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検索対象: 現代日本の文学14:室生犀星 集
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1. 現代日本の文学14:室生犀星 集

外に消した。兼家はくるまにあがった。二人はこうして別 たなくなると女というものの汚なさに、あきれていた、 れた。 と、そこまでは意地張りで考えるのだが、冴野のわるびれ かえりのくるまは、一層、更けた町中をひっそりと往ずに会った印象の清潔さは、退けようとしても、つい思い き、兼家は眼をつむって開けなかった。 出され眼にうかんで来るのだ。冴野は言った、わたくしが 若し身を退いたといたしましても、あなた様や紫苑の上様 こくげ - ん おなじ日の刻限も同じ頃、本邸の時姫がもとにも、冴野がお気の毒でという心からではございません。わたくし自 とど かえ から絹で蔽うた荷が到いて、品々の貴重な物が還されてい身が身を引かなければ、自分の毎日の恐ろしさを避けたい た。時姫はこれらの品々を見ると、冴野が町の小路を去っが為なのです。人間のいないような処で、いままでに殿と ゆくえ らようあい てすでに行衛も判らぬ女になっていることを思いえがい お会いしていたこと、寵愛を得ていたことの正しさを見極 かか た。それにも拘わらず兼家は一一夜ばかりも帰って来ないのめたいために、わたくしは去るのでございますが、重ねが で、紫苑の上の邸に、ひそかに使いを遣ってみたが、兼家さね申し上げたいことは、あなた様のお仕合せなぞ願う気 とま が滞っている様子もなかった。使いは町の小路の冴野の邸で去るのではないことを、お耳に入れて置いていただきた むね に行った時に、すでに邸内は片づいて、人気のない棟の上いと冴野はきつばりと言い、時姫はその正直で恩に着せな からすな ねすみ に野の烏が啼き立って、白い鼠をくい散らかしていた。時い言葉にはっとしたくらいであった。時姫に問題となって はず 姫はすぐあたらし野の姫とやらの、其処に泊っている筈ののこるものは、何を何処でどう学んだ女かということであ じんじよう って、冴野の心にある構えは尋常のものでないことを認め 兼家を捜しようもなかった。供の者も話さず、今までに、 文 ついそ聞いたことのない姫なのだ。さる皇子のわすれがたていた。あれほどの女が最後に黄金をほしがらなかったこ みが生んだというだけで、何処の何者だかということも不とが、黄金をたよりにする時姫を手痛く搏って来たのであ 日 ( の明だった。 る。 ろ 三日目に兼家は立ち還ったが、容顔はすぐれず、弱気と l„人片づけばまた別の一人かと、時姫は手にふれるのに も漬れを感じて、冴野の荷はほどかなかった。時姫の申し殺気と混乱とをまぜていて、時姫の前に立ったときに彼女 、カ 出を聞きいれてくれた冴野が、不意に現われては来ないかは慄乎としてこれを迎えた。かくまでに冴野という女が夫 しんこく という不安もなくなり、ああいう女という者は今日、殿にのなかにいたかということに、今まで気づかない深刻なも 別れても明日は別の殿にまみえるのであろうと、時姫はきので時姫の五体にしみて来た。それは冴野という女の肉体 おお かえ みわ

