左同人雑誌「波止場」 創刊号 ( 昭和 6 年 ) 誌雑會表校 波止場 上一高「校友会雑誌」第三百四 十二号と、同誌に発表した「短 篇二つ」 ( 右 ) ( 昭和 8 年 ) 第一高等学校理科甲類当時の道造 りに励んたり、 散文詩ふうの物語を学校の雑誌に発表 して、さまざまな文学者を輩出したいわゆる一高文壇 の人気を博したりしている。 こんなふうに書くと、彼は何の苦労もせすにそのオ 能をのびのびと開花させたように見えるが、小学一二年 生のときには人並みに関東大震災を体験しているし、 中学三年生のときには神経衰弱で一学期間休学したり している。それに、長身あるが痩せていて、ひょ わな感しであった。 しかし、もっと適切に言えば、立原道造の場合、天 分と環境に恵まれすぎているような立場は、やがて彼 の詩をつらぬくことになる甘美な悲しみの前提となる ものであっただろう。詩が運命に似たのか、運命が詩 みきわ に似たのか、彼の場合にもそのことは見究めがたい。 彼の詩の世界を探って行くと、幸福のさなかにあって オ」、つなメタフィジカル 悲哀の情緒を求めるといっこ、 であると同時にイスセティックな詩学に行き当るので ある。 彼が短歌からはっきり詩に移ったのは一高二年生の ときあたりで、すでに堀辰雄や室生犀星に師事し、三 好達治などに関心をもっていた。また、音楽を深く愛 していた。 東大には、天文学の方へ進ます、建築科に入学した。 490
立原道造 文学アノレノヾム 年 歳 道 て 立原道造の詩が今日もなお若いひとびとの間で人気 岡を博している理由については、中原中也の解説のとこ 盛 ろで、 しくらか触れたので、ここでは繰返さない それで先す間ちに、立原道造の二十四年あまりの短 く天オ的な生を、点描ふうにしるしてみることにす るが、そこに現われるのは、日本の詩人にはまことに 珍らしい、文科系と理科系のどちらの学課にも非常な 秀オであった人物である。 彼は大正三年に、東京日本橋で生れている。家業は、 商品荷作り用の大きな木箱の製造であったが、五歳の とき父を喪ったため、店は「立原道造商店」となった。 三代目であった。 小学校では開校以来の神童、府立第三中学校 ( 現在 の両国高校 ) では芥川龍之介以来の秀才と言われたと いう。中学四年修了で、第一高等学校理科に入学。天 文学を専攻しようと考える一方、中学以来の短歌づく 東京府立第三中学 ( 現都立両国 高校 ) 時代の道造 ( 昭和 3 年頃 ) 評伝的解 " 祝〈立原道造〉 清岡卓行 1 489
458 の文学活動に少なからぬ影響を受ける。まだ、詩作はなく、短歌を つくったりしていた。 昭和三年 ( 一九二八 ) 二十二歳 四月、恩師酒井小太郎が、家族と共に京都今熊野に移転して来たた め、同家と親しい交わりをもつようになる。十月、大阪三越主催の 御大礼記念児童映画脚本懸賞募集に応募した童話「美しい朋輩達」 明治三十九年 ( 一九 0 六 ) が一等に当選、賞金一千円を受ける。十二月、松竹蒲田で映画化さ 十二月十日、長崎県北高来郡諫早町船越名四一一七番地に生まれる。れる。 父惣吉、母ハツの四男。長男英一、次男潤三、三男岩蔵はすべて早世。昭和四年 ( 一九二九 ) 二十三歳 姉ミキ、次女リッ、五男寿恵男がある。父惣吉は木綿問屋を本業に、三月、京大国文科を一一十九人中三番で卒業。四月、大阪府立住吉中 いくつかの商売を兼ね、静雄の幼少年時代はかなり裕福であった。学校に就職。月給一一〇円。酒井小太郎から拝領した古背広を着用 大正ニ年 ( 一九一 lll) 七歳して、もじゃもじゃの髪のまま登校したので、即日、プルジョア学 四月、諫早小学校に入学。