級友と回覧雑誌「野守」を創刊、その中心となって編集を行なう。 十七歳 明治三十六年 ( 一九〇 = l) 短歌多し。「坂東太郎」「野守」「文庫」「明星」「上毛新聞」等に矢 つぎ早に短歌を発表。六月または七月、「明星」に投稿した短歌三 首が掲載され、「新詩社」の社友となる。短歌時代、ペンネームと して、みさを、美棹、萩原みさを、萩原咲一一、夢みる人、みづのひ と、など使った。 明治十九年 ( 一八八六 ) 十八歳 明治三十七年 ( 一九〇四 ) 十一月一日、群馬県東群馬郡前橋北曲輪 ( くるわ ) 町六十九番地に 医師萩原密蔵の長男として生まれる。母ケイ。一日生まれであると文学への熱意と学業が両立できず、三月、中学五年進級に際して落 第。その精神的打撃は大きかったが、この年も短歌を盛んに作る。 ころから朔日の朔をとって朔太郎と名づけたといわれる。 十九歳 明治三十八年 ( 一九〇五 ) 三歳 明治ニ十ニ年 ( 一八八九 ) 四月、中学五年に進級。校友会の役員改正により雑誌部幹事とな この年夏、腸チフスと推定される大病で長く床につく。 七歳る。町田嘉章とともに「坂東太郎」を編集、中学の校友会誌として 明治ニ十穴年 ( 一八九三 ) ド常こ新鮮な内容を盛り込む。 四月、群馬県師範学校附属小学校に入学。学校はあまり好きでなく冫 二十歳 明治三十九年 ( 一九〇六 ) 腺病質で身体が弱く欠席がちであった。このころから音楽を好み、 三月、前橋中学校を卒業。この年、徴兵検査猶予願いを書いたとい ハーモニカや手風琴をいつも手にしていた。 十一歳う。「坂東太郎」に多くの短歌を発表。 明治三十年 ( 一八九七 ) 二十一歳 三月、師範学校附属小学校尋常科を卒業し、四月、同高等科に入明治四十年 ( 一九〇七 ) 学。母ケイは朔太郎をほとんど盲目的なまでに愛した。その溺愛は九月、熊本に赴き、第五高等学校第一部乙類 ( 英文科 ) に入学。長 朔太郎の生涯を通じて続くことになる。両親は医者にさせることを男の朔太郎に医家を継がせようとする父との対立に悩む。 一一十一一歳 明治四十一年 ( 一九〇八 ) 譜期待していた。 十四歳七月、第五高等学校一学年で落第。九月、同校を退学して、第六高 明治三十三年 ( 一九〇〇 ) 四月、群馬県立前橋中学校に入学。文学に心ひかれ始めたのは中学等学校 ( 岡山 ) 第一部丙類 ( 独法科 ) に入学。 一一十三歳 明治四十ニ年 ( 一九〇九 ) 年二年ごろからである。 十六歳第六高等学校を一学年で落第したと推定され、再び一学年に在籍し 明治三十五年 ( 一九〇一 l) 十二月、前橋中学校校友会誌「坂東太郎」 ( 利根川の異名 ) に「ひとている。十一月、「ス・ ( ル」に短歌一一首を発表。この年、北原白秋 が「邪宗門」を刊行。 夜えにし」と題する短歌五首を発表。朔太郎の短歌時代が始まる。 萩原朔太郎年譜 ついたち
四行詩十篇を収録。同月下旬から九月初旬にかけて、軽井沢に行っ月中旬、盛岡で「風立ちぬ」第三回分を書き、帰京。十一月中旬、 て留守の室生犀星の大森魚眠洞をあずかり、そこから出動する。八風邪をひいて不安を訴える。雑誌「午前」もなかなか実現しない中 月に二度、追分・軽井沢に旅行。十月上旬、肋膜を病み、約一か月で南への旅行を急ぐ。二十四日、長崎をめざして出発。このころ 間病臥。十一月半ば静養のため追分に行く。同月十九日、宿泊の油「ノート」を書き始める。奈良、京都、山陰から北九州を経て旅す 屋が火災に見舞われ、九死に一生を得る。十二月、詩集『暁とタのるが、極度に疲れて長崎に着く。十二月六日夜、喀血。十三日、帰 京を決心して長崎を発つ。