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検索対象: 現代日本の文学14:室生犀星 集
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1. 現代日本の文学14:室生犀星 集

回 ) 「中央公論ー三月号、四月号、六月号に「万華鏡」「影絵のごと刊行。七月、軽井沢に滞在。九月次男朝巳生れ、上京。十月、「詩話 くー「芋掘藤五郎」を発表。五月、長男豹太郎生る。六月、『美しき会ーを解散し、「日本詩人」を廃刊。 三十八歳 昭和ニ年 ( 一九二七 ) 氷河」 ( 新潮社 ) 刊行。七月、「金色の蚶 . を「報知新聞ーに連載。 一月、徳田秋声を囲む「二日会ーに出席。「パイプの会ー発足し、参 八月詩話会委員となる。同月短篇集「蝙蝠」 ( 隆文館 ) 刊行。 三十三歳加。一一月、「芭蕉論ーを「サンデー毎日ー等に分載。六月、随筆集 大正十一年 ( 一九二一 l) 一月、「冬景叢画」を「中央公論」に発表。一一月、詩集『星より来れ『庭を造る人』 ( 改造社 ) 刊行。七月、軽井沢で芥川龍之介自殺の報 る者』 ( 大鐙閣 ) 、三月、「室生犀星詩選」 ( アルス ) 、六月、詩集「田に接し、急ぎ上京。衝撃をうけ、追悼文執筆を断る。 三十九歳 舎の花」 ( 新潮社 ) をそれそれ刊行。同月一一十四日、長男豹太郎早昭和三年 ( 一九一一八 ) 逝。七月、「走馬燈』 ( 新潮社 ) 刊行。十一月、「幼年時代』 ( 金星堂 ) 一月、「映画時評」を「中央公論」に発表。 ( 七月まで連載 ) 三月、 刊行。十一一月、亡児を憶う詩、小説集「忘春詩集』 ( 京文社 ) 刊行。日本文芸家協会より第一一回文芸賞を受ける。四月、一一一好達治来る。 三十四歳養母赤井 ( ッ危篤の報に帰郷、一一十八日養母死去。五月、評論集「芭 大正十ニ年 ( 一九二三 ) 四月、詩集「青き魚を釣る人」 ( アルス ) 刊行。五月、隣人を介し一蕉」 ( 武蔵野書院 ) 刊行。六月、田端を引き払い一家軽井沢へ移 高生堀辰雄来る。八月、志賀直哉の訪問をうける。同月二十七日長る。七月、津村信夫来る。九月、軽井沢より金沢へ移り、池田町に 女朝子生れる。九月一日、関東大震災に遭遇、十月、一家をあげ金仮寓。詩集「鶴』 ( 素人社 ) 刊行。十一月上京、大森谷中に移る。 かわおちん 四十歳 昭和四年 ( 一九一一九 ) 沢に移り上本多町川御亭に落付く。十一月、四高生中野重治来る。 大正十三年 ( 一九二四 ) 三十五歳二月、随筆集「天馬の脚」 ( 改造社 ) 、四月、「魚眠洞発句集」 ( 武蔵野 一一月、四高生窪川鶴次郎、中野重治と来る。五月、芥川龍之介を金書院 ) 刊行。五月帰郷。六月、朔太郎を介して、伊藤信吉来る。七 沢に迎え歓待。「彼等に』 ( 万有社 ) 刊行。七月、堀辰雄金沢に来る。月、「新選室生犀星集』 ( 改造社 ) 、十一月、朔太郎編「室生犀星詩集」 三十六歳 ( 第一書房 ) 刊行。十一一月、「室生犀星詩集』 ( 改造文庫 ) 刊行。 大正十四年 ( 一九二五 ) 四十一歳 一月上京し、一一月田端に家族を迎える。三月、童話集「翡」 ( 宝文昭和五年 ( 一九三〇 ) 館 ) 刊行。金沢へ帰り、小立野天徳院に庭を作る。六月、随筆集「魚五月、短篇集「生い立ちの記」 ( 新潮文庫 ) を刊行。九月、随筆集「庭 譜眠洞随筆』 ( 新樹社 ) 刊行。八月、軽井沢に滞在、朔太郎、芥川、堀辰と木』 ( 武蔵野書院 ) 刊行。十一一月、日比谷山水楼で暮鳥忌を催す。 四十二歳 雄らと交友。十月、造園のため帰郷。十一一月、帰京。芥川に連れら昭和六年 ( 一九三一 ) 六月、芥川をモデルに「青い猿」を「都新聞 , に連載。 ( 七十三回 ) 年れて徳田秋声を訪問。この頃、若い詩人たちが周囲に集まる。 四十三歳 昭和七年 ( 一九三一 l) 三十七歳 大正十五年・昭和元年 ( 一九二六 ) 一月、帰郷。四月、中野、堀、窪川等の同人雑誌「驢馬」創刊、積三月、「青い猿』 ( 青陽堂 ) 刊行。四月、大森馬込に新築移転。九月、 くろがね 極的に支援。五月、帰郷。六月、小曲集「野いばら』 ( 紅玉堂書店 ) 詩集「鉄集」 ( 椎の木社 ) 刊行。「最後の詩集 , と称す。

