帯を解いたまま立ちはだかって巻紙をほどいていった。 けれども、梶のところへこれから出かけていこうと思って いた彼女の気持ちは、一層募って来たばかりではない。さ あり・が、 今日は仁羽君をわざわざお使い下され有難う。またそきまでは梶に逢ったら、うらみつらみをいってあたり散ら の節は意外なもの下され、恐縮に存じました。初めの間さないではおかないと思っていたのも、がらりと変って、 はお察しの通り小生も幾らか不愉快に思いましたが、思 こんなにも自分の心を刺し貫いた梶の落ちつきに、も早や かえ い切ってあのようなことをなされたあなたのお心、却っかすかな不満さえ感じるのだった。 てあなたならではと思われて御好意身にしみ有難く思い 奈奈江は裾を足さきでとんと踏みさばきながらも、 ました。早速頂戴いたすことは貴意に添うよう存じまし いよそれでは梶のところへこれから行くのだと思った。す たが、それではたまの貧乏の苦労も何の甲斐もなくなるると、あれほど憎々しいと思っていた仁羽までが急に今度 ことと思われ、ひと先ずお手元へそのままお返しする方は気の毒になって来た。もしあの梶にいま少しでも仁羽の が身のためと、失礼の段もかえりみず御返送いたしましようなおっとりしたところでもあってくれたら、どんなに もちろん た。勿論、これは重々おカ添えを拒絶申し上げた所存でこれでのびのびとして良いことだろうとさえ思うのだっ ゆえ はありませず、貧しさ故の苦悩もお察しの通りに相違あた。殊に明日はいよいよ仁羽の全快祝賀の競技会なのだ。 りませんが、折角の貧、とてもあなた方にもお分りこれそれに自分はもう仁羽と再び生活しようという気持ちを断 なく、いずれそのうちゅっくりとお話申し上げるべきおち切っているばかりでない。今夜これから梶に逢えば、そ りもあろうかと存ぜられ、ただ今は何事も申し上げませれで万事はおしまいにちがいないと思うと、奈奈江はまた にわか ず、このまま御好意のほどくれぐれも有難く御礼申し上俄にぐっと胸がっかえて来た。 げ御返送いたさせて貰います。 しかし、どうしてこんなに自分の気持ちはくるりくるり 康雄 と変るのだろう。どれがいったい自分の本当の心だろう。 奈奈江様 奈奈江は鏡に向ってじっと自分の顔を見詰めながら、あ 奈奈江は読みいくに従って今までのもの狂わしい気持ちあ、長い間この顔をこうして同じ心で見詰めたものだと思 はたちまちなくなって、ただ背をさすられるがように万事った。だが、もうこうすることもこれで最後になるのでは 優しくおさめる梶の手腕にうっとりとなるばかりだった。 なかろうかと、ふとそう思うと、せき上げて来る悲しさに すそ つの
歩いているうちに、道をひと曲り折れて、いつの間にか薄藍子は仁羽を愛している。 奈奈江は、藍子がもし自分に代って仁羽の妻にでもなっ 明るい空の下へ出ると、急にぐったりして歩をゆるめた。 もしあの人影が梶だったら、何とか声をかけてくれそうなてくれるようなことでもあればーー・もしそうなれば、どん ものだったのに、声どころか後も追ってくれないところをなにいまの自分の気持ちは軽くなって助かることだろうと 髞った。 見ると、それではあれは梶ではなかったのかも分らない。 自分は藍子になら、仁羽をいつでも大金を持たして譲っ しかし、もし梶が宿をとるならどこだろう。湯ヶ島のこ おらあいろう のあたりでは落合楼か湯本館より宿はないのだから、とるてもかまいはしない。 なら二つのうちどちらかにちがいないが、万が一にも湯本けれども、果して自分はそんな風に思っているのであろ うか。自分の心のどこかに、今のように仁羽を藍子に譲ろ 館にでも泊られたら今夜は梶と一つ宿ですごさねばならな かった。