十五日、帝大病院で絶対安静を宣告され 詩』を風信子叢書第一一冊として四季社より刊行。 二十四歳る。江古田の東京市立療養所に入った二十六日には、すでに手遅れ 昭和十三年 ( 一九三八 ) 一月十六日、銀座で『晩とタの詩』出版記念会を開く。一一月上旬、になっていた。二十九日から、水戸部アサイが献身的に看病した。 二十五歳 風邪と頬のこぶを取り去る手術のために十日間ほど欠勤。中旬、神昭和十四年 ( 一九三九 ) 保光太郎の住む浦和にヒアシンス・ハウスを建てるため設計。風信一月、室生犀星、津村信夫ら友人・知人が次々に見舞う。二月十三 日、第一回中原中也賞受賞決定。三月一一十九日、病状は急変、午前 子のべンネームで「コギト」に物語「オメガぶみ」を発表。三月、 疲労と徴熱を訴える。その著書『古典の親衛隊』に感動して芳賀檀一一時一一十分、誰にも見とられず、息をひきとった。四月六日、自宅 に贈った「何処へ」を「新日本」に発表。同人誌「午前」を計画すで告別式。谷中の多宝院に埋葬。法名は温恭院紫雲道範清信士。 る。四月、中村真一郎を知り、フランシス・ジャム詩集を贈る。五六月、堀辰雄が中心となって「四季」の立原道造追悼七月号を刊 月、堀辰雄論「風立ちぬ」を書き始め、その第一回・第二回を「四行、「優しき歌」を発表。 季」六、七月号に発表。このころ、同じ事務所に勤務する水戸部ア没後、昭和十六年一一月より、堀辰雄らの尽力により『立原道造全 サイと愛し合うようになり、中旬、彼女と軽井沢に旅する。七月、集』全三巻が山本書店より刊行される。十五年一月、丸山薫編によ 小山正孝を知る。下旬、健康すぐれず事務所を休むことにし、静養る河出書房『現代詩集第二巻』に詩三十一一篇収められる。二十一年 九月、物語集『鮎の歌』を鎌倉文庫より刊行。一一十二年三月、中村 のため大森の室生宅に移る。八月上旬追分に転地療養におもむく。 軽井沢には新婚の堀辰雄夫妻もいた。水戸部アサイも時折彼をたず真一郎の記憶によって補われた詩集「優しき歌』を角川書店より刊 ねてくる。中村真一郎に『優しき歌』のノ 1 トを見せる。下旬ごろ行。二十五年十一月より、『立原道造全集』全三巻を角川書店より から、日本縦断旅行を決意し、一冬を追分で過ごすことを勧める堀刊行。三十一一年十一一月より、『立原道造全集』全五巻を角川書店よ 辰雄の意見もあったが、聞きいれなかった。「むらさぎ」に「草にり刊行。三十六年九月、未発表作品集『詩人の出発』を書痴往来社 寝て : ・ : ・」を発表。九月六日に帰京し、十五日、上野を発って東北より刊行。四十六年六月より、新版『立原道造全集』を角川書店よ 地方の旅にの・ほる。山形、仙台を経て盛岡に行き、約一か月滞在、り刊行中。 この年譜は諸種のものを参照の上、編集部 アンデルセン、ト 1 マス・マン、ニ 1 チェなどを読み、宮沢賢治に で作成し、堀内達夫氏の校閲を得ました。 反撥を覚える。「四季」十月号に「優しき歌」・Ⅵ ) を発表。十
八月、蓮田善明、清水文雄、栗山理一、池田勉とともに高野山の遍 昭和八年 ( 一九三 = l) 一一十七歳昭光院に合宿。 三月、「コギト」の田中克己、保田与重郎が「呂」誌上の静雄の詩昭和十三年 ( 一九三八 ) 三十二歳 に注目を示し、「コギト」への寄稿を求める。静雄もまた田中の作一月、「新日本文化の会」の会員となる。七月、「金星」「稲妻」を 品に心を打たれ、書簡をおくる。四月、大阪市西成区松原通一一の十蓮田善明などが創刊した「文芸文化」に寄せる。この頃、大阪生活 六番地に転居。八月、「病院の患者の歌」を「コギト」に初めて寄をきり上げて東京で創作活動をすることを考える。 稿する。 