2. 現代日本の文学14:室生犀星 集

414 四十四歳「大陸の琴」を「東京新聞」に連載。 ( 六十一回 ) 昭和八年 ( 一九三 = l) あいえん 四十九歳 二月、詩集「十九春詩集」 ( 椎 9 休社 ) 刊行。八月、「哀猿記」を「改昭和十三年 ( 一九三八 ) 一一月、「大陸の琴」 ( 新潮社 ) 刊行。五月、「詩人懇話会」設立、会員 造ーに発表。十一月、随筆集「茱萸の酒」 ( 岡倉書房 ) 刊行。 四十五歳となる。七月、「犀星短篇集」 ( 春陽堂文庫 ) 刊行。立原道造、病に 昭和九年 ( 一九三四 ) 一月、「文芸懇話会」設立、会員となる。五月、「洞庭記」を「中央て犀星宅にて静養。九月、長篇「女の一生」 ( むらさき出版 ) 、書き 公論」に発表、随筆集「文芸林泉」 ( 中央公論社 ) 刊行。七月、「医下し自伝小説「作家の手記」 ( 河出書房 ) 刊行。十一月十三日、妻と 王山」を「改汢巴、「あにいもうと , を「文藝春秋」に発表。「市井み子脳溢血で倒れ、一週間意識不明。以後半ば体の自由を失う。 五十歳 鬼もの」を書き始め、小説の発表多くなる。「文芸」八月号に「詩よ昭和十四年 ( 一九三九 ) 君とお別れする」を書き、詩との訣別を表明。九月、「神かおんな一月、妻とみ子の句集「しぐれ抄」を百部限定出版。三月、立原道 か」を「文芸」、「チンドン世界 , を「中央公論」、十一月、「神々のヘ造逝く。「詩人賞委員会ー設立、委員となる。第一回「詩人賞」の なおり ど」 ( 後に「続あにいもうと」と改題 ) を「文藝春秋ーに発表。 授賞をめぐって、白秋と論争。同月、短篇集「波折」 ( 竹村書房 ) 、四 四十六歳月、随筆集「あやめ文章」 ( 作品社文庫 ) 、十月、短篇集「つくしこい 昭和十年 ( 一九三五 ) 一月、短篇集「神々のへど」 ( 山本書店 ) 刊行。 ( 九月に「兄いもうしの歌」 ( 実業之日本社 ) 刊行。 らぬさ、 五十一歳 と」と改題し普及版刊行 ) 自伝小説「弄獅子」を「早稲田文学ーに昭和十五年 ( 一九四〇 ) こゅうまうあい、 六回、「女の図」を「改造ーに五回分載。一一月、随筆集「慈眼山随筆」五月、短篇集「乳房哀記」 ( 鱒書房 ) 、六月、短篇集「美しからざれば ( 竹村書房 ) 、短篇集「哀猿記」 ( 民族社 ) 刊行。三月、「芥川文学賞」哀しからん」 ( 実業之日本社 ) 、九月、随筆集「此君」 ( 人文書院 ) 刊 が設定され選考委員となる。六月、評論「復讐の文学」を「改造」行。十一月、初の王朝小説「萩吹く歌」を「婦人之友」十一月号に発表。 に発表、反響をよぶ。同月、小説集「女の図』 ( 竹村書房 ) 刊行。七十一一月、短篇集「戦死」 ( 小山書店 ) 刊行。この年「蝶」等の「甚吉 月、軽井沢に立原道造来る。同月「あにいもうと」により文芸懇話もの」を発表。 五十一一歳 昭和十六年 ( 一九四一 ) 会賞を受ける。十二月、長篇「復讐」 ( 竹村書房 ) 刊行。 四十七歳三月、十年ぶりに帰郷。四月、「戦死」により第三回菊池寛賞を受賞。 昭和十一年 ( 一九一一一六 ) 一一月、長篇「聖処女」 ( 新潮社 ) 、詩集「十返花」 ( 新陽社 ) 刊行。四七月、短篇集「蝶・故山」 ( 桜井書店 ) 、八月、随筆集「花霙」 ( 豊国 社 ) 、九月、短篇集「王朝」 ( 実業之日本社 ) 、十一一月、短篇集「甚 月、小谷恒を伴い釈迢空来る。六月、「弄獅子」 ( 有光社 ) 、九月、非 吉記」 ( 愛宕書房 ) 、自選「定本室生犀星集」 ( 竹村書房 ) を刊行。 凡閣版「室生犀星全集」 ( 全十四巻、十二年十月完結 ) 刊行。 五十三歳 四十八歳 昭和十七年 ( 一九四一 l) 昭和十ニ年 ( 一九三七 ) 四月、満洲旅行。大連、奉天、哈爾浜、京城、釜山を経て帰国。九月四月、胃潰瘍のため本所横網町同愛病院に入院。一一十日間に及ぶ。 らくだ 「中央公論」発表の随筆「駱駝行」 ( 竹村書房 ) 刊行。十月、長篇同月、童話集「鮎吉・船吉・春吉」 ( 小学館 ) 刊行。五月十一日萩原 しせい