2. 現代日本の文学14:室生犀星 集

うけたまわ さが すじようとっさ 路の女の素姓を咄嗟に読み尽そうとする、早い眠の斜光で「はい、時姫様のお下りと承りました。用なき物ゆえ、 あった。どういう女で、どういう顔をしているかという一一そちにと仰せられ戴きました。」 あてはす つの見方だった。それの眼の答えはいずれも、当の外れた「まこと用なき物と思われたか。」 たくさん 「ご本邸には沢山にあると承り、そのように信じて大切に おだやかな感じを受けたらしい とうし」 冴野は低い声でいった。 いたし居りましたが、貴き物ゆえ、ただちにお返しにあが うかが げせん りましようか、下賤の眼も利きませずお預りして居りまし 「わたくしからお伺いいたさねばならないのに、お許しく ださいまし。」 た。」 「不意の訪ずれでお驚きになったでございましよう。」 時姫の声はするどく突っ刺って来た。 「いえ、お香の匂いがして先刻から、此処でお待ちうけ申「明日にもお返しあるよう。」 しました。どうぞ、あれへ。」 「はい、お詫びの申しようもございません。」 すこ 簀の子にあがると、時姫の顔は、燈の下にある器物に眼「以後あれこれと、おねだりなきように。」 を留めて、さっと不快の色を現わした。どの器や飾り物「はい。」 かっ とかく も、嘗ては時姫の所有であった。時の間に搬んだもの「殿は私の殿ゆえ、いままでのいきさつは兎も角、そなた か、それらは先ず時姫のむねを打った。それをそのように様はそろそろ身を退げて去られるよう、時姫からのねがい 感じる時姫の顔色の動きが、冴野にはすばやく影響して来も聴いてくだされ、官位を盛り返すためにも、殿にもっと た。冴野は先ず引っくるめた謝りの言葉を述べた。 休息をさし上げねばなりませぬ。そなた様がいられては私 しおんうえ かなしみ 「見苦しい暮しを致して居りまして、お詫びの申しようもどもの悲嘆も、また紫苑の上様のおなげきも深まさる一 ございません。」 方、時姫、恥をしのんでおねがいに参りました。」 時姫は別の質問をして、顔色をうかがった。 くだ 「あれらの筐類は、殿、ご自身で下された品々でございま冴野はこうべを垂れた。 すか。それとも、そなた様がお求めになられた物でしよう時姫は柔らかだが、重い言葉っきであった。 「どちらにしても去らねばならぬのは、お気付でいらっし か。」 やる筈、殿とても、身分なき方には一時の気まぐれでお通 、え、みな殿から戴いた物ばかりでございます。」 いになっていられたのでございましよう。去っていただけ 「私の品であることをご存じで、お受けなされたか。」 いただ はこ しやこう

3. 現代日本の文学14:室生犀星 集

か、わたくし共は女であるためにお互に譲らなければなら であるから、悩みのふかさ悲しさをお互が探りあうような たくさん ものだと、紫苑の上は生き身の女であるための虚飾を脱いないことが、沢山にございますし、女であるために、一つ もうしゅう で言った。冴野はこれほどの姫も、中身の考えは時姫とはも譲りたくない妄執のやり場もないありさまでございま 些っとも、違っていないと思った。それにくらべた冴野自す、けれども、わたくしは時姫様をお見上げしましたと ゆくすえ かえ 身は却ってひややかで、余裕のある行末を見渡している生き、何となく去らなければならないものを感じ入りまし き方であった。彼女はかくしていても知れる事だと思い きよう、時姫様が風のように現われお訪ねになったといつ「そして私の場合は ? 」 こ 0 「時を同じゅうしてお見えになりましたあなた様を見まし はっきわ・ た時、決心とでもいう気合でしようか、瞭乎といまお二人 「して、いかようなお話がございましたか。」 「わたくしに身を退いてくれるよう、おたのみでございま様の眼の遠方に向いて、わたくしが歩いてゆくことを疑わ なくなりました。」 した。言々語々のお悩み、お受けしました。」 「あなた様ご自身が殿への思いは、どうなるのです。」 「何とお答えあそばしたのです。」 「それは今までに愛しがっていただいた分を、そのまま抱 「身を退くことを約して、おわかれ申しました。」 うわまぶた ゅうぜん いて、去るより外はございません。」 紫苑の上は、その時、冴野の上臉がこんなに悠然と人間 の眼をふたしているものだということの、その心のしずか「あなたは気高い方なのね、私どもにない考えを持ってい らっしやるし、それを踏みしめる時をご存じでいらっしゃ さに見入った。 「ご本心からですか。」 、え、ただの女に過ぎないのです。しかも、一度、男 「本心で考える暇もないくらい、わたくしは時姫様のお悩「いし ひくっ をかえた女というものの卑屈さが、そうさせているとしか みを取りのぞきたいと存じました。」 ふくろこう よこあい 思われません。横合からふいに入って来た女は、その袋小 「そしてあなたは何処に往かれるのです。」 くや 「行く手の定めなそはございません。ただ、時姫様ゃあな路から抜けて出ることが口惜しゅうございますけれど、そ た様方をくお苦しめするために、わたくしは次にじつの通りに歳月がさせてしまうのです。人様の不幸を自分に とはしていられなくなりました。自然の懲らしめなのでごくらべて見るような女は、女としての逞しい生き方に外れ ざいましようか。それとも、わたくしの良心からでしようているとでも、申してよいのでしようか。」 はす