昭和十四年 ( 一九三九 ) 三十三歳 昭和十年 ( 一九三五 ) 一一十九歳三月、春休みを利用して上京。立原道造の死に会う。東京は不人情 四月、「日本浪曼派」第二号より、中村地平とともに同人として参なところだという感慨を抱き、帰阪。一一度と東京で住む事は考えな 加する。この頃、桑原武夫・富士正晴を知る。十月、保田与重郎のかった。この頃、三行三聯の詩形式の完成をめざし、リルケを熟読 世話を得て、処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』をコギト発行所よした。この年、林富士馬と会う。 り上梓。萩原朔太郎は伊東静雄の詩を「 : : : 『失はれたリリシズ昭和十五年 ( 一九四〇 ) 三十四歳 ム』を発見し、日本に尚一人の詩人があることを知り、胸の躍るや三月、詩集『夏花』を文芸文化叢書の一冊として子文書房より刊 うな強い悦びと希望をお・ほえた。これこそ、真に『心の歌』を持つ行。初版千五百部を売切る。 てるところの、真の本質的な抒情詩人であった。・ : こと激賞し昭和十六年 ( 一九四一 ) 三十五歳 た。十一月二十三日、新宿三越裏の焼鳥屋一一階にて『わがひとに与一月、「四季」同人となる。三月、住吉中学の教え子である庄野潤 ふる哀歌』の出版記念会がひらかれ、上京して出席する。出席者三の訪問を受ける。庄野は静雄の作品と人間に完全に魅せられ、以 は、萩原朔太郎、室生犀星、三好達治、丸山薫、中原中也、保田与後たびたび訪問する。 重郎、檀一雄、立原道造、淀野隆三、太宰治、山岸外史、肥下恆昭和十七年 ( 一九四一 D 三十六歳 夫、芳賀檀、辻野久憲、平林英子、三浦常夫、酒井百合子などであ三月、萩原朔太郎の病気見舞いに紋付袴持参で上京。一一日間訪ねた 譜った。席上、静雄の詩の評価をめぐって朔太郎と三好達治が激しくが、面会はできなかった。五月、『夏花』により第五回北村透谷賞 対立。同夜、静雄は中原中也の下宿に泊る。 を受賞。 昭和十一年 ( 一九三六 ) 三十歳 昭和十八年 ( 一九四三 ) 三十七歳 年一月、長女まき生まれる。一一月、母 ( ッ死去。三月、『わがひとに八月、長男夏樹生まれる。九月、第三詩集『春のいそぎ』を弘文堂 与ふる哀歌』により、第二回文芸汎論賞を受賞。十二月、堺市北三より刊行。十月一一十六日、第二次応召で帰郷する蓮田善明を大阪駅 国ヶ丘町四〇番地へ転居。 に見送る。 昭和十ニ年 ( 一九三七 ) 三十一歳 昭和十九年 ( 一九四四 ) 三十八歳 居。
がないため、日本大学は試験に遅刻したため、いずれも入学できなか に多くの短歌が入選した。弁論部に入る。 十五歳った。この頃、富永の紹介で東大仏文在学中の小林秀雄を知る。四 大正十一年 ( 一九一一一 l) 四月、山県民男の後任として山口高校生村重正夫が来た。五月、友月、帰省、両親を説得して、一年間東京に住んで予備校に通う許可 すぐろの 人達と歌集「末黒野」を出版し「温泉集」と題して短歌一一十八首をを得て、再び上京。同月、小説「医者と赤ン坊」を書く。五月、杉 掲載。頒価一一十銭で一一百部印刷。六月、山口中学弁論会に出場。論並町高円寺二四九若林方へ移る。永井龍男と知る。八月頃より、詩 題は「将来の芸術」。八月、村重に連れられて西光寺 ( 現大分県豊に専心しようとする決意が生れた。十一月、富永太郎の死にあう。 後高田市水崎 ) に赴く。帰宅後しばらく念仏を唱えた。十一月、山下旬、泰子、小林秀雄のもとへ去る。中也も新しい下宿に移る。十 ロ中学で開催された小・中・高専聯合弁論大会に出場。論題は「第二月、富永の遺稿出版のため村井康男、正岡忠三郎、小林秀雄等と 一義に於ける生方」。相変らず「防長新聞」に短歌多数入選。