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検索対象: 現代日本の文学 15 横光利一集
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1. 現代日本の文学 15 横光利一集

しか るものだ。然もどちらも身を屈してまで結婚をしたくない よろ 二人であればなおさらだった。 「それではお母さんの宜しいように。」 と答えてしまった。しかし、節子は結婚までは中森と交 際してみることだけは、許して貰いたいと申し出た。 節子は手紙を書き放したまま階段を降りていった。する 節子は中森という人物を全くそれまで知らぬわけではなと、思ったごとく敏子と久子は祖母の眠っているロもとに かったが、自分の結婚の相手とあっては、今まであまり注耳をよせ、笑い声を忍ばせて寝言を一心に聞いていた。敏 おこた かっく 意を怠りすぎたことを後悔した。彼は恰幅も良く、妻を愛子は節子を見て、 ちょっと しないような人物だとは思えなかったが、是非この人でな「一寸、一寸。」というように手招きして立って来た。 ければ、生涯が暮せないと思わせるようなところがどこに 「また始まってるの。今度は姉さんの悪口よ。聞いてごら とりえ もなかった。ただ中森の取柄と言えば、家に資産があってんなさいよ。」 ほとけ 悪意がそんなにないと思われる平凡なところであった。け眼の醒めている間は仏のように人が良く、何事も言わず うぬば れども、これとてどことなく家に資産があると己惚れた見に生涯を忍耐し通して来た祖母であるだけに、寝言にその 識が、彼の物腰の匂いにほの見えて、 0 て反対に資産の日の心配を吐き出す祖母の言葉は、節子には痛か 0 た。 あるという彼の特長が、彼からまるで消え失せて節子に映「何んて言って、お祖母さん ? 」 るのであった。節子の家とて資産は相当にあったから、相「あの子は良い子だけども、どうしてあんなに気が強いん 手の資産の額を、特に男性の身を価値づける光沢とはあま だろ。あの子も地獄へ行かねば良いがって。今日は地獄の り見えなかった。 ことばかりよ。」 ところが、中森は節子の家より幾分資産の多いことが、 肩をす・ほめるようにしてふふっと笑う敏子と並んで、節 ムとんそば 熟当然自分の勝利だと思う気位の高さが何かにつけて匂い出子は少し気味悪い思いで祖母の蒲団の傍へよった。庭の芝 くちなし まして来るのだった。これは金持ちの息子につきまとう臭気生の緑が山梔の匂いを籠め、部屋いつばいに縁側の光りの だとは、中森も知らなければ節子も気付いたことは一度も中から流れていた。 なかった。恋愛が結婚の仲立ちとならぬ場合に、男が自分「もうおよしなさいよ。人の寝言を聞いちゃ、寝てる人が の財の高さを婦人に示すほど愚かなことはない。実につま疲れていけないって言うわ。」 らぬことだが、いつもこれで縁談というものは立消えにな「そうかしら。」 で、 もら むすこ

