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検索対象: 現代日本の文学 15 横光利一集
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1. 現代日本の文学 15 横光利一集

神奈川県逗子海岸の夕暮れ 一一人にと 0 て、時間は最早愛情では伸縮せす、ただ二人の眼と眼の空間に明暗を与える太 陽の光線の変化となって、露骨に現われているだけにすぎなかった ( 「花園の思想」 )

2. 現代日本の文学 15 横光利一集

ばうせん 了った。彼は手を放したまま呆然たる蔵のように、虚無のために、もう夫婦でもなければ人間でもなかった。二人の 中へ坐り込んだ。そうして、今は、一一人は二人を引き裂く眼と眼を隔てている空間の距離には、ただ透明な空気だけ のぞ 死の断面を見ようとしてただ互に暗い顔を覗き合せているが柔順に伸縮しているだけである。その二人の間の空間は だけである。丁度、一一人の眼と眼の間に死が現われでもす死が現われて妻の眼を奪うまで、恐らく陽が輝けば明るく さじ なり、陽が没すれば暗くなるに相違ない。二人にとって、 るかのように。彼は食事の時刻が来ると、黙って匙にス 1 すく 。フを掬い、黙って妻のロの中へ流し込んだ。丁度、妻の腹時間は最早愛情では伸縮せず、ただ一一人の眼と眼の空間に 明暗を与える太陽の光線の変化となって、露骨に現われて の中に潜んでいる死に食物を与えるように。 たす いるだけにすぎなかった。それは静かな真空のような虚無 あるとき、彼は低い声でそっと妻に訊ねてみた。 であった。彼には横たわっている妻の顔が、その傍の薬台 「お前は、死ぬのが、ちょっとも怖くはないのかね。」 や盆のように、一個の見事な静物に見え始めた。 「ええ。」と妻は答えた。 「お前は、もう生きたいとは、ちょっとも思わないのか彼は二人の間の空間をかっての生き生きとした愛情のよ ひなげ うに美しくするために、花壇の中からマーガレットや雛罌 栗をとって来た。その白いマ 1 ガレットは虚無の中で、ほ 「あたし、死にたい。」 うなず のかに妻の動かぬ表情に笑を与えた。またあの柔かな雛罌 「うむ。」と彼は頷いた。 つば ガラス のぞ 一一人には二人の心が硝子の両面から覗き合っている顔の粟が壺にささって微風に赤々と揺らめくと、妻はかすかな 歎声を洩して眺めていた。此の四角な部屋に並べられた壺 ようにはっきりと感じられた。 デロフィール や寝台や壁や横顔や花々の静まった静物の中から、かす かな一条の歎声が洩れるとは。彼は彼女のその歎声の秘め 今は、彼の妻は、ただ生死の間を転っている一疋の怪物られたような美しさを聴くために、戸外から手に入る花と 窈だった。あの激しい熱情をもって彼を愛した妻は、いつの言う花を部屋の中へ集め出した。 ごと ことごと 園 間にか尽く彼の前から消え失せて了っていた。そうし薔薇は朝毎に水に濡れたまま揺れて来た。紫陽花と矢車 花 のいばらしやくやく て、彼は ? あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今草と野茨と芍薬と菊と、カンナは絶えず三方の壁の上で咲 いていた。それは華やかな花屋のような部屋であった。彼 は感情の擦り切れた一個の機械となっているにすぎなかっ た。実際、此の二人は、その互に受けた長い時間の苦痛のは夜毎に燭台に火を付けると、もしかしたらこっそり此の こわ

