腰がぬけたかのように地面につんのめった たと見えて、僕が取り押えた時から、みな意気地なくなっ敵の首すじを押えた手をゆるめ、彼をたすけおこして引っ ていた。 立てながら、味方の一一人に言った。 あきや
とは覚悟しておいてよい。軽傷はたとい多くとも一向に軍た。 みそしる の実力を弱くすることもない。重傷になってからが用心し今度はかけどんぶりの残飯に味噌汁を少しま・せてもらっ なければならないのだが、味方にはまだ重傷は一人も出てたのをダンの寝ている前へおいてやった。ダンは起きてい いない。味方はそれだけ優勢なのだから、この勢に乗じつまでも皿の底をなめていたが、最後には僕の垂れていた いっきよいちどう て、敵の一隊を全減させれば、決戦の勝利もむつかしくは手の甲をなめ、僕の一挙一動から目を離さなくなった。今 までまだ人にかわいがられたことのなかった犬なのであろ 八幡山を守るにしろ、小浜越えの敵のとりでを斑めるにう。いじらしい。 しろ、いつも五人の重傷を追いかけるのが一番いい戦法で 明日はひる飯がすみ次第、水の手河原 ( 学校のうらから あろう。 川に出たあたり ) でダンを洗おうと約束した。 僕の話の途中からダンがしきりにほえ出しうるさいと思 この場所は流れの具合や水の深さ、また河原でたき火す っていたら、来ないはずのポンチャンが、やっと用事をする場所など、さまざまな条件を考え合せてみんなできめた ましたというので軍議に出て来たのであった。ダンは頼もので、僕も行って見るには近くて便利であった。 しよう い」こち しい歩哨である。 ダンは居心地よげに、ふたたび物置の隅に身をよこたえ 我々はこれで兵をひとり多く持ったことになる。 ていたが、一同が帰る時、つれられて来た子の吹いたロ笛 に身を起して、行ってしまってもいいかと言いたげに、首 をかしげて僕の顔を見上げたのはかわいい仕ぐさであっ 山は早く、日の暮れ前のあかるいうちに下りた。 た。 僕はダンのために物置小置の片隅へそこらにあった古む僕はダンの頭をなでてやってから、木戸を開けて外を指 代 時しろを折りたたんで寝床をこしらえてやり、ここがお前のすと、ダンは二度目のやや遠い口笛の音を追って駆け出し いるところだぞと、そのうえへダンを横倒しにしてやる。 た。 んダンはおとなしくまるまって僕をじっと見上げていた。 ポンチャンは帰りかけた仲間をよびとめて、 みんなこもごも、ダンの頭をなでている ( こんなきたな「だれでもいいから、おれのうちの前で、おれは用をすま い犬なんかと言った者も今はもうダンを愛撫していた ) 間して、須藤君のところで遊んでいると声をかけておいてお に、僕は台所へ行ってもう一度食・ヘ物を持って来てやっくれ、きっとだよ」
192 子供たちは好んで泳ぎ渡って、かえりには生きたえびを、 ふんどしの小脇にはさみ包んで来て、それをくれようかな どと言っていたものである。僕はえびなど欲しくもない たいふう 夏も終りになって、はしりの颱風でも来ようというのでが、岩の底のえびの巣というものを知りたくて、ふんどし あろうか、ポツツリ山にはまだ何のポツツリも出ていなか島へは一度渡ってみたいと思いながら、自信がなくて渡れ ないでいたものであった。 、雲が多く出て、むし暑い残暑の一日であった。 ところが、その日、子供たちが「いこら、いこら」と勇 僕は今日は方面を変えて川原を歩いてみようと思い立っ た。川原の暑さを考えてダンは連れなかった。僕はあまりみ立っているのをみると、僕も行ってみたくなり、あんな 暑かったら川に入ってみようとも思っていたからである。子供たちの行けるところなら、僕だってわけなく行けそう もう閉鎖してしまったろうと思っていた水泳小屋はまだな気がしたので、僕も小屋のなかへ着物を脱ぎすてて棚の 上にまるめておっぽり上げると、子供の列につづいて、 開かれているのか、小屋のぐるりには子供たちが群れてい た。その様子を見に行くと、小屋のなかから、高等小学校原の焼けた石ころを踏みながら川へ急ぎ、子供たちが順々 の子供らしいのが五、六人、ふんどし裸でばらばらと飛びに川のなかへ泳ぎ入るのにつづいて、僕も元気に泳いで行 っこ 0 出して来て、 「ふんどし島へ渡ってみよら ! えびの巣をおしえてやる僕は四、五年前よりはずっとよく泳げるようになってい るつもりで、事実、はじめの間はよく泳げたものであった。 