3. 現代日本の文学14:室生犀星 集

下」 ( 村山書店 ) を刊行。十月、「杏っ子」を「東京新聞ーに連載。限定出版。七月、「告ぐるうた」 ( 講談社 ) 、九月、随筆集「生きたきも ( 一」百七十回 ) 十一一月、短篇集「陶古の女人』 ( 三笠書房 ) 刊行。 のを」 ( 中央公論社 ) 刊行。同月、「怒れる三本の鉤」を「新潮」に、 昭和三十ニ年 ( 一九五七 ) 六十八歳十月、「我が草の記」を「群像」に発表。同月、軽井沢二手橋畔に 四月、「李朝夫人」 ( 村山書店 ) 刊行。六月、短篇集「タ映えの男」「犀星文学碑」を建立。夫人の一週忌十月十八日の日付を刻む。十 ( 講談社 ) 刊行。「つゆくさ」を「文春秋」に、八月、「遠めがねの一一月、第一回「犀星詩人賞」を滝ロ雅子に授賞。同月、義姉松田テ 春」を「新潮」に発表。同月、「杏っ子」完結し、十月、新潮社よりエ ( おてい・「幼年時代」に出て来る姉 ) 富山県伏木町にて死去。 刊行。十一月、「名もなき女」を「小説新潮ーに発表。 昭和三十六年 ( 一九六一 ) 七十一一歳 昭和三十三年 ( 一九五八 ) 六十九歳一月、「タールの沼」を「新潮 . に発表。四月、「黄金の針』 ( 中央公 一月、「杏っ子」その他の業績により昭和三十二年度「読売文学賞」論社 ) 、七月、「草・簪・沼』 ( 新潮社 ) を刊行し、「はるあわれ」を「新 を受賞。「我が愛する詩人の伝記」を「婦人公論」に連載。 ( 十二回 ) 潮」に発表。同月、文学碑々面に詩「切なき思いぞ知る」を彫り犀 二月、随筆集「刈藻」 ( 清和書院 ) 、三月、短篇集「つゆくさ」 ( 筑摩星詩碑完成。この夏、健康すぐれず九月、肺炎にて臥床。十月、虎 書房 ) 刊行。七月、「かげろうの日記遺文」を「婦人之友」に十三回の門病院入院。十一月一応退院。「日本経済新聞」連載の「私の履歴 連載。十一月、「室生犀星作品集』 ( 新潮社・全十二巻昭和三十五書ー脱稿、「最後の文学歴を書き終えた」と称す。十一一月、第二回 年五月完結 ) 、十一一月、「我が愛する詩人の伝記』 ( 中央公論 ) 刊行。「犀星詩人賞」を辻井喬・富岡多恵子に授賞。 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 七十歳 七十三歳 昭和三十七年 ( 一九六一 l) 一月、「生きるための橋」を「群像」に、「蜜のあわれーを「新潮」に二月、「われはうたえどやぶれかぶれ」を「新潮ーに発表、「はるあ 連載。五月、古稀を祝い日本文芸家協会名誉会員に推さる。同月、われ」 ( 筑摩書房 ) 刊行。同月、一一十五日書き終えた「老いたるえび 「生きるための橋』 ( 実業之日本社 ) 、「硝子の女」 ( 新潮社 ) 刊行。八のうた」 ( 四月「婦人之友 , 掲載 ) が絶筆となる。三月一日、虎の門 月、「なやめる森」を「新潮 , に発表。十月十八日、妻とみ子逝く。病院に再度入院。一一十六日午後七時一一十六分永眠。病名肺癌。従四 享年六十四歳。同月、「火の魚」を「群像 , に発表、「蜜のあわれ」位に叙せられ、勲三等瑞宝章を贈られる。翌年十月、金沢野田山墓 ( 新潮社 ) 刊行。十一月、「我が愛する詩人の伝記」で第十三回毎日地に埋骨。五月、死後、発見された三社連合の為の新聞小説原稿「好 出版文化賞を受賞。「かげろうの日記遺文」 ( 講談社 ) 刊行。十二月、色」 ( 仮題 ) 七十四枚を「小説中央公論」に発表。同月、短篇集「わ これにより第十一一回野間文芸賞を受賞。賞金を基に「犀星詩人賞」れはうたえどやぶれかぶれ」 ( 講談社 ) 、八月、随筆集「好色」 ( 筑摩 設定、「犀星文学碑」建立、「室生とみ子遣句集」刊行の企画を発表。書房 ) 刊行。翌年三月、「室生犀星全集」 ( 新潮社・全十一一巻別巻二 七十一歳巻 ) 刊行。 昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 一月、「告ぐるうた」を「群像」に六回、「黄金の針」を「婦人公論」 この年譜は新保千代子、伊藤信吉氏その他の年譜を基に編集部が作成し、 奥野健男氏に校閲をお願いしたものです。 に十一一回連載始める。三月、妻とみ子の遺稿「とみ子発句集」を百部

