栖方 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 15 横光利一集
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1. 現代日本の文学 15 横光利一集

その夜は梶と高田と栖方の三人が技師の家の一一階で泊っ空襲中、技師は結婚し、その翌日急病で死亡したという一一 た。高田が梶の右手に寝て、栖方が左手で、すぐ眠りに落つの話を、梶は高田から聞いただけである。栖方と同じ所 ちた一一人の間に挾まれた梶は、寝就きが悪く遅くまで醒めに勤務していた技師に死なれては、高田もそこから栖方の ムとん ことを聞く以外に、法のなかったそれまでの道は断ちきれ ていた。上半身を裸体にした栖方は蒲団を掛けていなかっ したが た。上蒲団の一枚を四つに折って顔の上に乗せたまま、両たわけであった。随って梶もまたなかった。 手で抱きかかえているので、彼の寝姿は座蒲団を四五枚顔戦争は終った。栖方は死んでいるにちがいないと梶は思 こつけい の上に積み重ねているように見えて滑稽だった。どういうった。どんな死に方か、とにかく彼はもうこの世にはいな のぞ 夢を見ているものだろうかと、夜中ときどき梶は栖方を覗いと思われた。ある日、梶は東北の疎開先にいる妻と山中 きこんだ。ゆるい呼吸の起伏をつづけている臍の周囲のうの村で新聞を読んでいるとき、技術院総裁談として、わが すい脂肪に、鈍く電燈の光が射していた。蒲団で栖方の顔国にも新武器として殺人光線が完成されようとしていたこ かく が隠れているので、首なしのように見える若い胴の上からと、その威力は三千メートルにまで達することが出来た その臍が、 が、発明者の一青年は敗戦の報を聞くと同時に、口惜しさ こわ 「僕、死ぬのが何んだか恐くなりました。」と梶に呟く風のあまり発狂死亡したという短文が掲載されていた。疑い だった。梶は栖方の臍も見たと思って眠りについた。 もなく栖方のことだと梶は思った。 「栖方死んだぞ。」 梶と栖方はその後一度も会っていない。その秋から激し梶はそう一言妻に言って新聞を手渡した。一面に詰った ほのお くなった空襲の折も、梶は東京から一歩も出ず空を見てい黒い活字の中から、青い焔の光線が一条ぶっと噴きあが たが、栖方の光線はついに現れた様子はなかった。梶は高り、ばらばらッと砕け散って無くなるのを見るような迅さ すみか 田とよく会うたびに栖方のことを訊ねても、家が焼け棲家で、梶の感情も華びらいたかと思うと間もなく静になって のなくなった高田は、栖方についてはもう興味の失せた答いった。みな零になったと梶は思った。 えをするだけで、何も知らなかった。ただ一度、栖方と別「あら、これは栖方さんだわ。とうとう亡くなったのね。 れて一ヶ月もしたとき、句会の日の技師から高田にあてて、 一機も入れないって、あたしに言ってらしたのに。ほんと えりしよう 栖方は襟章の星を一つ付加していた理由を罪として、軍のに、敗けたと聞いて、くらくらッとしたんだわ。どうでし 刑務所へ入れられてしまったという報告のあったことと、 よ . ら・ - 0 」 はさ へそ つよや はな はや

