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検索対象: 現代日本の文学14:室生犀星 集
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1. 現代日本の文学14:室生犀星 集

と思うて見たが、全く深く持して明かさぬような其変り方み返したい機会をつくるために廊下や中庭をうろついてい うなず ることが、眼立っといえば眼立っていたが、そこまで人び には、並々でないものを頷かせるばかりであった。 しゅうとう 「いえ、何にも変ったことはないんですわ。そんなに変っとの注意は周到にはそそがれてはいなかった。はっえは暇 けアん て見えて ? 」はっえは理由の分らぬことに怪課そうな顔色さえあれば不思議に武彦の顔が見たかったが、見ても話の あわ をして見せたが、全く自分でも気がついていないふうであ出来ないもどかしさはただ笑顔も交わすだけの哀れな望み のどかわ った。愉快に仕事のできることは今迄にない経験であったをつないで、喉の渇いているような此の少女はがつがっと が、自分がどういう風に変っているかは、まるで見当の付奥の方にばかり行きたがっていた。 しかしながら かないことであった。まさか武彦のことを考えていたため併乍、こういう事態には女中頭瑞枝といえども、余りに ほとん に左う変って見えようとは、はっえには考えられなかっ想像もっかない事がらであるだけに殆ど気にも懸けなかっ さぐ しか こ 0 た。併し変っている原因を捜りに捜って行ったら、やはり わず 武彦とこの間僅かな立話をしてから心持が変ったといえ「それはあんたのような年齢にはむやみに嬉しい事や悲し ちょう つど ば、いえないことは無かった。やはり左うだったか知らとい事があって、その都度心が変ることがあるものよ。恰 あか 度、いまそれがあんたに現われ始めているのだから、注意 考えて見て、ばっと赧くなった。 ゆえ らが 「誰の眼にもあんたの歩き振りからお返事する様子まで異すると好いわ。」此の縹緻のよくないそれ故に永い間独身 がゆ ったことが判るわ。」瑞枝はまた気ない風で言ったことで打通した瑞枝は、何やら自分でも薄痒い気持を感じなが がはっえの胸には失敗ったという小さい叫び声を出させるら言った。「そういう時期には一等注意することは、男な すきま ので、男がそんな隙間に突然遣って来るものだわ。」 程であった。 うかっ はっえは何にも知っていない迂濶な瑞枝の言葉を宜いあ 「用事もないのに考えごとをしてお庭に出るのは悪いわ。」 ほんとら・ んばいだと思った。「わたし本統に気を付けますわ。」 図はっえは又ばっと勢好く赧くなった。「そうか知ら ? のこれから気を付けますわ。」そういえば最近庭を擢きに出「何でも変ったことがおこったら、わたしに相談なさると いわ。黙っていると間違いというものは起りやすいもの 女る機会が多かった。もっと極端にいえば武彦のいる離れの そうとう 方の用事を自分から進んでするようになっていた。それよよ。」瑞枝は相当自信ありげな、そして新しい興味と好意 たいてい りもっとはっえ自身に気のついたことは武彦の眼にちらりとを交えて、大抵のことは知っていて、知らないふうをし と触れ、武彦の徴笑にこたえるための一瞬の間、嫣然と笑ているはっえを諭していた。 その

