坂道。「木下路」は木の茂った道。 他者の汚い考えと軽蔑の投げかけを示す部分である。茶店の老 婆の毒々しい言葉は、旅芸人を、卑しい者、日常生活の埓外者品八女の後は汚いだろうと思って四十女の自卑的な礼譲と生の 思想の端的な表白である。後にも下田の木賃宿で、「私」に鳥 と見る当時の社会的通念を代表している。 鍋を勧め、「女が箸を入れて汚いけれども」といっている。当 = 矢トンネル下田街道にある天城トンネル。全長四一一一一メート 時は、まだ、女は不浄のもの、とする封建的な男尊女卑的思想 が、世間一般の人々の間に根強く残っていた。女は女の「分」 = 哭白塗りの柵に : : : 道の崖際に、白塗りの柵が設けられてい をわきまえるということが、女の美徳とされていたのである。 て、峠道がつづら折りになっているので、ちょうど白塗りの柵 四十女の旅芸人根性に加えて、こうした旧侖理観がこの小説の が、白糸で道を縫って流れ下っているように見えるのである。 時代色を一際引き立てる。 擬人法。 = 発波浮の港大島の南東部にある天然の良港。野口雨情作詞、中三咒孤児根性で歪んでいる : : : 幼少時の薄幸な生体験に根ざす 「孤児根性」「孤児の感情」は、その後長く川端の心に残って、 山晋平作曲の「波浮の港」 ( 昭和一一年 ) でとりわけ有名となった。 おうのう 病根を植えつけ、その悲哀、感懊悩と、それからの脱出、 = 発私たちのようなつまらない者みずから卑下する四十女の肌 あか 解放が、川端文学のライトモチーフとなっている。この伊豆の旅 身には、旅芸人というなりわいの垢がしみこんでいる。 も、高等学校の寮生活で、幼少時からの精神の病患が気になっ 話 0 尋常五年現在の小学校五年に当る。旧学制 ( 尋常科六年、 て、自己憐愍と自己嫌悪の念に堪えられなくなって逃れた青年 高等科一一年 ) の呼びかた。 川端康成の人生逃避の旅であったのである。その旅にあって、 三 8 太鼓の響きが : : : 擬人法。以下笹一章末尾までは、聴覚的文 踊子の純粋の好意に触れ、「いい人」と言われて、「息苦しい憂 章である。踊子たちが夜の温泉町を流している道筋は、太鼓の 鬱」から解放され、初めて心に明りがともり、自己満足と踊子 音によってしか判断できないので、それに全神経を傾注する。 に対する感謝と好感とで、「こころよい涙を流した」のである。 それを媒介として、「私」は踊子との間に結びつきを感じ、太 がやむと一一人を結びつける紐帯断ち切られるように感じら畳一今度の流行性感冒俗にいうスペイン風邪、大正風邪。第一 次大戦のとき、ス・ヘインから起り、世界各国に広まった、悪質 れ、不安と嫉妬に心が沈むのである。 の伝染力の強い風邪で、日本でも死者十五万人を数えた。 解品一若桐のように・ : : ・踊子の「白い裸身」こそ、まさに川端の 永遠に求め続ける「純粋の肉体」であり、その発見に感動した最一霊岸島東京の隅田川河口の右岸地帯。当時、伊豆、下田向 けの東京湾近海汽船の発着所になっていた。 注 「私」 ( 川端 ) は生命の泉から湧き出た清冽な「清水」を感じ て、「朗らかな喜びでことこと笑い続けた」のである。 つまさき 抒情歌 = 胸先き上りの木下路「胸先上がり」は「爪先上がり」から の造語で、胸もとからすぐ上ってゆくような険しい急傾斜の山一維摩経大乗仏教の奥義に達した在家の居士の維摩と仏弟子