4. 現代日本の文学14:室生犀星 集

朔太郎逝く。同月、佐藤惣之助逝く。自伝小説「泥雀の歌」 ( 実業之 ( 沙羅書房 ) を刊行。同月、「消えたひとみ」を「群像」に発表。九 日本社 ) 刊行。六月、「萩原朔太郎全集」の監修に参加。同月、短篇月、四年半の軽井沢疎開を打ち切り帰京。大森馬込に落付く。 六十一歳 集「筑紫日記」、 ( 小学館 ) 、「虫寺抄』 ( 博文館 ) 刊行。夏の間、亡友昭和ニ十五年 ( 一九五〇 ) 四月、「奥医王」を「風雪ーに、五月、「俗調「膝」悲曲 , を「文学 一一人を悼む書下し「我友」を執筆。十一月、北原白秋逝く。 五十四歳界」に、七月、「刀身」を「群像ーに発表。この年刊行なし。 昭和十八年 ( 一九四一一 l) こもれ 六十二歳 一月、短篇集「木洩日」 ( 六芸社 ) 、三月、短篇集「萩の帖」 ( 全国書房 ) 昭和一一十六年 ( 一九五一 ) 刊行。同月、「佐藤惣之助全集」を編集。四月および七月、編著「芥三月、「餓人伝ーを「文学界」に発表。この年詩集の刊行数点。 六十三歳 川龍之介の人と作」上・下巻 ( 三笠書房 ) 、七月、長篇「我友」 ( 博昭和ニ十七年 ( 一九五一 I) 文館、後「名木」と改題 ) を刊行。十一月十八日、徳田秋声逝く 一月、「裾野」を「群像」に発表。一一月、大阪歌舞伎座新派公演で 五十五歳「あにいもうと」上演。五月、「黒髪の書」を「中央公論」に発表。 昭和十九年 ( 一九四四 ) 六十四歳 三月、「中部日日新聞ーに「山吹」を連載。 ( 三十八回 ) 「余花」 ( 昭昭和ニ十八年 ( 一九五 = I) 一月、「お天気博士」を「群像」に、四月、「貝殻川」を「文学界ー 南書房 ) 刊行。六月、津村信夫死去。八月軽井沢に疎開。 五十六歳に発表。五月一一十八日、堀辰雄信濃追分で逝く。八月、「生涯の垣 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 根ーを「新潮ーに発表。九月三日、釈迢空逝く。 八月、終戦。十月、長篇「山吹」 ( 全国書房 ) 刊行。 六十五歳 昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 五十七歳 しな 図書出版界の復活により、詩、小説を多数発表。一月、随筆集「信この年毎月作品を発表。再び多作に入る。一月、川島胃腸病院に入 濃山中」 ( 全国書房 ) 一一月、詩文集「山ざと集」 ( 生活社 ) 等刊行。院 ( 約一カ月間 ) 。退院後自宅療養。同月、「鞄 ( ポストン・・ハッグ ) 」 五十八歳を「群像」に、四月、「黄と灰色の問答」を「群像ーに、六月、「蝶 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 一月、短篇集「玉章」 ( 共立書房 ) 、三月、「山鳥集」 ( 桜井書店 ) 刊行。紋白」を「文芸」に、八月、「少女の野面」を「新潮」に発表。 六十六歳 昭和三十年 ( 一九五五 ) 「群像ー十月号に「祭着」を発表。前年同様この年も、刊行多い 昭和ニ十三年 ( 一九四八年 ) 五十九歳一月、随筆「女ひとーを「新潮」に連載。 ( 六回 ) 二月、七年ぶりの 譜三月、童話集「オランダとけいとが」 ( 小学館 ) 、四月、長篇「みえ」近作短篇集「黒髪の書」 ( 新潮社 ) 刊行。六月、恩地孝四郎逝く。 ( 実業之日本社 ) 、五月、自伝小説「童箇を吹けども」 ( 弘文堂 ) 、十十月、随筆集「女ひと」 ( 新潮社 ) 刊行。好評を博す。 六十七歳 年月、短篇集「氷った女」 ( クラルテ社 ) を刊行。十一月、日本芸術院昭和三十一年 ( 一九五六 ) 会員となる。 一月、「舌を噛み切った女を「新潮」に発表。一一月、同名の短篇集 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 六十歳 ( 河出書房 ) を刊行。三月、長篇「妙齢失わず」、随筆集「続女ひと」、 六月、自伝小説「室生犀星」 ( 文潮社 ) を、八月、随筆集「泥孔雀」九月、長篇「三人の女」 ( 以上新潮社 ) 、十月、随筆集「誰が屋根の のやまなか

