右信州・佐久にて上佐 久にて ( 昭和年 2 月 ) 1 中学校以来の親友、奥栄 一 ( 左 ) と ( 昭和 23 年頃 ) は型ゃぶりな無政府共産の運動とうつったかもしれな じゅうらん 佐藤春夫はこの新聞縦覧所へ学校の帰りなどに立 ち寄り、浜木綿社同人と大石との交渉もあって、直接 間接に大石誠之助の言行にふれる機会が少くなかった と思われる。新宮で開かれた文芸講演会にも大石誠之 助は、一枚かんでいたし、学校のストライキ事件の時 には大石みずから学校の態度を非難する演説会を開き、 だんがい 弭劾文を新聞に寄稿したりしている。それだけに、一 般には学校騒動が思想的な背景をもっ動きとして印象 つけられた点がなかったとはいえまいが、勘くってい えば、それらの騒動は、大逆事件の弾圧を用意するた めの伏線としてたくみに利用されたにちがいない 佐藤春夫は大石誠之助が大逆罪で死刑の宣告を受け た知らせを、新聞の号外で知った。そしてその夜半、 「愚者の死」と題した詩をつくったのだ。 千九百十一年一月二十三日 大石誠之助は殺されたり。 げんーく げに厳粛なる多数者の規約を 裏切る者は殺さるべきかな。 死を賭して遊戯を思ひ、 民俗の歴史を知らす、 451
そく は崎山がいた。これを信じないような素朴な読者は、し が語っているのを、僕はそばで聞いた事があった。 そ大逆事件などという事実は、僕の言う真実以外は、全然大石が早くアメリカに留学して、ドクトル・メジティネ 無かったものと考えた方がよかろう。 になって来たのについては、ちょっとしたエビンードがあ そもそもわが崎山栄は、僕がわがあばら骨一本を抜いてる。 僕の胸中に生み、そうして真実の大逆事件という社会機構はじめは大石は、遊学のため上京しているうちに神田の ひとみごくうささ の毒蛇のロに泣きながら人身御供に捧げるために僕が愛し下宿で同宿人の金時計を盗んだ事があった。 育てて来た象徴的人物なのである。 いつも帯の間に金ぐさりと金時計とを見せびらかしてい らば真実の大逆事件とは何か。当時、天皇は神聖にしる大学生か何かが、隣室にいたのを大石はキザなものと見 て犯すべからずと法で定められていた。その天皇を、事もていた。たまたまその大学生が入口の障子を開けつばなし こんじきさん娶ん あろうに暗殺などとあるまじき不敬事を種に国民を煙にまていた机の上に例の時計が金色燦然としていたのを、廊下 よう・こ いて、天皇を支配級擁護の具に供し、あまっさえ天皇陛から見つけた大石は、それが果して本モノか、メッキでは 下の赤子十二人の虐殺を国家の権威を借りて断行した事件なかろうか、と好奇心から部屋に踏み入り、机の上からそ てのひら じよう平・う で、こういう過激な事件を醸造した時の政府とその手先のっと取り上げて見ると、時計は掌の上でズッシリと重く、 どうやら本モノらしい。 裁判官どもこそ真実の大逆罪と、僕は信じている。 大石はそれを机の上に返すでもなく、手に握ったまま部 屋から抜け出すと、ぶらりと散歩に出てしまった。彼はそ 泣笑いの人々 ( 一三七ー一四〇 ) の時計を欲しかったわけでもなかったらしい。というのは 散歩に出ると九段の牛ケ淵へそれを投げ込んでしまった。 代 時 その時は出て来なかったらしいが、後年、この金時計らし いのが、牛ケ淵の泥の中からひき上げられたことがあった わ同じ町内で話のわかる同業者として、僕の父は、死刑のとかいう。 かんだん 大逆囚大石誠之助とは相交って互に往来し歓談する仲のい ちょっと小便に立っている間に金時計を見失って持主が い友だちであった。 騒ぎ出し、下宿中が上を下へひっくりかえるさわぎのとこ ある時、ひとが大石誠之助について問うたのに答えて父ろへ、かえって来た大石は時計のことならとそれをかくす ふけいじ
