うぶげはくとう た幾子の頬の初毛が白桃のように爽々しかった。節子はふ節子は居ずまいを正した途端に、一つ隔いて隣りの室か ししゅう とこの次ぎの刺繼は幾子のその頬に似た白桃にしたいと思ら賑やかな男女の笑声が聞えて来た。今日は日曜なのでそ の部屋の多美子の所へ男の学生が遊びに来たのであろう。 、思わず手をさし延べて幾子の頬を撫でてみた。 らよっと 多美子はアメリカ育ちのうえに、母が他の男と失踪したほ 「御免なさい。一寸。」 どの家庭の娘のせいか、寄宿舎の中では目立って品行が乱 「何に ? まっげ と振り向く幾子の瞼毛の光沢の中から嫣然として徴笑がれていた。そのも一つ向うの室の寄宿生は、京橋のある大 きな呉服問屋の美しい主婦だのに、主人が養子なので、気 湧きこ・ほれた。 「どうしてあなたはこんなに美しい人なんでしよう。お花儘に別居してここの洋裁学校へ生徒となって来ているのだ った。またその向うのものは地方の物持ちの娘だったが、 よりずっとあなたの方が美しいわ。あたしは人間派よ。」 いいなずけ 「不幸ね、そんな人。」 許婿の男を嫌って東京へ出て来ていた。節子はそれらの人 「そうかしら。お花なんかすぐ散ってしまってよ、つまら人の話を幾子にしてから後、それなら自分はとふと考える ないわ。」 と、不思議にも自分は、眼の前にいる幾子の兄の中森との 「それだから美しいんだわ。あたしは超現実派なんですも結婚を嫌って、東京へ逃げて来ているようなものだった。 「ここは花嫁学校とは違って、花嫁逃亡学校なの。あなた 「まア、うまいこと仰言ること。あたしね、この間から考もここへ入学なさるもんよ。資格は大ありだわ。」 えてるんだけど、生活の目的あたし刺繍に定めたの。一生節子は笑いながら幾子を見ると、定めし面白がるだろう うか あか を一針一針やるんですのよ。あなたのことなんか頭に泛んと思った幾子は急に口をつぼめたままだんだん顔を赧ら ずで来たら、針であなたを潰してしまうの、楽しみだわ。」 め、もじもじしていてから、 幾子はびしやりと節子の手を撃った。その手をまた節子「入ろうかしら、あたしも。」と小声で言った。 は撃ち返す。小猫のような午後の日の無邪気の遊びも、節「お入りなさいよ。」 「でもね、兄さんこのごろ、あたしに矢部さんと結婚しな 寒子には刺されるような生ま生ましいたわむれに思われるの であった。 いかって言うんですのよ。だけど、そんなことしたら、節 おとな ごらそう しか 「さア、音無しくしましよう。何を今日は御馳走したらい子さんに叱られると思ったし、そうでなくても、あたしな いかしら。」 んか、あんな難しいことばかし言う人の奥さんにはなれな すがすが えんぜん にぎ
かっている中で、またしても矢部と中森とのいきさつが胸 に描かれて来るのであった。 節子は風の吹きつける街の中を歩いて来て髪は乱れ、寒 かかわ 何とも言えず持ちきれぬ物を背負った感じにも拘らず、さの髄にしみ透った身体で喫茶店へった。もう彼女は 節子はそれらとは縁遠い気持で矢部の手紙をつと机の上へ へとへとに疲れたようであったが、苦業をして来た後のよ おろか さわ 投げ出した。こんな愚なことがどうして自分に関係があるうに心はとみに爽やかだった。来る道で幾子に電話をして のだろう。 しかし、その手紙は再び文面の矢部の困難あったので、彼女の来るまでには二十分とはかからぬにち な立場に節子を引き摺り込んでいき始めた。 、よ、。節子は矢部の手紙の趣意を幾子に話し、もし幾 節子は悠々としながらどこかで一脈周章てふためく自分子に矢部と結婚する意志があるなら、そのまま矢部にも話 を感じた。