上昭和 12 年 , 39 歳 右欧州旅行から帰朝の途中 , 山陽ホ テルで ( 昭和 11 年 ) 「東京日日」「大阪毎日」両紙に同時 連載した「旅愁」の第一回 ( 昭和年 ) 罎売利一 右有光社より純粋小説全集の一冊 として刊行された「盛装」 ( 昭和年 ) 左自宅の庭で長男象三 ( 左 ) 、 次男佑典 ( 中央 ) と ( 昭和年夏 ) 旅愁 横光料 藤田嗣治省 久確はの第ムをををい まっての 4 ・ っ家を第してい , 、 , 第イから物イ・解ってまでをる、ー , ・からーな 「半←歹く、ミ ! つ宿 まのをかせて第第第のには、・ ! い物で ・出い立 ? 朝な 物いー第い、当 - ~ ミ解ん ( 、はか」ふ 一 0
自宅で長男象三 ( 左 ) 次男佑典 ( 中央 ) と ( 昭和 13 年 , 40 歳 ) 自宅応接間で ( 昭和 13 年 ) も第を菜種髷一 多摩川べりで家族 , 義妹母子と ( 昭和 12 年 ) 「秘色」 ( 昭和 15 年・新 声閣 ) と「菜種」 ( 昭和 16 年・甲鳥書林 ) 初版本 右から二人めが利一 , その左小林秀雄
改造社より刊行の「上 海」 ( 昭和 7 年 7 月 ) ′ノノ 自宅でくつろぐ利一 講演旅行で名古屋に赴いた ( 昭和 9 年 ) ーこ」とき ( 昭和 10 年 ) 36 歳 右前列右から六人めが利一 その左川端康成年月不詳 主婦之友社で佐野繁次郎 ( 左 ) と ( 昭和 10 年 ) 上 左 自宅庭のプランコで次男佑典と ( 昭和 10 年 )
欧州旅行の途上、根丸船上で赤道 祭の折前から 4 列めの左から 5 人 めが利一 ( 昭和Ⅱ年 ) ァ 0 “、。 パリで岡本太郎 ( 左 ) と ( 昭和 11 年 ) 1 物ー第第メー第 0 △ーマ △ , 讐マ 上箱根丸の船中で左が利一 ( 昭和Ⅱ年 ) 左箱根丸の船中で前列右か ら 3 人め高浜虚子、後列右端が 利一 ( 昭和Ⅱ年 )
0 1 上 35 歳の利一 ( 昭和 8 年 ) 左自宅二階の書斎で抱かれて いるのは次男佑典 ( 昭和 8 年 ) は、いわゆる大衆文学の作家になってしまってからの 菊池、『真珠夫人』以後の菊池だという側面があった % のである。そういう側面を誇張して提出したのが横光 の有名な『純粋小説論』で、これだけものものしい構 えをます自分に強いることが必要なくらい、そのころ の私 = = 、説・心境小説の支配、もっとはっきり言えば志 賀直哉の支配はすさまじいものであった。 「純文学に して大衆小説」などと自分に景気をつけ、偶然やメロ ドラマの価値を大いに宣伝することによって、横光は はしめて、知的な市民の登場する、社会的な視野の広 い長篇小説を書くことができたのである。 いや、『純粋小説論』は昭和十年四月の発表であり、 すでにこの前に、いずれも単行本の刊行で言って昭和 しんえん 七年の『上海』と『寝園』と『雅歌』、八年の「花花』、 もんしさフ 九年の『紋章』と『時計』があるし、昭和十年四月に は『盛装』を連載中であったけれども、彼がこの評論 で述べている意見の中核は、何もこのときになって、 にわかにまとまったものではなく、 『上海』のころ、 あるいはそれ以前から、心に浮んだり沈んだりしてい たものにちがいないと推定される。ただ、 横光はそれ にもかかわらす、志賀直哉の美学に依然として従う気 持がかなりあ「たから、菊池の美学にはっきり加皿す ることを選ばなければならないとき、あの評論の激越