2. 現代日本の文学 15 横光利一集

しれないね。君だってそうでしよう。」 おります。とそれだけ書いてあった。栖方のことは当分忘 「そうですね。でも、何んだかみなあれは、科学者の夢なれていたいと思っていた折、梶は多少この栖方の手紙に後 もどわずら んじゃないかと思いますよ。」高田はあくまで喜ぶ様子もろへ戻る煩わしさを感じ、忙しそうな彼の字体を眺めてい なくその日は一日重く黙り通した。 た。すると、その翌日栖方は一人で梶の所へ来た。 高田が帰ってからも、梶は、今まで事実無根のことを信「参内したんですか。」 じていたのは、高田を信用していた結果多大だと思った 「ええ、何もお答え出来ないのですよ。言葉が出て来ない そば が、それにしても、梶、高田、憲兵たち、それそれ三様ののです。一度僕の傍まで来られて、それから自分のお席へ ゼロ かぞ 姿態で栖方を見ているのは、三つの零の置きどころを違え戻られましたが、足数だけ算えていますと、十一歩でし ている観察のようだった。 た。五メータです。そうすると、みすが下りまして、その にわか むこ 一切が空虚だった。そう思うと、俄に、そのように見え対うから御質問になるのです。」 むな くず て来る空しかった一ヶ月の緊張の溶け崩れた気怠るさで、 ばッといつもの美しい微笑が開いた。この栖方の無邪気 いっか彼は空を見上げていた。 な微笑にあうと、梶は他の一切のことなどどうでも良くな 残念でもあり、ほっとした安心もあり、辷り落ちていくるのだった。栖方の行為や仕事や、また彼が狂人であろう ほおうか 暗さもあった。明日からまたこうして頼りもない日を迎えと偽せものであろうと、そんなことより、栖方の頬に泛ぶ ねばならぬーーしかし、ふと、どうしてこんなとぎ人は空次ぎの徴笑を梶は待ちのぞむ気持ちで話をすすめた。何よ を見上げるものだろうか、と梶は思った。それは生理的にりその微笑だけを見たかった。 まる 「陛下は君の名を何とお呼びになるの。」 実に自然に空を見上げているのだった。円い、何もない、 おっしゃ ふかぶかとした空を。 「中尉は、と仰言いましたよ。それからおって沙汰する、 と最後に仰言いました。おれのう、もう頭がぼッとして来 高田の来た日から二日目に、栖方から梶へ手紙が来た。 て、気狂いになるんじゃないかと思いましたよ。どうも、 さんだい それには、ただ今天皇陛下から拝謁の御沙汰があって参内あれからちょっとおかしいですよ。」 して来ましたばかりです。涙が流れて私は何も申し上げら栖方は眼をばちばちさせ、言うことを聞かなくなった自 れませんでしたが、私に代って東大総長がみなお答えして分の頭を撫でながら、不思議そうに言った。 下さいました。近日中御報告に是非御伺いしたいと思って「それはおめでたいことだったな。用心をしないと、気狂 はいえつごさた けだ

3. 現代日本の文学 15 横光利一集

目がけて奇怪な速さで突きかかって来た。彼はひらりと身「死とは何だ。死とは ? 」 を低くめた。蛾は障子の桟にあたると再びそこから彼の腰しかし、どうして左様にわれわれは死を考えねばならぬ ねら を狙って飛びかかった。 のか こやっ 「此奴、何者だツ。」と彼は思った。彼は直ぐまた蛾を掌彼は自分の疑問に逆手を打っと寝て了った。それから彼 で打ち降ろすと、部屋の隅に突き立ったまま暫く蛾の姿をは夜中に眼が醒めた。すると、ぼんやり彼の見ている真上 眺めていた。 の蚊帳の腹の上で、一疋の蛾が、彼の寝ている匂いを嗅ぐ そろ ように羽を揃えてじっとしていた。 四 ようや 五 次の日彼はぶらりと旅に出た。彼は此の頃漸く自然の美 しさが彼なりに分りかけたように思われた。彼は物を見る彼は次の日、友人達の多くいる海岸町へ行ってみた。そ この海岸では、裸体の男女の群れが輝く大きな海岸線にま とき、なるだけその物の形だけを見るようにと心掛けた。 形だけ見ていると、いかに些細な物体にもそれ相応の品位つわりついて華やかに戯れていた。そこは全く別世界だ。 と性格とがあった。そう言う彼の物の見方に一番多く見ら「これは生きている。」と彼は思った。 ありがた れるのは、彼の亡くなった妻であった。凡そいかなる物の「青春とは有難い。」 彼は思わず双手を空に上げたくなった。いかに夫婦が牢 観じ方があろうとも、死は形が亡くなると言うことにちが いなかった。彼は常に一番眼に触れていた形である空と妻獄であろうとも、彼は一度妻の健康な身体を抱いて人並に けんたい との二つのうち、最も美妙に動き続けてたる空の倦怠此の海の中を快活に泳いでみたかった。もし出来得べくん しようぜん たたず にわか ば、妻をして悄然と自分の影に佇ませずに、群がる男の中 を破っていた妻の形が、俄に彼の眼界から無くなったとい はつらっか うことは、とにかくこれから空漠たる空のみ絶えず彼の相へ湲剌と馳け込ませ、閃めく彼女の肉体から爽やかな興奮 対として眼に触れると言う予想からばかりでも、彼に取っを感じたかった。 げんわく いろあ その夜、彼は生れて初めての夏の多彩な海岸に眩惑され て此の生活と言う風景は全く色褪せた代物であった。 たまま、久し振りに生々としていた。が、さて寝ようとす 彼は旅行に出ようとして恩師の家の門を出ると、もうい きなり疲労を感じた。彼は直ぐそのまま同じ街のホテルへると、また一疋の大きな白い蛾が彼の肩さきにとまってい 行って・ヘッドの上へ仰向きに寝た。 しようじさん すみ しろもの しばら こ 0 ひら さわ にお

