言っ - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 15 横光利一集
389件見つかりました。

1. 現代日本の文学 15 横光利一集

ように痛くもない所を刺して来る眼つきの人のいることだ より一番し続けているわけにもなっているのだ。 あるとき私は屋敷に自分がここへ入って来た当時軽部と私をひやかした。そう言われると私だってもう彼から痛 かんじゃ から間者だと疑われて危険な目に逢わされたことを話してい所を刺されているので彼も丁度いつも今の私のように みた。すると屋敷はそれなら軽部が自分にそう言うことを私から絶えずちくちくやられたのであろうと同情しなが ら、そう言うことをいつも言っていなければならぬ仕事な まだしない所から察すると多分君を疑って懲り懲りしたか がんくび らであろうと笑いながら言って、しかしそれだから君は僕んかさそ面白くはなかろうと私が言うと、屋敷は急に雁首 を早くから疑う習慣をつけたのだと彼は揶揄った。それでを立てたように私を見詰めてからふッふと笑って自分の顔 たくら は君は私から疑われたとそれほど早く気付くからには君もを濁してしまった。それから私はもう屋敷が何を謀んでい 這入って来るなり私から疑われることに対してそれ程警戒ようと捨てておいた。多分屋敷程の男のことだから他人の する練習が出来ていたわけだと私が言うと、それはそうだ家の暗室へ一度這入れば見る必要のある重要なことはすっ と彼は言った。しかし、彼がそれはそうだと言ったのは自かり見て了ったにちがいないのだし、見て了った以上は殺 分は方法を盗みに来たのが目的だと言ったのと同様なのに害することも出来ない限り見られ損になるだけでどうしょ かかわ も拘らず、それをそう言う大胆さには私とて驚かざるを得うも追っつくものではないのである。私としてはただ今は すぐ こう言う優れた男と偶然こんな所で出逢ったと言うことを ないのだ。もしかすると彼は私を見抜いていて、彼がそう むし たらま 言えば私は驚いて了って彼を忽ち尊敬するにちがいないと寧ろ感謝すべぎなのであろう。いや、それより私も彼のよ こやっ 思っているのではないかと思われて、此奴、と暫く屋敷をうに出来得る限り主人の愛情を利用して今の中に仕事の秘 見詰めていたのだが、屋敷は屋敷でもう次の表情に移って密を盗み込んでしまう方が良いのであろうとまで思い出し かぶ た。それで私は彼にあるときもう自分もここに永くいるつ 了って上から逆に冠さって来ながら、こんな製作所へこう 言う風に這入って来るとよく自分たちは腹に一物あってのもりはないのだがここを出てからどこか良い口はないかと たず 械 仕事のように思われ勝ちなものであるが君も勿論知っての訊ねてみた。すると彼はそれは自分の訊ねたいことだがそ えら 機とおりそんなことなんかなかなかわれわれには出来るものんなことまで君と自分とが似ているようでは君だって豪そ ではなく、しかし弁解がましいことを言い出してこれはまうなことも言っていられないではないかと言う。それで私 もっと た一層おかしくな 0 て困るので仕方がないから人々の思うは君がそう言うのも尤もだがこれは何も君をひ「かけてと かえ ように思わせて働くばかりだと言って、一番困るのは君のやこうと君の心理を掘り出すためではなく、却って私は君 もちろん

