お返事出して来たばかりなんだけど、あんなあなたのよう おっしゃ ゴルフから帰りのように見える、ネックに・フルオー な、わがままなことを仰言っちゃ、 ーの紳士は、仁羽の傍へ寄って来ると、 「僕がわがままなことを言いましたって ? 」 「君、僕はね、実に素晴らしいリーグルを一疋見つけて「それやもう、わがままだわ。いくらあたしがあなたに御 親切したって、あんなしんみりした手紙なんかいただく覚 と言うと、皆にどっと笑われた。彼はことごとの合の手えはないわ。あれはどっかのお嬢さんにでもお出しになれ に、「実に」という言葉を入れるので、皆は彼のことを「実ば丁度いいのよ。」 にさん」と言っている。 ハウスの方から反対に、広々とした芝生の中へ奈奈江は 仁羽は「実に」には答えずに、自分の新しい銃を彼に渡高と一緒に歩き出すと、後の方から仁羽も木山夫人と一緒 かっ すと言った。 に、銃を担いで歩いて来た。 「どうだ、・ハーデーだ。実に良ろしい。」 「高さん、あなた後ろを向いちゃ駄目よ。木山夫人が仁羽 うわーツとまた周囲の者が笑い立てる中で、ひとり「実と一緒について来たから。」 ーデ 1 を持たされたまま、びつくりしたように「木山夫人 ? ああ、あの男装夫人ですか。あの夫人はな 仰山な顔をして折ったり狙ったりし始めた。 かなか立派な方ですね。ショッティングを見ていると、百 すると、そのとき、奈奈江は射場の方から帰って来る高発百中だ。何かあの方は仁羽さんと、御懇意ですか。」 を見つけると、こっそり黙って彼の方へ近よった。 「ええ、そうなの。あたしなんかの想像外よ。それにあた 奈奈江は家を出る前、高に手紙を出して来たばかりだっしがあなたとお話しているもんだから、もうすっかり安心 たので、高の傍へよっていっても手紙のことだけは言わなして、これ見てくれって仰言ってるおつもりでしよう。 あいさっ いつもりでいたのである。すると、高は挨拶もせずにもう あら、いけないわ、後ろを向いちゃ。」 まっす 直ぐ手紙のことを言い出した。 高のズボンのドーシアポントーンの真直ぐな縞目が、日 「奥さん、お手紙どうも有難う。何とか一言いって下さる光の中で延び出る度に、奈奈江は今日は優雅な愛人を一人 と思って、僕はもう毎日、あんまり外へも出ないでお待ち連れて歩いているような気がして来て、これでさえに してたんですよ。」 いてくれれば、どんなに楽しいことだろうと思いながらク 「だって、そりや、高さんだって無理よ。あたし今さきに レー小屋の方へ歩いていった。 ねら たび しまめ
た馬鹿な奴はないと思っているのである。とにかく、一ヶ「そうです。あの人はこの秋、初めて・ヒストルの方をやり えら 月ほど仁羽と話し続けていると、人は誰でも仁羽が豪いの出したばかりだから。」 か馬鹿なのかさつばり分らなくなるのが常であった。 「経済学者ならビストルなんか練習なさらなくたって、良 木山夫人も、仁羽を馬鹿だと思うとどこまでが馬鹿か分さそうなもんだけど、そんなものでもないのかしら、」 らなくなるのである。それと反対に、仁羽を豪いと思う「そりやね、此の頃の経済学者は、闘争しなけれやならん と、全くこれほど豪い男はいるかしらと思うのだ。そこからって言ってるんですが、トラツ。フよりは。ヒストルの方 で、どっちがどうだかいつまでたっても分らぬので、だんが、これからの経済学者にはいいんでしよう。」 だん仁羽に接していく度に、安心しきって交際出来る人物「闘争だなんて、だってまさかピストルで闘争なんか、い としてはこれほどの人はいないということだけが確になっくら学者だってするこたアないわ。」 たて て、また自ら全く前とは違った豪さ美しさを仁羽から発見「いや、あれは闘士でね、ポーレという学者を楯にマルキ し出して来るのであった。 ストとなかなか勇敢に闘っている人物ですよ。」 