祖父は念仏に続けて、 ここに写した分は、それから後おみよがまた私の家へ来て 「それ聞いて、おなか ( ( 腹 ) ) が柔らこなりました。今までくれている日の記事である。 張りつめていたんやで。」 したがって、「十六歳の日記」の「あとがき」に「日記 お常婆さんが帰って来て、お医者さんは留守だと言う。 はこれでおしまいだ。」とあるのは、事実でなかったわけ 「明日大阪から帰らはりますよってに、それで間に合わんになる。「十六歳の日記」を発表した時には、五月十六日 ようなことやったら、外へ頼んどくなはれて。」 までしか見つからなかったのだ。五月十六日の分とここに 「どうしまよ。」と、おみよ。 写した分との間にも、数日分の日記がありそうに思える。 「さあ、そない急なことはあらしまへんでな。」と、お常。紛失したのかもしれない。 「さあ、そう急なことはないやろ。」と私も言うものの、医祖父の死は五月二十四日、十六日は死の八日前、 者が留守と聞くと心がせく。 写した分は更に数日祖父の死に近づいた日のことであろ 祖父はもういびきを立てて、寝入られたのか。口をあう。 き、目もよくふさがらぬ、うつろな姿。 この祖父の死によって、十六歳の私は一人の肉親もなく あんどん はかげ 枕頭の行燈の薄暗い火影に、二人の女は黙々と頬杖突いなり、家も失ったのであった。 ている。 「十六歳の日記」の「あとがき」に、「私がこの日記を発 「な、・ほん・ほん、どうしたらよろしやろ。 こない悪い見した時に、最も不思議に感じたのは、ここに書かれた日 みじん のに、理窟はよう言わはりまっせ。」 日のような生活を、私が微塵も記憶していないということ 「どうしたらええやろ。」と、私は泣き出すように だった。私が記憶していないとすると、これらの日々は何 処へ行ったのだ。どこへ消えたのだ。 ・ : 人間が過去の中 記 ☆ 日 へ失って行くものに就いて考えた。」と書いているが、こ の 歳原文は一枚半と三行のが、会話を改行などして写し取るの過去に経験したが記憶していないという不思議は、五十 わと、四枚と四行になった。二十七歳の時に発表の分の後に歳の現在も私には不思議で、私にとってはこれが「十六歳 続くものということだけは確かである。「十六歳の日記」の日記」の第一の問題である。 は、五月十五日におみよが差支えあって帰り、お常婆さん記憶していないからと言って、過去のなかへ「消えた」 が代りに来てくれ、その翌十六日の記事で切れているが、 とも「失った」とも簡単には考えられない。またこの作品
また連れの女の前の煙草盆を引き寄せて私に近くしてくれた」 / 此所で二泊ほどして下田の方へ参ります。毎日当もない呑気 ともあるように、「私」への好意を、ロをきかず、すぐ動作に 極まる旅を続けていると身も心も清々と洗われるようです。東 よって表わす。浮草稼業に似あわない、人ずれのしていない清 京へ帰るのが厭になります」としたためている。この二葉の文 純な心根の表われでもあるが、こうした動作が重なることによ 面から伊豆行きの旅程をたどると、大正七年十月三十日、東京 を発って伊豆に向い、一日目は修善寺に泊り、その途中に踊 って、行為自体が礼譲の作法を越えて、動作をする踊子の心の い、二日目と三日目の 中にも、それを受ける「私」の心の中にもほのかな恋心を生ん 子ら旅芸人と湯川橋の近くで初めて出会 でいくことになるのである。 十月三十一日と十一月一日は湯ヶ島どまり、「湯ヶ島の二日目 の夜气旅芸人の一行が「宿屋へ流して来た」そして「旅に出一一実稗史的な娘の絵姿「稗史」は昔中国で、民間の噂や小事件 てから四日目」の十一月二日、湯ヶ島を発って天城峠頂上の茶 などを探知して王に奏上する役の「稗官」が記録したもの。