2. 現代日本の文学 15 横光利一集

いと思うの。矢部さんはあたしが絵なんか画こうもんな「兄さんへの面当てよ。」と幾子は言って節子を見た。 ら、それこそ叱り飛ばしてばかりいそうな方に思えるんだ「だから、あたしだ 0 て同じだわ。あなたの結婚をいつま けど。」 でも引き延ばしているのは、あたしだっていうことになる 幾子の言うことは前々に矢部から手紙で言って来ているじゃありませんか。それが間違いだったら、あなたの兄さ こととて、節子は何の驚きも感じなかった。 ん、そのとき何と思われたか考えてごらんなさいな。こう おっしゃ 「そして、どう仰言ったの、あなたは ? 」 いうことを妹に言わすのは、あの女のためだと、きっとあ 「あたしは兄さんがお嫁さんを貰わないのに、先にあたし たしのこと思いなすってよ。お気の毒だわ、そんなこと。」 がお嫁に行く気なんかしないって、そう言ったの。」 幾子はいきなり節子の手を撼むと、それをぐいぐいと引 幾子にしてはあまりにその答えは出来すぎた答えだと節っ張りながら、 子は思った。しかし、もう冗談ではなかった。自分が中森「いいじゃありませんか、そんなに怒らなくったって。あ との結婚を破棄している間は、幾子の結婚も永久に引き延たしは兄さんの吩咐け通り、あなたのところへ来ているん ばしていく結果になるという、その幾子の皮肉が、果してですから。あたしがあなたとお会いした日は、兄さん一番 裏に含んだ皮肉のつもりかどうかと節子はさらに迷うのだ喜ぶんですもの。」 「困ったわねえ。」 「あなたは本気でそんなこと仰言ったの。嘘でしよう。」 と節子は急にがっかりしたように声を落して考え込ん 「だって、あたし、そうより答えられないわ。節子さんをだ。幾子は悲しむ節子をなお揺り動かしつつ、 兄さんが思っていて駄目になったんでしよう。そんなこ 「兄さんのことは兄さんのことだわ。あたしはあたしでま と、あたし意気地がないと思うの。だから、そうでなくた た別よ。ですから、そんなことあなたにもう関係ないんで はす って、そうより言えないじゃありませんか。」 すもの。あたし、あなたに皮肉を言う筈ないじゃありませ ぎんこく んか。これでも、まだあたし失礼なの。」 「でも、それは惨酷よ。あたしに惨酷な言い方だわ。」 かが 「どうしてかしら。」と幾子は眼を火鉢に落して言った。 と幾子はいつもの媚態を現し、身を蹲めるようにしてち のぞ 「それや、あなたが真心からそう仰言ったんなら、い、 かちかと節子の顔を覗き込んだ。 つらあ 思うわ。でも、あなたのは、あたしへの面当てのように響「真剣なことなんですから、そんなことしないで下さい。 くんですもの。」 ほんとにお願いよ。あなた兄さんに、そう仰言って下さら いいっ

3. 現代日本の文学 15 横光利一集

しかし、よもやこれが仁羽をそれだけ愛して来たからでまる焼けになってしまった。」 くらゆう もないだろうと奈奈江は思い、梶を待ちあぐねた日をいまああ、そうだったのだと、奈奈江は忘れていた梶の苦衷 一度咲き返らせて見たくなって、うつり変る自分の心のあが初めて頭にのぼって来た。すると、梶の苦しみも自分同 せとぎわ さましさにおかしくもなって来た。 様、他人のことなどは考えていられぬ瀬戸際のものだった にちがいないと思われて、それにもかかわらずわざわざ出 けれども、自分のそんな冷淡さは、あるいはもしかした ら自分だけではなく、梶も同様にそうかもしれないと奈奈て来てくれた梶の心尽しが、自然にありがたく感じられて 来るのだった。 江は思いながら、 「お母さん、お丈夫でいらしって ? 」 「仁羽も言ってたけど、あなたも騒動なすってらしったん ですってね。どうでしたの。」 「ああ、あの人も何とかかとか言いながら、まアね。」 「そう。それは結構ね。」 「そりや騒動といったところで、僕のは会社がつぶれただ 「奈奈江さんにはたいへんいろいろ失礼なことをして来たけのことだけれども、君の方は思いがけないことでした ように思ってるんだけども、どうも僕もしようがなくってね。あなたも疲れたでしよう。」 「ええ、ほんとに困ってしまったわ、今度は。」 それでは梶は、自分の冷淡さは自分が彼に腹を立ててい そう奈奈江は言ったが、しかし、それを梶から言われて るからだと思っているのにちがいないと奈奈江は思った。 は、まだ開いている傷口を突っかれた思いがして、梶とて はず しかし、そう思うと、梶のそんな自分への心配もそれは普自分の苦しみに梶が原因していることを知らない筈がない 通のことだとまた思った。あれほども念に念を入れて、世ものをと、かすかな痛みのままに彼の気持ちに手薄な心も こころづく の女の出来かねると思われる心尽しの数々をしつくしてま感じられてならぬのだった。 で梶を迎えたのに、梶は梶でそれをこちらのなすべき当然「仁羽がさっきあたしに言ったことだけど、何んでした ら、お店の方のことでお役に立つようなら、仁羽を使って のことと思っているかのごとき振る舞いをしたのだった。 「猟に来るときには仁羽と二人でお待ちしてましたのよ。」やって下さるといいわ。」 と奈奈江は言った。 「ああ、ありがとう。しかし、もうどうしたって駄目なん 「僕も何とかお返事しようと思ってたんだけども、とにかですよ。もうこうまでなると、不思議に度胸ばかりになっ くあのときには、会社の方が火の車でね。とうとう僕までて来てね。」 だめ