今も木山夫人はわざわざ仁羽を連れて奈奈江の後を追っ 「あれでも ? ー あらた ていくのも、実は仁羽が養子だということを幸いに、、 と言うと、木山夫人はまた更めて、ビストルのサックを ものわがままを続けている奈奈江の挙動に反抗しての、義下げた高の後姿を眺めてみた。 侠といえばまア義侠でもあろうが、お前がそうならこちら奈奈江は木山夫人に背後から追われると、 いっそのこと ぐずぐず だって何も遠慮はいるまい、もし愚図愚図いうなら仁羽をもうじりじりとそんなにされるくらいなら、仁羽が木山夫 自分は引き受けたというぐらいの腹は、ちゃんと木山夫人人に連れられてどこへでも逃げてくれれば、万事それで芽 すうずう でた の図々しく張りきった胸の形に、明らかに出ているのだ。 出度し芽出度しとなるものをと思った。けれども、もとも 木山夫人は奈奈江と一緒に歩いている高が二人の方を見と叔父にすすめられてそのまま仁羽と一緒になったそのこ もちろん 返ると、仁羽に言った。 とが、すでに自分の不幸の最初だったので、勿論、仁羽に 「いま奥さんと歩いていらっしやるお若い方は、あれはどはどこにも責任はないのだから悪いのは重々こちらにある なた ? のにちがいないのだった。 「あれは僕の友人の経済学者です。」 もうただ今は自分には辛抱だけだ、それより他には 何もない。 「あ、そう、あまりお見受けしない方ですわね。」 たび
ねら たがね。いや、どうもこのごろの狙いはすばらしいもんで江にしても高が木山夫人に眼に見えて近づいていくのを見 すよ。あれじゃ、今度の競技会はあの夫人のものですぜきることは心よいことではなかった。 もらろん っと。」 勿論、奈奈江は高に強い関心を持つほど何の期待も持っ 奈奈江は「実に」の言葉の裏が、もうさきからいちいちていなかったとはいえ、別して不愉快な木山夫人にわざわ おくめん 細かく手にとるように響いて来ると、このと・ほけている賢ざ親密にしていく高を見ては、彼の不良さもそんなに臆面 い男は、きっとこれなら自分の秘密ももう嗅ぎつけてしまもない浅はかなものだったのかと、むしろ気の毒な思いも っているにちがいないと、だんだん無気味な気持ちに襲わされるのだった。しかし、考えてみれば藍子も藍子だと奈 れて眼をそ向けた。 奈江は思った。いくら取り急いだときだからとて、娘だて らに高と一緒に伊豆まで来たり、高が木山夫人に近づいた 仁羽の退院の日が間近くなって来たころ、見舞い客の間 からというので、仁羽にまでいら立ち騒いでいくのを見て うわさ ではそれにつれて高と木山夫人との噂が・ほっぽつのぼるよは、あまり自分を馬鹿にしているとも思われた。 うになって来た。この高と木山夫人との間の接近を、誰よ この奈奈江の感情は、東京へ帰ってからも表面には別に りも一番早くから知っていたのは藍子だった。 これといって現れたところはなかったが、藍子を見るとき 藍子は湯ヶ島へ着いたその翌日から、もう高が木山夫人どきの視線や応答には、ともすると自然に現れないではい やまみち と暇さえあれば、山径を散歩したり、川瀬の間を渡り歩いなかった。今までは藍子が仁羽のにいるから安心して外 たりしていたのを知っているのである。彼女は二人の近づへ出かけていったりしたことも、このごろでは、わざわざ はず きが目立てば目立つほど、前より一層義兄の仁羽をめぐっ藍子と仁羽のために場を脱してやるかのように、露骨に藍 て心が波立ち騒いでいかずにはいられなかった。東京へ帰子ひとり残して外出したりする気にもなったりして、奈奈 ってからも、病院へいく度に高が木山夫人とつれ立って帰江はわれながら大人げないと思うこともあるのだが、しか っていったり、どちらも時間を打ち合せてあるらしい様子し藍子が仁羽を愛していることは今まで奈奈江がひそかに 寝でやって来たりするのを見ると、自然に仁羽の枕もとへ擦思っていたほども軽々しく捨てておくことは出来なかっ りよるようにして本を読んでやったり、話しかけたりせずた。隙さえあれば、どうかして仁羽を一度は愛したいと努 にはおれなかった。 力しているこのごろの奈奈江にとって、その藍子の様子を しかし、これは藍子に限ったことばかりではなく、奈奈見ることは、仁羽から一層奈奈江を遠ざけていくことと同 す、