でもなく、平然とした態度で、 リカで芽生えて来たのでもあろうか。 幻「書生のぶんざいにすぎた、あんなキザなものはつねづね 目ざわりと思っていたから、散歩のついでに九段の牛ケ淵 へ投げ込んで来た。惜しければ行って拾い上げて来たらよ「古来、ようしよくのために一身をあやまり、一命をおと かろう」 した婦人なら無数にありましようが、男子ではまあ大石ぐ と、言い放って人々を驚かした。いったいに大石の一族らいなものでしようかな」 は奇人ぞろいで、その兄さんというのも人のうわさではだ「大石誠之助という人はそれほどの美男子でしたか」 おんこうこうが いぶん変 0 た人のようであるが、たとい奇人であろうと「うん、温厚高雅とも言いたい人がらをそっくり形に見せ も、理由は何であろうとも、法の上からは盗みをした者に た美丈夫で、若いころアメリカで生活した関係か、このヘ は相違がないから、大石は告発されなければならなかっ んの人にはめずらしい色白のね。しかしわしの言うのは少 しちがいますぞ。大石はアメリカでコックベんれい中によ いったい大石の生家は、紀伊と大和との国境に近い山中うしよくのつくり方をおぼえて来てね」 の旧家で、地方でも一、二を争う山林持ちであった。こう「 いう家の常として極度に質素でまた実直な家風であったか 聞き手は無言で、何だこのおやじがと言わぬばかりに、 ら、家名をきずつけた息子を家に置くことはならないと、 そっと父の顔を見上げた。 若干の金を持たせて誠之助を遠く国外へ追放した。 「その洋食の作り方を、あれはたしか堺枯川と言う人であ 家を追われた誠之助はアメリカに渡って、ジョージとかったかが主になって、社会主義を一般家庭に入れる目的で フランクとか名乗ってアメリカ人の家庭に住み込むと、メ出していた「家庭雑誌』というのに″洋食の作り方 4 とい ーキ・ヘッドとか言って寝台のうえにずり落ちそうになってうのを毎号出していた。料理法や栄養学などの間に社会主 いる夜具を整えたり、窓ガラスをふいたり、コーヒーをわ義の理想などをまじえたおもしろい読み物で仲間にもよろ かしたり、皿を洗ったりしながら、そのころ本国では若者こばれたらしい。『家庭雑誌』の寄稿家に多かった社会主 たちがみな志していた医学を学んだ。アメリカで台所を手義者との文通がはじまって、その縁故で幸徳も新宮へ大石 つだいながらの苦学では、それこそ本当のコックベんれいをたずねて来た」 に相違あるまい。社会主義思想はこういう苦学の間にアメ 「なるほど、洋食で一命をおとした話ですか」 じゃっかん 」 0 えんこ
左信州の疎開先・佐久に て。左が春夫下自転車 に乗る春夫。信州・追分に て ( 昭和 23 年頃 ) イノ・イな みつ / きン」ノ ~ みを ( ぎ誉廴 「秋刀魚の歌」色紙 きくゆれたことはいうまでもない。それ以後町なかで この事件に関して口にすることがタブーとなったのは妬 当然であった。 佐藤春夫と大石誠之助との関係は、同じ医師仲間で あった父を通してであった。大石は船町の角の大きな 家で医院を開業していた。京都の同志社大学に学んだ 後、アメリカへ渡ってオレゴン大学の医学部へ入学し、 四年後に帰国して新宮で医師を開業したのであった。 その後伝染病研究のためインドへ渡ったこともある 社会主義に開眼したのはインド滞在中のことらしい 新宮で発行されていた熊野新報や熊野実業新聞、ある たなべ いは田辺の牟婁新報に寄稿し、中央の「社会主義」や 「平民新聞」にも原稿をよせ、新宮の革新派の中核と して注目をあつめた存在だった。峰尾節堂や高木顕明 などいすれも大石と交渉のあった思想的な仲間だ。 たんのう 大石誠之助はまた料理にも堪能で、従弟の西村伊作 ( 文化学院創設者 ) とともに新宮ではしめてのレスト いっかん ラン「太平洋食堂」を開いたり、啓蒙事業の一環とし て新聞縦覧所を開設したりしている。そこにはキリス ト教や社会主義関係の雑誌やパンフレットが置かれて 毒取屋 ( ドクトル ) と愛称された大石は、牧師 の沖野岩三郎などと組んで、新宮の文化的発展にいろ いろっくしたのだが、頭の固い連中からみれば、それ
