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検索対象: 現代日本の文学14:室生犀星 集
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1. 現代日本の文学14:室生犀星 集

こんい って現われてもはっえは身を逸らしてしまうだろう。それ間くらいあって特に懇意な客を通すような家にはっえが住 ほんとら′ ほど機敏さがはっえを小鳥のようにはしこく化けさせてい み込んでいるものと見なければならぬ。若しそれが本統な さまよ さま るように思われた。伴はしかしこの空地にはっえが時々彷れば彼女が長い間彷徨うたこの近くの空地やガード際に時 徨うて来ることが的中したので、まだ菊橋のことを考えて時出てひょっとしたら、菊橋をも捜すことの出来そうな地 ひかくおだ ずばし 、えど いるに違いない。そうすれば今夜ともこの空地に姿を現形を選んでいるということは、比較的穏やかな図星を射っ こり・こう た考えでなければならなかった。そして小悧巧げであって わすであろうと考えた。 わら ほとん 伴は殆ど毎晩のようにガード際の三角形になった空地もハナの捜査方針が全然なっていないことを嗤わざるをえ なかった。併し伴はこれらの一切の考えはハナに話さずに や、借手のない高架線のドームの中を見て歩いたり茫やり かいわい と数寄屋橋を中心にした盛り場の、夜はこの界隈で一層美彼はどうかして酒の家に坐り込んで酒を呑むところまで漕 しい電燈の並木街を見ていたりしていたが、空地の向側にぎつける必要があり、この家を監視することに決心したの ちょう 一軒の酒呑む家が最近に出来たらしく、日本風な大きな提であった。渡世人の感覚的なというよりも嗅ぎ付けること たず ちん 灯を出している家を見出した。伴はその家が妙に頭にこびで本能的な図星を射る伴は、当分他を捜ねる必要のないこ りついてならなかった。或る晩なそはわざわざその家に立とまで感じたのであった。 寄って酒を呑もうとして見たが、元より伴にはそういう がねこづかい 第五章相殺の発端 た銭の小遣さえ持合さなかったから引き返さぬ訳にゆかな ししふんじん くすぐ かった。し不思議な感覚は元の悪渡世人の魂を擽って来伴の女房の ( ナは獅子奮迅の勢いで事を急速に急いで、 さまよ まるで夢中を逍う鬼人のように町々を捜ねあるいていた。 てこの酒の家を裏と表とから見直させた。つまり女房のハ ナが引続いて捜して歩いても見付からないのは、はっえが今度は見付け次第にうむを言わせずにはっえの身柄を処分 図元の「唄わしてよ十銭」の生活を繰り返していない事を証拠し、その金で当分は好きな物を食い寝そべって暮す考えで しつかい の立てるものであって、何処かに奉公に住み込んでいるものあった。いまの苦しみもはっえさえ捜し出せば悉皆帳消し く・り かっこう になるのだ。ハナは欲に眼も昏んではっえ位の年恰好の少 女に考え直さなければならなかった。何処か酒場とかカッフ 、ちが 工とか、酒呑む家とか、あるいはこういう小料理屋めいた女を見ると、それが踊り子でもあったりすると気狂いのよ 酒の家とかに、ーー伴はこの赤提灯を提げた小料理屋の新うに馳け寄って首実検をするのであった。ハナの言葉に従 建の家を見詰めて考え込んだ。つまり、こういう二階に一一 えばあの子はまるで千円の紙幣束を懐中に入れて歩いてい きびん しか ほったん みがら