2. 現代日本の文学14:室生犀星 集

ゆく時間が早い筈であるのに、きようの日は永く、しよせ った。あなたがお許しくだされることもお父上がとうに、 しおん ごそんじの轡ですと兼家はい 0 た。そして紫苑がや 0 と返ん、唏きすす 0 ているとしか思われない私でございます わず ふる と、返しの歌をおくった。「思うこと大井の川のタぐれは したことばはただ、顫えるばかりの僅かなしぐさだった。 おび 紫苑は自分のちいさい事、怯えてなにもいえない自身がこ心にもあらず泣かれこそすれ」 三日めの朝、 うも弱よわしいものであることを、恐ろしく思った。 夜明けのさえざえした表通りを往くのにも、心が一杯 夜が明けきらない前に、兼家は去った。 紫苑はやっと、かりそめになされたことではございますで、道の土さえ動いてみえるほど、夢中であったと、兼家 まいと言い、兼家はいのちに代えても、かるはずみではなは書いた。「しののめにおきける空は思ほえであやしく露 いと誓い言をふくめて言った。明け方の鋭い空の切れ方と消え返りつる」ーーーあなたとお別れするということは、 が、庭一杯にみなぎり、あまりに変りはてた景色の異様な次ぎにまたお逢いできるという結びを与えられるようです したた はず 美しさに、紫苑はみぶるいをし、肌を透く明りを羞かしいと、兼家は婚意を固めた人をいたわって認めた。 とも、つらいとも、 しいようもなかった。 紫苑の返歌、 あなたは置く露にも消えたいお心でいられますが、私は 紫苑は引きこもって誰にも、顔を見られたくなかった。 身の重さ、心のうっとうしさ、はじめてふだん見なれた比どのようにお答えしてよいのでございましようか。その置 おだや 叡の山々が事もなく知らぬ顔をしているのが、あまりに穏く露よりも、もっと、あてに出来ないような私ですもの、 もろもろ し、少しのかあてのない方をあてにして往く私は、どのようにしてずつ かすぎて見えた。山といい、諸々の風景と、 かか かわりのないありさまで居るのは、紫苑自身が一夜で変っと先、お目に懸れることやら、それを思うことはなかなか かな しま て了ったことに原因があると気づいて、ようやくそれが不の哀しみに思われます。「定めなく消え返りつる露よりも そら頼めするわれは何なりー 快な反景になって来た。 * きぬぎぬ いつの間にか紫苑の上と呼ばれるようになっていた彼女 兼家から後朝の歌には、今日の日の暮までの永い事、世 をかけての思いになみだもとどめることは出来ないと言っは、すこしずつ深く、兼家にかたむき、七月にはもうその むしばうぜん * あふさか てきた。紫苑はそれをただ寧ろ茫然として見つめ、あわれ結婚が成り立っていた。「越えわぶる逢坂よりも音に聞く * なこそ にも、この今日の如何様にしても昏れるに永くかかること勿来を難き関と知らなむ」ーーと、婚意を断った紫苑であ を、もろともに知った。そして物思いというものが消してったが、門前に兼家の供そろいを今はただ待っ身の、かそ