5. 現代日本の文学14:室生犀星 集

ll< 古九谷元祿初期までに焼かれた九谷焼。九谷焼は加賀の特 中で根源的な愛に飢えていたといってもよい。一般の倫理をは 産、大聖寺の藩士によって創製されたので大聖寺焼ともいう。 ずれても「私の心を容れてくれるもの」を本心から望んだ。 一天愛陶の心犀星の場合、「愛陶の心」は、「愛庭の心」にも通一三九槃若経「槃若心経」のこと。仏典の中の聖典とされている。 ずる。 一四 0 露助露西亜人を軽蔑していうことば。日露戦役前後より大 一一九童顔仙驅少年らしい顔つきをして、仙人らしくやせた体を いに流行した。 していること。 一四一高等刑事高等警察課に属している刑事。主として、政治犯、 一一九小者雑役に使われるもの。下男、丁稚の類。 思想犯の取り締りをする。のち、社会主義者、共産主義者の弾 一一九水汲み酒をつくるには、まずなによりも良質の水が必要。 圧にあたった「特高」 ( 特別高等警察 ) となる。 一一一 0 新声明治一一十年代末から三十年代にかけて刊行された文芸一四三邪宗門明治四十一一年、易風社より刊行された北原白秋の最 雑誌。のち新潮社を興した佐藤義亮が中心。従って「新潮」の 初の詩集。エキゾチックな情緒、耽美的、退廃的ムードが漂 前身。投書が中心で多くの新人がここから育った。 ことばが音楽のように駆使されている。 一一一 0 ・氏「新声ー誌上の詩欄の選者であった児玉花外をさ一五三銀杏返し日本髪の結いかたのひとつ。 す。 美しき氷河 三四六一一倍四六版 ( 縦十九センチ、横十三センチ、現在の 6 版に近い ) の二倍の大きさの書物。 一契高麗芝朝鮮芝、ひめ芝ともいう。大変美しく、品のよい芝 一一三社会主義詩集明治三十六年に刊行された児玉花外の詩集。 生をいう。 「労働軍歌」など三十編を収む。ただちに発禁。詩集の発禁は一天半玉おしやく。まだ一人前になっていない芸妓。玉代が半 これが最初である。 分の意。 一一三文庫明治二十年代末 ~ 三十年代にかけて刊行された青少年一犬キと光らして強い感じを出すために、特別に、印象的につ むきの投稿雑誌。河井酔茗らが中心。新進の詩人がここから多 ったことば。 ~ 、六月った。 一五九にんがりと犀星のつくったことば。頬をゆるませてにつこ 一毛桜紙鼻紙などに用いる小型の薄い和紙。 り笑う感じを出したもの。 一一石鼠啼きチュチュとねずみの鳴き声をまねていうこと。 一氷河この形容はやや突飛のように思うが、肉体のむくむく 一三三零落れた士族明治の半ば頃までは、士族のゆくえ、とくに したカ、動かないようで微妙に動いているさまの形容としては、 この「没落士族」なるもののゆくえ、その変貌、その家族、子 やはりすこぶる鮮かである。奥野健男のいう「ぬめっとした官 供たちの将来など、すべて重要な文学的なテーマであった。 能美ーと大いに関係する。 さやさや 一三五私の心を容れてくれるもの少年時代の犀星は、日常生活の 一究爽然これも犀星がかってにあてたことばである。イメージ とっぴ