ぞ」 ところが川の中ほどまで泳ぎ進んで行っているうちに、 「いこら ! いこらー」 四、五年前の方が泳ぎは達者であった、すくなくもあのこ と、口々に言いながら、彼らは川の方へ一列縦隊をつく ろより一向上達していないような心細い気がしてきた。 っていた。 「渡ってみよら」「いこら」のらというのは方言で誘いの折から長いいかだが一つ目の前に流れ出して来た。子供 語法である。ふんどし島というのは対岸の、水泳小屋のちたちは順々にその下をくぐり抜けると向う側へ、ひょっく ようど真向いあたりにある細長く流れに沿うて横たわったり頭を浮び上げ、ふりかえってあとにつづくものを見てい 島で、島というよりは礁だので、現われた部分よりも底た。しかし、その時、泳ぎおくれて最後になっていた僕 しり こわ そうくっ をいかだの下をくぐり抜けるのが怖いような気がして尻 が大きく、水中の部分にはえびの巣窟が多いというので、 た。 じゅうたい む たっしゃ
184 伊作もまだ二十すぎの青年であったろう。 ここも図書館と同様に人々の持ち寄った書物や新聞雑誌 縦覧室には白木の素朴な卓とそれにふさわしい五、六台を一般の見るにまかせたものであったが、図書館と違って のイスとがデコボコした土間におかれて白木の卓の上には書物も設備 ( というほどのものではないが ) も何やら清新 冷えてはいたが番茶の土ビンのそばに茶わんもおかれて勝の気があって明朗なのが僕には好もしかった。 手にのどをうるおすこともできるようになっていた。 僕の二度目の三学年はこんなのんきな生活にもかかわら 「平民新聞」は社会主義者の編集になる日刊新聞であったずひととおりの成績で進級した。 しろ たけひさゆめじ が、芸術的なにおいもゆたかで、竹久夢二のコマ絵と、白 その晩春の一日、いつものように何気なく縦覧所に立寄 ゃなぎしゅうこ 柳秀湖のハイカラな美文調の評論などが僕のよろこぶとってみて、そこで偶然に崎山栄が、 ころであったのに、この新聞は縦覧所ができてしばらくの 「二、三日前からここに住んでいる」 しんしゆっきぼっ うちに廃刊になってしまい、その代りに出た「直言」は紙と言うのを聞いた時、僕は崎山の神出鬼没に二度びつく 面も小さく、「平民新聞」ほどには面白くなかった。 りしたものであった。 この新聞雑誌縦覧所は、町では一般にドクトルさんの敬 称で親しまれていた大石誠之助 ( 緑亭と号し随筆雑記をよ く書いていた ) と、牧師で五点と号して土地の新聞によく崎山は、一「三日前からここに住んでいるという言葉を 寄稿していた沖野岩三郎 ( 後に新聞の懸賞小説に当選し作哭証しようとするかのように、奥の間に入って土ビンに新 家として東京に進出した ) などと相談して、大石の弟で仲しく熱い番茶を入れなおしたり、茶わんを洗って出して来 ノ町一帯の大地主の玉置氏の持家の借手のないものを利用たりした。 けいもう ゆくえ して一種の啓蒙運動の機関をここに開設したものであっ 彼はその前年の夏、池田の店から逃げ出して行方知れず た。大石も玉置も、ともに西村の叔父だから彼の絵がここ になったと母を心配させたが、結局は三河の父の家に落ち にかかっている理由もよくわかる。縦覧所は一年半もつづついたと聞いて、やつばりお昌ちゃんのあとを追って行っ いたであろう。 たものだとばかり思っていたのを、ひょっくりここで見か ちょうど足だまりの都合もよかったし、もう大方読み尽けたので、僕がおどろいたわけであった。 して別に読む物も無いと知りながらも、僕はほとんど毎日崎山は僕の前に茶道具をおいたまま、自分も僕に向いあ ここに立ち寄るのを習慣にしていた。 って腰をかけた。僕は「直言」を取り上げたが、ちょっと
