主人 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 15 横光利一集
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1. 現代日本の文学 15 横光利一集

もどうかして主人のためになるようにとそればかりがそれてくれないかと言うのである。私はいかに主人がお人好し 1 からの不思議に私の興味の中心になって来た。家にいてもだからと言ってそんな重大なことを他人に洩して良いもの ことごと 家の中の動きや物品が尽く私の整理を待たねばならぬかであろうかどうかと思いながらも、全く私が根から信用さ うつ のように映り出して来て軽部までがまるで私の家来のようれたことに対しては感謝をせずにはおれないのだ。いった に見えて来たのは良いとしても、暇さえあれば覚えて来たい人と言うものは信用されて了ったらもうこちらの負け 弁士の声色ばかり唸っている彼の様子までがうるさくなつで、だから主人はいつでも周囲の者に勝ち続けているので た。しかし、それから間もなく反対に軽部の眼がまた激しあろうと一度は思ってみても、そう主人のように底抜けな ほとん く私の動作に敏感になって来て仕事場にいるときは殆ど私馬鹿さにはなかなかなれるものではなく、そこがつまりは えら から眼を放さなくなったのを感じ出した。思うに軽部は主主人の豪いと言う理由になるのであろうと思って私も主人 人の仕事の最近の経過や赤色プレートの特許権に関する話の研究の手助けなら出来るだけのことはさせて貰いたいと を主婦から聞かされたにちがいないのだが、主婦まで軽部心底から礼を述べたのだが、人に心底から礼を述べさせる と言うことを一度でもしてみたいと思うようになったのも に私を監視せよと言いつけたのかどうかは私には分らなか った。しかし、私までが主婦や軽部がいまにもしかするとそのときからだ。だが、私の主人は他人にどうこうされよう などとそんなけちな考えなどはないのだからまた一層私の こっそり主人の仕事の秘密を盗み出して売るのではないか と思われて幾分の監視さえする気持ちになったところから頭を下げさせるのだ。つまり私は暗示にかかった信者みた いに主人の肉体から出て来る光りに射抜かれてしまったわ 見てさえも、主婦や軽部が私を同様に疑う気持ちはそんな に誤魔化していられるものではない。そこで私もそれらのけだ。奇蹟などと言うものは向うが奇蹟を行うのではなく 疑いを抱く視線に見られると、不快は不快でも何となく面自身の醜さが奇蹟を行うのにちがいない。それからと言う 白くひとつどうすることか図々しくこちらも逆に監視を続ものは全く私も軽部のように何より主人が第一になり始 けてやろうと言う気になって来て困り出した。丁度そう言め、主人を左右している細君の何に彼に反感をさえ感じて う時また主人は私に主人の続けている新しい研究の話をし来て、どうしてこう言う婦人が此の立派な主人を独占して て言うには、自分は地金を塩化鉄で腐蝕させずにそのまま良いものか疑わしくなったばかりではなく出来ることなら 黒色を出す方法を長らく研究しているのだがいまだに思わ此の主人から細君を追放してみたく思うことさえときどき しくいかないので、お前も暇なとき自分と一緒にやってみあるのを考えても軽部が私に虐くあたってくる気持ちが手 ふしよく つら