十一一富永家に会す。 月、再び西光寺に赴く。 大正十五年・昭和元年 ( 一九二六 ) 十九歳 大正十ニ年 ( 一九二 = l) 十六歳四月、日本大学予科入学。五月、「朝の歌」を書く。九月、家に無 二月、山口で開催された白梅詩社・白夜会の合同歌会に出席。三断で日大を退学。中野町桃園三四六五に住む。十一月、「山繭」富永 月、落第。中原家にとっては衝撃であった。四月、京都の私立立命館太郎追悼号に「夭折した富永」を発表。アテネ・フランセへ通う。 昭和ニ年 ( 一九二七 ) 一一十歳 中学へ転校、上京区岡崎に下宿する。秋、『ダダイスト新吉の詩』 春、河上徹太郎と知る。八月、「無題 ( 疲れた魂と心の上に ) 」を書 を読み感激、多分に影響を受ける。 大正十三年 ( 一九二四 ) 十七歳く。九月、辻潤を訪ねる。高橋新吉に書簡を送り、「高橋新吉論」 一月、国語の答案に詩を書いて出したことから、当時、京大の学生を同封。十月、高橋新吉を訪ねる。十一月、河上徹太郎の紹介で、 で立命館中学講師をしていた冨倉徳次郎と知る。四月、詩人永井叔作曲家諸井三郎と知り、音楽団体「スルヤ」に近づく。今日出海と を通じて紹介されたマキノ・プロダクションの女優長谷川泰子 ( 十知る。 二十一歳 九歳 ) と同棲。大将軍西町椿寺南裏谷本方に住む。泰子は中也の生昭和三年 ( 一九二八 ) 譜涯と作品に少なからぬ影響を及・ほした女性である。同月、冨倉の紹三月、大岡昇平、関口隆克と知る。五月、日本青年館で行われた 介により正岡忠三郎と知る。七月ー十一月、京都に住むようになつ「スルヤ」第一一回発表演奏会で、「朝の歌」「臨終」 ( 諸井三郎作曲 ) た富永太郎と親交を深めた。十一月、小説「耕一一のこと」「蜻蛉」、が歌われる。十六日、父謙助没す。帰省せず。同月、中也の書いた 年戯曲「夢」などを書く。 碑銘により、中原家の菩提寺である吉敷村の経塚に墓碑が建立され 十八歳た。下旬、高井戸町下高井戸一一丁目に移転、関口隆克と共同生活を 大正十四年 ( 一九二五 ) 一月、小説「鉄拳を喰った少年」を書く。三月、泰子とともに上する。九月、大岡昇平の紹介で安原喜弘と知る。十月、「空しき秋」 京。戸塚源兵衛一九五番地に下宿。早稲田大学は中学四年修了証書二十数編を一晩で書く。「スルヤ」第三輯に「生と歌」を発表。
五月、徴兵検査のため、郷里へ向う途中の平岡公威 ( 三島由紀夫 ) 「手にふるゝ野花は、それを摘み、花とみづからを、さゝへつゝ、 歩みをはこ・ヘ」という詩句を刻んだ詩碑が建立される。選辞、揮 が、静雄をはじめて訪れる。 三十九歳毫、三好達治。昭和三十六年一一月、『伊東静雄全集』が人文書院よ 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 七月、空襲によって堺市北三国ヶ丘町の借家を焼け出され、大阪府り刊行された。 南河内郡菅生村高岡ウメ方に避難するかたわら学校の宿直室に寝と まりして勤労奉仕に勤める。 四十歳 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 一一月、大阪府南河内郡黒山村北余部四〇七番地に転居。敗戦、罹災、 疎開と相つぐ疲労からようやく立ち直りつつあった静雄は、このこ ろから好んで大阪の賑かな町を散策する。十月、「都会の慰め」を 「光燿」に発表。 四十一歳 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 十一月、第四詩集『反響』を創元社より刊行。 四十二歳 昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 一一月、三好達治と会う。