しかし、絶えず細かく霧のように心の流れてやそうと思って待っていた。 まぬ一瞬のうちにも、しだいに明確な想念が形をとって胸しばらくたって、幾子は黄色な毛糸のショールを首に巻 中に現れて来るのであった。 きつけ、ドアを開けて這入って来た。彼女は節子を未だ見 「この人はあたしに結婚の問題がないとでも言うのだろう ないさきから、 か。あたしだって、毎日毎日それがあるのを知らぬのだろ「たいへんだわ。出て来るとき兄がいましたのよ。だもん うか。」 だから自分も行くって言ってきかないんですの。」 節子はこう思うといら立たしくまた矢部の手紙を畳の上こう言いつつ初めて節子を見ると、 へ突き飛ばした。そして、さっそく矢部にあてて手紙を書「あら、あなたのそのお羽織よく似合うこと。どこでお買 き始めた。 けれども、手紙は書くほどに自分の結婚の いになったの。」 ろうばい そで せ問題ばかりに触れていくのだった。節子は少なからず狼狽と袖をつまんで間近く白抜きの鶴の模様を眺め始めた。 なめら うぶげ 熟している自分の頭を感じる度に、書いた手紙を引き裂 いアートペーパのような滑かな首筋に生えた初毛をふと節子 は見ると、手に触る幾子の冷たい指先から、そくぞくと背 とり・はだ 何と落ちつきのないことだろう。こんな自分が本当なすじを貫いて鳥肌立っ寒さを感じた。 実 たたつぶ ら、叩き潰してしまうが良い。 「お話したいことがありましたのよ。だけど、何と言った 節子は古い桶から飛び出るように部屋から出て街の方へらいいでしよう。あなたを見ると何も言うこと出来ない 出かけていった。 ゅうゆう つる
人と、やはり日本のこのごろの女のかたの考え方と、よほ中森は一人残されていた今までの不安をようやく顔色に ど違っているものだとお思いになりまして ? 現し、いつものように、青ざめた浅黒い顔を平然とさせ、 と節子は訊ねた。 鼻を鳴らせて節子の方を見ようともしなかった。それも見 「このごろの日本の婦人の考え方は、僕にはよく分らないず知らずの旅の者の木谷や矢部への手前もあって、煙草を んですが、だんだん各国の婦人の気持と、何となく、似通さも美味そうに吹かせてはいるものの、だんだん煙を吹き って来たように思われますね。時代というものは恐ろしい出す量も激しくなった。 もんだと思いますよ。イギリス人も、フランス人も、ある節子の父は中森と話し疲れたのであろうか居眠りをしつ 点、殊に結婚のことになると、近代人はみな似ていますづけてばかりいた。一の関も過ぎ、宮城野の平野にかかっ ね。先ず結婚を申込むのは男の方からで、女の方は申込むたころ、木谷や矢部は棚から荷物を降ろして散っている座 かばん けんたい 資格がない代りに、拒絶する資格があるのです。どんなに席の物を鞄の中へ入れ始めた。誰も黙っている倦怠した空 堅い約束をしても、拒絶出来得られるんですが、男は申込気の中で、節子はじっとしたまま、一条の淋しさの胸中を んだ以上は、どんなことがあっても拒絶出来ないんです風のように通るのを感じつつ、中森と視線の会うのを避け よ。ですから、これは男の方が何と言っても損な立場にい て眼を瞑っていたが、その間にも、ときどき木谷と矢部と ると言わなければなりませんね。けれども、日本はむしろの会話が聞えて来ると、節子の耳はその周囲の徴動をさえ 反対でしよう。」 しつかりと感じようとして、半身が傾きかかろうとするの 中森とのことを見抜いて言ったと思われるように、偶然だった。何となくあわただしい刻々が静な中にも、重量を ねら 狙いのあたって来た矢部の話に節子は渦巻いている黄色な 加えて来た。