2. 現代日本の文学 15 横光利一集

何にせよ私はあまりに急がしくて朝早くから瓦期で熱したるのならもっと上手にとって貰いたいと澄まして言うと主 しんらゆう 真鍮へ漆を塗りつけては乾かしたり重クロム酸アンモニア人は一層大きな声で面白そうに笑い続けた。それでは昨夜 で塗りつめた金属板を日光に曝して感光させたりアニリン主婦の部屋へ這入っていったのは屋敷ではなく主人だった をかけてみたり、其他・ハーニングから炭とぎからアモアビのかと気がついたのだがいくらいつも金銭を持たされない ねら カルから断裁までくるくる廻ってし続けねばならぬので屋からと言って夜中自分の細君の枕もとの財布を狙って忍び 敷の魅力も何もあったものではないのである。すると五日込む主人も主人だと思いながら私もおかしくなり、暗室か さま 目頃の夜中になってふと私が眼を醒すとまだ夜業を続けてら出て来たのもそれではあなたかと主人に訊くと、いやそ いた筈の屋敷が暗室から出て来て主婦の部屋の方へ這入っれは知らぬと主人は言う。では暗室から出て来たのだけは ていった。今頃主婦の部屋へ何の用があるのであろうと思矢張り屋敷であろうかそれともその部分だけは夢なのであ っているうちに惜しいことにはもう私は仕事の疲れで眠っろうかとまた私は迷い出した。しかし、主婦の部屋へ這入 て了った。翌朝また眼を醒すと私に浮んで来た第一のことり込んだ男が屋敷でなくて主人だと言うことだけは確に現 は昨夜の屋敷の様子であった。困ったことには考えている実だったのだから暗室から出て来た屋敷の姿も全然夢だと うちにそれは私の夢であったのか現実であったのか全く分ばかりも思えなくなって来て、一度消えた屋敷への疑いも らなくなって来たことだ。疲れているときには今までとて反対にまただんだん深く進んで来た。しかしそう言う疑い もとぎどぎ私にはそんなことがあったのでなお此度の屋敷と言うものはひとり疑っていたのでは結局自分自身を疑っ のことも私の夢かもしれないと思えるのだ。しかし屋敷がていくだけなので何の役にもたたなくなるのは分っている 暗室へ這入った理由は想像出来なくはないが主婦の部屋へのだ。それより直接屋敷に訊ねて見れば分るのだが、もし 這入っていった彼の理由は私には分らない。まさか屋敷と訊ねてそれが本当に屋敷だったら屋敷の困るのも決ってい 主婦とが私たちには分らぬ深い所で前から交渉を持ち続ける。此の場合私が屋敷を困らしてみたところで別に私の得 械 ていたとは思えないのだしこれは夢だと思っている方が確になるではなしと言って捨てておくには事件は興味があり ナししち暗室の中には私の苦心を重ね 機実であろうと思っていると、その日の正午になって不意に過ぎて惜しいのだ。・こ、、 そうえん けいさん 主人が細君に昨夜何か変ったことがなかったかと笑いながた蒼鉛と硅酸ジルコニウムの化合物や、主人の得意とする ら訊ね出した。すると細君は、お金をとったのはあなただ無定形セレニウムの赤色塗の秘法が化学方程式となって隠 ぐらいのことはいくら寝坊の私だって知っているのだ。盗されているのである。それを知られてしまえば此処の製作 はず さら