2. 現代日本の文学14:室生犀星 集

あらざれば、われは見ぬ、山かけてかがやく身の大きさ、 い上げようとして来てくれたあたらしい私、私はそなたを うるはしとのみ言ふは愚かよ、花つくるは草木のみにあら托み、そなたは私をかい抱いてくれるようにと、紫苑は自 ざれ、わが身の今の照りは湯づとみ ( 沐浴 ) にあふれ分を撼んだ。 て、月悲しそなたにも似て。」 ともやす むか 紫苑は書き終えて羞かしさに簾の外をうかがい、再読し父、倫寧は或る日、机に対っている紫苑にその書き物を しる かよう て顔をあからめた。どうして嘶様に、あらわな事をかき記お見せといった。多分、見せはしないであろうが、紫苑の したかと、にわかに、紙をまるめてしまった。筆とれば思叔母の佐野がいまからあのように書き物をして、殿合せも かえり うままの振舞いが書き分けられ、とうてい口にすることも顧みないでは困ると進言したためであった。やはり紫苑は 出来ない恥かしさも、すらすらと書き述べられることの奇父にかぶりを振って紙をひらいて見せることをしなかっ ひだ 羚と面白さに、紫苑はべつの紙をまたひろげて思いの襞をた。再度、倫寧はただの一枚だけでよろしい、そなたがど しらべた。書くということは心のままになることであり、 のあたりに筆をとどめているかを知りたい、そなたも自分 むか 書かれたことに対うことの親しさは、自分という者のありの文の才を確かめて置かねば、折角の書き物もむだになる しつ つか かを確かりと掴まえられる気になることであった。いま一ではないかと言い、紫苑はその言葉にはじめて意味を知っ たらい っ紫苑にあたえた異感の動きは、仕えの者の立居にも、朝た柔らいだ顔付で、一枚の薄葉をさし出した。 すこ タの簀の子の景色、草木もいままでより媚びた明色に映「私は護摩の御符を飲んでみたが、母上の仰せのようにお なか うすよう り、とりわけ青い薄葉をのべた机のおもむきある紫苑の正腹の痛みはとまらなかった。あのような細かい砂子のどこ ものい 座までが、後の世につながる思いであった。書くというこ にお薬になるものが潜んでいるのであろう。私は物忌みの うれ との嬉しさの果に紫苑は生きる自分を見ることに、疑いをない晴れた日の川原に出て、僧が砂子をすくい甕におさめ 日 - とうとかじ、とら・ の持たなくなった。彼女は自分にいい聞かせてみた。何でもる姿をみたことがあった。それは貴い加持祈をあたえた え、びようなお ろない事共でも書き溜めて、昨日がなにの為にあったか、明砂子であり、服用すれば疫病も治るという僧の申し開きで 日はまた何のよすがで訪ずれるかを、薄葉のうえに述べてあったが、私には何の効きめもなく、そのむなしい砂子は らくひっ みたかった。薄葉はおちついて落筆を待ち、落筆は昨日よ次ぎの服用にはもちいずに取り棄てて了ったが、貴い砂子 たた 7 りも多くを尋ねるのである。物を書こうとする私よ、いまの祟りもなければ、捨てられた砂子には青い煙も立たなか ゆきあられにおば つらら まで何処かにかくれていてふいに私に溜ったものを、すくった。って今になれば氷柱を舐め、雪霰を頬張っていた こ たの つか ひそ せつかく な かめ

3. 現代日本の文学14:室生犀星 集

なわよ まぎ えを外そうと、人と人との繩の縒れ目に紛れ込んで見たい掛けないことであった。 しつかり が、その度にきくえは鋭く群衆を潜り抜けて、確乎と伴の 手に獅噛付くのであ 0 た。そういう事を繰り返しているう伴の妻 ( ナが眼を覚ました時は伴が家出をしてから、ま た ち妻ハナがこの公園をあてにして伴を捜しているに違いな だ二十分と経っていなかった。ハナは伴の寝床の空になっ と いと考えると、伴は一軒の映画館にきくえを連れ込んで兎ているのを眼に入れると直ぐ床の下に手を入れて見たが財 かく とこずそあたり も角も薄暗い空気に馴染むのであった。此処でもきくえは布はなかった。 ( ナは逆上して床の下や床裾や四辺をい まと しん 離れずに執拗く伴に付き纏うたが、に晩まで館から館を摺り廻り、頭の芯からり出るような絶望的な悲鳴を挙げ 渡り歩くことに腹を決めてしまった。富士館にった時て、遣られたと叫んだ。そして貰い子きくえの寝床もから いねむ は夕方近くきくえは疲れて、時々居眠りさえ催した程であになっているのに再びかっとしたが、念のために大声で、 ねむ った。睡っているかと見ると眼を覚ましている彼女は伴のきくえ ! きくえ ! と呼んで見たが勝手の方にいるらし たもと 顔を見て安心をし、しまいには伴の袂をしつかりと掴んだい様子もなかった。二人で話合って家出したものであろ ありがねかっさら まま、すやすやと睡込んでしまった。伴は彼女を旨く腰掛う、昨夜のうちに奴等は計画的に話合って有金を掻浚って に片寄せてそっと身をずらせて見たが、そんな事も最早気出掛けたものらしかったが、ハナは伴の寝床もきくえのそ 付かずに睡込んでしまっていた。 れも、まだ余温が今床を抜け出したばかりな程、ぬくもり 伴は腰掛から身を退いた時も入場口から取急いで人混みの残っているのを知るとふらっく足を踏みしめ、勝手に出 に紛れ込んでからも、哀れなきくえは知らなかった。伴はて行った。雨戸が一枚抜歯のように二尺程開いていて、好 うまみら いりや 馬道から改正道路に出て、更に入谷のごちやごちゃした町い天気らしい朝日の明るみが眩しく眼に射し込んだ。ハナ を潜り抜けると坂本の大通りに出た時は生暖かい乾いた夜は下駄を引っかけると長屋の小路から表に飛び出して見入 あたり 図が訪れていて、四辺は整然とした街の姿を見せていた。伴ったが、再び寝静まった小路から家に引き返した。「あれ ひさし のは一軒の下等な食堂に這入ると久濶ぶりで酒を誂え、つとだけの金をつくる為に一体私が何を為て来たか、奴は知る あせ 女めてきくえのことを忘れようと焦った。それほどきくえをまい。それをそっくり一文も残さず財布ぐるみ持って行く ひどちくしよう むじ 騙して打棄りっ放しにして来たことが酷たらしい問題を彼とは、何という酷い畜生だろう。わたしは差し当り今日と はっこう いう日をどうしたらいいのだ。しかもきくえまでそそのか の心に醸酵させて来たからであった。これらの厭うべき不 しば、り 愉快な問題がこうまで伴の心をがちがち齧り付こうとは思して持って行くとは念の入った悪党根性だ。」ハナは暫く だま たび しがみつ そら の くぐ あつら つか まぶ から