げんわく れた限り、大石は罪を免るべくもなかった。 ッチ上げて、国民の批判の目を眩惑したうえで、断乎とし そればかりか大石にはもう一つの弱点もあった。彼は当て国を毒するこの一党をすみやかに根絶やしにし、同時に 時、社会主義者中、多少の文名はあったが、理論家として青少年どもを安して将来も再びこんな思想が芽生えない も行動者としても重きをなすほどの存在ではなかった。とように手を打っというのが、時の政府の方針であった。 は言え、医者として郷党に重んじられていた彼は生活にも そこで一、の網は、東京、大阪、神戸、岡山、熊 うぞうむぞう ゆとりがあったため、若い同志があるいは逃避に、あるい本、新宮などに張り渡され、有象無象がいもづる式に検挙 は熊野観光に大石の家を宿とした者が多かったが、あいにされて、五月このかた年内に数百名に及んだなかから、は くと明科の爆弾密造依頼者の新村忠雄も一時、大石のとこじめ二十一 ( 名が天皇暗殺計画の容疑で起訴されて、十二月 ろに来ていた事があった。学校騒動の当時、色白のまるつ十日、大審完刑事特別公廷が開かれ、非公開審理の結果、 こい顔の額にカンカン帽子の下から長い髪をのそかせた見翌年一月十八日、一一十四名の被告は大逆罪で死刑、二名が かっぽ 慣れぬ風俗で町内を濶歩しているのを時々見かけた若者爆発物取締罰則違反で有期懲役が判決されたのを、同じ日 を、東京から大石のところに来ている人と聞いていたが、 の夜、死刑の半数を無期懲役に「減刑」する天皇の「仁 それが後に死刑逆徒の一人として新聞の写真で見た新村忠慈」が示された。 雄であった。もしこの見覚えが間違いであったとしても、 幸徳、新村、宮下、古河、大石ら十一人は二十四日早朝 大石は当時にあって社会主義の数少ない有力なシンパサイ から、市ヶ谷の東京監獄署の絞首台で刑が執行された。た おんしよう つごう ザーで、社会主義の温床であった事実には間違いない。 だ一人の婦人被告管野スガだけは刑場の都合上一日おくれ しかしこれら幾つかの理由が有ろうが無かろうが、問題て一一十五日の処刑であった。 はこれにかかわらなかった。 代 無期懲役に減刑された十一一人はそれそれ諸方の獄に送ら おおかみ 時狼の羊を食おうとする場合、どんな言いわけがあろうとれたが、相ついで獄中で病死または狂死したと伝えられ ばも、結局狼は羊を食うものだと、イソップ物語が我々に教た。 んえている。 成石は勘三郎、平四郎の兄弟で被告となったが、弟は死 幸徳といい、大石といし 、目・ほしい人物の役割はもはや刑、兄は減刑のうちにあったが、僕がいかだの上で語った 決っていたし、構想ならとうにまとまっていた。あとはものは兄の方であったか弟か、ただ姓だけを知って名は聞き うこの筋書を盛り上げて、できるだけ大仕掛に陰謀団をデもらしていたため明らかでないが、・ とうも弟の方らしい。 だんこ
204 さか共同の放火犯人と疑われたわけでもなかったろうが、 がね」 しようかん 参考人として、田辺町の地方裁判所へ召喚されたものであ と、沖野岩三郎がおもむろに語り出したというのである った。当時、地方裁判所は田辺町にあって、新宮町のは区が 裁判所であったようにお・ほえている。 あの晩、彼はわざわざの先方からの招きがあって、大石 もとより何ら疑わしい筋のなかった二人は、一応の取調ドクトルの応接間 ( というよりも患者控室 ) の火鉢にドク べののち放免されて田辺町から乗船して串本港に帰る僅か トルと相対して、夜ふけまでよもやま話に夜をふかしてい に三時間ばかりの航海の途中、それも串本湾の入口とも言た。 みさき たいふう うべき潮の岬の東北方の大島附近で、颱風の前ぶれらしい こんなのはいつものことで、何もめずらしくなかった あんしよう 突風にあって暗礁に乗り上げ、急行船でない三百トン級のが、この晩は、あの火事と、それに、ちょっと妙な事があ できし 小汽船は大破し、乗客であったわが二人の同級生は溺死しって、もうかれこれ五十年経った今日まで、彼はまだ事細 てしまった。重ねがさね、よくよくの悪運である。 