6. 現代日本の文学14:室生犀星 集

年より、「朱欒 , ( 白秋主宰 ) 「ス・ハルー「詩歌」「創作 , 「女子文壇 , 康を得て帰京。九月、再度危篤のため帰郷。二十三日死去。家督を 等に詩を多数発表。一一月、新進歌人斎藤茂吉が「樹蔭ー掲載の「滞つぎ家財を整理。この間文通中の尋常小学校訓導、浅川とみ子と婚 郷異信」を激賞。この頃「朱欒」発表の詩に感激した萩原朔太郎か約。十月、「詩話会」設立、会員となる。十月末帰京。 一一十九歳 大正七年 ( 一九一八 ) ら手紙を貰い生涯の友となる。 一一十五歳一月、第一詩集『愛の詩集」を「感情詩社」より自費出版。芥川龍 大正三年 ( 一九一四 ) 二月、朔太郎を前橋に訪問、利根川畔に滞在。聖書を耽読。三月、之介、福士幸次郎を知る。一一月十三日生家小畠邸にて浅川とみ子と 結婚、上京し田端に新居を持つ。この年散文、評論を執筆し始め 帰京、本郷千駄木町に下宿。上京した朔太郎と高村光太郎を訪問 てんさく 四月、「北辰詩社」を尾山篤一一郎と復活、詩と短歌の有料添削指導をる。九月、『抒情小曲集』を感情詩社より自費出版。 三十歳 始める。恩地孝四郎を知る。六月、朔太郎、暮鳥と「人魚詩社」設大正八年 ( 一九一九 ) 立。上京滞在中の朔太郎とカフェー等を廻り歩く。七月、小石川白一一月、「詩話会」の年刊詩集「日本詩集」編集委員にはれる。「第 山前に移転。八月、帰郷。九月、詩「急行列軍」により掲載誌「創一一愛の詩集』 ( 文武堂書店 ) 刊行。六月、『愛の詩集』出版記念会が 造 , 発売禁止。「地上巡礼」創刊、社友となる。「異端」創刊、同人本郷燕楽軒で開かれる。このころ「幼年時代」を「中央公論」に送 らよいん る。七月、編集長滝田樗陰の訪問を受け八月号に掲載される。以後 となる。十一月、自宅に「詩の会」を設け有料添削をする。 一一十六歳十月号「性に眼覚める頃」、十一月号「或る少女の死まで」を掲載 大正四年 ( 一九一五 ) 一月、金沢にて「遍路」を創刊、選者となる。三月、「卓上噴水 , をし、一躍小説家として知られるに至る。 三十一歳 大正九年 ( 一九一一〇 ) 朔太郎、暮鳥と創刊。 ( 三号で廃刊 ) 五月、朔太郎を金沢に迎える。 一月、最初の小説集『性に眼覚める頃」 ( 新潮社 ) 刊行。一一月、「感 同月上京し、白秋等と交友。十月、前橋へ朔太郎を訪問 一一十七歳情同人詩集ーを編集刊行。「結婚者の手記」を「中央公論」に発表。 大正五年 ( 一九一六 ) 四月、「 LE PRISME 」を暮鳥の編集で創刊、発行名義人となる。三月、最初の新聞小説「海の僧院ーを「報知新聞」に連載。 ( 一一一十九 そうくっ 六月、「感情詩社ーを朔太郎と設立、「感情 , を創刊。このころ朔太郎回 ) 同月「雄弁」に発表の「蒼白き巣窟ー部分削除にあう。四月、 の勧めでトルストイ、ドストエフスキイを耽読。「感情ー一一号、三「美しき氷河」を「中央公論」に発表。六月、「古き毒草園」、九月、 号を「抒情小曲集ー特集号とする。九月、「抒情小曲集」に感激した「香炉を盗む」を「中央公論」に発表。十一月、短篇集「蒼白き巣 そう ももた 窟』 ( 新潮社 ) 刊行。この年小説一一一十篇以上を発表。 谷崎潤一郎の訪問をうける。百田宗治、佐藤惣之助等を知る。 三十二歳 一一十八歳 大正十年 ( 一九二一 ) 大正六年 ( 一九一七 ) 一一月、「感情」で「室生犀星詩号」を特集。五月、赤城山腹梨木温泉一月、「おれん」 ( 「中央公論」 ) 等小説十篇を発表し、多作に入る。 で保養、帰路前橋に寄り朔太郎と共に伊香保温泉へ谷崎潤一郎を訪一一月、短篇集『古き毒草園』、三月、『香炉を盗む』 ( 隆文館 ) 刊行。 同月、「蝙蝠」を「大阪毎日新聞」「東京日日新聞ーに連載。 ( 三十三 。翌日三人で前橋に遊ぶ。七月、養父真乗危篤の報に帰郷し、

7. 現代日本の文学14:室生犀星 集

寮左「復讐』昭和十年竹村書房刊 浩左昭和七年ー昭和十四年に 野刊行された初版本 を 0 - 姦朝ーー第 山【 央六 6 すメ 一三ロ 昭和 10 年 1 月 19 日「あらくれ会」前列右より小金井素子小野みち子岡田三郎近松秋 江徳田秋声小寺菊子中村武羅夫北見志保子犀星中列右より阪本越郎舟橋聖一 野口冨士男阿部知二徳田一穂豊田三郎尾崎士郎楙山潤高原四郎岡山東井伏鱒 一川崎長太郎後列右より上泉秀信三宅正太郎田辺茂一三上秀吉 ( 日比谷山水楼 )