4. 現代日本の文学 15 横光利一集

おっしゃ 「つまり奥さんの仰言ろうというのは、まアまア、そうい はないわ。だけどあなたと藍子さんとにもしものことがあ っ 1 四うことだという意味ですね。そんなら、もう少し早く言っ ったとき、困るのはだいいちばんにはあたしでしよう ? 」 て下されば良かったんだが、それで奥さんは ? ー 「しかし、そりや、奥さんよりも困るのは、僕ですよ。」 「だから、あたしあなたにお訊きしてるんじゃないの、も奈奈江は、いつの間にか愛人気取りになっている高の得 し藍子ちゃんがあなたをそんなに何んだったら、高さん、意な諧謔を感じると、「ふツーと笑いを漏らして言った。 「だって、あなたがあたしよりお困りになる理由は、どこ ほんとうに真面目になってやって下さるおつもりなの。」 「奥さんに申し上げるような僕の決心は、今のところ何んにもないわ。あなたなんか、ただ女の子の喜びそうなこと もらろん にもこれといってはありませんね。勿論、藍子さんとはだけ考えてらっしゃれば、それで通っていくんだけど、あ 僕、決心しなくちゃならないことなんて、何んにもありや たしなんか、これでもまだ藍子ちゃんのお嫁入口のこと うそぶ しよっらゆう しませんからね。」と嘯くように高は言うと、煙草を吸っも、初中終考えてなきゃならないのよ。」 しか 「これや僕は、今日は奥さんに叱られに来たようなもんで しかし僕は奥さんの思ってらっしやるほどに 奈奈江は横のクッションの上で、高が大きくなって煙草すね。 を吹かし出したのを見ていると、此の青年、いったい今日は、まだそこまでは藍子さんの責任なんか、負う義務があ は自分に、何をしようと思ってホテルのグリルへなんか誘りませんよ。」 「だから、あなたに、あたしさっきからお訊きしているん い出す気になったのかと、そんなことを考えながら、 たと 「だって、あなたが藍子ちゃんに何の決心もないと仰言っじゃないの。譬えば、あなたと藍子ちゃんとは、まアどの くらいの程度のところか、その肝心のところをお訊きしと たって、そりや駄目だわ。あたしには、もうあたしが調べ かなくちゃ、さア、いよいよ藍子ちゃんにお嫁入口が見つ られることだけは、ちゃんと分ってるんですからね。」 すると、高は眼角に光りをよせて奈奈江の顔をのそき込かったというときになって狼狽えたって、もうこれは追っ んだ。 つかないんですからね。」 しばら 「じゃ、奥さんは、僕と藍子さんとがどんなだと仰言るんすると高はまた煙草をひと吹き鋭く吹いて、暫く黙って いてから、 です。何んだかにはさきから、奥さんがおかしくってし 「どう僕が言ったって、そんなに僕の言うことを信用して ようがない。」 うそ 「そりや、あなたはあたしの言うのは、おかしいにちがい下さらなきやア、そんなら僕だって、もういっそのこと嘘 めかど うろた