転 じて世間の奪などを歴史風に書いた街談巷説のこと。さらに転 屋で踊子らと三度目の出会いをした。そして彼らと行を共にし じて、物語、小説の意。「稗史」と表現した点に近代小説的で た時、下田まで道づれになりたいといって聞き入れられた。四 ない一時代前の物語的な感じがする。 日目、五日目、六日目 ( 一日旅を延ばした ) が湯ケ野泊り。七 川端を評して「旅さき作家」 日目が下田泊りとなり、明けて八日目の十一月六日の朝、下田 llllll 六旅情が自分の身についた : ・ 日端自身「私の七箇条」の中 とか「永遠の旅人」とかいし , 港の乗船場で礼装の栄吉と踊子とに別れて東京に帰ったのであ る。つまり、『伊豆の踊子』の旅は、大正七年十月三十日から で、「一人旅はあらゆる点で、私の創作の家である」と述・ヘて いるように、旅と川端の作品とは深いつながりをもっている。 十一月六日までの八日間の体験をふまえたものである。 いわば旅先での落し子が『伊豆の踊子』であり、『雪国』である = = = 六湯ヶ島温泉静岡県田方郡にある。川端は大正十一年の七 といえる。旅に出ることは日常の生活環境からの脱出であり、 月、湯ヶ島温泉の湯本館に滞在して『伊豆の踊子』の草稿に当 日常の生活感情からの解放である。 る『湯ヶ島での思い出』を書いた。その一節に、「湯ヶ島は今の 私の第二の故郷と思われる。私はしばしば東京からここ天城山邑七水死人のように全身蒼ぶくれの爺さんこれに続いて茶店の いきもの 老爺を、「とうてい生物と思えない山の怪奇」とも描いて、鬼 の北麓にはしる。 ( 中略 ) ひきよせられるのは郷愁と異ならな 気迫るグロテスクな印象とイメージを与える。美の求道者であ い」と書いている。川端の「伊豆もの」は大正七年以来約十年 り、感受者である川端は、美を通して真実の生命を認識すると の歳月の重みのなかで生まれたものである。 同時に、その非情の眼は醜の中にひそむ陰湿な生命をもえぐり 哥宍直ぐに自分の座蒲団を外して踊子は客に接する場合、常に とる。美の象徴としての踊子と、醜の象徴としてのこの老人の このような古風な礼譲の作法や態度をとるようにしつけられて 突然の登場は、川端の生命認識の楯の両面を端的に示している。 いる。特に「私」と道づれになって以後の踊子は、甲斐甲斐し いまでに「私ーに親切や気づかいを示す。すぐ続いて、「踊子が昌穴あんな者「私」には美の象徴としてうつる踊子に対する、 たて
六十七歳 務省の招きで渡米。七月、プラジルのリオデジャネイロ、サン・ハウ昭和四十一年 ( 一九六六 ) 戸で開催された第一一一十一回国際・〈ン大会に出席。八月、帰国。フラ一月より = 一月まで肝臓炎を患う。四月十八日、日本ペンクラブ総会 ンス政府から芸術文化オフイセ勲章を贈られた。この年、「雪国』、において、高田博厚制作の胸像が贈られた。五月、「落花流水」を 「千羽鶴』の仏訳が出る。 新潮社より刊行。「千羽鶴』がデンマークで翻訳、刊行された。 六十二歳 六十八歳 昭和三十六年 ( 一九六一 ) 昭和四十ニ年 ( 一九六七 ) 一月より「美しさと哀しみと」を「婦人公論」に連載 ( 三十八年十二月、石川淳、安部公房、三島由紀夫とともに、中国文化大革命に 月完結 ) 。京都、新潟、佐渡へ旅行した。十月より「古都」を「朝関して、学問、芸術の自律性擁護のためのアビールをした。日本近 日新聞」に連載 ( 昭和三十七年一月完結 ) 。十一月、第一一十一回文代文学館の名誉顧問に推された。同月より「一草一花」 ( 随筆 ) を 化勲章受賞。同月、『眠れる美女」を新潮社より刊行。この年、「千「風景」に連載 ( 四十四年一月まで ) 。八月、日本万国博覧会政府出 羽鶴』がオランダ、ユーゴスラヴィアで、「雪国」がユーゴスラヴ展懇談会委員となった。