3. 現代日本の文学14:室生犀星 集

未来や過去を考えるよりも、目の前の女性をたのしみたか重しく叫ばれるような、慌しく非常に寂しい気をおこさ かま ったのだ。私は表のしていたことが、表の死後、なおそのせるのであった。父は茶室にこもりはじめた。しずかな釜 ふすまご 儀牲者の魂をいじめ苦しめていることを考えると、人は死鳴りが襖越しに私の室までったわって来た。「お父さんは しよくぎい によってもなおそそぎつくせない贖罪のあるものだというまたお茶だな。」と思いながら私は障子をしめた。梅が香 にお ことを感じた。本人はそれでいいだろう。しかし後に残っの匂いがどの室で焚かれているのか、ゆるく、遠くただよ たものの苦しみはどうなるのだろうと、私は表の生涯の短うてきた。 しつく いだけ、それほど長い生涯の人の生活だけを短い間に仕尽私は夕方からひっそりと寺をぬけて出て、びとりで或る くるわまち して行ったような運命の猾るさをかんじた。 神社の裏手から、廓町の方へ出て行った。廓町の道路には 、ぬあんどん 「このごろ死ぬような気がしてしようがないんですの。」 霰がつもって、上品な絹行燈のともしびがあちこちになら こうし 「あんまりいろいろなことを考えないようにした方がいし んで、べに塗の格子の家がつづいた。私はそこを小さく、 人に見られないようにして行って、ある一軒の大きな家へ よ、つこ。 「でもわたし、ほんとにそんな気がしますの。」 ・をしー と、女のひとにありがちな、やさしい死のことを彼女も「先日は失礼しました。どうそお上りなすって下さいま 考えているらしかった。私はまたの日を約して別れた。 し。」 と、二階へ案内された。私はさきの晩、なりの高い女を よ 招んだ。私はただ、すきなだけ女を見ておればだんだん平 十一月になって、ある日、どっと寒さが日暮れ近くにし常の餓えがちなものを埋めるような気がした。 頃たかと思うと、急に大つぶなカッキリした寒さを含んだ霰「金比羅さんの坊ちゃんでしたわね。いっかお目にかか 0 、ゆうさん めになって屋根の上の落葉をたたいた。その烈しい急霰の落たことのある方だと思っていたんですよ。」 眼ちょうは人の話し声もきこえないほどさかんであった。私と言って、小さい妹芸者を振りかえって笑った。私はい けいだい 性が書院の障子をあけて見ると、川の上におちるのや、庭のつも彼女を寺の境内で、そのすらりとした姿をみたときに おち葉をたたきながら刎ねかえる霰は、まるで純白の玉を逢って話したいと思っていて、こうしてやって来て、いっ 飛ばしたようであった。私は毎年この季節になると、ことも簡単に会えるのがうれしかった。 にこの霰を見ると幽遠な気がした。冬の一時のしらせが重「雨のふるのによく入らしったわね。」 0 あわただ

4. 現代日本の文学14:室生犀星 集

朱道が私の顔を見て笑って見せておいて、順道に囁くよ 1 、つに一一 = ロうと、 日あたりのよい庫裡の畑で、隠居が一人で黙って大根の 「わたしは庵主さんになりたいと思っているの。」 一一葉を選っては、たちのわるいのを静かに摘みながらいま あわせ 順道は子供らしくいう。 した。綿のあっく入れてある朝たを袷の上に着ながら然う 朱道はこんな話をしていながらも、私に近づき足りない した老人らしいたどたどしい仕事が、秋遅い日なたに永い ような懐こい目をして振りかえって見たりしていました。 間かがんだり、のび上ったりしていました。 私は一人松林の方へ歩いて行った。いろいろな枯れ草の 「お精が出ますね。」 こみら 間から、小さい・ハッタが降るように飛び出したりする小径私がいうと、 を、別れて行った善良な丹嶺のことを考えながら歩いて行「すこし大根を蒔きましたが、うまく出来ますか、どうで すか、選っていますじゃ。」 と言って、上気したようにぼっと皺のよった顔をすこし よく頭痛がすると言ったりしたことや、何ともいえない 悩ましい顔付をしていることを考えて、彼女もやはり若い赤らめて言いました。 みなぎ 女性としての内部のちからが、いつも撥ちきれるように漲「すこしお手伝いしましよう。」 むこかわうね っていたことなどを考え出して、一層淋しい別れたものの「恐れ入ります。じゃ向っ側の畝からやって貰いますか な。」 心をふりかえって見るような気がしてきました。 松林のなかは静かでした。一つ一つの針葉が海から吹く と言って、自分は手元から選り摘みをはじめて行きまし た。私はなるべく育ちのよい根の深いのを残して、あとは 風に鳴って、海鳴りをこもらしたように、林の奥からも、 また底からもするようでした。そうかと思うと、こんどはどんどん摘んでゆきました。この長閑な仕事のひまひま 空からもこおう、こおうと遠鳴りがするようにも思えましに、日光があたたかく体内ににじんで、かすかな汗さえう た。それらは実に幽遠な、人気のない清々した明るい気をかばせました。 おこさせました。私は松の根元に腰をおろして、砂畑のは私は隠居のしずかな手つきを眺めていて、ふと銭屋五兵 きびばたけ てだい ずれにそよぐ黍畑をながめていましたが、そのとき、朱道衛のことを考えました。五兵衛がまだ手代として木屋に住 が隣り村へかえるらしい急ぎ足でゆくのが見えました。 んでいたころ、毎晩のように砂丘を越え、暗い松林をぬけ しまだまげゅ いなかもの て会いに行った隣り村に、若い島田に結った田舎者らし なっ ささや のどか しわ