3. 現代日本の文学 15 横光利一集

って何の役にも立ちはしない。それで今度は皆の帽子を五れた羅漢たちの月に照らされた姿が浮んで来ると、まるで っ合して水を受けるとやっとどうやら洩れないだけは洩れ月光の滴りでも落してやるかのように病人のロの中へその なくなったが小屋まで持っていくまでには疑いなく無くな水の滴を落してやった。 るのは決っているのだ。そんなら小屋まで一番早く帽子を 運ぶには十一人でリレーのように継ぎながら運ぼうではな いかと佐佐が言い出すと、それは一番名案だということに なっていよいよ十一人が三間ほどの間隔に分れて月の中に 立ち停ると、私は最後に病人のところへ水を運ぶ番となっ て帽子の廻って来るのを待っていた。その間私は絶えず病 人を揺り続けているのだが、もう彼女はさっきから殴り続 けられた指跡を赤く皮膚に残したまま、私に揺られるがま まに身体をぐたぐた崩して寝入ってしまってなかなか眼を 醒ましそうにもない。それで私は彼女の髪の毛を持ってぐ さぐさ揺ると・ほんやり眼を開けたは開けたが、それもただ す 開けたというだけで同じところをじっと眼を据えて見てい るだけである。そこへちょうど最初の帽子がほとんど水を なくして廻って来たので私は病人のロの中へわずかに洩れ しずく る滴をちょろちょろと流し込んでやると、病人も初めては つきりと眼が醒めたと見え、私の膝に手をかけて小屋の中 を見廻した。水だ水だ早く飲まぬとなくなるからと言って はまた膝の上へ病人を伏せて次の帽子を待っている。する と、また帽子が廻って来る、また滴を落すという風に幾回 も繰り返しているうちに、私には遠く清水の傍からつぎつ ぎに掛け声かけながらせっせと急な崖を攀じ登って来る疲

4. 現代日本の文学 15 横光利一集

105 蠅 がけみち ぎ、突然に現れた激流を見下して、そうして、馬車が高い 崖路の高低でかたかたときしみ出す音を聞いてまだ続い しか た。併し、乗客の中で、その馭者の居睡りを知っていた者 びき * わずか は、僅にただ蠅一疋であるらしかった。蠅は車体の屋根の 上から、馭者の垂れ下った半白の頭に飛び移り、それか ら、濡れた馬の背中に留って汗を舐めた。 めかく 馬車は崖の頂上へさしかかナ っこ。馬は前方に現れた眼匿 し中の路に従って柔順に曲り始めた。しかし、そのとき、 彼は自分の胴と、車体の幅とを考えることが出来なかっ はず た。一つの車輪が路から外れた。突然、馬は車体に引かれ て突き立った。瞬間、蠅は飛び上った。と、車体と一緒に ほうらっ 崖の下へ墜落して行く放埒な馬の腹が眼についた。そうし て、人馬の悲鳴が高く発せられると、河原の上では、圧し 重った人と馬と板片との塊りが、沈黙したまま動かなかっ た。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に ゅうゆう 力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいっ

5. 現代日本の文学 15 横光利一集

「御免なさい。」 近所から木谷が食事をとったので、節子は彼と向き合い うつむ と不意に節子は言って俯向いた。涙が節子の眼から流れまだほの明るい間にタ食になった。お茶も節子が木谷に代 て来た。木谷はちらりと節子を見たがすぐ真向うの桜の丘って湧かそうとすると、彼はそれを節子にさせずに自分で ハンケチ に眼を上げて黙っていた。節子は手巾で眼を拭くと木谷とした。二人の食事中にも木谷は好んで食べ物の話をした。 すき 同じ丘を見た。およそ迷い込む隙あれば迷い入る煙のよう節子は木谷の専門の機械の話を聞きたいと思ったが、何ぜ に揺れ動いてやまなかった長い間の気持が、咲き連った花だか木谷はそれを避ける様子があった。 「幾子さんがいつだったか、木谷さんはモーターなんか外 の上にとまったままもう動こうとしなかった。 ちょっと 「ここは夕日が良いんですよ。夕日といえば、室蘭からこから一寸御覧になれば、中の特種な構造まですぐお分りに ちらへ帰るときの駒ヶ岳、覚えてらっしゃいますか。僕はなるんだとか、言ってらっしゃいましたわ。そんなこと、 たず 分るものなんですの。」と節子は訊ねた。 あのとぎの駒ヶ岳の夕日だけは、忘れられませんね。」 はにかみうか 「機械に触るのです。外から撫でてみるとよく分りますが 静かな含羞を泛・ヘ細かい光りを放っている木谷の眼は、 いずれ自分の傍へ節子の舞い戻って来ることを、初めからね。見ただけだと、ときどき誤算があります。」 こう言うときの木谷は物柔かな口調だったが、底に強い 知りつつ眺めていたように冷然としていた。 ああ、憎らしい、と節子は片膝の押し動こうとするのも自信が満ちていて、気遅れのした風は少しもなかった。 「でも、同じモーターでもそんなに特種なものが沢山ある やっと耐え、 ものでしようか。」 「ああ、あの駒ヶ岳ね。」 うなず 「それはあります。それぞれに性格の秘密というものが人 と頬笑みながら頷くのだった。 ず 丘の桜は夕日の最後の光りに燃えわたった。若草を包ん間にもあるように、機械にもありますね。それを造る人間 かえでがく だ楓の蕚の薄紅の爪の色も、草を踏む小鳥の指に似た鮮さが意識してその秘密を造ったのと、そうでなくて、自然に から まだった。節子は見ているうちに永らく巻ぎ絡むように浮ん生じたその機械だけの秘密もあります。」 だ矢部や中森の姿はまったく頭の中からかき消えて、あど「だけど、外国品と日本品とはよほど違うんでしようね。」 もちろん けない眼もとの幾子の顔だけただ一人追って来つつも、そ「勿論違います。同じ物を寸分違わず造っても、出来上り 昭れも最後の一ふりで今はば 0 たり切れてしまいそうに思わにはそれぞれの国民性の違いがかなりな程度に出ていま れた。 す。性能も一長一短で、どちらが良いか悪いかということ

6. 現代日本の文学 15 横光利一集

あげることは特に重要だろう。映画はこのころようや く人々に親しまれてきたから、それに影響を受けた文 章を理解する用意が読者の側に出来あがっていたので ある。大正十二年の『蠅』は、 き年 真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋 の蠍だけは、薄暗い厩の隅の蜘蛛の網にひ 0 かかる つ大 ーら と、後肢で網を跳ねつつ暫くぶらぶらと揺れていた。 ばふん と、豆のようにばたりと落った。そうして、馬糞の わら の姉重みに斜めに突き立っている藁の端から、裸体にさ れた馬の背中まで這い上った。 す子 し昌 姉姪 とはじまり、 戸市 神嘉 て村 馬車は崖の頂上へさしかかった。馬は前方に現 出中 れた眼匿し中の路に従って柔順に曲り始めた。し 旅義 かし、そのとき、彼は自分の胴と、車体の幅とを考 えることが出来なかった。 一つの車輪が路かられ 放歳 た。突然、馬は車体に引かれて突き立った。瞬間、 蠅は飛び上った。と、車体と一緒に崖の下へ墜落し ほ . っ・らっ て行く放埓な馬の腹が眼についた。そうして、人馬 の悲鳴が高く発せられると、河原の上では、圧し重 キか 妻左 った人と馬と板片との塊りが、沈黙したまま動か めカく

