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検索対象: 現代日本の文学14:室生犀星 集
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1. 現代日本の文学14:室生犀星 集

ていた。人は何か霊的に記億をおしつけられることが あるものであるが、実際、私はその女中部屋を判然と は覚えていなかったし、這入ったことも一度か二度く らいであったから、そんなに詳しく覚えている筈がな 、刀オ にも拘らす私はその女中部屋で生まれた感銘 が深かった。すっとあとから、そのことがあってから 五十年後の私にそういう感銘があるのも、私の頭がそ う拵え上げたものかも知れなかったし、今日の私がそ のくらいのことを考えるのも致し方のないことであっ ゃぶか たろう。そこに私を生むために一人の無名の女が藪蚊 を追いながら、永い夏の夕方の明りに顔をうすめてい しゅうち たことの想像ができ、そして不義と羞恥のためにどう したら宜いのか田 5 案にくれている、いを田 5 うことができ たいに私の国では風紀のことでは大変にきびし い批評が行われていて、不義の子供を生むような女は 大てい町も通れない後目痛い目にあわなければならな かった。母の恥らいとか、途方にくれている容とか はいまの私の年令から考えてみても、みしめ極まるも のがあった。ことに主人の子を孕んでそれを一年近く もお腹に持つだけでも気が重いのに、 いよいよ生むと いうことには耐えられぬものかあった。私はどういう ふうな赤ん坊であったかも知らないが、その折の母の 夕日に寺の影を落す金沢寺町のタ景哀しみが私の額にきざむ皺のように剥げおちないもの しわ くわ はら はず

2. 現代日本の文学14:室生犀星 集

うな顔をしていた。そして、 「そして捕虜がいつも来るんですか。」とたずねると、 「君、僕はやられたらしい。」 「え。散歩の時間になりますと入らっしゃいますの。」 と言って、表に気をかねてお玉さんは黙った。表はそんと私に言った。 ふ、げん なとき不機嫌にしていた。そして午後三時ごろになると表「肺かね。しかし君はからだが丈夫だから何んでもない よ。気のせいだ。」というと、 はやけな調子で、 「そうかなあーー。」 「もう三時だ。散歩の時間だ。かえろう君。」 そして私どもはよくお玉さんのところへ出かけた。もう と、表は嫉け気味な皮肉を言って出てゆくのであった。 、こ、よう私はビールの味を知っていた。私どもにお玉さんを加え まだ十七になったばかりのお玉さんは、何か言しナし な可憐な寂しい目をして送っていた。表が此処でビールをて、時々黙って永い間坐っていることがあった。そんなと のんでもいつもお玉さんが家の前をとりつくろうてくれてきは、きっと表がお玉さんと二人きりで話したいという心 になっていることが、私にももう判るようになっていた。 払わせなかった。 そんなとき、私だけはさきにかえった。お玉さんは坂の 私はお玉さんが非常に表を愛していると思った。あのお ごと どおどした目つきが、いつもの表の一挙一動毎にはらはら上まで送ってきたりした。 「またいらしてくださいましなね。」 しているさまが見えたからである。そしてああいう可憐な 娘にはいつも非常に愛される質を彼はも「ていた。やり放「ありがとう。表はからだをわるくしているようだから、 しのようで、それでいて、いつも深い計画のもとに働くの・ヒールをあまりすすめない方がいいね。」 いやせき 「ええ。私もすこし変に思っていますの。時々厭な咳をな は表の巧みな、女にとり入る術であった。 さいますもの。」 頃ある日のこと、表の不在中、警察から高等刑事が来て、 「だいじにしてお上げ。さよなら。」 め表の平常の生活を調べて行ったりした。そして巡査がやっ 眼て来て、夜あまり外出させてはいけないと母親に言 0 て行「さよなら。」 に と別れた。 ったと、あとで表は笑いながら言っていた。けれども表は そういう日は、表は黙って拝むような目を私にして やはり縁日や公園へ行ってはお玉さんを誘い出したりし た。私はなぜだか表の弱々しい一面が好きであった。あの て、永く夜露に打たれたり、更けて帰ったりしていた。 ある日、表をたずねると、かれはすこし蒼いむくんだよ大胆な女たらしのような男に、何ともいえない柔らかい微 おが