5. 現代日本の文学14:室生犀星 集

つくろ たくさん る人 ( 紫苑の上 ) はたまいていふ方なく悲しきに、」と記く、繕えないほどの沢山の想いをつみかさねて、とつぶり ともぞろ おうかん かなた した程に、父の供揃えのあとを永く往還の草深い彼方に見と暮れて行った。 送った。 ふみ 邸にはいると硯に巻きこまれた父の文を展いて、読み入正月、一一三日見えない日がつづいた間に、きようは見え った。「君をのみたのむ旅なる心には行く末遠く思ほゆるるかも知れないが、よその用事もあったので紫苑の上は歌 ゆくすえ かな」と、それは兼家に宛てた文であって娘はあなたばかをのこして外に出た。「行末のことも心にかかるけれど、 さえず うぐいす りを当にしなければならぬように、私は旅立っことになっ私は鶯のようにあちこち囀り歩いているのです。」と記 わず たと書かれ、父倫寧が僅かな出立の時間のあいだにも、兼して置いたが、兼家はそれに答えて、「あなたが鶯のよう おお 家に娘を頼んだ切なさが紫苑の上に雲のように蔽うて見えに浮気をしていても、その美しい声を聴いたら、私は何処 た。紫苑の上はその雲の中で悲しんでいると、兼家があた にでも尋ねていく。」と書かれていたが、その歌には私を だま なげ ふたと訪ねて来た、そして文を読むと、彼も嘆きの声をあお瞞しになる時もの、調子の宜さがうかがわれた。私は くせ げて一首の歌を示した。「われをのみたのむといへば行く殿が私の気を紛らわしたり、よそに外らしたりする癖を読 末の松のちぎりもきてこそはみめ」 ( 私の心は紫苑の上にみ取ることを、とうに覚えていたのだ。この私のいやらし いつもかかっているので、どうか永い間の二人を見ていてい気持を嫌う私は、つとめて物事を疑うまいとこころがけ 下さい ) ていたが、ここに突然私に恐ろしいことが、からだの上に だが、日が経って旅にいる父を想う自分に引きかえ、兼起りかかった。それは来る月も、私のからだに異常が起 ものう うちす 家にはわかりかねる父娘の関係が、そのまま打棄てられてり、悩みと、物憂さと、おびただしい嘔気が朝とタ方とに いるのが物悲しく、もどかしかった。 あった。自分の腹のあたりが光り出して来て、手をやると にん ひえい よかわさんろう の十一一月、比叡山の横川に参籠する用事が出来て、寒い雪ふくれてつるつるになっていた。仕えの女達に計ると、妊 しん ろのちらっくのに兼家は登って行った。文には誰も雪ふかぶ娠していることが判った。この驚きは、決して喜びとはな あお かと閉じこめられているのに、まして私は一人で心細く冷らなかった。私は蒼ざめてあの方にそのことを告げた。こ こお たい思いがするとあるので、紫苑の上は「氷った横川の水ういう事を平気でったえる私自身がたいへんに変っている の上に消える雪も、私ほどの物悲しさはいたしておりますことを、ここでも、あき足らずにつつましくない嫌いを感 まいに。」と返してやった。そしてこの年も言わば果敢なじた。あの方は喜んで様々な物を運び、自らも寄りそうて しる しる