8. 現代日本の文学14:室生犀星 集

める「眼」がひらかれなければならぬみと言われ、それ甚吉の家によく泊りに来、ハイキングにも出ないで、 に犀星はこうこたえている。 " 暗愚な私は : ・ : 書くことひとりで文学書などを読む少女であ 0 たが、ひどい結 は討っことであり、討っことは讐をとることである。核にかかり死んでゆく。その死に、いたみつくせぬ美 と測り知れぬくやしさをもつ、詩人甚吉の気持が行間 ただ書けよ、何事も遠慮なく書けよ″とこたえている だけである。論理的な明快さは全くないのだが、人生からふき出してくるようだ。少女たちのかける白いマ をあさり、書くことによって、それに詩的制裁をあたスクも効果的であるし、女学生たちの心の動きも、自 える犀星のにある人生観なり文学論なりは、この己省察も的確である。こんど再読した作品のなかでは、 「復讐の文学」によってほほ推定されるし、この「復讐私は「蝶」にもっとも感動した。 戦争がはげしくなった昭和十九年、犀星は一家をあ ま、そのまま「あにいも、つと」の註釈になっ の文学」論 , ているのではないかとおもう。なお犀星の「女の図」をげて軽井沢の別荘へ疎開、五年半の山荘生活ののち、 〈悪文の見本〉と書いた佐藤春夫と犀星の間に論争が昭和二十四年、六十一歳、東京へ帰った。ふたたび、 おこったのも、この年のことである。 なまぐさい生の世界にしこをふんでいるような作「餓 昭和十一年、「室生犀星全集」全十四巻を非凡閣より人伝」「命」「黒髪の書」などを発表。完全に文壇に復帰。 刊行。翌年、大連、奉天、ハルピンなど満州旅行、帰「随筆・女ひと」 ( 昭和三十年 ) を「新潮」に連載。高い 京後、日支事変おこり、市井鬼ものの筆をおり、王朝世評をよび、「続・女ひと」も出された。女人讃歌の書 というより女人愛執の決算の書といいたいのだが、犀 ものや甚吉ものといわれる私小説の筆をとる。「蝶」は、 甚吉の娘で女学校の五年生になる君子の友達山ちんの星文学を知るには、この随筆を読まれるといし 「私はつねづね六十歳を過ぎたら女のことなぞ気にな 死を描いている。二年間も病んでいる甚吉の妻うめ、 むすこの中学一一年生の貞吉など、室生家そのものとみるまいと思っていた。そしてその年齢にとどいてみる て間違いない家を、戦時下の鬱屈した気持をおりこめと女という女のひとは、りようらんとふたたび開花の ながら美しく描いている。君子は随筆家の室生朝子さ状態を見せてきた。私はむしろふしぎそうに眼をほそ めて、こんなはずはないと道ゆくひとを眺めた。そこ んの若き日の姿であろう。君子の友人五人のなかで、 背は高いが呼吸器をわるくしている山ちんは、信州ので女のひとは永く見なかったごときあざやかさで、顔 うつ ( っ

9. 現代日本の文学14:室生犀星 集

410 一一会下町の娘 : : : ここでは、「娘ー「女学生」「令嬢」などと い 110ß紫苑の上犀星がかってにつけた名前。実際は「道綱の母」 うことばを使い、そのわずかなニュアンスの差をつたえようと とのみしかわかっていない。 している。 三 C 五乳人乳母。 一穴〈胃が悪く肺も : : : 「山ちん」の身体的状況も、適切に挿入三 0 五築山日本庭園の典型的な造園法のひとつ。小山など築くこ されていて、突然の死への遠因の説明となっている。 = ^ 〈明石海人歌人 ( 一 902 ~ 一 939 ) 瀬病患者として、長島愛生園にセ殿合せ男にあわせること。見合いをさせること。 入った人で、本名は不明。昭和十四年、歌集「白描」を刊行し、三右兵衛佐右兵衛府 ( 宮門護衛、警備の役所。右兵衛府と左 その悲痛な歌いぶりに多くの人々は深い感銘を受けた。没後、 兵衛府に別れていた ) の二等官。 「海人遺稿」「明石海人全集』が出た。 弖 0 おうしいつくし法師蝉。つくつくぼうし。 一究哈爾浜満州の北部、松花江のほとりにある都会。 三一一一後朝の歌平安時代に、男が女のもとに行き、泊ったその翌 一穴九キタイスカヤハルビンの町の大通りの名。 朝、男が家に帰って、女におくる歌のこと。 一一九一金を政府に : ・ 当時、戦局が進むにつれて、物資が著しく不三 = 一逢坂逢坂の関。近江より京都に入る入り口。 足がちになり、特に鉄金属類については、家庭や町にあるものを三一一勿来白河とともに関東から奥州に入る入口のひとつ。 政府が半ば強制的に買い上げ、軍需産業のほうにまわしていた。三一三言葉が言葉を連れて歩いて : ・ あれこれと思いわずらうこ 元一一押出シ浅間山の鬼押出し。 と。さまざまな思い出を持っこと。 一一突黒いオー・ハに白いマスク : みな一様にそろって、警戒の三一九夜離れ男がしだいに女のもとに行かなくなること。 意味もあってマスクを使用する。この白いマスクのイメージは、三元相撲の節会平安時代、天皇が皇居で毎年七月、相撲をごら 「蝶ーのイメージにやがて昇華していく。 んになる会があった。 元〈彼女らの唇はぬれ・ : ここで、彼女らは、一度におしゃべ 三三 0 冴野この「町の小路の女」 ( 名もなき女 ) を大きく前面に出 りになる。おさえていた悲しみがおしゃべりの形をとってあら したことが、この作品の一大特色。 われる。 三契貝合せ平安時代の室内遊戯。貴族が貝を持ちより、その貝 三 8 大迫倫子この時代に戦局と関係深い「病院船」などの本を にちなんだ歌をそえ、優劣を争う。 ゆするつー 書き、一時人気を得た人。 三瑟坏水を入れる器で、髪の毛を洗う。 三九四方違え外に出る際、忌むべき方角の故、一度、吉方の家に かげろうの日記遺文 行き、そこより方角をかえて目的地に行くこと。 三かけろうの日記平安朝の貴族藤原道綱の母が書いた日記。 紅野敏郎 彼女は、藤原倫寧の娘。男に対する女性の心情を告白した作品。