3. 現代日本の文学14:室生犀星 集

乳房の尖端がぐみのような紅みと、こりこりな小ちゃい凝ていた皮膚のそこちからのある張りエ合や、いつもよく輝 ひとみ 2 固まりとを、そっと私のてのひらに感じさせるほど強く私いていた瞳などを次から次へと考えると、そこに彼女の小 を刺激するのでした。その乳房のなやましいのに乱れてへさな幸福とも慨ましい運命とも名づけがたいような、陬し ばりついたような枯草、それらに透いて見える白い肉体、ながら絶えず嬉しそうにしていた小鳥のような朱道を見出 そういう風に何故だかそれらのものが一緒になって、あるすのでした。 すそ いは木立の株にあるくさむらや、砂丘の裾などを取りまい それに彼女は陰気な丹嶺などにくらべて、どんなに烈し た雑草を見るごとに思い出すのでした。あるときは、そのい女そのものであったであろうか。彼女は肥え、ちからづ しらこ めくら 生れた子が河豚の白児のように寂しく、ちょうど盲目者のき、いきいきした皮膚をしていたのだ。 ような手さぐりをしながら居るようにも思い、また、いつ「彼女ははじめから女として育ったのだ。彼女に自制のち たら まで経ってもぐんなりした鱈の子のような足も手もない、 からがあっても、彼のうずまきのように沸きあがっていた くにやくにゃな小さい柔らかい凝固りのようにも想われる肉体は、それに打ち克ったのであろう。そしてそれが美し のでした。ともあれ、それらの全体の感じからいえば柔らく当然なようにだ。」 かい一つのかたまりが、いつも私の前に、あるいは縁側私がこう考えたとき、目の前にはっきりと彼女が例の綟 や、庭のいら草の中などにそっと置かれていて、それがいれるような美しい波をうったような頬をして、花でも投げ まる つまで経っても黙っているような無気味さを所在ない私につけたように、すっきりと青々とした円い頭とともに、私 しか 悩ましくうつってくるのでした。 の視界に入ってくるのでした。併しながら、それらは見事 「あの朱道にもなお美しい快楽があっただろうか。そしに私の目をとらえたけれど、その肩つきなどが、げつそり うれ わら て、それが彼女をひと時は嬉しそうにさせ、活ききさせと削り落としたように流れていて、その目は微笑うとも悲 みた たのであろうか。あだかも総ての女性が味うように、彼女しむともなづけがたい一杯の湿みに充されながら、じっと も喜んで異性の胸を抱いたであろうか。」 私を見つめるのでした。私はそこに烈しい衰弱と戦ってい 私はこう考えるとき、秋のはじめの祭の晩や、松林のなる肉体を見つめたのです。これまで見られなかった何かし あお かで村役場の小役人とあいびきしていながら、妙に男にすら人間的な、悩み尽したような蒼ざめた美が私をとらえた ねるようなコケッテッシュな手つきで、わざと男を打っ真のでした。 この 似をしていたことや、そのころの彼女のびーんと張りつめ「やはり此女が尼になったのは、運命が逆手になっている あか かたま あじわ つく ほお