5. 現代日本の文学 15 横光利一集

んだん勢力を与えるためにやにや軽蔑したように笑ってやだけはやめるが良いと言うと、軽部は急に私の方を振り返 ると、彼もそれには参ったらしく急に奮然とし始めて軽部って、それでは二人が共謀かと言う。だいたい共謀かどうか を上から転がそうとするのだが軽部の強いと言うことには こう言うことは考えれば分るではないかと私は言おうとし どうしようもない、ただ屋敷は奮然とする度に強くどしどてふと考えると、なるほどこれは共謀だと思われないこと し殴られていくだけなのだ。しかし、私から見ていると私はないばかりではなくひょっとすると事実は共謀でなくと に笑われて奮然とするような屋敷がだいいちもうぼろを見も共謀と同じ行為であることに気がついた。全く屋敷に悠 せたので困 0 たどん詰りと言うものは人は動けば動くほど悠と暗室へなど入れさしておいて主人の仕事の秘密を盗ま かえ ・ほろを出すものらしく、屋敷を見ながら笑う私もいつの間 ぬ自身の方が却って悪い行為をしていると思っている私で にかすっかり彼を軽蔑してしまって笑うことも出来なくなある以上は共謀と同じ行為であるにちがいないので、幾分 ったのもつまりは彼が何の役にも立たぬときに動いたからどきりと胸を刺された思いになりかけたのをわざと図太く なのだ。それで私は屋敷とて別にわれわれと変った人物で構え共謀であろうとなかろうとそれだけ人を殴ればもう十 もなく平凡な男だと知ると、軽部にもう殴ることなんかや分であろうと言うと今度は軽部は私にかかって来て、私の あご めてロで言えば足りるではないかと言ってやると、軽部は顎を突き突きそれでは貴様が屋敷を暗室へ入れたのであろ しんちゅうばん 私を埋めたときのようにまた屋敷の頭の上から真鍮板の切うと言う。私は最早や軽部がどんなに私を殴ろうとそんな 片をひっ冠せて一蹴り蹴りつけながら、立てという。屋敷ことよりも今まで殴られていた屋敷の眼前で彼の罪を引受 は立ち上るとまだ何か軽部にせられるものと思ったのか恐けて殴られてやる方が屋敷にこれを見よと言うかのようで わそうにじりじり後方の壁へ背中をつけて軽部の姿勢を防全く晴れ晴れとして気持ちが良いのだ。しかし私はそうし かせい ぎながら、暗室へ這入ったのは地金の裏のグリュ ーが苛性て軽部に殴られているうちに今度は不思議にも軽部と私と ソ 1 ダでは取れなかったからアンモニアを捜しにいったのが示し合せて彼に殴らせてでもいるようでまるで反対に軽 械 だと早口に言う。しかし、アンモニアが入用ならなぜ言わ部と私とが共謀して打った芝居みたいに思われだすと、却 機ぬか、ネーム。フレ 1 ト製作所にとって暗室ほど大切な所はってこんなにも殴られて平然としていては屋敷に共謀だと けねん ないことぐらい誰だって知っているではないかと言ってま思われはすまいかと懸念され始め、ふと屋敷の方を見ると でたらめ た軽部は殴り出した。私は屋敷の弁解が出鱈目だとは分っ彼は殴られたものが二人であることに満足したものらしく ていたが殴る軽部の掌の音があまり激しいのでもう殴るの急に元気になって、君、殴れ、と言うと同時に軽部の背後

6. 現代日本の文学 15 横光利一集

と言いながら上機嫌で藍子の傍へ降りて来た。 だといわぬばかりの、その藍子のいい方が、奈奈江には腹 「お堀を一度廻って来たいわね、もうじき桜も散ってしま立たしかった。けれども、もうこうまでなれば、いずれ仁 ってよ。」と藍子は言った。 羽の鈍い心を少しでも藍子の方へ揺り動かしてくれる方が 「そうだね。桜も良いな。どうだね、奈奈江。」 奈奈江にとっては何よりである。 「そうね。」 「どうだ、奈奈江、いっぺんそのあたりをぐるりと廻って 奈奈江は仁羽に振り返って親しげな笑顔を向けられる来ないか。」 おかん と、その方の半面が縮んで来るほど悪感がさっと走って来「あたし今夜これから少し用があるのよ。あなたたち、い た。前まではこんなでもなかったのに、それにどうしてこ ってらっしゃればいいじゃないの。ほんとに桜は今夜あた にくにく うも急激に仁羽が憎々しくなって来たのであろうと思う りで、もうおしまいかもしれないわ。」と奈奈江は言った。 と、それでは伊豆での苦しみも、やつばり何の役にも立た 「じゃ、行こうかね。」 なかったのだと思った。あのときにはわれながら悲壮な感 と言うと仁羽は奈奈江の蹲んでいる縁側の方へ歩いて来 じに打たれたほど、自分の行為が立派なものに見えたのた。奈奈江は急いで自分の屋の方〈戻 0 ていくと、あた に、それに打って変った今の感じは、これはいったい何んかも今が彼女の生死の瀬戸際でもあるかのように、仁羽が だろう。ああ、何という自分だろう。ーー奈奈江は縁側に今宵のようにいくらかでも、せつない藍子の心を感じるよ しやが 蹲み込んだまま、じっと芝生の葉の上で輝いている一点のうにとただそればかりをひたすらに願うのだった。 露を見詰めながら、もう自分には救いなどというものは永 たんそく 久にないのだと思って歎息した。もうこのうえは、人からその翌日、奈奈江のところへ梶から手紙と一緒に自分の 何と言われようとかまいはしょ オい。えーえ、ばたばたする預金帳が送り返されて来た。奈奈江はそれを見ると、昨日 だけはしてしまえと、奈奈江は、つと思わず立ち上るそのの藍子の縁談のこともあることとて、それではやつばり藍 拍子に、さきからこちらを向いていた藍子の視線とばった子のことは本当だったのだと、いきなりその場へ突きのめ しん された思いがした。彼女は口惜しさに身体の心がかたカた 寝り逢った。藍子は急に奈奈江から眼を反らして言った。 「ね、ね、お兄さん、いきましようよ、桜は一年にいっぺと揺れて来た。もうこのうえは黙ってはいられないと、す ぐ手紙は見ずに着物を着換えに立ち上った。しかし、どう んよ。」 すけだら 奈奈江の気持ちを見抜いてまるで助太刀でもしてやるの いうことが手紙に書いてないとも限らないと思ったので、 と や