7. 現代日本の文学 15 横光利一集

その眼は、急に光りを失って細まり、彼の身体は再び力なばれた。人々の彼女に注目する仕方は変って来た。けれど く毛皮の上に横たわ 0 て眼を閉じた。香取の顔色は蒼然とも、彼女の運命も第四の乙女のそれと等しく不吉な慣例を うつぶ して変って来た。彼女は身を床の上に俯伏せた。が、再び造らなければならないのは当然のことであった。こうし 弾かれたように頭を上げると、その蒼ざめた頬に涙を流して、奴国の宮からは日々に美しい乙女が減りそうになって ムる 来た。娘を持った奴国の宮の母親達は急に己の娘の美しい ながら、声を慄わせて長羅に言った。 なんじ 「王子よ、王子よ、我は爾を愛していた。王子よ、王子装いをはぎとって、農衣に着せ変えると、宿禰の眼から家 の奥深くへ隠し始めた。しかし、宿禰はひとり、ますます よ、我は爾を愛していた。」 しか あんうつ 彼女は不意に言葉を切ると、身体を整えて端坐した。そ憂慮に顰んだ暗鬱な顔をして、その眼を光らせながら宮の すみずみ たまかずら まがたま 隅々をさ迷うていた。第六番目の乙女が選ばれて立った。 うして、頭から静に玉鬘を取りはずし、首から勾玉をとり もっ しようよう 人々は恐怖を以て彼女の身の上を気遣った。その夜、彼ら はずすと、長羅の眼を閉じた顔を従容として見詰めてい た。すると、彼女の脣の両端から血がたらたらと流れて来は乙女の自殺の報らせを聞く前に、神庫の前で宿禰が何者 た。彼女の蒼ざめた顔色は、一層その色を蒼ざめて落ちつかに暗殺されたと言う報道を耳にした。しかし、長羅の横 ほとん き出した。彼女の身体は端坐したまま床の上に傾くと、最たわった身体は殆ど空虚に等しくなった王宮の中で、死人 早や再びとは起き上って来なかった。そうして、兵部の宿のように動かなかった。 かやほこだち 禰の娘は死んだ。彼女は舌を咬み切って自殺した。しか或る日、一人の若者が、王宮の門前の榧の根を見る と、疲れ切った体をその中へ馳け込ませてひとり叫んだ。 し、横たわっている長羅の身体は身動きもしなかった。 香取の死の原因を知らなかった奴国の宮の人々は、一斉「不弥の女を我は見た。不弥の女を我は見た。」 いただ に彼女の行為を賞讃した。そうして長羅を戴く奴国の乙女若者の声に応じて出て来る者は誰もなかった。彼は高縁 わらべお 達は、奴国の女の名誉のために、不弥の女から王子の心をに差し込んだ太陽の光りを浴びて眠っている童男の傍を通 りながら、王宮の奥深くへだんだんと這入っていった。 奪い返せと叫び始めた。第四の乙女が香取の次ぎに選ばれ やまと ひと て再び立った。人々は斉しく乙女の美しさの効果の上に注「不弥の女を我は見た。不弥の女は耶馬台にいる。」 目した。すると、俄然として彼女は香取のように自殺し長羅は若者の声を聞くと、矢の音を聞いた猪のように あか た。何ぜなら香取を賞讃した人々の言葉は、あまりに荘厳身を起した。彼の顔は赧らんだ。 であったから。しかし、また第五の乙女が宿禰のために選「這れ。這入れ。」しかし、彼の声はかすれていた。若 し いのしし

8. 現代日本の文学 15 横光利一集

* あまじしにお 人の汗は乾いた。併し、馬車は何時になったら出るのであ眼の大きなかの一匹の蠅は馬の腰の余肉の匂いの中から ろう。これは誰も知らない。だが、もし知り得ることの出飛び立 0 た。そうして車体の屋根の上にとまり直ると、今 まんじゅうやかまど ようや 来るものがあったとすれば、それは饅頭屋の竈の中で、漸さきに、漸く蜘蛛の網からその生命をとり戻した身体を休 ムく く脹れ始めた饅頭であった。何ぜかと言えば、此の宿場のめて、馬車と一緒に揺れて行った。 猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての馬車は炎天の下を走り通した。そうして並木をぬけ、長 あま あず、 饅頭に初手をつけると言うことが、それほど潔癖から長い く続いた小豆畑の横を通り、亜麻畑と桑畑の間を揺れつつ 月日の間独身で暮らさねばならなかったと言う、その日そ森の中へ割り込むと、緑色の森は、漸く溜った馬の額の汗 の日の、最高の慰めとなっていたのであったから。 に映って逆さまに揺らめいた。 十 いなか じようぜっ 宿場の時計が十時を打った。饅頭屋の竈は湯気を立てて馬車の中では、田舎紳士の饒舌が、早くも人々を五年以 鳴り出した。 来の知己にした。しかし、男の子はひとり車体の柱を握っ ザク、ザク、ザク。猫背の馭者は馬草を切った。馬は猫て、その生々とした眼で野の中を見続けた。 背の横で、水を十分飲み溜めた。 「お母ア、梨々。」 「ああ、梨々。」 九 馭者台では鞭が動き停った。農婦は田舎紳士の帯の鎖に 馬は馬車の車体に結ばれた。農婦は真先に車体の中へ乗眼をつけた。 り込むと、街の方を見続けた。 「もう幾時ですかいな。十二時は過ぎましたかいな。街へ 「乗っとくれやア。」と猫背は言った。 着くと正午過ぎになりますやろな。」 五人の乗客は、傾く踏み段に気をつけて農婦の傍へ乗り 馭者台で喇叭が鳴らなくなった。そうして、腹掛けの饅 ことごと しま 始めた。 頭を、今や尽く胃の腑の中へ落し込んで了った馭者は、 猫背の馭者は、饅頭屋の簀の子の上で、綿のように脹ら一層猫背を張らせて居眠り出した。その居眠りは、馬車の んでいる饅頭を腹掛けの中へ押し込むと、馭者台の上にそ上から、かの眼の大きい蠅が押し黙った数段の梨畠を眺 らつば むら の背を曲けた。喇叭が鳴った。鞭が鳴った。 め、真夏の太陽の光を受けて真赤に栄えた赤土の断崖を仰 ぎよしゃ しか はえ

