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検索対象: 現代日本の文学13:佐藤春夫 集
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1. 現代日本の文学13:佐藤春夫 集

からこう真正直に切り出されようとは髞ってもいなかっ 時計はこのあいだ母からの進級祝である。 420 「時に、おれはね、須藤君。このごろお昌ちゃんがますま す好きになって来ているのだ。それでお昌ちゃんにそのこ 次の日、崎山は、 きようだい とを打ちあけると、お昌ちゃんは、姉弟でそんなことを言 「熊野地の仲間は遊戯で勝負を決するのは不賛成ではない い出してもらってはいやだとおこるのだ。ところでお昌ち が、野球はいやだと言っている」 ゃんとおれとは実際には姉弟でも何でもない。父親だって という返事を持って待ち構えていた。 べんぎ 母親だってみな違っているのだ。ただ便宜上姉弟のように 「それでは外にどんな遊戯で勝負するか」 「それに対しても相談してみたが、別にこれと言う案もなしてあるだけのことなのだ。おれはそれをよく知ってい る。それどころか、おやじの考えでは、僕に池田の店をく 「それならば、野球の道具を新宮組から取り上げて当分熊れて、お昌ちゃんと僕とを夫婦にしたいと思っているらし いのだ。そんな事はまだ口に出しはしないけれど、おれに 野地に渡させて、熊野地で十分練習した後ではどうだろう か。仕合は相撲も野球も秋の九月ごろがいいと僕は思ってはそう思われることがいろいろある。おれはおやじの池田 の店をつぐのはいやだが、お昌ちゃんは大好きなのだ。と いるが」 「それだけ練習の期間があるとすれば、僕からよく説き伏ころがお昌ちゃんは、おれは姉弟としては好きだが、そん せけんてい な話ならいやなことだ。それにそんな世間体の悪いへんな せてみてもよい」 「君が説き伏せてくれれば、大丈夫だろうね。僕も野球道ことはできないと言って、非常におこっているのだ。君は 代具を熊野地へ渡させることは引受けるが、仕合は九月でもどう思う ? 」 時十月でもいいね」 「どうって、大人の世界のことは僕にはまだよくわからな いが、世間体はともかく、かんじんのお昌ちゃんに、その ば「それはまたその時になって場所などもよく打合せしょ 心持がなければ話はそれつきりの事ではないのかね」 わう」 「ところがお昌ちゃんはどうも君が好きらしいのだよ。君 その話はあっさりそれだけですんだが、そのあと崎山が しんけんな顔で困った話題を切り出した。それは僕も今まと相談するのはそこだが、君がお昌ちゃんをきらいだとな でに時々考えてみないでもなかったが、今ごろ彼自身のロったら、お昌ちゃんの考えもかわるかと思うが、君がお昌