十二月、北海道に旅行。 六十九歳 ィアで翻訳、刊行された。 昭和四十三年 ( 一九六八 ) 六十三歳六月、日本文化会議に参加。六、七月の参院選に際し、友人今東光 昭和三十七年 ( 一九六一 D 一月、睡眠薬の禁断症状をおこし、東大冲中内科に入院。六月、の選挙事務長をつとめた。十二月、茨木市名誉市民となる。同月十 「古都』を新潮社より刊行。十月、世界平和アビ 1 ル七人委員会に日、ストックホルムにおいてノーベル文学賞を受賞。十二日、スウ 参加。十一月、「眠れる美女」により毎日出版文化賞を受賞。 エーデン“アカデミーで受賞記念講演「美しい日本の私ーーーその序 昭和三十八年 ( 一九六 = l) 六十四歳説・・・ーー」を行なった ( 「朝日新聞」など、十一一月十六日 ) 。 七十歳 昭和四十四年 ( 一九六九 ) 八月より「片腕」を「新潮」に連載 ( 三十九年一月完結 ) 。 六十五歳一月六日、ノーベル賞受賞の欧州旅行から帰国。三月より六月まで 昭和三十九年 ( 一九六四 ) ハワイ大学で講義を行なう。四月二十七日より五月十一日、「川端 一月、「ある人の生のなかに」を「文芸」に発表 ( 三十年発表のものに 加筆推敲して完成 ) 。一一月、「川端康成短篇全集』を講談社より刊行。康成展」が東京 ( 新宿伊勢丹 ) で催されたのを皮切りに、大阪、福 岡、名古屋でも開かれた。三月より『川端康成全集』全十四巻が新 六月、オスローで開催された第三十二回国際ペン大会に出席。 昭和四十年 ( 一九六五 ) 六十六歳潮社より刊行されはじめた。・アメリカ文学芸術アカデミーの名誉会 二月、『美しさと哀しみと」を中央公論社より刊行。四月より一年員になった。三月、「美しい日本の私ーーその序説』を講談社より 間、の連載テレビ小説「たまゆら」が放映された。十月一日刊行。九月十一日、サンフランシスコの日本週間で講演のため渡米。 日本ペンクラプ会長を辞任。同月、「片腕」を新潮社より刊行。「雪昭和四十七年 ( 一九七一 l) 四月十六日、仕事場にしていた逗子のマンションでガス自殺を遂げ 国」がポーランドで、「千羽鶴」がイタリー、フィンランド、 ゴスラヴィアでそれそれ刊行された。 た。享年七十一一歳。
「君が送りに来てくれた間にか。」 「お師匠さんが港へ行ってて、肺炎になったんですの。私 「でも、それとは別よ。送るって、あんなにいやなものと がちょうど実家にいたところへ電報が来て、看病したんで は思わなかったわ。」 すわ。」 「うん。」 「よくなったの ? 」 「あんた二月の十四日はどうしたの。嘘つき。ずいぶん待「いし ったわよ。もうあんたの言うことなんか、あてにしないか「それは悪かったね。」と、島村は約束を守らなかったの らいい」 を詫びるように、また師匠の死を悔むように言うと、 二月の十四日には鳥追い祭がある。雪国らしい子供の年「ううん。」と、駒子は急におとなしくかぶりを振って、 中行事である。十日も前から、村の子供等は藁沓で雪を踏 ( ンカチで机を払いながら、 み固め、その雪の板を二尺平方ぐらいに切り起し、それを「ひどい虫。」 積み重ねて、雪の堂を築く。それは三間四方に高さ一丈に ちゃぶ台から畳の上まで細かい羽虫が一面に落ちて来 しめなわ 余る雪の堂である。十四日の夜は家々の注連縄を貰い集め た。小さい蛾が幾つも電燈を飛び廻っていた。 て来て、堂の前であかあかと焚火をする。この村の正月は 網戸にも外側から幾種類とも知れぬ蛾が点々ととまっ 一一月の一日だから、注連縄があるのだ。そうして子供等はて、澄み渡った月明りに浮んでいた。 雪の堂の屋根に上って、押し合い揉み合い鳥追いの歌を歌「胃が痛い、胃が痛い。」と、駒子は両手を帯の間へぐっ う。