それを思うと、奈奈江はうち続いて不眠の夜に攻うとする気持ちがひそんでいるのであろうか。 いや、これは自分の仁羽に対して犯した罪亡・ほしのため められた衰えをまた今夜も癒すことが出来ないと思った。 彼女はむしろこの姿で梶と逢わねばならぬようなら、逢に思ったことにちがいない。あの仁羽と藍子とが夫婦にで わぬ方が良いとも思い、もしいま逢わないなら永久に逢うもなれば、恐らくどちらも今よりは一層幸福になるにちが ことが出来ないと思い、頑固に逢わないでいるよりも、逢いない。奈奈江は病院を出るとき藍子へ仁羽を渡して出て って一度に気持ちを落ちつけてしまう方が、むしろ一層仁来たのも、何とはなしにそんなに思った自分の気持ちも、 うなず 羽を愛することが出来そうに思ったりしつづけて、また奈あるにはあったと心に頷いてみせるのだった。 奈江の心はすすむに従い、ますますどこまでもと迷い歩い するとそのとき、今まで聞えていた溪間の水の音が遠ざ ていくのであった。 しかし、奈奈江は何の気もなく、ただ宿の温泉に早く浸かって、急に静になった崖の上から、またこっこっと歩い では、やつばりあれは梶 って留置場の疲れを無くしたいとばかり思って出て来たのて来る足音が近づいて来た・ かかわ なのか に拘らず、こんなにもごっごっと思わぬ心のつかえばかり だが、いよいよそれが梶だと分り始めると、何もそんな の中へ突きって来た不自由さに、これでは病院から出 て来るのではなかったと思 0 た。今頃は病院では、定めしにぐずぐずせず、自分の心の迷いの起らぬ今のうち、早く 藍子はのびのびとして仁羽と話していることだろう。あの声でもかけてくれれば良いものをといら立ちつつ、伊豆ま たにま
様だった。実際、奈奈江はこのごろ仁羽と二人でいるとき肝心の仁羽が少しもそれに気付いてくれない手答えのなさ でも、ふと藍子のことを考えると、もう仁羽が自分の良人を感じると、急に心の張りも消えてしまって涙が出た。今 のように見えなくなることがときどきあった。何ぜともな度こそは、義姉ともしものことでもあれば争って、家を飛 く藍子に遠慮をしなければおれないような気になる自分にび出してもかまわないと、そうまで覚悟はしているもの 気がつく度こ、 冫いつのまにか、そんなにもじりじりと押しの、そのほとんど馬鹿かと思える仁羽の人の好さを思うに 出されて来ている自分に、自然な敗北を感じて来るのだっ つけ、彼女はいつもがっかりせずにはいられなかった。 「いずれあたしには、これから罰は一つずつあたっていく いよいよ仁羽が退院するという日、藍子は病院へは行か のだ。まだまだこんなことではすまないだろう。」とこうず女中たちと一緒に家で仁羽を待っことにした。彼女は朝 そうじ 思う。 から仁羽の部屋を掃除したり、彼の愛大の「リュウ」を洗 しかし、藍子は藍子で、湯ヶ島から帰って以来のこの奈ってやったりしてから、縁側の籐椅子にもたれてコーヒー 奈江の気持ちの変化を少しも感じないでいるのではなかっ を飲んでいた。 た。彼女は義兄の仁羽と同じく他家から這入ったもの同志 蜜蜂が鈍い羽音をたてて芽の延びた芝生の上を流れて来 あわれ の憐みで、日ごろから何かと義兄をかばう癖を持って、 しると、ふと藍子は長い間忘れていたコクトオの詩句を思い た。それ故この度の仁羽の負傷についても、ただいつもの出した。 癖だと思っているのだが、それにしても、奈奈江の今度の 「じゅてーむじゅてーむこむじゅてーむ。」 ことだけは他人のこととはいえ、赦すことが出来ないと心 前には誰のことをも考えず、ただ漫然とその句をくちず ひそかに思っていた。たとえ義姉が何といおうとも、あんさんでいたのに、今は句にしたがってはっきりと仁羽の顔 なことをしておいて、そうだ、あんなにひどいことをしてが浮んで来る。