時は 中む だあ いれ よ大女かな歩の列 り り踏扉与に の勢 つも のに 、の記し いの 子ぎ 憶の かた出はわり 注の 供る いけ女し っ五が列 。う み らし、 たそに人人あ引見六今 。チかの なた教の と尸どて人 って の員満そばも すよゆか で 上の あ るて にく のたでい のか 先て あて割り のて そささわと生 にで う 。ら 明の 南を話明治を 律 に治三お の出な二十ぽ 。ぶ列ま 方子 子しる十 のと 四 - う は小半川 供た し 四し、 しの らと 四月 さなを先 しい っし現生 はま前た しな 早て きかわが の太 いか 窓しし教 級れ廊 : 鼓 生と とくそ の込 い子 れで へづ 年 に児来た川違いろえ で野てば へ向年し 対童 い北 ・を・ . 二 通の っポ へ生 路でこ生まる 室の 小びう出 に号 のあちをいと 。て 校く らを 度こ へ頭 ゃな 子ぶびし のを 進に 前教 行ん をま期ん へ室 来の 教か に待 て前 るかる人 いか天ん 室の い季 ち連 に列 なの 先に ら強 て来 い生 にと のみ いそ ま立 たい 校な よも休ろ も北 っちち緒 のて の先 どににる と出 季城でて よ生 の四 同て あし お年節山 うは じ来 兄生 人る つる にと き に し て窓る そをし お ろて子 か見と らかし、 見けう おたに 、よ と いれはのが し 。も小思り しきぎたて 女 来ね白がを い よ はす人見しみでら加よ たのた 。来は の 、見 も う 遊遊れでな 。気 つ 今は主づ気頭て 、か勉山きなをお の スメ、 な う し山先 ん一室 た少ら し のすて し ら く ぶ り いみく さ 兀 ほ ど の はう供 の行図ポ早 * こたそ あてあチな ャ 、ノ で 日 よ う 冫こ る整り た し、 つ も に 場のま 合なに ぎ ー 1 並 僕 全 う も ンっち知しとれしが僕うす曲 し、 をま と ほ満かっ ど九らた 歳 。は室九う と ン熟とちう もも ャ子予大えか オよ く を つらある位 、け っすれ出よながでし規きて か 上 、柄身北 に の て う 、ずで 。なよ下 う の軽ナ く て い と りかてあく 受る 持 の 員 ノ ツ は 、ひ り 、ン供じ 、しボにため ま物て 、背をに は連僕 、や丈正不ふれはる く 、か教出 に室し か ら 鳴 り っ語お年ば も よ ろ う れ か体 は ま っせな たたく が供こ た かち話 ら と に ばも意児れ とひ知を童はろ も 国 し、 り 僕 は の の の 生 し て れ女時 見 っ 、で歳し一 性のは あかよ 。れを 僕はた 。五年て の で 年 月 の 高 * く 下カ と前右四果 つ進け生て め右一 る 相 : こぼ あをの に先るみあ た つ る る よ 等 学 く な さ ん は さ 遊 よ さ 学んも 我 々 . 教 と入令 廊たづ ろら先 列 ポ ( 4 ) 頭ろと で と 振 り 出返て り っ た う げ来を来三 け 見 う 先人室 待での て今一 と 女のの の教廊 。が 中 庭 の ぐ り 下 つ り 員 の し、 ノ の でにし み下よたお 。節 に はいお ま 坊 も 大 浜 顔下い いのげた の に せ 、ま ま 先 生 はき 。け ざ ま か け 自 分 で 先 頭 に 立 、つ と 、れ 、我 さ る と 外 へ て し た ・で・も 。す面た
右熊野の捕鯨の先駆者と伝えられる徐福 の墓左春夫の勉強部屋であった一室 院の佛を通り、そこからまっすぐ西へ通じている本町 どおり 通を速玉神社へ向った。途中、街の右側に公民館のよ うなものかあり、その先に小学校があった。どうやら 春夫が幼時そこで学んだ学校らしかったが、門をはい って見るまでもなく通り過ぎた。それから十分たらす 行くと、速玉神社の朱塗りの鳥の前に着い 鳥居をくぐり、参道を少し進むと、左側に梛の巨木 たいらのしげもり が鬱蒼とえていた。 平重盛が植えたものだと伝えら しんほく れているか、まことにめでたい常緑の神木だった。私 しんかん はこの春きた時、この神木のひこばえを神官からいた だいて帰ったが、それは私の家の狭い庭に移し植えら かれんわかぎ れて、その可憐な若木のいきいきした姿を眺めるのが 時どきの慰めになっている うしゅうあん 梛の木から少し先へいったところに、島集庵という 茶室への入口がある。茶室は少し奥まった所に建って いるが、その茶室に鳥集庵と命名したのは春夫であっ た。昔から速玉神社の神使は島だといわれているか、 それに因んでの命名であろう 鳥集庵への入口のすぐ先にがある。そしてそ ー - フきよう ~ ) カっ の社務所の、参道を隔てた向側に、春夫の『望郷五月 歌』の詩碑がある。私がこの春きた時には、その詩碑 の前で新婚旅行らしい男女の幾組かが入り代り立ち代 りして記念撮影をしていたか、きようはそのような愛 ちな かみづかい なぎ ほんまち