それから子供等は雪の堂に入って燈明をともし、そこと挿し入れると、島村の膝へ突っ伏した。 で夜明しする。そしてもう一度、十五日の明け方に雪の堂襟をすかした白粉の濃いその首へも、蚊より小さい虫が の屋根で、鳥追いの歌を歌うのである。 たちまち群がり落ちた。見る間に死んで、そこで動かなく ちょうどその頃は雪が一番深い時であろうから、島村はなるのもあった。 鳥追いの祭を見に来ると約束しておいたのだった。 首のつけ根が去年より太って脂肪が乗っていた。一一十一 「私二月は実家へ行ったのよ。商売を休んでたのよ。きっ になったのだと、島村は思った。 といらっしやると思って、十四日に帰って来たんだわ。も彼の膝に生温い湿りけが通って来た。 つばき っとゆっくり看病して来ればよかった。」 「駒ちゃん、椿の間へ行ってごらんて、帳場でにやにや笑 「誰か病気。」 ってるのよ。好かないわ。ねえさんを汽車で送って来て、 わらぐっ
43 年 12 月 10 日のノーベル賞授賞式 左はスウェーデン国王 12 月 12 日、受賞記念講演 ( 「美しい日本 の私」 ) の直前 ( 毎日新聞社提供 ) ノーベル文学賞の賞状
しお夫気。早く帰って、 お稽古をすればよかったわ。 こんな日は立日がちが、つ。」 駒子は澄み深まった空を見 上げた。 遠い山々は雪が煙ると見え るような柔かい乳色につつま れていた。 越後湯沢温泉 ( 「雪国」 ) こ第ー 第を 第をみ
のだろう。なぜなら、祖父は五月二十四日の夜死んだのだる。常々から医者に対して甚だしい軽蔑と不信の念を抱い から。そして、この日記の最後の日は五月十六日だ。祖父ている祖父だったのに、さて医者を迎えてみると、掌を返 の死の八日前だ。十六日以後は祖父の病気が一層悪くな 0 すように医者を信頼し、涙を流して感謝した。ろ私が祖 たり、家の中が混雑したりしたので、日記どころではなか父にひどく裏切られた気持を感じた。その祖父が哀れに思 われ、痛々しかった。祖父が死んだのは昭憲皇太后の御大 ったのだろう。 ところが私がこの日記を発見した時に、最も不思議に葬の夜だった。私は中学校の遙拝式に出席しようかしまい かと迷っていた。中学は私の村から一里半ばかり南の町に 感じたのは、ここに書かれた日々のような生活を、私が みじん 微塵も記憶していないということだった。私が記憶してある。な・せだか分らないが、私は神経的に遙拝式に参列し たくてならなかった。しかし、その留守に祖父が死にはし いないとすると、これらの日々は何処へ行ったのだ。ど こへ消えたのだ。私は人間が過去の中へ失って行くものまいか。おみよが祖父に聞いてくれた。 「日本国民の務めやさかい行っといで。」 に就いて考えた。 「わしが帰るまで生きてるか。」 しかしとにかく、これらの日々は伯父の倉の一隅の革の 「生きてる。行っといで。」 カ・ハンの中に生きていて、今私の記憶に蘇った。このカ・ハ ンは医者の父が往診の時持って歩いたものだ。私の伯父は私はもう八時の遙拝式に遅れそうなので路を急いだ。下 最近相場の失敗から破産して、家屋敷まで失った。倉が人駄の鼻緒が切れた。 ( ( 私の中学はその頃和服だった。 ) ) 私は 手に渡る前に、私は何か自分の物が入れてないかと捜してしょんぼり家へ戻った。意外にもおみよが、迷信だと言っ みた。そして、鍵のかかった、このカ・ ( ンを見つけた。傍て、私を励ました。私は下駄を替えて学校へ急いだ。 にあった古刀で革を破ると、中は私の少年時代の日記で一遙拝式がすむと、急に不安が強くなった。町の家々の御 ちょうちん ばいだった。そのほかに、この日記が混っていた。私は忘追悼の提灯が明るかったのを覚えているから闇夜だったに れられた過去の誠実な気持に対面した。しかし、この祖父ちがいない。私は下駄をぬいでになり、一里半の路を走 の姿は私の記憶の中の祖父の姿より醜くかった。私の記憶り続けて帰った。祖父はその夜の十二時過ぎまで生きてい は十年間祖父の姿を清らかに洗い続けていたのだった。 この日記の日々は記憶していないけれども、初めて医者私は祖父が死んだ年の八月家を捨てて、叔父の家に引き が来た時と祖父の臨終の日とのことは、石に記憶してい取られた。家に対する祖父の愛着を思うと、その時もその こ 0