4. 現代日本の文学14:室生犀星 集

「いいえ、わたくしよりも、わたくしを選んでくだされた「お泊りをお掴みのように、しぐさに現わしなさるよう、 殿のお眼高なことをお気付きくださいませ。」 時姫、おたのみいたします。」 おっしゃ そのよう 「何と仰有る。」 「しかし其様なつれなきことは、冴野致しかねるかも、判 「殿は、わたくしの中から十人の女を見たと、つねづね、りませぬ。」 仰せられていました。ただ、それだけのことでございま「して戴かなければ時姫の立場もない : ・ 「わたくしは殿に冷やかにお目もじすることは、恐らく出 けおと 「いまになって私を土の座に蹴落すおつもりですか。」 来ますましオオ 、。こ・こ、普通に申し上げ、普通に今宵を過ごす さよう 「ゆめ左様なことはございませぬ、どうぞ、お立ち去り ことになりますよう、それよりわたくしの仕様もございま せぬ。固いお約束はいたし兼ねるのでございます。」 ひらめ 時姫の頭にふいに閃いたことは、夫兼家をとらえたこの 「お泊りになることもですか。」 ほとん 女の持つものの豊富で、しかも殆ど縫い目なしに柔らかい 「時姫様、どうぞ、早々に、お帰りくださいまし、わたく じようぶ 物言いは、したたかな丈夫の心を持つものの態度だ、しかしお言葉が心にひびいて、どう致しようもございませぬ。」 も、何一つとして欲しがらない今の冴野は、何処で何を学 間もなく時姫は去り、冴野は一人寝殿にのこった。そし んだのであろうかと思った。これだけの落ちつきと立派なて自嘲のけはいはいよいよ濃く、顔いろはつめたい動かな こた らくちゅうかずすく 応えを持っ女は、洛中でも数尠ない女であった。或る意味いものになった。自分勝手なことをいい、冴野自身の事に しおんうえ かね で紫苑の上とは、人物が上位にあるようにも思われた。 は、何一つ考えてくれない時姫が黄金のことまで言い出し ふいに時姫は自分からへり下って、冴野に教えを含ませたのは、冴野は自分の心にくらべへだたりのあることを、 ひとみ ぎようぜん ていった。 卑しげに感じた。彼女はその時ふいに瞳を上げ凝然と、ふ そうがんはげ 「こういうことを申しますのも、殿を思う故なのですが、たたび、そこに立つ人を見あげた。蒼顔に烈しい揉みあう 若し今宵殿がお越しになるようでしたら、冷やかにお逢い色を見せた紫苑の上のすがただった。 けねん 「紫苑の上様、何時此処に参られました。」 下さいまし、何事につけても懸念おわすれなきよう。」 いいぶん すなお 冴野は身をふるわせ、無礼なその言分にも、素直にこた 「たったいま、参っただけです。殿がお越しかどうかを、 わら えた。 冷笑わずにお告げくだされ。」 「はい、そのように致します。」 「冷笑いなどいたしませぬ。殿は、この三四日ばかりお見 いっここ