四月、学制改革のため阿倍野高等学校に転 動する。夏、激しい虚脱衰弱状態におちいる。すでに肺結核に冒さ れていた。 四十三歳 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 六月、発病、欠勤がちとなる。九月、「百花文庫」の一冊として『反 響』を創元社より再度刊行。十月、国立病院大阪長野分院に入院す る。 四十七歳 昭和ニ十八年 ( 一九五三 ) 一月十二日、大喀血し、日増しに衰弱が激しくなる。三月十一一日午 後七時四十一一分永眠。郷里諫早の広福寺に埋葬される。戒名は文林 院静光詩仙居士。七月、桑原武夫・富士正晴共編『伊東静雄詩集』 が創元社より刊行。 没後昭和一一十九年十一月、諫早文化協会によって諫早城址に、 この年譜は諸種のものを参照の上、編集部 で作成し、斎田昭吉氏の校閲を得ました。
楽部の演奏会を開催。父は老齢で開業医を引退。諦めて妹の夫に医人」廃刊。十一月、葉子入学のため東京府下荏原郡馬込村平張一、 業を継がせる。 三二〇番地へ移る。 三十五歳 昭和一一年 ( 一九二七 ) 四十一歳 大正十年 ( 一九二 D 三月、前橋在住の詩人・歌人たちと「文芸座談会」を設け、十五回五月、佐藤惣之助・室生犀星・白鳥省吾らとの共同編集で『昭和詩 選』の仕事をする。このころから詩的モチーフは次第にニヒリステ にわたって語り合う。アフォリズム、評論の執筆多し。 大正十一年 ( 一九二一 l) 三十六歳ィックな傾向を深めていく。六月、伊豆湯ヶ原温泉に滞在。このと 三月、アルスより『月に吠える』再版を刊行。削除されていた二篇き、三好達治、梶井基次郎、淀野隆三の訪問を受ける。この年、作 を収録。四月、アフォリズム集『新しき欲情』をアルスから刊行。 品発表は詩七篇文章三十五篇。七月、芥川龍之介の自殺に大きな衝 七、八月、犀星と湯ヶ原、伊香保などに遊ぶ。九月、次女明子誕生。撃を受けた。十二月、「詩人協会」設立に参加。 三十七歳 大正十ニ年 ( 一九 lllll) 昭和三年 ( 一九二八 ) 四十二歳 一日、第二詩集「青猫』を新潮社より刊行。五月、北原白秋夫妻来一月、詩人協会が設立され、その役員となる。一一月、『詩論と感想』 橋。七月、第三詩集『蝶を夢む』を新潮社より刊行。八月、伊香保を素人社から、三月、『萩原朔太郎詩集』を第一書房から、それそ 温泉に滞在中の谷崎潤一郎を訪ね、両家の家族で榛名山に遊ぶ。九れ刊行。四月ごろ、文芸家協会編の年刊『詩と随筆集』第一集の編 月、関東大震災の報に、親戚を見舞うため列車や荷車を乗りついで集に当たる。十二月、『詩の原理』を第一書房より刊行。『月に吠え 上京した。 る』刊行のころからあたためていた思索を一気に書き下ろしたも 大正十三年 ( 一九二四 ) 三十八歳の。この年、妻稲子が一一児と夫を捨てて遊び歩き家庭が乱れる。 四十三歳 二月、雑誌「新興」創刊号に発表した情調哲学 ( アフォリズム ) 「情昭和四年 ( 一九二九 ) 緒と想念」により、同誌発売禁止となる。この年、作品発表は詩一一一七月下旬、室生邸の庭で大量の原稿・ノート類を焼く。同月、稲子 篇、文章七篇。 夫人と離別し、二児をつれて帰郷。十月、アフォリズム集『虚妄の 大正十四年 ( 一九二五 ) 三十九歳正義』を第一書房より刊行。十一月、単身上京して赤坂区檜町六番 譜二月、妻子三人とともに上京、大井町に住む。ひどく貧赱する。父地のアパート乃木坂倶楽部の一室に仮寓。年末に近く、父密蔵が重 から月に六十円送金してもらう外一銭の定収入もなかった。妻が胸態に陥ったため、乃木坂倶楽部を引き払って帰橋。