6. 現代日本の文学14:室生犀星 集

210 おうよう えなかった。りきにしても赤座の応待があんまり鷹揚すぎ だから、そっと帰してしまった方がいいように思われた。 かえ このまま もんはあんたに逢いたくもなかろうから此儘引き取るのと、却って赤座自身が早くこの問題から考えをもぎ取 りたいとあせっていることさえ、察せられたのであった。 って貰いましよう。 赤座はこういうと仕事中だからと、もう立ち上って土間あの人もよほど善くなり物わかりがよくなったと、りきは ありがた に降りて行った。そしてもう一度小畑の方を見ると、赤座ちょっと有難い気持にさえなったのだ。手の早い赤座は話 は半分しょ・ほしょぼな顔つきになって、考えていることのの半分から殴ることしか考えなかった。殴ることがしゃべ 、きめ る十倍の利目があるということを、自然に一つの法則のよ 半分もいえないような声で言った。 うにしている赤座はりきにものを言うのに、少しの廻りく 小畑さん、もうこんなつみつくりは止めたほうがい どさがあるとすぐに殴ることしかしらなかった。りきは殴 いぜ、こんどはあんたの勝ちだったがね。 こわ られ通しだったがそれの数がすくなくなり、殴られると怖 赤座は自分で言った言葉にすっかり参った気持になり、 いそという感覚がりきの頭にかげをひそめてから、だいぶ いそいで土手の上にあが 0 て行「た。晴れつづきの飃、 うれ 真白に光っているところと、雑草にヘり取られた磧の隔れ年月が経っていた。小畑にそうしなかったのがりきには嬉 隔れになったところと、さらにべっとりと湿った洲の美ししく、小畑は憎み足りなかったけれど何の考えもなくやっ こうまう あめ 、飴いろの肌をひろげたところと、それらの広とした景たことを、りきは、もんも悪いし小畑もわるいと考えてい はや 色は光った部分から先に眼にはいって行き、迅い流れをつた。その考えの底を掻ッさらってみるとどうにかした縁の ちょう づる七杯の仕事船が蝶の羽のように白く見えた。もんも伊まわりあわせで、もんと小畑とが一緒になれないものかと 之も、そしてさんもみんな舟仕事のあがりで育てられた。そんなことも考えてみたが、もんはもうじだらくな、誰も やさ とりつきようのない女になっていたから小畑にそのことを もんや、さんの生れがけの時分はりきは若くて先の優しい ひか とがりを持った乳ぶさを持っていて、弁当のときにはその説くにも、小畑があんまり温和しすぎるので控えられた。 から 空をもってかえるまで乳ぶさをふくませ、摘んで食える茎りきは小畑を愛したもんの気持がだんだんわかって来るよ を抜いていたりしていたのも、そんなに遠いこととは思えうな気がし、小畑がかえって行くのが惜しいような気がし なかった。だのに娘はこどもを生み落すようになりその男た。 どな こんど宿さがりをして来ましたら、あなたがおたず と対き合っても正直に怒鳴る気さえ起らなかったのは、よ ほど赤座の心がこういう問題に弱りを見せているとしか思ね下すったことをもんにそう言いつけます。 おとな