「女の耳を吹く人なんて、きらいだわ。」 「三年、いや、四五年になるでしようか。」 「吹いてやしない。」 「このお墓から、太一郎さんの霊感が湧いて来るの ? 」 「霊感 ? さあ、霊感 : ・ : ? 」と自分に問いかけるような太一郎は軽く笑いそうになって、自分がけい子の背を抱 太一郎の膝に、けい子がいきなり胸を倒して来た。太一郎きささえていることが、はじめてはっきりしたようだっ がゆらめいた。その首をけい子の両腕が抱いた。 た。腕にけい子の感じが強まった。膝にけい子が重くなっ 「太一郎さんの、だいじなお墓の前で : ・ た。しかしそれは軽やかなやわらかさでもあった。 うずくまった太一郎の膝に、ふいにけい子が胸を倒して 。だいじな思い出来たのだから、太一郎は無理な姿勢になっていた。のけぞ 「あたしにもなっかしいお墓にして のお墓にして : このお墓に太一郎さんの心が呼ばれてらないために、爪先きに力を入れたり、また逆にかがとに 力を入れたりしていた。自分で気がっかないでそうしてい いるんですもの。お墓じゃないわ。」 「墓じゃないですか。」と太一郎はうわの空でけい子の言たのだった。 ひじ 葉をくりかえして、「墓もなん百年も経っと墓でなくなる太一郎の首にまわしたけい子の腕は、もちろん袖が肘の あたりまでまくれていた。しめってなめらかな肌が、首に 「なにおっしやってるの。聞えないわ。」 吸いつくように冷めたく感じたのも、太一郎がわれにかえ 「石の墓も墓としての寿命を失う時が、たしかにあるんでったしるしだった。 すね。」 「美人の耳を吹くなんてね。」と太一郎は自分の息が荒か ったのだろうと思って、それを静めながら言った。 「聞えないわ。」 「耳が近くにあり過ぎて : : : 。」と太一郎は目の前の耳に「あたしの耳は風に弱いの。」とけい子はささやいた。 唇を近づけた。 そのけい子の耳は太一郎を誘った。太一郎は指先きでつ 「いや、いや、くすぐったいわ。」とけい子は首を振った。 まんだ。けい子は目を開いたまま顔を動かさないので、太 一郎は耳をもてあそんだ。 「息がかかってくすぐったいの。意地悪。」とけい子は目「ふしぎな花のようだな。」 の玉を目尻に寄せて、太一郎の顔を見上げた。けい子の顔「そう ? 」 は斜めに太一郎の胸へ押しあてられていた。 「なにか聞える ? 」 つまさ
かくされたり、こばまれたりすると、なおふれてみたくる。たとえ、そのちがいが生れつきなもの、治せないもの 1 なるもので、大木は左の乳首を強くもとめながら、 だとしても、その女の異常は異常のゆえにむしろ男を刺戟 「左の方は、だれか一人の人だけにしかさわらせないの ? して、印象に残るだろう。大木もこれほど左と右との乳首 の感受のちがう女にであったためしはなかった。 そんな人があるの ? 」 「そうじゃありません。そんな人はありません。」とけい 女たちのからだにはもちろん、それそれに好みのところ と触れられようとがあって、ひとりひとりでちがうと言っ 子は首を振った。目を見ひらいて大木をじっと見あげてい た。それは大木の顔にあまりに近くてよくわからなかったてもいいほどだが、けい子の右左のようなのはそのはなは ・こし、方であろうか。またじつは、ひとりの女の好みは相 が、目のなかのうるみは涙ではないにしても、かなしみのナし 色であった。少くとも、愛撫を受けている目ではなかつ手の男の好みであって、つまり男のくせや習わしが、女を た。しかし、けい子はすぐに目ぶたを合わせると、もうあそうしつけたものが多い。そうであるなら、けい子の不感 きらめて左の乳首を大木にまかせたけれども、それは「観の左の乳首の方が、大木にはむしろ惑の的なわけであ 念のまなこを閉じる」とでもいう風であった。額に苦痛かる。そして、けい子の左と右とのちがいは、おそらくだれ しわ 嫌悪の皺をよせるほどではなかったが、しらけた顔になっか女に不なれな者がつくったのではないか。片方の乳首に た。大木はそれを見て取って指をゆるめると、けい子はく処女を残したのではないか。