2. 現代日本の文学 15 横光利一集

ども、おれは、証明して見せて言うんですから、仕方がな動けぬ自分の嫉妬が淋しかった。何となく、梶は栖方の努 いでしよう。これからの船は速度が迅くなりますよ。」 力のすべてを否定している自分の態度が淋しかった。 うんしゅう どうでも良いことばかり雲集している世の中で、これだ「君、排中律をどう思いますかね、僕の仕事で、いまこれ けはと思う一点を、射し動かして進行している鋭い頭脳のが一番問題なんだが。」 おとな 前で、大人たちの営々とした間抜けた無駄骨折りが、山の梶は、問うまいと思っていたことも、ついこんなに、話 ように梶には見えた。 題を外らせたくなって彼を見た。すると、栖方は、「あツ」 たな 「いっぺん工場を見に来て下さい。御案内しますから。面と小声の叫びをあげて、前方の棚の上に廻転している扇風 白いですよ。俳句の先生が来たんだからといえば、許可し機を指差した。 せいほう てくれます。」栖方は、梶が武器に関する質問をしないの「零点五だツ。」 もちろん ・、不服らしく、梶の黙っている表情に注意して言った。 閃めくような栖方の答えは、勿論、このとき梶には分ら 「いや、それだけは見たくないなア。」と梶は答えを渋つなかった。しかし、梶は、訊き返すことはしなかった。そ の瞬間の栖方の動作は、たしかに何かに驚きを感じたらし 栖方は一層不満らしく黙っていた。前後を通じて栖方がかったが、そっとそのまま梶は栖方をそこに沈めて置きた 梶に不満な表情を示したのは、このときだけだった。 「そんなところを見せてもらっても、僕には何の益にもな 「あの扇風機の中心は零でしよう。中の羽根は廻っていて はず らんからね。見たって分らないんだもの。」 見えませんが、ちょっと眼を脱して見た瞬間だけ、ちらり これは少し残酷だと梶は思いもした。しかし、梶には、 と見えますね。あの零から見えるところまでの距離の率で こんてい 物の根柢を動かしつづけている栖方の世界に対する、言いすよ。」 つぼ がたい苦痛を感じたからである。この梶の一瞬の感情に 間髪を入れぬ栖方の説明は、梶の質問の壺には落ち込ん こ - も は、喜怒哀楽のすべてが籠っていたようだった。便々としでは来なかったが、いきなり、廻転している眼前の扇風機 はやわざ て為すところなき梶自身の無力さに対する嫌悪や、栖方のをひっんで、投げつけたようなこの栖方の早業には、梶 ひるがえすべ 世界に刃向う敵意や、殺人機の製造を目撃する淋しさや、も身を翻す術がなかった。 勝利への予想に興奮する疲労や、 いや、見ないに越し「その手で君は発明をするんだな。」 つまず たことはない、と梶は思った。そして、栖方の言うままに「おれのう、街を歩いていると、石に躓いてぶつ倒れたん ひら しっと

3. 現代日本の文学 15 横光利一集

です。そしたら横を通っていた電車の下っ腹から、火の噴必定である。もしまた勝っとしても、用がすめば、そんな いているのが見えたんですよ。それから、家へ帰って、ラ危険な人物を人は生かして置くものだろうか。いや、危 と梶はまた思った。この危険から身を防ぐためには、 ジオを点けようと思って、スイッチをひねったところが、 ぼッと鳴って、そのまま何の音も聞えないんです。それ ーー梶はその方法をも考えてみたが、すべての人間を善人 で、電車の火と、ラジオのぼッといっただけの音とを結びと解さぬ限り、何もなかった。 あんたん かかわ つけて見て、考え出したのですよ。それが僕の光線です。」 しかし、このような暗澹とした空気に拘らず、栖方の笑 ひら この発想も非凡だった。しかし、梶はそこで、急いで栖顔を思い出すと、光がぼッと射し展いているようで明るか うれ 方のロを絞めさせたかった。それ以上の発言は栖方の生命った。彼の表情のどこ一点にも愁いの影はなかった。何も にかかわることである。青年は危険の限界を知らぬもののか見えないものに守護されている貴さが溢れていた。 だ。栖方も梶の知らぬところで、その限界を踏みぬいてい ある日、また栖方は高田と一緒に梶の家へ訪ねて来た。 る様子があったが、注意するには早や遅すぎる疑いも梶にこの日は白い海軍中尉の服装で短剣をつけている彼の姿 は起った。 は、前より幾らか大人に見えたが、それでも中尉の肩章は 「倒れたのが発想か。倒れなかったら、何にもないわけだまだ栖方は似合ってはいなかった。 たびたび な。」 「君はいままで、危いことが度々あったでしよう。例えば これもすべてが零からだと梶は思って言った。彼は栖方今思ってもぞっとするというようなことで、運よく生命が おも が気の毒で堪らなかった。 助かったというようなことですがね。」と、梶は、あの思 惑から話半ばに栖方にねてみた。 その日から梶は栖方の光線が気にかかった。それにして「それはもう、随分ありました。最初に海軍の研究所へ連 も、彼の言ったことが事実だとすれば、栖方の生命は風前れられて来たその日にも、ありました。」 ともしび 笑 の燈火だと梶は思った。いったい、どこか一つとして危険栖方はそう答えてその日のことを手短に話した。研究所 でないところがあるだろうか。梶はそんなに反対の安全へ着くなり栖方は新しい戦闘機の試験飛行に乗せられ、急 すま 率の面から探してみた。絶えず隙間を狙う兇器の群れや、直下するその途中で、機の性能計算を命ぜられたことがあ ほのお たくら しっしちゅうしよう 嫉視中傷の起す焔は何を謀むか知れたものでもない。もし 0 た。すると、急にそのとき腹痛が起り、どうしても今日 戦争が敗けたとすれば、その日のうちに銃殺されることもだけは赦して貰いたいと栖方は歎願した。軍では時日を変 たま ねら たっと