218 すると、もう眠ったと思っていた木山夫人が、突然、静 すから、もうどうぞ。」 すす 奈奈江は木山夫人のいままで素っ気なかった様子が、急に泣き始めた。奈奈江は夫人の啜り上げる声を聞いている に柔かに変って来たのを見ると、夫人の意地の底に張り詰と、それに連れて自分もだんだん涙が溢れて来た。あんな に良い良人であった仁羽が、毎日毎日自分に嫌われて、そ めていた敵意が、ばっくり口を開けて、幼ない冷笑に変っ て来たのを感じた。しかし、奈奈江はもう木山夫人と争うしてとうとう最後に自分に撃たれて死んでいくのだと思う りつぜん もた ところが今の自分のどこにあるだろうと思った。自分はたと、奈奈江は初めて慄然として頭を抬げずにはいられなか った。もし仁羽がもっと自分に愛されて死んでいくものだ しかに、良人を救おうとして引金を引いたのにちがいなか ったら、まだしも自分の罪は軽いであろう。けれども、そ った。けれども、自分は猪が良人に向って躍りかかろうと した瞬間、少しも梶の姿を思い浮べはしなかったであろうれがほとんど一度も自分に愛されずに、あんなに無惨に死 んでいくのだと思うと、奈奈江は悲しさに耐えられなくな 奈奈江はそれを思うと、木山夫人にどんなに侮辱をされって泣き出したのだ。 ようとも、彼女が仁羽を愛している心の前では何事も耐え木山夫人は奈奈江の泣き声を聞くと、びったり自分の泣 にら くのをやめて起き上った。彼女はしばらく、睨むように奈 忍んでいなければならぬと思った。いや、それどころでは なが ねら ない。もう奈奈江は自分自ら、仁羽を狙って撃ったのだ奈江の首すじの上でかすかに慄えている豊かな髪を眺めて いたが、ぶいっと立ち上るとそのまま病室の方へ出ていっ と、裁判のときには口外しようとさえ決心していたほどな のだ。もしこの傷ついたものが仁羽でなくって梶だった ら、そうしてもしこの梶を撃ったものが自分でなくって木奈奈江は木山夫人がいなくなると、一層激しく泣き出し 、そう思うと、そのときの自分のた。彼女はわれながらどうしてこんなに激しく泣くのであ 山夫人であったなら ろら′ばい ろうと思ったが、声が胸の底から次ぎから次ぎへと押し上 狼狽の仕方はたしかに今の自分のようではないだろう。 だが、もうどうしようとも、奈奈江は梶とはこれで逢うげて来て停らなかった。しかし、泣いているうちに、涙の 良人を撃つ中から、自分のしたことはあの場合、誰だってあれ以外ど ことは出来ないにちがいないと思った。 ささや うしようもないことだったと囁く理性に、だんだん明瞭に いや、梶こそ、 て、まだその上梶と逢っていたなら、 良人を撃った自分と逢うようなことは以後絶対にしないの呼び醒された。すると、奈奈江は誰かの声を聞くようにび ったりと泣きゃんだ。心は暗い底から次第に上層の明るみ は分っているのだ。 おっと ふる あふ
矢つばり、これや、あやまちだろう。 払った眼前の態度がどうしても分らなかった。 しかし、そうは思っても、奈奈江に愛人のあることと仁一行は自動車を乗り捨てておいた山路まで来ると、仁羽 羽を傷害さしたこととは、彼は放して考えることは出来なに付き添って奈奈江夫人と木山夫人が乗り、その後の車に 頼母木夫妻と「実に」が乗って、湯ヶ島の方へ降りていっ いや、わしもわしで、これやちょっと、奈奈江夫人た。 におかしいにはおかしいさ。 