3. 現代日本の文学 15 横光利一集

みが実はこちらの空原になっていることにはなかなか気付ままでの此の家の悲劇の大部分も実に此の馬鹿げたことば Ⅷかぬもので、私が何の気もなく椅子を動かしたり断裁機をかりなんだがそれにしてもどうしてこんなにここの主人は おっこ かなづち こも分らない。落して了ったものはいく 廻したりしかけると不意に金槌が頭の上から落って来た金銭を落すのか誰冫 しか おどか じがねしんらゆうばん り、地金の真鍮板が積み重ったまま足もとへ崩れて来たり、ら叱ったって嚇したって返って来るものでもなし、それだ 安全なニスとエーテルの混合液のザポンがいつの間にか危からって汗水たらして皆が働いたものを一人の神経の弛の ことごと あわ 険な重クロムサンの酸液と入れ換えられていたりしているため尽く水の泡にされて了ってそのまま泣き寝入に黙っ のが、初めの間はこちらの過失だとばかり思っていたのにているわけにもいかず、それが一度や一一度ならともかく始 ことごと それが尽く軽部の仕業だと気付いた時には、考えれば考終持ったら落すと言うことの方が確実だと言うのだから、 ねら えるほどこれは油断をしていると生命まで狙われているの此の家の活動も自然に鍛錬のされ方が普通の家とはどこか ではないかと思われて来てひやりとさせられるようにまで違って成長して来ているに違いないのだ。いったい私達は なって来た。殊に軽部は馬鹿は馬鹿でも私よりも先輩で劇金銭を持ったら落すと言う四十男をそんなに想像すること ひも が出来ない。譬えば財布を細君が紐でしつかり首から、 薬の調合にかけては腕があり、お茶に入れておいた重クロ ムところつる 懐へ吊しておいてもそれでも中の金銭だけはちゃんとい ム酸アンモニアを相手が飲んで死んでも自殺になるぐらい つも落してあると言うのであるが、それなら主人は金を財 のことは知っているのだ。私は御飯を食べる時でもそれか ら当分の間は黄色な物が眼につくとそれが重クロムサンで布から出すときか入れる時かに落すにちがいないとしてみ たびたび はないかと思われて客がその方へ動かなかったが、私のそても、それにしても第一そう度々落す以上は今度は落すか しばら こつけい んな警戒心も暫くすると自分ながら滑稽になって来てそうもしれぬからと三度に一度は出すときや入れるときに気付 たやす 容易く殺されるものなら殺されてもみようと思うようにもく筈だ。それを気付けば事実はそんなにも落さないのでは これ ないかと思われて考えようによっては是は或いは金銭の支 なり、自然に軽部の事などは又私の頭から去っていった。 或る日私は仕事場で仕事をしていると主婦が来て主人が払いを延ばすための細君の手ではないかとも一度は思う 地金を買いにいくのだから私も一緒について行って主人のが、しかも間もなくあまりに変っている主人の挙動のため に細君の宣伝もいつの間にか事実たと思ってしまわねば 金銭を絶えず私が持っていてくれるようにと言う。それは ほとん 主人は金銭を持っと殆ど必ず途中で落して了うので主婦のならぬほど、とにかく、主人は変っている。金を金とも思 、づか 気遣いは主人に金銭を渡さぬことが第一であったのだ。い わぬと言う言葉は富者に対する形容だが此処の主人の貧し しわぎ はず たと ゆるみ

4. 現代日本の文学 15 横光利一集

けいべっ さは五銭の白銅を握って銭湯の暖簾をくぐる程度に拘ら男を思うと全く馬鹿馬鹿しくて軽蔑したくなりそうなもの かかわ ず、困っているものには自分の家の地金を買う金銭まで遣にも拘らずそれが見ていて軽蔑出来ぬと言うのも、つまり みにく ってしまって忘れている。こう言うのをこそ昔は仙人と言はあんまり自分のいつの間にか成長して来た年齢の醜さが ったのであろう。しかし、仙人と一緒にいるものは絶えず逆に鮮かに浮んで来てその自身の姿に打たれるからだ。こ はらはらして生きていかねばならぬのだ。家のことを何一んなに自分への反射は私に限らず軽部にだって常に同じ作 っ任しておけないばかりではない、一人で済ませる用事も用をしていたと見えて、後で気付いたことだが、軽部が私 しよせん 二人がかりで出かけたり、その一人のいるために周囲の者への反感も所詮は此の主人を守ろうとする軽部の善良な心 の労力がどれほど無駄に費されているか分らぬのだが、しの部分の働ぎからであったのだ。私が此処の家から離れが かしそれはそうにちがいないとしても此の主人のいるいな たなく感じるのも主人のその此の上もない善良さからであ いによって得意先の此の家に対する人気の相異は格段の変り、軽部が私の頭の上から金槌を落したりするのも主人の 化を生じて来る。恐らく此処の家は主人の為に人から憎まその善良さのためだとすると、善良なんて言うことは昔か しば れたことがないに違いなく主人を縛る細君の締りがたとい ら案外良い働きをして来なかったにちがいない。 悪評を立てたとしたところで、そんなにも好人物の主人が さてその主人と私は地金を買いにいって戻って来るとそ 細君に縛られて小さく忍んでいる様子と言うものはまた自の途中主人は私に今日はこう言う話があったと言って言う 然に滑稽な風味があって喜ばれ勝ちなものであり、その細には、自分の家の赤色プレ 1 トの製法を五万円で売ってく るすだっと 君の睨みの留守に脱兎の如く脱け出してはすっかり金銭をれと言うのだが売って良いものかどうだろうかと訊くの 振り撒いて帰って来る男と言うのも是また一層の人気を立で、私もそれには答えられずに黙っていると赤色プレート てる材料になるばかりなのだ。 もいつまでも誰れにも考案されないものならともかくもう そんな風に考えると此の家の中心は矢張り細君にもなく仲間達が必死にこっそり研究しているので製法を売るなら おのずか 私や軽部にもない自ら主人にあると言わねばならなくな今の中だと言う。それもそうだろうと思っても主人の長い やといにん 機って来て私の傭人根性が丸出しになり出すのだが、どこか苦心の結果の研究を私がとやかく言う権利もなし、そうか ら見たって主人が私には好きなんだから仕様がない。実際と言って主人ひとりに任かしておいては主人はいつの間に 私の家の主人はせいぜい五になった男の子をそのまま四十か細君の言うままになりそうだし、細君と言うものはまた に持って来た所を想像すると浮んで来る。私たちはそんな目さきのことだけより考えないに決っているのを思うと私 にら のれん かかわ かなづら