2. 現代日本の文学13:佐藤春夫 集

「昌栄丸は今錨を上げたから、僕は城山から見送ろうと髞この反省にとりつかれてふぎげんになり、大ぎなかさをき 買って来たところだ」 たおぼろ月の下をと・ほと・ほと歩いて、足もとの小さな自分 かけうし と言う。僕も昨夜お昌ちゃんと手をつないで通った杉のの影法師と自問自答していた。 木の間を本丸へ急いだ。 「ただ一言、気がるに言ってしまいさえすればなんでもな しばらく彼女のうわさをしているうち、 い事ではなかったか。お前は何という見え坊だろう」 「母親に引取られると言うが、もしゃ芸者にでもならされ「しかし、それというのも、お昌ちゃんがいつもあまり僕 るのじゃあるまいか」 を買いかぶりすぎているせいで、さっきだって言い出そう と栄は、僕もそう思いながらロには出せなかったことをとしているところへ、尊敬しているなどと言い出されてし ずばりと言った。 まったために、なんでもない事が言い出せなくなってしま かげ かすみ お昌ちゃんを乗せた昌栄丸の帆影は川口の波を出て霞のったのではないか」 奥に小さく遠ざかって行った。 ・「と言って、それは決してお昌ちゃんの罪ではなくて、や はりどこまでもお前の見え坊のせいなのだ」 僕はこんなふうに考えて自分がいやになり、お昌ちゃん 日和山の半日 ( 一〇五ー一〇八 ) の誠意に対して恥じたものであった。 僕がそれほど気にしているのは、城山のお・ほろ夜よりは 一月ほど前のでき事で、その後、僕がなぐさまないでいる のを、お昌ちゃんが目ざとくも見つけて、 はじ お昌ちゃんは別れにのぞんで、恥をつつまずに、その生「坊っちゃん、何だかこのごろふさぎこんでいるのね。ど れ、その生い立ちなどを打明けて行ってくれた。そのうれうなすったの ? 」 しい心根に対しては、僕も僕なみに打明けておかなければ と言われた事もあったが、僕は、 ならない事を持っていたのに、僕はついにそれを言いそび「いいや、何でもない」 れてしまった。お昌ちゃんの友情と信頼とに対して酬いな と軽くうけながし、知らぬ顔ですましていた。 みずか かったのを僕は自ら恥じ自分を責めていた。 その時ならまだそれでもよかった。しかしお昌ちゃんが 城山を下りて峠の家からわが家まで帰る途中から、僕は顔をそむけ目を伏せていかにもきまりわるげに身の上を明 こころね いかり

3. 現代日本の文学13:佐藤春夫 集

井戸のうしろのあき地では、木蓮が咲きつくして、追 0 ばら 0 ても逃げないダンを、僕ははしゃいで抱き上 げて、お昌ちゃんを守り、やっとうら木戸まで来た。 の巻葉が大きく出て半分ひらいていた。 ダンは木戸のなかに閉じこめ、木戸の外で僕は崎山に押 お昌ちゃんは、大きな眼を見はって、あたりの見慣れな い様子に興味を持ったらしく、崖をはい上っているくずのえつけられた現場をお昌ちゃんに見せて、僕がとりこにな あやう 太いつるや、その前の上の台地から大きな枝をさし出してろうとするところを、危くダンに助けられ、同時に腕をく 、しがき 垣の下一面に、粉つぼい花を黄いろくよごれた雪のようじいたひとくさりも話した。 小路を出てお昌ちゃんが戸坂の通りをの・ほって行く赤い に撒いているぐみなどに目をとめて、 帯のうしろ姿を、僕はいつまでも見送ってからかえった。 「あれなあに ? 」 井戸ばたまで来ると、進さんの家の近所から小浜越えで 「あれは ? 」 などと一つ一つ指さして、あとへあとへ問いかける様子かよってくる看護婦が、 が子供らしくてかわいらしかった。子供から大人になりか「今のひと小浜越えの峠の家のひとでしよう ? 」 「うん。崎山君という僕の友だちの姉さんだ」 かっていたのであろう。 「ぐみってあんなちっちゃなへんな花が咲くのね。あたし「あの人、芸者の子だってほんとうですか」 「そんなこと、おれが知るものか。だれがそんなことを言 はじめて見たわ。実になったらきっときれいでしようね」 うのだ ? 」 「あれが今に一めんの鈴なりに赤い実になったのは美しい よ。見せたいほどじゃ。そのうちにまた見においで」 「近所の人たちが言っていました」 そんなことを話しながらうら木戸の方へ出て行く。お昌僕は返事のかわりにふきげんな顔をした。 ちゃんは草や木がよほど好きな様子である。 サポテンは十日あまりして、南の小窓の軒で、お昌ちゃ 代 時僕らの近づくのを遠くから見ていたが、僕が名を呼ぶんのくちびるの色のようなかわいらしい花が美しく咲いた ・まと、ダンはころがるように飛んで来て、僕の胸に手をかけから、僕は自転車のハンドルにぶら下げてお昌ちゃんに見 ん顔をなめようとする。お昌ちゃんにまで飛びつこうとするせに行った。 のを、 後年、土曜劇場という新劇団の娘役、酒井米子という女 「あたし大はこわいのよ」 優に僕はお昌ちゃんのおもかげを見出して、なっかしく思 ったものであった。 とお昌ちゃんは逃げ出しそうにする。 み