5. 現代日本の文学14:室生犀星 集

「時姫様や私にそんなに従順になさる訳がないのに、ここ っと置いた。そして私のすることはこの包みの中にあると こがね まで来ると、私には解らないものがありますのね。」 いったが、それは黄金の重たさだった。冴野はそれに眠も はか 「それはわたくしなりに突っ張って見せて、あなた様の向くれずに、時姫さまもそのような計らいをなさろうとした 、もら うを張ることはわかっていますけれど、それは時姫様もあが、わたくしは黄金を貰うということに恥を感じている。 なた様も加えて、みんなが共倒れになることが恐ろしゅう身を引く話のあった時に、女は黄金を貰うものではない、 ございます。その時、殿はどうなさっていいんでしよう黄金で人間の仲が捌けるようになるには、まだ年月が経た なければ、そうなりますまいが、わたくしには食べるだけ 「殿には、往く処がなくなりますね。」 の物は、もう、用意してございます。町の小路にいる女と 「殿は、三人の女の . 沼で、泓れてお終いになるかもわかり いう者は、つねづね、そういう細かい前方の暮しを時も ません。」 眼に見ているものでございます、と、冴野ははじめて幾ら ふきげんおももら 「女の沼。」 か不機嫌な面持になった。その顔色の影響はすぐ紫苑の上 「わたくしだけが其処を去ってしまえば、お二人だけの世に、女が黄金を貰うことを拒むというのは、たとえ、どん 界になられます。そこに、日は晴れてゆくのでしよう。殿な立派な心を持っていても、そうは断りかねるものだ、殿 さが はわたくしを暫くは、お捜しになるかもわかりませんが、 に別れてしまえば黄金なそ入るものではない、一粒の黄金 あなた様のもとに軈てはおかえりになられます。時姫様のでも入り用な時期なのに、この女はきつばりとそれを断る ご本邸にも、日は照るのでございましよう。」 だけの用意を持っているのだ、この点だけでも紫苑の上に こた はびしっと来る応えがあった。どんなに潔白さがあって 遺「殿があなたを永い間お捜しになったら : : : 」 記「決して長い間お捜しになることは、ございますまい、当も、いまの冴野が見栄や外聞を加えたとしても、決してい の座のおさびしさがある間。」 えぬ断り方であった。何という強い重たい心を何処までも ろ「女が男をさびしがらせる程、強く引く力がないじやござ持ちつづける人であろう。 いませんか。」 間もなく紫苑の上はその包みを、もとのように抱いて、 カ 「ええ、わたくしの戴く物は、それだけで沢山なのでござ去って往った。冴野はそのしずかな去り方を見送ると、柱 ばくぜんた います。」 にもたれて漠然と佇っていた。女というもののむなしさ、 その時、紫苑の上は何やら小さい包みを、冴野の前にそ自分を整えてゆくことの甲のあったことは知ったが、や いただ こば

6. 現代日本の文学14:室生犀星 集

もはや しゅうじ というものには最早徳も掟も、修辞もない、ただ、それ自「しずまるという時が、ないではございませんか。」 もと 身、つまり町の小路の女冴野がいるばかりなのだ。 「男というものは悲歎の中にいても、結局、女の許でそれ ふる 時姫はこの恐ろしい言葉の前に慄い上った。そしてそのを解くより外にすべがない、 ことにそなたのような冷情で かずかす 女を誇り、その女のいう行いの数々に、立派なまことの女あしらわれると、やはり女によってそれを溶くより外に、 があるというまでに、兼家は平気でそれを時姫にしめしどう溶きようもなくなゑ変った女の手で人びとは生きか あげく た。その挙句、時姫にも一緒によろこんでくれるように、 えってもいるし、それは何千年経っても、人びとが生きて 冴野が間もなく子どもを産むことを暗示した。時姫はさら いるあいだ続く。」 に再度も、慄い上った。 「そして女をくるしめるのでございますか。」 いしよう あらら 「衣裳もそなたの物を頒けてやってくれるよう、彼方には「くるしみは彼女自身の中にあるものだ、私が疲れてかえ 直ぐ間にあう、不時の衣裳とてもないのです。」 って来ても、そなたは笑い顔一つ見せてくれないでいる、 、よくたん とまど かえ 人間は極端な驚きの前では、馬鹿のようになって心にも私は還って来る所をまちがえたように戸惑う、そなたばか ひたん ない返事をするものであった。悲歎の質も調べることも出りではなく、紫苑の上もそうなのだ。私は何処に御ったら 来ずに、時姫はいった。 しいのです。」 「衣裳の用意はいたしますけれど、紫苑の上様のお子、道「殿はご自身でほかに女をおっくりになり、わたくし達の かたこと 綱様がもう片言をいっているようになっている際に、また心をいびつになされて居られます、それがお気づきになら つごう おっしゃ も、お子様がお産れではどう申し上げていいか、判りませない筈がないのに、何時もご都合のよいことばかり仰有っ 文 ていらっしゃいます。」 日 「冴野の心を継ぐ子どもを私は見たい、人間の意志や知識「それはやみがたい平安の世のならいであることも、そな のをうけつぐものは歴史ではない、子どもより外にはない轡たは知っている筈なのだ、だからこそ、私は泊らずに還っ ろだ。」 ているのだ。」 あらた 、うと、う 時姫はふいに史まっていった。 「わたくしは紫苑の上様と、長歌の贈答をして悲しみを紛 「殿、あなた様はその様な少年のお心を時までも保ってらしているのも、ごぞんじございますまい、紫苑の上様 は、もはや、殿のことなそに悩まされないように、道綱様 ゆかれると、お思いでございますか。」 「そなたは敢て少年の心というのか。」 を一すじにお育てになっていらっしゃいます。」 お、て さえの ほか

