462 昭和五年 ( 一九三 0 ) 十六歳かリルケ、ポードレール、プルースト、ランポオに親しみ、フラン 五月上旬、校長罷免の事件に遭い、風紀委員として擁護運動に参加ス語を学ぶ。ここで、堀辰雄の影響の下に " 生徒もの“というべき する。またこの年、市電の切符の蒐集に熱中。 短篇小説のいくつかと詩 ( 冫 乍こ熱中した。六月から七月にかけて、杉 昭和六年 ( 一九三一 ) 十七歳浦明平とともに、明治・大正期の文学書蒐集に熱中し、とりわけ大 三月、府立第三中学校四年修了。四月、本郷の第一高等学校理科甲正の詩書を多く集める。この年手製の詩集『日曜日』『散歩詩集』 類に入学。天文学志望であった。生田勉、杉浦明平、国友則房、畠をつくる。このうち『日曜日』は母登免に捧げたものである。 山重政、松永茂雄らを知る。一年間は寮生活を送ったが、一一年目か昭和九年 ( 一九三四 ) 一一十歳 らは自宅通学とする。七月、同人誌「波止場」の創刊に加わり、ミ 一一月、萩原朔太郎の「氷島」を読み、詩人の自覚を得、室生犀星と チ・タチのべンネームでロ語歌を発表、また前田夕暮主宰の「詩リルケに傾倒。三月、「ホべーマの並木道」を書く。四月、天文学 歌」に三木祥彦のペンネームで初めて短歌を投じ十一一首が採用さ志望を変更、東京帝国大学工学部建築科に入学、意匠を専攻。一級 れ、以後毎号に自由律作品を発表した。夏の休暇中、奥多摩にこも下に丹下健三が在籍していた。大学入学のころから、自宅一一階の部 って、新興芸術派風の小説「あひみてののちの」を執筆し、十一屋から三階の屋根裏部屋に移る。六月、堀辰雄から津村信夫らの雑 月、校友会雑誌に同作を発表する。これによって、一躍一高文壇の誌「四人」をもらう。沢西健、猪野謙一一、江頭彦造と同人誌「偽 寵児となった。文芸部に属していたが、同時にローマ字会にも入っ画」を創刊、十二月号 ( 「メリノの歌」発表 ) までに三号を出して ていた。昭和二年末以来の歌作を前年から歌 / ート『自選葛飾集』廃刊。七月上旬、信州追分に行き、油屋に泊まって初めての村ぐら としてまとめる。この年、堀辰雄を識る。また映画をしきりに見る。しを送る。この地には堀辰雄、室生犀星や近藤武夫が滞在してお 昭和七年 ( 一九三一 l) 十八歳り、しきりに行き来して、追分を愛するようになる。小説「緑蔭倶 一月、一高短歌会に初めて出席。二月、友人と雑誌「こかげ」を創楽部」「貧乏の死」散文詩「子供の話」などを書き、プーシキン、 刊、「眠ってゐる男」ほかの短篇を発表。十二月に廃刊。三月末かレールモントフ、ゴーゴリ 、・ハルザック、藤村詩集、三好達治『閒 ら四月にかけて畠山重政と一一人で伊豆を徒歩旅行。夏休み中は自宅花集』などを読む。八月下旬、追分を発ち、長野県の上松を経て愛 にいてコクトオ、ラディゲ、ヴァレリイなどの読書にふける。この知県渥美半島の福江に杉浦明平を訪ね、帰京した。ひと夏の追分生 ころ三好達治の『南窗集』を読んで感動、その影響下に四行詩を書活は道造の詩作生活に大きく反映し、以後この土地は詩作の重要な き始める。また、この夏、『堀辰雄詩集』や、自作の短編小説『ゴ舞台となり背景となる。九月、古本蒐集に熱中、大正期の詩書だけ ンゴン』の手製本を作っている。 でも合計一六五冊に達した。十月、三好達治、丸山蕓、堀辰雄の共 昭和八年 ( 一九三 = I) 十九歳同編集で、第二次「四季」が創刊され、その同人となる。十一月、 七月半ばから奥多摩の御岳に滞在、九月上旬までを過ごす。自然と「四季」一一号に詩「村ぐらし」「詩は」を発表、注目を浴びる。 童話的なものに関心を寄せ、「ポォルとヴィルジニイ」を愛読するほ昭和十年 ( 一九三五 ) 一一十一歳