もしそうならば、けい子の左 すぐったそうに胸をよじって波打たせた。大木は手のひらの乳首の方がよけいに大木をそそる。しかし、左を右と同 を強めた。 じにしようとこころみるのには、たびを重ねなければなる けい子は右の乳首が半処女で、左の乳首が処女なのだろまいし、時間がかかるだろう。大木にはこののち、それほ どたびたびけい子と会える折りがあるかどうかもさだかで うか。右と左とではけい子の受ける感じのちがうことが、 大木にわかった。左は「よくないの。」とけい子が言ったはない。 意味ものみこめた。その相手がはじめての男の愛撫を受けまして、今日はじめて抱いたけい子の、いやがる左の乳 る娘としては、ずいぶんと大胆な訴えである。またもしか首を強いてもとめるのは愚かなことであった。大木は左の すると、若い娘としては狡智に長けたたくらみではあるま乳首をもう避けて、けい子のからだのけい子の好むところ いか。男であれば、左と右とでちがう女の乳首のよろこびをさがした。それはあった。そして、もうころあいと荒く ふるまいかけた時、 を、自分が同じにしてやりたいと誘惑されるにきまってい こうち
370 十六歳の日記 「おお、そうか。朝からししやって貰わんので、うんうん 言うて待って、今また西向きに寝返りすんので、うんうん 言うてたんや。西向かしてんか。な。おい。」 「ぐっと、からだを提げてーー。」 「ああ、そんでええ。蒲団着せといて。」 「まだ具合悪い。もう一ペん、な。」 「そんな ( ( 七字不明 ) ) 。」 「ああ、まだ具合悪い、やり直して、ええ。」 「ああ、楽んなった。ようしとくれた。お茶沸いてるか。 後でまた、ししさしてんか。」 「まあ、待ちいな。そないに一ペんに出来るもんか。」 五月四日 「はあ、分ったはるけど言うとかんとな。」 中学校から家へ帰ったのは五時半頃。門ロの戸は訪問客暫くして、 を避けるためにしまっている。祖父が唯一人寝てるのだか「・ほん・ほん、豊正・ほん・ほん、おおい。」死人の口から出そ はくないしよう ら、人が来ては困る。 ( ( 祖父は白内障で、そのころは盲目うな勢いのない声だ。 「ししやってんか。ししやってんか。ええ。」 でした。 ) ) 「唯今。」と言ってみたが、答える者もなく静まり返って病床でじっと動きもせずに、こう唸っているのだから、 いる。寂しさと悲しさとを感じる。祖父の枕元の一間のと少々まごっく。 ころで、 「どうするねゃ。」 「唯今。」 「溲瓶持って来て、ちんちんを入れてくれんのや。」 三尺に近づき、きつい調子で、 仕方がない、前を捲り、いやいやながら註文通りにして 「今戻って来た。」 やる。 「はいったか。ええか。するで。大丈夫ゃな。」自分で自 耳へ五寸で、 「今戻って来たんや。」 分の体の感じがないのか。 ↓者言う。括弧の中は一一十七 歳の時書き加えた説明ですーー しびん
「あたし、出来ます。」 しいです。」 「泳げるんですか、けい子さん・ : 部屋の片隅にゆかたがおいてあった。男ものと女ものと 「モオタア・ポオトがひっくりかえったらですか。」とけが重ねてあった。太一郎はそれに目を向けるのも避けてい い子は太一郎の目を見た。 た。部屋はけい子が約束しておいたのにちがいないが、女 「助けていただくわ。助けてくださるでしよう。太一郎さのゆかたがあるのはどういうことなのだろう。 んにしがみつくわ。」 この四畳半には次ぎの間がない。太一郎はけい子のいる 「しがみついちゃ、だめですよ。しがみつかれちゃ、助けところで裸になって、ゆかたに着かえられるものではなか っ - 」 0 られない。」 「どうすればよろしいんですの。」 女中が料理を運んで来たが、けい子の顔は見ないで、も 「僕がけい子さんをかかえるんでしようね。