上自宅でくつろぐ利一 ( 昭和 12 年 ) 左上「紋章」上演のとき演 出者の北村喜八 ( 右 ) と ( 昭和 13 年 11 月 ) 左中国へ旅行のとき右端が 利一 ( 昭和 13 年 11 月 ) 移り住むことになり、つまり芭蕉の故郷で育ったのだ。 横光は最晩年の文章「夜の靴』のなかで、 日本の全部をあげて汗水たらして働いているのも いつの日か、誰か一人の詩人に、ほんの一行の生き と田 5 、フこ たしるしを圭日かしめるためかもしれない とは誤りだろ、つか 々海のみゆふなみちどりながなけば 心もしぬにいにしへ思ほゅ ( 人麿 ) 何と美しい一行の詩だろう。これを越した詩はか って一行でもあっただろうか。たとえこのまま国が 滅はうとも、これで生きた証拠になったと思われる ものは、この他に何があるだろう。これに並ぶもの 荒海や佐渡によこたふ天の川 ( 芭蕉 ) 今やこの詩は実にさみしく美しい。去年までとは これほども美しく違、つものかと私は、つ こういう時ふと自分のことを田 5 うと、他人を見て どんなに感動しているときであろうとも、直ちに私 は悲しみに襲われる。文士に憑きもののこの悲しさ は、どんな山中にいようとも、どれほど人から物を さみし 貰おうとも、慰められることはさらにない
1 ったのであろう。横光はいつも渾身の力をこめていな ければならない小説家であった。 『実いまだ熟せず』は日本のジャーナリズムの用語 で言えば青春小説ということになるのだろ、つが、こう いうものを書かせても横光の身構えはまことに堂々と していて、長篇小説の作家としての彼の力量をうかが うに足る作品が示されることになった。ごく常識的な 意味では、菊池寛の弟子としての横光は、案外、この 作品あたりに見出だされるということになろ、フカ、し かしわたしはこういう場合でも、自然主義と私小説を 排して観念を求め、社会を描こうとした作家、横光が、 菊池の仕事のある面を延長したところに注目したいと 思うのである 3 松尾芭蕉 横光利一は芭蕉の血を引いている。彼の母は伊賀の 松尾氏の出で、松尾芭蕉の後裔なのである。すなわち 昭和文学前半の代表的な作家は元禄の偉大な俳人の子 孫に当るわけで、血筋という点でこれほど豪華な文士 は明治以後ほかになかったのではないかという気がす る。しかも彼は、生れこそ会津の東山温泉だが、六歳 のとき父が朝鮮に渡ったせいで母の実家のある伊賀に 上自宅で ( 昭和 12 年 , 39 歳 ) 右自宅応接間で次男佑典と ( 昭和 12 年 ) こんしん 436
416 月まで ) 。 「機械」を細川書店より、「シルク ( ット」を地平社より刊行。同月 昭和十九年 ( 一九四四 ) 四十六歳十五日、胃に激痛が襲い、一時、意識不明となる。胃潰瘍と診断さ 一月、「罌粟の中」を「改造 , に、「橋を渡る火」を「婦人公論。にれる。三十日に至り、病勢悪化、腹膜炎を併発して死去。 発表。六月、「旅愁」を「文藝春秋 , に断続連載 ( 十月、一一十年一 月 ) 。 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 四十七歳 昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 一月三日、告別式。同月、「微笑」が 一月、家族を疎開させて、橋本英吉と自炊生活を始める。一一月、片「人間」に、「悪人の車ーが「改造」に、一一月、「洋燈」が「新潮」 岡鉄兵の追悼記「典型人の死」を、三月、「特攻隊」を「文芸」にに発表された。没後百カ日、旧知門下によって、墓碑建設、協力機 発表。六月、夫人の郷里に疎開し、のち山形県西田川郡上郷村に移関誌発刊などル子定事業とした木蠍社が結成される。七月、横光利 転、疎開生活の苦労を味わう。八月、終戦。