その句を初めて覚えたときは、もう夏も過 おも おいて、 とそう思う藍子の気持ちは、もう奈奈江の思ぎようとしていたのに、それにいつの間にか冬も過ぎてし わく て、がいしん 惑などはどうでも良いと、日ごろの何かにつけての敵愾心まって春なのだ。 も手伝いかかり、ますます強く奈奈江の気持ちをふみにじ藍子は隣家の庭の上に棚びいた満開の桜の花を見上げな っていこうとするのだった。 がら、目出度く全快した義兄と一緒に生活していくこれか しかし藍子はそんなに気強く戦っているときでも、ふとらの日々は、どれほど楽しいことであろうと思うと、胸も くせ みつばら たな しばふ
なると、とうとうその決心も切れてしまい、つかっかと自の置き場もなくなって、淋しさばかりひしひしと攻めよせ うらや て来るばかりではない。前までは、自分を羨んだ人々の心 分から奈奈江の後を追っていって声をかけたのだ。 それを思うと今の決心もあてにはならぬと梶は思うのでがただ愚かしく汚くもの欲しそうに見えたのも、ともする ごうぜん あるが、さも冷淡そうにそ知らぬ顔を装ってはいたものと今は自分にその気がむらむらと湧き立って高く傲然とし しんせき の、奈奈江のいうにいわれぬ苦しみがまざまざと眼に見えている一連の親戚たちの袖手傍観のさまさえ、何とはなし うら て来ると、梶も突っ立つばかりに心がとまり、さてどうしに恨めしく思われるあさましさに、梶はわれながら青ざめ たら良いのかとどのつまりは何も分らなくなるのだった。果てずにはいられなかった。 しかし、もう一度次の朝は奈奈江に逢おうと思っていたのすると、ふとそのとき、梶は自分の足さきが自分の土地 も、そのとき限りで切り上げて帰って来た自分を思えば、 だった築地の方へ動いているのに気がついた。その土地は おうみ かんなんしんく われながらよくまだあそこで食いとめることが出来たもの近江からはるばる登って来た彼の祖先が、艱難辛苦の末に だと感慨も深かった。 初めて造った土地なのだが、それを自分が一朝にして他人 事実つくづくいつも考えることなのだが、今としてみに手放してしまった罪の深さを感じると、急に梶はこのま て、金の全くなくなってしまったことは苦痛なことにはちま身をどこかへかき消してしまいたい思いに立ちすくん がいないとはいえ、しかし、金はあっても奈奈江が自分か ら切り離れて、他人と一緒に生活しているのだと思う苦し 前には彼はその土地のなくなることを恐れて、そっと土 さに較ぶれば、まだしもやさしく忍べることだと梶は思っ地の名義を藍子の名前に書き変えておこうかと思ったほど たいいちまだ金のあるときに、こんな金など使ってしのときもあったのだ。それを思うと、梶はそのころ奈奈江 まえと、心の憂さを吐き出すためにも随分と無理に無理をからのがれるために、藍子と結婚しようと真面目に計画し 重ねている梶なのだから、それをいまさら金がなくなった たこともあった一時の気持ちを思い出した。 うろた からとて狼狽えるほどなら、おかしさもこの上もないもの だが、彼はその当時のそんな気持ちは、あながちそのと 冫ち力しなかった。 きばかりのことではなく、今にしても一番健康な気持ちに 梶は明日からこんなにぶらぶらしているほどなら、金がちがいないと思った。全く、奈奈江と結婚することはどこ から考えたって不可能なのは、今も昔も変りはないのであ なくとも良い、どこかへ旅行に出ようと考えた。それでな ければ、もう今はこのあたりの地を見ても家を見ても、心る。 しゅうしゅ