小学校時代は学業はよく出来たが、作文校の生徒達に「乞食」というあだ名をつけられる。七、八月、審査 と体操が苦手であったという。 の講師を驚かせた首席の卒業論文「子規の俳論」が「国語国文の研 大正八年 ( 一九一九 ) 十三歳究」三四、三五号にわたって全文掲載される。 三月、諫早小学校卒業。四月、長崎県立大村中学校に入学、汽車で昭和五年 ( 一九三〇 ) 二十四歳 通学をする。在学中、一学年上級に、福田清人、同級に蒲池歓一、 三月、無試験検定により、師範学校、中学校、高等女学校の教員免 陣ノ内宜男、一一学年下級に川副国基などがいた。中学時代は勤勉な許状を受領、嘱託から教論となる。四級俸月給一一五円を支給され 生徒で、とくに目立ったところもなかったといわれる。 る。五月、大村中学の先輩、福田清人らの同人誌「明暗」に加入、 大正十ニ年 ( 一九二三 ) 十七歳散文詩「空の浴槽」を発表。詩の創作活動を始める。 三月、大村中学校第四学年修了。第五学年を跳び越えて四月、佐賀昭和七年 ( 一九三一 l) 二十六歳 高等学校文科乙類入学。 一一月、父惣吉死去。負債つきの家督を相続し、その借財をその後長 大正十五年・昭和元年 ( 一九一一六 ) 一一十歳 い年月にわたって返済する。四月、堺高等女学校の地理教諭、山本 三月、佐賀高等学校卒業。四月、京都帝国大学文学部国文科入学。花子 ( 奈良女高師出身 ) と結婚。大阪市住吉区阪南町中三丁目二十 上京区寺町今出川上ル四丁目阿弥陀寺前町青木敬麿方に下宿。七番地に新居を構える。六月、青木敬麿と同人雑誌「呂」を創刊、毎 月、郷土諫早の先輩酒井小太郎 ( 姫路高等学校教授 ) を姫路に訪号詩を発表する。七月、無試験検定により高等学校高等科国語科教 問。この頃より、ドイツ・ロマン派詩人、ヘルダーリンに傾倒、後員免許状を受領。十一一月、大阪市住吉区天下茶屋三の十五番地に転 伊東静雄年譜 いさはや
級友と回覧雑誌「野守」を創刊、その中心となって編集を行なう。 十七歳 明治三十六年 ( 一九〇 = l) 短歌多し。「坂東太郎」「野守」「文庫」「明星」「上毛新聞」等に矢 つぎ早に短歌を発表。六月または七月、「明星」に投稿した短歌三 首が掲載され、「新詩社」の社友となる。短歌時代、ペンネームと して、みさを、美棹、萩原みさを、萩原咲一一、夢みる人、みづのひ と、など使った。 明治十九年 ( 一八八六 ) 十八歳 明治三十七年 ( 一九〇四 ) 十一月一日、群馬県東群馬郡前橋北曲輪 ( くるわ ) 町六十九番地に 医師萩原密蔵の長男として生まれる。母ケイ。一日生まれであると文学への熱意と学業が両立できず、三月、中学五年進級に際して落 第。その精神的打撃は大きかったが、この年も短歌を盛んに作る。 ころから朔日の朔をとって朔太郎と名づけたといわれる。 十九歳 明治三十八年 ( 一九〇五 ) 三歳 明治ニ十ニ年 ( 一八八九 ) 四月、中学五年に進級。校友会の役員改正により雑誌部幹事とな この年夏、腸チフスと推定される大病で長く床につく。 七歳る。町田嘉章とともに「坂東太郎」を編集、中学の校友会誌として 明治ニ十穴年 ( 一八九三 ) ド常こ新鮮な内容を盛り込む。 四月、群馬県師範学校附属小学校に入学。学校はあまり好きでなく冫 二十歳 明治三十九年 ( 一九〇六 ) 腺病質で身体が弱く欠席がちであった。このころから音楽を好み、 三月、前橋中学校を卒業。この年、徴兵検査猶予願いを書いたとい ハーモニカや手風琴をいつも手にしていた。 十一歳う。