4. 現代日本の文学 15 横光利一集

さんにこれだれが書いたんだと訊いたら、あんたがゆうべ栖方たちが帰っていってから十数日たったある日、また 書いてたじゃありませんかというんです。僕はちっとも知高田ひとりが梶のところへ来た。この日の高田は凋れて らないんですがね。」 いた。そして、梶に、昨日憲兵が来ていうには、栖方は発 、らが 「じや気狂い扱いにされるでしよう。」 狂しているから彼の言いふらして歩くこと一切を信用しな 「どうも、そう思ってるらしいですよ。」栖方はまた眼をいでくれと、そんな注意を与えて帰ったということだっ 上げてばッと笑った。 た。 それでは今日は栖方の休日にしようと言うことになつ「それで栖方の歩いたところへは、皆にそう言うようとい て、それから梶たち三人は句を作った。青葉の色のにじむう話でしたから、お宅へも一寸そのことをお伝えしたいと 方に顔を向けた栖方は、「わが影を逐ひゆく鳥や山ななめ」思いましてね。」 という幾何学的な無季の句をすぐ作った。そして、葉山の 一撃を喰った感じで梶は高田と一緒にしばらく沈んだ。 しよくもく 山の斜面に鳥の逐っていた四月の矚目だと説明した。高田みな栖方の言ったことは嘘だったのだろうか。それとも、 まなぎし けんよく の鋭く光る眼差が、この日も弟子を前へ押し出す謙抑な態 彼を狂人にして置かねばならぬ憲兵たちの策略の苦心 こころづか 度で、句会の場数を踏んだ彼の心遣いもよくうかがわれは、栖方のためかもしれないと思った。 「君、あの青年を僕らも狂人としておこうじゃないです か。その方が本人のためにはいい。」と梶は言った。 「三たび茶を戴く菊の薫りかな」 たか 高田の作ったこの句も、客人の古風に昻まる感情を締め「そうですね。」高田は垂れ下っていくような元気の失せ 抑えた清秀な気分があった。梶は佳い日の午後だと喜んた声を出した。 だ。出て来た梶の妻も食べ物の無くなった日の詫びを言っ 「そうしとこう、その方がいいよ。」 、ゆうり てから、胡瓜もみを出した。栖方は、梶の妻と地方の言葉高田は栖方を紹介した責任を感じて詫びる風に、梶につ で話すのが、何より慰まる風らしかった。そして、さっそ いて揚がっては来なかった。梶も、ともすると沈もうとす る自分が怪しまれて来るのだった。 徴く色紙へ、 「方言のなまりなっかし胡瓜もみ」という句を書きつけた「だって君、あの青年は狂人に見えるよ。またそうかも知 りした。 れないが、とにかく、もし狂人に見えなかったなら、栖方 君は危いよ。あるいはそう見えるように、僕ならするかも ちょっと しお