もどうかして主人のためになるようにとそればかりがそれてくれないかと言うのである。私はいかに主人がお人好し 1 からの不思議に私の興味の中心になって来た。家にいてもだからと言ってそんな重大なことを他人に洩して良いもの ことごと 家の中の動きや物品が尽く私の整理を待たねばならぬかであろうかどうかと思いながらも、全く私が根から信用さ うつ のように映り出して来て軽部までがまるで私の家来のようれたことに対しては感謝をせずにはおれないのだ。いった に見えて来たのは良いとしても、暇さえあれば覚えて来たい人と言うものは信用されて了ったらもうこちらの負け 弁士の声色ばかり唸っている彼の様子までがうるさくなつで、だから主人はいつでも周囲の者に勝ち続けているので た。しかし、それから間もなく反対に軽部の眼がまた激しあろうと一度は思ってみても、そう主人のように底抜けな ほとん く私の動作に敏感になって来て仕事場にいるときは殆ど私馬鹿さにはなかなかなれるものではなく、そこがつまりは えら から眼を放さなくなったのを感じ出した。思うに軽部は主主人の豪いと言う理由になるのであろうと思って私も主人 人の仕事の最近の経過や赤色プレートの特許権に関する話の研究の手助けなら出来るだけのことはさせて貰いたいと を主婦から聞かされたにちがいないのだが、主婦まで軽部心底から礼を述べたのだが、人に心底から礼を述べさせる と言うことを一度でもしてみたいと思うようになったのも に私を監視せよと言いつけたのかどうかは私には分らなか った。しかし、私までが主婦や軽部がいまにもしかするとそのときからだ。だが、私の主人は他人にどうこうされよう などとそんなけちな考えなどはないのだからまた一層私の こっそり主人の仕事の秘密を盗み出して売るのではないか と思われて幾分の監視さえする気持ちになったところから頭を下げさせるのだ。つまり私は暗示にかかった信者みた いに主人の肉体から出て来る光りに射抜かれてしまったわ 見てさえも、主婦や軽部が私を同様に疑う気持ちはそんな に誤魔化していられるものではない。そこで私もそれらのけだ。奇蹟などと言うものは向うが奇蹟を行うのではなく 疑いを抱く視線に見られると、不快は不快でも何となく面自身の醜さが奇蹟を行うのにちがいない。それからと言う 白くひとつどうすることか図々しくこちらも逆に監視を続ものは全く私も軽部のように何より主人が第一になり始 けてやろうと言う気になって来て困り出した。丁度そう言め、主人を左右している細君の何に彼に反感をさえ感じて う時また主人は私に主人の続けている新しい研究の話をし来て、どうしてこう言う婦人が此の立派な主人を独占して て言うには、自分は地金を塩化鉄で腐蝕させずにそのまま良いものか疑わしくなったばかりではなく出来ることなら 黒色を出す方法を長らく研究しているのだがいまだに思わ此の主人から細君を追放してみたく思うことさえときどき しくいかないので、お前も暇なとき自分と一緒にやってみあるのを考えても軽部が私に虐くあたってくる気持ちが手 ふしよく つら
「じゃ結構じゃありませんか。」 「梶さん、もう宿はお取りになって ? 」 ふと奈奈江はそういった後で、もしゃ度胸と梶のいった「いや、まだ。どこにしようかと思ってるんだけど、あな のは、死ぬ覚悟を言ったのではないかと、どきりとした。 たの宿には客が多いにちがいないから、他へ泊ろうと思っ けれども、家産がすっかり無くなってしまって、それで死てる . んですがね。」 んでしまうような覚悟になるつまらぬ梶でもないだろう。 「そうね、湯本館にはトラップの方々がまだいらっしやる 奈奈江はっと押し車を押すように梶の姿が見てみたい気持から、うるさいにはうるさいわ。」 ちになり、 「それじゃ僕は、落合楼にしよう。」 「でもあなたなんか、これから本当のお好きな仕事が出来奈奈江は梶のそういうのを無理に湯本館へと誘う気もし うらやま るんだから、羨しいと思うわ。