4. 現代日本の文学13:佐藤春夫 集

ら昌栄丸が迎えに来てるのよ」 「だれもいないから家のなかへお入りなさい。あたしさび 「明日にでも ? 」僕は驚き、うろたえ、そうしてだれに対しいのですもの」 してともなく腹立たしい気がした。 と言ったが、僕は夜の家のなかでお昌ちゃんと二人きり 時は暮れ行く春よりも でいるのがこわいような気がしたので手をはなしてしまっ また短かきはなかるらん て、 恨は友の別れより 「さびしいのなら、僕、ここで見ていてあげるよ」 さらに長きはなかるらん と家には入らずそれかといってそのまま立ち去りもし 僕はお昌ちゃんに手をとられながら、心に藤村の詩句をないで、戸口からお昌ちゃんがつりランプに燈をともすう 思い浮べて、その実感を味いながら歩いていると知るや、 しろ向きの立姿をじっと見ていた。僕がすなおに家のなか じゃしん 知らずや、お昌ちゃんは言い出した。 へ入らなかったのは、今思えば何か邪心があったせいのよ 「坊っちゃんは今に院長さんになるのでしよう」 うである。 「いや、僕は医者なんかにはならない」 この山かげの家の前にも月がさすようになってから、僕 「そう、つまらないわ。あたし坊っちゃんが院長さんになは大きなかさをきたお・ほろ月の下をお昌ちゃんに言えなか ったら診てもらおうと思って、たのしみにしていたのに。 づた一言を考えながら家へかえった。 でもここにいなくなれば同じことね。院長さんにならない その翌日ひるの登校の道を女子高等小学校の運動場の前 で何におなりなの ? 」 から学校とは反対の方向へ、日和山を越えて井才田をポッ 「僕、僕は詩人になるのだ」 ツリ山の東ふもとから小浜越えの峠の家へ出た。学校の体 「詩人 ? 詩人って、なあに ? 」 操の時間をサポってお昌ちゃんの様子を見に行ったのであ っちいばん 時「歌や詩をつくる人さ。さっきの春高楼の歌だって土井晩る。 ば翠という詩人のつくったものだよ」 栄のお母さんは僕を見るなり、 しいわねー」 「お昌は今のさっき栄に送られて船に行ったところで」 わ「そう ? あんな歌を書く人になるの、 そんなたわいもないことを話しているうちに、林間の道と言ったから、僕は黙って一礼したまま小浜へ急いだ。 を出て峠の家の前に来ていた。お昌ちゃんは僕の手をひっ途中向うから来た栄に出会うと栄は、息をはずませなが ばって、 ら、