9. 現代日本の文学 15 横光利一集

蛛の網を突き破って森の中へ馳け込んだ。 瘤のように見えていた。反絵は蜥蜴を狙って矢を引いた。 いしぐら のぞ まる 反絵は石窖の前まで来ると格子を握って中を覗いた。 すると、奴隷の身体は円くなって枝にあたりながら、熟し 卑弥呼は格子に区切られたまま倒れた訶和郎の頭の前にた果実のように落ちて来た。反絵は、舌を出して俯伏せに 坐っていた。 倒れている奴隷の方へ近よった。その時、奴隷の頭髪から 「旅の女よ。」と反絵は言ってその額を格子につけた。 はずれかかった一連の勾玉が、ヘし折れた羊歯の青い葉の 卑弥呼は訶和郎を指差しながら、反絵を睨んで言った。 上で、露に濡れて光っているのが眼についた。彼はそれを なんじ 「爾の獲物はこれである。」 はすすと自分の首へかけ垂らした。 「やめよ、我は爾と共に山を下った。」 つま 十七 「爾の矢は我の夫の胸に刺さっている。」 「我は爾の傍に従っていた。」 霧はだんだんと薄らいで来た。そうして、森や草叢の木 「爾の弓弦は爾の手に従った。」 立の姿が、朝日の底から鮮かに浮き出して来るに従って、 しのや 「爾の夫を狙った者は奴隷である。」 煙の立ち昇る篠屋からは木を打っ音やさざめく人声が聞え われ こうし いしぐら 「奴隷は吾に従った。」 て来た。しかし、石窖の中では、卑弥呼は格子を隔てて、 かわろ 反絵は奴隷の置き忘れた弓と矢を拾うと、破れた蜘蛛の倒れている訶和郎の姿を見詰めていた。数日の間に第一の 巣を潛って森の中へ駈け込んだ。しかし〕彼の片眼に映っ良人を刺され、第二の良人を撃たれた彼女の悲しみは、最 ひと たものは、霧の中に包まれた老杉と踏みられた羊の一早彼女の涙を誘わなかった。彼女は乾草の上へ倒れては起 すじ たど 条の路とであった。彼はその路を辿りながら森の奥深く進き上り、起きては眼の前の訶和郎の死体を眺めてみた。し すき んでいった。しかし、彼の片眼に映ったものは、茂みの隙 かし、角髪を解いて血に染まっている訶和郎の姿は依然、 間から射し込んだ朝日の縞を切って飛び立っ雉子と、霧の格子の外に倒れていた。そうして、再び彼女は倒れると、 底でうごめく野牛の朧ろに黒い背であった。そうして一露胸に剣を刺された卑狗の姿が、乾草の匂いの中から浮んで みずら ぼうぜん はただ反絵の堅い角髪を打った。が、路は一本の太いにの来た。彼女はただ茫然として輝く空にだんだんと溶け込む 木の前で止っていた。彼は立ち停って森の中を見廻した。霧の世界を見詰めていた。すると、今迄彼女の胸に溢れて したた 頭の上から露の滴りが一層激しく落ちて来た。反絵はふと いた悲しみは、突然憤怒となって爆発した。それは地上の 上を仰ぐと、榧の梢の股の間に、奴隷の蜥蜴の刺青が青い特権であった暴虐な男性の腕力に刃向う彼女の反逆であ ひみこ ゅづる ねら また こよ にお うつぶ くきむら