7. 現代日本の文学14:室生犀星 集

ばくぜん さがしに行き電燈をつけたものにちがいなかった。五人の漠然たる状態をつづけていた。 はず 女学生はみな白いマスクを一等さきに外し、オー・ハのポケ 五人の女学生だちはめだたぬほどにすすり上げていて、 まぶた ットにはさみ込むと、そのままオー・ ( を脱いだ。それから臉がふくらんで異様に傷ついたような美しさを見せて えり 襟もとをなおしほんのしばらく制服のまま、何やら身じま た。あまり長居することが悲しさあまって、むしろ居苦し ようしん いをしていたが、いかにも恭慎の思いがこめられた感じで いふうであった。長居させてはいかぬような気がし、甚吉 あった。 はさっきから考えていたことを隣にいる君子にそっと告げ 山ちんは花の模様のあるふとんを着て、ほんの人間の形た。 だけをあらわした程度で、平ったくなり、いたいけに寝か「礼儀としてもう一遍山ちんの顔を見せてもらうか、それ されてあった。顔には白い布がかけられ、これが夏の日にとも、見ないでこのまま帰るか、皆さんに聞いてくれ。」 あと あかしかいじんの歌のことをいった山ちんとは、あまりに甚吉がっき添うていながら後で顔も見なかったといわれ 早く変ったものであった。例の甚吉のおくりものの天神様るのも、甚吉の手落のようなものだった。といっていきな かんむり は、枕もとから近くの台の上に、冠を正してそなえてあつり死顔を見てから、あとに頭にのこり少女の心をいたみや た。女学生だちは一人ずつお焼香をし、一人ずつが永いこすくするのも、大人気ない遣り方だった。そこで君子は、 とかかって黙のようなことをして、さがって行った。全とこにそのことを告げると、とこはくり子にそれをつた 体の感じは明るくて、そこに人の死があるとは思えなかっ え、くり子はせのちんにあなた山ちんの顔見る ? 見ない こ 0 でかえる ? どう ? というふうに次々に顔と顔とを一応 くちびる 「夏はたいへんにお世話になりました。」 よせあい、低い聞きとりにくい唇のさきでいい合うのだ お母さんが出てそういい、甚吉は惜しいことをしました った。しかも、それだけのことで皆の顔は緊張してかたく ものお と言った。 なって行った。物怖じと、気の毒さとで、彼女らは死んだ もら こわ 「この子は一度捨子にして親戚の者にひろって貰って、入親友の顔を見ないのも悪いし、見るのは怖いし、どうして いやら何か迷っているふうだった。甚吉は一そだまって 蝶籍して育てたほど大事をとっていたんですが、とられると きはどうにも致し方がございません。」 居ればよかったとも考えた。 お父さんはこれのさきの子もとられたと言われたが、甚「見なくとも悪いことはないのだよ、皆にそうお言い。」 吉は言葉すくなく、何を考えるともなくこういう時にする甚吉は君子にそう注意し、君子はそれを皆にったえた。

8. 現代日本の文学14:室生犀星 集

らようだい まる代ものじゃないと、自分で調子づいて毒舌の小歇みも大概にして頂戴、兄さんにたべさしてもらっているんじゃ っこりし なかった。りきが止めると又カッとなってお母あもお母ああるまいし、何かのくせにぶりぶりして突っかかナ じゃないか、こんなしたたか者を生みつけておいていまさて、あんまりひどいわ。お腹の方のかたがついたらあたし つぐな らおれのロをふさごうなんて、女らしくもないことさ、妹や費用はどんなことをしたって償うつもりです。それを機 かわい のさんのことをおもうとおらさんが可哀そうなくらいさ、会にもういっさい母さん父さんに心配はかけないわ。だか 伊之は末の妹のさんが気まじめに奉公先にいて時々祕ら、わたしのからだに傷がついたのをきっかけに、あたし もの 物なそみやげに持ってかえることを、ほめていうのであつのからだをあたしが貰い切ってどんなにしようが誰からも た。さんの話が出るとみんな黙ってさんのことを考えてい何にもいわれないつもりよ、父さんだって言ってたわよ、 おとな た。あんな温和しい子供もいるのに、伊之よ、お前のようお前はお前でかたをつけろ、そんな娘のつらあ見るのも冊 に仕事もしないで朝から父さんの米さ食べてがんがん言っだと言っていたわ。だから兄さんからそんな兄さんづらを ている人もいるんだ、怒っていいときとわるい時とがあされたって頭痛がするばかりで何にもこたえないわ。外の しゅび る、いまは、もんをとッつかまえて怒るときではないのだ女の首尾が悪いからってそんな胆ッ玉のちいさいことで喚 もの、怒ってよかったら父ッさんに怒ってもらえばいいのき立てると、一そう女に好かれないものさ。 だ、父さんはだまっていなさるのだもの、皆もだまっても赤座はこういうごちやごちゃした一家のなかでむんずり んをしずかにしてやらんならんじゃないかとりきは持前のと暮らしていたあの時分の弱った気持を考えると、眼のま はなた 声のやさしい割に人の頭にくい込むような一 = ロ葉づかいでたえにかしこまっている涕を垂らしそうな青書生が、娘の対 しなめるのであった。もんはもんで寝床のなかで頭痛で顔手とは思えない気もしていた。りきが手荒なことをしてく をしかめながら、兄さんだってあひると同じで生み放しにれるなと言ったが、だんだんそんな気がしないでこいつも もら うしておいて母さんにあと口を何時もふいて貰ってばかりい可哀そうなどこかの小せがれだと思わずにいられなかっ , も るじゃないか。裏の戸口まで女を引きずり込んでいてとう た。その反対に帰りに土手の上におびき出して思うさまこ とう父さんに見つかったのを、あたしがふらりと出てやつん畜生を張り倒し、娘の一生をめちゃくちゃにしたつぐな あ かくま てさ、そとの女の姿を匿ってあげたときあ、暗いところで いをしてやろうかとも考えて見たが、青書生を対手にして とし ℃い歳をしてそんな手荒なことが出来るものではなかっ 8 手を合せてお礼をいったくせに、こんな弱っているあたし まんざら を犬の仔かなにかのように服さえあれば汚ないもの扱いもた。赤ん坊は死んでいるし娘も満更でなかった小畑のこと しろ こや かかり わめ