5. 現代日本の文学13:佐藤春夫 集

138 久志君に連れられて現われた。 とう お昌ちゃんは手に何やらぶらさげて、唐ちりめん ( メリ ンスのこと ) の長いたもとのひらひらした着物を着て、は「ごめんなさいね」 にかんでいる様子であった。 と、お昌ちゃんはそう言って、僕のさし出している腕を えんがわ 久志君がすすめて縁側から、やっとざしきへあがらせ、 こわごわさわってみてから、関節の上などをいろいろにさ 僕がすすめて座ぶとんをしかせようとするが、どうしてもすった。僕はくすぐったいような、たのしいようなへんな ふとんはしかないで、僕のまくらもとに近くいざり寄っ感じで、しばらく黙ってさすってもらっていた。 て、両手をついて、「このたびは、栄がおけがをおさせ申 てれくさいような顔をして見ていた久志君が、いつのま したそうで、まことに申しわけもございません。母が参るにやら見えなくなったと思ったら、奥のざしきとのしきり はずでございますが、わたくしが代っておわびとお見舞いのふすまがあいて、僕の母がお茶やお菓子を持って、僕の とをかねて参上いたしました」 まくらもとへ出て来た。たぶん久志君が僕のところへ来た こうじよう いずれは、栄のお母さんからおそわって来た口上であっ かわいらしい見舞客のことを報告したためであったろう。 たろうが、そんなことをすらすらと言った。それから、 お昌ちゃんは僕の母が出て来たのに少しあわてた気味 「今、書生さんから聞きましたが、きのう手術をおすませで、居ずまいを正した。僕は母を見上げて、 なすったのですってね。どんなご様子かと母も栄もわたく「お母さん、これが僕のけがをした時、取組んでいた崎山 しも大へんしんばいしましたが、お目にかかってお元気な君の姉さんのお昌ちゃんという人です。お母さんの代りに ので安心しました。でもお痛かったでしよう」 見舞いに来てくれました」 お昌ちゃんはいつまでも幾らか改まった口調であった と僕が紹介すると、ふたりはそれぞれにおじぎし合って が、いったいに大人びたロをきく子であった。 いろいろとあいさつをした末、母はお昌ちゃんと僕とにせ 僕は左の腕をつき出して、 んべいやお茶などをくれてから部屋を出ていった。 あか 「ここの関節をくじいたのだけれど、もう何ともないよ。 あとで母が、「垢ぬけのした、はきはきとませたロをき このとおり」 くお子でしたのう」とお昌ちゃんのうわさをした時、僕は と言って、いろいろに動かしてみせた。 わけもなくはずかしいような気がした。 僕の母がいなくなってから、お昌ちゃんは、はじめてい おとな

6. 現代日本の文学13:佐藤春夫 集

174 、しがき ダンが垣のとつばなに出てほえはじめたと思ったら、 だけのことではないような気がしたものであった。 石垣の真下の杉の木の間を急いで来る人影が待ちに待った その身の上を語り終ると、この少女は気を変えたように 僕のお昌ちゃんであった。僕はからめ手から本丸に登る石急に立ち上り、声を張り上げて、 こうろう えん 段まで出迎えて、いきなりせつかちに、 「春、高楼の花の宴 : : : 」とそのころはやり始めていた 「お昌ちゃん、用事ってなに ? 」 「荒城の月」を歌い出した。僕もダンも声を合してお・ほろ お昌ちゃんはさびしく笑っただけで、しばらく口をぎか月に向って歌った。 なかったが、 「あたしなんかどうでもいいけれど、お願いは栄のことな 「三河へ帰らなければならないことにな 0 たので、お別れの。栄はあたしが居なくなると話相手もないさびしい子な が言いたくて来ていただいたの」 の。やけになると何をしでかすかわからないのが心配だ 「どうしてまた急に三河なんかへ ? 」 わ。坊っちゃん、あたしが居なくなっても栄の友だちにな お昌ちゃんはまた返事をしない。僕が若草をしくとお昌 ってやって下さいな、おねがい。あれはあたし同様に坊っ ちゃんもダンも鼎坐した。僕は、店の事か、栄らと一緒にちゃんを尊敬しているのですから」 居にくいのか、お嫁にでも行くかなどと思いつくかぎりを お昌ちゃんは杉木立の中の道を歩きながら、またしんみ ぷえんりよ いろいろ無遠慮に問うてみたが、・ との問にもみなかぶりをりとそんなことを言い出したとたん、ふと木の根につまず 振りつづけたきりで、黙り込んで、理由は最後まで言わな いて僕の手にすがったきり、その手をはなさず僕も握られ かったが、その代りにと、 たのを振り払おうともしない。十五の僕と十八のお昌ちゃ 「今までははずかしくて言えなかったあたしの身の上だけんとは手をつないだまま、お・ほろ夜の林間の道をたどって ゆり をお別れに打明けるわ」 いた。情景は大きな百合の花こそないが麻酔の夢に似てい と彼女の語り出したところでは、彼女は田舎芸者の子とる。 して生れ、栄の母と三河の母 ( とは父の正妻のことらし い ) と二人の義母に養い育てられて生みの母とはまだ暮す 日もなか 0 たのに、今度生母が彼女を連れ子として結婚す「それで、お昌ちゃん、 = 一河〈はいつ行くの ? 」 る相手ができたというので、呼ばれて三河の生母の許に行「そのことで今夜もお母さんが池田〈相談に行 0 ているの くというのであった。だが僕はその時、何となくただそれだけど、あしたにでも行かなければならないわ。この間か