東京生活はひど を悪くして鎌倉に移る。四月、田端に移り、付近に住む室生犀星、 く荒廃していた。このころ辻潤、生田春月と親しく交流。 年芥川龍之介と、しきりに行き来した。八月、新潮社より第四詩集昭和五年 ( 一九三〇 ) 四十四歳 『純情小曲集』を刊行。 七月一日、父密蔵死去。朔太郎、家督を相続する。十月、妹アイと 大正十五年・昭和元年 ( 一九二六 ) 四十歳ともに上京し、市ヶ谷に住む。前年の離婚、そして父の死と朔太郎 八月、信越の温泉に旅行。十月、詩話会が解散、並びに「日本詩の精神状態は最悪であったが、上京して生活するうち、次第に回復
る。この年もおびただしい量の執筆を続けるほか、座談会、講演会七月、評論詩論集『帰郷者』を白水社より、アフォリズム集『港に て』を創元社より刊行。十月、随想集『阿帯』を河出書房より刊 などに活躍した。 五十二歳行。十二月、『帰郷者』により第四回「透谷文学賞」を受賞。 昭和十三年 ( 一九三八 ) 昭和十六年 ( 一九四一 ) 五十五歳 一月、「新日本文化の会」の機関誌として「新日本」が創刊され、 編集委員となる。三月、評論随想集『日本への回帰』を白水社より八月、帰郷、伊香保温泉で十日あまり滞在して「小泉八雲の生活」 刊行。同月、大阪放送局より象徴詩についての朗読解説を放を執筆中であったところ、風邪を引き、続いて健康に異常を感じ 送。四月、北原白秋夫妻の媒酌で大谷美津子と結婚 ( 入籍はしなかる。帰途、再び前橋に立ちより津久井医師の診察を受け、八月下旬 った ) 。新夫人は福島県白河市の住人で詩人の大谷忠一郎の妹。忠ごろ帰京。十月にはいって病状すすみ、ほとんど訪問者に面会でき 一郎の世話した他の女性と見合いの席に、たまたま茶を持って来たなくなる。この年も作品多く、詩一篇、文章は三十五篇にの・ほっ 美津子に一目ばれして、忠一郎に熱心に頼んで結婚した。挙式後、た。 五十六歳 一か月あまり熱海、長岡、伊豆方面の温泉を旅しいったん帰宅して昭和十七年 ( 一九四一 I) から伊香保、磯部、安中、前橋など郷里の旅に出かけた。七月から四月、明治大学講師を辞任。ますます病状悪化するなかを雑誌「日 三か月間、軽井沢の借別荘に滞在。十月、「中原中也賞」が設定さ本」に「詩の鑑賞」を五月号まで執筆。四月下旬、病状急速に絶望 的となる。五月十一日未明、肺炎のため自宅にて死去。同三十一日 れ、その選考委員となる。 五十三歳前橋市榎町政淳寺の萩原家墓地に埋葬された。法名、光英院釈文昭 昭和十四年 ( 一九三九 ) 七月から有楽町の喫茶店パノンスで「詩の研究講義の会」を開く。居士。 朔太郎が主講となり、十一月までに十回催され「四季」や「コギト」没後、昭和十八年、小学館より『萩原朔太郎全集』本巻十巻・別 の周辺の人々が多く参加した。七月初旬のある夜、酔って帰宅の途冊二巻が刊行。昭和一一十六年、創元社より、前回の未収録作品及び 中、小田急旧世田谷中原駅で足をふみはずし、足に負傷して、しば削除作品を加えた『萩原朔太郎全集』全八巻が刊行。昭和三十年五 らく家にこもる。九月、詩集『宿命』を創元社より刊行。年末ご月、前橋市敷島公園に詩碑建立。昭和三十四年、新潮社より『萩原 譜ろ、大谷美津子と離婚。母親ケイのひどい嫁いびりが原因で、「私朔太郎全集』の決定版全五巻が刊行。 の目の黒いうちは、籍には入れない」「朔太郎のものはさわっては いけない」などと妻としての人格を認めてもらえず、離婚という形 年で家を出たあと、家庭は暗闇となる。朔太郎は母ケイに内密でア・ハ 1 トを借り、美津子と会って原稿を書いたりの生活が美津子が実家 の白河へ帰る迄の一年位つづく。 昭和十五年 ( 一九四〇 ) 五十四歳 この年譜は、諸種のものを参照の上、編集 部で作成し、萩原葉子氏の校閲を得ました。