4. 現代日本の文学 15 横光利一集

「そう、それはありがとう。」 り身になって渡ってみた日のかっての豪華な一刻の夢を、 今のわが身にひきくら・ヘてはかなく思い出さざるを得なか「何んだかやつばりいじけ込んでいてね。どうもああいう 風に元気がなくなられると、逢っていてもこちらが何をい っていいのか分らなくなって困るもんだよ。」 たのもー 「それはそうね。それにあなたじゃ、ときどぎ飛んでもな 仁羽は店へ出てから頼母木の所へ礼に廻って帰って来た いこと言い出したりするんでしようからなおさらだわ。」 とき奈奈江に言った。 「今日は店へ廻ってから頼母木の所へいってみたが、今度「そうなんだよ。しかし、梶はあれで昔から俺にだけは何 くせ 出来て来たユニフォームがどこでも問題になっているとみもかも打ちあける癖があってね、今日も結婚を藍子ちゃん としたいなんて言い出したぞ。それは初耳じゃないか。」 えてね、誰も早く見たがっているんだそうだ。」 らよっと 奈奈江は一瞬、ぎよっとしたが、「ふふ、」と顔に一寸手 「じゃ、きっと見て二度びつくりだわ。」 「ところが、そのびつくりするところを見るのが、会長のをあてがって笑い出すと、 「そんなこと言ってるの、梶さん。」 楽しみでね。」 仁羽はまだ誰にも見せずに隠してあるユニフォームを眺「そうだよ。藍子と結婚したいなんて、誰もそんなことな んか考えっかないところだけども、しかし、考えてみれ めに自分の部屋へ立っていくと、奈奈江も彼の後からつい ていった。しかし、もう彼女はユニフォームどころの騒ぎや、そこがまた梶らしいところでもあるじゃないか。俺だ ではなかった。仁羽の姿を見ると同時に、さきから梶との って、それや俺が梶なら藍子ちゃんと結婚したかもしれな 首尾はどうだったのかと訊ねたくてならぬのだったが、仁いからな。」 じようげん 羽が上機嫌でユニフォームの話などをしたところを見る「まア、とんだ幸せ者ね、藍子ちゃんは。」 と、それでは話はうまくいったのであろうと心も自然に浮奈奈江は仁羽がユニフォームを取り出してランプの傍で ひとり悦に入っている姿をゆったりと眺めながらも、梶が き立って来るのだった。 「ユニフォームもユニフォームだけど、あなた梶さんとこ藍子と結婚したい意志を持っていたとは聞き捨てならぬと う、ムろ - に、 ろへは廻って下すったんでしようね。」 おっしゃ 「ああ、梶はいたいた。俺がいったら喜んでくれたよ。お「だって、梶さんそんなこと仰言ったの冗談じゃない 前のあれも渡しておいた。」 の ? 」 っこ 0 しあわ