5. 現代日本の文学 15 横光利一集

婦人に逢ったのがこの生活の初めなのだ。婦人はもう五十らせてくれる。全く私にとっては馬鹿馬鹿しい事だが、そ 歳あまりになっていて主人に死なれ家もなければ子供もなれでも軽部としては真剣なんだから無気味である。彼にと しばらやっかい いので、東京の親戚の所で暫く厄介になってから下宿屋でっては活動写真が人生最高の教科書で従って探偵劇が彼に も始めるのだと言う。それなら私も職でも見つかればあなは現実とどこも変らぬものに見えているので、此のふらり たの下宿へ厄介になりたいと冗談のつもりで言うと、それと這入って来た私がそう言う彼には、また好個の探偵物の では自分のこれから行く親戚へ自分といってそこの仕事を材料になって迫っているのも事実なのだ。殊に軽部は一生 手伝わないかとすすめてくれた。私もまだどこへ勤めるあ此の家に勤める決心ばかりではない。此処の分家としてや てとてもないときだし、ひとつはその婦人の上品な言葉やがては一人でネームプレート製造所を起そうと思っている 姿を信用する気になってそのままふらりと婦人と一緒にこだけに、自分よりさきに主人の考察した赤色。フレート製法 この仕事場へ流れ込んで来たのである。すると、ここの仕の秘密を私に奪われて了うことは本望ではないにちがいな こんてい 。しかし、私にしてみればただ此の仕事を覚え込んでお 事は初めは見た目は楽だがだんだん薬品が労働力を根柢か たくら ら奪っていくと言うことに気がついた。それで今日は出よくだけでそれで生活の活計を立てようなどとは謀んでいる いままでしんばう う明日は出ようと思っているうちに、ふと今迄辛抱したかのでは決してないのだが、そんなことを言ったって軽部に らにはそれではひとっここの仕事の急所を全部覚え込んでは分るものでもなし、また私が此の仕事を覚え込んで了っ からにしようと言う気にもなって来て、自分で危険な仕事たならあるいはひょっこりそれで生計を立てていかぬとも に近づくことに興味を持とうとっとめ出した。ところが私限らぬし、いずれにしても軽部なんかが何を思おうとただ と一緒に働いているここの職人の軽部は、私が此の家の仕彼をいらいらさせてみるのも彼に人間修業をさせてやるだ 事の秘密を盗みに這って来たどこかの間者だと思い込んけだとぐらいに思っておればそれで宜しい、そう思った私 だのだ。彼は主人の細君の実家の隣家から来ている男なのはまるで軽部を眼中におかずにいると、その間に彼の私に 械 で何事にでも自由がきくだけにそれだけ主家が第一で、よ対する敵意は急速な調子で進んでいて、此の馬鹿がと思っ ていたのも実は馬鹿なればこそこれは案外馬鹿にはならぬ 機くある忠実な下僕になりすましてみることが道楽なのだ。 彼は私が棚の毒薬を手に取って眺めているともう眼を光らと思わしめるようにまでなって来た。人間は敵でもないの せて私を見詰めている。私が暗室の前をうろついているとに人から敵だと思われることは、その期間相手を馬鹿にし もうかたかたと音を立てて自分がここから見ているぞと知ていられるだけ何となく楽しみなものであるが、その楽し かるべ