7. 現代日本の文学 15 横光利一集

「あたし、あなたのお心はそりやよく分っているの。だけ 「もう分っていてよ。お医者さんが何か言ったの。」 妻はそうひとり定めてかかると、別に悲しそうな顔もせど、あたし、こんなに我ままを言 0 たのも、あたしが言う ずに黙 0 て天井を眺め出した。彼は妻の枕元の籐椅子に腰んじゃないわ。病気が言わすんだから。」 あらた を下ろすと、彼女の顔を更めて見覚えて置くようにじっと「そうだ。病気だ。」 ゆいごん 「あたしね、もう遺言も何も書いてあるの。だけど、今は 見た。 見せないわ。あたしの床の下にあるから、死んだら見て頂 もう直ぐ、一一人の間の扉は閉められるのだ。 しかし、彼女も俺も、もうどちらもお互に与えるも戴。」 彼は黙って了った。ーーー事実は悲しむ・ヘきことなのだ。 のは与えてしまった。今は残っているものは何物もない。 その日から、彼は彼女の言うままに機械のように動き出それに、まだ悲しむべきことを言うのは、やめて貰いたい した。そうして、彼は、それが彼女に与える最後の餞別だと彼は思った。 と思っていた。 花壇の石の傍で、ダリヤの球根が掘り出されたまま霜に 或る日、妻はひどく苦しんだ後で彼に言った。 腐っていった。亀に代ってどこからか来た野の猫が、彼の 「ね、あなた、今度モルヒネを買って来てよ。」 ほとん 空いた書斎の中をのびやかに歩き出した。妻は殆ど終日苦 「どうするんだね。」 「あたし、飲むの。モルヒネを飲むと、もう眼が覚めずにしさのために何も言わずに黙 0 ていた。彼女は絶えず、水 ねら 平線を狙って海面に突出している遠くの光った岬ばかりを このままずっと眠って了うんですって。」 眺めていた。 て「つまり、死ぬことかい ? 」 っ 「ええ、あたし、死ぬことなんか一寸も恐かないわ。もう彼は妻の傍で、彼女に課せられた聖書を時々読み上げた。 「 = ホ・ ( よ、願くば恚をもて我をせめ、烈しき怒りをも に死んだら、どんなにいいかしれないわ。」 馬「お前も、いつの間にか豪くな 0 たものだね。そこまで行て懲らしめたもうなかれ。 = ホ・ ( よ、われを憐れみたま え、われ萎み衰うなり。工ホ・ハよわれを医したまえ、わが たましい 承けば、もう人間もいっ死んだって大丈夫だ。」 「でも、あたしね、あなたに済まないと思うのよ。あなた骨わななき震う。わが霊魂さえも甚くふるいわななく。 = ホ・ ( よ、かくて幾その時をへたもうや。死にありては汝を を苦しめてばっかりいたんですもの。御免なさいな。」 思い出ずることもなし。」 「うむ、」と彼は言った。 とういす せんべっ