5. 現代日本の文学 15 横光利一集

然ではなかった。それにしても、この少年が祖国の危急を いになるかもしれないね。」 梶はそう言う自分が栖方を狂人と思って話しているのか救う唯一の人物だとは、ーー・・実際、今さし迫って来ている どうか、それがどうにも分らなかった。すべて真実だと思戦局を有利に導くものがありとすれば、栖方の武器以外に こと 0 と ありそうに思えないときだった。しかし、それにしてもこ えば真実であった。嘘だと思えばまた尽く嘘に見えた。 そして、この怪しむべきことが何の怪しむべきことでもなの栖方がーー幾度も感じた疑問がまた一寸梶に起ったが、 。さつばりしたこの場のただ一つの真実だった。排中律何に一つ梶は栖方の言う事件の事実を見たわけではない のまっただ中に泛んだ、ただ一つの直感の真実は、こうしまた調べる方法とてもない夢だ。彼のいう水交社への出入 ていま梶に見事な実例を示してくれていて、「さア、どうも栖方一人の夢かどうか、ふと梶はこのとき身を起す気持 だ、どうだ。返答しろ。」と梶に迫って来ているようなもちになった。 かかわ のだった。それにも拘らず、まだ梶は黙っているのであ「君という人は不思議な人だな、初めに君の来たときに あしおと る。「見たままのことさ、おれは微笑を信じるだけだ。」は、何んだか跫音が普通の客とどこか違っていたように思 」と梶は呟くように言った。 と、こう梶は不精に答えてみたものの、何ものにか、巧みったんだが。 ほんろう 「あ、あのとき、おれ、駅からお宅の玄関まで足数を計っ に転がされころころ翻弄されているのも同様だった。 ごちそう 「今日お伺いしたのは、一度御馳走したいのですよ。一緒て来たのですよ。六百五十一一歩。」栖方はすぐ答えた。 なぞ なるほど、彼の正確な足音の謎はそれで分った、と梶は にこれから行ってくれませんか。自動車を渋谷の駅に待た 思った。梶は栖方の故郷を県のみを知っていて、その県 せてあるのです。」と栖方は言った。 「今ごろ御馳走を食べさすようなところ、あるんですか。」のどこかは知らなかったが、初め来たとき梶は栖方に、君 あったね の生家の近くに平田篤胤の生家がありそうな気がするが、 「水交社です。」 「なるほど、君は海軍だったんですね。」と、梶は、今日と一言訊くと、このときも「百メータ、」と明瞭にすぐ答 えた。また、海軍との関係の成立した日の腹痛の翌日、新 は学生服ではない栖方の開襟服の肩章を見て笑った。 徴「今日はおれ、大尉の肩章をつけてるけれど、本当はもう飛行機の性能実験をやらされたとき、栖方は、垂直に落下 少佐なんですよ。あまり若く見えるので、下げてるんでして来る機体の中で、そのときでなければ出来ない計算を 四度び繰り返した話もした。そして、尾翼に欠点のあるこ 少年に見える栖方のまだ肩章の星数を喜ぶ様子が、不自とを発見して、「よくなりますよ、あの飛行機は。」と言っ つぶや ちょっと

6. 現代日本の文学 15 横光利一集

うずま ラットは、車内から流れ出る客と乗り込む客とで渦巻いてりした。電車の中でも栖方は、二十一歳の自分が三十過ぎ 3 いた。その群衆の中に混って、乗るでもない、降りもしなの下條を呼びつけにする苦痛を語ってから、こうも言っ い一人の背高い、蒼ざめた帝大の角帽姿の青年が梶の眼にた。 とまった。憂愁を湛えた清らかな眼差は、細く耀きを帯び「僕がいま一番尊敬しているのは、僕の使っている三十五 て空中を見ていたが、栖方を見ると、つと美しい視線をさの伊豆という下級職工ですよ。これを叱るのは、僕には一 つら けて外方を向いたまま動かなかった。 番辛いことですが、蔭では、どうか何を言っても赦して貰 いたい、工場の中だから、君を呼び捨てにしないと他のも 「あそこに帝大の生徒がいるでしよう。」 のが、言うことを聞いてはくれない、国のためだと思っ と栖方は梶に言った。 えら て、当分は赦してほしいと頼んであるんです。これは豪い 「うむ、いる。」 「あれは僕の同僚ですよ。やはり海軍詰めですがね。」 男ですよ。人格も立派です。そこへいくと、僕なんか、伊 えりしよう 群衆の流れのままに二人は、海軍と理科との二つの襟章豆を呼び捨てに出来たもんじゃありませんがね。」 この栖方のどこが狂人なのだろうか、と梶はまた思っ をつけたその青年の方へ近づいた。 としうえ てきがいしん 「あツ、黙っているな。敵愾心を感じたかな。」と栖方はた。一一十一歳で博士になり、少佐の資格で、齢上の沢山な 言うと、横を向いた青年の背後を、これもそのまま梶と一下僚を呼び捨てに手足のごとく使い、日本人として最高の 栄誉を受けようとしている青年の挙動は、栖方を見遁して 緒に過ぎていった。 「もう僕は、憎まれる憎まれる。誰も分ってくれやしな他に例のあったためしはない。それなら、これからゆく先 かつばっかっかっ 。」と栖方はまた呟いたが、歩調は一層活発に戞々と響の長い年月、栖方は今あるよりもただ下るばかりである。 いた。並んだ梶は栖方の歩調に染ってリズミカルになりな何という不幸なことだろう。梶はこの美しい笑顔をする青 がら、割れているのは群衆だけではないと思った。日本で最年が気の毒でならなかった。 とら まみあな 六本木で一一人は降りた。橡の木の並んだ狸穴の通りを歩 も優秀な実験室の中核が割れているのだ。 いたとき、夕暮のせまった街に人影はなかった。そこを坂 栖方が待たせてあると言った自動車は、渋谷の広場には いなかった。そこで二人は都電で六本木まで行くことにし下からこちらへ十人ばかりの陸軍の兵隊が、重い鉄材を積 えりしよう たが、栖方は、自動車の番号を梶に告げ、街中で見かけたんだ車を曳いて登って来ると、栖方の大尉の襟章を見て、 ときはその番号を呼び停めていつでも乗ってくれと言った隊長の下士が敬礼ッと号令した。びたツと停った一隊に答 あお たた つぶや まなざし かがや しか みのが