「坂東太郎」に多くの短歌を発表。 明治三十年 ( 一八九七 ) 二十一歳 三月、師範学校附属小学校尋常科を卒業し、四月、同高等科に入明治四十年 ( 一九〇七 ) 学。母ケイは朔太郎をほとんど盲目的なまでに愛した。その溺愛は九月、熊本に赴き、第五高等学校第一部乙類 ( 英文科 ) に入学。長 朔太郎の生涯を通じて続くことになる。両親は医者にさせることを男の朔太郎に医家を継がせようとする父との対立に悩む。 一一十一一歳 明治四十一年 ( 一九〇八 ) 譜期待していた。 十四歳七月、第五高等学校一学年で落第。九月、同校を退学して、第六高 明治三十三年 ( 一九〇〇 ) 四月、群馬県立前橋中学校に入学。文学に心ひかれ始めたのは中学等学校 ( 岡山 ) 第一部丙類 ( 独法科 ) に入学。 一一十三歳 明治四十ニ年 ( 一九〇九 ) 年二年ごろからである。 十六歳第六高等学校を一学年で落第したと推定され、再び一学年に在籍し 明治三十五年 ( 一九〇一 l) 十二月、前橋中学校校友会誌「坂東太郎」 ( 利根川の異名 ) に「ひとている。十一月、「ス・ ( ル」に短歌一一首を発表。この年、北原白秋 が「邪宗門」を刊行。 夜えにし」と題する短歌五首を発表。朔太郎の短歌時代が始まる。 萩原朔太郎年譜 ついたち
佐賀高等学校文乙 在学当時の静雄 1 上右より妹リッ ( 小学校 2 年 ) 、 静雄 ( 小学校 5 年 ) 、弟寿恵男 ( 6 歳 ) ( 大正 6 年Ⅱ月 ) 左佐賀高校時代の静雄 ( 右端 ) 彼が無意識的にはぐくんだ独自なイメージであっただ ろう。彼自身、ある文章において有明海のことを、「沈 鬱な中に一種異様な、童話風な秘密めいた色彩と光が 交りあって、これはまだ日本の詩人も画家も書いてゐ ないものだ」と書いている もう一つは、諫早市の性格にかかわるものである 伊東静雄の伝記的事実を知る上においては、小高根一 郎の「詩人、その生涯と運命ーー書簡と作品から見た 伊東静雄』、ならびに『詩人伊東静雄』以上のものはな いかそこで鋭く指摘されていることの一つに、その 問題がある。 それによると、江戸時代の諫早藩は小さく貧しく、 佐賀の大藩などから強く圧迫され、住民の気風は無気 力で保身的であった。明治維新も、外から与えられた ものに過ぎなかった。 伊東静雄は、その土地の小学校で、作文と体操が嫌 いで虚弱な、しかしよくできる生徒であったが、そこ を卒業すると、汽車で大村中学へ通っている。かって を ) 大村藩は、金銭よりも学芸を尊んだ、進取の気風の流 れるところであった。 彼は中学時代、孤独のうちに勉学に打ち込み、四年 修了で今度は佐賀高校に入学し、周囲を驚かせている 繰返すが、かって佐賀の大藩は、静雄の祖先をいしめ 1 482
456 昭和四年 ( 一九二九 ) 二十二歳『山羊の歌』の印刷にかかったが、資金不足となり、安原宅に預け 一月、代々木富ヶ谷に移転。四月、同人雑誌「白痴群」創刊。河上る。同月、北千束六二一淵江方へ移転。十二月、クルトビスター 徹太郎、大岡昇平、安原喜弘、古谷綱武、阿部六郎、村井康男、内『ゴッホ』の訳述を安原喜弘の名で玉川学園出版部より出版。 海誓一郎が同人。創刊号に「詩友に」「寒い夜の自我像」を発表。 昭和八年 ( 一九三 = l) 二十六歳 酔って渋谷町会議員の軒燈に石をぶつけて壊し、渋谷署に十五日間三月、外語専修科修了。五月、坂口安吾、牧野信一の紹介で、同人誌 留置される。七月、「タ照」「ためいき」などを「白痴群」に発表。「紀元」に加わる。