車中の動揺が一段と強まって来ると、レール しん 薔薇の心を見詰めつつふッと笑いが洩れて来た。そのとき、の数が増し襲って駅の構内が近よって来た。汽車が停った したく とき、 「もう一の関だよ。そろそろ降りる仕度をしようじゃない 「じゃ、さようなら。」と矢部が皆に言った。 と木谷は矢部を促した。皆は同時に窓から外を見て立ち「御機嫌よろしゅう。」 上った。節子の話したいことはこれからだったが、心の通と木谷は美しい眼に徴笑を浮べて節子に言った。節子と えしやく う糸口を断ち切られる思いで車室へ引き上げると、また父 ~ 敏子は立って会釈をしている間に、もう一一人はさっさと降 や中森と物憂い対座を続けなければならなかった。 りて行って、何の名残もなく構内の人波の中に消えてしま つむ たな
こう言われて一同忘れ物を思い出したように顔を見合せした。 て軽く笑った。 「写真機どう。黒くなって ? 」 けねん かかわ 「写真機はいいけれども、危くないのかね。足がずるずる敏子の懸念にも拘らず、節子はまた一枚を撮ろうとして すべ 辷り込むというが。」と客の一人が訊ねた。 流れを見下ろしたとき、はるかに下の方から節子の位置に 「いや、足あとのついてるところを歩いていらっしゃれレンズを向けている木谷の機械の金具が強く光って来た。 ば、大丈夫です。」 「いやだわ。あの人。」 「おい、木谷、君の写真機は新しいから、大事にしないと節子はくるりと背を木谷のレンズに向けて言った。 真黒になるよ。」 「どうしたの。」 木谷と呼ばれた例の青年は黙って一行の真先に谷へ降り「あたしたち撮られてよ。」 た。続いて皆は坂を下って地獄谷へ降りていったが、見た「さっきももう一人の方が撮っていてよ。あたし、知って みち こともない不思議な地獄を渡る途づれであったから、誰もたけれど黙っていたの。」 友情にへだてのなくなった快活さで、互に危い足の踏み場節子は一瞬不快になったが、遠方からの撮影では特に礼 よっとう を注意し合って歩いた。谷の中は沸騰している火汁のよう儀に反しているとも思えなく、むしろ木谷の好意であろう うす などろどろした液体がいたる所から噴き上り、それが渦をと思うと、ともあれ自然な姿に写っている自分を願う気持 巻いて岩にあたり、煙を立てて流れていた。岩は黒く焦げさえ起って来るのだった。 つつ窪みに硫黄を溜めているので、薄緑の苔かと見える。 「でも、仕方がないわね。こんなところじゃ。谷を写せば すご 「凄いわね。どこまで続いているんでしよ。」 きっと誰かが這入るんですもの。」 す節子は硫黄で黄色くなったじめじめした砂道を、敏子と節子は木谷の代りに弁解してやった形になった自分の言 熟一緒に岩に廻り、湯の小川を飛び跨ぎして歩いた。木谷とい方が、何か自分の心を写し出しているのではないかとふ ま言う青年は道を曲る度に写真機を渦に向けているので、真と考えたが、引き裂かれたような岩の割目に垂れ下ってい たらま かる硫黄の美しさが眼に映ると、カメラは無心にすぐまたそ 先に歩いていたのも忽ち一行から遅れて後になった。し し一人が写真を撮り始めると、誰もがまた自分の写す場面こに向いた。 を探す気になり、一行の前後が絶えず乱れて進んだ。節子谷間に硫黄の強い匂いのする煙が立ち籠ったと見る間 に、逆に岩に向って吹き靡き、あたりをぼッと曇らせつ も敏子を立たせてはカメラを向けたり、自分が撮られたり また にお