5. 現代日本の文学 15 横光利一集

です。そしたら横を通っていた電車の下っ腹から、火の噴必定である。もしまた勝っとしても、用がすめば、そんな いているのが見えたんですよ。それから、家へ帰って、ラ危険な人物を人は生かして置くものだろうか。いや、危 と梶はまた思った。この危険から身を防ぐためには、 ジオを点けようと思って、スイッチをひねったところが、 ぼッと鳴って、そのまま何の音も聞えないんです。それ ーー梶はその方法をも考えてみたが、すべての人間を善人 で、電車の火と、ラジオのぼッといっただけの音とを結びと解さぬ限り、何もなかった。 あんたん かかわ つけて見て、考え出したのですよ。それが僕の光線です。」 しかし、このような暗澹とした空気に拘らず、栖方の笑 ひら この発想も非凡だった。しかし、梶はそこで、急いで栖顔を思い出すと、光がぼッと射し展いているようで明るか うれ 方のロを絞めさせたかった。それ以上の発言は栖方の生命った。彼の表情のどこ一点にも愁いの影はなかった。何も にかかわることである。青年は危険の限界を知らぬもののか見えないものに守護されている貴さが溢れていた。 だ。栖方も梶の知らぬところで、その限界を踏みぬいてい ある日、また栖方は高田と一緒に梶の家へ訪ねて来た。 る様子があったが、注意するには早や遅すぎる疑いも梶にこの日は白い海軍中尉の服装で短剣をつけている彼の姿 は起った。 は、前より幾らか大人に見えたが、それでも中尉の肩章は 「倒れたのが発想か。倒れなかったら、何にもないわけだまだ栖方は似合ってはいなかった。 たびたび な。」 「君はいままで、危いことが度々あったでしよう。例えば これもすべてが零からだと梶は思って言った。彼は栖方今思ってもぞっとするというようなことで、運よく生命が おも が気の毒で堪らなかった。 助かったというようなことですがね。」と、梶は、あの思 惑から話半ばに栖方にねてみた。 その日から梶は栖方の光線が気にかかった。それにして「それはもう、随分ありました。最初に海軍の研究所へ連 も、彼の言ったことが事実だとすれば、栖方の生命は風前れられて来たその日にも、ありました。」 ともしび 笑 の燈火だと梶は思った。いったい、どこか一つとして危険栖方はそう答えてその日のことを手短に話した。研究所 でないところがあるだろうか。梶はそんなに反対の安全へ着くなり栖方は新しい戦闘機の試験飛行に乗せられ、急 すま 率の面から探してみた。絶えず隙間を狙う兇器の群れや、直下するその途中で、機の性能計算を命ぜられたことがあ ほのお たくら しっしちゅうしよう 嫉視中傷の起す焔は何を謀むか知れたものでもない。もし 0 た。すると、急にそのとき腹痛が起り、どうしても今日 戦争が敗けたとすれば、その日のうちに銃殺されることもだけは赦して貰いたいと栖方は歎願した。軍では時日を変 たま ねら たっと

6. 現代日本の文学 15 横光利一集

た。そこで藍子はひとりになると、日頃自分を愛してくれと、またハンカチを顔にあてて泣き始めた。高は藍子の耳 た義兄の仁羽の目立たぬ愛情が、風のように強くだんだんへ口をよせながら、 「藍子さん、真っ昼間泣くだけはおやめなさいよ。」と言 身に迫って来るのを感じて来た。 午後になって藍子が家を出ようとした時、丁度そこへ高った。 えしやく が来た。藍子は高を見ると会釈もせずに、 「だって君、ーーー」 「駄目よ、今日は。」 といきなり言った。高はおどけたようにわざと目をばちと高は言ったが、今はもう冗談だけは言うのをやめよう くりさせながら玄関に突っ立っていたが、しばらくしてかと思って黙ってしまった。すると、彼は仁羽が死んでしま ら、 ってからの奈奈江夫人の身の振り方が浮んできた。 いや、しかし 「それやひどい。」と言って靴を脱ぎかけた。 きとく 「だって、お兄さん、危篤だって電報が来たんですもの。」と高は思った。彼はふと梶の姿を思い出したのだ。奈奈 江夫人は仁羽より梶を愛していた。それなら夫人は今頃 「危篤 ? 」 よ、 と思うと、その夫人のかすかな喜びを眼がけて疾 「ええ。」 走している自分の心に、彼は勃々とした闘志を感じないわ 「どうしたんですそれは ? 」 よ、つこ 0 冫 ~ し、カ / 、カ子・ 「どうしたんだかちっとも分んないの。だけど、これからけこよ、、 梶か。よしツ。 とにかくあたし、湯ヶ島まで行こうと思ってるの」 ねら すると、高はいっかトラップのグリーンで、標的を狙っ 「じゃ、僕も行こう。」 さっそう 「いやよ、あなたいらっしやるなら、あたしより遅れて来て。ヒストルを撃ち合ったときの、颯爽たる二人の状景が眼 前にちらちらして来て、いつまでも消えなかった。 てよ。」 「そんなことしちゃ、おかしいじゃないですか。」 藍子と高は午後一時の下り列車に間に合った。車内へ這 「だってお姉さん、またいやなお顔なさるんですもの。」 入ると二人はさし向いに席をとった。一一人はしばらくの 「そんなこと、かまうもんか。」 間、仁羽の危篤の原因が何んだろうということについてば と高は言うと自分からさっさと外へ出ていった。 藍子は高の後から外へ出たが、自動車の中へ二人で並ぶかり話し合った。多分、谷からでも落ちたか猪にでもやら ほっぱっ