だってまだまだこれからなかった。殊に湯本館には梶を怒らせた本人の高がまだ泊 っているのだった。そこで梶がまた高とでも顔を合せた じゃありませんか。」 はず ら、故意にも意志を脱し合せているかのような今の梶と奈 「もうそう思っているより今のところ、僕には思うことが 、づか 奈江とは、一層不自然な気遣いの狂いをひき起していかぬ なくってね。」 や、そればかりか、仁羽を撃った奈奈江 「だけど、それは本当にそうなんだから、おカ落しにならとも限らない。い の気持ちにまだすっかり疑いを放さぬ人々の眼は、当然そ ない方がいいわ。」 梶はまた黙ってこっこっと歩いていった。低く雲のたれれでなくとも梶のうえに注がれるのはきまっているのであ したが 下った山合いの夜道を並んでいく二人であったが、これがる。二人がだんだん湯本館の方へ近づいて来るに随い、さ かってのあの二人であろうかとまた奈奈江は思った。今がすがに奈奈江はまだ梶と一一人でこうしていたいと思って足 常なら、梶の胸へ顔を押しあてて泣くことも出来るのに、そが鈍って来始めた。 れにたまたま梶を愛しすぎた心のためのみに、こうして自「あなた、落合楼御存知ですの ? 」 「ああ。」 分の心を押しかくしていつづけなくてはならぬとは、 「じゃ、もうお送りしないわ。」 寝しかし、奈奈江はこうも静にしていられる自分の心を、 これが本当のことであろうかと幾度も幾度も驚いた。定め「どうぞ。」 し梶も自分のこの冷淡さにあきれはてていることだろうと「明日また病院へ来て下さるでしよう。」 思いながら、 「いや、僕はもう明日の朝早く帰ろうかと思っている。」 かたがた
「これはおかしい。」と彼は思った。 彼は暫く蛾をじっと見詰めて立っていた。 「これは妻だ。」 ふと彼はそう思った。すると、俄に、前々夜から引き続 いて彼の周囲を舞い続けて来た蛾の姿が、恋々とした妻の彼は一週間もするともう華やかな海岸線から倦いて来 た。そこで波に洗われている裸体の人々の形は、彼にとっ 心の迷いのように思われ出した。 彼より先に床の上へ寝転んで彼の様子を見ていた友人のて別にあの倦怠極まる空の形を変化さすほど、それほども —は、急に起き上った。 魅力のある何物でもないのが分ってくると、彼はまた・ほん やりと恩師の家へ帰って来た。 「何んだ、蛾か。」 彼はここでも、夜いよいよ寝ようとするとき習慣的に蛾 「蛾だ。」 が周囲にいないかと見廻した。すると、いつの夜でもどこ 「よし。」と—は言うと、いきなり蛾をひっ撼んだ。 かに必ず定っているように、また白い一疋の蛾がちゃんと 「どうするんだ ? 」 彼の頭の横で待っていた。 「殺すんだ。」 「実に不思議だ。これは、しかし、全く不思議な奴だ。お 「よしてくれ。」と彼は強く言った。 —は蛾を握ったまま暫く彼のしい顔を眺めていた。彼 。」と彼は言った。 もらろん はず 彼は蛾に近ちかと頭を寄せて彼女の意志を読み取るよう は不意に起って来た自分の気持ちを勿論知ろう筈もない— る に蛾を見詰めた。だが、彼はあの愛すべき妻が、事もあろ の不思議そうな顔に好意を感じた。 で「此奴は俺の死んだ家内なんだよ。紙で包んでそ 0 と捨てうに此の憐れな蛾の姿にな 0 ていると思うと、それはいか に愚かな彼自身の空想だと考えたとしても涙を流さずには てくれないか。」 てのひら ど「よしよし。」と—は笑いながら穏やかに言うと、蛾を窓のおられなかった。彼は蛾を掌の上にのせながら妻の死の 螂外〈捨てて了った。彼は床の上へ寝ながら、どうして妻が間際に言 0 た言葉や顔を思い出した。 自分に蛾を彼女だと思わせるのかと考えた。もっとも彼自「もうは一人・ほっちになるんだわ。私が死んだら、もう 盟身を彼だと思うのと、蛾を妻だと思うのはそう大した変りの事をしてやるものが誰も無いわ。」 よしあったとしても、無論彼女のそれのようではないに はなかろう筈だのに、しかし、それにしてもわざわざ今の 場合、蛾を特に自分の妻だと思う自分の気持が彼には奇怪 なことに思われてならなかった。 きわ
