悲しみ - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集
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1. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

7 絶えざるといふものが、それが どんなに辛いものかが分るか ? 詩 おまへの愚かな精力が尽きるまで、 刊 未恐らくそれはおまへに分りはしない。 けれどもいづれおまへにも分る時は来るわけなのだが、 その時に辛からうよ、おまへ、辛からうよ、 ちゃうど そしてそれが恰度私に似てをります、 どんらん 貪婪の限りに夢をみながら 絶えざる苛責といふものが、それが せうしゃ 一番分りのいい俗な瀟洒の中を泳ぎながら、 どんなに辛いか、もう既に辛い私を わく 今にも天に昇りさうな、枠のやうな胸で思ひあがってをり ます。 おまへ、見るがいい よく見るがいし ろくろく笑へもしない私を見るがいいー 伸びたいだけ伸んで、拡がりたいだけ拡がって、 恰度紫の朝顔の花かなんそのやうに、 まぎ 朝は露に沾ひ、朝日のもとに笑をひろげ、 人には自分を紛らはす力があるので、 人はまづみんな幸福さうに見えるのだが、 タは泣くのでございます、獣のやうに。 しよく 獣のやうに嗜慾のうごめくまゝにうごいて、 人には早晩紛らはせない悲しみがくるのだ。 その末は泣くのでございます、肉の痛みをだけ感じなが悲しみが自分で、自分が悲しみの時がくるのだ。 ら。 ものう 長い懶い、それかといって自減することも出来ない、 さういふ惨しい時が来るのだ。 悲しみは執ッ固くてなほも悲しみ尽さうとするから、 悲しみに入ったら最後む時がないー 理由がどうであれ、人がなんと謂へ、 悲しみが自分であり、自分が悲しみとなった時、 人は思ひだすだらう、その白けた面の上に うるに すで

2. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、 私は強情だ。ゅうべもおまへと別れてのち、 酒をのみ、弱し 、人に毒づいた。今朝 の 目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら 羊 私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして 山 正体もなく、今に告白をする、恥もなく、 四品位もなく、かといって正直さもなく 私は私の幻想にられて、狂ひ廻る。 汚れっちまった悲しみは なにのそむなくねがふなく 汚れっちまった悲しみは 倦怠のうちに死を夢む 汚れっちまった悲しみに おちけ いたいたしくも怖気づき 汚れっちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる : 無題 人の気持をみようとするやうなことはつひになく、 こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに かたく 私は頑なで、子供のやうに我儘だったー 目が覚めて、宿酔の厭ふべき頭の中で、 戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら 私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出 す。 そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、 みづか 今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずるー 彼女の心は真っ直い 彼女は荒々しく育ち、 たよりもなく、心を汲んでも もらへない、乱雑な中に 生きてきたが、彼女の心は 私のより真っ直いそしてぐらっかない。 彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に 彼女は賢くつつましく生きてゐる。 あまりにわいだめもない世の渦のために、 さわ 折に心が弱り、弱々しく躁ぎはするが、 而もなほ、最後の品位をなくしはしない 彼女は美しい、そして賢い しか ふつかよひいと わがまま

3. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

私たちもあたたかい寝台をもとめて この閑寂な室内の光線はうすく 私たちもさめざめとすすりなきがしてみたい。 そこにもまたカのない蠅のうたごゑ みよすべての美しい寝台の中で娘たちの胸はやさ ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ。 しく抱きあふ 恋びとよ わたしのいぢらしい心臓はお前の手や胸にかじかまる子心と心と 手と手と 供のやうだ 足と足と 恋びとよ ひも からだとからだとを紐にてむすびつけよ 恋びとよ。 、い A てむ一 手と手と 寝台を求む 足と足と からだとからだとを撫でることによりて慰めあへよ このまっ白の寝台の中では どこに私たちの悲しい寝台があるか ふつくりとした寝台の白いふとんの中にうづくまる手足なんといふ美しい娘たちの皮膚のよろこびだ なんといふいぢらしい感情のためいきだ。 があるか けれども私たち男の心はまづしく 私たち男はいつも悲しい心でゐる いつも悲しみにみちて大きな人類の寝台をもとめる 私たちは寝台をもたない その寝台はばね仕掛けでふつくりとしてあたたかい けれどもすべての娘たちは寝台をもっ さる まるで大雪の中にうづくまるやうに す・ヘての娘たちは猿に似たちひさな手足をもっ さうして白い大きな寝台の中で小鳥のやうにうづくまる 人と人との心がひとつに解けあふ寝台 すべての娘たちは寝台の中でたのしげなすすりなきをすかぎりなく美しい愛の寝台 る ああどこに求める私たちの悲しい寝台があるか どこに求める ああなんといふしあはせの奴らだ 私たちのひからびた醜い手足 この娘たちのやうに やっ

4. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

今の詩壇で、正しい認識と理解をもっ別の読者を、新しく求めたい 最後に第三の理由としては、この詩集「青猫」が、私の過去に出と思ふからである。 した詩集の中で、特になっかしく自信と愛着とを持っことである。 世評の好悪はともかくあれ、著者の私としては、むしろ「月に吠え本書の標題「青猫」の意味について、しばしば人から質問を受け る」よりも「青猫」の方を愛してゐる。なぜならこの詩集には、私るので、ついでに此所で解説しておかう。著者の表象した語意によ の魂の最も奥深いが歌はれて居るからだ。日夏耿之介氏はそのれば、「青猫」の「青」は英語の B 一 ue を意味してゐるのである。即 いろ・ろ・つ 著「明治大正詩史」の下巻で、私の「青猫」が「月に吠える」のち「希望なき」「憂鬱なる」「疲労せる」等の語意を含む言葉として 延長であり、何の新しい変化も発展も無いと断定されてるが、私と使用した。この意を明らかにする為に、この定本版の表紙には、特 しては、この詩集と「月に吠える」とは、全然異った別の出発に立に英字で The Blue Cat と印刷しておいた。つまり「物憂げなる っポエヂイだった。処女詩集「月に吠える」は、純粋にイマヂスチ猫」と言ふ意味である。も一つ他の別の意味は、集中の詩「青猫」 ックのヴィジョンに詩境し、これに或る生理的の恐怖感を本質したにも現れてる如く、都会の空に映る電線の青白いスパークを、大ぎ 詩集であったが、この「青猫」はそれと異り、ポエヂイの本質が全な青猫のイメーヂに見てゐるので、当時田舎にゐて詩を書いてた私 なほ く哀傷に出発して居る。「月に吠える」には何の涙もなく哀傷もなが、都会への切ない郷愁を表象してゐる。尚この詩集を書いた当 わくでき ーヘンハウエルに惑溺してゐたので、あの意志否定の い。だが「青猫」を書いた著者は、始めから疲労した長椅子の上時、私はショ・ じゃく えんせい 哲学に本質してゐる、厭世的な無為のアンニュイ、小乗仏教的な寂 に、絶望的の悲しい身体を投げ出して居る。 ただよ おのづ めつるらく なっか 「青猫」ほどにも、私にとって懐しく悲しい詩集はない。これらの減為楽の厭世感が、自から詩の情想の底に漂ってゐる。 詩篇に於けるイメーヂとヴィジョンとは、涙の網膜に映じた幻燈の がらす 絵で、雨の日の硝子窓にかかる曇りのやうに、拭けども拭けども後初版「青猫」は多くの世評に登ったけれども、著者としての私が から後から現れて来る悲しみの表象だった。「青猫」はイマヂスム満足し、よく詩集のエスプリを言ひ当てたと思った批評は、当時読 の詩集でなく、近刊の詩集「氷島」と共に、私にとっての純一な感んだ限りに於て、蔵原伸二郎君の文だけだった。よってこの定本で はんい 傷を歌った詩集であった。ただ「氷島」の悲哀が、意志の反噬するは、同君に旧稿を乞うて巻尾に附した。読者の鑑賞に便すれば幸甚 きば 矛を持つに反して、この「青猫」の悲哀には矛がなく、全く疲労のである。 椅子に身を投げ出したデカダンスの悲哀 ( 意志を否定した虚無の悲 哀 ) であることに、二つの詩集の特殊な相違があるだけである。日挿絵について本書の挿絵は、すべて明治十七年に出版した世界 夏氏のみでなく、当時の詩壇の定評は、この点で著者のポエヂイを名所図絵から採録した。画家が芸術意識で描いたものではなく、無 はなは 甚だしく誤解してゐた。そしてこの一つのことが、私を未だに寂し智の職工が写真を見て、機械的に木ロ木版 ( 西洋木版 ) に刻ったも へ、・ペう く悲しませてゐる。今この再版を世に出すのも、既に十余年も経たのだが、不思議に一種の新鮮な詩的情趣が縹渺してゐる。つまり当 」 0 からだ

5. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

コキュ 1 の億ひ出 その夜私は、コンテで以て自我像を画いた ゑしき 風の吹いてるお会式の夜でした うちたたたいこ 打叩く太鼓の音は風に消え、 あか 私の机の上ばかり、あかあかと明り、 女はどこで、何を話してゐたかは知る由もない よ・こ にがは 私の肖像は、コンテに汚れ、 その上に雨でもパラつかうものなら、 まこと傑作な自我像は浮び、 軌りゆく、終夜電車は、 悲しみの余裕を奪ひ、 篇 あかあかと、あかあかと私の画用紙の上は、 刊 未けれども悲しい私の肖顔が浮んでた。 にがほ お会式の夜 十月の十二日、池上の本門寺、 東京はその夜、電車の終夜運転、 来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとほす、 太鼓の音の、絶えないその夜を。 来る年にも、来る年にも、その夜はえてして風が吹く。 吐く息は、一年の、その夜頃から白くなる。 遠くや近くで、太鼓の音は鳴ってゐて、 頭上に、月は、あらはれてゐる。 その時だ僕がなんといふことはなく らくばく 落漠たる自分の過去をおもひみるのは まとめてみようといふのではなく、 吹く風と、月の光に仄かな自分を思んみるのは。 思へば僕も年をとった。 辛いことであった。 それだけのことであった。 夜が明けたら家に帰って寝るまでのこと。 たいこ ゑしぎ

6. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

282 疲れやつれた美しい顔 死別の翌日 疲れやつれた美しい顔よ、 生きのこるものはづうづうしく、 私はおまへを愛す。 死にゆくものはその清純さを漂はせ さうあるべきがよかったかも知れない多くの元気な顔たち物云ひたげな瞳を床にさまよはすだけで、 の中に、 親を離れ、兄弟を離れ、 私は容易におまへを見付ける。 最初から独りであったもののやうに死んでゆく。 それはもう、疲れし・ほみ、 さて、今日はよいお天気です。 かげ 悔とさびしい微笑としか持ってはをらぬけれど、 街の片側は翳り、片側は日射しをうけて、あったかい それは此の世の親しみのかずかずが、 けざやかにもわびしい秋の午前です。 こもつぼ もっ 粧れ合ひ、香となって籠る壺なんだ。 空は昨日までの雨に拭はれて、すがすがしく、 それは海の方まで続いてゐることが分ります。 そこに此の世の喜びの話や悲しみの話は、 その空をみながら、また街の中をみながら、 彼のためには大きすぎる声で語られ、 歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、 彼の瞳はうるみ、 さりとて死んでいったもののことも考へてはゐないので 語り手は去ってゆく。 す。 あきら みたばかりの死にも無として、 彼が残るのは、十分諦めてだ。 ひけふ 卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばな だが諦めとは思はないでだ。 りません。 その時だ、その壺が花を開く、 さんしきすみれ その花は、夜の部屋にみる、三色菫だ。

7. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

218 みちこ そなたの胸は海のやう おほらかにこそうちあぐる。 はるかなる空、あをき浪、 凉しかぜさへ吹きそひて こずゑ 松の梢をわたりつつ 磯白々とつづきけり。 またなが目にはかの空の いやはてまでもうっしゐて なぎさ 並びくるなみ、渚なみ、 いとすみやかにうつろひぬ。 みるとしもなく、ま帆片帆 沖ゆく舟にみとれたる。 * ぬか またその顯のうつくしさ ふと物におどろきて みちこ なみ 午睡の夢をさまされし 牡牛のごとも、あどけなく かろやかにまたしとやかに もたげられ、さてうち俯しぬ。 しどけなき、なれが頸は虹にして かひな みどり・こ ちからなき、嬰児ごとき腕して 絃うたあはせはやきふし、なれの踊れば、 きん 海原はなみだぐましき金にしてタ陽をたたへ 沖っ瀬は、いよとほく、かしこしづかにうるほへる 空になん、汝の息絶ゆるとわれはながめぬ。 汚れっちまった悲しみに : 汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れっちまった悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる 汚れっちまった悲しみは かは・ころも たとへば狐の革裘 汚れっちまった悲しみは 小雪のかかってちちこまる

8. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

告別 島汽車は出発せんと欲し 汽罐に石炭は積まれたり。 しぐなる いま遠き信号燈と鉄路の向うへ 汽車は国境を越え行かんとす。 人のいかなる愛着もて かくも機関車の火力されたる 烈しき熱情をなだめ得んや。 駅路に見送る人々よ 地下鉄道にて 悲しみの底に歯がみしつつ 告別の傷みに破る勿れ。 さぶうえい ひとり来りて地下鉄道の 汽車は出発せんと欲して ほうむ すさまじく蒸気を噴き出し 青き歩廊をさまよひっ 君待ちかねて悲しめど 裂けたる如くに吠え叫び 汽笛を鳴らし吹き鳴らせり。 君が夢には無きものを まぼろし なに幻影の後尾燈 うつろ 空洞に暗きトンネルの 動物園にて 壁に映りて消え行けり。 壁に映りて過ぎ行けり。 まぼろし まぼろし 「なに幻影の後尾燈」「なに幻影の恋人を」に通ず。掛ケ灼きつく如く寂しさ迫り ことま ひとり来りて園内の木立を行けば 枯葉みな地に落ち をり 猛獣は檻の中に憂ひ眠れり。 彼等みな忍従して 人の投げあたへる肉を食らひ あをひとー」 本能の蒼ぎ瞳孑に 鉄鎖のつながれたる悩みをたえたり。 あんうつ 暗鬱なる日かなー わがこの園内に来れることは 彼等の動物を見るに非ず われは心の檻に閉ちられたる さぶ ) えい なか

9. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

約である。 を、生の現実の苦しみで独特に透明なものとさせた象 しかし、これらの僅かな伝記的事実からさえも、彼徴主義的な表現のうちに、鋭く捉えてみせることであ る くらか聞えてくるのではないだ の切ない祈りの声はい ろうか ? その声のひびきは、たとえば次のように始 では、「あれ」とは何か ? それに対する具体的な る「言葉なき歌」の悲しみのひびきと、同質のはずの答えはさまざまに試みられるだろう。 しいたろ ものである。 宇宙の中心、神、あるいは永遠と言っても ) う。また、そうしたものに対応する人間個人やその連 あれはとほい、 し処にあるのだけれど 帯の揺るぎない実在感と言ってもいいだろう。さらに おれは此処で待ってゐなくてはならない あを は、神などに象徴されるものと人間のあいだの確乎不 此処は空気もかすかで蒼く わぎ しいたろ、フ 動の関係と言っても、 葱の根のやうに仄かに淡、 従って、ここで銘記するに足ることは、中原中也が、 倦怠やデカダンスを少し感しさせながらも、本質的に 決して急いではならない は、この世界で生きぬこうとする向日的な詩人であっ 此拠で十分待ってゐなければならない むすめ たということ、そして、それが不幸にも若年のうちに 処女の眼のやうに遙かを見遣ってはならない ざせつ 手孑したとい、つことてあろ、つ たしかに此処で待ってゐればよい それだからこそ、彼は、幅ひろく若い読者を今日も 私はさきに、中原中也の生涯を少し眺めたあとで、 彼が究極的に求めていたもの、また、その詩の本質は獲得しつづけているのかもしれない 何であったかという問題に戻ろうと書いたが、その答 きわ の一つ、それも極めて抽象的な形のものが、ここにす でに現れているだろう。 彼が究極的に求めたもの、それは今引用した詩で言 えば「あれ」であり、最も深い魂の郷愁の対象となる ものである。そして、その詩の本質は、そうした憧れ ほの

10. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

でもそれは、苛めるわけではないのか ? さうせざるを得ないといふのか ? 人よ、君達は私の弱さを知らなさすぎる。 夜も眠れずに、自らを嘆くこの男を、 君達は知らないのだ、嘆きのために、 果物にもパンにももう飽かしめられたこの男を。 君達は知らないのだ、神のほか、地上にはもうよるべのな 冬の夜は夜空のもとに目も耳もないこの悲しみを。 それにしてもと私は思ふ、 このなことが、どうして君達には見えないのだらう ? どうしてだ ? どうしてだ ? 君達は、自疑してるのだと私は思ふ : * しんぎん 今夜はまた、かくて呻吟するものを、 明日の日は、また罪犯す吾なるそ。 かくて幾たび幾そたび繰返すとも悟らぬは、 のろ いかなる呪ひのためならむ。 かくは烈しく呻吟し かくは間なくし罪つくる。 繰返せども返せども、 つねに新し、たびたびに。 かくは烈しく呻吟し、 などてはまたも繰返す ? かくはたびたび繰返し、 などては進みもなきものか ? われとわが身にあらそへば 人の喜び、悲しみも、 ゼラチン透かし見るごとく かなしくもまたおどけたり。 冷酷の歌 ああ、神よ、罪とは冷酷のことでございました。 泣きわめいてゐる心のそばで、 買物を夢みてゐるあの裕福な売笑婦達は、 罪でございます、罪以外の何者でもございません。