四行詩十篇を収録。同月下旬から九月初旬にかけて、軽井沢に行っ月中旬、盛岡で「風立ちぬ」第三回分を書き、帰京。十一月中旬、 て留守の室生犀星の大森魚眠洞をあずかり、そこから出動する。八風邪をひいて不安を訴える。雑誌「午前」もなかなか実現しない中 月に二度、追分・軽井沢に旅行。十月上旬、肋膜を病み、約一か月で南への旅行を急ぐ。二十四日、長崎をめざして出発。このころ 間病臥。十一月半ば静養のため追分に行く。同月十九日、宿泊の油「ノート」を書き始める。奈良、京都、山陰から北九州を経て旅す 屋が火災に見舞われ、九死に一生を得る。十二月、詩集『暁とタのるが、極度に疲れて長崎に着く。十二月六日夜、喀血。十三日、帰 京を決心して長崎を発つ。十五日、帝大病院で絶対安静を宣告され 詩』を風信子叢書第一一冊として四季社より刊行。 二十四歳る。江古田の東京市立療養所に入った二十六日には、すでに手遅れ 昭和十三年 ( 一九三八 ) 一月十六日、銀座で『晩とタの詩』出版記念会を開く。一一月上旬、になっていた。二十九日から、水戸部アサイが献身的に看病した。 二十五歳 風邪と頬のこぶを取り去る手術のために十日間ほど欠勤。中旬、神昭和十四年 ( 一九三九 ) 保光太郎の住む浦和にヒアシンス・ハウスを建てるため設計。風信一月、室生犀星、津村信夫ら友人・知人が次々に見舞う。二月十三 日、第一回中原中也賞受賞決定。三月一一十九日、病状は急変、午前 子のべンネームで「コギト」に物語「オメガぶみ」を発表。三月、 疲労と徴熱を訴える。その著書『古典の親衛隊』に感動して芳賀檀一一時一一十分、誰にも見とられず、息をひきとった。四月六日、自宅 に贈った「何処へ」を「新日本」に発表。同人誌「午前」を計画すで告別式。谷中の多宝院に埋葬。法名は温恭院紫雲道範清信士。 る。四月、中村真一郎を知り、フランシス・ジャム詩集を贈る。五六月、堀辰雄が中心となって「四季」の立原道造追悼七月号を刊 月、堀辰雄論「風立ちぬ」を書き始め、その第一回・第二回を「四行、「優しき歌」を発表。 季」六、七月号に発表。このころ、同じ事務所に勤務する水戸部ア没後、昭和十六年一一月より、堀辰雄らの尽力により『立原道造全 サイと愛し合うようになり、中旬、彼女と軽井沢に旅する。七月、集』全三巻が山本書店より刊行される。十五年一月、丸山薫編によ 小山正孝を知る。下旬、健康すぐれず事務所を休むことにし、静養る河出書房『現代詩集第二巻』に詩三十一一篇収められる。二十一年 九月、物語集『鮎の歌』を鎌倉文庫より刊行。一一十二年三月、中村 のため大森の室生宅に移る。八月上旬追分に転地療養におもむく。 軽井沢には新婚の堀辰雄夫妻もいた。水戸部アサイも時折彼をたず真一郎の記憶によって補われた詩集「優しき歌』を角川書店より刊 ねてくる。中村真一郎に『優しき歌』のノ 1 トを見せる。下旬ごろ行。二十五年十一月より、『立原道造全集』全三巻を角川書店より から、日本縦断旅行を決意し、一冬を追分で過ごすことを勧める堀刊行。三十一一年十一一月より、『立原道造全集』全五巻を角川書店よ 辰雄の意見もあったが、聞きいれなかった。「むらさぎ」に「草にり刊行。三十六年九月、未発表作品集『詩人の出発』を書痴往来社 寝て : ・ : ・」を発表。九月六日に帰京し、十五日、上野を発って東北より刊行。四十六年六月より、新版『立原道造全集』を角川書店よ 地方の旅にの・ほる。山形、仙台を経て盛岡に行き、約一か月滞在、り刊行中。 この年譜は諸種のものを参照の上、編集部 アンデルセン、ト 1 マス・マン、ニ 1 チェなどを読み、宮沢賢治に で作成し、堀内達夫氏の校閲を得ました。 反撥を覚える。「四季」十月号に「優しき歌」・Ⅵ ) を発表。十