うしろから、 のも言わなかった。けい子もだまっていた。 しやみせん わきのしたに腕を入れて : : : 。」と言って、太一郎はまぶ少し離れた川下の床から、三味線が聞えはじめた。この しそうに目をそらせた。水のなかでこの美しい娘をかかえ茶屋の床では、酒のはいったにぎやかさで、その大阪言葉 る、その感じが胸に来た。ーーーけい子をしつかりかかえての話声はみな太一郎たちに聞ぎ取れた。胡弓で歌う流しの 浮んでいなければ、一一人の生命があぶない場合の話をして感傷的な流行歌が、遠ざかりながら聞えていた。 部屋のなかに坐っていると、鴨川の流れは見えなかっ こ 0 「ひっくりかえってもいいわ。」とけい子は言った。 と「助けられるかどうか、わかりませんよ。」 「京都へいらしたこと、先生はごそんじなんですの ? 」と けい子が聞いた。 し「助けていただけないと、どうなりますの。」 哀「そんな話はよしましよう。モオタア・ポオトも、僕は不「父ですか。知っています。」と太一郎は答えた。「しか さ安だから、よしましよう。」 し、けい子さんが伊丹へ迎えに来てくれて、ここにけい子 さんといるなんて、思いもしないでしようね。」 美「ひっくりかえることなんかありませんから、乗りたい わ。あたしは楽しみにしていたんですもの。」けい子は太「楽しいわ。太一郎さんが親の目を盗んで、あたしに会っ 一郎のコップにビイルをついだ。 ていて下さっているの 「ゆかたにお着かえになりません ? 」 「父にかくれてというわけじゃないが : : : 。」と太一郎は
316 「今晩は。」 だから、お滝にしても、お清に会えば、冬の薄日のよう 「今晩は。」 なお清に直ぐ染まって、身の上話の一つもする間柄だ。 お滝が身を沈めると、温かい湯が音を立てて溢れ出し しかし、もう一人の女は、お滝の方も見ずに、 こ 0 「今晩は。」とだけ言ったまま、眠ったように黙っている。 「お湯をお借りしてるのよ。」 睫毛の濃い影が眼を隠してしまって、桃割髪が油でびちゃ 「そう。 うちのお客さまかと思ってたわ。」 びちゃに濡れたように、がくりと傾いている。肌白い顔の平 客は二人とも学生らしかった。お滝が二人の前へ、大胆べったさは、ほのぼのと愚かな眠りーーその眠りの上で、 に突っ立った時に、彼等は温かい風で圧えつけられたよう くつきりつ・ほんだ唇と長い睫毛とが、別の生きもののよう に感じて、湯を出ると、湯槽の縁に腰を掛けて、うっ向いに鮮かに浮き立っている。眉毛は生毛がぼうぼうと乱れた てしまった。 ままだ。耳も、首筋も、手の指も、どこを一眼見ても、歯 「ちょいとおことわりして借りりやよかったけれど、もうを立てて噛みたくなるーーーその柔かい感じで、お滝は直ぐ お休みだと思ったの。」 に、これがお咲だなと思ったのだった。 お咲は , ーーこの村に十人余りいる酌婦のうち、彼女だけ 「いいさ。、ーー私もお咲さんに借りたいものがあるわ。」 ぎゅうり あだな お滝にことわりを言っているのは、胡瓜という渾名のあが特別に風儀をみだすというかどで、駐在所の巡査から度 るーーー胡瓜のように痩せて、背がこころもち曲って、青ざ度、村退散を言い渡された女だ。村会議員の息子なそが、 めて、病気でよく寝る、子供好きのお清だった。近所の赤しきりに通うからだ。生れつきの酌婦ーー余りに娼婦であ ん坊の守りをさせて貰ったり、幼児を三四人も共同湯で洗り過ぎるからだ。 お滝の激しい目にじろじろ見られても、お咲はやはり、 ってやったり、この子供いじりだけが、彼女の楽しみらし かった。そして村との約束ーー・・曖味宿の女は土地の男を客うっとり抱かれたような顔で、湯から胴を出ルて、湯槽の なめくじ に取らないという約束を、お清一人は厳しく守っていた。縁に腰を掛けた。真白な蛞蝓のように、しとしと濡れた肌 勿論渡り者だが、この村で体をこわした彼女は、この村で 骨というものがどこにも感じられない、一点のしみも かぎゅうる、 死ぬことを考えていた。可愛がってやった子供達の群が、 ない柔かな円さだ。蝸牛類のように伸び縮みしそうな脂肪 ひつぎ お 柩のうしろに長々と並んで野辺送りをするーーーその幻を、 で、這う獣だ。その真白な腹の上で地団太踏みたい 彼女は寝込む度に描くのだった。 滝はそのような男じみた慾情に、突然襲われて、お咲の膝