7. 現代日本の文学 15 横光利一集

あか と顔が赧らんだ。 も、もうこのごろじゃ、分らなくなっておりますね。」 ちょっと 「でも、それは木谷さんも同じじやございません ? 」 と木谷は言って一寸考え込むように黙ってから、 「つまり、難かしく言いますと、科学上の理論というもの「僕もそうです。ですから僕はこのごろ、真人間が恋しく にしても、厳密に言えば、各国共通のものというのはない って、泣いたり笑ったりしている人を見ると、ひどく美し わけですね。」 く見えますね。これからあなたもときどき来て、僕を一つ 何とも知れずその木谷の話から節子は光り煌めくものを教育してみて下さい。」 感じた。木谷の胸中には自分にはも早や分らぬ尊いものが「あなたがもっと馬鹿におなりになるように。」 「いや、賢くなるためにです。」 棲んでいたのだ。そう思うと、節子は日ごろの彼の冷淡に こう言って木谷は夜気の冷え込んで来た窓のガラスを急 見える冴え冴えとした微笑も、一層胸を突き動かして来る にばたばたと閉め出した。 のだった。 九時が近づいたころ木谷は節子を送って外へ出た。隨ろ 「木谷さんのお話お聞きしてますと、機械も何んだか人間 ちょうじ しばら 夜で・ほッとにじんだ月の下から丁子の花が匂って来た。暫 のように見えて来ますのね。」 「そうでしよう。頭の良い人には、機械は人間のように見く一一人は人通りのない根の続いた薄闇の小路を歩いた。 ごと えるのが本当です。人間というものを抽象したのが、つま垣根の変る毎に、花の匂いも強くなったり淡くなったりし り機械なんですから。人間の筋肉の代りに金属や鉱石を入て移り変った。ときどき斬り込むような光線を受けて咲い れ換えてみたのが機械でしよう。それに近ごろは電気が出ている桜の花の下まで来ると、節子は突然幾子のことを思 い出して胸苦しさに襲われたが、それもほんの暫くのこと て来た。電気というのはこ婢は生命力の抽象物ですから、 機械と電気がよるとまったく別の新しい人間が出来るわけだった。 です。ですからわれわれの生活や頭もこれで、機械や電気 という新しい人間から、知らぬ間に革命されているのです ね。あなたでもそうでしよう。」 節子は幾子の幻影から逃れ出るためにも、取りすがるよ 突然、ぐらりと鉾先きを向け変え、木谷は節子を見てにうに木谷の所へ三日に一度ずつ手紙を書いた。木谷からも こにこ笑った。お前に恋愛の出来ぬ理由はそのためだと、返事が来た。そして、土曜日になると一一人は会った。会っ ひとたち もらろん 一太刀浴びせられたようで節子は身を振り返るようにさってもどちらからも結婚の話は持ち出さなかった。勿論、一一 にお