から鼻の両側へかけて赤らんでいるのが、濃い白粉を透し「日記を見れば、直ぐ分るわ。」 「日記 ? 日記をつけてるの ? 」 て見えた。それはこの雪国の夜の冷たさを思わせながら、 髪の色の黒が強いために、温かいものに感じられた。 「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さ その顔は眩しげに含み笑いを浮べていたが、そうするうずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでいても恥か ちにも「あの時」を思い出すのか、まるで島村の言葉が彼しいわ。」 女の体をだんだん染めて行くかのようだった。女はむっと「いっから。」 してうなだれると、襟をすかしているから、背なかの赤く「東京でお酌に出る少し前から。その頃はお金が自由にな なっているのまで見え、なまなましく濡れた裸を剥き出しらないでしよう。自分で買えないの。二銭か三銭の雑記帳 たようであった。髪の色との配合のために、尚そう思われにね、定規をあてて、細かい罫を引いて、それが鉛筆を細 けす るのかもしれない。前髪が細かく生えつまっているという く削ったとみえて、線が綺麗に揃ってるんですの。そうし のではないけれども、毛筋が男みたいに太くて、後れ毛一て帳面の上の端から下の端まで、細かい字がぎっちり書い つなく、なにか黒い鉱物の重ったいような光だった。 てあるの。自分で買えるようになったら、駄目。物を粗末 今さっき手に触れて、こんな冷たい髪の毛は初めてだとに使うから。手習だって、元は古新聞に書いてたけれど、 びつくりしたのは、寒気のせいではなく、こういう髪そのこの頃は巻紙へじかでしよう。」 もののせいであったかと思えて、島村が眺め直している「ずっと欠かさず日記をつけてるのかい。」 と、女は火燵板の上で指を折りはじめた。それがなかなか「ええ、十六の時のと今年のとが、一番面白いわ。いつも 終らない。 お座敷から帰って、寝間着に着替えてつけたのね。遅く帰 「なにを勘定してるんだ。」と聞いても、黙ってしばらくるでしよう。ここまで書いて、中途で眠ってしまったなん て、今読んでも分るところがあるの。」 指折り数えていた。 国 「そうかねえ。」 「五月の二十三日ね。」 雪「そうか。日数を数えてたのか。七月と八月と大が続くん「だけど、毎日毎日ってんじゃなく、休む日もあるのよ。 こんな山の中だし、お座敷へ出たって、きまりきってるで しよう。今年は頁毎に日付の入ったのしか買えなくて、失敗 「ね、百九十九日目だわ。ちょうど百九十九日目だわ。」 したわ。書き出せばどうしても長くなることがあるもの。」 「だけど、五月一一十三日って、よく覚えてるね。」 こたっ