然ではなかった。それにしても、この少年が祖国の危急を いになるかもしれないね。」 梶はそう言う自分が栖方を狂人と思って話しているのか救う唯一の人物だとは、ーー・・実際、今さし迫って来ている どうか、それがどうにも分らなかった。すべて真実だと思戦局を有利に導くものがありとすれば、栖方の武器以外に こと 0 と ありそうに思えないときだった。しかし、それにしてもこ えば真実であった。嘘だと思えばまた尽く嘘に見えた。 そして、この怪しむべきことが何の怪しむべきことでもなの栖方がーー幾度も感じた疑問がまた一寸梶に起ったが、 。さつばりしたこの場のただ一つの真実だった。排中律何に一つ梶は栖方の言う事件の事実を見たわけではない のまっただ中に泛んだ、ただ一つの直感の真実は、こうしまた調べる方法とてもない夢だ。彼のいう水交社への出入 ていま梶に見事な実例を示してくれていて、「さア、どうも栖方一人の夢かどうか、ふと梶はこのとき身を起す気持 だ、どうだ。返答しろ。」と梶に迫って来ているようなもちになった。 かかわ のだった。それにも拘らず、まだ梶は黙っているのであ「君という人は不思議な人だな、初めに君の来たときに あしおと る。「見たままのことさ、おれは微笑を信じるだけだ。」は、何んだか跫音が普通の客とどこか違っていたように思 」と梶は呟くように言った。 と、こう梶は不精に答えてみたものの、何ものにか、巧みったんだが。 ほんろう 「あ、あのとき、おれ、駅からお宅の玄関まで足数を計っ に転がされころころ翻弄されているのも同様だった。 ごちそう 「今日お伺いしたのは、一度御馳走したいのですよ。一緒て来たのですよ。六百五十一一歩。」栖方はすぐ答えた。 なぞ なるほど、彼の正確な足音の謎はそれで分った、と梶は にこれから行ってくれませんか。自動車を渋谷の駅に待た 思った。梶は栖方の故郷を県のみを知っていて、その県 せてあるのです。」と栖方は言った。 「今ごろ御馳走を食べさすようなところ、あるんですか。」のどこかは知らなかったが、初め来たとき梶は栖方に、君 あったね の生家の近くに平田篤胤の生家がありそうな気がするが、 「水交社です。」 「なるほど、君は海軍だったんですね。」と、梶は、今日と一言訊くと、このときも「百メータ、」と明瞭にすぐ答 えた。また、海軍との関係の成立した日の腹痛の翌日、新 は学生服ではない栖方の開襟服の肩章を見て笑った。 徴「今日はおれ、大尉の肩章をつけてるけれど、本当はもう飛行機の性能実験をやらされたとき、栖方は、垂直に落下 少佐なんですよ。あまり若く見えるので、下げてるんでして来る機体の中で、そのときでなければ出来ない計算を 四度び繰り返した話もした。そして、尾翼に欠点のあるこ 少年に見える栖方のまだ肩章の星数を喜ぶ様子が、不自とを発見して、「よくなりますよ、あの飛行機は。」と言っ つぶや ちょっと
たでしよう。あたしはそうだったから、あなたもそうだと 自分は立ったままコン・ハクトを覗きながら、節子は、幾 は限らなくても、でも、自分からどんな子供が生れるもの子の鏡を覗き始めた様子をちらりと眺めて嬉しげにまた化 かしらと思った好奇心だけは、やはり前も今も変りはない粧をし直した。 と思うの。ですから、あなたとあたしと、あんなにどちら「あたし、もう考えないことにしたの。何もかも分らなく も気持よくお交際い出来たのに、一番あたしたちにとってなったんですもの。やはり、困ったときには一番好きなも 希望となっていたものを殺してしまわなくちゃ、あなたとのが、自分を救ってくれるんだわ。」 まぶ すおう あたしとのお交際いが出来ないなんて、恐ろしいことじゃ玄関を出るとき、庭の蘇芳の花を眩しげに見上げて幾子 ないかしら。 