4. 現代日本の文学14:室生犀星 集

ようじ まもりふだ ってもきくえは不安がって、伴のそばを離れなかった。伴ゃい鏡だの楊枝だのお守護札なぞが入れてあるでしようと は間があ 0 たら何処にでもきくえを置いてき堀にする考彼女は袂から、予て逃げる準備をしていたらしいデ怕包を えであり、こういう足手纏いを連れて歩く気にならなかっ取り出して見せるのであった。伴は気のないふうでちらっ 、ら た。悪こすい、その性質のままに動いて伴が持ち出した金と見据えたが、それほどまでにハナを嫌うぎくえの年に不 しゅうとう ずるきいち た までちゃんと知っていることが、この子供がただ者でない、 似合な用意周到さに、そんな狡い才智に長けているのに今 まで あき どこ迄も人の弱身に付け入るゴロのような気持を多分に持更惘れ返るほどであった。「昨夜ね、おじさんが縁側に出 いや っていることが、伴自身がそうである如く厭な気持であって行ったことも、寝たふりをしていたおじさんのことも、 こわ た。「おじさんは家を抜け出してまではっえちゃんを尋ね皆知っていたわ。何だか怕くて眠れなかったんだもの。」 るのでしよう。おじさんはそんなにまではっえちゃんが可と睡眠不足らしい可愛気のない眼をしばたたいて見せた わい にくし 愛いのでしよう。あたいなんぞは少しも構ってくれないけが、伴はもうこの少女に物をいうことも厭であった。憎み さげす れど、はっえちゃんの為ならおばさんも家も棄てて了うんとか蔑みの心ではなしに唯少しも早くこの子を群衆のなか しま だもの。」きくえがこういううちにも伴はこの少女を旨くで撒いて了いたい気持で一杯であった。何となく妻ハナの ま ひとご 六区の人混みの中で撤くことを、ああしようか、こうしょ灰汁どさをもその心持に食ッ付けているきくえを突放し てはず ひょり うかとその手筈を考えあぐんでいた。実際このきくえにはて、早く身軽にのびのびと天気の好いこの日和の町をぶら あわ 、、ずうずう 憎たらしいいけ図々しい気持が働いて来て愍れさなそ少しつきたくてならなかった。も一つは妻ハナがそそのかして しようさ、 はしばし たんてい も感じなかった。「ああいうおばさんと一緒にいたら何時伴の細かい行動の端々までを探偵させ、それを一々詳細に し の間にか売られて了うんだもの。この間もおじさんには内 ハナに報らせるのではあるまいかと、伴は腹の黒い、何処 くらいれ 密でロ入屋が来ておばさんと何だか悪い話をしていたのまで食ッ付いて来るか分らないきくえを気味悪く感じてい よ。おばさんはそれだけでも、 しいから連れて行って呉れ。た。 家じゃあの子一人のロが減るだけでも大援かりなんだか朝飯をたべてしまうと伴は再び公園に這って行った ぞうふ なまぐさ さか そく ら、一一東三文だって朗わないなんてまるであたいを豚扱いが、この都会のさまざまな臓腑のように生臭い盛り場の朝 ほこり すで にするのよ。あたいはロ入屋を睨み付けて遣ったわ。若しの静かさは既に汚れて、埃をかむった若葉の下の・ヘンチで こんばい はらほ いぎた 、ま も話が定ったって何時でも逃げられる様に、外出の著物やは人々ははや困憊して居汚なく悲しげに腹這うていた。伴 歯磨粉なんぞを用意していたの。ほら ! このなかに小ちは映画館街で何度もぼんやりと絵看板に見惚れているきく ごと つつばな