三月、前年九月に製作した課題製図の小住宅の設計に対して辰野金五月号にリルケ「オルフェへのソネット」を翻訳。六月、夏の旅行 吾賞が与えられる。帝大新聞に「枯木と風の歌」を書き、初めて原稿費用を捻出するため『芥川龍之介文学読本』の編集を手伝う。七月 料三円を受け取る。丸山薫を読み転身を計る。五月、杉浦明平、寺初旬、追分に行き、野村英夫、土井治を知る。「かろやかなる翼あ 田透、猪野謙一一、国友則房、竹村猛らと雑誌「未成年」を創刊。九る風の歌」を書きつぎ、シュトルムの「忘れがたみ」「ヴェロニカ」 月号まで続く。六月、「四季」リルケ研究号に「愛する」を翻案発「林檎みのるころ」を翻訳。同月、雑誌「建築」に「住宅・エッセ 表、また藤原定家に関心を寄せ、『新古今集』を読む。七月上旬、イ」を発表。九月、「未成年」同人寺田透とデカダンツにつき激し 追分に族し、数日を過ごす。下旬、再び追分に出かけ、堀辰雄、 く論争する。下旬奈良へおもむき、三月堂、中宮寺、法隆寺などを 三好達治を訪問。堀辰雄はこのときすでに富士見療養所にいた。見、福江の杉浦明平宅に立ち寄り、帰京。「かろやかな翼ある風の 「風のうたった歌」を「四季」六月号、「未成年」七月号に発表。八歌」を書き上げる。十一月、『林檎みのる頃』を山本書店より刊行。 月、浅間山の爆発を初めて体験する。「ノ 1 ト火山灰」を書き始め十二月、卒業論文「方法論」を書く。この月「未成年」は第九号を る。この夏、エリザベト、鮎子、深沢紅子らの女性たちを知る。工出して休刊した。この夏の終りごろから、身体の変調に気づく。こ リザベトと呼ぶ女性との出会いを記念した詩が「四季」十二月号のの年、音楽をしきりに聞く。 「はじめてのものに」である。この夏の初めごろから本格的に十四昭和十ニ年 ( 一九三七 ) 二十三歳 第アンス 行詩形式の詩を試み始める。中原中也を読む。九月、松永茂雄主宰一月一日、国友則房と前夜から街をさまよい、風信子叢書を構想す の「ゆめみこ」の同人となる。十月、「四季」十一月号に「はじめる。「鮎の歌」を書き、物語集『鮎の歌』を構想する。「四季」の座 てのものに」「またある夜に」を発表。十一月、鮎子との愛を友人談会《現代詩の本質について》に同人の萩原、三好、丸山、神保ら に告白、それは以後の作品に深い影響を与えた。「未成年」に「生と出席。同月末、追分へ出かけ、前年夏から滞在して「風立ちぬ」 涯の歌」を発表。十二月、「コギト」「文芸汎論」「四季」「椎の木」終章のレクイエムを構想中の堀辰雄に会い、二月五日に帰京。二月 「作品」から原稿の依頼を受ける。 中は卒業設計に没頭。三月中旬に完成した卒業設計「浅間山麓に位 昭和十一年 ( 一九三六 ) 一一十二歳する芸術家コロニーの建築群」を提出。これも辰野金吾賞を受け、 譜一月、中原中也に会う。築地小劇場で新協劇団の「ファウスト」を別荘を造らせると日本一、という折り紙をつけられる。この月、東 観る。一一月、「四季」が十五号に達し、同人制を確立、従来の堀、京帝大を卒業し、数寄屋橋ぎわの石本建築事務所に就職。病弱で欠 三好、丸山、津村、立原のほかに、井伏鱒二、萩原朔太郎、竹中勤が多かったが、仕事の完成に際しては、つかれたように夜業もい 年 郁、田中克己、辻野久憲、中原中也、桑原武夫、神西清、神保光太とわなかったという。土曜日の午後から追分へ行ぎ、月曜日の朝に 郎を加え、十四名が名を連ねる。「作品」新人コンクール二月号に上野に着いて出勤する生活を続ける。六月、今井慶明作曲「ゆふす わすれぐさ 物語「春のごろっき」を発表。三月、再び辰野金吾賞を受賞。四げびとの歌」の発表会が開催さる。七月中旬、処女詩集『萱草に寄 4 月、。ヒカソ回顧展に感動、ノヴァリス「青い花」を読む。「未成年」す』を風信子叢書第一冊として刊行。楽譜判の私家版寄贈本で、十