で、運動会ではいつも最終の成績で、唱歌が不得意だったという。 大正十一一年 ( 一九二 = l) 九歳 九月一日、関東大震災。橘町の家が焼失したので、一家は親戚にあ たる千葉県東葛飾郡新川村の豊島方に避難。十二月に橘町の仮建築 ができるまで同地の新川小学校に転籍。 大正十四年 ( 一九二五 ) 十一歳 この夏以後、雕康のため奥多摩の御岳神社神宮原島家での避暑が恒 大正三年 ( 一九一四 ) 七月三十日、東京市日本橋区橘町三丁目一番地 ( 現東京都中央区日例となる。 とめ 十二歳 本橋橘町五番地一号 ) に父貞次郎 ( 明治生 ) 、母登免 ( 明治生 ) 大正十五年・昭和元年 ( 一九二六 ) の次男として生まれた。長男一郎は前年三歳ですでに死亡してお五月、小型の手書本『滑稽読本第一』を作る。 十三歳 り、他に弟達夫 ( 大正 5 生 ) がいる。立原家は水戸藩の家臣で、早昭和ニ年 ( 一九二七 ) くから江戸詰であったという。明治維新後の二十年代に商品荷作り三月、久松小学校を卒業。四月、東京府立第三中学校 ( 現在の都立 用の木箱の製造を業とし、日本橋に居を移した。父貞次郎は千葉県両国高校 ) に入学。芥川龍之介、堀辰雄もここに学んでおり、道造 おおかみけ 東葛飾郡の農業、狼家の出で、母登免といとこ同士であったが、立は芥川以来の秀才とうたわれた。絵画部に関係しパステル画を発表 ーモニカに熱意を示す。七月、芥川 するほか、昆虫標本づくり、 原家の養子となった。 四歳龍之介が自殺、ショックを受ける。十一月、「学友会報」に戯曲「或 大正七年 ( 一九一八 ) 浜町の幼徳幼稚園に入園。おとなしい子供で、運動よりも絵を描くる朝の出来事」を発表。十二月、ロ語歌を試作しはじめる。 十五歳 ことや手細工などを好んだという。この夏から千葉の館山に避暑を昭和四年 ( 一九二九 ) 三月、「学友会報」に「硝子窓から」三行分ち書き十一首を発表、 することが例になった。 五歳以後卒業まで続く。四月、神経衰弱のため一学期休学して東葛飾の 大正八年 ( 一九一九 ) 譜八月、父貞次郎死去。家督を相続し、店の看板も「立原道造商店」豊島方ですごす。このころから詩歌に対する関心がたかまり、石川 と改められる。家風により、この年初めて正式に筆をもたされた。啄木の「一握の砂」や「悲しき玩具」を愛読し、秋ごろ、三中の国 剣舞をならい、毎月歌舞伎見物に連れていかれたが、道造は歌舞伎語教師で歌人でもあった橘宗利に同伴して世田谷の北原白秋を訪ね た。十月、焼跡にようやく本建築の家が完成、二階三畳の間を自室 年をことのほか好んだ。 七歳にもらう。天文学にも興味を示し、天体望遠鏡で星をながめること 大正十年 ( 一九一一 l) 四月、となり町の区立久松小学校に入学。開校以来の神童といわが多く、天文学会に出席したこともある。この年、父を偲ぶ歌を作 れ、在学中首席を通す。友人との交際を好まない、めだたない存在り、また友人の妹金田久子を思慕する。 立原道造年譜
458 の文学活動に少なからぬ影響を受ける。まだ、詩作はなく、短歌を つくったりしていた。 昭和三年 ( 一九二八 ) 二十二歳 四月、恩師酒井小太郎が、家族と共に京都今熊野に移転して来たた め、同家と親しい交わりをもつようになる。十月、大阪三越主催の 御大礼記念児童映画脚本懸賞募集に応募した童話「美しい朋輩達」 明治三十九年 ( 一九 0 六 ) が一等に当選、賞金一千円を受ける。十二月、松竹蒲田で映画化さ 十二月十日、長崎県北高来郡諫早町船越名四一一七番地に生まれる。