ね、どこかきっとこれは、一一人の間にもはほッと歎息をもらした。タクシを拾ってからでも、節子 は幾子の好きな花の多い場所を選んで車を走らせた。 ういけない感情が出来てる証拠だと思うわ。」 ほ。 0 ・ばた 幾子は眼を膝の上に落したまま、聴いているものやらど 二人は半蔵門から九段の方へ濠端へ出て車を降りたが、 うやら分らぬ悄れた眼を、ただばちばちさせているだけだもうそのあたりの桜は紅の蕚だけ残して散ってしまってい った。節子はもう理屈の通らぬ世界の中に坐ってしまってた。幾子は濠の水に白く一面に浮いている花弁を見おろし いる幾子の様子に、自分ひとりそこから脱け出していく身ながら、 軽さが、軽薄な感じとなって流れる苦しさを感じた。しか「あの花、あたしみたいだわ。」と呟いた。 し今自分がそのまま幾子と坐ってしまえばどちらも死ぬの「そんなあなたのような物の見方は、もう今日からよすこ だ。それは死ぬに定っている。節子は摺り落ちていく幾子とにしましようよ。もっといくらでも、自由な美しい考え を喰わえ羽ばたき上る親鳥のように、 方があるんですもの。あなたが下絵を描いたり選んだりし ししゅう 「さア、街へ行きましよう。それからお話しましようよ。 て下すって、それをあたしが刺繍するのよ。それを続けて ムよ、 昨日桜の花が吹雪みたいに散ってたけど、今日はどうかし いきましよう。あたしたち、お仕事を中心にしてお友達に ら。」 なった喜びを、どちらも続けていくべきじゃないかしら。」 と言って元気よく立ち上った。花のことを言われると初「そんなことあたしに出来ると思って。」と幾子は後ろの めて幾子は、そうだ、花だというように思わず窓を見た。 ・ヘンチに腰を降ろして言った。 「どうして ? だって、あなたとあたしとの間には、共通 節子は化粧箱を幾子の方へ押した。 ちょっと 「一寸お化粧なさらない。」 の思い出なんか少しもないんだし、あるのはあなたのお兄 しお つ、あ りくっ がく
「御免なさい。」 近所から木谷が食事をとったので、節子は彼と向き合い うつむ と不意に節子は言って俯向いた。涙が節子の眼から流れまだほの明るい間にタ食になった。お茶も節子が木谷に代 て来た。木谷はちらりと節子を見たがすぐ真向うの桜の丘って湧かそうとすると、彼はそれを節子にさせずに自分で ハンケチ に眼を上げて黙っていた。節子は手巾で眼を拭くと木谷とした。二人の食事中にも木谷は好んで食べ物の話をした。 すき 同じ丘を見た。およそ迷い込む隙あれば迷い入る煙のよう節子は木谷の専門の機械の話を聞きたいと思ったが、何ぜ に揺れ動いてやまなかった長い間の気持が、咲き連った花だか木谷はそれを避ける様子があった。 「幾子さんがいつだったか、木谷さんはモーターなんか外 の上にとまったままもう動こうとしなかった。 ちょっと 「ここは夕日が良いんですよ。夕日といえば、室蘭からこから一寸御覧になれば、中の特種な構造まですぐお分りに ちらへ帰るときの駒ヶ岳、覚えてらっしゃいますか。僕はなるんだとか、言ってらっしゃいましたわ。そんなこと、 たず 分るものなんですの。」と節子は訊ねた。 あのとぎの駒ヶ岳の夕日だけは、忘れられませんね。」 はにかみうか 「機械に触るのです。外から撫でてみるとよく分りますが 静かな含羞を泛・ヘ細かい光りを放っている木谷の眼は、 いずれ自分の傍へ節子の舞い戻って来ることを、初めからね。見ただけだと、ときどき誤算があります。」 こう言うときの木谷は物柔かな口調だったが、底に強い 知りつつ眺めていたように冷然としていた。 