8. 現代日本の文学 15 横光利一集

「だって、もう遅いじゃないの、今頃から。」 「しかし、仕方がないんだ。それに電報も来ているし、」 「ええ、言わないどころじゃないわ。うんともすんとも言 「明日、じゃ、あたしたちと一緒じやどう ? 」 わないんだから、」 「うむ。」 「少しは遊んでいるのかね。」 あま 「そうなさいよ。そうすると、あたし都合がいいわ。今夜「どうかしら、あたしこのごろは尼さんみたいに暮してい じゃ、そりや駄目よ。」 るから、もう仁羽のしていることなんか何も分らないわ。 霧が足もとの谷の中からますます激しく流れて来た。二あたし、こんな気性なもんだから、いやだと思うと、もう 人はまた黙り出した。 駄目なの。」 しばら 奈奈江は長い疲れが出て来たようにふうっと吐息をもら梶はまた危くなって来たという風に暫く黙っていてか ら、 すと言った。 「あたしね、この夏はあなたがここにいらっしやることを「もっとあなたも仁羽を大事にしないと、あれじや少し、 聞いて来たんだけど、でももうあなたとお別れするのは明見つともないね。」 日でしよう。だもんだから、さっきからどうなすったのか「ありがとうさま。 でもね。」 と思って、そりやお待ちしてたの。」 奈奈江はいいかけて梶と自分との破れた昔の原因を思い 梶は深みへ落ち込む奈奈江の言葉を恐れたらしく、わざ出すと、何となく胸が迫って来た。 と彼女の言葉をそらして言った。 「あたし、あなたと結婚してたら、こんなじゃなかったと 「あなたも仁羽も、この夏はお達者で、 まア、それが思うけど、 もう少し、どうにか出来てたと思うんだけ 一番さ。」 ど。」 「そりや、達者は達者だけど、 「駄目だよ、君とは、」 「それよりないよ。」 一口、そうぶつきら棒に言われると、奈奈江は眼が醒め えりあしし 「でも、あたしなんか、まア仁羽があんなだからこそかも たように、初めて襟足に浸みる霧の冷たさを感じて来た。 しれないけど、何んだか罰があたっているような気がする奈奈江は言った。 「そりや、あなたとあたしとは駄目は駄目かもしれないけ 「あれじゃなるほど、やかましくは言わなかろうね、仁羽ど、だけど、今よりはもっと楽しかったと思うのよ。あた

9. 現代日本の文学 15 横光利一集

うつかりす にとるように分って来て、彼を見ていると自然に自分を見も何の役にも立たなくなったばかりではない、 ているようでますますまたそんなことにまで興味が湧いてると彼の地位さえ私が自由に左右し出すのかもしれぬと思 来るのである。 ったにちがいないのだ。だから私は幾分彼に遠慮すべきだ 或る日主人が私を暗室へ呼び込んだので這入っていくと言うぐらいは分っていても何もそういちいち軽部軽部と しんらゆう と、アニリンをかけた真鍮の地金をアルコ 1 ルランプの上彼の眼の色ばかりを気使わねばならぬほどの人でもなし、 いつものように軽部の奴いったいいまにどんなことをし出 で熱しながらいきなり説明して言うには、・フレ 1 トの色を かえ 変化させるには何んでも熱するときの変化に一番注意しなすかとそんなことの方が却って興味が出て来てなかなか同 ければ分らない、いまは此の地金は紫色をしているがこれ情なんかする気にもなれないので、そのまま頭から見降ろ が黒褐色となりやがて黒色となるともうすでに此の地金がすように知らぬ顔を続けていた。すると、よくよく軽部も腹 次の試煉の場合に塩化鉄に敗けて役に立たなくなる約束をが立ったと見えてあるとき軽部の使っていた穴ほぎ用のペ くふうすべ ルスを私が使おうとすると急に見えなくなったので君がい しているのだから、着色の工夫は総て色の変化の中段にお いてなさるべきだと教えておいて、私にその場で・ ( 1 ニンまさきまで使っていたではないかと言うと、使っていたっ グの試験を出来る限り多くの薬品を使用してやってみよとてなくなるものはなくなるのだ、なければ見付かるまで自 しら 言う。それからの私は化合物と元素の有機関係を験べるこ分で捜せば良いではないかと軽部は言う。それもそうだと とにますます興味を向けていったのだが、これは興味を持思って、私はベルスを自分で捜し続けたのだがどうしても いままで てば持つほど今迄知らなかった無機物内の微妙な有機的運見付からないのでそこでふと私は軽部のポケットを見ると 動の急所を読みとることが出来て来て、いかなる小さなこそこにちゃんとあったので黙って取り出そうとすると、他 とにも機械のような法則が係数となって実体を計っている人のポケットへ無断で手を入れる奴があるかと言う。他人 ゆいしんてめぎ ことに気付き出した私の唯心的な眼醒めの第一歩となってのポケットはポケットでも此の作業場にいる間は誰のポケ 械 ットだって同じことだと言うと、そう言う考えを持ってい 来た。しかし軽部は前まで誰も這入ることを許されなかっ ずうすう 機た暗室の中へ自由に這入り出した私に気がつくと、私を見る奴だからこそ主人の仕事だ 0 て図々しく盗めるのだと言 、つこ、主人の仕事をいっ盗んだか、主人の仕事を手 る顔色までが変って来た。あんなに早くから一にも主人一一う。しナし かかわ にも主人と思って来た軽部にも拘らず新参の私に許された伝うと言うことが主人の仕事を盗むことなら君だって主人 しばら ことが彼に許されないのだからいままでの私への彼の警戒の仕事を盗んでいるのではないかと言ってやると、彼は暫 やっ