10. 現代日本の文学14:室生犀星 集

ようそく を盛って脇息の上に置き、それに靠れて祈念することにしら見返ったが、間もなく使いは戻って来て、この暑いのに はつかごんぎよう 3 た。二十日程勤行をつづけているうち、時の間にか一匹勤行はからだに毒だから、こんどは私の言う事を聞き入れ て思い止まったらどうかと記してあった。この手紙を見る のくちなわが肌を取り巻き、昼夜の分ちなくからだをはい じゃねん 廻るゆめを見て、邪念の消えない自分がこのような厭らしと、紫苑の上は少女のように物の用具を急がせて、何かを い所にいるかと、顔に冷水をそそいで少時、ほっと手吸を恐れるように邸を出た。いくら懲りても自分の中にあるも つくこともあった。この間にもある日には門のところに兼のが生きて来て、遂々、兼家に旅の事を知らせた悔が大き かまびす 家の車が立てかけてあったり、また囂しく通りすぎる数かった。 わずら 山路は平凡で変化はなかったが、きゅうに静まった景色 刻の煩わしさもあった。 こ・ら 西の山ざとに籠りする程よい寺があるので、きゅうに紫はやはり美しい、昔、この山路を歩いたこともあって、覚 ひろ うわむしろ えのある路の曲り角も、昔どおりに谷あいをひろびろと展 苑の上は旅の用具をととのえていると、上蓆の下に飲みに したじき にがぐすりたとうがみ くい苦薬を畳紙に包んでその下敷にしてあるのを見た。思げて見せていた。二三日、あの人は宮仕えを怠って一緒に こ・も しわ 籠ったのも、この晴れた季節であった。供三人ばかりを連 わず畳紙の皺を伸して記した。 なるたき れての山路にも、さすがに行き悩みがあって、鳴滝の般若 たど でら 寺に着くとひどく疲れが出た。その疲れは山路を辿ったか さむしろの下待っことも絶えぬれば らであるよりも、永くむにしまっていた息ぐるしさが、呼 置かむかただになきそ悲しき び合うてつかれに変って出て来たようであった。僧坊に下 ぼたん りてゆくと垣とも見えぬ垣のヘりに、小株の牡丹が静かに それに手紙も添え書きにして見た。心当てに待っ身は、 くずれて暖かい花びらを、赭い山土の上に頭をならべてい もう身の置くところさえ、なくなりました。 「いづくへも身をし変へねば雲かかる山ふみしてもとはれた。いかにも、大いなる散落の感覚があって、牡丹の花が ざりけるーー藤原仲文集ーという歌がありますが、あなた山ふかくにいて、ひとりでくずれるのがあわれ深かった。 みどうずいぶん 様が門前をお渡りにならない場所がないものかと思い、今この御堂は随分高い所にあって、山がまわりを取り囲ん たむろ でいるが、ただ、闇のかたまりが大小さまざまに屯してい 日思い切って小さい旅に出かけることに致しました、と、 むし こわすごみ て、寧ろ、怖い凄味のある景色だ「た。折から初夜っ鬱 その文の使いを出した後で、何故ひそりと出掛けられない のだろうと、紫苑の上自身にある女ごころを冷たい眼で自の勤行がはじまり、法師たちは御堂に上って行った。時刻 もた ねん いや あか こ はんにや