れる。 父惣吉、母ハツの四男。長男英一、次男潤三、三男岩蔵はすべて早世。昭和四年 ( 一九二九 ) 二十三歳 姉ミキ、次女リッ、五男寿恵男がある。父惣吉は木綿問屋を本業に、三月、京大国文科を一一十九人中三番で卒業。四月、大阪府立住吉中 いくつかの商売を兼ね、静雄の幼少年時代はかなり裕福であった。学校に就職。月給一一〇円。酒井小太郎から拝領した古背広を着用 大正ニ年 ( 一九一 lll) 七歳して、もじゃもじゃの髪のまま登校したので、即日、プルジョア学 四月、諫早小学校に入学。小学校時代は学業はよく出来たが、作文校の生徒達に「乞食」というあだ名をつけられる。七、八月、審査 と体操が苦手であったという。 の講師を驚かせた首席の卒業論文「子規の俳論」が「国語国文の研 大正八年 ( 一九一九 ) 十三歳究」三四、三五号にわたって全文掲載される。 三月、諫早小学校卒業。四月、長崎県立大村中学校に入学、汽車で昭和五年 ( 一九三〇 ) 二十四歳 通学をする。在学中、一学年上級に、福田清人、同級に蒲池歓一、 三月、無試験検定により、師範学校、中学校、高等女学校の教員免 陣ノ内宜男、一一学年下級に川副国基などがいた。中学時代は勤勉な許状を受領、嘱託から教論となる。四級俸月給一一五円を支給され 生徒で、とくに目立ったところもなかったといわれる。 る。五月、大村中学の先輩、福田清人らの同人誌「明暗」に加入、 大正十ニ年 ( 一九二三 ) 十七歳散文詩「空の浴槽」を発表。詩の創作活動を始める。 三月、大村中学校第四学年修了。第五学年を跳び越えて四月、佐賀昭和七年 ( 一九三一 l) 二十六歳 高等学校文科乙類入学。 一一月、父惣吉死去。負債つきの家督を相続し、その借財をその後長 大正十五年・昭和元年 ( 一九一一六 ) 一一十歳 い年月にわたって返済する。四月、堺高等女学校の地理教諭、山本 三月、佐賀高等学校卒業。四月、京都帝国大学文学部国文科入学。花子 ( 奈良女高師出身 ) と結婚。大阪市住吉区阪南町中三丁目二十 上京区寺町今出川上ル四丁目阿弥陀寺前町青木敬麿方に下宿。七番地に新居を構える。六月、青木敬麿と同人雑誌「呂」を創刊、毎 月、郷土諫早の先輩酒井小太郎 ( 姫路高等学校教授 ) を姫路に訪号詩を発表する。七月、無試験検定により高等学校高等科国語科教 問。この頃より、ドイツ・ロマン派詩人、ヘルダーリンに傾倒、後員免許状を受領。十一一月、大阪市住吉区天下茶屋三の十五番地に転 伊東静雄年譜 いさはや
0 伊東静雄文学紀行 ゆたかなる旅 ありあけ 有明海を東に、大村湾を西に、両方からくびれた地 頸部にあるのが諫早市である。北半は五家原岳の山地 で本明川が流れ、その沿岸に水田が開けている。 もと諫早藩の城下町で、城跡の高城山はいま公園に なっている。その公園を上って行くと、中腹に、つつ じの咲くところに、伊東静雄の詩碑がある。 毎年、その詩碑の前で、詩人を偲んで地元の詩人お むらしめ 村肇氏などが中心になって、その十三回忌を第一回と して毎年三月「菜の花忌」がもよおされている。こと しは、三月二十八日、午後一一時からの集りが、その第 七回目にあたるという。詩人の故郷を訪ねるにあたり、 私は大阪の日置荘に暮していられる花子未亡人をおさ そいして、その日をめざし、三月二十五日の午後東京 を立った。 二十六日は、伊東家に泊った。私は昭和十四年六月、 佐藤春夫に序文を書いて頂き自家版の小さな薄い木の の葉のような詩集を編み、「わがひとに与ふる哀歌」の ちょうだ、 広詩人にお送りし、丁重なお手紙を頂してお知り合い 3 になり、昭和十四年から十五年にかけ、大阪の当時詩 いさはや ごかはらだけ