6. 現代日本の文学 15 横光利一集

うつかりす にとるように分って来て、彼を見ていると自然に自分を見も何の役にも立たなくなったばかりではない、 ているようでますますまたそんなことにまで興味が湧いてると彼の地位さえ私が自由に左右し出すのかもしれぬと思 来るのである。 ったにちがいないのだ。だから私は幾分彼に遠慮すべきだ 或る日主人が私を暗室へ呼び込んだので這入っていくと言うぐらいは分っていても何もそういちいち軽部軽部と しんらゆう と、アニリンをかけた真鍮の地金をアルコ 1 ルランプの上彼の眼の色ばかりを気使わねばならぬほどの人でもなし、 いつものように軽部の奴いったいいまにどんなことをし出 で熱しながらいきなり説明して言うには、・フレ 1 トの色を かえ 変化させるには何んでも熱するときの変化に一番注意しなすかとそんなことの方が却って興味が出て来てなかなか同 ければ分らない、いまは此の地金は紫色をしているがこれ情なんかする気にもなれないので、そのまま頭から見降ろ が黒褐色となりやがて黒色となるともうすでに此の地金がすように知らぬ顔を続けていた。すると、よくよく軽部も腹 次の試煉の場合に塩化鉄に敗けて役に立たなくなる約束をが立ったと見えてあるとき軽部の使っていた穴ほぎ用のペ くふうすべ ルスを私が使おうとすると急に見えなくなったので君がい しているのだから、着色の工夫は総て色の変化の中段にお いてなさるべきだと教えておいて、私にその場で・ ( 1 ニンまさきまで使っていたではないかと言うと、使っていたっ グの試験を出来る限り多くの薬品を使用してやってみよとてなくなるものはなくなるのだ、なければ見付かるまで自 しら 言う。それからの私は化合物と元素の有機関係を験べるこ分で捜せば良いではないかと軽部は言う。それもそうだと とにますます興味を向けていったのだが、これは興味を持思って、私はベルスを自分で捜し続けたのだがどうしても いままで てば持つほど今迄知らなかった無機物内の微妙な有機的運見付からないのでそこでふと私は軽部のポケットを見ると 動の急所を読みとることが出来て来て、いかなる小さなこそこにちゃんとあったので黙って取り出そうとすると、他 とにも機械のような法則が係数となって実体を計っている人のポケットへ無断で手を入れる奴があるかと言う。他人 ゆいしんてめぎ ことに気付き出した私の唯心的な眼醒めの第一歩となってのポケットはポケットでも此の作業場にいる間は誰のポケ 械 ットだって同じことだと言うと、そう言う考えを持ってい 来た。しかし軽部は前まで誰も這入ることを許されなかっ ずうすう 機た暗室の中へ自由に這入り出した私に気がつくと、私を見る奴だからこそ主人の仕事だ 0 て図々しく盗めるのだと言 、つこ、主人の仕事をいっ盗んだか、主人の仕事を手 る顔色までが変って来た。あんなに早くから一にも主人一一う。しナし かかわ にも主人と思って来た軽部にも拘らず新参の私に許された伝うと言うことが主人の仕事を盗むことなら君だって主人 しばら ことが彼に許されないのだからいままでの私への彼の警戒の仕事を盗んでいるのではないかと言ってやると、彼は暫 やっ