4. 現代日本の文学14:室生犀星 集

警めて来たのはこの時代から何百年かの後であったろう。 「まあ、何をおっしやるのです。おそらく、そういうふう 兼家はしばらく時姫をおもい、紫苑の上をおだやかに想に殿をないがしろに考えることは、冴野にはゆめございま やさ うた。誰にも柔しくしなければならぬものを感じ、誰にもすまいと思われます。」 あるしとやかさに頭はしんとして来た。いまから、すぐに「若しそれがあったとしたら ? 」 でも宜い、言葉をゆるめて話してみたかった。多くの詫び「あったとしましたら、とうに、わたくしはそれを考えて すなお はず 謝ることも素直にしたかった。かの女らもくるしいし、兼いる筈ですもの、そのような事はお気になさらないで下さ から いまし。」 家も手のおろしようのない重苦しさだった。いまは絡み合 いんうつ あき った重苦しさを話すだけになったのだ、彩雲は濃く陰鬱で「実は私くらい厭な奴はいないのだ、自身でも惘れる厭な うつ はあったが、きようの彼の眼にはむしろ晴れやかにも映っ奴だ。」 て来た。心に謝りを持っということは、気のやすまるもの「若しそのようなお方であったら、時姫様にも、紫苑の上 だ、兼家は自分一人が一一人の女をふしあわせにしているこ様にも、あのようにお近寄りにならなかった筈でございま てもと とを、稀らしく心に置いて、くらい気持であった。 すもの、わたくしも、お手許にまいらなかったのでしよう そして更にこの冴野をも人の厭がる処に、毎日誘うて飽に。」 きない自分に兼家は気づいた。これはこのままで往くより 「いや、私は厭な奴なんだよ。」 あらた ひたん ほかに往きようもなかった。これを更めることは悲嘆を急「そういうお思いこそは、たとえ、そのお言葉が女のむね 速に呼びこむようなものだ。この人にこそ幸せをあたえよにとどかなくとも、たいへんにありがたいものに冴野はお 取 うとする願いは、つねに、時姫、紫苑の上に彼はたえず繰もい居ります、心に少しでも謝りのあることは、この時世 記り返して来たのに、いままた冴野におなじ祈りを吹きこんにあ 0 ては本統にまれなことでございます。」 ゆきかえり のでいるのである。兼家は三つの扉の前を往反しながら、つ ふと兼家は立って庭に出た時、築地の破れから裏の門を ろいに、どのような果敢ない結論冫 こすら達しないで、冴野を過ぎる一人の侍の姿が、歩みを停めているのに奇羚の思い け見まもっていた。 で見やった。衣裳に着くたびれがあり、供の者はついてい ちょうど 「そなたは嘗ていちども、私を厭な奴だと考えたことがななかった。恰度、この町の小路は袋のように行き止まりに いらしい、私はそなたがそれを頭にうかべる時が、言わば なり、本来なれば冴野の邸に用向きのある者でなければ、 一等恐ろしい気がするのだ。」 通られなくなっていた。 めず かっ

5. 現代日本の文学14:室生犀星 集

兄さんは小畑さんにこのあいだお会いになったの。 もんはそういうと、きあ、というような声と驚きとをあ もんは、顔いろを変え、会わなかったと言った母親と、 らわした喚きごえをあげると、畜生めとあらためて叫び出 びつくり 伊之の顔とを見くらべた。さんも、母親も喫驚した。 して立ちあがって言った。 ごくどう みすま ーー会ったとも、かえりを見澄して尾けて行ったのだ。 極道兄キめ、誰がお前にそんな手荒なことをしてく 何をなすったの。 れと頼んだのだ、何がお前さんとあの人の関係があるん 思うままのことをして遣った。 だ、あたしのからだをあたしの勝手にあの人に遣ったって 伊之はにくたらしくもんの顔を見てから、あざわらいを何でお前がごたくをいう必要があるんだ。それに誰が踏ん ロもとにふくんで言った。 だり蹴ったりしろといったのだ。手出しもしないでいる人 なぐ ひようもの 乱暴をしたんじゃないわね。 をなぜ撲ったのだ、卑怯者、豚め、ち、道楽者め。 かっ もんは息を殺した。 もんは嘗てないほど気おい立っていきなり伊之に掴みか ふと 蹴飛ばしてやったが適わないと思いやがって手出は かり、その肥った手をべったりと伊之の顔に引っかけたな めじり ほお しなかった。おら胸がすっきりとしたくらいだ。 と見ると、伊之の眼尻から頬にかけて三すじの爪あとが掻 あっけ もんは呆気に取られていたが、みるみるこの女の顔がこき立てられると、れたあとのように赤くなり、すぐにぐ しる われ出して、ロも鼻もひん曲って細長い顔にかわってしまみの汁のようなものが流れた。この気狂いあまめ、何をし 、逆上からてつべんで出すような声で言った。 やがるんだと伊之はもんの気に呑まれながらも、すぐ張り もう一度言ってごらん。あの人をどうしたというの倒してしまった。もんは〈タ張ったが、すぐ起き上って伊 之の肩さきにむしゃ振りついたが一と振り振られ、そのう かまくび えり あぶらぎ もんは腰をあげ鎌首のような白い脂切った襟あしを抜い え伊之の大きな平手はつづけざまにこの色キチガイの太っ と うで、なにやら不思議な、女に思えない殺気立った寒いようちよめという声の下で、ちから一杯に打ちのめされた。も ぎようそう な感じを人々に与えた。りきも、さんも、こういう形相のんはキイイというような声で、 にもんを見たことがなかった。 さあ、ころせ畜生、さあ、ころせ畜生。 かえる 伊之はせせら笑って言った。 と、しまいにぎあぎあ蛙のような声変りをつづけた。よ ろっこっ 半殺しにしてやったのだ。 し、思うさま今日は肋骨の折れるまで引っぱたいてやろう 手出しもしないあの人を半殺しに、 と伊之が飛びかかると、逃げると思っていたもんは、さあ てだし わめ