きとく いる部屋へ這っていった。奈奈江は藍子を見ると小さな危篤を聞いて馳けつけて来て、その他に何を一一人で話すこ とがあるのだろう。 声で、 「あたし、あすこでさっき看護婦さんに聞いたんだけど、 「よくこられたわね。」と一言いった。 藍子は義姉の黙っている表情から、常には見たこともなお姉さんたいへんね。」 い意外に静な澄み渡った気品を感じた。すると、義兄の傷何事か言いたげに、奈奈江の眼はきらりと光った。その のことやその後の状態などはもう聞く気にはなれなかっ途端、藍子は奈奈江の声を聞くのを恐れるかのように言っ 」 0 た。 「あたし、ひとりで来ようと思ってたんだけど、ひょっこ「頼母木さんや皆さん、まだいらっしやるの ? 」 りそこへ高さんがいらっしてね、どうしても僕行くんだと「まだいらして下すってるの。お気の毒だわ、ほんとに。」 おっしゃ 仰言って、ついていらしったの。」 「じゃ、もう帰っていただきなさいよ。いけないの。」 「ふん。」 「それはいいんだけど、あたしも何んだか頭が・ほんやりし と奈奈江は言っただけで、椅子を藍子の方へすすめてかてしまってるもんだから、皆さん心配していて下さるんで しよ。」 「そうね、だけど、いて下すったって仕方がないじゃない 「疲れた ? 」 「お兄さん、今お眠みだからもっと後でもいいでしよう。」藍子はさっきから苦心に苦心を重ねて愉快に意味のない ことばかり言っている自分に気づいたが、しかし、何はと . し 「ええ、 ~ い・く 藍子は奈奈江がもうそれ以上義兄のことは言い出してくもあれ義兄がたとえ恢復するにしたところで、ここからは れねば良いがと思った。言い出せば二人の気持ちがせつば当分自分も動くことが出来なくなるのだと思うと、ちょっ つまって、何もかもがはっきり分り合ってしまうばかりでと窓から外の真暗な風景を透かしてみた。 、れい 寝はない。もうそれからは自由な気持ちで顔さえも合せなく「綺麗だわ。ここ。あたしも入院しようかしら。」 なりそうな気さえして来ると、今の二人のしばらくの間の藍子は浮き浮きとした調子でふとそう言うと同時に、後 沈黙でさえ、何とはなしに、もうそれが二人を遠くへだてろにいる奈奈江の心の暗さを感じては 0 とな 0 た。昨夜か ようとしている壁のように感じられた。けれども、仁羽のら義姉はどれほどここで苦しみ続けたことだろう。そう思 ら、 やす とたん
りゅうぜっらん 「うむ。」 庭の龍舌蘭を狙いながら言った。 いのしし 「ね、下さる ? 」 「昨日、猪の首が十五円で出たそうな。」 「やるよ。」 「安くなったもんだわね。ひとつあたしに買っといてよ。」 「うまい。」 「お前なんか、猪の首はまだ早いよ。」 奈奈江は急に元気になって、硝子の銃砲棚の中から一一連「だって、いい わ。あたしだって、一度は猪でも撃ったこ 発銃をとり出すと、どこを狙ったものかと一度部屋中をぐとにしとかなくちゃ、ランカスターが泣いちゃうわ。」 えもの はくせい るりと狙い廻してから、おお、獲物、というように良人の床の壁の、仁羽の撃った猪や鹿の首の剥製を仰ぎなが ねら ししがり・ 肥えた背中を狙ってみて、 ら、奈奈江は今年こそ梶と一緒に猪狩にいこうと考えた。 「あなた、撃ってよ。」 すると、仁羽は偶然、 「うむ。」 「今日は梶も高もトラップへいってるかもしれない・せ、行 かんか、お前も、」 「うむ。」 