9. 現代日本の文学14:室生犀星 集

の高鳴きをするように、そのしい笑い声をあたりに吹きな 0 て見えた。 ( ナは期うまでにはっえをかばう伴の気持 てさぐ てんとう 飛ばすのであった。伴の驚きは伴の心を顛倒させて了いちの奥底を、あれか、これかと手捜りで考え当てながら、血 くや よっと自分でもどう考えを言い表わすべきかを失いかけたのにじむまで前歯で舌の先を噛みしめ逆上的に口惜しがっ 程であった。 あらた 「うぬはそれを本気でやる気か、更めてそれから聞こう。」 第三章再び輝かしい一瞬 「本気でやるともさ ! こんなに半殺しにされて意趣返し をせずに居られると思うのか。」 伴の女房である元の女のハナは、朝のうちにはっえ あぶら 伴はもとの伴であった。脂じみた顔には何も彼も叩き毀を連れ出して白木屋に行くと、はっえに安価な懐中鏡や腰 れいこく ひも されて了った悪渡世人の毒々しい冷酷さが、さっと殺気め紐や特価品の手袋なそを購って与え、日あたりの好い休 じんじよう こうふんは いた昻奮を刷き上げると尋常でない堅い決心をして了っ室に這って行った。そこには質の善くない一瞥それと分 ひく た。それは ( ナが若い時から見なれたどん詰りの伴の装うる黒い眼鏡をかけた背丈の矮い男と、五十がらみの肥った たびたび 表情であった。 ( ナは度々千九百十年代の若い伴の魂とい下司彊 0 た顔の懐中の好さそうな男とが待ち設けてい しやペ うのか、根性骨といったらいいのか、そういう残忍たらし て、直ぐ何かべちゃくちゃ喋り始めた。はっえはこれらの い顔つきになることは何時も恐ろしい結果を見ずにはいら男が何の必要あって待ち設けていたかということを、とう いや れなかったからである。 に読み取っていた。はっえはこの肥った男がすぐに厭にな あらた 「更めてお尋ねするがね、いったい、そんなにはっえの身って興ざめて了ったが、結局飯をたべに行くことになり食 、げん をかばう必要が何処にあるの。わたしはそれが気になるの傷新道のとある二階家に上って行った。肥った上機嫌の男 はハナの機嫌を取り入って時々取って付けたように、はっ 図「おれも命がけであの子をかばって遣る。おれは今日ではえにも取り入るようにした。はっえは此の肥った男が自分 こわ の善い人間で生きていたいのだそ。それをそばから叩き毀すを好きになっているらしいのを感じると、一層この男が厭 まっさかさまお らしくなって了った。ただでさえ苦み走ったはっえの顔は ひときわ 女と地獄まで真逆様に堕ちてゆくようなものだ。」 伴の宗八は癇癪と自糞とそして覆うべからざる悲町の一際苦みを加えて行き、それが何ともいえない上品な純潔 のど しわ しやこ 情を交えて、その顔は蝦蛄のようにくしやくしゃな皺だらめいた気持を肥 0 た男の喉から下一杯に感じさせた。黒眼 けになり、色はことごとく酷い苛立ちに却って蒼白くさえ鏡をかけた男は何時の間にか眼鏡を取って畳の上に置い 0 っ か よそお こわ たら こ いちべっ