ああ、憎らしい、と節子は片膝の押し動こうとするのも自信が満ちていて、気遅れのした風は少しもなかった。 「でも、同じモーターでもそんなに特種なものが沢山ある やっと耐え、 ものでしようか。」 「ああ、あの駒ヶ岳ね。」 うなず 「それはあります。それぞれに性格の秘密というものが人 と頬笑みながら頷くのだった。 ず 丘の桜は夕日の最後の光りに燃えわたった。若草を包ん間にもあるように、機械にもありますね。それを造る人間 かえでがく だ楓の蕚の薄紅の爪の色も、草を踏む小鳥の指に似た鮮さが意識してその秘密を造ったのと、そうでなくて、自然に から まだった。節子は見ているうちに永らく巻ぎ絡むように浮ん生じたその機械だけの秘密もあります。」 だ矢部や中森の姿はまったく頭の中からかき消えて、あど「だけど、外国品と日本品とはよほど違うんでしようね。」 もちろん けない眼もとの幾子の顔だけただ一人追って来つつも、そ「勿論違います。同じ物を寸分違わず造っても、出来上り 昭れも最後の一ふりで今はば 0 たり切れてしまいそうに思わにはそれぞれの国民性の違いがかなりな程度に出ていま れた。 す。性能も一長一短で、どちらが良いか悪いかということ
病人の出血が激しくなって、男たちの脱いだ襦袢を崖の頂けるとばっちり音がしそうなほどになる。そしてようやく きで海に向って取り替えるやら背負う番を変えるやら、前次のものに変ってもらったとしても一人一町で八町目ごと のように気の毒がって激しく泣き出す病人の声と一緒にひにまた廻って来るのだから、休む間が知れているのだ。お ときわ一団のものが賑やかに立ち返ると、また食べ物の話まけに空腹は時間がたてばたつほど増して来て、それに従 が出る。そんなに食・ヘ物の話をしては食べたくなるばかりって背中の上の病人はそれだけ重くなっていくのだからや まんなか だからやめてくれと言うものがあると、いやもうせめて食りきれたものではない。すると、病人は真中に皆に挾まれ べ物の話でもしてくれなければ食べた気がしないと言うもていくのはいやだから真先にやってくれと無理を言い出し のがり、水でも良いから飲めないものかと言いながら傘た。それでは負われているものは捨てていかれる心配がな しずくな から滴り落ちる雨の滴を舐め出したり、小さな松の木でもくなるから気楽にはなるであろうが、反対に背負っていく あると松の葉をむしって食べながら歩いたり、まるで餓鬼ものは絶えず後から圧迫されて疲れることがはなはだしい そのままの姿となってしまって笑うにも笑えない。私も私のだ。私は皆のものも私が病人を連れ出して来たばっかり で着物はもう余すところなくびっしより濡れたうえに咽喉にこんなに苦しまされたのだと思うと、もう皆がどうする がからからになって来て、雨が吹きつけて来るとかえってことも出来なくなってへたばりそうになったら、私は病人 はず 傘から顔を脱して雨に向って口を開けたり松葉を噛んだりを海の中へ抛り込むか病人と一一人でそのままそこへ残って し続けた。それがまた八人の男が一巡病人を背負ってしま皆に先きへいってもらおうと考えた。 って私の番が廻ってくると、どんなに背中の上のものを女 しかし、皆のもののへたばりそうにしているのはもうい だと思おうとしたって、その空腹では歩く力だけでもやっ とのことだ。息切れがして来ると眼の前がもう・ほうっとかま現在のことなんだから、そんな考えを起したって無論な すんで来る。腕がしびれる。足がふらりふらりと中風のよんにもなりはしないのだ。もう一団の者は油汗を顔ににじ うに泳ぎ出す。すると舌を噛んだり頭を前の傘持ちにぶつませて青黒く、眼はぎろりと坐り出し、なま欠伸がひっ続 時つけたりし続ける。