7. 現代日本の文学14:室生犀星 集

しっと あいそう いた。それはお愛想でもあれば、嫉妬深いところから発せございます。何時ものようにさっと潔くお立ちなさいま られた言葉でもあるものだ。そしてその表皮には拙いりしと、時姫は言い、それも今はこだわりの手強い執念のよ ようや がふくまれ、その劬りを本物に見せるための言葉にも思えうに見えて来た。兼家の眼に、冴野のすがたが漸くそれを にお た。兼家は黙って永い間その言葉をむねに置いて、こうし制しようとすることさえ出来ないまでに、匂うものに肌の しよせん て静居としている心が通じないことを、所詮はそうあろう固まりさえ映じて来た。 し と思った。 「そんなにまで外出を強いたいのか。」 と、 いったん れいきやく 若葉の宵はじりじりと刻をきざみ、時姫は一旦言い出す時姫の言葉は意外にも、冷却しきったものだった。 しだい とそれにこだわるたちなので、兼家はおちつきを次第に失「今宵はやしきの内に、あなた様を見たくないのです。」 あ って往った。このままにして置いてくれれば皆に逢いたく「何故か。」 うら ても、邸に居られるのに、直ぐにも出掛けるように仕向け「女にも、時折そのように殿のおすがたのない所に、一人 る気持はよく判るが、何故こんなにこだわるのか、そしてでいたい時があるものでございます。」 ・もら それはこうして居てくれと言うかわりに、逆の言葉を用い 「そなたは逆説を立てているんだ、いて貰いたい癖にそう ているのだ、その証拠には時姫の顔は先刻よりずっと蒼ざ いうのだ。」 ら・つし」ら・ め、心の捜ぐりを蔽えない鬱陶しさを現わして往った。此「、 いえ、今宵は子供達し合せなどして、遊びたい願い ざんこくしうら 処で兼家が立って出かけることは惨酷な仕打であり、それを持っております。」 ま はたとえ時姫から仕向けられたことにせよ、兼家は控えて「私も交ぜて貰いたい。」 せつかく いたかった。だが、ひとつの破れを見せた女の心はそのま「殿は直ぐにお飽きになられ、折角の子供達が興じている かわいそう まで、おさまる例は今までになかったのだ。教養も身分の最中、それは可哀想にございます。」 程も、此処ではそのあとを絶ち、石ころみちのがりがりと時姫はきらりと眼動きを見せ、すぐにお飽きになるとい かわら しようりつ 聳立した磧が石灰色に見え、それがどれだけ続くかは判らうことを繰り返していった。それは私のいけない癖で何事 めいわく なかった。今宵だけは邸にいたいのだよ、なにも言わずににも飽きて了う、迷惑なら交ぜて貰いたくないと言い、も はや兼家のいうことはなくなった。残っているものは外に いてくれという兼家に、時姫は、ル宵に限 0 てそのように 出てゆくため、心のちかいを破るだけであった。これをこ 何故じりじりしていらっしやるのです。お出でになりたい かえ のを我慢していられるのを見るのは、却ってつらいものでうすまいと苦心し続けた永いタ刻の時間が、ずたずたに引 おお あお っ いさぎよ くせ