5. 現代日本の文学14:室生犀星 集

てごわ い、づま の手剛い女だ、ーーー併乍これらの息窒るような出来事の食ったようなこすい表情を見ると、涼しい朝風の中で身ぶ なかで伴はこの女の底知れない、例えば死にかかっていなるいを感じた。 なお どうさっ ずぶとしゅうねん がら尚何事かを洞察している図太い執念さに負けるような「おじさん何処へ行く あ いっミ、い 気がして行った。「それにしても彼の瞬間に一切の鳧をつ 「お前こそ何処へ行くんだ。朝つばらからそんななりをし よ くや せんざい けて了えば好かったのだ。」伴は千載の時をした口惜して。」 せんりつ さに新しい、戦慄をからだじゅうに加えて行った。 「おじさんと一緒に行くの。おばさんと居るのが厭。」 とりつ 「こうなれば一生お前に取憑いてやるからそう思え。自分「おじさんは少し歩くとすぐ家へ戻るんだぜ。」 おろ′じよう・ で気がっかなければわたしはあのまま往生したことになる「おじさんはあそこの家に帰らないつもりでしよう。おじ しわざ んだ。誰一人お前さんのした仕業とは気がっかないんだ。」さんお金を持って行ったことも知っているわ。」 夜が明けかかり伴は悪鬼のようなハナの一晩中怨みの一一 = ロ伴は黙って薄笑いを浮べたきくえがそれだけの理由で、 どっち 葉になやまされたが、反対にハナはぐったりと深々と正体伴を強請って連れ立とうとする腹を見て取った。孰方にし もなく眠りのなかに摺り落ちていた。伴はおもむろに寝床ても伴は早くここの通りを抜けなければハナが追いかけて けねん うかが から抜け出ると、ハナの寝息を窺いながら床の下にそっとくる懸念を感じてならなかった。この子供はあとで浅草の ざっとう 手を入れ、昨夜の財布を抜き出して了った。手触りから考雑沓のなかで撤けば撤くことが出来るが、ハナに見付けら えると財布の中身は異常のない重さだった。伴は縁側かられては一切がふいになるのだ。伴は通りから小路に抜けて 勝手に廻ると雨戸をしずかに開け、そこから小路に出て行川岸に出て行った。 うまやばし すで すが った。それにはさすがのハナも眠りこけて眼を覚ますこと厩橋の鉄のあばらに既に朝日が清らしい。澄んだこの朝 だいたん がなかった。伴はこうして二十何年か連れ添うていた妻 ( の光が大胆なほど明るくなった伴ときくえの姿をくつきり 図ナを棄てたのだ。彼がまだ寝呆けている長屋小路を抜けると描き出した。川蒸汽がぼうと行き過ぎた。この汽笛を聞 のと、不意にうしろから誰かが馳けて来るような気がし、振くのもこの朝きりだと思い、六区の公園に這入って行っ さすがますくな り向くと貰い子のきくえが何時の間に着換えたのか、外着た。人通りは遉に未だ尠かったが映画館裏の食堂はもう開 女 を著けて息を切って来るのであった。伴はきくえの後から いていて、親子づれの伴ときくえのような状態の客や、職 誰かが : : : 妻のハナが来はしないかと気を付けたがそんなエや人夫や朝帰りの客で一杯であった。伴は一番奥の方に 姿はなかった。伴は何故かきくえのこましやくれた、人を席を取って飯を食いはじめたが、ちょっと煙草を買いに行 しかしながら たと たばこ