六月、「春の日の夕暮」を「半仙戯」に、七月、 九月、「夏」「木蔭」を「白痴群」に、「月」「悲しき朝」などを「生「逝く夏の歌」「少年時」「帰郷」などを「四季」季刊第一一冊に発表。 活者」に、十月、「サーカス」「春の夜」などを「生活者」に発表。十二月、遠縁に当る上野孝子と結婚。『ランポオ詩集〈学校時代の 十一月、中高井戸に住む。 詩〉』 ( 翻訳 ) を三笠書房より刊行。四谷区花園町花園アパ 1 トに新 昭和五年 ( 一九三〇 ) 二十三歳居を構える。同ア。ハートに青山二郎がいた。 一月、「修羅街輓歌」「みちこ」、ヴェルレーヌの訳詩「ポーヴル・ 昭和九年 ( 一九三四 ) 二十七歳 レリアン」などを「白痴群」に発表。四月、「盲目の秋」「汚れっち一月、「月」を「紀元」に発表。四月、「憔悴」を「鷭」に発表。六 まった悲しみに : : : 」「妹よ」などを「白痴群」六号に発表。「白痴月、「骨」を「紀元」に、七月、「秋の消息」を「半仙戯」に、「詩と ふみや 群」は同号で廃刊。八月、上旬、萩町河添に滞在。下旬、代々木山其の伝統」を「文学界」に発表。十月、長男文也誕生。十二月、草 谷一一一一近間方に移転。九月、中央大学予科編入学。十二月、長谷野心平と知る。青山一一郎の紹介で『山羊の歌』を文圃堂より刊行。 川泰子が生んだ茂樹の名付親となり、愛情を注ぐ。 建設社に『ランポオ全集』の企画があり、翌年四月上京まで山口で 昭和六年 ( 一九三一 ) 二十四歳ランポオの翻訳に専心。 一一ー三月、「羊の歌」を書く。四月、東京外語専修科仏語部に入学。昭和十年 ( 一九三五 ) 一一十八歳 七月、千駄ヶ谷八七二高橋方に移転。八月、帰省、長府に遊ぶ。九三月、「むなしさ」を「四季」に発表。四月、単身上京。「春と赤ン 月、弟恰三没。十二月、千駄ヶ谷八七四隅田方に移転。この年、青坊」「雲雀」を「文学界」に、「冬の夜」を「日本詩」に発表。五 山一一郎、高森文夫を知る。 月、「朝鮮女」を「文学界」に発表。逸見猶吉・草野心平らの第一 昭和七年 ( 一九三一 l) 一一十五歳次「歴程」が創刊され、同人となる。創刊号に「北の海」「寒いーこ 五月、『山羊の歌』編集に着手。六月、『山羊の歌』編集を終る。予を発表。六月、「この小児」を「文学界」に発表。市ヶ谷谷町六一一 約募集の通知 ( 会費四円、百五十ロ集れば、二百部印刷の計画 ) をに移転。下旬、帰京。八月、「初夏の夜」を「文学界」に発表。妻 出したが、十名内外の申込しかなく、七月、再度予約募集をした子と共に上京。十月、「秋日狂乱」を「旗」に、十一月、「詩人は辛 が、結果は同じであった。八月、帰郷、高森と共に、宮崎、天草、 い」を「四季」に発表。同月、伊東静雄「わがひとに与ふる哀歌」 長崎を旅行し、金沢を経て帰京。九月、母からもらった三百円で出版記念会に出席。十ニ月、「青い瞳」を「四季」に発表。「四季」
462 昭和五年 ( 一九三 0 ) 十六歳かリルケ、ポードレール、プルースト、ランポオに親しみ、フラン 五月上旬、校長罷免の事件に遭い、風紀委員として擁護運動に参加ス語を学ぶ。ここで、堀辰雄の影響の下に " 生徒もの“というべき する。またこの年、市電の切符の蒐集に熱中。 短篇小説のいくつかと詩 ( 冫 乍こ熱中した。六月から七月にかけて、杉 昭和六年 ( 一九三一 ) 十七歳浦明平とともに、明治・大正期の文学書蒐集に熱中し、とりわけ大 三月、府立第三中学校四年修了。四月、本郷の第一高等学校理科甲正の詩書を多く集める。この年手製の詩集『日曜日』『散歩詩集』 類に入学。天文学志望であった。生田勉、杉浦明平、国友則房、畠をつくる。このうち『日曜日』は母登免に捧げたものである。 