7. 現代日本の文学 15 横光利一集

妻のそういう傍で、梶は、栖方の発狂はもうすでにあのきどき彼を見舞いに来る高田と会ったとき、梶は栖方のこ ときから始っているのだと思われた。彼の言ったりしたりとを言い出してみたりしたが、高田は死児の齢を算えるつ したことは、あることは事実、あることは夢だったのだとまらなさで、ただ曖昧な笑いをもらすのみだった。 思った。そして梶は自分も少しは彼に伝染して、発狂のぎ「けれども、君、あの栖方の微笑だけは、美しかったよ。 ふた ざしがあったのかもしれないと疑われた。梶は玉手箱の蓋あれにあうと、誰でも僕らはやられるよ。あれだけはーー」 しばら 微笑というものは人の心を殺す光線だという意味も、梶 を取った浦島のように、呆ッと立っ白煙を見る思いで暫く 空を見あげていた。技師も死に、栖方も死んだいま見る空は含めて言ってみたのだった。それにしても、何よりも美 に彼ら一一人と別れた横須賀の最後の日が映じて来る。技師しかった栖方のあの初春のような微笑を思い出すと、見上 の家で一泊した翌朝、梶は栖方と技師と高田と四人で丘をげている空から落ちて来るものを待っ心が自ら定って来る 降りていったとき、海面に碇泊していた潜水艦に直撃を与のが、梶には不思議なことだった。それはいまの世の人た めいせき える練習機を見降しながら、技師が、 れもが待ち望む一つの明晳判断に似た希望であった。それ かかわ 「僕のは幾ら作っても作っても、落される様だが、栖方のにも拘らず、冷笑するがごとく世界はますます一一つに分れ て押しあう排中律のさ中にあって漂いゆくばかりである。 は、落す方だからな、敵いませんよ。」 しようぜん つぶや はつらっ 悄然として呟く紺背広の技師の一歩前で、これまた剌梶は、廻転している扇風機の羽根を指差しばッと明るく笑 わにあし ちょう とした栖方の坂路を降りていく鰐足が、ゆるんだ小田原提った栖方が、今もまだ人々に言いつづけているように思わ ちん 灯の巻ゲートル姿で泛んで来る。それから三笠艦を見物しれる。 はず 「ほら、羽根から視線を脱した瞬間、廻っていることが分 て、横須賀の駅で別れるとき、 「では、もう僕はお眼にかかれないと思いますから、お元るでしよう。僕もいま飛び出したばかりですよ。ほら。」 気で。」 笑 はっきりした眼付きで、栖方はそう言いながら梶に強く 微敬礼した。どういう意味か、梶は別れて歩くうち、ふと栖 方のある覚悟が背に沁み伝わりさみしさを感じて来たが、 疎開先から東京へ戻って来て梶は急に病気になった。と かな ていはく よわいかぞ