馬の背のお光一人、寂しい所に置き残されて、泣き出す べきなのを・ほんやり忘れていたようでもあった。 新栗を焼くかんばしい香いが急に鼻につく。食べたい。 ひとこと ちょっと一事にまとまった心は疲れ果てた現の夢から お光を呼び醒ました。 すると、がらがらがら、細かい金網の筒形器械を廻して 大豆を炒る音も聞えはじめる。曲馬小屋の前の人通りを距 てて、その器械を右手で廻しながら、おかみさんが息のぬ たこあたま けた空気袋のような乳房をあらわに、蛸頭の赤坊にふくま せている。同じ露店に亭主が網の上の栗を長い金火箸で器 騒音がすべて真直ぐに立ちのぼって行くような秋日和で用にころがしている。 ある。 栗と大豆の香いを吸うともなしに、お光はほうっと太 曲馬娘お光はもう人群に酔いしびれていた。乗っているした。 馬が時々思い出したかのごとく片脚を上げなそする度に、 その隣がゆで卵屋である。 ひとところ ばらばらに投げ散らかされた手足が、ふっと一所に吸い寄鼻たれ小僧が二人、店先で口論している。 せられて、生き物らしい感じを喚びもどすが、直ぐ瞳の焦「何をー」一人が卵にふりかけてある塩を損んで、相手の 点を失ってしまう。 でも、ふと、遠くの百姓爺の顔がロに投げつけた。 はっきり目にとまったり、直き前に立ちどまった男の羽織「あっー」他の一人は、 景の紐の解けているのが妙に気になったり、それさえ夢のう「。〈つ、べつ。」と辛いのを吐き出していたが、 へんてこ 祭ちのことのようでもあった。 「うめえや、 : : : うまい、うまい。」と変梃に情ない顔を 招お光には、靖国神社の境内だけが気違いめいて騒がししてロのまわりをなめ出した。 く、その代り世の中がびたと静まり返っているとも思え 「こらつ、畜生。」塩を盗まれた卵屋が立ちあがると、塩 る。数知れぬ人の頭が影絵に似て音なく動いている気もすを投げた小僧は、卵屋にいいんと尻を突き出してから、な る 0 めていた相手の首元に腕をかけ肩組して人波に姿を消して 招魂祭一景 うつつ
日記の話よりも尚島村が意外の感に打たれたのは、彼女理解もなく、宿屋の客間などでも小説本や雑誌を見つける は十五六の頃から、読んだ小説を一々書き留めておき、そ限り、借りて読むという風であるらしか 0 たが、彼女が思 のための雑記帳がもう十冊にもなったということであっ い出すままに挙げる新しい作家の名前など、島村の知らな こ 0 いのが少くなかった。しかし彼女のロ振りは、まるで外国 「感想を書いとくんだね ? 」 文学の遠い話をしているようで、無慾な乞食に似た哀れな 「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出て来響きがあった。自分が洋書の写真や文字を頼りに、西洋の る人物の名前と、その人達の関係と、それくらいのもので舞踊を遙かに夢想しているのもこんなものであろうと、島 すわ。」 村は思ってみた。 「そんなものを書き止めといたって、しようがないじゃな彼女もまた見もしない映画や芝居の話を、楽しげにしゃ し力」 べるのだった。こういう話相手に幾月も飢えていた後なの 「しようがありませんわ。」 であろう。