十二月、「雪解」を養一賞規定が発表され、一一十四年、大岡昇平が、一一十五年、永井龍男 徳社より刊行。疎開先より帰京。 が受賞。没後の全集は改造社 ( 一一十三巻で中絶 ) 、河出書房 ( 全十 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 四十八歳一一巻 ) より刊行されている。 一月、「青葉のころ」を「改造 , に発表。戦後版「旅愁」第一篇を墓は昭和一一十四年 ( 一九四九 ) 七月、東京都下多摩霊園に建てら 改造社より刊行。七月にかけ篇まで順次刊行。三月、「紋章」れた。なお、「蟻台上に餓えて月高し」の故人の句を刻んだ文学碑 を鎌倉文庫より刊行。四月、「梅瓶」 ( 「旅愁」最終章 ) を「人間」が三重県阿山郡伊賀町の台地に建てられている。 に発表。五月、「古戦場」を「文藝春秋」別冊 2 に発表。「時計」 本年譜は保昌正夫氏編のものを基にして を斎藤書店より刊行。六月、戦争責任者に指名される。脳溢血の発 編集部で作成し、同氏の校閲を得た。 作があり、蜜蜂療法を始める。七月、「夏臘日記」を「思索」に、 「木臘日記ーを「新潮」に発表。八月、「鶏園」を斎藤書店より、九 月、「罌粟の中」を新文芸社より、十月、「実いまだ熟せず」を柏書 院より刊行。十二月、「秋の日」を「新潮」に発表。 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 四十九歳 一一月、「寝園」を青磁社より、三月、「花花」を山根書店より、四 月、「天使」を蒼樹社より刊行。五月、「雨過日記」を「人間」に発 表。九月、「雅歌」を蒼樹社より、「菜種」を養徳社より、十月、 「時間」を山根書店より、十一月、「盛装」を美和書房より、「夜の 靴」を鎌倉文庫より、「実いまだ熟せず」を永晃社より、十一一月、
7 上羽田より大阪へ旅立つ直前左から直木三十 五 , 菊池寛 , 利一 , 池谷信三郎 ( 昭和 2 年 5 月 ) 左妻千代 , 長男象三と共に散歩する利一 ( 昭和 5 年 32 歳 ) 0 なかった。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まっ ゅうゆう たその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空 の中を飛んでいった。 と終る短篇小説たが、大写しゃ俯瞰撮影など、映画 の技法をふんだんに利用した文章法の根本のところに は、やはり志賀直哉ふうの精巧なレンズが仕掛けてあ るのだ。 しかし、もちろん志賀の影響は単に文体だけのもの ではない。 したいていた倫理的志向や人門 横光が終生、 への愛、素朴と純潔への好みもまた、この最初の師か ら学んだものなのである。それはこの『蠅にも、そ して『春は馬車に乗って』や『蛾はどこにでもいる』 や『花園の思想』にも見ることができるであろう。 『機械』は、横光利一の代表的な短篇小説としてより ト見の代表作として知られて もむしろ、昭和期の短篇 / 言 いる名作だが、わたしはこの作品を手がかりにすると き、志賀から横光へという文学史的図式は最もよく示 されるよ、つに田 5 っているとい、つのは、 そうだ。もしかすると屋敷を殺害したのは私かもし れぬのだ。私は重クロム酸アンモニアの置き場を一 番良く心得ていたのである。私は酔いの廻らぬまで ふかん 422