りません。 土曜日から日曜日にかけては大変混雑するのだそう 道真 ですが、流行の「文学散歩」ということにも関係ある のでしよう。立原道造、堀辰雄にゆかりの宿屋だとい うので、おとすれる人も多いと聞きました。旅館の宿 一り 泊案内には、この旅館と、これらの詩人との関係を説 千っ 、まはひっそりしたも のひ 明した印刷物があります。力し 原・内 ので、私のはかには、他に宿泊のお客さんはいないの 追追のでした。 全国のどこでもそうでしようか、そうして、名作の 舞台を訪ねて歩くこの文学全集の紀行がそうであるよ くつかけ うに、ヒ処、曵間山麓も変貎し、沓掛といった風雅な 名前も、中軽井沢という駅名になり、旧中仙道の古宿、 かワや′、 借宿などという小さな村々をつないで、如何にも信濃 路を歩くというのにふさわしかったところかい 幅ひろく舗装され、軽井沢から追分へ、さらに長野市 方面へと通ずる国道十八号線になり、朝早くから荷物 を満載した大型の貨物自動車がひっきりなしに疾走し つづけています。その変貎を語ってみるより仕様がな い有様とも言えます。が、はんの少し、その国道から はすれたということのために、この旅館を中、いにした 一区画だけは、ちょうど、こばれ陽を浴びた窪地のよ うに、少に、ひっそりと、しすまり返っているとも云
型宛 8 上 録の年 手 8 母 ス紙月に ケに 25 宛 ッ同日て み ~ 、、を、を、豪朝当第物を 1 を 1 を ~ チ封付た 左の 謎ま強を新洋女ス鵞 土弟簡 物達昭 付 ・夫和 「未成年」創刊号 ( 右 ) と同 誌の目次 ( 下 ) ( 昭和 9 年 ) 彼はその方面でも素晴らしい才能を見せた。設計によ って三回も辰野金吾賞を受け、「別荘を作らせたら日 いかにも立原道造にふさわ 本一」と言われたという しい話である 彼は信濃追分を深く愛し、そこをしばしば詩の舞台 としているが、そこでは堀辰雄や室生犀星と往来する 楽しみがあった。その頃の彼にとって、二人はリルケ とともに、詩作のための優れた目標であったにちかい オし 浅間山や彼が好んだシュトルムなどが、背景に思い 浮かべられる「はじめてのものに」を引用してみよう。 ささやかな地異はそのかたみに 灰を降らしたこの村にひとしきり 灰はかなしい追慮のやうに音立てて 樹木の梢に家々の屋根に降りしきった その夜月は明かったが私はひとと 窓に筅れて語りあった ( この窓からは山の姿が見 えた ) 部屋の隈々に峡谷のやうに光と よくひびく笑ひ声がをれてゐた 人の心を知ることは・・・・ : 人の、いとは :
左同人雑誌「波止場」 創刊号 ( 昭和 6 年 ) 誌雑會表校 波止場 上一高「校友会雑誌」第三百四 十二号と、同誌に発表した「短 篇二つ」 ( 右 ) ( 昭和 8 年 ) 第一高等学校理科甲類当時の道造 りに励んたり、 散文詩ふうの物語を学校の雑誌に発表 して、さまざまな文学者を輩出したいわゆる一高文壇 の人気を博したりしている。 こんなふうに書くと、彼は何の苦労もせすにそのオ 能をのびのびと開花させたように見えるが、小学一二年 生のときには人並みに関東大震災を体験しているし、 中学三年生のときには神経衰弱で一学期間休学したり している。それに、長身あるが痩せていて、ひょ わな感しであった。 