百九十九日前のあの時も、こういう話に夢中に 「に労だね。」 なったことが、自ら進んで島村に身を投げかけてゆくはず 「そうですわ。」と、女はこともなげに明るく答えて、しみとなったのも忘れてか、またしても自分の言葉の描くも かしじっと島村を見つめていた。 ので体まで温まって来る風であった。 全く徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めよう しかし、そういう都会的なものへのあこがれも、今はも とした途端に、雪の鳴るような静けさが身にしみて、それう素直なあきらめにつつまれて無心な夢のようであったか おちゅうど は女に惹きつけられたのであった。彼女にとってはそれがら、都の落人じみた高慢な不平よりも、単純な徒労の感が 徒労であろうはずがないとは彼も知りながら、頭から徒労強かった。彼女自らはそれを寂しがる様子もないが、島村 だと叩きつけると、なにか反って彼女の存在が純粋に感じの眼には不思議な哀れとも見えた。その思いに溺れたな られるのであった。 ら、島村自らが生きていることも徒労であるという、遠い この女の小説の話は、日常使われる文学という言葉とは感傷に落されて行くのであろう。けれども目の前の彼女は 縁がないもののように聞えた。婦人雑誌を交換して読むく山気に染まって生き生きした血色だった。 らいしか、この村の人との間にそういう友情はなく、後は全 いずれにしろ、島村は彼女を見直したことにはなるの く孤立して読んでいるらしかった。選択もなく、さほどので、相手が芸者というものになった今は反って言い出しに 、、 0
島村は駅前の自動車を指そうとすると、葉子に力いつばの人の最後を見送らんという法があるか。その人の命の一 い損まれていた手先が痺れたけれども、 番終りの頁に、君を書きに行くんだ。」 「あの車で、今直ぐ帰しますから、とにかくあんたは先き「いや、人の死ぬの見るなんか。」 に行ってたらいいでしよう。ここでそんな、人が見ますそれは冷たい薄情とも、余りに熱い愛情とも聞えるの で、島村は迷っていると、 「日記なんかもうつけられない。焼いてしまう。」と、駒 葉子はこくりとうなずくと、 「早くね、早くね。」と、言うなり後向いて走り出したの子は呟くうちになぜか頬が染まって来て、 は嘘みたいにあっけなかったが、遠ざかる後姿を見送って「ねえ、あんた素直な人ね。素直な人なら、私の日記をす いると、な・せまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだろっかり送ってあげてもいいわ。あんた私を笑わないわね。 あんた素直な人だと思うけれど。」 うと、この場にあるまじい不審が島村の心を掠めた。 葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも島村はわけ分らぬ感動に打たれて、そうだ、自分ほど素 直な人間はないのだという気がして来ると、もう駒子に強 木魂して来そうに、島村の耳に残っていた。 いて帰れとは言わなかった。駒子も黙ってしまった。 「どこへ行く。」と、駒子は島村が自動車の運転手を見つ けに行こうとするのを引き戻して、 宿屋の出張所から番頭が出て来て、改札を知らせた。 「いや。私帰らないわよ。」 陰気な冬支度の土地の人が四五人、黙って乗り降りした だけであった。 ふっと島村は駒子に肉体的な憎悪を感じた。 「君達三人の間に、どういう事情があるかしらんが、息子「フォウムへは入らないわ。さよなら。」と、駒子は待合 さんは今死ぬかもしれんのだろう。それで会いたがって、室の窓のなかに立っていた。窓のガラス戸はしまってい 呼びに来たんじゃないか。素直に帰ってやれ。