7. 現代日本の文学 15 横光利一集

かわ 件の後で屋敷が言うにはどうもあのとき君を殴ったのは悪て計ることが出来るのであろう。それにも拘らず私たちの いと思ったが君をあのとぎ殴らなければいつまで軽部に自間には一切が明瞭に分っているかのごとき見えざる機械が 分が殴られるかもしれなかったから事件に終りをつけるた絶えず私たちを計っていてその計ったままにまた私たちを めに君を殴らせて貰ったのだ。赦してくれと言う。実際私押し進めてくれているのである。そうして私たちは互に疑 も気付かなかったのだがあのとき一番悪くない私が一一人か い合いながらも翌日になれば全部の仕事が出来上って楽々 ら殴られなかったなら事件はまだまだ続いていたにちがいとなることを予想し、その仕上げた賃金を貰うことの楽し ないのだ。それでは私はまだ矢っ張りこんなときにも屋敷みのためにもう疲労も争いも忘れてその日の仕事を終えて の盗みを守っていたのかと思って苦笑するより仕方がなく了うと、 いよいよ翌日となってまた誰もが予想しなかった なりせつかく屋敷を赤面させてやろうと思っていた楽しみ新しい出来事に逢わねばならなかった。それは主人が私た すぐ も失ってしまってますます屋敷の優れた智謀に驚かされるちの仕上げた製作品とひき換えに受け取って来た金額全部 ばかりとなったので、私も忌々しくなって来て屋敷にそんを帰り途に落してしまったことである。全く私たちの夜の なにうまく君が私を使ったからには暗室の方も定めしうま目もろくろく眠らずにした労力は何の役にも立たなくなっ くいったのであろうと言うと、彼は彼で手馴れたもので君たのだ。体も金を受け取りにいった主人と一緒に私を此の までそんなことを言うようでは軽部が私を殴るのだって当家へ紹介してくれた主人の姉があらかじめ主人が金を落す 然だ、軽部に火を点けたのは君ではないのかと言って笑っであろうと予想してついていったと言うのだから、このこ てのけるのだ。なるほどそう言われれば軽部に火を点けたとだけは予想に違わず事件は進行していたのにちがいない のは私だと思われたって弁解の仕様もないのでこれはひょ が、ふと久し振りに大金を儲けた楽しさからたとい一瞬の っとすると屋敷が私を殴ったのも私と軽部が共謀したから間でも良い儲けた金額を持ってみたいと主人が言ったので だと思ったのではなかろうかと思われ出し、いったい本当っい油断をして同情してしまい、主人に暫くの間その金を これ 械 はどちらがどんな風に私を思っているのかますます私には持たしたのだと言う。その間に一つの欠陥が是も確実な機 もちろん 機分らなくなり出した。しかし事実がそんなに不明瞭な中で械のように働いていたのである。勿論落した金額がもう一 屋敷も軽部も一一人ながらそれぞれ私を疑っていると言うこ度出て来るなどと思っている者はいないから警察へ届けは 礙とだけは明瞭なのだ。だが此の私ひとりにとって明瞭なこしたものの一家はもう青ざめ切って了って言葉などと言う ともどこまでが現実として明瞭なことなのかどこでどうしものは誰もなく、私たちは私たちで賃金も貰うことが出 ゆる ゆだん みら たが