10. 現代日本の文学 15 横光利一集

にわか 「結婚式の時間、まだ間におあいでして。妹のことはこの矢部は節子の弁解に思いあたる風に、俄に明るい顔にな うなす 次ぎお返事いただいてもいいんですの。」 ってひとり頷いた。節子は矢部の落胆を洗い清めるつもり 今日の二人の話はあくまで敏子のことに限りたく、節子で話していたとはいえ、矢部と敏子が駄目なら矢部に頼 はこう言って優しく矢部の心をひき立ててみた。 み、ふと木谷と敏子との縁談冫 こも一度渡りをつけて貰いた 「今日の結婚式は友達のですからね。これはまア、なるだ いとさえ思うのであった。 け成功させてやりたいですな。おっと、もう遅れたかな。」好きなものを好きだとは言い出せずに終る心が、ついに ひょう、ん 矢部は剽軽に時計を見ながら笑って言って、自動車の通は自分のその好むものを人に与えようと努力する行為に変 りそうな大通りの方へ歩みを廻ぐらせた。 るというのは、これはいったい誰の意志というものであろ しあわ 「矢部さんが敏子をもらってやって下されば、あの子は倖う。 まことにそのようなことまで思いながら、節子 せだと思うんですけれど、いけませんかしら。敏子は小さは、こんな気持も来る時さえ来れば起るものかと、ある諦 いときから、あたしの言うままになる子ですの。お婿さん念が早くも心中に忍び込み、もう恋愛をする時機も自分に はあたしが探してあげるからって、そういつも言ってありは永久に来ないのであろうと一層淋しさを感じて来た。 ましたので、あの子にだけはあたし責任があるんですの 「しかし、承っておりますと、あなたは僕らの想像してい よ。どなたか良い方ありませんかしら。それや、父や母よ たような御婦人とは、ひどく違う方ですね。」と矢部は考 りあたしの言うことの方を、よく聞いてくれるんですの。 え込みながら言った。 ですから、何んですか、おかしなことを言うようでござい 「まア、恐ろしいこと。どんな風に違っているんでしょ ますが、あたし、この人ならと思うと、自分より敏子にとう。でも、あたしは自分の好きな人でなくちゃ、妹のお婿 せ思うように習慣的になるんですのよ。あたしは勝気でわがさんなんかにさせたくありませんわ。それは誰だってそう まま 物儘な性質なものですから、まだまだ人の奥さんなんかになじゃありませんかしら。」 まれると思えないんですの。でも、妹はそうじやございませ「なるほど、そこが違うんですね。あなたは。」 寒んわ。それに年もあたしと一つ違いなものですから、あた矢部はまたひとり頷いたが、今までひそかに節子を愛し しの我が儘で、あの子の婚期を遅らせてしまいたくござい ていた自分にがっかりした安らかさを感じたと見えて、か うか ませんし、それやこれやで、このごろはそれは気ぜわしいすかに唇のあたりに微笑を泛べて言った。 んですの。」 「僕は今だから白状しますが、あるとき木谷と僕は節子さ むこ ねん くちびる