10. 現代日本の文学 15 横光利一集

いなな 長羅は彼の指差す方を振り向いた。そこには、肉迫してって突撃した。一一頭の馬は嘶きながら突き立った。楯が空 ゃいばうしお 来る刃の潮の後方に、紅の一点が静々と赤い帆のように彼中に跳ね上った。再び馬は頭を合せて落ち込んだ。と、反 の方へ進んでいた。長羅はひらりと馬首を敵軍の方へ振り絵の剣は長羅の腹へ突き刺さった。同時に、長羅の剣は反 向けた。馬の腹をひと蹴り蹴った。と彼は無言のままその絵の肩を斬り下げた。長羅の長驅は反絵の上に踊り上っ ばくしん 紅の一点を目がけて、押し寄せる敵軍の中へただ一騎驀進た。二人の身体は逆様に馬の上から墜落すると、抱き合っ あしさき した。鋒の雨が彼の頭上を飛び廻った。彼は楯を差し出たまま砂地の上を転った。蹴り合い、踏み合う彼らの足尖 し、片手の剣を振り廻して飛び来る鋒を斬り払った。無数から、砂が跳ね上った。草葉が飛んだ。そうして、反絵の の顔と剣が彼の周囲へ波打ち寄せた。彼の馬は飛び上り、 血走った片眼は、引っ掴まれた頭髪に吊り上げられたま 跳ね上って、その人波の上を起伏しながら前へ前へと突きま、長羅の額を中心に上になり、下になった。二つのロは 進んだ。長羅の剣は馬の上で風車のように廻転した。腕が噛み合った。乱れた彼らの頭髪は絡まった鳥のようにばさ 飛び、剣が飛んだ。ばたばたと人は倒れた。と、急に人波ばさと地を打った。 は彼の前で二つに割れた。 卑弥呼の高座は一一人の方へ近寄って来ると降された。し 「卑弥呼。」 かし、耶馬台の兵士の中で、彼らの反絵を助けようとする 長羅の馬は突進した。そのとき、片眼の武将を乗せた黒者は誰もなかった。何ぜなら、耶馬台の恐怖を失って、幸 い一騎が、砂地を蹴って彼の前へ馳けて来た。 福を増し得る者は彼らであったから。彼らは卑弥呼と一緒 はんえ うめ 「聞け、我は耶馬台の王の反絵である。」 に剣を握ったまま、血砂にまみれて呻きながら転々する一一 長羅の馬は突き立った。そうして、反絵の馬を横に流す人の身体を見詰めていた。彼らの顔は、一様に、彼らの美 たかざ と、円を描いて担がれた高座の上の卑弥呼の方へ突進ししき不弥の女を守り得る力を、彼女に示さんとする努力の ために緊き締っていた。しかし、間もなく彼らの前で、長 輪卑弥呼の高座は、彼の馬首を脱しながら反絵の後へ廻 0 羅と反絵の塊りは、卑弥呼の一一人の良人の仇敵、戦いな ていった。長羅は輝いた眼を卑弥呼に向けた。 がら次第にその力を弱めていった。そうして、反絵の片眼 日 「卑弥呼。」 は瞑むられたまま砂の中にめり込むと、一一人は長く重なっ 彼は馬を蹴ろうとすると、再び反絵の馬は疾風のように たまま動かなかった。卑弥呼はひとり彼らの方へ近づい 馳けて来た。と、長羅は突然馬首を返すと、反絵の馬に向た。そのとき、長羅は反絵の胸を踏みつけて、突然地から はず から