6. 現代日本の文学14:室生犀星 集

【」ら′は・つ うめ 何度か自分で自分の気を取り直す様に気を付けた。「多分、もしたら再び呻き出すに違いないことが、業腹にも予想さ おそらく彼のまま往生したかも知れない。自分で自分のかれたのであった。ーーー伴はみっちり、みっちりと縁側から あしおとぬすなが たを付けて呉れたかも分らないのだ。だが万一 : ・ : ・」伴は出来るだけ跫音を偸み乍ら、自分の寝床に取って返した。 慄乎として財布を自分の床から引出して、佩の ( ナの枕の「畜生 ! 何て生き伸びやがることだろう。」こう腹一杯の けんえんは 下に捻じ込みながら考えた。「後からでも金は始末が出来嫌厭を吐き出した時であった、また少時して胸に穴をあけ かんじん るというもんだ。肝腎な事は奴がどういうふうに片が付いてうめくような声を続け様にもらして行った。すぐ気が付 、こらしく寝返りを打っ気はいがし、こんどは起き上る容 ているかを見て置かなければ、こちらの度胸の据え様が決しナ らないというもんだ。」伴は縁側へ出るとみしみし軋む夜子さえ感じられた。伴は寝床のなかで彼の時一と思いにな てはす 半の縁板を耳に入れながら近づいて行った。その時、伴のぜやるべき手筈をしなかったろうと、がたがた慄いをしな がら残念がった。 横に寝ていた小さい頭がむつくりと動いて、眼をしばたた いたずらもの ハナはよろけながら寝床に打倒れると、うめきながら伴 いて伴の後ろ姿を見送りながら、悪戯者らしくそっと頭を えんこん むか っ 擡げて縁側の物音に聞き入っていた。先刻伴がきくえの寝に対って低いけれど怨恨と憎しみに満ちて、これ以上は言 うかご 息を窺うていたときに、慥かに子供めいてすやすやと寝て葉にあらわし切れないふうに言った。 いた轡だったのに、この年に似合わないきくえは伴が財布「そんなにお前さんわたしが憎いのか。」 伴はすやすやと穏やかにねむっているらしい。恐ろしい を調べたときから、ずッと眼をさましていたのであった。 妻 ( ナは縁側の幅一杯に考えた通り仰向きに倒れてい落ち着きを見せているのが ( ナには最早それが夫であるよ くび て、ロは央ば開いたままであ 0 た。伴は足で頸すじを圧しりも、人間でない外の者のような気がした。毛布の下にい じゃ て見たが靠れるような重さが、ず 0 しりと伴の指先にったるのは蛇か鬼のようなものであった。「ああ、苦しかった。 わって来ただけだった。跼んでロもとに手のひらを当ててお前さんがのっそりと縁側に出て来た事をゆめ現に覚えて びじゃく いたが、声も出なければ身体も動かせなかった。お前さん 見ると、非常に微弱ではあったが驚くことには未だ呼吸が ど あらが ぎようてんしま あるような気がし、伴は仰天して了った。再び伴が自分のに首をねじられながらも怎うにも抗う気力がなかったの あくた ため 頬を ( ナのロもとに持って行って試して見ると、いまは明だ。」 ( ナのこういう気持から考えると、悪垂れ婆め、首 らかに呼吸が通うていること、それが今から些んの二三分を締められる夢でも見腐っていたのであろう、そしておれ かそこらの間に気がっき出したものらしく、もう後一一三分が縁側に出たことを知っていたというのは、よくよく性根 たし みくさ ぶったお ぶる