7. 現代日本の文学13:佐藤春夫 集

を知る人なら誰が見たって、お昌ゃんと歩いた時の印象お昌ちゃんの手紙はそう結んであった。 に違いないのだけれど、ただお昌ちゃんはばっちりしたそ僕はその母の死はもとより栄の死をさえこの時はじめて * なちぐろ の黒瞳は潮にぬれた浜の那智黒のようにあざやかに美しか聞き知った。 0 たとは言え、切れの長い一重まぶたは絹糸を引いたよう志を得ていたら旗の艦橋にも立っぺき彼が、北国の冬 に細くて、決してつぶら瞳と言うべきものではなかったのの獄中の死の床にあって、むかし育った南国の野山をしの なっとく を、僕は絵そらごとにこう歌ったのがお昌ちゃんには納得ぶ彼の臨終のま・ほろしのなかには必ず僕も居たであろう、 がいかなかったのであろう。 と思うことが僕には切なかった。獄中の彼のこの一死が艦 僕は渡されたその場では、手紙の書き出しの三分の一ば上のはなばなしい死に優るとも決して劣るものではないの を、彼は自覚していたであろうか、どうか。 かりを走り読みしただけで巻きおさめ、あとは家に持ちか えって、ゆっくりたのしんで読みつづけた。 わたくしにはあの峠の家のころが、わたくしの一生のう ちでいちばんいい日であったと思い出されます。しかし栄や彼の母に対して今さら、彼の死の意義を説くすべの うらみ ( とお昌ちゃんの手紙はこうつづいていた ) 栄はあんなこないのは僕の恨とするところであるが栄はたとい獄中で野 ふらいかん ら犬のように死んでも、無頼漢やただのやくざではなかっ とになってしまって、先年の冬、獄中で亡くなりました。 たことを、せめては栄のをいつも案じていたお昌ちゃ 次の年の秋、栄の母も、栄があんなことになるほどならい っそ本人の望みどおり海軍へやって戦死させた方がよかつんにだけでも知らせたい。そうして事のついでに、城山の たと言いくらしながら、まだ五十にもならないで死んでしお・ほろ月夜や、王子ケ浜の松風など、「野ゆき山ゆき海べ まい、わたくしだけひとり残されて、あのころを語り合うゆき、真昼の丘に花を藉いた」日を語りたいと思いなが 代 おとな 時人はだれも無くなってしまいました。前後しましたが、あら、僕はわずかに一日を費せば足る土地にお昌ちゃんを訪 ばなたのご両親はお達者のことと存じ上げますが、お国へおう機会を終に得ないでしまった。 わ帰りの途中でも、こんな草深い田舎寺ではございますがお再会して幻滅をおそれるわけでもなく、またお昌ちゃん 立寄りいただければどんなにかうれしゅうございましょのせつかく安定している生活をゆるがすまいとの心づかい 3 、り′ でもなく、理由はごく単純に散文的である。ア世話に言う、 貧乏暇なしとやら、僕は詩人として過って有名人とかいう