8. 現代日本の文学14:室生犀星 集

兼家はどうして冴野が訪ねて来たかが、頭に引っかかすくうてくれる喜びをおぼえた。波の間に白いうなじが伸 、ようふせま り、何時の間に現われたかが寧ろ一つの恐怖で迫った。時べられ、人間の声がなぐさめで一杯のような気がした。そ ほとん 間のない時間、殆どそれは一つの偶然にしては余りに偶然れらは、時姫のそばにいるときにはそれは感じないで、別 な出来事が、おなじ肉体を持っ女の上に解き合いの美しされている二人の女の上にそれがあった。取り分け何もいわ おそ を見せたことが、怖れるより外はなかった。恐ろしい事のずに、ただ、佐をれないでいる冴野の感覚が、やはり度 ぜっ 中にある怖れは言語を絶するものなのだ、兼家は紫苑の上外れにふくらがることに兼家は眼をとめた。こんなに三人 がまだ二十三になったばかりなのに、そこに十七歳のおとの女を同時に思い、それぞれに魵わる事を告げたい気にな はがゆ なしい彼女を見詰めた。 ったことはない。兼家はたった二本しかない手を歯痒が り、もっと、たくさんの手を女に分けてあたえたかった。 こうばい 七、名もなき侍 動かない木々、何時もと変らない庭土の勾配、青脈がかき でんじようくだ 応和一一年正月、兼家は従四位下に叙せられ、殿上を降っのぼる緑の噎び方、兼家は、自分も何時かは死にはてるで ひょうぶのたいふ た。そして若葉のけぶる五月には、少納言から兵部大輔のあろう、ここにいる時姫もまた死ぬであろうと、子供たち めった うつ た、 官職に遷った。この下の官位は時姫、紫苑の上、冴野ののために、減多に情事のすみやかさを現わさない時姫を気 ちが 三人の女の眼にそれそれ異った、愬える思いやりがうかべの毒に思った。この女によろこびを今直ぐに与えたい、そ かんしよくかか の喜びが形となる物は何であろうと、兼家は木々の間の眠 られた。しかしこの閑職にも拘わらず兼家はあれを思い うつうつ たの これを思い、鬱々として愉しまずに不快をぬぐうてくれるを時姫にそそいだ。どんな事でもしてやりたいという願い ここ 文 なのだ。男のおもい詰めは絶えずにも常にあるのだが、 のは、三人のうちの誰かと思った。兼家自身でそれを言い けぶ 町明したわけでもないのに、時姫も紫苑の上も、後には冴野それがきようも、そんな細かい気振りが見られずに終りそ うであった。それは時姫が日が落ちて温かいさわさわした のもその事をすでに知っていた。 ろ兼家は本邸で三日も静居としていると、紫苑の上の黒タ風が立った時に言った。外はたいへんに肌ざわりの良い したい 髪、冴野の黒髪がけぶって来ることを感じ、肢体は波のほ宵になりましたゆえ、お出ましならばお着換えあそばせ、 がしらの白さで、眼なかいの近くで、うちよせていた。そこういうタ方のあかりでは、たとえば冴野様のお顔色も、 しばら・く れに眼をとめていると少時ではあるが、殿上を降ったむら今宵のあかりを見るようにお美しいものでしようにと、今 むらした不快が剥がれる気がし、女を思う優しさが自分を宵だけでも本邸で過ごそうと決めている兼家の耳にささや むし うった やさ はす むせ