しかし、もっと適切に言えば、立原道造の場合、天 分と環境に恵まれすぎているような立場は、やがて彼 の詩をつらぬくことになる甘美な悲しみの前提となる ものであっただろう。詩が運命に似たのか、運命が詩 みきわ に似たのか、彼の場合にもそのことは見究めがたい。 彼の詩の世界を探って行くと、幸福のさなかにあって オ」、つなメタフィジカル 悲哀の情緒を求めるといっこ、 であると同時にイスセティックな詩学に行き当るので ある。 彼が短歌からはっきり詩に移ったのは一高二年生の ときあたりで、すでに堀辰雄や室生犀星に師事し、三 好達治などに関心をもっていた。また、音楽を深く愛 していた。 東大には、天文学の方へ進ます、建築科に入学した。 490
当〈イワンのばかトルストイの短編小説。 島崎藤村の詩集のなかの一節。 巴一春来にけらし : ・ 巴一ぎ・ほうしゅぎ・ほし ( 擬宝珠 ) 。ゆり科の多年生草木。夏の 頃、白、紫色の花を咲かす。種類が多く、日本各地の山野に自 生。観賞用の栽培品種もある。 巴三マドリガル中世の頃、南仏プロヴァンス地方よりおこった 自由形式の歌謡。のち、イタリア、イギリスに移植。 リルケ Rainer Maria RiIke ( 1875 ~ 1926 ) プラハ生まれの 詩人。『ドイノの悲歌』などの詩集や『マルテの手記』が代表 作。堀辰雄はじめ、「四季」の人びとは、このリルケの影響を 強く受けている。 巴七生田勉立原の一高時代よりの友人。現在、東大で教鞭をと る建築学者。 巴八メエルヘン四四三ページ「メルヘン」参照。 当五糠雨絹糸のようにやわらかく降る春の雨のこと。 空穴まなかひ目と目の間、目前。まのあたり。 空穴立ちもとほった行きつもどりつする。徘徊する。 四きまつむし草まつむし草科の多年生草本。秋、淡紫色の花を 咲かせる。 弩一若王子京都東山に沿う町の名。 E 三三フーガ楽曲形式のひとつ。対位法的楽曲で、・ハッハなどに よって大成されたもの。遁走曲。 紅野敏郎 る。
あんなか 変貎と云えば、古い宿場の追分は、そもそも明治時ら山の群馬への移り変り、高崎、やがて安中の駅を出 代、汽車の開通にあった時、既に、その使命は終ってると、北の方向に中仙道の杉並木が見え、磯部をすぎ いたわけです。いまは、ドライハアのために、大げさ ると、妙義山の表側がこっちを向き、舞台のように山 ながードレールのうねりの傍には、新しく、又一軒、 容が廻転し、横川近くになると、裏妙義の山群が目の ばつんと、店開きしたばかりのドライプインも眺めら前 つばいにひろがって来るのでした。こぶしの花、 れるのでした。 あんずの花。熊ノ平の駅を出、幾つかのトンネルを抜 けると、もう軽井沢の駅です。 「生の季節、そして僕のゲニウス。移りゆくままに、 軽井沢を発車すると、急に浅間は雪をかぶって、春 ぎわ 僕の営みをもっとよき営みであらしめよ。僕の遠征、 の陽射しを受け、透し絵のように、窓際に顔を出した そして放浪」そんなことをノートに書いた立原は、そり、かくしたり。つぎは中軽井沢。そして、もうつぎ が目的の追分。浅間山は、やっと落着いて、その全貌 の追分の世界から、つまり、「堀辰雄の軽井沢の文学」 をはっきり見せてくれるのでした。過去にさかのばる から東北の旅に脱出し、その年の暮には、長崎に向っ ような汽車の旅なのに、それでも、立原の頃、四時間 て出発しています。長崎に着くと発熱、入院、喀血し かかったのでしよ、つ力し 、まは二時間 ているのですが、同世代の若者たちが、それぞれ、遠は しなのいわけ こういう季節を選んだためか、信濃追分の駅に降り 征に出発していたように、立原も最後の力を振りしば 立ったのは、どうやら私だけのようでした。