「実に」は、前の車の上で揺れていく奈奈江と木山夫人と 彼はうつかり、仁羽の血の滴っている担架の後でふと思を眺めながら、あの二人はこれから当分の間は、たいへん わず心の一角に笑みを落そうとしかけたが、さきほどからなことだと思った。一人は仁羽の家内だし、一人は仁羽を おろおろしている木山夫人の強い顔を思い浮べては、何か何より好きな木山夫人のことだから、まあどちらも今のよ を飲み込む思いでまた歩いた。すると、彼の後から急に女うにびつくりしている間は良いものの、しばらくたって落 すす の駸り泣く声が聞えて来た。彼はそれが木山夫人か奈奈江ちついたら、これはどうなることかと心配した。いずれそ 夫人かどちらの泣き声であろうかと耳を立てたが分らなかのときにでもなったなら、自分は一層ひょっとこ面をし て、二人の間をとりもたねばならぬのであろうが、来ると しかし、とにかく、どっちにしたところで、これや仁羽きでさえともすると険悪だった二人の間なのだから、いよ ほお は助からぬと「実に」は思った。彼は担架の上の、草の汁いよこれは気骨の折れることおびただしいと思って、頬を くっ なが で青く汚れている仁羽の靴の裏を眺めながら、山を降りた風の中で撫で廻した。 らトラップの面々へ電報を打って良いものかどうかと迷っ だが、それより、あの猪はいったいどこへいって た。 一行が山下の病院へ着くと直ぐ仁羽は診察室へ運ばれ ほとん しまったものだろう。 た。医者はもう殆ど虫の息ほどになっている仁羽の腹部を 丁度そのとき、頼母木は一番後から歩いていた。彼はも開いて検診すると、黙って何も言わなかった。ただ先ず何 寝しこの今の仁羽の場合が、自分の場合だったらどうするだより輸血をしなければというので、仁羽と一緒について来 た勢子の中から人を選んで一九〇グラムほどの輸血だけは ろうと思っていたのだ。自分に襲いかかって来た危機を、 妻が救おうとして誤って自分を撃ったら、自分の妻なら今すませたが、腹部に残った弾丸など医者は抜きとろうとし 頃はーーと思うと、単純な頼母木は奈奈江夫人の落ちつきなかった。しかし、輸血をした後の仁羽はそれでいくらか
「あ、そうだ、僕はすっかり忘れていた。仁羽さんに一言 「いや、これはどうも。今日は僕帰りに、ホテルのグリル 0 ちそう 御挨拶して来なくちゃ」 御馳走しますから、そうまア怒らないで下さいよ。」 高が急に引き返そうとするのを、奈奈江はひき留めて、 「お分りになったんならいいけど、あたしこれでも、仁羽 「あら、だって、そんなことしちゃ、邪魔するだけよ。おを大切にしてるんですからね、あんまりあの人を馬鹿にし ないでやって下さいな。」 よしなさいな。あたし、帰ったらよくそのこと言っとく 言いながらもう一一人はクレー小屋の傍まで歩いて来た。 「そうですか、かまいませんか。」 しばム 「え工え、いいの、あれですっかり喜んでいるときですか仁羽は木山夫人にひつばられて前方の芝生を歩いていく 高と自分の妻との後を追っていきながら、自分のそうして らね、ときどきはああして楽しい思いをさせとかないと、 いることが、何を意味しているのか全然そんな細かい事柄 仁羽だって気の毒だわよ。」 「そりや全く気の毒は気の毒ですが、奥さんそんなこと、 には気のつかない男であった。ーー彼は奈奈江が自分にど んなことをしようとも、恐らくいまだに懐疑の精神を働か ずけずけいつも帰ってから仰言るんですか。」 えら 「え工え、あたし、いつでも。ーー仁羽はそこが豪いのよ。せたことがないといっても良かった。だから、標的を狙え あたしが何を言ったって、平気の平左よ。それやもう、あば当るより能がなく、クラ・フ切っての銃の名人になること はなむこ ぐらい何の不思議もないと、そういつも奈奈江に冷かされ んな有難い御亭主さんって、まア三国一の花婿さんね。」 「あれでこっちから見ていると、どうも仁羽さん、どっかているのである。 