と言いながら、また・ハーデーを上げて鳥を追う真似をし 「ターン。」と言いながら、奈奈江は仁羽を撃ったところ始めた。 たお を想像した。すると、ばったり斃れた仁羽の後ろから、梶梶がいっているというトラップショッティングそのもの の顔が よりも、仁羽が偶然梶のことを思い出したその気持ちを奈 まア、何という女だろう、あたしは。 奈江は考えながら、 しばらく奈奈江よ、、 をしつの間にかそんなことまで考えて「じゃ、あたしもトラップへいってみようかしら。」 いた自分の気持ちに打たれたが、 「うむ。」 だって、そんなこと冗談じゃないの、こんな冗談な 「いっから梶さん、いき出したの ? 」 ひと 園 ら、誰だって考えてるわ。あたしだけじゃないわ。あの女「山で俺が、いくようにすすめておいたんだ。あの男、此 と奈奈江は自分の友人の顔をの頃いやに腐っているからね。」 寝だって、あの女だって、 ひとりずつ思い出しては、 「そうよ、あのかた。」 やくどし 「ふつふ。ふつふ。」と笑い出した。 「それに、株もそろそろ下り出したし、あ奴、今年は厄年 仁羽は油をひいてしまうと、軽くパーデーをとりあげてだよ。」 ひと ねら ガラス
にいる木谷が物の数ではないように思われて来るのだつの来る間、木谷は手持無沙汰に笑いながら、 「もう今だから言いますが、実は設計していた機械は、、 「お父さんから手紙が来ましたのよ。」 つかそれ、中森君から頼まれたあれなんですよ。」 「そうですか。」 と言って節子の顔を意味ありげに見た。意外な皮肉に節 うつむ 木谷はちらりと節子を見た。そして、後はもう分ったと子は黙って俯向いた。 思うらしい様子で黙っていた。 「もういいでしよう、言っても。」 「いいんですって。」 と木谷は言いつつ一層しげしげと節子を見つづけて笑っ と節子は小さな声でそう言ったが、何となくそれは昔か ら定っていたことのように思われ、今さらそれを言い出さ節子は新しい内燃機関を備えた中森の船が、津軽の海上 なくとも良いような気持ちで別に何の感動も起らなかつを渡っている風景が浮んで来ると、その船の機関部を造る おっとねら 眼前の良人を狙って進行している自分が、ただならぬ運命 「そうでしたか、それは有り難いな。」 の海中を進んでいる恐るべき機雷のように思われて来るの と木谷も一瞬にこりとしたまま節子同様に落ちついて歩だった。 いた。青葉の中で長らく緊張した気持ちが急に弛んだよう「どうして今までそれを黙ってらっしゃいましたの。あな しばら な状態が暫くつづくうちに、今の喜びなどは次ぎ次ぎに来たは恐ろしい方だわ。」 ささや うら る喜びに比べては比較にならぬぞと囁かれているようで、 と節子は恨めしそうに言って木谷を見た。 せんりつ ある不安な戦慄が節子の胸中を流れてやまなかった。 「だって、中森君はあなたから僕に頼めと言われたとか言 おっしゃ こんなことは分っていたことだのに、それがその場になってましたよ。そんなこと仰言ったんですか。」 ればこれほど変ったものだったのかと、節子は夢うつつの そう言われれば、東京を発って来る前にたしかに中森に もら ためいき ごとく思いながら、ほッと無意味な溜息を洩した。 そんなに言った覚えがあった。しかし、それが中森を東京 「とにかく、今日は僕たちの記念日の初めだから、タ御へ押し出す原因になり、さらに自分と木谷を一層近づける 飯、何か一つお美味いものを食べましようか。」と木谷は結果になっていたのだとは、節子も今まったく忘れていた 言って時計を見た。 ことだった。 相談の結果京橋のある料亭へ一一人は行った。注文の料理「中森君は僕に、節子さんからすすめられたんだから安く ゆる こ 0