7. 現代日本の文学14:室生犀星 集

ムぎけ あぶらみ 生巫山戯た真似をすると思うたが、い くら脂肪身体でも四度は伴の頭があんまり静まり返って来たのが、自分で底知 かせ 十代のハナが夜稼ぎするなどとは笑わかしやがると伴は身れぬほど気味悪かった。柱時計は一時をかっきり一一十分を 、けいれん 慄いを感じた程だった。そのハナは今夜持病の胃痙攣でそ過ぎ、伴は床から出て行かずにこれも心臓がどうにも始末 つか しちてんばっとう にならないほど荒療治をされるように、がたがた不規則に こらを掴み廻って七転八倒の時もの苦しみをはじめた。 つら なかお 医者を呼べとか辛くて死ぬとかお腹を圧して呉れとか金切悸ついて行った。三四分から七分を経て、十分間をかぞえ うめ いびき 声を挙げて叫んだが、伴の鼾は深く、ロもとは快げに歪んても妻ハナは呻くことも叫ぶこともしなかった。伴のやっ わら だまま冷笑いをうかべているだけだった。「金なら心配しれた顔と鼻がしら及び脇の下あらゆる身体じゅうの曲りめ なくとも此処にあるわ。だから注射をして貰うようにお医や陰ったところから冷汗とあぶらが、しばらく経っと冷え 者に行って頂戴。」ハナは寝る時も床の中に持ち込んだ財びえと感じられた。遂に二十分が過ぎた。恐ろしい位永い さっ もはや 布を枕もとに投げ出して、やっとこれだけを言うと最早ロ二十分であった。そしてその瞬間伴は突然起きあがると先 うわ 0 と ・、けなくなり、あああ : : : という囈言めいたうつつの声刻 ( ナが投げ出した儘になっている財布を手もとに手繰り うわまぶた を出しはじめた。伴は上臉を震わせながら薄眼のうちに財寄せ、中身を開いて見るのであった。汚れたくちなし色の いちべつかす 布へ一瞥を掠めたが、それきり又もとのまま閉じて了っ紙幣が一枚、大きい銀貨が八枚、小粒が七八個、しまわれ てあった。伴は併しそれらをその儘自分の床の下に入れて 「お前さんはお医者にも行って呉れぬのか。見殺しにするしまうと、縁側の物音にふたたび熱心に真面目腐った顔付 気なのか。」 で聞き入った。遂に三十分が経ってしまった。最早何等の よろめ きれぎれにそういうハナは急に起ち上ると、縁側を蹌踉物音も、うめき声すらも起って来なかった。伴の頭ははっ いて本能的な歩調で便所に立って行った。そして片戸を開きりと死とともに彷徨するところの , ーー実際、激しい後頭 ひえき てんよく そっとう 図けた瞬間に伴は心臓が顛覆するような、鈍重でもの悲しい部の打撃に依ってそのまま卒倒しながら当然冷却ってゆく てんとう あおむ の物体が仰向きに顛倒する音響を耳に入れた。伴はぞくそくらしい一個のものとはいえ二十何年かを一緒に暮した妻 ( だんまっ 女する耳のなかに ( ナのああという気味の悪い程短かい叫びナの死体を思い描いたのであった。柱時計はそれらの断末 うめ ごいしはじ 声を聞き続いて低い呻きごえとも何とも測り難い声が、あ魔的な光景の間をかちりかちりと碁石を撥くような恐るべ あえ 7 う、あう、と一分半ばかり喘ぎながら縁側の上をもだえてき大きい音響を立てて行った。伴はほとんど柱時計を睨ん スた いるのを聞いた。その声は蓋をしたように急に打絶えて今だまま眉と眉の間つまり鼻頭にぐらぐらする眩暈のために ぶる しか た