6. 現代日本の文学14:室生犀星 集

おうよ ) 斜のゆるやかで、消えもしないすらりとした鷹揚さ、何一体どれだけの広さを持ち、人を怖れず自分を守るでもな 故、この人と私は別れたのであろう、私に官途の収入もない宿命を或る時は無邪気にあっかい、或る日は丁寧に用心 く冴野の身の廻りをどうにも、処理出来ないのが原因であぶかく囲うていることに、人としてのすぐれた生き方に、 きようたん った。「あなた様とご一緒にいることは、あなた様を苦し今更驚嘆の眠をみはったのだ。 どこ めていることを知り、わたくしは身を引くことに心を決め「この邸を去って、一体、何処に往かれるのです。」 ました。その原因の一つにはあなた様は人を斬って財を奪「何処にもあてなぞはございませんけど、立ち去ることだ っても、わたくしに貧を重ねさせたくないと仰せられたあけは心に決めているのでございます。」 の晩の、お心を悲しく銘じて去ることにいたしました。他「住居はどうなさる。」 人の物を奪うようなお心を持たないあなた様が、そこに考「何処かに仕えにあがるかも、判りません。」 えをわき道におそらしになったその原因が、みなわたくし「それの見付かるまでは、どうされる。」 にあると気付いて、あなた様を夜盗同様に追いやるわたく「野に伏し山に伏し寝するかも、ただいまは判りませぬ。」 し自身のつみの深さが、判りかけたのでございます。芦売冴野は、はれやかに笑った。この笑いを見ただけで、忠 りや、やきもの師におなりになっても、仰せられた人斬り成はなにゆえか慄乎とした。 なそわたくしがいなくなっても、なさいませぬよう。元よ「黄金はお持ちか。」 りわたくしごときは女の端くれ、世の中にはわたくしにも「いし 、え、一粒も持っては居りませぬ。」 増した方がたくさんにいらっしゃいます、そこにいらっし「兼家殿は、黙ってはいられまいに。」 かた っても、再び仰せられた恐ろしいお言葉に、おもどりにな「堅くお断りいたして置きました、ただ、当座の黄金は少 たよ ることのないようにお祈り致します。」 しくらいの用意がございますので、それのみに手頼ってゆ こういう置手紙の後、三年経った今日、忠成の宿命はこうと思い居ります。」 ぜん もちろん てごた 然起きかえられずにあった。何をしても手応えもなく勿論「そなたはこの儘にいる気はないのか、紫苑の上や時姫に 官途の仕えもなかった。それだのに、ふと或る日袋小路でなにも義理立てしなくとも、よいのではないか。」 かえ あいそうづ 冴野のすがたを見てまた元の心に還ったのだ。愛相尽かし「いし 、え、わたくしはお二人様のお顔に、わたくしの顔が いや とか、厭気がさしているふうも見せずに、きようは大胆にうつっている時を避けたいのです。女の顔にべつの女の顔 おそろし 上の間に招じられたのである。忠成の心は冴野という女がが映っているということは、怖いことの中で一等怖いこ やとう おそ ていねい