8. 現代日本の文学 15 横光利一集

も、今のは自分の死についてであり、自分の生についてでを見た。節子は一瞬淋しげに徴笑したが、 ある。しかも、自分と同じ年代に属する若者たちの心に深「でも、あたしの考えそんなに無理なことなのでしようか く問題を投げかけている疑問の姿が、そのような死と生としら。あたし、言い方が下手なのかもしれないけれど、無 の精神の探索であったのだと知ると、自分に降りかかって理なことどこもないと思いますわ。」 来ている結婚の問題などは、はるかにそれより浮き上った「いや。それは無理というものですよ。善人のいうことで ぜいたく 贅沢な悩みのように感じられた。 す。だいいち、あなたに神さまだなんて思わすような男性 「あたしに、今いろいろ自分で決めなければならぬこと は、この世の中にはいるもんじゃないですよ。もしいたと が、多いんですの。家の者から言って来てるんですけれころで、自分の細君から神さまだと思われたら、苦しくっ ど、早くあたしが結婚してしまうことばかり言って来るんて、逃げ出したくなるに定っていますからね。やはり男と ですのよ。でも、女にとって結婚ということは、まア、お いうものは、僕みたいな悪人で、神さまだと思われるより しあわ かしい言い方かもしれませんが、神さまと結婚するのと同も、人間だと思われる方がずっと倖せなんですから。だ、 じでしよう。あたし、自分の主人となる人を、神さまだと たい人間は、たいていは悪人ですよ。だから、救いを求め どこかで思わなければ結婚する気持など起らないんですかて往生したいんです。」 ら、どうしたってあたし、やはりそう思いたいんですの 「だって、あたしの主人が下らなくても、そんなことは、 ばんのう よ。これはあたしの煩悩ですかしら。でも、そんな人がこ結婚してしまえばかまわないと思いますのよ。あたしだけ の世の中にいるかいないかは別としても、いなくたってどで主人の中に神さまがいらっしやるんだと思わなければ、 こかにいると思いたいでしよう。だけど、そういうことをどうして結婚なんか出来るんでしよう。ただ主人の中に男 家の人にも言えないし、家の人にでなくてお友だちに言っ だけがいるんだと思ったら、どこにだって男の方はいるん ても、あなたのような理想主義者は、トラ・ヒストへでもいですもの。あたし、そんなら結婚なんかしたくありません って神さまと結婚なさいって、いっぺんに笑われてしまい ますの。」 節子のりんとした言い方に矢部はたしかに打たれたらし さかず ) らよっと うなず 「そりや、そういうでしようね。僕だっていうかもしれまく、上げかけた杯を一寸降ろして黙ってひとり頷いた。 あやま せんよ。煩悩だあなたのそれは。」 「それは僕は謝罪ります。あなたの仰言ったことを誤解し と矢部は意外なことを聞いたように笑いながら節子の顔たのですよ。悪人の中にも神さまがいるというような、僕 たんさく

9. 現代日本の文学 15 横光利一集

っともな事なのだ。従ってどちらかと言うと主人の方に関 係のある私は、此の家の仕事のうちで一番人のいやがるこ とばかりを引き受けねばならぬ結果になっていく。いやな 仕事、それは全くいやな仕事で、然もそのいやな部分を誰 か一人がいつもしていなければ家全体の生活が廻らぬと言 う中心的な部分に私がいるので、実は家の中心が細君には なく私にあるのだが、そんなことを言ったっていやな仕事 やっ をする奴は使い道のない奴だからこそだとばかり思ってい る人間の集りだから、黙っているより仕方がないと思って いた。全く使い道のない人間と言うものは誰にも出来かね 初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときる箇所だけに不思議に使い道のあるもので、此のネームプ どき思った。観察しているとまだ三つにもならない彼の子レート製造所でもいろいろな薬品を使用せねばならぬ仕事 供が彼を嫌がるからと言って、親父を嫌がる法があるかとの中で私の仕事だけは特に劇薬ばかりで満ちていて、わざ 言って怒っている。畳の上をよちょち歩いているその子供わざ使い道のない人間を落し込む穴のように出来上ってい ふしよく がばったり倒れると、いきなり自分の細君を殴りつけながるのである。此の穴へ落ち込むと金属を腐蝕させる塩化鉄 しゅうそ らお前が番をしていて子供を倒すと言うことがあるかと言で衣類や皮膚がだんだん役に立たなくなり、臭素の刺激で う。見ているとまるで喜劇だが本人がそれで正気だから、咽喉を破壊し夜の睡眠がとれなくなるばかりでなく、頭脳 反対にこれは狂人ではないのかと思うのだ。少し子供が泣の組織が変化して来て視力さえも薄れて来る。こんな危険 はず きやむともう直ぐ子供を抱きかかえて部屋の中を馳け廻っな穴の中へは有用な人間が落ち込む筈がないのであるが、 ている四十男。此の主人はそんなに子供のことばかりにか此の家の主人も若いときに人の出来ないこの仕事を覚え込 けてそうかと言うとそうではなく、凡そ何事にでもそれ程んだのも恐らく私のように使い道のない人間だったからに な無邪気さを持っているので自然に細君が此の家の中心にちがいないのだ。しかし、私とてもいつまでここで片輪に もちろん なって来ているのだ。家の中の運転が細君を中心にして来なるために愚図っいていたのでは勿論ない。実は私は九州 ると細君系の人々がそれだけのびのびとなって来るのももの造船所から出て来たのだがふと途中の汽車の中で一人の 恥機械 およ なぐ