8. 現代日本の文学14:室生犀星 集

あき たの さんが、後世を托んで人様並みの善魂暮しも呆れ返 0 たもあるわよ。此処の家がだ 0 たら何時でも出て行 0 て頂 のさ。」 ( ナは悪態をつくばかりでなく家の中には殪ど食戴。そうして貰 0 た方がどれだけ援かるかも知れない。寝 もちろん 物らしいものを置かなかった。煙草やお茶は勿論のこと、臭いなりをして一日じゅうごろごろしていられた日には、 からめて 米や漬物の買入れもしないで左ういう搦手で伴を苛め抜きようも明日もウンザリして了う。」 あら も′、ら′ き、がつがっさせることが激しい憎悪の顕わし方であるら伴宗八の妄想は幾十度となく妻ハナを x 害する手段を考 しかった。 えることで、悪夢から悪夢を彷徨し、手にはぬらぬらする のどぶえ あら ハナ自身は貰い子きくえを連れ出して相渝らず街々をぬ妻 ( ナの白い喉笛を : : : ることに終始していた。凡ゆる妻 たくり廻りながら、併し食うものは充分に摂り入れているの肉体のどういう細かい部分にすら伴は飽きることのない らしかった。たまに家で食事をしていても、きくえと妻ハ憎々しさを感じ、いまは世界のなかに仮りにどういう憎悪 くら もちろん ナとがこそこそと食卓を片付けて了い、勿論伴の食事を取すべきことがらがあっても、それはハナを憎むものに較べ しせい 合おうとはしなかった。もとの市井の渡世人である伴の魂ようもなかった。 あ む けし ~ ′、 にはもはや完全に妻を xx する計劃が、一日ずつ決心を固或る湿っぽい雨気のある少々蒸し暑い晩のことであっ す、ま ほか くもん めながら隙間を狙っていたのだ。そうするより外に伴には た。夜中に突然ハナは床の中で苦悶しはじめた。その晩も うつ太ん 生甲斐もなかったし憎悪や鬱憤晴らしはなかった。人間は ほんの一時間ばかり前に酔って戻ったハナは、景気よく面 あて お互いに憎み合うとどっちへ廻っても最後に打つかるもの当らしく伴の枕元で着換えをしながら財布の中でかさこそ そ は x 意より外はなかった。無学な伴宗八の考えも一つには いう紙幣を指先で揉んで其の音を聞かせながら、「夜中に しっそう ぶら 失踪したはっえの発見されない前に妻のかたをつけて置い帰って来たってただは外を逍ついていないんだから、そう た方がいいし、また伴自身としても憎み切れない妻への最思って貰いましようよ。こう見えたってまだ胸やあばらの あぶら 骨には脂がねっとりとこびり付いているんだからね。肉と 後の憎悪はやはり x 噫の決行にあることを疑わなか 0 た。 併しそんな考えを見貫くことで用心堅固な、疑い深い眼を卵とを動けないくらい食べて三日も寝ていたら二十代の稼 ひどしみ 持っ彼女は、「きようこの頃の酷い吝ったれた景気では一ぎだって朝飯前の芸当さ。」 にお おしろい こういう妻ハナの顔には白粉の匂いが酒臭い呼吸に交っ 服盛ろうなんて、薬代の費る手間もおいそれとは出ないだ ま、じた おおどしま おうらやく ろうしねえ。」と灰汁どい巻舌で散々伴を遣り込めていうて何時もとは違った不思議な大年増の横着らしい胸板を見 のであった。「女は四十になったって抜け道はいくらでもせびらかしていた。出掛けにそんな筈ではなかったのに畜 しか あいかわ ちょう かせ つら

9. 現代日本の文学14:室生犀星 集

ちょうど ・コロッキのようなぐうたらな暮しをしていたが、こんどか恰度その時分再び空地に舞い戻った菊橋歳太は仲間の跛 ささや おいばれ ら毎月食うだけは叔父が出して呉れ、鉄道学舎の夜学部にの男に囁いて言った。「老耄めがはっえの居所を知ってい ほ , ルし」ら′ す 通う手続を叔父の立会いで今日やっと済ましたばかりだとないことは本統らしい。あいつに捜させれば今にどこかか か 誠実の籠る語調で言った。 ら嗅ぎ当てるだろう。名刺を見やがって驚きやがったが老 あおじろ 「とにかく僕は夜学に通うつもりなんです。それをあの人耄なんて白痴見たいなものさ。」と又蒼白い舌をベろりと に知らせて喜ばせたかったのですよ。その後あの人と僕と出すと、その美しい顔一面に皮肉な笑みをうかべた。そし あ けんお がどうなるかそれは後々に判ることなんです。」 てその輝くばかりの顔は或る意味で嫌悪にえない、厭味 二人は酒の家を出ると、菊橋は名刺を出して日本橋の住たつぶりなものにも見られた。併し哀れな女はっえに取っ ばくろらよう こうじゃ あじわ 所を明らかにした。それは馬喰町にある大きな糀屋だってその厭味たっぷりなところも味い尽せない男らしい美し た。伴は名刺と菊橋の顔を見くらべると、驚きと喜びとでさがあるのかも知れなかった。 おかん ぞくぞくした悪寒を感じながら言った。 第六章出奔 「これが君の叔父さんですか。」 しようふく えんお ことごと 「叔父です。菊橋の家では僕が妾腹になっているわけなん妻 ( ナを厭悪する伴の精神状態は悉くハナに反射し ゅううつ おり や です。相談のあるときは来て下さい。」 て、憂鬱な一一頭のけだものが檻の中にいながら漸っと人間 ゅうせん あまっさ 菊橋は悠然とそういうと伴と別れしなに伴に気付かない らしい生活形式を保っているに過ぎなかった。剰え窮乏 うらよう そ またほとん ようにペロリと舌を出した。伴は身ぶるいの出るほど有頂は伴の痩せこけた頬から肉を殺ぎ取りだぶつく股は殆ど皮 てん いっさいまか うつらや 天になり菊橋に一切委してもいいような気になった。糀屋だらけであった。妻ハナは食物が欠けていてもそれを打棄 しりめ ばくだい を叔父に持っということは驚くに堪えた途方もない莫大なりっ放しにして、食わずにいる伴を尻眼にかけながら外へ からだ 図財産の近くに、菊橋が寄りついている事であった。「人間出て何か知ら食っていた。「まだ働ける体軅をしていなが もら こんら女房に食わして貰っているなんてい気も好い気だが、 のは何処にどういう風が吹いているか、全く分らない。 ちっ な恐ろしい事はない。そしてはっえは何という仕合者だそれで些たあ恥かしい気が起らないものかね。渡世人なら 女 くわ か、今になれば一斉に運が向いて来た様なものだ。」と伴渡世人らしく表通りでもふらついて小娘の二三人位咥え込 おかん 宗八は菊橋と別れてから、悪寒に似た身ぶるいを続ける程んで、たまには泥猫の様にお帰りね。悪い仕事は冊だとか たく 元気になり、隅田川を後にした長屋にもどって行った。 ご託っていながら手内職一つ持っていない文盲空手のお前 ほお いやみ びつこ