山重政、松永茂雄らを知る。一年間は寮生活を送ったが、一一年目か昭和九年 ( 一九三四 ) 一一十歳 らは自宅通学とする。七月、同人誌「波止場」の創刊に加わり、ミ 一一月、萩原朔太郎の「氷島」を読み、詩人の自覚を得、室生犀星と チ・タチのべンネームでロ語歌を発表、また前田夕暮主宰の「詩リルケに傾倒。三月、「ホべーマの並木道」を書く。四月、天文学 歌」に三木祥彦のペンネームで初めて短歌を投じ十一一首が採用さ志望を変更、東京帝国大学工学部建築科に入学、意匠を専攻。一級 れ、以後毎号に自由律作品を発表した。夏の休暇中、奥多摩にこも下に丹下健三が在籍していた。大学入学のころから、自宅一一階の部 って、新興芸術派風の小説「あひみてののちの」を執筆し、十一屋から三階の屋根裏部屋に移る。六月、堀辰雄から津村信夫らの雑 月、校友会雑誌に同作を発表する。これによって、一躍一高文壇の誌「四人」をもらう。沢西健、猪野謙一一、江頭彦造と同人誌「偽 寵児となった。文芸部に属していたが、同時にローマ字会にも入っ画」を創刊、十二月号 ( 「メリノの歌」発表 ) までに三号を出して ていた。昭和二年末以来の歌作を前年から歌 / ート『自選葛飾集』廃刊。七月上旬、信州追分に行き、油屋に泊まって初めての村ぐら としてまとめる。この年、堀辰雄を識る。また映画をしきりに見る。しを送る。この地には堀辰雄、室生犀星や近藤武夫が滞在してお 昭和七年 ( 一九三一 l) 十八歳り、しきりに行き来して、追分を愛するようになる。小説「緑蔭倶 一月、一高短歌会に初めて出席。二月、友人と雑誌「こかげ」を創楽部」「貧乏の死」散文詩「子供の話」などを書き、プーシキン、 刊、「眠ってゐる男」ほかの短篇を発表。十二月に廃刊。三月末かレールモントフ、ゴーゴリ 、・ハルザック、藤村詩集、三好達治『閒 ら四月にかけて畠山重政と一一人で伊豆を徒歩旅行。夏休み中は自宅花集』などを読む。八月下旬、追分を発ち、長野県の上松を経て愛 にいてコクトオ、ラディゲ、ヴァレリイなどの読書にふける。この知県渥美半島の福江に杉浦明平を訪ね、帰京した。ひと夏の追分生 ころ三好達治の『南窗集』を読んで感動、その影響下に四行詩を書活は道造の詩作生活に大きく反映し、以後この土地は詩作の重要な き始める。また、この夏、『堀辰雄詩集』や、自作の短編小説『ゴ舞台となり背景となる。九月、古本蒐集に熱中、大正期の詩書だけ ンゴン』の手製本を作っている。 でも合計一六五冊に達した。十月、三好達治、丸山蕓、堀辰雄の共 昭和八年 ( 一九三 = I) 十九歳同編集で、第二次「四季」が創刊され、その同人となる。十一月、 七月半ばから奥多摩の御岳に滞在、九月上旬までを過ごす。自然と「四季」一一号に詩「村ぐらし」「詩は」を発表、注目を浴びる。 童話的なものに関心を寄せ、「ポォルとヴィルジニイ」を愛読するほ昭和十年 ( 一九三五 ) 一一十一歳
454 九月、父歩兵第三十五聯隊付となり、金沢市野田寺町へ移る。 大正ニ年 ( 一九一 lll) 四月、北陸幼稚園 ( 現北陸学院保育短期大学附属第一幼稚園 ) に入園。 大正三年 ( 一九一四 ) 七歳 三月、父が朝鮮の竜山聯隊軍医長となって赴任したため、母、弟一一 人とともに山口へ帰る。四月、下宇野令小学校入学。 明治四十年 ( 一九〇七 ) 大正四年 ( 一九一五 ) 八歳 しもうのりよう 四月一一十九日、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村第三百四十番屋一月、弟亜郎死亡。これを悼んで歌を作る。