8. 現代日本の文学 15 横光利一集

かじ、 更することが出来ない。そこで、その日は栖方を除いたもどこにもいなかったと母は言ったそうである。梶は訊いて のだけで試験飛行を実行した。見ていると、大空から急降いて、この栖方の最後の話はたとい作り話としても、す 0 下爆撃で垂直に下って来た新飛行機は、栖方の眼前で、空きり抜けあがった佳作だと思った。 ことと 中分解をし、ずぼりと海中へ突き込んだそのまま、尽く死「鳥飛んで鳥に似たり、という詩が道元にあるが、君の話 んでしまった。 も道元に似てますね。」 また別の話で、ラヴァウルへ行く飛行中、操縦席からサ梶は安心した気持ちでそんな冗談を言ったりした。西日 すだれ ンドウィッチを差し出してくれたときのこと、栖方は身をの射しこみ始めた窓の外で、一枚の木製の簾が垂れてい 斜めに傾けて手を延ばしたその瞬間、敵弾が飛んで来た。 た。栖方はそれを見ながら、 そして、彼に的らず、後ろのものが胸を撃ち貫かれて即死「先日お宅から帰ってから、どうしても眠れないのです した。 よ。あの簾が眼について。」と言って、なお彼は窓の外を また別の第三の偶然事、これは一番栖方らしく梶には興見つづけた。「僕はあの簾の横板が幾つあったか忘れたの 味があったが、ーーー少年の日のこと、まだ栖方は小学校ので、それを思い出そうとしても、幾ら考えても分らないの 生徒で、朝学校へ行く途中、その日は母が栖方と一緒であですよ。もう気が狂いそうになりましたが、とうとう分っ った。雪のふかく降りつもっている路を歩いているとき、 た。やつばり合ってた。一一十一一枚だ。」栖方は嬉しそうに 一羽の小鳥が飛んで来て彼の周囲を舞い歩いた。少年の栖笑顔だった。 方はそれが面白かった。両手で小鳥を撼もうとして追っか「そんなことに気がっき出しちゃ、それや、たまらないな ひるがえ ける度に、小鳥は身を翻していつまでも飛び廻った。 ア。」一人いるときの栖方の苦痛は、もう自分には分らぬ 「おれのう、もう撼まるか、もう撫まるかと思って、両手ものだと梶は思って言った。 で鳥を抑えると、ひょいひょいと、うまい具合に鳥は逃げ「夢の中で数学の問題を解くというようなことは、よくあ るんです。それで、とうとう学校が遅れて、着いてみたるんでしようね。先日もクロネッカアという数学者が夢の なだれ ら、大雪を冠ったおれの教室は、雪崩でペちゃんこに潰れ中で考えついたという、青春の論理とかいう定理の話を聞 て、中の生徒はみな死んでいました。もう少し僕が早かっ し十ー・カ たら、僕も一緒でした。」 「もうしよっちゅうです。この間も朝起きてみたら、机の 栖方は後で母にその小鳥の話をすると、そんな鳥なんか上にむつかしい計算がいつばい書いてあるので、下宿の婆 おさ かぶ あた つぶ

9. 現代日本の文学 15 横光利一集

丘を下っていくものが半数で、栖方と親しい後の半数の残 った者の夕食となったが、忍び足の憲兵はまだ垣の外を廻 「橙青き丘の別れや葛の花」 っていた。酒が出て座がくつろぎかかったころ、栖方は梶 梶はすぐ初めの一句を手帖に書きつけた。蝉の声はまだ 降るようであった。ふと梶は、す・ヘてを疑うなら、この栖に、 「この人はいっかお話した伊豆さんです。僕の一番お世話 方の学位論文通過もまた疑うべきことのように思われた。 それら栖方のしていることごとが、単に栖方個人の夢遊中になっている人です。」 と紹介した。労働服の無ロで堅固な伊豆に梶は礼をのペ の幻影としてのみの事実で、真実でないかもしれない。、 わば、その零のごとき空虚な事実を信じて誰も集り祝ってる気持ちになった。栖方は酒を注ぐ手伝いの知人の娘に軽 おうしゅう いるこの山上の小会は、いまこうして花のような美しさとい冗談を言ったとき、親しい応酬をしながらも、娘は二十 あか なり咲いているのかもしれない。そう思っても、梶は不満一歳の博士の栖方の前では顔を赧らめ、立居に落ち付きを でもなければ、むなしい感じも起らなかった。 無くしていた。いつも両腕を組んだ主宰者の技師は、静な ひたい 「日ぐらしや主客に見えし葛の花」と、また梶は一句書き額に徳望のある貴品を湛えていて、ひとり和やかに沈む癖 つけた紙片を盆に投げた。 があった。 日が落ちて部屋の灯が庭に射すころ、会の一人が隣席の東京からの客は少量の酒でも廻りが早かった。額の染っ ささやかわ ものと囁き交しながら、庭のま垣の外を見詰めていた。垣た高田は仰向きに倒れて空を仰いだときだった。灯をつけ すそ 裾へ忍びよる憲兵の足音を聞きつけたからだった。主宰者た低空飛行の水上機が一機、丘すれすれに爆音を立てて舞 が憲兵を中へ招じ入れたものか、どうしたものかと栖方につて来た。 相談した。 「おい、栖方の光線、あいつなら落せるかい。」と高田は 「いや、入れちや下ん。癖になる。」 手枕のまま栖方の方を見て言った。一瞬どよめいていた座 笑 床前に端坐した栖方は、いつもの彼には見られぬ上官らはしんと静まった。と、高田ははツと我に返って起きあが だんこ しっせき 微しい威厳で首を横に振った。断乎とした彼の即決で、句会った。そして、厳しく自分を叱責する眼付きで端坐し、間 はや はそのまま続行された。高田の披講で一座の作句が読みあ髪を入れぬ迅さで再び静まりを逆転させた。見ていて梶 げられていくに随い、梶と高田の一一作がしばらく高点を競は、鮮やかな高田の手腕に必死の作業があったと思った。 -4 たの りあいつつ、しだいにまた高田が乗り越えて会は終った。襯衣一枚の栖方はたちまち躍るように愉しげだった。 したが シャッ たた なご