木山夫人に撃たれてらっしやるところがありそうに見えま今も仁羽は木山夫人と歩きながら、目的はただクレー」 すね。」 屋にいる銃の鑑定の名人の爺やに、昨夜買ったパーデ 1 を 見せにいくことだとばかり思っていて、木山夫人が自分を すると、奈奈江は急につんとして見せて言った。 園 ひつばって奈奈江の後をこれ見よがしに追うことなんか、 「生意気だわ、あなたがそんなことを仰言るのは。」 寝「だって、僕だって、これでもう仲人を三組もして来た男一向に彼には分らないのであった。しかし、そうかといっ て、それなら仁羽は馬鹿かというと、必ずしもそうではな なんですからね。」 コ一一組か四組か知らないけど、仁羽だって、あれでもあた かった。彼は物事を疑うという精神がないだけで、同時に しが傍についていますのよ。」 その欠点を補うかのように、物事を疑う奴ほどそれほどま
に向って浮き上って来た。やがて、木山夫人が彼女の傍へ もど 戻って来ると、奈奈江は代って部屋の外へ出ていった。 彼女は病室のガラス戸の前まで来ると、外から仁羽の寝明日まで保てば病人は助かるかも知れないと言われてあ めいもく うかが 台を窺いながら両手を合せて瞑黙した。 っただけ、奈奈江はその夜は一睡も出来なかった。しかし だんだん空が白み始め、谷間の温泉から立っ湯煙りが、樹 「ーーどうそ、神様、あの仁羽をお助け下さいまし、 かわいそう 樹の間にからまって流れているのが見え出して来ると、そ どうそ、可哀想な仁羽をお助けなすって下さいまし。」 ようや しかし、祈るやいなや、奈奈江の心底からは、また梶のれでは仁羽もこれで漸く助かる見込だけはっき始めたのだ にわか と思った。すると、奈奈江の心は俄に生き生きとし始め、 姿がうるさく悪魔のように浮き上って来るのであった。 あのときは、 引金を引くときは、たしかに梶の姿が軽く踊るかのように爽やかな気持ちが身体の中を流れて来 浮んだではないか。それはどうだ、それはどうだと、奈奈た。 江は再び自分を窮地に追い込みながら暗い廊下を歩き始め木山夫人が眼を醒したときは、もう朝日が重なり合っ た。すると、また彼女はだんだん自分が引金を引いたのはた木の間の底色さえ鮮やかに浮き立たせていた。彼女はよ 仁羽を殺すがために引いたのか、猪を殺すがために引いたもや自分だけは眠るようなことがあるまいと思っていただ のか分らなくなって来るのだった。 けに、まだ眠らずに起きている奈奈江の姿を見つけると、 奈奈江が部屋へ這入ったときは、もう木山夫人は昼間の心がびりりとはじかれたように不機嫌になった。彼女は奈 疲れが出たのであろう。鈍い電光を受けて、猟服のまま低奈江の後姿を横目で見ながら、ふん、道理で眠ることも出 い鼾を立てつつソファ 1 の上に眠っていた。すると、奈奈来ないだろうと、にやりともう笑みさえ浮べて直ぐに仁羽 江はもしかしたらこの女は、仁羽を愛するあまり、自分がの病室の方へ出ていった。しかし、また彼の部屋が鈍い昨 仁羽を撃ったのは梶を慕って撃ったのだと、もう警部補に夜の電燈のままに、何の異状もなく静まり返っているのを 告げロしてしまってあるにちがいないと思った。彼女はし見ると、急に明るい顔をして、くるりと戸口に背を向けて のぞ 寝ばらく、ケ 1 ス帯の円く並んだ弾丸の傍でロをかすかに開コンパクトの鏡を覗いた。彼女は朝日を受けた寝不足の肌 いている木山夫人の寝顔を眺めて立っていたが、ふと急が脂肪を溜めたまま青ざめているのを眺めながら、明日も 四に、自分の良人を奪おうとしている女はこの女だと、はツ翌々日も、そのままずっともう当分の間は、仁羽の傍から と見返すように激しく敵意の燃え上って来るのを感じて来自分は離れずに付き切りにいようと思った。自分の良人の さわ はだ