強い高原 って、出発しようとしていました。何処へ卩 力いまは、その立原を偲ぶために、上野発、九時の風に吹きつけられて、プラット・フォームに立っと、 二十五分の田口行の臨時急行に乗り込んだわけです。 その一瞬だけは、三十年の歳月に少しもかかわりなく、 天気はよいのですが風が強く、四月に入ったばかり 昔のままに、大きな山の麓の、ひっそりとした高原の で、まだ寒くありました。 寒駅でありました。 大宮、熊谷と列車は埼玉県から群馬県へと進み、新 駅の木柵を越して、やをを吹きわたって来た風が、 町、倉賀野あたりを走りつづける車窓からは、西の方絶えす吹きつけるだけで、真昼をすぎたばかりの太陽 にひろがりはじめる山なみが見えはじめ、野の群馬かの陽射しのほかには、小鳥の声も聞えす、人影も見え
で、運動会ではいつも最終の成績で、唱歌が不得意だったという。 大正十一一年 ( 一九二 = l) 九歳 九月一日、関東大震災。橘町の家が焼失したので、一家は親戚にあ たる千葉県東葛飾郡新川村の豊島方に避難。十二月に橘町の仮建築 ができるまで同地の新川小学校に転籍。 大正十四年 ( 一九二五 ) 十一歳 この夏以後、雕康のため奥多摩の御岳神社神宮原島家での避暑が恒 大正三年 ( 一九一四 ) 七月三十日、東京市日本橋区橘町三丁目一番地 ( 現東京都中央区日例となる。 とめ 十二歳 本橋橘町五番地一号 ) に父貞次郎 ( 明治生 ) 、母登免 ( 明治生 ) 大正十五年・昭和元年 ( 一九二六 ) の次男として生まれた。長男一郎は前年三歳ですでに死亡してお五月、小型の手書本『滑稽読本第一』を作る。 十三歳 り、他に弟達夫 ( 大正 5 生 ) がいる。立原家は水戸藩の家臣で、早昭和ニ年 ( 一九二七 ) くから江戸詰であったという。明治維新後の二十年代に商品荷作り三月、久松小学校を卒業。四月、東京府立第三中学校 ( 現在の都立 用の木箱の製造を業とし、日本橋に居を移した。父貞次郎は千葉県両国高校 ) に入学。芥川龍之介、堀辰雄もここに学んでおり、道造 おおかみけ 東葛飾郡の農業、狼家の出で、母登免といとこ同士であったが、立は芥川以来の秀才とうたわれた。絵画部に関係しパステル画を発表 ーモニカに熱意を示す。七月、芥川 するほか、昆虫標本づくり、 原家の養子となった。 四歳龍之介が自殺、ショックを受ける。十一月、「学友会報」に戯曲「或 大正七年 ( 一九一八 ) 浜町の幼徳幼稚園に入園。おとなしい子供で、運動よりも絵を描くる朝の出来事」を発表。十二月、ロ語歌を試作しはじめる。 十五歳 ことや手細工などを好んだという。この夏から千葉の館山に避暑を昭和四年 ( 一九二九 ) 三月、「学友会報」に「硝子窓から」三行分ち書き十一首を発表、 することが例になった。 五歳以後卒業まで続く。四月、神経衰弱のため一学期休学して東葛飾の 大正八年 ( 一九一九 ) 譜八月、父貞次郎死去。家督を相続し、店の看板も「立原道造商店」豊島方ですごす。このころから詩歌に対する関心がたかまり、石川 と改められる。家風により、この年初めて正式に筆をもたされた。啄木の「一握の砂」や「悲しき玩具」を愛読し、秋ごろ、三中の国 剣舞をならい、毎月歌舞伎見物に連れていかれたが、道造は歌舞伎語教師で歌人でもあった橘宗利に同伴して世田谷の北原白秋を訪ね た。十月、焼跡にようやく本建築の家が完成、二階三畳の間を自室 年をことのほか好んだ。 七歳にもらう。天文学にも興味を示し、天体望遠鏡で星をながめること 大正十年 ( 一九一一 l) 四月、となり町の区立久松小学校に入学。開校以来の神童といわが多く、天文学会に出席したこともある。この年、父を偲ぶ歌を作 れ、在学中首席を通す。友人との交際を好まない、めだたない存在り、また友人の妹金田久子を思慕する。 立原道造年譜