後ろで女が九十近くまで数えて来るこけて出始めると突如として奇声を発するものもあって、雨 でつば ろにはもう病人をそのままそこへどたりとり落したくな風に吹き折られるかのようにどっと突角った岩の上へ崩れ 第って来て、それを感づかせてはまた泣かれるからじっと我かけたりすると、病人はまた捨てていってくれと言って泣 慢をしているものの、終いには眼がひき吊ってしまって開き上げる。女たちは女たちでもう髪から着物からびしよび にぎ かさ あくび はさ
何ほどの身の光りとも思えないのであった。彼に言わせる梶がホールへ這って鉄砲穴の指定席へ腰を降したとき しようしよう やすな と、先ずそれが第一に蕭々とした無の境地にさ迷う気持は、もう「保名ーも「おはや与兵衛 , も終んで、休憩前の ざとう ちになって良いと言う。次には、彼の芸術観上からの見解「座頭」にかかろうとしているときであった。延寿太夫の として、老いて益々華やかに咲き返っていく此の七十の老十六夜のかかるのはその次の「梅の春」の、もう一つ次で 爺の芸風は、東洋としては様々の優れた芸術家のうちに、 ある。 こと 先ず延寿の大才をもって最とするというのである。殊に今梶は周囲にいつも顔だけよく合わす会員達が多いので、 だしもの * いぎよ 夜の出物は十六夜であった。 漂う鬢の匂いのかすかに立ち籠ったほの暗い中に坐ったま さぎり・ 夜になると、梶は大川から潮と一緒に湿って来る狭霧ま、あまり席から動かなかった。来ている会員達もここの あご に、剃り上げた顎のひやりとして、思わず秋の夜のいっと名取達が多いので、まるで道場へでも来ているようで地味 まれつめしばりか ららしがい はなしに深まるのを感じながら、暫く柳の下から下を歩い にしっとりと落ちついていて、稀に爪締の鹿の子や散貝の さつま よりゅうき て見た。ーー蚊飛白の薩摩に、捩結城の黒無地の羽織を着浮いたのも一人二人は混じっていても、総じていったいの こんけんじよう て、帽子はステットソンの中折、帯は紺献上の裏には納戸空気は黒っ・ほい。 せった の棒縞入りを締め、雪駄は長谷川のわざわざ裏金をとらせ梶の横にも有名な工学博士の名取がいて、静に幕の上る はなお まむし たのに、二重皮の花緒から少し蝮の出る結城の足袋と いのを待っていた。さて幕が上ると座頭が始まった。しか う、此の梶の寸分隙のない服装はいつも延寿を聞きにいくし、これは延寿の芸の引き立て役として価値があるので、 夜の、ひそかに水際を流す彼の好みである。 聴く方も一度はこれを辛抱して聴いておかねば本当の延寿 三越へ着くと、建物の中は真暗に静まり返っていて、昼の上手さが分らぬのだ。座頭が終み、休憩になると、みな 0 し力、 間騒ぎ廻った物品の山には白布が皚々と雪のように積って会員達は廊下へ流れ出した。梶も人々の後から廊下へ出 いた。梶はエレベーターで六階までいくと、もう張り廻した。すると、いつの間にか、自分の横に胸を早やませた奈 まんまく ちょっとくらびる た紅白の幔幕の中に立っていた。 奈江が一人立っていた。梶は一寸唇を動かしたが、その 寝すると、彼は胸が次第に洩れて来る三味の音に圧迫されままただ黙っていると、 て、今夜はこれはもしかしたら十六夜のように死ぬ決心を「いついらしって ? 」と奈奈江が訊いた。 するために出て来たのではないかと、だんだんそんな不安「今さき、おはやの後だ。」 が強くなった。 「そう。ーー・昨日来て下すったんですってね。」 ばうじま かがすり しやみ なんど ろう びんにお おろ