も、自分にいつも馬鹿扱いにされ続けている仁羽を思う深く這入っていった。 と、これはまたこれで奈奈江には気の毒でならぬのだっ猪狩となると、一層荘重にメン・ハー達の上で、どっしり と落ちつき出す仁羽を見ると、木山夫人はこれがもし戦争 奈奈江はお茶を飲んで仁羽と別れると、一層梶に逢いた なら、仁羽はたいした手柄をたてようものをと思って、瓏 あまぎ かかわ くなった。明日はどうしても梶を天城へ連れていかねばとれ瓏れとした。彼女は仁羽夫人の奈奈江が傍にいるにも拘 やたら 思い出すと、無性矢鱈とせわしい気になって来て、 らず、絶えず奈奈江のことなんかは問題ではなく、押し強 もし明日梶が来なければ、 くも夫婦気取りで仁羽の傍ばかりにくつついていて離れな そうだ、どうしても明日だけは、 かった。「実に」は、これまた各人の気持ちの運動に敏感 もだ と奈奈江はひとり車の中で悶え出した。家へ帰ると、彼な男のこととて、最初から一行を笑わせては山気をやか 女はまた直ぐ梶の所へ猪狩に誘う速達を書いて、今度だけに波立たせるので、自然奈奈江と木山夫人の間も、何の風 は一切を忘れて出て来てほしい。特にあなたのために計画波も立たずに流れていた。 した猪狩なんだから、もし出て来てくれなければ、自分は しかし、奈奈江だけは今朝からいつもの奈奈江とどこと どんなになるか分らないとまで付け加えた。 なく違っていた。彼女は湯ヶ島の宿を出るまでは、まだ梶 手紙を出させにやると、奈奈江はすっかりこの二三日でがもしかしたら後からひょっこり来ないものでもないと思 や 痩せてしまった自分に気がついた。これでもし明日になっ っていたのだった。それがいよいよ来ないと分ってからは て、梶でも向うへ行っていてくれなければ、ほんとうに自もう手に持つ高価なランカスターも、やがて始まろうとす ずうすう 分はどんな風になるだろうと思って、また一層ぐったりとる猪狩も、ましてや木山夫人の図々しさなどは奈奈江の眼 ほおづえ なって頬杖をつくのであった。 中にはなかった。ただ彼女は始終、「実に」の閃めく冗談 に巧に応酬しながらも、おかしくもないのに、ひとり帯の 奈奈江達一行の猟銃連は湯ヶ島で勢揃いをして天城の山編んだ女のようにしまりなく笑っていた。 へ這入ってからいよいよそこで猪狩にかかりはじめた。 仁羽は山へ這入ってからは、絶えず山のラインの凸凹 あわ やと 山里で傭った勢子と猟師併せて三十人ほどと、仁羽夫妻や、道の上の枯草の乱れを細かく調べながら歩いていた。 に木山夫人、それに「実に」と他に頼母木という無経験な彼はもう周囲の人のことなどは、そこにいるかとも思って トラップのメン・ハー夫妻、総勢四十人の一行はだんだん山 いない。手馴れた猟人らしく手織のホ 1 ムスパンに、わざ ししがり たのもぎ せいぞろ てな ひら
「それはお早ようござんしたわね。もう御様子はお聞きに付いたのであろう。急に話題をかえると笑いながら言っ こ 0 なりまして ? 」 「いや、よくは聞かないんですけども、どうなんですかね、「あなたの方のお部屋はどちらでございまして。」 まだ仁羽さんには逢わないんですからちっとも分らないん「僕のはあの一番はずれです。」 ですよ」 「ああ、あそこは静で良うございますわね。あたくしのと 「それがあなた、たいへんなんですよ。お臍の横からはすころも静は静ですけど、ときどき栗の実がこつんこつんと にこう横へ弾丸がそれて貫けてますのよ。あたしそのとき落っこって来てトタン屋根へあたるものですから、びつく 丁度仁羽さんの横にいたもんですからね、全くほんとうに りして眼がさめちまいますの。」 「それや素晴らしいじゃないですか。明日は、じゃ、ひと うろたえてしまいましたの。」 ふと 高は木山夫人が肥った自分の腹部に指さきをあてて弾丸つ、栗ひろいにでも行きましようかね。」 の貫き通ったところを窪ませて見せると、わけもなく高も「ええ、行きましようよ、河原にはそれは沢山落ちていま すのよ。」 自分の腹部を撫でてみた。 