8. 現代日本の文学13:佐藤春夫 集

140 かのやつらならお医者にかからなければならないが、須藤ものおいやでなかったら、そこらへおいてやって下さい。 なお 君ならうちのお父さんに治してもらうから世話はないよでそだてると言っても、日あたりのいい軒かどこかにつるし すってさ。母もわたしも、栄の言い草があまり・ハカ・ハ力しておいてくださればいいのよ」 とちゃんと針金でつるすようにしてある。 いので笑ってしまいましたの。 見ると、銀の網でもかぶせたかのように、みどり色の卵 坊っちゃんを ? 栄が坊っちゃんを憎んでいるなんて、 憎んでいるどころですか。栄もわたし同様に坊っちゃんがのうわっらは、すつ。ほりと横にひろがったとげをかぶった 大好きなのですよ。わたしよく知っているわ。もし栄が坊頂上にちっちゃない・ほのようなものがついているのをつ・ほ っちゃんにひどく当ることがあるとすれば、坊っちゃんをみだとお昌ちゃんが言う。なるほどそのまんなかだけうつ 憎らしいのではなくて、坊っちゃんのようにしあわせなおすらと色がちがっている。 「いつ、どんな花が咲くの。これはうれしい。もらってた 人が忌々しいのよ。きっと」 くちょう お昌ちゃんは、しまいにはいつものように快活な口調にのしみに見よう」 なって、こんなことをこんなふうに語り出した。 と僕が言えば、 お昌ちゃんは時の移るのも忘れて話しこんでいたが、西「どうそ」と言ってお昌ちゃんはその鉢をあらためて、う ささ がけ 向の崖に日が照りかえして部屋があかるくなり、庭の日ざやうやしく、僕の前に捧げた。 しの変ったのに気がついたのか ' 急に立って、今までぬれそうして「さよなら」と庭におりて行くお昌ちゃんを、 縁におきっ放しにしていた新聞包みの新聞紙をやぶいてそ「ちょっと」 はち のなかから廿ポテンの鉢を取出した。 と僕はいそいで追っかけて庭におりた。 まるつこいかわいらしい形の黒い肌に金で模様のある小 さな植木のなかにみどり色の卵を立てたようなサポテン しゃふ のたてに溝の刻まれているのを取出したのである。 お昌ちゃんは井戸ばたから車夫部屋わきの土間を表門の 「こんなおかしなものですが、去年、父が船のざしきにお方へ通り抜けようとしているところであった。僕は追っか てまね いてあったのを、わたしがもらって来て自分でそだてていけて呼びとめ、手招きして呼びかえし、 たのが、今年はじめてつ・ほみを持ったから、今に花の咲く「こちらへおいで、うら口から出た方が近いよ」 のを見ていただこうと思って持って来てみました。こんな と、井戸ばたからうら木戸の方へ案内した。

9. 現代日本の文学13:佐藤春夫 集

日つづけているうち、足はまだよくべダルにとどかないがり途の小浜越えを戸坂へ出ないで、丹鶴姫の丘と城山との 背のびして無理に踏んでひとりでに乗れるようになると、 間の谷を川に向って小浜へ、崎山をさがしに出ることにし 坂から広場へ出た。一週間ほどのうちに戸坂を崎山の家の 下あたりまでも行けるようになった。 道ばたの草むらに虫はいくつか見つかったが、みな、お ぎようずい 見上げるとちょうど行水のあとらしく、ゆかたがけのお昌ちゃんのくれたのと同じものばかりであった。 なるかわ 昌ちゃんが小浜越えの石垣の上から、にこやかに、 成川の内だか、鵜殿村の方だか知らないが、川向うに家 「坊っちゃん ! 」 が見え、川からの北風がすずしく採集網を吹きなびけ とはしゃいだ声をかけてそでをひるがえし手を振った。 僕は得意だが、はずかしかった。 小浜へ出て見ると、風をはらんだ三反帆が二つ三つ、 タ風にら 0 て坂をくだるのは、夢の中で飛ぶようにたをのぼ 0 ていた。この岸の遠浅は熊野地の子供の泳ぎ場に のしかった。 なっている。すぐ川上、城山のがけ下にはうずをまく深い その次の日、お昌ちゃんの家に立ち寄ると、いつもと同淵がある。 じように話していたお昌ちゃんが、思い出したみたいに 崎山のけらいで僕の顔見知りの東軍の兵が五、六人、ほ おづえをついて背中をほしていたのが、僕の顔を見て、来 しいえ坊っちゃんの話しかけるのはかまわないわ。けど たぞという顔色を示した。僕は知らぬ顔で わたしお返事しないかも知れないわよ」 「そこらに崎山が来ていないか」 「どうして ? 」 「船じやろ、おれが呼んで来てやろうか」 きがる おき お昌ちゃんは答えなかった。僕は何かしら、いやなかな と一人が気軽に立って、遠浅を沖の方へ二十歩ほど歩い しい気がした。 てから川上へ泳ぎ出した。 昌栄丸は山かげの淵にあったらしい。すぐに赤ふんどし の崎山が・ハッテラ ( 小舟のこと ) をカイであやつりながら こと お昌ちゃんのきのうのひと言をどう解釈したらいいの川上の山かげから現れ、岸に近づきつつ、おこっているよ か、僕にはそれが気になった。崎山に聞けば、その意味もうな大声で、 わかりそうだと考え、今日は杉山のなかで思い立って、帰「何か用か」 こ 0 うどの