詩作の最初のものとな 敷 ( 現山口市湯田温泉一丁目十一番二十三号 ) に生まれる。謙助・フる。八月、父山口衛戍病院長となり、家族のもとに帰る。 ク夫妻の長男。兄弟は、次男亜郎、三男恰三 ( 共に夭折 ) 、四男思大正六年 ( 一九一七 ) 十歳 郎、五男呉郎、六男拾郎。父謙助 ( 当時三十歳 ) は当時歩兵第五十四月、父依願予備役編入となり、家業 ( 当時の湯田医院、後に中原 三聯隊附軍医として、旅順駐屯中だった。母福は中原助之・スュの医院 ) を継ぐ。 次女として明治十一一年 ( 一八七九 ) 横浜に生まれ、叔父政熊に子が大正七年 ( 一九一八 ) 十一歳 無かったため、その養女となり、謙助を婿に迎えた。中原家は吉敷四月、山口師範附属小学校へ転校。この頃、理科実験を好み、発明 毛利の家臣で代々吉敷村に住んだ。政熊夫妻はカトリック教徒で、家になりたいと思う。 幼い中也を天主公教会へよくつれていった。山口市はザビエルの布大正九年 ( 一九二〇 ) 十三歳 教した土地で、昔からカトリックとの縁が深く、政熊は今日山口に二月、「婦人画報」二月号に短歌「筆とりて」入選。「防長新聞」十 あるザビエル記念碑建設のために多大な貢献をしている。十一月、七日号にも「冬されよ」など三首が入選した。四月、県立山口中学 母とともに父の任地旅順へ赴く。 に優秀な成績で入学。七月、学期試験の結果、歴史の成績悪く席次 明治四十一年 ( 一九〇八 ) 一歳は八十番となる。夏休み、門司の野村家 ( 父方の親戚 ) の慶事に父 四月、父謙助、山口衛戍病院付となり、山口へ帰る。 の名代として赴く。この頃より読書欲旺盛となり、生田春月その他 明治四十ニ年 ( 一九〇九 ) 一一歳の文学書を愛読、学業を怠る。十二月、再度野村家へ行く。 二月、父謙助、広島衛戍病院付となる。三月、家族も広島市に移り大正十年 ( 一九一一一 ) 十四歳 上柳町に住む。 四月、山口高校生山県民男が家庭教師として寄寓。しかし効果な 明治四十四年 ( 一九一一 ) 四歳く、一学期の席次は一一一〇番に落ちる。五月、政熊死去。山口天主 四月、広島女学校附属幼稚園に入園。 公教会にて告別式。夏休み中、山口中学教頭川瀬哲三宅に預けられ 明治四十五年 ( 一九一一 l) 五歳る。また「中原家累代之墓」の碑銘を書く。この年、「防長新聞」 中原中也年譜
人が暮していられた耳原御陵近くの堺市北三国丘町四 の 十番地の家に東京から出掛けて行き、その家に泊めて のん貰って、いろいろ詩や文学のおはなしをお聞きしてい 年遊た頃のことを頻りに田」い出していた。私は医科の学生 。よであった。またときには、東京の友人をさそって行き、 園見或る春休みには、当時、中学での詩人の教え子であり、 公を まだ九州大学の学生であった庄野潤三君も加わって、 村湾 大村詩人を中、いに、五、六人で、紀州に旅行したことなども あった。詩人はその時のことを「かの旅」その他、二、 崎雄三の作として発表されている。そういうことも自然と 長静 思い出す。 二十七日、私達は伊の飛行場からとび立ち、午後 一時には大村の空港に下り立っていた。 空港には詩人 の姉上の江川ミキ氏が出迎えていて下すった。姉上は、 すて 詩人と十五歳の違いというから、既に八十歳近くの筈 であるが、見るからにお元気である。未亡人は墓詣 にはときたま行かれるらしいが、菜の花忌に出席され あ るのは、詩碑の除幕式以来のことだということをお聞 寺のきした。 一福雄 広静大村から諫早まで自動車は大村湾沿いに走った。 東 たるところ、既にさくらは満開である。 諫る詩人は「立原道造君と私」 ( 昭和十四年 ) という文 章のなかに「長崎県に入ってからの汽車旅行は、大村