8. 現代日本の文学 15 横光利一集

214 しまうかのように、べらべらと誰彼かまわず猪狩の様子を 脈力を回復したかのように見受けられた。 しばら 暫くすると修善寺からまた一人外科の医者が来た。彼が饒舌り始めた。 仁羽を見ると、よく今まで死なずに保ったものだと言っ頼母木と「実に」は仁羽を医者に預けてしまうと、もう て、いよいよ弾丸を抜くためパントボンの全身麻酔をしよそこにうろうろしていては医者の邪魔をするばかりだった うとした。すると湯ヶ島の内科医は、注射をするなら局部ので、ひと先ず廊下へ出て猟服のまま一服吸った。 麻酔にして、塩化アドレナリンを取りやめノボカインだけ「実に」は、枯木の林に明るく降り注いでいる日光を眺め ひじ にしないと衰弱が激しくって死ぬという。いやアドレナリ ながら、心配そうに黙っている頼母木を肱でつつくと、小 かえ ンをやめては却って活力が衰えて、死を早めるかもしれな声で言った。 いというようなことで、しばらく外科と内科の二人の主張「とにかく君、困ったことになったものだね。これやわれ われにとっちゃ、実にたいへんな問題だ・せ。ええ ? 」 が食い違ってごたごたした。 木山夫人は心配して修善寺から来た医者に仁羽の様子をすると頼母木は大きな声で、 ルねた。医者は夫人を仁羽の妻だと思 0 たらしく、とにか「それや、たい〈んだ。」 と言うのを「実に」はまた圧えて、そっと一層声を忍ば くあの通りの御重態ですからどうもそのへんの所はといっ て、ただ言葉を濁してしまうだけであった。それではと今せながら、 つごう 度はこっそり湯ヶ島の医者に訊ねると、これも明日まで保「だいいちわれわれが見てたんだからね。都合が悪いよ。 てばどうかと思われますが、何とも今の所はと、同様にあこれで君、まアいずれ仁羽君危ないだろうが、一度は君に やふやな返事をするだけだった。そうして、一一人の医者はしたって、証人に立たなきやアなるまいさ。そのとき君と 何事か病人以外のことで、互に角突き合っているかのよう僕とは違ったことを言っちゃまずいから、何とか一応一一人 にぶんぶんしていて、木山夫人には病人のはっきりした容で今のうちに定めとこうじゃないか。」 「それもそうだ。」 体は少しも分らなかった。 すす 彼女は病室を出ると、ひと前もかまわず急に啜り上げて「それでだが。」 と、「実に」は言って周囲を見廻しながら、 泣いた。が、しばらく泣いてしてからけろりとなると、ま た周章てて病室の中へっていった。それからの彼女「われわれとしちゃ、奈奈江夫人が飽くまで主人の危急を は、今までのびつくりしていたことをすっかり吐き出して救おうとして、猪を撃ったんだが、それが誤って仁羽君を しゃべ おさ ししがり

9. 現代日本の文学 15 横光利一集

ビストルの射場へ来ると、梶は白い・ヘンキを塗ったデス 救ってくれるにちがいないと分っていた。しかし、それが まっす なろうか、もしそれが出来れば、 クの上へ弾丸を並べた。そして、彼は片腕を真直ぐに前方 ーーああ、それさえ出来れば に延ばし、小使に貼らせた標的をコルトでじっと狙ってみ むし と、梶は思うにつけ、寧ろそれが出来れば自ら金を投げた。距離は十八ャード、標的は六吋の正方形の中央に直径 しばら うす 出した方が良いとさえ思うのだった。 一吋の円が五重の渦を巻かして立っている。暫くして、梶 のコレト・、、 / 力「ポスツ。」と鳴った。が、弾丸は横へ外れ あらた 郊外のトラップショッティングでは、もう緑の高い土手て、標的は微動もせずに立っている。梶はまた更めて狙っ を中心に銃声が響いていた。五個のスタンドに立っているてみた。 ポスツ。 五人の射手の下の方から合図があると、鳥の真似をした素 焼のクレーが鳥のように飛び立ち出す。スタンドの射手た が、また駄目だ。弾丸は標的の中心を射抜かずとも良 それぞれ だんこん ちは、夫々自分のそのクレーを散弾で射ち落すのだ。横の せめて垂直に標的に弾痕を残すようだと先ずビストル 見物台の上では点数をえる番人がついている。一人の射は許せるのであるが、梶のは今日は標的〈さえも触れぬの 手は四発を撃っ度にスタンドを変らねばならぬので、二十だった。 しま 発を五つのスタンドで使って了えば、ワン・ラウンドの勝梶はもう今日はやめて帰ろうかと思った。しかし、今は 負が定ったわけになる。 弾丸を標的にあてることそれ自体が重要なことではない。 ほとん ここに集まっている者達は殆どどこかの富豪達ばかりだあたらぬ弾丸で忍耐心を養うことの方が重要な時期なの しす が、すべて多くの場合に見るように、こんな物見の場所でだ、とそう思っては、また標的を見詰めて気を鎮めた。 しろうと りようじゅう 高価な猟銃を持っているものほど、見たところ素人の猟すると、それから間もなく、彼の横で一発ビストルが鳴 り響いた。見ると、それは山のホテルで毎日顔を合わして 人らしいたどたどしい様子があった。 梶はしばらく後の方から紳士達を眺めていた。銃の方な いた高であった。それでは高も仁羽からすすめられて来た らもう彼は前からの練習でかなり自信は持っていたが、ビのであろうと思っていると、なかなか高もフォルムだけ ストルは今年初めてやり出したので、梶には物珍らしい興は、いつの間にか形になって来ているのだ。 味があった。 「やア。」 「やア。」 たび インチ ねら