一生後悔すた。それは汽車のなかから眺めると、うらぶれた寒村の果 るよ。こう言ってるうちにも、息が絶えたらどうする。強物屋の煤けたガラス箱に、不思議な果物がただ一つ置き忘 情張らないでさらりと水に流せ。」 れられたようであった。 「ちがう。あんた誤解しているわ。」 汽車が動くと直ぐ待合室のガラスが光って、駒子の顔は 「君が東京へ売られて行く時、ただ一人見送ってくれた人その光のなかにぼっと燃え浮ぶかと見る間に消えてしまっ しゃなしか。一番古い日記の、一番初めに書いてある、そたが、それはあの朝雪の鏡の時と同じに真赤な頬であっ かす
192 の日は道路普請の落成祝いで、村の繭倉兼芝居小屋を宴会ず、島村は酒を飲む気にもなれないでいると、女はやはり 場に使ったほどの賑かさだから、十二三人の芸者では手が生れはこの雪国、東京でお酌をしているうちに受け出さ 足りなくて、とうてい貰えないだろうが、師匠の家の娘なれ、ゆくすえ日本踊の師匠として身を立てさせてもらうつ ら宴会を手伝いに行ったにしろ、踊を二つ三つ見せただけもりでいたところ、一年半ばかりで旦那が死んだと、思い で帰るから、もしかしたら来てくれるかも知れないとのこの外素直に話した。しかしその人に死別れてから今日まで のことが、恐らく彼女のほんとうの身の上話かもしれない とだった。島村が聞き返すと、三味線と踊の師匠の家にい る娘は芸者というわけではないが、大きい宴会などには時が、それは急に打ち明けそうもなかった。十九だと言っ 本はんぎよく たま頼まれて行くこともある、半玉がなく、立って踊りた た。嘘でないなら、この十九が二十一二に見えることに島 がらない年増が多いから、娘は重宝がられている、宿屋の村ははじめてくつろぎを見つけ出して、歌舞伎の話などし 客の座敷へなど減多に一人で出ないけれども、全くの素人かけると、女は彼よりも俳優の芸風や消息に精通してい とも言えない、ざっとこんな風な女中の説明だった。 た。そういう話相手に飢えていてか、夢中でしやべってい 怪しい話だとたかをくくっていたが、一時間ほどして女るうち、根が花柳界出の女らしいうちとけようを示して来 が女中に連れられて来ると、島村はおやと居住いを直した。男の気心を一通り知っているようでもあった。それに た。直ぐ立ち上って行こうとする女中の袖を女がとらえしても彼は頭から相手を素人ときめているし、一週間ばか て、またそこに坐らせた。 り人間とろくに口をきいたこともない後だから、人なっか 女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪しさが温かく溢れて、女に先ず友情のようなものを感じ みまできれいであろうと思われた。山々の初夏を見て来た た。山の感傷が女の上にまで尾をひいて来た。 自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。 女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部 着つけにどこか芸者風なところがあったが、無論裾はひ屋へ遊びに寄 9 た。 ひとえ きずっていないし、やわらかい単衣をむしろきちんと着て彼女が坐るか坐らないうちに、彼は突然芸者を世話して いる方であった。帯だけは不似合に高価なものらしく、そくれと言った。 れが反ってなにかいたましく見えた。 「世話するって ? 」 山の話などはじめたのをしおに、女中が立って行ったけ「分ってるじゃないか。」 れども、女はこの村から眺められる山々の名もろくに知ら「いやあねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来 ぶしん まゆぐら