10. 現代日本の文学14:室生犀星 集

つけた。肖ても肖つかない女中であった。しかも大がらな いるんですが、まだ一度も会わないのです、そうですか、 あなたがはっえさんの親代りの方ですか。そしてあの人はこの女だけしかいないらしか 0 た。伴は伴の想像が当らな ちょっと しま どうしたんです。あなたが捜ねて居られるなんて鳥渡妙なかったことで、絶望して了った。 菊橋は眼に険をふくんでいるけれど、一見、品のある顔 話ですが。」 「あれは事情があって一月ほど前に家出したんだが、あれ立ちと相当ななりをしていて、手なんぞ真白であった。こ に会って話して置かなければならないことがあって捜ねての男がはっえを逆上させ何時も死ぬほど想うていた男かと なぐさ いるんです。では、君はあれを一時の弄みにあしらって、 し思うても、対手が余りに美男であり気持のよい気質に見え ねた た訳じゃないんですね。」 たので、伴は嫉ましい気になそならなかった。何かこの男 「僕は一生懸命にあの人をさがしている位なんです。あのの為にして遣ることがあったらして遣りたかった。しか たくさん だま 人を騙すよりか最っと騙してもいい女が世間に沢山いますも、はっえを捜し出して菊橋に渡してやればどんなにはっ よ。あの人には僕は借りがどっさりあるんです。」 えも喜び、伴自身も助かるような気になることだか分らな たら あたり かった。伴はいわゆる一目で菊橋がどういう質の男だか分 菊橋はここで話も出来ないからと四辺を見廻してから、 らなかったが、既うそっこん男惚れがして了った。菊橋の方 あそこの酒屋にはいってゆっくり話をしようではないか でも対手に少しも毒気のないことを見て取ると、妙な親密 と、何か急に伴と隔れにくい或る親しみを見せて言った。 たか ようす うれ 伴もこの若い男と一緒にいるのが年甲斐もなく嬉しい明るさと気安さで昻ぶった気持をその容子に見せかけていた。 とせい あいかわらず い気持になったが、伴は相不変、一文無しであった。渡世女中が来たので伴は最近十六くらいの女中がいはしなか かんじよう ったかと尋ねて見たが、最近にはいって来たので分らない 人仲間では年上の者が呑み場の勘定を持っ習慣になってい 、ま しゅんじゅん と答えた。奥に話を通しても分らなかった。伴は菊橋には るので伴は逡巡しながら極り悪そうな顔つきで言った。 「実はわたしは今夜持合せがない。そこらで立話を続けよっえを中心にして一家が揉めていること、高飛びさせたい ことなどを話したが、伴は最後に言った。 「金は国から持って来ているんです。酒くらいなら訳のな「きみははっえに会ったって食べさせることが出来ないで しよう。若しきみが生活の出来る人ならきみに委してもい いことだ。じゃ、僕に奢らして下さい。」 伴は菊橋と酒の家にはいって行ったが、そこは以前からい位なんた。」 もちろん 菊橋は勿論生活の出来ないことを言った。自分は今まで 眼にとまっていた家で内部にはいるとすぐ伴は女中に眠を おも