10. 現代日本の文学13:佐藤春夫 集

し出した時、僕はな・せそれをぎり出さなかったろうか。 0 その機会をのがしたのは是非もない。明日になってから でもおそくはない。どうしてもそれは言わなければならな その時、一学期、二学期ともかんばしくなかった数学の い、という一途な気持があったればこそ、僕はわざわざお試験をやりそこなったとは思った。しかし学年末の試験 昌ちゃんの出発に先立って、学校の時間を割いてまで、峠 二学期よりひどく悪いとも思わなかったし、他の の家へかけつけたわけであった。しかしお昌ちゃんにはも学科はみなひととおりにできているつもりであったから、 う会えず、その一言を明す機会は終に失われたものであっ落第するなどとは夢にも思ってみていなかった。 だから成績発表の日も、少しの不安もなく学校に乗り込 せめて城山で栄にでも言えばいくらか罪は軽くなったんで、事務室へ出かけて成績表を受け取ろうとすると、し かも知れない。ところが僕はお昌ちゃんになら打明ける気ばらくそれをさがしていた事務員は別ロのうすく重ねてい になっていながら、栄にはどういうものか、言いたくはなたなかの一枚を抜き出して渡し、後で思えば心なしか少し かったものである。打明ければお昌ちゃんは、きっと何と馬鹿にしたような表情でそれを窓口へ突き出したので、少 か、僕をなぐさめてくれたであろう。しかし栄はあざ笑う少へんな気がしてそれを受け取って校庭に出た。そうして だけであろう。僕は栄に笑われるのもいいと思いながら、 こっそりのそいてみると落第と記されてあった。 その場になると今さら栄に言ってみてもしかたがない、是僕は校門を出ると急いで家に帰る気にもならず、不満と 非ともお昌ちゃんに直接言わなければすまない気むずかしろうばいとを抱いたままいつも通学する畑のなかの道に立 さが僕にあった。 って、やや遠く校門の方に目を向け、そこに出入している もとよりそれほどの重大な話ではない。 一言きり出しさ生徒たち、特に同級生の顔色をひとりひとり見ていた。す 代 じゃま 時えすればよかったのを、僕の見え坊が邪魔したのは、外でるとしばらくして、岡がしょん・ほりした歩調で校門を出て ばもない。その年の春僕は中学三年から四年への進級に落第来た。彼は気の小さい正直な性格だから、はっきりと、そ わしていたのであった。僕自身落第などは何でもないと太々れが全身に現われていたが、見えも何もないこのしょげか たはてつきり彼も落第の仲間らしかった。 しく考えたくせに、それをお昌ちゃんに言えなかったのが みな二、三人っれ立って何やら語りながら出て来るなか 行おかしい。 で、ひとり黙って出て来る彼に向って僕は、 こ 0 ふてぶて