がないため、日本大学は試験に遅刻したため、いずれも入学できなか に多くの短歌が入選した。弁論部に入る。 十五歳った。この頃、富永の紹介で東大仏文在学中の小林秀雄を知る。四 大正十一年 ( 一九一一一 l) 四月、山県民男の後任として山口高校生村重正夫が来た。五月、友月、帰省、両親を説得して、一年間東京に住んで予備校に通う許可 すぐろの 人達と歌集「末黒野」を出版し「温泉集」と題して短歌一一十八首をを得て、再び上京。同月、小説「医者と赤ン坊」を書く。五月、杉 掲載。頒価一一十銭で一一百部印刷。六月、山口中学弁論会に出場。論並町高円寺二四九若林方へ移る。永井龍男と知る。八月頃より、詩 題は「将来の芸術」。八月、村重に連れられて西光寺 ( 現大分県豊に専心しようとする決意が生れた。十一月、富永太郎の死にあう。 後高田市水崎 ) に赴く。帰宅後しばらく念仏を唱えた。十一月、山下旬、泰子、小林秀雄のもとへ去る。中也も新しい下宿に移る。十 ロ中学で開催された小・中・高専聯合弁論大会に出場。論題は「第二月、富永の遺稿出版のため村井康男、正岡忠三郎、小林秀雄等と 一義に於ける生方」。相変らず「防長新聞」に短歌多数入選。十一一富永家に会す。 月、再び西光寺に赴く。 大正十五年・昭和元年 ( 一九二六 ) 十九歳 大正十ニ年 ( 一九二 = l) 十六歳四月、日本大学予科入学。五月、「朝の歌」を書く。九月、家に無 二月、山口で開催された白梅詩社・白夜会の合同歌会に出席。三断で日大を退学。中野町桃園三四六五に住む。十一月、「山繭」富永 月、落第。中原家にとっては衝撃であった。四月、京都の私立立命館太郎追悼号に「夭折した富永」を発表。アテネ・フランセへ通う。 昭和ニ年 ( 一九二七 ) 一一十歳 中学へ転校、上京区岡崎に下宿する。秋、『ダダイスト新吉の詩』 春、河上徹太郎と知る。八月、「無題 ( 疲れた魂と心の上に ) 」を書 を読み感激、多分に影響を受ける。 大正十三年 ( 一九二四 ) 十七歳く。九月、辻潤を訪ねる。高橋新吉に書簡を送り、「高橋新吉論」 一月、国語の答案に詩を書いて出したことから、当時、京大の学生を同封。十月、高橋新吉を訪ねる。十一月、河上徹太郎の紹介で、 で立命館中学講師をしていた冨倉徳次郎と知る。四月、詩人永井叔作曲家諸井三郎と知り、音楽団体「スルヤ」に近づく。今日出海と を通じて紹介されたマキノ・プロダクションの女優長谷川泰子 ( 十知る。 二十一歳 九歳 ) と同棲。大将軍西町椿寺南裏谷本方に住む。泰子は中也の生昭和三年 ( 一九二八 ) 譜涯と作品に少なからぬ影響を及・ほした女性である。同月、冨倉の紹三月、大岡昇平、関口隆克と知る。五月、日本青年館で行われた 介により正岡忠三郎と知る。七月ー十一月、京都に住むようになつ「スルヤ」第一一回発表演奏会で、「朝の歌」「臨終」 ( 諸井三郎作曲 ) た富永太郎と親交を深めた。十一月、小説「耕一一のこと」「蜻蛉」、が歌われる。十六日、父謙助没す。帰省せず。同月、中也の書いた 年戯曲「夢」などを書く。 碑銘により、中原家の菩提寺である吉敷村の経塚に墓碑が建立され 十八歳た。下旬、高井戸町下高井戸一一丁目に移転、関口隆克と共同生活を 大正十四年 ( 一九二五 ) 一月、小説「鉄拳を喰った少年」を書く。三月、泰子とともに上する。九月、大岡昇平の紹介で安原喜弘と知る。十月、「空しき秋」 京。戸塚源兵衛一九五番地に下宿。早稲田大学は中学四年修了証書二十数編を一晩で書く。「スルヤ」第三輯に「生と歌」を発表。