第六次「新思潮」創刊号 「文芸時代」創刊号 ( 大正十三年十月 ) 「文芸時代」の同人たち右から加宮貴一、南幸 夫、福岡益雄、石浜金作、伊藤貴麿、中河与一 えた〕と作者自身あとがきで述べている。十年後の青 年期こは、このように少年期の心情は忘れさられてい るのだ。とすればこの「十六歳の日記」が残ったとい うこと、いや圭日かれたということは奇蹟的なことと一言 えよう。それは祖父との味けない生活のため、満十四 歳の一般の少年のように我を忘れその日その日をたの ゅううつ しく遊び暮すことができす、憂鬱な現実を逃れるため 文学書を読みふけり、言語表現の技術を自然に体得し、 そして祖父の死が近いことを知り、長年共に暮し、 みつめ続けて来た大切な祖父の像を書き遺して置きた いやこの日記が百枚に達すれば祖父は助かるので はないか、という祈りに近い然性に動かされて筆を 執った。そのため満十四歳の少年の心情と病気の祖父 の姿を素直にまるごとうっしとった日記体の文学作品 か圭日かれた。こういうことは稀有の例と言ってよい 「十六歳の日記」の文章の不思議な透明さは、まだ 作者が自我を意識してない、 いわば無自覚な営為のた ーうだ ( めであろう。病床の祖父の次第に衰弱し精神が泅濁し ている姿を、自分の感情の揺れを正確に鏡のようにう しかし、虹 ~ っしとっている。そこに作為は全くない 自覚であるにせよ、また涙ぐむにせよ、しっと見つめ、 うっしとるということの文学者の根源的な残酷さ非情 さが、裸のままあらわれている。おそらくこの時、 のこ 449
る。感慨をもよおす。その感慨は年によって、激しいこと なっていた。 もあれば、苦しいこともある。悔いやかなしみに責められ乗ってみると、二等車も案外すいているようだった。暮 ることもある。アナウンサアの言葉や声の感傷が、いやに れの二十九日というと、乗客の少い日なのかもしれない。 なる時があっても、鐘の音は大木の胸にひびきこんだ。そ三十日、三十一日はまた立てこむのだろう。 していっか一度は、おおつごもりに京都にいて、ラジオを廻転椅子が一つだけ廻るのをながめつづけるうちに、な 通してではなく、古い寺々の除夜の鐘をなまで聞いてみたんとなく「運命」についての考えに沈みこみそうになりか せんちゃ いものと、前々から心誘われていた。 かっていた大木のところへ、老ポオイが煎茶を連んで来た。 それがその年の暮れ、にわかに思い立って、京都行きと「僕ひとり ? 」と大木は言った。 なったのだった。京都にいる上野音子に長年ぶりで会い 「はあ、五六人さまはいらっしゃいます。」 ともに除夜の鐘を聞いてみようという、むほん心も動い 「元日はこむかしら ? 」 た。音子は京都に移ってから、大木とはたよりもほとんど「、 しいえ、元日はすいております。元日にお帰りでござい とだえているが、日本画家としてこのごろは一家をなし、 ますか。」 今もひとり身で暮らしているらしかった。 「そう、元日には帰らないと : : : 」 急な思い立ちではあるし、あらかじめ日をきめて特別急「そのように連絡いたしておきます。元日は私は乗務いた 行券を買っておくなどは大木の性分に合わないので、横浜しませんが : 駅から急行券なしで「はと」の展望車に乗りこんだ。暮れ「頼みます。」 に迫って東海道はこんでいそうだが、展望車なら老ポオイ老ポオイが行ったあとで、大木はあたりを見まわすと、 もなじみだから、なんとか席を取ってくれるだろうと思えはずれの肘掛椅子の裾に、白い革のカ・ハンが二つおいてあ こ 0 った。真四角のやや薄手な新しい形だった。白い革は淡い 「はと」は行きの東京、横浜をひる過ぎに出て、京都へタ茶色をおびたむらがあって、日本では見かけない、上質の 方に着くし、帰りの大阪、京都もひる過ぎに出るので、朝ものだった。また、椅子の上には、豹の皮の大きいハンド・ 寝の大木には楽で、京都の行き帰りにはいつもこの「は ・ハッグがおいてあった。荷物の主はたぶんアメリカ人だろ と」を使って、二等車 ( 一等、二等、三等のあったころのう。食堂へ行っているらしい。 二等車 ) の受持ちの娘たちも、大木はたいてい顔見知りに窓のそとはあたたかげな濃いもやのなかに、雑木林が流 ひょう