「でも、よくここまで保ったもんですね、あの山からなら「それは是非つれてっていただきたいもんですな。せめて どんなに早く来たって、一一三十分はかかるでしようが。」病人の見舞いに来たんですから、こちらだけでもせいぜい 「そうなんですの。だけど、あたくし、奥様の気のお強いのびのびしないと、やりきれませんですからね。」 のにはつくづく驚いてしまいましてよ。山から病院まで来高はそう言って勢い良く湯を跳ね飛ばしながら湯槽から る自動車の中でも、涙一滴もおこ・ほしにならないんですか立ち上った。すると、木山夫人も、それはそうだと言うか らね。あたしのような他人でも悲しくって悲しくって泣きのように、しばらく高の顔を面白そうに眺めていてから、 つづけていたんですけど。でも、あんまりびつくりなすっゆだった背中の肉をぶるんぶるん揺るがせながら更衣室の 園 方へ登っていった。 たからかもしれませんわね。あんなときには。」 寝「そうかもしれませんね。さぎお逢いしたときにはひどく 痩せていらしたようでしたから。しかし、当分はまアここ藍子はその夜遅く仁羽が眼を醒すと、初めて看護婦に仁 羽の病室へ案内された。家を出ていくときとは見違えるほ からは動けませんでしようね。」 木山夫人はふと高はこれは奈奈江の味方だったのだと気ど痩せた義兄の顏や、全く生色を無くした土色をしている へそ ゅよね
ことなんかは、自分がいなくたって代りにいくらでも良人から電話がかかって来た。出ると高が向うから藍子に言っ のことをしてくれる女がいるのだと思えば、今さら周章てた。 「もしもし、あなた藍子さん ? 」 て帰る気にもなれなかった。電報を一本打っておいて、こ ちらが気が向いたからとさえ言っておけば、良人も良人で「ええ、そう。あたし、藍子。」 却ってうるさくなくって良いと思って喜んでいるのにちが「そう、僕、高。」 いや、それより何より、木山夫人には日頃の「先日は、 じうまん 傲慢な奈奈江がもう直き警官に曳かれていくところが一度「いや、どうも、僕こそ、 見たくて仕様がないのであった。もしこのまま奈奈江が曳「何か御用、お姉さんにだと、今日は駄目よ。」 かれず仕舞いに終るのだったら、むしろ自分から警察へ訴「姉さん、いらっしやらないんですか。僕、梶さんのこと ちょっと え出たってかまやしないとさえ彼女は思った。人から憎まで、一寸用事があるんだけど。」 れるということの不愉快さなんかは、木山夫人は恐らく今「駄目よ、お姉さん昨日から猪狩にいらっしてるのよ。」 までに一度も考えたこともないほどの女なのだから、奈奈「猪狩に、 じや今日はあなたお一人なんですね。」 しっと 「ええ、そうなの。」 江を嫉妬の対象物として此の場合落し込むことなんかは、 木山夫人にとっては容易なことだというより、当然なこと「じゃ、僕、今日おひる過ぎからいきますよ。」 「ええ、 であった。何といったって自分の愛人を撃ったのだ。その 撃ち手がたとえ仁羽の夫人だとは言え、それなら残された「多分、一時過ぎになるかと思うんですが、 愛人は・ほんやりしているより以外に権利はないのか。い 「でも、なるたけ、いらっしやらないようにして下さる や、こうなればもう家内より愛人だ。と、朝日がだんだんと、 いいんだけど。」 がむしやら 高く昇って来るに従って、一層彼女は普段の我武者羅な強「どうしてです。」 ころ・ 気が昻じて来た。 「だって、高さんいらっしやると、あたし、どこへも出ら れないんですもの。」 奈奈江も仁羽も猪狩にいってしまって留守なので、藍子「かまいませんよ、藍子さんお出かけになったって。僕、 ごと は大将のように女中達を自分の部屋へ呼び集めて、朝毎にあなたの後へいったっていいんですから。」 わ、いらしっても、ーー」 届く果物の溜ったのを皆と一緒に食べていた。そこへ、高「だけど、いい かえ ししがり