10. 現代日本の文学14:室生犀星 集

うれ にぎ が出来なかった。時々、思い出さないでもなかったが、たどではないが、 こうして居られるならば、何か嬉しい賑や った今、突然に現われた余りに意外な人物に就いて、は かな気持でもあった。 しりよひるがえ いとま オしカうんと一言いたま っえは何等の思慮を翻す遑もないくらい、心が混淆して「考えるも考えないもないじゃよ、、。 いた。しかも、はっえはあの時分よりもっと菊橋の前で物え。」菊橋はずけずけ言ってあのころとまるで違うはっえ ねうち が言えないほど、おどおどしさが殖えてゆくことを感じの、先ずどれだけ低く踏んでも令嬢どころの値打のある顔 こ 0 を見入った。「僕はぐずぐずしたことが嫌いなんだ。きみ 「僕はこのごろでは或る会社に勤めているんだが、ぎみさがいやだと言えばかえるばかりなんだ。」 おっしゃ むし 「まあ、そんなに急なことを仰有らないものよ。おことわ え来てくれれば正式に結婚してもいいんだよ、僕は寧ろ、 しか いや 結婚した方がいいと考えるんだ。併しきみが厭なら仕方がりした訳ではございませんもの。」はっえのその時の眼色 ほおふ なまあたた ないけれど、 菊橋は生温かい息をはっえの頬に触れには、 かなり弱った身うごきのできない、参った気持が悲 こごえ とら・とっ かかわ 、わ させて、この唐突な申出にも拘らず極めて平気で一層低声しそうに打震えていた。「一一三日考えさせて頂戴 ! だっ かせ になった。コ一人で食べられるだけは稼げるんだから、はて今から十分前にも考えなかったことなんですもの。そん なに帰るなんて仰有らないで下さい。」 じめは部屋借りをしてもいいじゃないか。きみが勤めてい るところに僕がたずねて行ったりして、きみに迷惑をかけ「僕は永い間きみを捜していたことも実際なんだ。つまり あいび、 るより一緒になった方が宜いと考えるんだ。苦しい逢曳な僕は自分の職業を見付けるために二年間あがいていたの ぞは冗らない気苦労をするばかりさ。」 「それもそうね。」はっえは自分でも思いがけない返事を併しはっえは何時かの晩、菊橋から待ち呆けを食わさ あわ して、気が付いて慌てて打ち消した。「でも、わたし考えれ、二週間も引きつづいてガード横の空地に通うて行った 図させていただきますわ。お屋敷からいきなりお暇をいただ ことも、菊橋にして遣られたことを疑わなかった。その同 うそ のく訳にもゆきませんの。菊橋さんもその気ならもっと考えじ菊橋が嘘をついているのだ。その嘘をだまって聞いてい 女てからでも、遅くはございませんわ。」眺めたところ菊橋る気持に甘苦いものがあって、それは快い男の暴力に身を まか は新しい合着に派手な襟飾をして、左の指に不思議な挙闘委しているような気持でもあった。 ゅびわ 家が篏めるような、金貨のような指環をはめてすっきりし「きみはあれから男から男の手をどうどう廻りをしていた た青年紳士になっていた。はっえはあの頃夢中になったほのかね。」 っ こんこう めぐ