10. 現代日本の文学 15 横光利一集

く 6 びる く黙ってぶるぶる脣をふるわせてから急に私に此の家をびったりとくつついたままの存在とはよくも名付けたと思 しまら 出ていけと迫り出した。それで私も出るには出るがもう暫える程心がただ黙々と身体の大きさに従って存在している く主人の研究が進んでからでも出ないと主人に対してすまだけなのだ。暫くして私はそのまま暗室へ這入ると仕かけ ちんでん ないと言うと、それなら自分が先きに出ると言う。それでておいた着色用のビスムチルを沈澱さすため、試験管をと は君は主人を困らせるばかりで何にもならぬから私が出るってクロム酸加里を焼き始めたのだが軽部にとってはそれ まで出ないようにするべきだと言ってきかせてやっても、 がまたいけなかったのだ。私が自由に暗室へ這入ると言う それでも頑固に出ると言う。それでは仕方がないから出てことがすでに軽部の怨みを買った原因だったのにさんざん いくよう、後は私が一一人分を引き受けようと言うと、いき彼を怒らせた挙句の果に直ぐまた私が暗室へ這入ったのだ もっと なり軽部は傍にあったカルシ = ームの粉末を私の顔に投げから彼の逆上したのも尤もなことである。彼は暗室のドア つけた。実は私は自分が悪いと言うことを百も承知してい を開けると私の首を持ったまま引き摺り出して床の上へ投 るのだが悪と言うものは何と言ったって面白い。軽部の善げつけた。私は投げつけられたようにしてど自分から倒 良な心がいらだちながら慄えているのをそんなにもまざまれる気持ちで倒れたのだが、私のようなものを困らせるの したな ざと眼前で見せつけられると、私はますます舌舐めずりをには全くそのように暴力だけよりないのであろう。軽部は して落ちついて来るのである。これではならぬと思いなが私が試験管の中のクロム酸加里がこぼれたかどうかと見て ら軽部の心の少しでも休まるようにと仕向けてはみるのだ いる間、どうしたものか一度周章てて部屋の中を駈け廻っ が、だいいち初めから軽部を相手にしていなか 0 たのが悪てそれからまた私の前へ戻 0 て来ると、駈け廻 0 たことが いので彼が怒れば怒るほどこちらが恐わそうにびくびくし何の役にもたたなかったと見えてただ彼は私をみつけて ていくと言うことは余程の人物でなければ出来るものでは いるだけなのである。しかしもし私が少しでも動けば彼は ない。どうもつまらぬ人間ほど相手を怒らすことに骨を折手持ち無沙汰のため私を蹴りつけるにちがいないと思った るもので、私も軽部が怒れば怒るほど自分のつまらなさをので私はそのままいつまでも倒れていたのだが、切迫した 計っているような気がして来て終いには自分の感情の置き いくらかの時間でもいったい自分は何をしているのだと思 場がなくなって来始め、ますます軽部にはどうして良いのったが最後もうぼんやりと間の脱けて了うもので、まして か分らなくなって来た。全く私は此のときほどはっきりとこちらは相手を一度思うさま怒らさねば駄目だと思ってい 自分を持てあましたことはない。まるで心は肉体と一緒にるときとてもう相手もすっかり気の向くまで怒って了った あげく