414 三月、「足と正義」 ( 「上海」第一一篇 ) 、六月、「掃溜の疑問」 ( 同第三待っ間」を「改造」に、十月、「覚書」を「文学界」 ( 創刊号 ) に発 篇 ) 、九月、「持病と弾丸」 ( 同第四篇 ) 、十二月、「海港章」 ( 同第五表。「花花」を書物展望社より、「馬車」を四季社より刊行。十一 篇 ) を「改造」に発表。十月、犬養健、川端康成、堀辰雄、永井龍月、「書翰ーを「文芸」 ( 創刊号 ) に発表。 男らと「文学」を創刊。 昭和九年 ( 一九三四 ) 三十六歳 昭和五年 ( 一九三〇 ) 三十一一歳一月、「博士」を「文藝春秋」に発表。「紋章」を「改造」に連載 一一月、「高架線」を「中央公論ーに、「鳥」を「改造」に発表。四 ( 九月、完結 ) 。四月、「時計」を「婦人之友ーに連載 ( 十二月、完 月、「高架線」を新潮社より刊行。九月、「機械」を「改造」に、結 ) 。「花花」を改造社より刊行。九月、「紋章」を改造社より刊行。 「鞭ーを「中央公論」に発表。満鉄の招きで菊池寛、佐佐木茂索、直十二月、「時計」を創元社より刊行。 木三十五、池谷信三郎らと満州へ旅行。十一月、「寝園」 ( 前半 ) を昭和十年 ( 一九三五 ) 三十七歳 「東京日日新聞」「大阪毎日新聞 , に連載 ( 十一一月まで ) 。 一月、「榛名」を「中央公論ーに、「比叡」を「文藝春秋」に発表。 昭和六年 ( 一九三一 ) 三十三歳「盛装ーを「婦人公論」に連載 ( 十一月、完結 ) 。芥川賞銓衡委員と 一月、「婦人」 ( 「上海」第五篇の一部 ) を「改造」に、四月、「時なる。三月、「上海」を書物展望社より、「機械」を創元社より刊 間」を「中央公論 . に、「悪魔」を「改造」に、「父母の真似ーを行。四月、「純粋小説論 . を「改造ーに発表。「日輪」を沙羅書店よ 「文藝春秋」に発表。「花花」を「婦人之友」に連載 ( 十二月、完り刊行。明治大学文芸科の講師となる。六月、「覚書」を沙羅書店 結 ) 。「機械」を白水社より刊行。八月「雅歌」を「報知新聞」に連より刊行。七月、「紋章」により第一回文芸懇話会賞を受賞。友人、 載 ( 九月まで ) 。十一月、「春婦」 ( 「上海」の終章 ) を「改造」に発後輩により句会を中心とする十日会が発足。八月、「家族会議」を 表。「書方草紙」を白水社より刊行。 「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に連載 ( 十一一月まで ) 。九月、「天 昭和七年 ( 一九三一 l) 三十四歳使」を創元社より刊行。十月、「婦徳」を「中央公に発表。 一月、「舞踏場」を「中央公論ーに、「馬車 . を「改造」に発表。四昭和十一年 ( 一九三六 ) 三十八歳 月、「機械」を鉄塔書院より刊行。五月、「寝園ー ( 後半 ) を「文藝一月、「青春」を「改造」に発表。「文芸懇話会」の編集同人とな 春秋 , に連載 ( 十一月、完結 ) 。七月、「上海」を改造社より刊行。る。「横光利一全集」 ( 全十巻 ) を非凡閣より刊行 ( 十一月、完結 ) 。 九月、「母」を「改造」に発表。「寝園」を中央公論社より刊行。十一一月、「盛装」を新潮社より刊行。同月一一十日、「東京日日新聞」「大 一一月、「雅歌」を書物展望社より刊行。 阪毎日新聞」の特派員として、日本郵船箱根丸で渡欧。高浜虚子と 昭和八年 ( 一九三 = l) 三十五歳同船、船中での句会に出席。五月、「巴里まで」を、六月、「失望の 一月、「春ーを「中央公論」に、「受難者」を「改造」に発表。同月巴里」を「文藝春秋」に発表。・ハリでゼネストにあう。シ、ールレ 三日、次男佑典、出生。五月、「思ひ出」を「改造」に、七月、「薔アリストのトリスタン・ツアラーを訪問。七月、「ドー・ハ ーを越え 薇」を「中央公論ーに、「日記」を「経済往来」に、九月、「時機をて」を「文藝春秋」に発表。チロルからウィーン、プタベスト、フ