10. 現代日本の文学 15 横光利一集

「これはおかしい。」と彼は思った。 彼は暫く蛾をじっと見詰めて立っていた。 「これは妻だ。」 ふと彼はそう思った。すると、俄に、前々夜から引き続 いて彼の周囲を舞い続けて来た蛾の姿が、恋々とした妻の彼は一週間もするともう華やかな海岸線から倦いて来 た。そこで波に洗われている裸体の人々の形は、彼にとっ 心の迷いのように思われ出した。 彼より先に床の上へ寝転んで彼の様子を見ていた友人のて別にあの倦怠極まる空の形を変化さすほど、それほども —は、急に起き上った。 魅力のある何物でもないのが分ってくると、彼はまた・ほん やりと恩師の家へ帰って来た。 「何んだ、蛾か。」 彼はここでも、夜いよいよ寝ようとするとき習慣的に蛾 「蛾だ。」 が周囲にいないかと見廻した。すると、いつの夜でもどこ 「よし。」と—は言うと、いきなり蛾をひっ撼んだ。 かに必ず定っているように、また白い一疋の蛾がちゃんと 「どうするんだ ? 」 彼の頭の横で待っていた。 「殺すんだ。」 「実に不思議だ。これは、しかし、全く不思議な奴だ。お 「よしてくれ。」と彼は強く言った。 —は蛾を握ったまま暫く彼のしい顔を眺めていた。彼 。」と彼は言った。 もらろん はず 彼は蛾に近ちかと頭を寄せて彼女の意志を読み取るよう は不意に起って来た自分の気持ちを勿論知ろう筈もない— る に蛾を見詰めた。だが、彼はあの愛すべき妻が、事もあろ の不思議そうな顔に好意を感じた。 で「此奴は俺の死んだ家内なんだよ。紙で包んでそ 0 と捨てうに此の憐れな蛾の姿にな 0 ていると思うと、それはいか に愚かな彼自身の空想だと考えたとしても涙を流さずには てくれないか。」 てのひら ど「よしよし。」と—は笑いながら穏やかに言うと、蛾を窓のおられなかった。彼は蛾を掌の上にのせながら妻の死の 螂外〈捨てて了った。彼は床の上へ寝ながら、どうして妻が間際に言 0 た言葉や顔を思い出した。 自分に蛾を彼女だと思わせるのかと考えた。もっとも彼自「もうは一人・ほっちになるんだわ。私が死んだら、もう 盟身を彼だと思うのと、蛾を妻だと思うのはそう大した変りの事をしてやるものが誰も無いわ。」 よしあったとしても、無論彼女のそれのようではないに はなかろう筈だのに、しかし、それにしてもわざわざ今の 場合、蛾を特に自分の妻だと思う自分の気持が彼には奇怪 なことに思われてならなかった。 きわ