9. 現代日本の文学14:室生犀星 集

おも 持らしかった。」 「殿は、そのような日をいまは念うてはいられませぬが、 「そこでじっとしていらっしゃれば宜かったのでしよう、殿のご身分がそのままにしては置きませぬ。」 お優しさが戻って見えるまで。」 「そしてそなたはその為に、私の好むままに身をひらい やし 「腹が立って邸にはいられなかったのだ。まるで何しに来て、自らも楽にしたしもうとはしないのか。」 ふるま たかという振舞いであった。」 「殿さえ、ご満足のていなれば、女の身として何もほしく はございません。」 「殿、悲しみはおわすれ遊ばせ。」 「うむ、そなたの手を。」 「それゆえ、しつこい事をなさらぬのか、冴野、私はとう 「はい。」 にそれを知っていた。身をまかせているあいだのそなた 「そなたの苦労はそなたに女に入り用のものを与えているは、そのままで時もじっとしていた、そなたはだからそ ・ 6 ら・ し私はそなたと親しんだことで、邸を一軒貰ったような気の間じゅう、精一杯にかがやいていたのだ、眼はとじら がしている。」 れ、眼は遠くに遊泳して、私さえそれを趁うことが出来な 「殿、左のおん手を、」 い遠いところにあった。そなたは誰をその時に見ていられ うや 「そのような手の敬まいも、はじめて兼嫁は知り申した。」たのだ。み仏か。」 「幾年か前わたくしは貧を遁れるため、或る殿にまみえて「み仏はなかなかに見えて来はいたしませぬ。」 いました。その殿はわたくしの不学と才のないために去ら「では誰人であったか、眼をとじていられても見えて来る れ、私は歌をつくることも其時から、いたしませんでし者は何人か。」 た。やがて殿も最後には私に学のないことや、身分のない 「よい。」 ロことを気になさる時がございましよう。その時はそれだけ「私にそれが言えないのか。」 のの理由でお嫌いになるようであったら、お見棄てくだされ「中し上げることは出来ますけれど。」 ろても何のくいもございません。」 「では急く申されい。」 しもうさのすけまさふさ 「冴野、」 「父、下総介雅房にございます。ああいうに父を想うの カ でございます。」 「そなたは、私がわかれる時のあることを見抜いて、いら「あ、冴野、」 れるのか。」 「そしてそれもかなりに永い瞬間にございます。」 その ゅうえい

10. 現代日本の文学14:室生犀星 集

ますか。」 「殿あっての器物でございますのに、わたくしごとき者の てもと 手許にあっては、何のえにしもあるものでございませぬ。 「そのお答えを今宵うかがうために、まいったのです。」明日にも車にてお返しまいらせます。」 こがね 冴野はさっと顔をあげた。なにかが顔から散落し、なに「黄金のおいりようは、ございませんか。」 あいて かが顔からひらめいて過ぎた。この時姫のいまの心をなだ冴野の顔にはようやく対手を手もとに引き寄せ、その何 うそ めるためには、美しい嘘も必要だった。冴野は時姫の心をかを充分に吐かせて見入ろうという深部にあるいきどおり じちょう これ以上こわすまいと思った。 が自嘲の色をまぜて昇った。 「殿は、あなた様におかえし奉ります。」 「黄金はいりようでございますが、あなた様からは戴きと しよういん 「承引してくださるか。」 うは思いませぬ。」 「はい。」 「殿からですか。」 「殿がお引止めになっても、此処を去ってくださるか。」 「殿から去る女が、殿から戴かれますか。」 「ではいずれからか。」 冴野の顔にふたたび、ひらめいたものが掻きの・ほった。 けっこら・ 「一文なしで結構でございます。橋の上にも坐ることが出 「殿は、お引止めになるに違いないと思われますが、そこ来る身分です。」 ゆくえ 「乞食にですか。」 を振り切って行衛も判らない処に御ってくださるか。」 「行衛もわからない処にでございますか。」 「そこまで仰せられれば、あなた様のお心もさつばりなさ 文 「殿がお尋ねになっても、眼もとどかない遠い処です。」 いましように、時姫様、時が経ち申しました。お立ち去り ふる こくげん 冴野はかすかに震え、かすかに眼に響りを帯び、かすかの刻限でございます。」 日 あらが のに抗うような様子であったが、それはしなやかに崩れて顔「ねといわれますか。」 うけたまわ ろはもとのまま澄んでいった。 「はい、承ることは承り、守るべきことは具さにおった あんど 「はい、みな心得てございます。」 え中し上げました。ご安堵あそばして、お帰りくださいま カ かわ 「その代りにこれらの器物は、みな差上げることに更めてせ。」 「そなた様は何という立派な方でしよう、何物も断って往 私からの贈物にいたしたいと思います。」 冴野の返しは意外に、時姫の申出を断った。 かれるということには、時姫、こうべを垂れます。」 あらた つぶ