かにおぼえていると言ったが、話に身の入っている間に こういう不慮の気の毒なぎせい者まで出しながら、放火も、たえず柱時計に注意しているように見えた大石は、不 犯人というのは、その時も、その後も、半世紀後の今日ま意に部屋から表へ飛び出すと、 でも依然として、恐らくは永久に不明である。やはり薬品 「火事じゃ ! 中学校や火事じゃぞツ」 の自然発火であったのかと思われる。しかし沖野岩三郎が と、大声で叫び立てた。室内では柱時計が十一時をうち はんしよう 晩年になそのような話を語っていたと僕は伝え聞いてい 出して、それがうち終ったところで、半鐘の二つ・ハンが鳴 りはじめたものであった。 中学校と大石の家とは町の南北の両はじにあって、遠く 距てた大石の家から、たとい表に飛び出していてもまだ火 たいぎやく 同郷の旧友に向 0 て来し方を語 0 て大逆事件に連の嫌の手も煙も見えるはずもない。それを半鐘も鳴り出さない 疑でなやまされた事から当時の学校騒動、その幕切れの火うちに、大石が、中学校の火事を知っていたのが、沖野に 事などにまで話の及んだところで、 とっては不思議でならない。 「何もかも今だから言えるが、あの火事もやつばり大逆事「そこでわしは考えたものやが」と沖野は言ったとか。 件の仲間の仕事じゃなかったのかと、わしは思ってるのや「大石はだれかと時を打ち合せて待っていたのであろう。 ほうめん れんる わす けん へだ
202 その前年の秋から冬にかけて、僕がむかし城山に登った庭 のうら山のがけ伝いに二度ほど賊が忍び込んで以来、用意 しばらくぶりで帰ったわが家のしずけさを愛して、僕はした金庫であった。父は金庫をしめながら、声をひそめ 南の窓に竹の影を写した座敷に、ひとりこもって、「日本て、 及日本人」や「太陽」など父の雑誌にも見あきた末に、父「大石緑亭その他の人々が検挙され、なお大石の友だちの の所蔵の書画などをあれこれと床の間に掛けて見ているだれかれがな抄を受けたという話じゃ。わしにも注意 したがよいと教えてくれた人があった。さあ、何事があっ と、往診からかえって来たらしい父の足おとやしわぶきが して、座敷の次の六畳や書斎にしていた奥の三畳などのあたのかは知らないが、よほど重大な事件らしいからだれに いだをあちらこちらと、父は何やらひどく落ちつかない様も洩しちゃならないということじゃったが」 家宅捜索をおそれて本を金庫のなかへ封じ込めたのは、 子で、うろうろしていたが、座敷に来て僕に話しかけた。 りやくしゅ 「ここらに『パンの掠取』とかいう本があったのをお前知僕にはこつけいな事として五十年近く経った今も思い出さ れるが、父はそれほど驚いたのであろう。 らなかったか」 「クロポトキンの本ですか。仮りとじの白い表紙に赤く大その翌日、父はまた声をひそめて僕に話しかけた。 こうとくしゅうすい 「ぎのうの大石の事だが、あれは幸徳秋水が町へ来たこと きな活字で表題のある」 「うん、それだ」 と何か関係があるらしいのじゃ。幸徳の来た時、大石が発 「あれなら、読みたいと思って僕がちょっと持って行って起して秋水の歓迎会をしたものじゃが、その歓迎会へ出席 います」 したろうと調べられて、当日はぜんそく発作のため不参と いう事実を日記を証拠に申し立てて、追及を免れたという 「あれは大石から借りた本じゃが、そこらへほうり出して 話を今日聞いて来たのじゃが、あの歓迎会は昨年であった 置いてはいかん。早くここへ持って来なさい」 か、いやもう一昨年になるか、わしにも回状がまわって来 「はい」と僕が自分の部屋からそれを持って来て渡すと、 父は、 たのはお・ほえているが、わしは北海道へ行く前でいそがし 「これでよかった。わしはどこへ置き忘れたかと思って心かったし、また気がかりな患者があって行かないでしまっ 物とも 配していた」 た。会場はたしか乙基でアユ食いをするとかいうのであっ たな」 と、父は板戸のなかの金庫をあけてそれを封じ込んだ。 かんげいかい まぬが