10. 現代日本の文学 15 横光利一集

あム いつも聞きつける足音とは違っている。全身に溢れたカがた。ばッと音立てて朝開く花の割れ咲くような笑顔だっ えくば みなぎ た。赤児が初めて笑い出す靨のような、消えやすい笑い 漲りつつ、頂点で廻転している透明なひびきであった。 梶は立った。が、またすぐ坐り直し、玄関の戸の開け加だ。この少年が博士になったとは、どう思ってみても梶に うなず あらわ は頷けないことだったが、笑顔に顕れてかき消える瞬間の 減の音を聞いていた。この戸の音と足音の一致していない ときは、梶は自分から出て行かない習慣があったからであ美しさは、その他の疑いなどどうでも良くなる、真似手の ない無邪気な笑顔だった。梶は学問上の彼の苦しみや発明 る。間もなく戸が開けられた。 しんく 「御免下さい。」 の辛苦の工程など、栖方ら訊き出す気持ちはなくなっ 初めから声まで今日の客は、すべて一貫したリズムがあた。また、そんなことは訊ねても梶には分りそうにも思え なかった。 った。梶が出て行ってみると、そこに高田が立っていて、 かぶ そしてその後に帝大の学帽を冠った青年が、これも高田と「お郷里はどちらです。」 似た微笑を二つ重ねて立っていた。 「県です。」 ・はツと笑う。 「どうぞ。」 とうとう門標が戻って来た。どこを今までうろっき廻っ「僕の呼もそちらに近い方ですよ。」 て来たものやら、と、梶は応接室である懐しい明るさに満「どちらです。」と栖方は訊ねた。 せいほう むか たされた気持ちで、青年と対いあった。高田は梶に栖方の e 市だと梶が答えると、それでは温泉の松屋を知って 名を言って初対面の紹介をした。 いるかとまた栖方は訊ねた。知っているばかりではない、 学帽を脱いだ栖方はまだ少年の面影をもっていた。街々その宿屋は梶たち一家が行く度びによく泊った宿であっ しか いたずら の一隅を馳け廻っている、いくら悪戯をしても叱れない墨た。それを言うと、栖方は、 わんばく を顔につけた腕白な少年がいるものだが、栖方はそんな少「あれは小父の家です。」 と言って、またばッと笑った。茶を淹れて来た梶の妻 年の姿をしている。郊外電車の改札ロで、乗客をほったら はさみ かし、鋏をかちかち鳴らしながら同僚を追っかけ廻してい は、栖方の小父の松屋の話が出てからは忽ち二人は特別に しばら 、つ 親しくなった。その地方の細かい双方の話題が暫く高田と る切符きり、と言った青年であった。 「お話をきくと毎日が大変らしいようですね。」 梶とを捨てて賑やかになっていくうちに、とうとう栖方は いなか 先ずそんなことから梶は言った。栖方は黙ったまま笑っ自分のことを、田舎言葉まる出しで、「おれのう。」と梶の たらま