し、『恋愛名歌集』の仕上げに着手した。 評論などを執筆して全面的に援助。九月、軽井沢へ行き、室生犀星 四十五歳と沓掛などに遊んだ。十月、犀星の世話で再婚の話があったが、実 昭和六年 ( 一九三一 ) 五月、『恋愛名歌集』を第一書房より刊行。万葉集から新古今集に現しなかった。この年、発表した作品は詩一篇、文章三十三篇。 いたる四三七首の和歌を解説。七月ごろ東京府下世田谷町東北沢に昭和十年 ( 一九三五 ) 四十九歳 移り、さらに九月、世田谷町下北沢新屋敷一〇〇八番に移転、母ケ一月から二年にわたって雑誌「文学界」に「詩壇時評」を連載。四 イ、一一人の子供、妹アイと住む。この年作品発表は詩十三篇、文章月、『純正詩論』を第一書房より刊行。八月、一週間ほど病気で床 十七篇。九月、満洲事変起こる。 につく。十月、アフォリズム集『絶望の逃走』を第一書房より刊 昭和七年 ( 一九三一 l) 四十六歳行。十一月、小説『猫町』を版画荘より刊行。同月、抒情精神の新 能に親しみはじめる。交友関係では、西脇順三郎、丸山薫、保田与しい復活者として推賞した伊東静雄の『わがひとに与ふる哀歌』出 重郎、蔵原伸一一郎らを知る。十一月、世田谷区代田一丁目六三五番版記念会に自ら発起人となって出席。この年、発表した作品、文章 地の土地約百五〇坪を借り、自分で設計した家の新築にとりかかっ七十八篇にの・ほる。「芭蕉私見」「情熱の歌人式子内親王」などの伝 た。この年、発表した作品は詩一一篇、文章九篇。 統詩論がめだっ。 昭和八年 ( 一九三 = l) 四十七歳 昭和十一年 ( 一九三六 ) 五十歳 一一月下旬ごろ、代田の新居が完成。母ケイ、一一児、妹アイとともに二月、「四季」の同人となる。三月、『郷愁の詩人与謝蕪村』を第一 入居。三月、「日本詩人会」会員となる。六月、年来の念願であっ書房より、『定本青猫』を版画荘より刊行。五月、随筆評論集『廊 た個人雑誌「生理 . を創刊。自ら企画を立て、原稿を依頼したりし下と室房』を第一書房より刊行。九月、「文学界」に連載した「詩 た。十年二月まで五冊を出したが、その間、詩論、アフォリズム、壇時評」により、第八回文学界賞を受けた。十月、「詩歌懇話会」 随想、「郷愁の詩人与謝蕪村」など多くの作品を発表。寄稿者も室が設立され、役員となる。この年、大島、四国、関西方面に旅行。 生犀星、辻潤、三好達治、萩原恭次郎、伊東静雄、竹村俊郎、草野十二月、 Z 東京放送局から「最近の詩壇」と題する講演を放送 心平ら多彩な顔ぶれであった。このころから、日本の伝統詩群に深した。 い関心を示し、数篇の伝統詩論を書く。若き日の西洋憧憬から次第昭和十ニ年 ( 一九三七 ) 五十一歳 に日本的なものへの回帰が始まる。九月、群馬県の温泉へ保養に出二月、神保光太郎、保田与重郎と同道で帰郷。上毛新聞の「萩原朔 かける。 太郎歓迎座談会」に出席。三月、詩論集『詩人の使命』を第一書房 昭和九年 ( 一九三四 ) 四十八歳より刊行。八月、評論・詩論集『無からの抗争』を白水社より刊行 六月、詩集『氷島』を第一書房から刊行。七月、明治大学文科文芸したが、その中の「歴史教育への一抗議」が部分削除を命ぜられ 部講師となり、詩の講義を担当する。十一月、堀辰雄、三好達治、る。九月、浪漫主義文学の昻揚を目ざして「透谷文学賞」が設けら 丸山薫により雑誌「四季」が創刊され、以後精力的にアフォリズム、れ、島崎藤村、戸川秋骨、武者小路実篤らとともに選考委員とな