と、聞き手もしかたなしに相づちを打つ。 大部分は金に不自由さえなければ慰められることです。大 なかえちょうみん 「幸徳秋水という人は中江兆民の門人と聞いて、わしも一石もきっと日ごろそれを感じていたのでしよう。死刑囚に 度会ってみてもいいと思っていたから、大石から回状が来なって何でも言いたいことを言い残せと言われて、すべて た時、歓迎会へはよほど出席しようと思ったが、あいにくの貧民をせめては死ぬ時だけでも人なみに死なせるだけの 重病人がいていっ急変があるかも知れないのに、会場は不国家的施設ぐらいは考えてほしいと言ったとか。そのため 便なところでかけつけるに間に合わぬと病人に気の毒なと に恩賜財団ができてその経営する病院もあったはずです 思って出席しなかったものじゃ。おかげでわしは命びろい ね。あれはえーと、何とか言いましたな」 しましたよ。これも妙な話さ。重病人が医者のおかげで命 びろいするのは普通じゃが、医者が重病人のおかげで命び ろいしたのは、これはむかしからあまり例はありますまい 沖野岩三郎の出世作「煉瓦の雨」 ( は一種の文化史的角 大逆事件はつじつまの合わない奇妙なことばかりですそ」度から大石一族を取扱って、新しい社会小説と認められた 父がそんな風に駄じゃれまじりの笑い話に語るのを聞いものであるが ) によると、大石誠之助の兄は、山林の材木 た人は、粛話題をふまじめにかたづけるお 0 ちょこちなどよ をいかだに組んで売り出すより、ただ伐り捨てて川へ い老人と思ったかも知れないが、父としては気心を知り流して人の拾うにまかせればよい、などと言ったばかり かんどう 合った友を失った悲しみの、年がいもなくあふれ出るのを か、勝手に愛人を妻として引入れて、ついに家から勘当を こらえるために笑いにまぎらして語ったのだと、僕にはそ受けた人であるが、キリスト教界の大先覚者で、家から追 れがよくわかった。父や僕ばかりではない。新宮の人間に放されると牧師となって、名古屋附近の教会堂で説教中、 はどういうわけか一般にこういう気風があった。 濃尾の大地震で夫婦ともにストー・フの煙突からこわれ落ち 代 時「しかし大石が社会主義運動に身を投じた理由は、わしにナ こレンガに打たれて死んだ。彼等には三人の子が家に残さ ばもよくわかります」 れていて生き残ったが、この孤児たちは、非常識な息子こ ん と、父は最後に言いそえていた。 そは追い出したが、孫に罪は無いと祖父母が引取って養い わ 「病人というものはいったいに、気力が衰えてグチつぼく育てた。この三人孤児の長兄が西村伊作で、つまり大石誠 買なっているところへ話相手もすくないのでよく医者をつか之助の甥である。 まえて身の上の苦労を打明けたがるものです。聞けばその 西村は祖父母の遺産を受けて大金持になったが、はじめ おんし れんが えんとっ
ひとりで待ちわびている時間の話相手にわしを呼び出した " 泰平の逸民″という言葉があってよく使われるが、この ものか、それとも万一大石自身で手を下したと思われる場言葉も " 悠々自適。などと同じように、言葉だけはあって 合のアリ・ ( イをわしに預けておこうと思ったのかも知れなもめったにある事実ではない。ぎっと今にすっかりすたれ い。ところでわしの証言では同じ穴のむじなのもので無力てしまう言葉に相違ない。 と気がついた大石は、隣近所の人々をアリ・ ( イの証人に仕第一に天下が泰平というのはごくまれにしかない事だ 立てようと思い直して、表へ飛び出して隣近所にひびく大し、たとい時の永い歩みの間に ( 歴史上 ) まれにはあって 声でわめき立てたのはよかったが、ちょっとキッカケがわも、ちょうどうまい具合にその時代に生れあわすという運 はいじん るかった。多分十一時と打ち合せたのを、現場の仕事がお命がすくないところへ、せちがらい世の中は不具や癈人で くれて、大石の飛び出し方が少々早すぎたような結果になでもない限りは、人間をなかなか世の中というからくり ほうだい ったのではなかろうか。 ( 社会機構 ) の外で、個人の好き勝手わがまま放題 ( 悠々 わしの推理ではあまりあてにもならないが、その結論と自適 ) に生きるのをゆるしておくものではない して、わしはあの火事をやはり大石一党の仕事と思うが、 ところが何という仕合せ者か、僕は中学校を卒業という どんなものじやろうか」 美名で追放されて後の数年間ーー・わんばく時代から次の恋 かとぎ おとな と言ったと聞いたが、何しろまたぎきだから、もしゃ崎愛学校時代に入ろうとする過渡期の数年、子供と大人との 山栄が手先に使われなかったろうかという僕の想像を沖野潮ざかいで、世の中がまだ一人前と認めてくれないこの一 氏に確める折もなく沖野氏は死んだ。崎山のことはともか時期を利用 ( か、それとも悪用か ) して、人間としてはめ 強 - よう力し くとして、あの火事と大逆事件とか言うものとのつながりったに得られない泰平の逸民という有難い境涯に僕は在っ は沖野氏の言うとおりかも知れないと僕にも思われる。 代 時 僕がわんばく時代を終った明治末から大正初期にかけて は、日露戦争の勝利の後で、国民はこの苦しかった大戦の 泰平の逸民 ( 一二九ー一三一 l) 真相も知らないで、ただうわっつらだけの勝利に酔って人 心はのどかに、経済的にも一般に恵まれた時代で、近世日 本の国運の頂上にあったのだから、時代は泰平の盛世とい ってもよかったろう。たまたま大逆事件のような不祥事の ( 129 ) こ 0 ふしようじ
212 に立回ったのは、当局にとっては渡りに舟、そのために新だねておいてもいいとはいえ、舟の往来も多いことではあ 宮町は、不幸にも明科以上にこのいやな事件の主役的な土り、また貯木にまわすにしても、二人のいかだ師が二人と あやっ 地になってしまったのであった。 もいかだを捨てて、一人の操る者もなかったというのは、 ちょうど暑いさかりで、幸徳の歓迎は新宮町の西北隅に少しく実情にうとく不自然なまずい作り話ではあるまい おとも あゆ カ あたる乙基の瀬にあった鮎のやなを会場にした事実もあっ それよりもなおより以上に僕の怪しみ疑うところは、明 乙基は熊野川が千穂ケ峰のうら手をしばらく北流して来科で密造された爆弾は、これの発覚と同時にすべて没収さ すで て急に大きく東へ曲り流れるあたりにある浅瀬で、その対れたはずではなかったろうか。既にありもしない爆弾の使 いまさら 岸の深い淵に亀島や、やや下流に御舟島などがある。乙基用法を今更謀議したというのであろうか。それとも親切な 河原の舟中に催された歓迎の宴が果てたところで、主客は当局が逆徒たちの使用のためにわざわざこれを残しておい 興に乗じて舟を対岸の亀島に移した。文芸講演会の講師たてあったとでもいうのであろうか。話は少しおかしくはな ちを乗せた舟がその島かげに食事をしたところで、この島 いだろうか。そこで裁判でも天皇暗殺の容疑は証拠不十分 がけ の高さは平均四メートルもあろうか、崖や頂には雑草や灌なものと・ほかされていたという。 木なども生え川島としては可なりな大きさである。 しかし大石が亀島の上で天皇の暗殺を不可と主張したと 島をめぐって舟着きを求め、人々は舟中に残したまま社しても、明科で天皇暗殺のための爆弾を密造した人々が、 しんく 会主義者たち数人は同志の親睦をという幸徳とともに島にその製造法をも学ばず薬品をも仕入れずにこれを仕上げて 登り、あたりをはばかり声をひそめて明科で密造の爆弾使いた疑問を解くためにその知識の伝授者、薬品の供給者と 用の方法を謀議して天皇暗殺の可否及びその手段についてして大石ドクトルは知らぬ間に、この事件には是非とも無 語っている時、老若二人のいかだ師が大石の姿を島の上に くてならない重要な一役を負わされていた。 見つけ、いかだを乗り捨て島に登って一座に加わったと言 われている。これが成石と崎山とのことであるらしい。大 石を父のように慕っていた崎山が、大石の姿を見つけて島たとい亀島の上で天皇暗殺を児戯に類すると否定してい に登って行ったというのはありそうな事に思える。しかし たとしても、天皇暗殺用という事を知って爆弾の製法を宮 たんたん いかだはもはや、下流に来て一路坦々とゆったり流れにゆ下らに伝授して、それに必要な薬品を供給した者と想定さ ふち かん