7. 現代日本の文学14:室生犀星 集

訳にも行かないとしたら、その渦の中に捲きこまれて居なった。心というものは肉体は持っていないが、この大事の ければならぬ。私はいまこの中にいるのだ。不幸というも前では立って歩けぬことで、心にも形があることを、その と・ 6 のは私を避けて通ることを、遠い幼い日にそう信じてみた悲しみと倶にさとることが出来た。 ひど ものだが、それは全く酷いくいちがいをいまの私に与え しおんうえねむ た。紫苑の上はることの出来ないまま不図、夜のあかり年改ま 0 て三月の節句になり、桃の枝などをけて待 0 に誘われた夜鳴蝉の幾声かを聴いて、耳を立てた時であっ たが、晩になってもお見えでない、四日の昼近くになって たた た。表門を叩く音が聴え、夫が約を踏んで見えたことを知お出でになった。侍女達が調度の品々を飾り立てた中で、 ったが、黙って次ぎの仕えの女に声もかけなかった。な紫苑の上はふと書きながした一首を、兼家はそれをお見せ お、烈しく扉を叩いて来たが、やはり黙っていた。仕えのといい、紫苑の上は匿して見せまいとしたがついに、奪わ うっちゃ 女がそのままに打棄って置くことも出来ないので、静かなれてしまった。「待つほどのきのふ過ぎにし花のえは今日 声で聞いた。 折ることぞかひなかりける」 いつもいっ 「表のリよ、 卩をし力がいたしたら、ようございましようか。」 「いまさら私に愛情のしるしをと、そなたは毎々も言う そばめ 「そのままにして置きなさい。」 が、ここまで来た二人の仲では言いづらい事ばかりで側女 間もなく兼家はなおも、ほとほと叩きつづけたが去ってにも笑われる事ではないか。」 もと 往った。町の小路の女の許に去るよりほかに、行きようも「では、町の小路のお方には、どのように仰せられます。」 なかったであろう。翌朝そのままにして済まされずに文をだが、その返事はしゃあしゃあしたもので、見せびらか 持たせた。「歎きつつひとりぬる夜のあくる司よ、、 「をし力に久して来る艶めいたものであった。 しる 「あれはそなた程の学識はないが、女としてのあでやかさ しきものとかは知る」と記して、わざと色の褪せた夏菊に さしただけだった。 をその儘に私に呉れているのだ。」 まき 折りかえして返事があった。「槇の戸はなかなかに開き紫苑の上は、もう、もの言う気もしなかった。これほど はつ、り にくい、それに夜はなかなか明けぬ。」と何気ないふうに、 判然といって了えば、何も後にいうことがない、兼家は黙 だま ごまか 書きながしているのが心の程が見え、瞞すならもっとうまっている紫苑の上にしきりに胡魔化して、そなたとは人が なっ く、私を苦しめないでくれないものか、と、弱りはてた私らが違うし、そなたに持っ私のうやまいと懐かしいものと も、心がしじゅう転んで歩けぬようにな 0 ていることを知は、較べものにならぬと言 0 てみたが、紫苑の上は斌笋に なま

8. 現代日本の文学14:室生犀星 集

子を蒔いていらっしったからです、若しわたくしの変る今剏立った闇の濃淡を見せていた。 ゅうよ 僘の一つの無礼のしわざは、それは、あなた様の生涯にあ「殿、ようやく冴野が参上いたしました。猶予あそばさず にお起きくださいませ、おん眼をおさませくださいませ、 っても、一つの只事に過ぎないのです。」 紫苑の上はおずおずと一歩退き、冴野は寛くではあった冴野が只今まいりました。」 おそ もだ が、鋭く一歩前に出た、どうしてこの女を今宵に限って怖紫苑の上は声を立てようと身悶えたが、顔容はすぐれざ れるのかと、紫苑の上は、自分の小心を疑った。 る蒼白死のごときものを交え、あわわ、とつぶやいた。不 「枉げて私にお近づきになると、仕えの者を呼びます。」思議に五体は動かなかった。 兼家の寝顔はその時きゅうに引き痙ったがそれは瞬時に 「黙っていてください、お眼の明りをいただきます。」 して歇んだ、ただ、それらの予測は眼の前に起りかかって 「何をいたされる ? 」 いる事件について、間もなく睡眼が開かれるということを 「黙って。」 ほとん その時冴野の手は、殆どそよ風が過ぎたかと思われる間何となく、二人の女に感じさせた。 際の迅さで、直ちに紫苑の上の視界をふさいで了った。び「殿、おん眼をおさましになってくださいまし、冴野をご ろう ったりと当てられた手の冷却しきった凍えが、五体にしみ覧じください、殿、お早く。」 おじけ わた 紫苑の上は身悶えをし、冴野の手のゆるんだ間に声を立 亙って慄えとなり怖気となり、ロは物を言おうとすると、 みもだ ただ、あわわという混乱を交えて来た。身悶えをしようとてた。 しても、かんじんのロをふさがれているので自由を欠いて「殿、お眼をおさましになってはなりませぬ。冴野は何時 もの冴野と変った人に見えます。もはや彼の頃の冴野では いたのだ。 しよう 紫苑の上は、その時今度も再び、鋭い方の箜の音色に似ございません、ご覧じませ、冴野は私のロをふさぎ、言葉 ねむ た冴野の声が、額にびりびりひびき、睡っている兼家に対を奪っているのです。」 って呼ばわっているのを聴き入った。その時から全身にタ冴野の声が頭の上から落ちて来て、ふたたび、手のひら から せんりつ はカ勁く口をふさいだ。 立のような戦慄が、彼女に絡み付いて来た。 「いましばらく、黙っていらしってくださいまし。」 「殿。」 兼家はただ深く睡り続け、再度も、呼ばれたがさめようそれでも、紫苑の上の声は厳しくひびいた。 うみ 「無礼な町の小路の女。」 としなかった。夜気は膿のようなあぶら燈の外側に、固い はや ふる ただごと こご ゆる むか づよ

9. 現代日本の文学14:室生犀星 集

うれ ハナの傍を離れるだけでも気が楽で嬉しかった。彼女はだ くついているのが気に入らん。何もあんなにわしらを恐が ぶだぶのエプロンを胸にあてながら、快活に返事をして働る必要はないんだ。わしはあれらと一緒に食事をしたいく くというのだった。 らいに、こちらで気を楽にしているつもりだと言った。ご ずいぶん 「おじさんが教えて下さりや何だってするわ。」彼女はそ一緒にお食事をなさいますってまあ随分おくだけでござい きよう ういうと上総屋に甘えるようなをつくって、笑って見せますこと。しかし、わたくしは奉公人は何処までもその境 た。そばにハナなそがいるのやら、いないのやら、そんな涯からはずさないところで、働かして置くものに常々から お 事にお関いなしのふうだった。 考えて居ります。一度畳の上にあげたり致しますと家畜は つらあて やっかい 「もう馴れて了って親のように育てられたわたしに、面当その泥足のよごれなそを気にいたしませんから厄介でござ けしき らしくしているじゃないの。いけ好かない子だ。」 いますと、老夫人は少々気色ばんだ語調になるのであっ はくじようふるま ハナは子供でもこうまで打って変って薄情に振舞えるも た。その点でゆくとお前の考えは食いちがっている。わし のかと、ハナの顔を見ようともしないで、上総屋にちやほはあれらを家畜とは考えて居らん。といっても家族とも思 とお やするきくえを憎々しい眼付で腹の底までみ徹すようわん。やはり家庭教師と同じいように働いている人達だと しつじ に、見据えていた。「あと三年も経ったら色気の付いたと考えている。何も家庭教師や執事と別に違っているとは考 おんりよう ころでものにせずばなるまい。」とハナは深い怨霊にでもえられないのた。お前は永い間の習慣から頭から女中達を よ とりつ さげす 取憑くように、再びとげとげしい視線を少女きくえに走ら卑しんでかかるのは、宜くない。あれらは蔑まれるごとに せながら考え込んだ。 びくついて面白くない人間になるが、可愛がって遣れば胸 * ご せひめ の広いような人間になると老侯爵は喋って苦い顔付になっ 第七章瞽女姫 た。夫人は苦い顔色を見ると慌てて黙り込んだが、長い廻 ろうこう かわい 図老侯は折々可愛い奴じゃのうと言われ、尠くも人を怖れ廊の広縁に小間使の姿が見えたからであった。 は しよせん のんところは育ちが良いのかも知れん、悪ければずっと下の老侯は所詮それが退屈から這い出してやっと吻とするよ 方で育った奴じゃといわれた。老侯夫人は一向身元のことうな話の撼け口を見つけたように又ぶつぶつ言葉を続け 女 は言わないそうでございますが、かしこくて、奉公人らした。わしはこの年齢になって見るとお前の高振った眼付が おどおど い恟々したところがないので気持がようございますと言っ気になってならん。わしに物言う時も他人に物言う時も少 みくだ ていた。そうじや女中は家畜のように馴れている癖に、びしも変っていない。わしは見下される理由なんか少しもな 力いかっ な すくな いっこう おそ あわ しゃべ ほっ や

10. 現代日本の文学14:室生犀星 集

加 3 海の僧院 * こうこう 二里もつづいた松並木は、風をこもらせて皓々と鳴り澄ん ひの、がさ でいていっか丹嶺がやはり檜笠をかむってこの道を歩いて 行ったことをも考えられてくるのでした。 ふりかえる さび と、野の尼寺の私の住んでいた二階の障子が白く淋しく、 かなた 末枯れの彼方に浮んで見えました。私はそっとロのうちで さよならと言って又とぼとぼと歩き出した。